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2037-12-31
ようこそ「鉄道全線完全制覇の旅」へ!

ようこそ「鉄道全線完全制覇の旅」へ。このブログでは、1970年代から1980年代、そして2007年以降の鉄道旅を中心に紹介しています。1980年から1990年に開催されたキャンペーン「いい旅チャレンジ20000km」を原点に、2007年以降は「いい旅チャレンジ~」で制覇できなかった路線の制覇に挑戦。2013年には国鉄時代の乗車を含めたJR線全線制覇を、また沖縄のゆいレールを除く全鉄道路線達成いたしました。
以降、新線開業などにより現在は富山地方鉄道市内線の一部や仙台市交通局の東西線、沖縄のゆいレールや北陸新幹線の長野~金沢間が未制覇となり、鉄道路線全線乗りつぶしは現在も進行中です。
また、近年では地元・神奈川の相鉄線のJR乗り入れも完成し、更に新横浜までの延伸も開業となり、ますます「永遠のテーマ」となる事でしょう。
このブログの原点である「鉄道全線完全制覇の旅」のホームページ版はこちらよりどうぞ。
制覇記録はこちらより
制覇に向けて全国を駆け巡った旅行程はこちらより
そして、特に近年流行りのキャンプを匠に紹介する素敵な先輩で、YAZAWAをこよなく愛する古川屋台・ソウヅさんのブログ「酒と野宿と…yazawaとカブと…」はこちら
バリバリの「E.YAZAWAチック」な店内は、ファンでない方でも気さくな「あるじ」が必ずや快く迎えてくれる事でしょう。
☆当ブログに掲載されている画像について、管理人撮影のものに関しての著作権は全て管理人にあります。ご使用になりたい場合はご自由に使用されてかまいませんが、引用元を記されていただくと幸いです。
私の写真以外つきましては引用元を全て記載しておりますので、そちらの管理人様との交渉となりますのでご注意ください。
「ダイナミック✡トナカイ」の写真引用につきましては、私にご連絡いただいた上、本人に確認を取りましてからのご返答となりますのでよろしくお願いいたします。

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国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。①
2023-08-19
2023年7月、私は久々の鉄道旅に出た。と言ってもまだ感染症が5類に移行してまもなく、完全に収束したわけではなかったので、レールファンでありながら、しかも、いわゆる「乗り鉄」といわれる列車に乗ることがメインとなる私の旅のスタイルをあえて否定するようなマイカーでの旅となった。
行き先は群馬。周囲は山に囲まれ海に接しない自治体の名物は、当然ながら農産物系が多く、ひもかわうどんや蒟蒻、そしてネギなど、魅力的な名産品が盛りだくさんである。私のような神奈川県民だと、特に湘南育ちである私からすると、海産物の特産品やご当地グルメとは違った魅力を感じてしまうが、やはりその土地の気候や数々の条件が揃って、初めてその名物の特性が生まれるわけであるから、何気に感慨深い。

今回の旅で関越トンネルを抜け、最初に立ち寄った駅は越後湯沢であった。圏央道~関越道のアプローチで海老名ICより一気にここまで来た自分がある意味信じられなかったが、夏真っ只中の越後湯沢は観光客で溢れかえっていた。
さて、日本は国土本体の約70%が森林という山岳国家であるが、特に日本海側と太平洋側の間には大きな山が張り付いているため、両者の往来には必ず険しい山を乗り越えなければならない。古くからそれを難所と呼び、その難所を乗り越えるための苦労は日本人最大のテーマであり、神が与えた試練でもあった。例えば某ローカル路線バス的な旅番組では国境越え…いわゆる県境越えのバスは少なく、峠を歩くシーンは何度も放送された事からも象徴されるように、文明が発達した現在でもその苦労は計り知れない。

今回の旅で最初の宿泊地は意外にも伊勢崎であった。つまり越後湯沢から国境を越え伊勢崎を宿泊地に選んだ私はいささか変わり者だと思われてしまいそうであるが、実は名物のひもかわうどん・ソースカツ丼などを堪能する予定であったのが大きな理由であった。だが、真夏の強い日差しにさらされ、体力的にそのお楽しみは次回に繰り越すこととなってしまった・・・
ところでその国境越えであるが、鉄道は昔から勾配に弱いとされているため、我々の先輩たちは鉄道敷設の際、当時の最先端技術と英知を結集させ勾配との戦いに挑んできた。もちろん、多くの犠牲や苦労が絶えなかったであろう。だが、そうして苦労を重ね敷設された路線も時代が変わり、新しい技術により現在は廃止されたり主役から外されたりして役目を終えてしまった路線も少なくない。

国境越えといえば!この景色を見てピンときたら・・・
今回、私が旅先に選んだ場所は先述通り群馬であるが、その場所を選んだ理由は単純で、伊香保温泉を宿泊地に選んだからであった。そしてそれを基準に訪問先である駅を選定した結果、気がつけば国境越えがテーマになっていたのだ。だが、その国境越えは私が想像していた以上に過酷な戦いであった。もちろんその戦いは、私ひとりが「過酷だったよ!」と言いたい訳ではない。そこに鉄道を敷くために、数多くの計り知れない壮絶なドラマを感じずにはいられなかった・・・つまり、よくこのような場所に鉄道を敷設したなと改めて先人の方々の熱き思いに、ただ脱帽であった。そして鉄道以外の手段でその国境越えに向かうと、その壮絶さを更に肌で感じることができたからだ。だからこそ、鉄道で国境越えをする場合はビールを飲みながら・・・お菓子を食べながら・・・意図も簡単にできてしまうのだなと改めて感謝の気持ちでいっぱいになってしまう自分がいたのだ。
という事で、今回は新潟から群馬への国境越え3駅の紹介になるが、その壮絶さや先人の思いが少しでも伝わったら幸いである。

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行き先は群馬。周囲は山に囲まれ海に接しない自治体の名物は、当然ながら農産物系が多く、ひもかわうどんや蒟蒻、そしてネギなど、魅力的な名産品が盛りだくさんである。私のような神奈川県民だと、特に湘南育ちである私からすると、海産物の特産品やご当地グルメとは違った魅力を感じてしまうが、やはりその土地の気候や数々の条件が揃って、初めてその名物の特性が生まれるわけであるから、何気に感慨深い。

今回の旅で関越トンネルを抜け、最初に立ち寄った駅は越後湯沢であった。圏央道~関越道のアプローチで海老名ICより一気にここまで来た自分がある意味信じられなかったが、夏真っ只中の越後湯沢は観光客で溢れかえっていた。
さて、日本は国土本体の約70%が森林という山岳国家であるが、特に日本海側と太平洋側の間には大きな山が張り付いているため、両者の往来には必ず険しい山を乗り越えなければならない。古くからそれを難所と呼び、その難所を乗り越えるための苦労は日本人最大のテーマであり、神が与えた試練でもあった。例えば某ローカル路線バス的な旅番組では国境越え…いわゆる県境越えのバスは少なく、峠を歩くシーンは何度も放送された事からも象徴されるように、文明が発達した現在でもその苦労は計り知れない。

今回の旅で最初の宿泊地は意外にも伊勢崎であった。つまり越後湯沢から国境を越え伊勢崎を宿泊地に選んだ私はいささか変わり者だと思われてしまいそうであるが、実は名物のひもかわうどん・ソースカツ丼などを堪能する予定であったのが大きな理由であった。だが、真夏の強い日差しにさらされ、体力的にそのお楽しみは次回に繰り越すこととなってしまった・・・
ところでその国境越えであるが、鉄道は昔から勾配に弱いとされているため、我々の先輩たちは鉄道敷設の際、当時の最先端技術と英知を結集させ勾配との戦いに挑んできた。もちろん、多くの犠牲や苦労が絶えなかったであろう。だが、そうして苦労を重ね敷設された路線も時代が変わり、新しい技術により現在は廃止されたり主役から外されたりして役目を終えてしまった路線も少なくない。

国境越えといえば!この景色を見てピンときたら・・・
今回、私が旅先に選んだ場所は先述通り群馬であるが、その場所を選んだ理由は単純で、伊香保温泉を宿泊地に選んだからであった。そしてそれを基準に訪問先である駅を選定した結果、気がつけば国境越えがテーマになっていたのだ。だが、その国境越えは私が想像していた以上に過酷な戦いであった。もちろんその戦いは、私ひとりが「過酷だったよ!」と言いたい訳ではない。そこに鉄道を敷くために、数多くの計り知れない壮絶なドラマを感じずにはいられなかった・・・つまり、よくこのような場所に鉄道を敷設したなと改めて先人の方々の熱き思いに、ただ脱帽であった。そして鉄道以外の手段でその国境越えに向かうと、その壮絶さを更に肌で感じることができたからだ。だからこそ、鉄道で国境越えをする場合はビールを飲みながら・・・お菓子を食べながら・・・意図も簡単にできてしまうのだなと改めて感謝の気持ちでいっぱいになってしまう自分がいたのだ。
という事で、今回は新潟から群馬への国境越え3駅の紹介になるが、その壮絶さや先人の思いが少しでも伝わったら幸いである。

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上田で荷物を忘れてしまいましたが①
2023-01-28
いきなり怪しいタイトルを付けてしまい申し訳ないが、今回紹介する旅にはちょっとした事件があった。それは追々お伝えする事になるので、今はあえて記さずにいよう。と言っても文字通りの出来事であるのだが、それは割りと後半に登場するであろうと予告しておこう。
別に出し惜しみしている訳でもないのだが、こちらは鉄道を主題とするブログのため鉄道を前面に押したいためである。しかしながらこんな事を言っていると、かつて某歌手が歌っていた「木綿のハンカチーフ」や、平成のガールズバンドの曲で「パイロットになりたくて」のように歌の終盤になってようやく歌のタイトルの意味がわかるという、なんとなくそれに近い展開となってしまいそうな今回の旅の紹介である。だが、ここまできたら私はあえて「木綿のハンカチーフ」を貫くかも知れない。もちろん、このブログは鉄道を主題とするのでパイロットになるつもりは無いのだが・・・

今回の旅では中央西線が初の乗車となり制覇となる。普通の一般なら特急でビューンと行くのであろうが、今回の乗車券は「18」を使用するため当然ながらご覧の列車にての行程になる。だが「本線」を普通列車で行くのはある意味特急列車では発見できない何かを見つけるのも大きな楽しみとなる。
さて、今回の旅も「18きっぷ」による旅であったが、昔と違い夜行普通列車が少なくなっていた当時の旅では、密に計画を立案し、そして宿泊地を選定しなければならない。
そんな中、18きっぷで利用できる夜行列車はほぼほぼ限られてしまうが、今回は長野方面の会社線を制覇する旅に決めた。意外にも中央西線が未制覇となっていたので、これを「ムーンライトながら」と組み合わせ、このふたつのブロックを制覇する事で効率よく計画を企てる事ができる。長野の会社線では長野電鉄と松本電鉄・・・いわゆる現在のアルピコ交通、そして昔の上田交通、つまり現在の上田電鉄であるが、これを一気に制覇する事にした。そして長野地区より帰郷の際に中央東線を利用する事になるため、実質中央線の制覇を促す事になる。ただ、中央東線に関しては1982年に「長野夜行」で制覇しているため制覇重複となるが、それから25年以上経過しているので国鉄時代からの変化も気になるところであるので楽しみ感満載かも知れない。そんな中、途中の大月より出ている富士急行も未制覇だったため、こちらも併せて制覇する事にしたのは2007年12月の事であった。

中央東線は1982年に制覇済みなので改めての訪問となるが、実に25年ぶりとなるのでどこがどう変化したのか比較するだけでも楽しそうだ。
富士急行といえば列車よりも観光バスでお世話になっているイメージが多く、更にマイカーなどでは免許取り立て時期やデートコースとして基本である富士五湖や富士急ハイランドなどに寄る際に富士吉田駅に寄ったりと、レール以外での接触が多かった。ただ、今回の旅で初の富士急行の制覇となるため期待度も大きい。現在、富士急行は分社化され「富士山麓電気鉄道」となり、かつての「富士急行」に社名が変更される前の社名に変更されたが、路線名は「富士急行線」として一般的な案内があるので、馴染みのある「富士急行」を通称として残した形となった。

中央線の特徴として山間部ばかりを貫くため勾配やカーブが少なくないが、特に東線の場合、スイッチバックを解消し勾配上に駅ホームを新たに設置した場面も多く、列車ドアとホームの高低差が激しい場合もある(写真は初狩にて)。
今回も最寄駅である小田急線・本厚木からの出発となるが、本厚木までは路線バスで行く事になる。ただ、朝の時間帯に上りのバスに乗るのは通常の風景であるが、夜遅く、しかも「ムーンライトながら」の小田原発着の時間に合わせる形でバスに乗る行為はものすごく違和感を感じてならない。仕事から帰ってきて寝床へ着こうかという時間帯にバスに乗るのはやはりこれから始まる非日常の時間にワクワク感がこみ上げてくる。
しかしながら、長野方面へ行くのにわざわざ東京方面から名古屋経由で長野入りするのは物好きな私くらいであろう。一般的にはあり得ない裏技でのアプローチとなる。プロレスで言うなら、三沢光晴が奥の手である「タイガースープレックス'85」を出すかのようなイメージであろうか。住宅街の灯りもところどころ消えていく中、私はコロコロバッグを引きずりながら、小田急線の本厚木駅へ向け路線バスの整理券を握り締めた。

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別に出し惜しみしている訳でもないのだが、こちらは鉄道を主題とするブログのため鉄道を前面に押したいためである。しかしながらこんな事を言っていると、かつて某歌手が歌っていた「木綿のハンカチーフ」や、平成のガールズバンドの曲で「パイロットになりたくて」のように歌の終盤になってようやく歌のタイトルの意味がわかるという、なんとなくそれに近い展開となってしまいそうな今回の旅の紹介である。だが、ここまできたら私はあえて「木綿のハンカチーフ」を貫くかも知れない。もちろん、このブログは鉄道を主題とするのでパイロットになるつもりは無いのだが・・・

今回の旅では中央西線が初の乗車となり制覇となる。普通の一般なら特急でビューンと行くのであろうが、今回の乗車券は「18」を使用するため当然ながらご覧の列車にての行程になる。だが「本線」を普通列車で行くのはある意味特急列車では発見できない何かを見つけるのも大きな楽しみとなる。
さて、今回の旅も「18きっぷ」による旅であったが、昔と違い夜行普通列車が少なくなっていた当時の旅では、密に計画を立案し、そして宿泊地を選定しなければならない。
そんな中、18きっぷで利用できる夜行列車はほぼほぼ限られてしまうが、今回は長野方面の会社線を制覇する旅に決めた。意外にも中央西線が未制覇となっていたので、これを「ムーンライトながら」と組み合わせ、このふたつのブロックを制覇する事で効率よく計画を企てる事ができる。長野の会社線では長野電鉄と松本電鉄・・・いわゆる現在のアルピコ交通、そして昔の上田交通、つまり現在の上田電鉄であるが、これを一気に制覇する事にした。そして長野地区より帰郷の際に中央東線を利用する事になるため、実質中央線の制覇を促す事になる。ただ、中央東線に関しては1982年に「長野夜行」で制覇しているため制覇重複となるが、それから25年以上経過しているので国鉄時代からの変化も気になるところであるので楽しみ感満載かも知れない。そんな中、途中の大月より出ている富士急行も未制覇だったため、こちらも併せて制覇する事にしたのは2007年12月の事であった。

中央東線は1982年に制覇済みなので改めての訪問となるが、実に25年ぶりとなるのでどこがどう変化したのか比較するだけでも楽しそうだ。
富士急行といえば列車よりも観光バスでお世話になっているイメージが多く、更にマイカーなどでは免許取り立て時期やデートコースとして基本である富士五湖や富士急ハイランドなどに寄る際に富士吉田駅に寄ったりと、レール以外での接触が多かった。ただ、今回の旅で初の富士急行の制覇となるため期待度も大きい。現在、富士急行は分社化され「富士山麓電気鉄道」となり、かつての「富士急行」に社名が変更される前の社名に変更されたが、路線名は「富士急行線」として一般的な案内があるので、馴染みのある「富士急行」を通称として残した形となった。

中央線の特徴として山間部ばかりを貫くため勾配やカーブが少なくないが、特に東線の場合、スイッチバックを解消し勾配上に駅ホームを新たに設置した場面も多く、列車ドアとホームの高低差が激しい場合もある(写真は初狩にて)。
今回も最寄駅である小田急線・本厚木からの出発となるが、本厚木までは路線バスで行く事になる。ただ、朝の時間帯に上りのバスに乗るのは通常の風景であるが、夜遅く、しかも「ムーンライトながら」の小田原発着の時間に合わせる形でバスに乗る行為はものすごく違和感を感じてならない。仕事から帰ってきて寝床へ着こうかという時間帯にバスに乗るのはやはりこれから始まる非日常の時間にワクワク感がこみ上げてくる。
しかしながら、長野方面へ行くのにわざわざ東京方面から名古屋経由で長野入りするのは物好きな私くらいであろう。一般的にはあり得ない裏技でのアプローチとなる。プロレスで言うなら、三沢光晴が奥の手である「タイガースープレックス'85」を出すかのようなイメージであろうか。住宅街の灯りもところどころ消えていく中、私はコロコロバッグを引きずりながら、小田急線の本厚木駅へ向け路線バスの整理券を握り締めた。

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上り「2038レ」発車!
2022-11-12
「上り2038レ発車!」
そんな車掌の声がこだまする貨物・客車の「混合列車」は車掌の合図とともに只管雨の鉄路を突き進む・・・私はそんな列車に一気に引き付けられてしまった。今でもハッキリと覚えている車掌の声。と言うより「声紋」までハッキリと記憶にある感がある。
突然「2038レ」と言われても、相当のコアなファンで無い限り全く意味が分からないであろう。2038レ・・・1980年代の時刻表をお持ちの方は是非開いていただきたい。
当時の「国鉄監修・交通公社の時刻表」を開いていただくと貨物列車の時刻も掲載されていることに気付くはずだ。私の紹介している「2038レ(2038列車)」は鹿児島本線上り列車であった。貨物列車としては鹿児島発熊本行であるが、旅客列車としては川内発八代行の普通列車である。つまり今紹介している列車は貨物・旅客の混合列車である。

(画像はウィキぺディアより。「2038レ」ではないが、混合列車のイメージとして使用させていただいた。実際の「2038レ」は貨物編成の最先端に一両の旧型客車が連結されている姿であった。)
1983年3月31日、私は鹿児島交通制覇の後に鹿児島本線を北上。更に北へ向かうため既に夜の時間帯である川内よりこの「2038レ」に乗った。もちろん選んで乗車したわけではなく、単純に熊本方面へ向かうために予定を組んだ全くの偶然であった。その偶然が引き寄せた幸運とでも言おうか・・・よく人は「運命の出会い」などと表現する事が多々あるが、私の場合も例に漏れず、ラブストーリーは突然に・・・
私を待っていたのは長い編成の貨物列車の最先端、つまり機関車の後ろにポツンと旧客が一両連結されていた「普通列車」であった。
伊集院からやってきた私は早速川内で2038列車に乗り換える。当日は土砂降りの雨であったが、乗り換える列車へ向かうホームの屋根が途切れていた記憶で、やや濡れながら速攻で列車の先頭へ向かった。列車はいるのだが、混合列車のため客車を探すのにも大変だ。というより、混合列車という事を知ったのは後からで、当日はまったくその認識は無く、ただ、同じ方面へ向かうと思われる乗り換え客に付いて行っただけなのだ。だがそこに待っていたのは機関車の次に連結されている一両の旧型客車であった。「たった一両で座れるかなぁ・・・」という不安もあったが、結果的に座席を選べるほどの乗車率のためある意味助かった。
発車のベルが鳴り止み、雨の中健気に北へ向かう列車であるが、貨物列車としては「運転停車」としての扱いで各駅に停車し「普通列車」として乗客を降ろしていく。時間帯的にこの列車はもちろん最終列車の役割をしているが、この時間帯に運転される貨物列車に客車をつなぐ事で効率よく増収を図る・・・的な意味も何気なく込められている事であろう。何気ない普段着の混合列車であったが、何故か列車が進む毎に気持ちが高ぶってきた。

(当時の思い出として「2038レ」に乗車する前に鳥栖で買った、なんと入場券!硬券が欲しかったのだが在庫が無かったのであろう。取り合えず間に合わせの措置と思われるが、今となってはかなりレアな物になってしまった。)
さて、そんな列車に揺られながら八代目指すにはわけがあった。そう、この旅の乗車券・・・実は「18」なのだ。つまり乗車できる列車が制限されてしまう・・・
私がこの「2038レ」に揺られているのはもう夜の時間帯だ。本来なら普通夜行列車に乗って福岡方面へと入りたかったのだが、当時鹿児島本線には夜行普通列車が存在せず「かいもん」が夜行急行列車として活躍していた。もちろん別料金が、いや別料金どころか正規運賃が発生するので当時中学生の私が乗車するには勇気がいる。だが、夜行の「普通列車」が無い中、今回の旅の考え方としては、この夜となってしまった鹿児島本線を北上するため行けるところまで普通列車行き、途中に「かいもん」を挟み都合の良い始発列車のある駅で降りるという作戦を組んだ。確か乗車券込で2500円くらいだったと思うが、眠りながら移動できるのだから背に腹は変えられない。だが、そこで出会った「偶然」は30年以上経ってもしっかり記憶にある素敵な列車であった。
この「2038レ」は貨物列車としての使命もあり阿久根で14分、出水で25分、水俣で40分、と長時間の停車がある。変な話、袋から津奈木に乗車する乗客がいるとすると・・・普段は10分位の距離であるが、間に水俣を挟むことによって1時間もかかってしまうのだ!実際にそのような乗客がいるかどうかは別として、何とも異色な移動手段ではなかろうか?いや、基本的に、この列車の主役は貨物で、旅客扱いはバイプレイヤー的存在なのであろう。
そんな貨物列車の最先端にいるたった一両の「普通列車」は各駅ごとに車掌の合図がこだまする。つまりこの客車は「車掌室」も兼ねているのだ!しかもその車掌は乗務員室にはおらず、客席をワンボックス占領し乗務をしていた。そして列車が発車する際に「上り2038レ発車」と窓を開けて機関車に合図を送る!!素晴らしい!素晴らしく素敵だ、と思うのは恐らく私くらいか?この車掌の行動が私を一気に引き付ける最大のイベントとなったのだ。しかしながら主要駅では車掌室に向かい「次は阿久根です。お忘れ物ございませんようご注意ください。」のような車内放送が入る。これもなかなかいい!このメリハリが更にこの列車を魅力的にしていく。私は車掌の占領している座席の2、3列後ろ斜め向かいに座っていたが、車掌の動きの一部始終を確認できるため、時計の針が12時を越え日付が変わっても一向に眠くならない。いや、寝る体勢にはなっていたが、車掌の行動を見るのが楽しく寝れるわけがない!
そんなワクワク感を抱いたまま八代に着いたのは深夜1時15分。下車したのは私たちのみであった記憶だ。私たちが下車して間もなく客車内が消灯された。10分の停車後、たった一両の「普通列車」は車掌を乗せたまま回送という形で熊本に向かっていった。正直、車掌にそのまま熊本まで連れて行って欲しいと直談判しようとも思ったが、もちろん断られたであろう。私はおとなしくホームから2038レを見送った・・・

(ダイナミック☆トナカイより提供の清水港線の列車は、混合列車の「代表」と言っても過言ではないであろう。ちなみに私もこの清水港線は同行しているが、こちらも貨物編成の最後尾に2両の客車が連結されていた。)
私も数々の混合列車に乗って来たがこれほど印象強い列車は無かった。もちろんこの列車について各メディアなどが取り上げた記憶が無い。それこそ当時の鉄道誌などは「824レ」などが話題になっていた時代だ。「824レ」と聞いてすぐにお分かりの方は私と同世代が先輩であろうと思われるが、この列車は1980年代に「日本最長距離を走る普通列車」として有名であった。これは山陰本線で運転されていたものであるが、この「最長距離」をもってしても山陰本線を全区間運転されていたわけではない。そんな華やかな列車とはほど遠い私の「2038レ」は、私の中では失礼ながら「824レ」より輝いていた。
このブログをご覧になっている皆様も「思い入れのある列車」と言うのが必ずあるはずだ。私の場合、どうしてもこういうマイナーな列車になってしまうが人一倍思い入れが強い。かつて私が中学時代に所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」にて鉄道誌を発行していたが、当時この「2038レ」の記事をその鉄道誌に載せてしまった。まぁ、私が編集長をしていたので「職権乱用」ではないが、このようなマイナーな列車の乗車記が果たして皆に受け入れられたかどうか・・・と今になって思う。しかし当時の部活顧問であった教諭からは普通に「評価」されたのが実に良かった。普段はあまり褒めたりする印象が無かったが(と思っていたのは私だけかもしれないが)、普通に「これ、いいね」と言っていた。まぁ、以前にも触れた事であるが、その教諭には鉄道誌数冊を貸し出しているのだが30年以上経過した現在も返却が無いし連絡もない・・・と全く個人的な事で申し訳ないが、こんな思い出がこの列車を振り返ると思い出される。

(画像はウィキぺディアよりの貨物列車。かつて混合列車と言えば先述の清水港線はもちろん、福知山支線<塚口~尼崎港>でも活躍していた。だが、私の紹介している「2038レ」は表に出てこない地味な存在であった。)
失礼ながら、このブログをご覧になっている皆様、「2038レ」と最初に言われて「?」であったと思う。私自身、この列車に乗る前は予備知識など全く無くノーマークであった。しかしこういった列車に偶然出会えたのは実に幸運であったとの思いは先述した通りだ。今となっては混合列車という列車自体が「伝説」となってしまった。もちろん体験したくても現在は叶わぬ夢かも知れない。しかしながら古き良き昭和の思い出としてこれからも私のブログで再び紹介する機会もある事であろう。その時はまたお付き合いいただければ幸いである。そしてこの車掌の言葉を再び記す事になろう。「上り2038レ発車!」

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続きを読むをクリックしていただくと、私が中学時代の学校でのクラブ活動「鉄道研究クラブ」の時に書いた「体験乗車記 2038レ に乗って」がご覧いただける。中学生の文章なのでそのあたりは「ご了承」いただきたいが、とりあえず原文のまま載せさせていただいた。ちなみにこの鉄道研究クラブで発行していた「えき」という鉄道誌では先述通り私は編集長であったので、編集長が編集した責任重大な記事であった!!とは言え、他の所属員の記事を前面に出し、私のこの記事は巻末に載せた。それくらい地味な列車であったがその思いは果てしない。(「いじらしい」の使い方を少々間違えている場面もあるが、なにせ「中学生」なもので・・・)
そんな車掌の声がこだまする貨物・客車の「混合列車」は車掌の合図とともに只管雨の鉄路を突き進む・・・私はそんな列車に一気に引き付けられてしまった。今でもハッキリと覚えている車掌の声。と言うより「声紋」までハッキリと記憶にある感がある。
突然「2038レ」と言われても、相当のコアなファンで無い限り全く意味が分からないであろう。2038レ・・・1980年代の時刻表をお持ちの方は是非開いていただきたい。
当時の「国鉄監修・交通公社の時刻表」を開いていただくと貨物列車の時刻も掲載されていることに気付くはずだ。私の紹介している「2038レ(2038列車)」は鹿児島本線上り列車であった。貨物列車としては鹿児島発熊本行であるが、旅客列車としては川内発八代行の普通列車である。つまり今紹介している列車は貨物・旅客の混合列車である。

(画像はウィキぺディアより。「2038レ」ではないが、混合列車のイメージとして使用させていただいた。実際の「2038レ」は貨物編成の最先端に一両の旧型客車が連結されている姿であった。)
1983年3月31日、私は鹿児島交通制覇の後に鹿児島本線を北上。更に北へ向かうため既に夜の時間帯である川内よりこの「2038レ」に乗った。もちろん選んで乗車したわけではなく、単純に熊本方面へ向かうために予定を組んだ全くの偶然であった。その偶然が引き寄せた幸運とでも言おうか・・・よく人は「運命の出会い」などと表現する事が多々あるが、私の場合も例に漏れず、ラブストーリーは突然に・・・
私を待っていたのは長い編成の貨物列車の最先端、つまり機関車の後ろにポツンと旧客が一両連結されていた「普通列車」であった。
伊集院からやってきた私は早速川内で2038列車に乗り換える。当日は土砂降りの雨であったが、乗り換える列車へ向かうホームの屋根が途切れていた記憶で、やや濡れながら速攻で列車の先頭へ向かった。列車はいるのだが、混合列車のため客車を探すのにも大変だ。というより、混合列車という事を知ったのは後からで、当日はまったくその認識は無く、ただ、同じ方面へ向かうと思われる乗り換え客に付いて行っただけなのだ。だがそこに待っていたのは機関車の次に連結されている一両の旧型客車であった。「たった一両で座れるかなぁ・・・」という不安もあったが、結果的に座席を選べるほどの乗車率のためある意味助かった。
発車のベルが鳴り止み、雨の中健気に北へ向かう列車であるが、貨物列車としては「運転停車」としての扱いで各駅に停車し「普通列車」として乗客を降ろしていく。時間帯的にこの列車はもちろん最終列車の役割をしているが、この時間帯に運転される貨物列車に客車をつなぐ事で効率よく増収を図る・・・的な意味も何気なく込められている事であろう。何気ない普段着の混合列車であったが、何故か列車が進む毎に気持ちが高ぶってきた。

(当時の思い出として「2038レ」に乗車する前に鳥栖で買った、なんと入場券!硬券が欲しかったのだが在庫が無かったのであろう。取り合えず間に合わせの措置と思われるが、今となってはかなりレアな物になってしまった。)
さて、そんな列車に揺られながら八代目指すにはわけがあった。そう、この旅の乗車券・・・実は「18」なのだ。つまり乗車できる列車が制限されてしまう・・・
私がこの「2038レ」に揺られているのはもう夜の時間帯だ。本来なら普通夜行列車に乗って福岡方面へと入りたかったのだが、当時鹿児島本線には夜行普通列車が存在せず「かいもん」が夜行急行列車として活躍していた。もちろん別料金が、いや別料金どころか正規運賃が発生するので当時中学生の私が乗車するには勇気がいる。だが、夜行の「普通列車」が無い中、今回の旅の考え方としては、この夜となってしまった鹿児島本線を北上するため行けるところまで普通列車行き、途中に「かいもん」を挟み都合の良い始発列車のある駅で降りるという作戦を組んだ。確か乗車券込で2500円くらいだったと思うが、眠りながら移動できるのだから背に腹は変えられない。だが、そこで出会った「偶然」は30年以上経ってもしっかり記憶にある素敵な列車であった。
この「2038レ」は貨物列車としての使命もあり阿久根で14分、出水で25分、水俣で40分、と長時間の停車がある。変な話、袋から津奈木に乗車する乗客がいるとすると・・・普段は10分位の距離であるが、間に水俣を挟むことによって1時間もかかってしまうのだ!実際にそのような乗客がいるかどうかは別として、何とも異色な移動手段ではなかろうか?いや、基本的に、この列車の主役は貨物で、旅客扱いはバイプレイヤー的存在なのであろう。
そんな貨物列車の最先端にいるたった一両の「普通列車」は各駅ごとに車掌の合図がこだまする。つまりこの客車は「車掌室」も兼ねているのだ!しかもその車掌は乗務員室にはおらず、客席をワンボックス占領し乗務をしていた。そして列車が発車する際に「上り2038レ発車」と窓を開けて機関車に合図を送る!!素晴らしい!素晴らしく素敵だ、と思うのは恐らく私くらいか?この車掌の行動が私を一気に引き付ける最大のイベントとなったのだ。しかしながら主要駅では車掌室に向かい「次は阿久根です。お忘れ物ございませんようご注意ください。」のような車内放送が入る。これもなかなかいい!このメリハリが更にこの列車を魅力的にしていく。私は車掌の占領している座席の2、3列後ろ斜め向かいに座っていたが、車掌の動きの一部始終を確認できるため、時計の針が12時を越え日付が変わっても一向に眠くならない。いや、寝る体勢にはなっていたが、車掌の行動を見るのが楽しく寝れるわけがない!
そんなワクワク感を抱いたまま八代に着いたのは深夜1時15分。下車したのは私たちのみであった記憶だ。私たちが下車して間もなく客車内が消灯された。10分の停車後、たった一両の「普通列車」は車掌を乗せたまま回送という形で熊本に向かっていった。正直、車掌にそのまま熊本まで連れて行って欲しいと直談判しようとも思ったが、もちろん断られたであろう。私はおとなしくホームから2038レを見送った・・・

(ダイナミック☆トナカイより提供の清水港線の列車は、混合列車の「代表」と言っても過言ではないであろう。ちなみに私もこの清水港線は同行しているが、こちらも貨物編成の最後尾に2両の客車が連結されていた。)
私も数々の混合列車に乗って来たがこれほど印象強い列車は無かった。もちろんこの列車について各メディアなどが取り上げた記憶が無い。それこそ当時の鉄道誌などは「824レ」などが話題になっていた時代だ。「824レ」と聞いてすぐにお分かりの方は私と同世代が先輩であろうと思われるが、この列車は1980年代に「日本最長距離を走る普通列車」として有名であった。これは山陰本線で運転されていたものであるが、この「最長距離」をもってしても山陰本線を全区間運転されていたわけではない。そんな華やかな列車とはほど遠い私の「2038レ」は、私の中では失礼ながら「824レ」より輝いていた。
このブログをご覧になっている皆様も「思い入れのある列車」と言うのが必ずあるはずだ。私の場合、どうしてもこういうマイナーな列車になってしまうが人一倍思い入れが強い。かつて私が中学時代に所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」にて鉄道誌を発行していたが、当時この「2038レ」の記事をその鉄道誌に載せてしまった。まぁ、私が編集長をしていたので「職権乱用」ではないが、このようなマイナーな列車の乗車記が果たして皆に受け入れられたかどうか・・・と今になって思う。しかし当時の部活顧問であった教諭からは普通に「評価」されたのが実に良かった。普段はあまり褒めたりする印象が無かったが(と思っていたのは私だけかもしれないが)、普通に「これ、いいね」と言っていた。まぁ、以前にも触れた事であるが、その教諭には鉄道誌数冊を貸し出しているのだが30年以上経過した現在も返却が無いし連絡もない・・・と全く個人的な事で申し訳ないが、こんな思い出がこの列車を振り返ると思い出される。

(画像はウィキぺディアよりの貨物列車。かつて混合列車と言えば先述の清水港線はもちろん、福知山支線<塚口~尼崎港>でも活躍していた。だが、私の紹介している「2038レ」は表に出てこない地味な存在であった。)
失礼ながら、このブログをご覧になっている皆様、「2038レ」と最初に言われて「?」であったと思う。私自身、この列車に乗る前は予備知識など全く無くノーマークであった。しかしこういった列車に偶然出会えたのは実に幸運であったとの思いは先述した通りだ。今となっては混合列車という列車自体が「伝説」となってしまった。もちろん体験したくても現在は叶わぬ夢かも知れない。しかしながら古き良き昭和の思い出としてこれからも私のブログで再び紹介する機会もある事であろう。その時はまたお付き合いいただければ幸いである。そしてこの車掌の言葉を再び記す事になろう。「上り2038レ発車!」

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続きを読むをクリックしていただくと、私が中学時代の学校でのクラブ活動「鉄道研究クラブ」の時に書いた「体験乗車記 2038レ に乗って」がご覧いただける。中学生の文章なのでそのあたりは「ご了承」いただきたいが、とりあえず原文のまま載せさせていただいた。ちなみにこの鉄道研究クラブで発行していた「えき」という鉄道誌では先述通り私は編集長であったので、編集長が編集した責任重大な記事であった!!とは言え、他の所属員の記事を前面に出し、私のこの記事は巻末に載せた。それくらい地味な列車であったがその思いは果てしない。(「いじらしい」の使い方を少々間違えている場面もあるが、なにせ「中学生」なもので・・・)
熊に逢ったらどうするか・アゲイン <プロローグ>
2022-04-29
前回の「蝦夷からアイヌへ」に引き続き、2014年に訪問した北海道の旅「熊に逢ったらどうするか」にてもまだまだ紹介していない駅があったので蔵出しバージョンで紹介してみよう。

国鉄池北線から引き継いたふるさと銀河線の陸別では現在も列車が走る。道の駅+鉄道の駅として第二の人生を送っているが、もちろん鉄道は観光用としての運営であり、池田や北見へは路線バスを利用しなければならない。
今回は石北本線と、廃止された湧網線と池北線(ふるさと銀河線)の一部を紹介してみたいと思うのだが、池北線はともかく、湧網線においては若い世代では馴染みの無い単語であろう。国鉄時代には赤字路線のワーストとして常連であったが、特に冬季にはオホーツクを臨む車窓は圧巻で、名寄本線とともにレールファンの間では有名な路線であったと思う。
湧網線とは中湧別と網走を結んでいた路線であり、中湧別で連絡する名寄本線の湧別支線と一体で運用され湧別支線イコール湧網線のイメージがあった。中湧別で湧網線と名寄本線の連携がものすごく悪く、乗り潰し泣かせの印象が深い路線であったが、名寄本線と石北本線では連携が良かった印象で、夜行急行「大雪」の下り列車で未明の遠軽に着くと、遠軽始発で名寄本線に接続しており非常に計画が組みやすかったが、実践する事は出来かなかった。ただ、この夜行列車から名寄本線で中湧別に着いても湧網線との連絡が悪く、運転本数の少ない北海道の乗りつぶし計画は相当頭をひねらなければならない印象であった。

湧網線の計呂地は予想外の保存状態であった。湧網線とは素敵なネーミングであるが、その名の通り、冬季に眺めるオホーツクの車窓は抜群であった。
また池北線であるが、かつては北見、網走方面へのルートとして高速化案も出ていた。しかしながら実現には至らなかったが、帯広から北見、網走と特急を走らせればそれなりに需要が見込めたかも知れない雰囲気もある。恐らく国鉄も本気で考えていたかも知れないが、いずれにしても山越えが待っているのでレールを敷くにはかなりの技術を必要とするという事である。もちろんそれはSL時代の話であるから、石勝線のような技術やノウハウが揃う前の事であるため先代の方は相当の苦労をなされた事であろう。
今回の池北線巡りは時間の制約から巡った駅はそう多くないが、限られた時間の中でかなり私の思いを多く詰め込んだ計画となった。途中の足寄から西にスライドして士幌線を巡るという、鉄道では絶対にできなかった事ができたため非常に未知との遭遇的出会いもあった。足寄から西方面へは鉄道敷設法の計画線に「足寄~士幌(上士幌?)」の区間があって、白糠~北進~足寄の路線と新得~士幌の路線をつないで根室本線のバイパス計画もあったほどであるが、肝心の帯広を通らないため計画が頓挫したと思われる。ただ、私の通ったルートは足寄から黒石平に抜けるルートであったので、更に未知なるルートであり秘境度が増していた印象でもあった。
既に今回の旅の紹介は80%くらい終了していてこのブログの過去記事にてその様子をご覧いただけるが、今回はその続編という事で、北海道への私の思いが更に皆様に伝われば幸いであろう。

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国鉄池北線から引き継いたふるさと銀河線の陸別では現在も列車が走る。道の駅+鉄道の駅として第二の人生を送っているが、もちろん鉄道は観光用としての運営であり、池田や北見へは路線バスを利用しなければならない。
今回は石北本線と、廃止された湧網線と池北線(ふるさと銀河線)の一部を紹介してみたいと思うのだが、池北線はともかく、湧網線においては若い世代では馴染みの無い単語であろう。国鉄時代には赤字路線のワーストとして常連であったが、特に冬季にはオホーツクを臨む車窓は圧巻で、名寄本線とともにレールファンの間では有名な路線であったと思う。
湧網線とは中湧別と網走を結んでいた路線であり、中湧別で連絡する名寄本線の湧別支線と一体で運用され湧別支線イコール湧網線のイメージがあった。中湧別で湧網線と名寄本線の連携がものすごく悪く、乗り潰し泣かせの印象が深い路線であったが、名寄本線と石北本線では連携が良かった印象で、夜行急行「大雪」の下り列車で未明の遠軽に着くと、遠軽始発で名寄本線に接続しており非常に計画が組みやすかったが、実践する事は出来かなかった。ただ、この夜行列車から名寄本線で中湧別に着いても湧網線との連絡が悪く、運転本数の少ない北海道の乗りつぶし計画は相当頭をひねらなければならない印象であった。

湧網線の計呂地は予想外の保存状態であった。湧網線とは素敵なネーミングであるが、その名の通り、冬季に眺めるオホーツクの車窓は抜群であった。
また池北線であるが、かつては北見、網走方面へのルートとして高速化案も出ていた。しかしながら実現には至らなかったが、帯広から北見、網走と特急を走らせればそれなりに需要が見込めたかも知れない雰囲気もある。恐らく国鉄も本気で考えていたかも知れないが、いずれにしても山越えが待っているのでレールを敷くにはかなりの技術を必要とするという事である。もちろんそれはSL時代の話であるから、石勝線のような技術やノウハウが揃う前の事であるため先代の方は相当の苦労をなされた事であろう。
今回の池北線巡りは時間の制約から巡った駅はそう多くないが、限られた時間の中でかなり私の思いを多く詰め込んだ計画となった。途中の足寄から西にスライドして士幌線を巡るという、鉄道では絶対にできなかった事ができたため非常に未知との遭遇的出会いもあった。足寄から西方面へは鉄道敷設法の計画線に「足寄~士幌(上士幌?)」の区間があって、白糠~北進~足寄の路線と新得~士幌の路線をつないで根室本線のバイパス計画もあったほどであるが、肝心の帯広を通らないため計画が頓挫したと思われる。ただ、私の通ったルートは足寄から黒石平に抜けるルートであったので、更に未知なるルートであり秘境度が増していた印象でもあった。
既に今回の旅の紹介は80%くらい終了していてこのブログの過去記事にてその様子をご覧いただけるが、今回はその続編という事で、北海道への私の思いが更に皆様に伝われば幸いであろう。

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