廃止路線を訪ねて④ 清水港線(リメイク版)<後編>

何の工場かは分からないが、線路の両脇を壁のように固められ、引込み線が次から次へと枝を別れしていく。2両の客車はいうまでも無く「おまけ」であるが、そのおまけに乗車していた客は170人ほどで、乗車率に換算すると40%くらいになる。学校が休みのせいもあって学生は僅少である。では誰が乗っているのか・・・もうお分かりであろう、私の様な物好き連中である。そんな列車は、最初の停車駅「清水埠頭」に到着。工場と工場の間に、辛うじてスペースを見つけたかのような造りだ。乗降客は皆無!やがて何事も無かったように列車は動き出した。先ほど混合列車ということには触れたが、旧型客車の中間車両のため、最後尾は連結部の通路がむき出しになっており、一歩間違えば「あの世への招待」である。しかしここから観る景色は実にスリリングで、いわゆる「逆かぶりつき」が体験できる。そんな中、全国でも珍しい「可動橋」を渡る。その名の通り「動く橋」で、舟が通るときは橋が上に上がり船が通れるという仕組みだ。そんな可動橋を最後尾から望遠レンズを一気に引き寄せ、最大のマックスでシャッターを切った。

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(清水港線にあった可動橋。撮影技術は当時中学生であったのでその辺をご了承頂きたいが、とにかくこの可動橋は当時九州にある佐賀線のそれと共に貴重な存在であった。)

そして間もなく巴川口に8時17分56秒に到着。貨物用の側線が沢山あり、いかにも「貨物駅」の佇まいである。8時20分35秒に発車したのだから約2分半停車していたことになる。勿論乗降客は皆無に等しい。やがて景色は住宅街へと変化しつつあり、町並みも人間臭くなってきた、などと中学生なりにジャーナリスト気分で取材をしていたら、突然「キキーッ」と鉄の摩擦音と共に体を進行方向に持って行かれた。すぐさま車掌が先頭に向って走り出した。車内にはただならぬ緊張感が走る。やがて戻ってきた車掌に一言二言尋ねると「踏切で車が飛び出してきて衝突しそうになった」そうだ。取りあえず「しそうになった」で済んだのでホッと一安心していたら、すぐさま三保に到着。ホームに足を降ろした瞬間に感じたが、ホームには点字ブロックや白線などの「設備」は無く、砂利を盛り上げただけのホームは「日本三大松原」を控え、観光路線として活躍できるとは到底思えなかった。

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(巴川口駅舎。何だか掘立小屋みたいであるが、貨物側線も多く存在し構内は広い。私の感覚であるが、清水港線の中で最も清水港線「らしい」駅であったと思う。)

「平日は400人ぐらいで殆んどが高校生だ。休日になると80人位に減る。その乗客はほぼ“物好き”になる」と、ホームで一息ついてた車掌の弁。更に「清水港線もそう(営業的に)長くは無いだろう」と付け加えた。実に感慨深く、重く貴重な「現場の声」であったと思うが、中学生のぺーぺーにしてみたらなんて事はない、というより意味がわからない。というより、当時の事を今の私が振り返って初めて「重み」を感じたものだ。そして鉄道設備をカメラに収めるのに飽きてきた頃、並走する路線バスで清水に帰る時間となった。時刻表を見ると、何と1日150~200本くらいの時刻が書かれていた。この地区の主役は路線バスだ。清水港線の存在意義を疑われるものだが、バスに比べ運賃の安い国鉄は高校生の「必需品」となっている。しかし私の様な「物好き」は、まるで骨董品でも扱うかのようにここに訪れるのであるが、地元民に利用されてこそ鉄道としての価値が出てくるのが本来の姿であろう。三保駅の駅舎を見つめながら、なんとなく清水港線を制覇した達成感を中学生なりに感じ、三保駅を辞した。

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(終点の三保駅駅舎。駅舎の前にふたりの人物が存在するが、右側が当クラブの顧問で左側がなんと「ダイナミック✩トナカイ」である。)

あれから20年以上経過し、再びこの地に訪れる機会があった。勿論清水港線の姿はない。あれだけ広かった清水駅の構内も、現在では旅客設備に必用最低限のスペースに縮小されてしまった。更に清水港線のホームや貨物側線も既に撤去されてしまいロータリーなどに転用されかつての面影は無い。しかし三保に向けて車を走らせると、一部不自然な空き地と遊歩道があり、そこに鉄道の歴史が存在した事を無言で語りかけていた。そして、記憶に刻み込まれていたかつての勇姿は確かなものへと変化し、その時代に生きて清水港線と時間を共有できた事を誇りにさえ思えるようになっていた。


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廃止路線を訪ねて④ 清水港線(リメイク版)<前編>

清水港線・・・一般に、いったいどれだけの人が知っているであろうか?清水港線とは1984年に廃止された静岡県の清水区にあった国鉄路線で、1日1往復しか列車設定が無い事で当時は有名であった。そして、そんな制覇難関の路線に、何に魅せられてか果敢に挑んでいった青年達がいた。その青年達とは・・・私を筆頭に、当時中学生であった私が所属していた「鉄道研究クラブ」と言う何とも地味な学校のクラブ活動のメンバー数名と、その顧問の教諭という物好きが集まり、当時でいう「大垣夜行(現在のムーンライトながら)」で現地に向った「鉄道バカ」の集団であった。そして、そのクラブ活動で年に4回発行する季刊誌の取材も兼ねており、その取材班の一人である部長が俄然取材に燃えていた。そしてその部長が今回の旅を事細かに記録していた。ちなみにその季刊誌は私が編集長をしていたので、部長と編集長の両首脳という、何ともクラブ生命のかかったかのような取材であった。と言っても、その季刊誌班に所属するのは私と部長の二人のみで構成されているのであるが・・・という訳で、当時の季刊誌をもとに、清水港線の旅を再現してみたい。

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(清水駅構内。清水港線のホームは東海道線のホームから若干離れたところにあり独立していた。というより、貨物側線のどこかに若干砂利を盛り上げた・・・みたいなイメージ、の方が正しい表現かも。)

私は当時、自慢ではないが湘南地区在住であった為、出来れば相模線の始発で静岡地区に入りたかったのだが、それでは清水港線の始発兼最終の下り列車に間に合わない。そのため、先ほど触れた「大垣夜行」に乗らなければならない。という事で、未明の浜松で大垣夜行を乗り捨て、折り返し上り列車に乗り換え清水に向かう行程となった。とりあえず朝陽を浴びながら通勤客と共に清水に6時43分、326Mから降り立った。駅構内はとても広く、貨物の側線やら引込線やらで何本もの線路があったのだが、清水港線の乗り場がどこだかすぐには分からなかった。しかし、普通の人よりは鉄道知識を若干詰め込んだ少年には「野生の感」とでもいうべきか、貨物の群れの中にそれらしき列車とホームがあるのを発見、即座に「清水港線」と確信した。発車まで1時間以上あると言うのに、既に列車は待機していた。これは貨物列車という性格のものか。清水港線は東海道線の清水から、工業地帯を縫うように進み「松原」で有名な三保を結ぶ、殆んど貨物専用の引込み線の様な路線である。そのため、これから乗ろうとする列車も、貨車と客車を混結する「混合列車」と呼ばれるものだ。

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(清水駅は現在かなりスリムになった。清水港線のあった場所はロータリーや商業施設に変身している。)

先ほど旅客の列車本数には触れたが、貨物列車は多数設定されているのでハッキリ言って旅客は「居候」の様なものかも知れない。その「居候」たちは、出発時間までタンクやら何やらを乗せた車両やディーゼル機関車やらをカメラに収めるため、若干砂利の盛り上がった「ホーム」を行ったりきたりしていた。ちなみに同伴の「部長」がこの日の列車編成を正確に記録していたので紹介してみたい。三保側を先頭に<DD13-205>-<タキ7002>-<タキ9014>-<ワム63139>-<タキ9016>-<タキ9011>-<オハ47-2080>-<スハフ42-2105>となっていた。よくもまぁ、ここまでドラスチックに調べたものだが、おう、客車が2両も連結されているではないか!それほどまでに旅客の需要があるのか、と思わせるのだが、はたまた思わせぶりか・・・それはそれとして、われわれ「物好き」を乗せた列車は8時10分52秒「カクーン」と揺れを催し清水を後にした。


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廃止路線を訪ねて⑦ 赤谷線

特定地方交通線83線区に認定された「赤谷線」は、新潟県に存在した国鉄路線であった。新発田~東赤谷間18.9kmと短いが「赤字」という名のレッテルを貼られ、他の赤字路線とともに消えていった。廃止が「ブーム」とはなんとも皮肉であったが、私はこの時期、中学から高校へのステップの途中にあり「春休み」のさなかの1984年3月の訪問となった。1984年3月と言えば、なんといっても「西寒川」が廃止された時期でもあり、私自身の住処の真ん前でも「ブーム」が到来していて、時代の波に乗った感じだ。そんな中、中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」は私が卒業してもクラブ自体は存続が決定し、後輩たちも私が在籍していた頃より若干増えた。という事で、このクラブ活動の存在意義を疑われずに済んだ・・・そして赤谷線への訪問はこの「鉄研」のクラブ活動として行われ、私は「卒業生」として参戦した。

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(1984年の廃止直前に訪問した新発田駅にて。わりに地味な存在であった赤谷線であるが、終点の東赤谷はスイッチバック式であった珍しさから、レールファンの間ではそれなりに認知度があった。)

確か計画自体は私が企てたが、同時期に廃止される「魚沼線」へは参戦できなかった。それは帰りの列車が無かったためだ。当時、青春18切符で新潟を訪問する手段としては普通夜行列車の「上野発長岡行き」が下りのみ夜行で設定されていたが、上りは何故か設定無し。現在は臨時ながら「ムーンライトえちご」があって便利であるが、当時は113系の近郊型車両であったので「夜行」の雰囲気は全く無し。普通にセミクロスシートであり、途中駅は若干通過するものの、ほぼ各駅に停車した。勿論、あの有名な「土合」も・・・
未明の長岡で新潟行きに乗り換える。4時45分に到着し5時14分発だった記憶があるので約30分のインターバルであるが、途中「押切」くらいではもう明るくなっていたはずである。後輩たちはこういう旅に免疫がないためか、長岡行きではなかなか寝付けずにいたが、乗り換えたこの列車ではすでに夢の中である。私は新潟の雪景色をしっかり堪能。「トンネルを抜けると・・・」の銀世界に包まれた新潟県は「米処」の役割を再開するまで「一休み」。そんな事を考えながら赤谷線を目指す中学卒業生はいささか異常?かも知れない。

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(路線名にもなっている赤谷。できれば下車してみたかったが、時間の成約から実現できなかった。しかも当時は「18」での訪問であったので、乗車できる列車にも制約があり、なかなかの体力勝負となった。)

さて、白新線を制覇した後、いよいよ赤谷線の待つ新発田へ。当然廃止発表後の訪問のため「同業者」が多数参戦、朝の小田急線上り列車並みの乗車率だ。普段は多分2両編成とかであろうが、今回はキハ58が3~4両連結されている。恐らくこのまま終点の東赤谷まで同じ顔ぶれであろう。
当時を思い出してみようとしたが、ハッキリ言って途中の記憶が薄い。だが、終点の東赤谷はしっかり記憶にあった。当時、唯一の終点駅でありながらスイッチバック駅であった。一度駅前を通り過ぎ進行方向を変更し東赤谷駅のホームに進入する。なかなか特徴があるが、かつてはここから鉱山への専用線が分岐していた。その専用線にも訪問してみたかったが、そんな余裕はなかった。3月の東赤谷は雪に包まれすでに「先客」で溢れかえっているが、列車到着後、更に増えたため駅がごった返した。鉄道ファンと捉えるには若干時間がかかりそうな「親子連れ」なども参戦。というより地元の方であろうと推測。赤谷線のファン層の厚さを見せ付けられた(若干大袈裟か?)。

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(終点の東赤谷。先述通り終点駅でありながらスイッチバックという構造の珍しさ。もしかしたら開業以来初の大盛況であったのでは?)

この後「普通列車」で関東地区への帰郷となるわけだが、できれば新幹線で帰りたい。しかし、自ら「青春18」を選択した以上、それは許されない。今回は顧問の教諭の他に「ゲスト」教諭も参戦している、合計12名の大所帯。若干日も暮れてきた感の「国境越え」であるが、トンネルを抜けると、そこは・・・

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廃止路線を訪ねて⑤(鹿児島交通)(リメイク版)

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(1983年3月31日、雨の降りしきる・・・と言うより「激雨」であった枕崎駅。島式ホーム一面二線で片側を国鉄が、片側を鹿児島交通が使用していた。駅自体は鹿児島交通の管理にあり、国鉄は間借りしている存在であった。)

旅日記「上り2038レ~」で若干紹介したが、私はXデー当日に鹿児島交通制覇の「つもり」であった。当日は雨。「土砂降り」とはよく言ったもので、この日は雨で無く、本当に土砂が降っているのかと錯覚するくらいの降りっぷりであった。遥々「西鹿児島」から指宿枕崎線で枕崎に到着した。途中、開聞岳を拝み「日本最南端の駅(当時)」を経験しているはずであるのだが・・・残念ながら記録はあるものの、記憶が無い。しかし枕崎の駅に着いたのは今でもハッキリ覚えてる。やはり指宿枕崎線に揺られてきたのだ。駅舎は立派であるが、鹿児島交通所有のものであり、国鉄(当時)は鹿児島交通に業務委託している。「つもり」で来た為ある程度覚悟していたが、逆に人影疎らのため拍子抜けしてしまった。後になって延期になった事を知るわけだが、むしろ普段の状況を感じる事が出来るので、かえって良かったのかも知れない。とは言っても、当然「同業者」も数名居るため、普段の姿とは程遠い部分も無くはないが・・・超古典的な車内は、無人駅が多く点在するため車掌が行ったり来たりで忙しい。とは言っても一両の車内は乗客が多いとは言えず、ほぼ「よそ者」のため終点まで顔ぶれは変わらないであろう。車掌もよく心得ているようである。

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(「ツジちゃん」ではなく「カゴちゃん」です!駅前の商店が若干気になる存在であるが・・・)

津貫、内山田など停車し加世田に着いた。時刻表上では直通となっていたが、車内放送では乗換えなくてはいけないらしい。早速伊集院行き列車に乗り換える。しかし車内には幼い姉弟が夢の中で、終点に着いた事に気付いてない。私は「終点だよ」と2人を起こしたのだが「何でここで降りるって分かったんだろう?」みたいな感じでこちらを見ていた。それより同じ顔ぶれが同じ列車のに乗り換えるのだから「座席の確保」が最優先となる。とにかくそのことに命を賭け、一目散に目的を達成させた。

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(加世田の駅名表は印象的であるが、ここが鹿児島交通の「中心街」である。が、駅名表しか写真を保有していないのが残念である。現在は「資料館」のような形で鹿児島交通の鉄道の在りし日の姿が確認できる場所となっている。)

かつて加世田から「万世線」が分岐していたが1962年に廃止された。そんな時代に私は存在していなかったので完全に伝説であったが、痕跡すら見当たらなかったと思う。そして次の阿多からは知覧線が分岐していたが、こちらも1965年に廃止されており、これも伝説である。次の南多夫施では、いい感じの木造駅舎があり「らしさ」を醸し出していた。伊作の駅名表は、もう廃止が決まっていたのであろうかの如く、一部が欠けていて若干役割を果たしていなかった。メンテナンスとは程遠いのか・・・かつては地方交通線としては優秀と言われていた時代もあったが、モータリゼーションの波に例外なく飲み込まれてしまった事で、晩年では乗客が激減した。他の地方私鉄と同じような運命を同じように辿ってしまうとは実に残念であるが、このときは廃止が延期になっただけでも嬉しかった。

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(画像はウィキペディアより。現在の「永吉」駅の姿。この「永吉」をどう読むかはあなた次第だ!)

やがて列車は吹上浜という情緒ある駅名を掠め、気になる「永吉」についた。個人的に、某ロックアーチストの大ファンであるが、こちらは「ながよし」と読むのだ。ファンなら誰でも訪れてみたい駅であろう(と思うのは私だけか・・・)。

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(南田布施はなかなかいい感じの駅舎が存在していた。当時は下車できなかったのが残念であったが・・・この写真でこの駅の雰囲気が伝わるであろうか?)

やがて列車は、ほぼ顔ぶれの変化も無く終点の伊集院に到着。ここで鹿児島本線に乗り換える「同じ顔ぶれ」は鹿児島方面がほぼ99.99%であった。熊本方面への乗り換えは、地元の人を除けば私たち御一行だけであった。この後、川内より「2038」に乗って八代へ向ったわけだが、伊集院はまだ鹿児島の通勤圏内。勤め帰りの乗客でかなり賑っていた。

たった今乗ってきた列車がガラス越しに見えている。一両のため、長いホームを持て余しながらこちらを見送っていた。赤を基調とした「キハ10もどき」とはもう再会することが出来ない。私は「彼」が見えなくなるまで窓にへばり付き再びその勇姿を見せてくれることを願っていた。

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(上津貫の駅名表は既に役目を終えようとしていた。ここに限らず、鹿児島交通の各々の駅はこうした駅名表が当時多くみられた。会社は既にあきらめムードであったのか・・・しかし私が訪問した当日が廃止日であったのだが知らぬ間に延期されていた。しかし翌年の水害で完全にやられてしまい廃止に追い込まれてしまった・・・)


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廃止路線を訪ねて⑨ 日中線

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(1983年訪問時の私が所有する日中線唯一の「資料」。本当はもっとたくさん写真を撮影していたのだが・・・駅名表だけでも当時の雰囲気が伝わってくるような感じがする。もちろん、現存するなら今すぐにでも訪問してみたい。)

始めに断わっておくが、日中線に関する写真は上記の物しか残っていなかった。残念ながら写真はほとんど残っておらず、記憶と記録のみが結果的に残っている。本当はDLか牽引する旧型客車などを写真に収めていたのだが・・・

1983年8月に「日中線」に訪問した。日中線とは、磐越西線・喜多方から枝分かれしていた盲腸線で、1984年に廃止された。終点が「熱塩」というが、計画ではこの先の「日中」というところまで延伸される予定であった。そのため「日中線」というのが路線名の由来である。「日中は走らない日中線」などと揶揄されていたが、日中線をインターネットで調べてみると、なんと廃止された日が「西寒川」と同じではないか!何ともこの因果関係・・・

私は、この日中線の旅を既に当ブログ「東北乗り潰しの旅」にて若干紹介している。若干重複する部分もあろうかと思うが、少しの時間お付き合いいただきたい。

東北乗り潰しを敢行した1983年8月。日中線の乗ると決めたのは出発前日だったと思う。夜行急行「八甲田」で上野から乗車し青森入りする予定であったが、出発の夕方までの時間が、考えてみたらもったいない。そこで始発で出て「東北ワイド周遊券」のフリー区間を有効に使う事に変更した。相模線・寒川駅を5時50分に出て茅ヶ崎5時59分着。東海道線に乗り換えるのが6時2分である。この行程は、東京駅や上野駅などによく撮影に行っていた時に使っていたため良く覚えている。だが、茅ヶ崎の跨線橋は、相模線と東海道線の間に貨物側線があり、乗り換えの跨線橋が長い!この乗り換えの3分が非常につらいのだ。茅ヶ崎では登場して間もない185系がこの6時2分に使用されていたので東京まで優雅な1時間を過ごせた。その行程を、「東北の旅」で使うとは・・・

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(画像はウィキペディアより。現在の熱塩駅の風景。私の訪問時とほとんど変化が無いのは嬉しい。もちろん「レールが無い」のは「最大の変化」ではあるが、この絵を見ると当時、機関車の付け替え作業をしていた風景を昨日の事のように思い出す。)

上野より急行「ときわ」で平(現・いわき)まで行き磐越東線に乗り換え郡山へ。今度は磐越西線で喜多方まで行くという行程である。磐越東線では、DLが牽引する旧型客車の為、旅情あふれる。この光景を日中線でも再現することになるが、磐越東線はほぼ「貸切」だったのでとても過ごしやすかった。

前置きが長くなってしまったが、いよいよ日中線の旅へ。日中線はDLが牽引する旧型客車で1日3往復の列車設定であった。喜多方より既に「同業者」と思われる数名が乗車している。もちろん終点まで顔ぶれは変化が無いであろう。車内は8月というのに当然、空調設備は「JNR回転扇風機」のみである。
車窓は「会津加納村」をしっかりと私にアピールしてくるが、かつてはこの村の人々の貴重な「足」であったであろう。私の訪問した晩年は先述した1日3往復、朝・夕・夜と、本当に日中の列車設定が無いので一般的に路線名の由来が分からないであろう。
終点の熱塩に到着すると、早速先頭の機関車を喜多方方面の先頭に付け替える「作業」が発生する。DCであればこのような手間はかからないが、一度機関車を切り離し車止め付近まで機関車のみ進み、機回し線を通り喜多方寄りに機関車を連結する。運転手の他、車掌と作業員(確かいたと思ったが)との連係プレーで赤と緑の旗に誘導される。鉄道ファンでなくとも興味を引くシーンだ。熱塩駅は駅員無配置のため車内で切符を購入する。確か私は購入しているはずだが、確認次第是非アップしてみたい。
さて、現在の熱塩駅は「日中記念館」として現在も保存されている。インターネットで確認してみたが、やはり当時の面影がしっかりの残っており当時を偲ばせる。私もぜひ「再訪」してみたい。

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(画像はウィキペディアより。現在の熱塩駅構内ではこんな車両が静態保存されている。「ラセラー」は別として、後ろの客車は実際に日中線で運転されていたものであろうか?)

というものの、実は喜多方までは再訪している。「ばんえつ物語号」に乗車のためムーンライトで新潟へ行き、喜多方までの乗車予定であった。なぜ喜多方か?そう、喜多方の「名物」を確認するためである。私が訪れた目当ては「駅前」にあった、というより下調べ済であった。結果はというと・・・某ロックアーティスト流に言うなら「シンプルでタイト」。とてもわかりやすいが懐かしい味がした。これが名物の「ラーメン」である。ぜひ「再・再訪」してみたいと心に誓った。

喜多方まで再訪した際には「廃線跡」は訪問しなかった。次回の「再・再訪」の際に是非訪ねてみたい・・・という旅が最近できるようになった。以前の旅は「制覇専用」の旅であり、朝から晩まで、というより24時間列車に乗りっ放しであった。鉄道路線は沿線に駅が必ずある。その駅にはそれぞれ暮らしや営みがあるであろう。中には「秘境」と呼ばれる、自然と一体化した駅も少なくないが、一般的に考えて駅とは出会い、そして別れの場所でもあり、数々のドラマを魅せてくれる。そのような「ドラマ」に気づいた時「旅」の中身が濃くなるとともに面白さの奥行が深まってくるような気がする。年齢を重ねたせいもあるだろうが「旅のスタイル」が若干変化しつつある。制覇した・しないも大事ではあるが「中身のある制覇」をこれからも求める事となるであろう。これって「成長」なのか、それとも・・・


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プロフィール

ダイヤモンド☆トナカイ

Author:ダイヤモンド☆トナカイ
創設:1969.03.09
所在地:神奈川県湘南地区

〇2013年6月11日、北陸新幹線長野駅にてJR全線制覇いたしました。
国内の鉄道は、沖縄の「ゆいレール」を残し全線制覇しました。(とは言うものの、2015年3月の北陸新幹線延伸によりJR全線制覇は「ベルト返上」しました)

★ ブログ記事の「リメイク版」は、以前にホームページで紹介した旅日記をブログでリメイクしたものです。


◎ブログの登場人物

★ ダイナミック☆トナカイ
・・・中学時代の後輩で、2013年に約30年振りに再会を果たした。数多くの写真を提供していただいた「盟友」でもある。

★ おさる・・・かつて私がバンド活動をしていた時のメンバーで、鉄道復活のきっかけを作ってくれた人物。彼とは「秘境駅」を数回訪問した「親友」でもある。

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