姿なき挑戦者⑮ L特急はつかり(後編)
2015-05-15
そんな寝台特急的座席特急で盛岡に向かった私は、まだ夜も明けぬ暗い車窓を見つめながらパンを頬張っていた。青函連絡船からの乗換客もそれなりにいるとは、まだまだ本州と北海道を結ぶ重要なアクセスの役割から外れていないのは素晴らしかった。とは言え、このまま東京目指す乗客はそう多くないであろう。
盛岡に着く頃には当然ながら空は明るくなっており、ちょうど通勤通学の時間帯であった。だが、東京方面のそれとはかなり異なった風景・・・実に長閑な朝であった。このあと私は旧型客車の普通列車で仙台に向かうことになっている。そう、周遊券のため新幹線はもっての他贅沢。ワイド周遊券であるため行き帰りの道中は急行までしか乗れないのは先述している。更に東北新幹線開通で盛岡から仙台を走る急行列車が激減・・・普通列車での移動を余儀なくされた。だが、それがラッキーだったか・・・現在では貴重な体験となってしまった。

(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」より、上野駅にての583系バージョン。1974年の撮影と聞いた!まだまだ当時は「北の玄関口」としての色が濃く、いわゆる「出稼ぎ」「集団就職」的な言葉が日常であったろう時代だ。そして「いなかっぺ大将」的な風景でもある。他のホームには10系客車の姿も。
全く関係無い事であるが「バビル2世」というテレビアニメをご存知であろうか。私はこのバビル2世に登場する「ロデム」というキャラクターが実に好きでたまらない。以前にもこのブログでお伝えしたかも知れないが、私は主人公よりも脇役的な存在が非常に好きであり居心地の良い場所でもある。水戸黄門なら「風車の弥七」、ゴレンジャーなら「青レンジャー」とか・・・かつてはバンド活動もしていたがポジションは「ベーシスト」である。つまり、主人公ではないが「縁の下の力持ち」的な存在にものすごく憧れる。
ところで「ロデム」とは、「バビル2世」に仕える僕(しもべ)として側近で活躍。基本的に普段は豹(ひょう)の姿をしているが、実は「スライム状の不定形生物」的な設定でどんな姿にでも変身できる、とウィキに記されていた。イメージ的には「ターミネーター2」に出てくる敵の「T-1000」に近い感じだ。主人公のバビル2世との会話も出来るスグレモノで、他の僕(しもべ)である「ロプロス」「ポセイドン」とは一味違うカラーを醸し出すのが実に個性的だ。実に私が最も求めている存在であり姿である。できることなら「ロデム」になりたい、というより生まれ変わりたい気持ちでいっぱいだ。

(画像はウィキペディアより。こんな「はつかり」があったのは知らなかった。ちょうど私がレールファン休業中であったからであるが、なんと「スーパー」が頭に着くくらいに進化していた。)
新幹線連絡特急の現在は「白鳥」「スーパー白鳥」がその役割を担っており、それこそ青函トンネルに潜り「ポセイドン」として活躍。首都圏VS北海道は飛行機が完全に主役であるが、それは「ロプロス」に任せておけば良い。とは言っても飛行機は鉄道にとって「ライバル」であるため「ロプロス」という表現は相応しくないかも知れないが・・・
「はつかり」の晩年は新幹線の「しもべ」として実に多くの活躍をした。私が小学生時代の上野~青森を走る「はつかり」とは全く違うスタイルで自身の輝く場所をしっかりと見つけ、そして煌めいていた。それはまるで「ロデム」のように・・・

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盛岡に着く頃には当然ながら空は明るくなっており、ちょうど通勤通学の時間帯であった。だが、東京方面のそれとはかなり異なった風景・・・実に長閑な朝であった。このあと私は旧型客車の普通列車で仙台に向かうことになっている。そう、周遊券のため新幹線はもっての他贅沢。ワイド周遊券であるため行き帰りの道中は急行までしか乗れないのは先述している。更に東北新幹線開通で盛岡から仙台を走る急行列車が激減・・・普通列車での移動を余儀なくされた。だが、それがラッキーだったか・・・現在では貴重な体験となってしまった。

(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」より、上野駅にての583系バージョン。1974年の撮影と聞いた!まだまだ当時は「北の玄関口」としての色が濃く、いわゆる「出稼ぎ」「集団就職」的な言葉が日常であったろう時代だ。そして「いなかっぺ大将」的な風景でもある。他のホームには10系客車の姿も。
全く関係無い事であるが「バビル2世」というテレビアニメをご存知であろうか。私はこのバビル2世に登場する「ロデム」というキャラクターが実に好きでたまらない。以前にもこのブログでお伝えしたかも知れないが、私は主人公よりも脇役的な存在が非常に好きであり居心地の良い場所でもある。水戸黄門なら「風車の弥七」、ゴレンジャーなら「青レンジャー」とか・・・かつてはバンド活動もしていたがポジションは「ベーシスト」である。つまり、主人公ではないが「縁の下の力持ち」的な存在にものすごく憧れる。
ところで「ロデム」とは、「バビル2世」に仕える僕(しもべ)として側近で活躍。基本的に普段は豹(ひょう)の姿をしているが、実は「スライム状の不定形生物」的な設定でどんな姿にでも変身できる、とウィキに記されていた。イメージ的には「ターミネーター2」に出てくる敵の「T-1000」に近い感じだ。主人公のバビル2世との会話も出来るスグレモノで、他の僕(しもべ)である「ロプロス」「ポセイドン」とは一味違うカラーを醸し出すのが実に個性的だ。実に私が最も求めている存在であり姿である。できることなら「ロデム」になりたい、というより生まれ変わりたい気持ちでいっぱいだ。

(画像はウィキペディアより。こんな「はつかり」があったのは知らなかった。ちょうど私がレールファン休業中であったからであるが、なんと「スーパー」が頭に着くくらいに進化していた。)
新幹線連絡特急の現在は「白鳥」「スーパー白鳥」がその役割を担っており、それこそ青函トンネルに潜り「ポセイドン」として活躍。首都圏VS北海道は飛行機が完全に主役であるが、それは「ロプロス」に任せておけば良い。とは言っても飛行機は鉄道にとって「ライバル」であるため「ロプロス」という表現は相応しくないかも知れないが・・・
「はつかり」の晩年は新幹線の「しもべ」として実に多くの活躍をした。私が小学生時代の上野~青森を走る「はつかり」とは全く違うスタイルで自身の輝く場所をしっかりと見つけ、そして煌めいていた。それはまるで「ロデム」のように・・・

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姿なき挑戦者⑮ L特急はつかり(前編)
2015-05-12
「はつかり」と言えば皆様はどういうイメージをお持ちであろうか?私的には上野~青森を走る583系の特急のイメージが強い。東北新幹線が開通してからは盛岡~青森に変更され新幹線連絡の役割を担っていた。私が「はつかり」に乗車した履歴を確認してみると、意外にも乗車回数が少なく、なんと1回であった!1983年に東北の旅をした際に何回か乗ったのかと思っていたが、なんと同じ年の北海道の旅の時、帰路での乗車が最初で最後であったようだ。
「はつかり」の歴史はネットなどで調べればすぐにわかる時代であるが、基本的には「東京VS北海道の連絡輸送」としてのスタートであった。1958年であるから私自身全くこの世に存在しなかったので「伝説」であるが、当時は航空機は現在ほど発達しておらず、当然ながら鉄道が主役の時代であった。そしてなんとSLというのだからなんとも考えられない話であるが・・・

(1983年8月、東北に訪れた際の「はつかり」。当時は東北新幹線が開通して1年が経過していた。1982年11月に上越新幹線が開通した時に全国的に大幅なダイヤ改正が行われ、この時にもうひとつのしもべ「たざわ」が誕生。「はつかり」とともに新幹線連絡特急として活躍した。)
東海道新幹線開通前は東海道線にはご存知「こだま」なる電車特急が運転されていた。だが、東北本線は黒磯以北の、いわゆる交流電車の開発にやや時間がかかり、全線複線化も併せて発展途上であった。福島、盛岡など電化区間が伸びるにつれ車両も順次置き換えられていった。SLからスタートしDL~DC~583系~485系へと進化していくのであるが、私の知っている頃は583系くらいからである。ただ、対北海道を意識していたため東北方面が利用しにくいらしかった。しかも少しでも早く青森に到着させるため常磐線経由であった。その不便さを解消させようと、後に「やまばと」「ひばり」などが誕生している。やがて常磐線経由は「みちのく」に譲り、自身は純粋に東北本線経由となって青森目指すことになった。そして1983年に私が乗車した時は盛岡~青森に区間が短縮され新幹線連絡の役割に全力を注ぐ姿になっていた。

(恐らく1978年~1980年頃であったと思う上野駅にて。「ひばり」「やまばと」は「はつかり」からの分家的存在である。だが、新幹線開業と同時に姿を消した。)
青函連絡船で未明の4時半に着いた青森駅から東京方面に向かう列車は今回紹介する「はつかり」のみの接続であったので必然的に乗らなければならなかった。私は「北海道ワイド周遊券」であったため、北海道内では特急列車も特急券無しで乗車できたが、行き、または帰りの経路は特急列車は別料金になってしまう・・・当時中学生の私はこの「ルール」がかなりの負担になってしまう印象であった。だが、接続する列車がないのだから仕方なく乗車した。いや、表現がよろしくないようだ。「仕方なく」というのは良くないかもしれない。とは言え、結果的に最初で最後の経験になったのだから実に貴重であった。しかも583系での運転である!当時は実に嬉しかったが、一般的にはリクライニングができないなど、基本的に「前近代的」な印象であったろう。

(写真はダイナミック✩トナカイより提供の583系バージョン「はつかり」。上記の写真と時期的に同じ頃であるが、場所も同じく盛岡にて。583系で座席運用の場合、我々レールファン的にはいいとして、一般の乗客からはリクライニングができないなど評価はイマイチであったようだ。「パン下」も関係ないし・・・)

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「はつかり」の歴史はネットなどで調べればすぐにわかる時代であるが、基本的には「東京VS北海道の連絡輸送」としてのスタートであった。1958年であるから私自身全くこの世に存在しなかったので「伝説」であるが、当時は航空機は現在ほど発達しておらず、当然ながら鉄道が主役の時代であった。そしてなんとSLというのだからなんとも考えられない話であるが・・・

(1983年8月、東北に訪れた際の「はつかり」。当時は東北新幹線が開通して1年が経過していた。1982年11月に上越新幹線が開通した時に全国的に大幅なダイヤ改正が行われ、この時にもうひとつのしもべ「たざわ」が誕生。「はつかり」とともに新幹線連絡特急として活躍した。)
東海道新幹線開通前は東海道線にはご存知「こだま」なる電車特急が運転されていた。だが、東北本線は黒磯以北の、いわゆる交流電車の開発にやや時間がかかり、全線複線化も併せて発展途上であった。福島、盛岡など電化区間が伸びるにつれ車両も順次置き換えられていった。SLからスタートしDL~DC~583系~485系へと進化していくのであるが、私の知っている頃は583系くらいからである。ただ、対北海道を意識していたため東北方面が利用しにくいらしかった。しかも少しでも早く青森に到着させるため常磐線経由であった。その不便さを解消させようと、後に「やまばと」「ひばり」などが誕生している。やがて常磐線経由は「みちのく」に譲り、自身は純粋に東北本線経由となって青森目指すことになった。そして1983年に私が乗車した時は盛岡~青森に区間が短縮され新幹線連絡の役割に全力を注ぐ姿になっていた。

(恐らく1978年~1980年頃であったと思う上野駅にて。「ひばり」「やまばと」は「はつかり」からの分家的存在である。だが、新幹線開業と同時に姿を消した。)
青函連絡船で未明の4時半に着いた青森駅から東京方面に向かう列車は今回紹介する「はつかり」のみの接続であったので必然的に乗らなければならなかった。私は「北海道ワイド周遊券」であったため、北海道内では特急列車も特急券無しで乗車できたが、行き、または帰りの経路は特急列車は別料金になってしまう・・・当時中学生の私はこの「ルール」がかなりの負担になってしまう印象であった。だが、接続する列車がないのだから仕方なく乗車した。いや、表現がよろしくないようだ。「仕方なく」というのは良くないかもしれない。とは言え、結果的に最初で最後の経験になったのだから実に貴重であった。しかも583系での運転である!当時は実に嬉しかったが、一般的にはリクライニングができないなど、基本的に「前近代的」な印象であったろう。

(写真はダイナミック✩トナカイより提供の583系バージョン「はつかり」。上記の写真と時期的に同じ頃であるが、場所も同じく盛岡にて。583系で座席運用の場合、我々レールファン的にはいいとして、一般の乗客からはリクライニングができないなど評価はイマイチであったようだ。「パン下」も関係ないし・・・)

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姿なき挑戦者⑭ L特急たざわ
2015-01-21
田沢湖線といえば、現在は標準軌化され新幹線車両が乗り入れる重要なアクセス路線である。東北新幹線が開業した1982年に電化されL特急「たざわ」が誕生した。それまでの急行「たざわ」がそのまま格上げされた形となったが、DC急行が485系の特急に変身した姿は実に斬新であった。1996年に秋田新幹線になるまでの14年間であったが、考えてみればキハ58のDC急行から485系の「たざわ」を経て新幹線に変身する姿は、ある意味飛躍的なサクセス街道を真っしぐらに突き進んだ印象である。

(私が「たざわ」と最初にコンタクトしたのは1983年8月の東北の旅の時である。盛岡を19時31分に出発する「たざわ」は、もちろん新幹線との接続も考慮されての発車時間となる。)
田沢湖線自体もこのL特急の運転開始と同時に急激な変化が起きていた。それは、例えば角館である。角館といえば「みちのくの小京都」として日本有数の観光地であるが、列車で訪問の際は上野からL特急「つばさ」や急行「つがる」などで奥羽本線経由で大曲に出て田沢湖線に乗り換えるというパターンが一般的であった。ところが東北新幹線開通後は盛岡よりL特急「たざわ」に乗り換えるというパターンに変わってしまい、実質、角館入りのパターンが逆転してしまった。そして田沢湖に関しても、新幹線開通後は特急停車駅になりその名を全国に知らしめた事であろう。田沢湖線にとって新幹線の開通は実に大きい恩恵をもたらしてくれたのだ。
そんな田沢湖線に運転されたL特急「たざわ」に乗車したのは、私が散々紹介している1983年の東北の旅での事であった。同じ行程の中で私は2回乗車している。1回目は盛岡発19時31分の時間帯のため当然景色など見れない。2回目は同じく盛岡発12時31分のタイミングで、しっかりと田沢湖線を堪能できる時間帯であった。
この「31分」という発車時間がポイントで、大宮からやってきた新幹線は盛岡に確か毎時15分頃に到着していた。そして青森方面への特急「はつかり」等と一緒に「31分」という出発時間により新幹線との接続を完全に計算されたダイヤになっていた。

(そしてこちらが2回目のコンタクト。新幹線開業とともに在来線ホームもリニューアルされ真新しい盛岡駅は、東北の拠点にふさわしい佇まいであった。もちろん現在もその風格は変わらない。)
盛岡から乗った自由席はハッキリ言って超閑散としていた。私はもっと孤独感を味わいたいと車両の一番テールに向かった。そして・・・誰もいない。田沢湖線の車窓を独占するとともにL特急「たざわ」の一番後ろの車両も独占させていただいた。なんとも贅沢・・・私はすかさず窓に向かいシャッターを切っていた。
さて・・・この事はこの場で記していいかどうかわからないが・・・私は一番後ろの車両の一番後ろの座席に座っていた。すると乗務員室から白い服を着た車掌が出てきて座席に座った。そして・・・なんとタバコを吸い始めたではないか!実は私の座っている車両は「禁煙車」なのだが・・・ローカルならではの風景、と良い言い方をしておくが、現在ではまず考えられない光景であった。当時の国鉄を象徴する光景か・・・とあえて大袈裟には言いたくないが、当時中学生であった私には少々衝撃的な出来事であった。

(そして2014年に訪問した秋田駅に停車中の「こまち」。私自身、この時点で秋田駅への訪問は1983年以来になった。久々の秋田駅の風景は、なんというか全く別の駅に感じたのはやはりこの「赤い車両」の存在が実に大きいためであろう。)
そんな鉄道少年を乗せたL特急「たざわ」は「みちのくの小京都」の存在など全く関係なくスルー、一気に秋田まで抜けていった・・・
現在、その役割は「新幹線」にバトンタッチされている。基本的に新幹線を単純に秋田までのアクセスとするならば北上より北上線経由で横手を抜けて秋田に至るルートを考えると距離的には最短になるかも知れない。しかし集客効果を考えればやはり盛岡より田沢湖線経由の方が有利であろう。私の場合、電化前の田沢湖線も知っているが、なんというか地味であまり目立たない路線であった。しかし電化され特急が運転されるようになってからは一気に脚光を浴びた印象だ。そして更に現在では新幹線が運転されるまでに飛躍している・・・国鉄時代に私が体験した「たざわ」での出来事は別として、現在はこうして田沢湖線の活用方法が成功した事例として実に微笑ましいと思うのは私だけであろうか?L特急「たざわ」は、というより田沢湖線はまるで「出世魚」のように我が子の成長を見てきた・・・そんな存在であった。

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(私が「たざわ」と最初にコンタクトしたのは1983年8月の東北の旅の時である。盛岡を19時31分に出発する「たざわ」は、もちろん新幹線との接続も考慮されての発車時間となる。)
田沢湖線自体もこのL特急の運転開始と同時に急激な変化が起きていた。それは、例えば角館である。角館といえば「みちのくの小京都」として日本有数の観光地であるが、列車で訪問の際は上野からL特急「つばさ」や急行「つがる」などで奥羽本線経由で大曲に出て田沢湖線に乗り換えるというパターンが一般的であった。ところが東北新幹線開通後は盛岡よりL特急「たざわ」に乗り換えるというパターンに変わってしまい、実質、角館入りのパターンが逆転してしまった。そして田沢湖に関しても、新幹線開通後は特急停車駅になりその名を全国に知らしめた事であろう。田沢湖線にとって新幹線の開通は実に大きい恩恵をもたらしてくれたのだ。
そんな田沢湖線に運転されたL特急「たざわ」に乗車したのは、私が散々紹介している1983年の東北の旅での事であった。同じ行程の中で私は2回乗車している。1回目は盛岡発19時31分の時間帯のため当然景色など見れない。2回目は同じく盛岡発12時31分のタイミングで、しっかりと田沢湖線を堪能できる時間帯であった。
この「31分」という発車時間がポイントで、大宮からやってきた新幹線は盛岡に確か毎時15分頃に到着していた。そして青森方面への特急「はつかり」等と一緒に「31分」という出発時間により新幹線との接続を完全に計算されたダイヤになっていた。

(そしてこちらが2回目のコンタクト。新幹線開業とともに在来線ホームもリニューアルされ真新しい盛岡駅は、東北の拠点にふさわしい佇まいであった。もちろん現在もその風格は変わらない。)
盛岡から乗った自由席はハッキリ言って超閑散としていた。私はもっと孤独感を味わいたいと車両の一番テールに向かった。そして・・・誰もいない。田沢湖線の車窓を独占するとともにL特急「たざわ」の一番後ろの車両も独占させていただいた。なんとも贅沢・・・私はすかさず窓に向かいシャッターを切っていた。
さて・・・この事はこの場で記していいかどうかわからないが・・・私は一番後ろの車両の一番後ろの座席に座っていた。すると乗務員室から白い服を着た車掌が出てきて座席に座った。そして・・・なんとタバコを吸い始めたではないか!実は私の座っている車両は「禁煙車」なのだが・・・ローカルならではの風景、と良い言い方をしておくが、現在ではまず考えられない光景であった。当時の国鉄を象徴する光景か・・・とあえて大袈裟には言いたくないが、当時中学生であった私には少々衝撃的な出来事であった。

(そして2014年に訪問した秋田駅に停車中の「こまち」。私自身、この時点で秋田駅への訪問は1983年以来になった。久々の秋田駅の風景は、なんというか全く別の駅に感じたのはやはりこの「赤い車両」の存在が実に大きいためであろう。)
そんな鉄道少年を乗せたL特急「たざわ」は「みちのくの小京都」の存在など全く関係なくスルー、一気に秋田まで抜けていった・・・
現在、その役割は「新幹線」にバトンタッチされている。基本的に新幹線を単純に秋田までのアクセスとするならば北上より北上線経由で横手を抜けて秋田に至るルートを考えると距離的には最短になるかも知れない。しかし集客効果を考えればやはり盛岡より田沢湖線経由の方が有利であろう。私の場合、電化前の田沢湖線も知っているが、なんというか地味であまり目立たない路線であった。しかし電化され特急が運転されるようになってからは一気に脚光を浴びた印象だ。そして更に現在では新幹線が運転されるまでに飛躍している・・・国鉄時代に私が体験した「たざわ」での出来事は別として、現在はこうして田沢湖線の活用方法が成功した事例として実に微笑ましいと思うのは私だけであろうか?L特急「たざわ」は、というより田沢湖線はまるで「出世魚」のように我が子の成長を見てきた・・・そんな存在であった。

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ドリームにちりんへの旅(後編)
2014-06-13
新幹線からの乗り換え客の多さに座席があるか心配であったが、やって来た「ハイパー」は結果的に空席が目立った。と言うより私の乗った車両は2~3名ほどしか乗っていなかったので早速回転式のリクライニングシートを向い合せにして「戦闘態勢」を整えた。暫くすると女性車掌による車内改札が始まった。周遊券を見せると「どちらまで?」の問いに「空港まで」と答えた。いかにも「ツウ」らしき表現であったが、車掌もまるで「カー」の様に「わかりました」と答えた。空港とはもちろん宮崎空港の事であるが、私にとってみたら宮崎空港は非常に新しい存在である。しかも日南線が一部ではあるが電化されている事も非常に新鮮であった。

(途中の津久見では完全に深夜の時間帯。利用者はほぼ皆無に近いであろう。昼間の時間帯は隣の臼杵と共に利用者が多い。)
そんな宮崎空港を目指しハイパーは既に日付の変わった日豊本線を只管南に下って行く。中津を過ぎるころには私の乗った車両は既に独占状態となっていた。他の車両も小倉で座席の確保を心配していたのがうそのような程ほとんど空席になっていた。行橋、中津辺りまでは終列車の役割もしている。そして大分に着くと、高架工事中となっている上りの部分を見上げた。大分は後ほど訪問するという予定であったのでその場はすぐに目を閉じ仮眠体制を取ったが、ここ大分に来るのはそれこそ小学校以来であった!約30年振り位に見た大分駅は既に新しく生まれ変わろうとしていた。私の乗った「ハイパー」はまだ高架化されていない昔からの地上ホームであった。しかしそれもいずれ近い将来に無くなってしまうであろうと思い、後ほどの訪問でしっかりと記録する事を心に誓った。

(かつては杉安までの「妻線」を分岐していた佐土原。現在でも宮崎までの通勤・通学駅として利用者が多い。佐土原付近になると完全に空は明るくなっていた。)
夜がだんだん明けてきた。所々記憶が無いのはやはり寝ていたのであるが、基本的に座席での仮眠は意識は働いているものだ。高架化された鉄路を進むとやがて日向市に着いた。私の初訪は1978年8月であったが、その時は地上であったので全く印象が違ってしまっていた。そして何より大きなバッグを持った乗客が数十名ホームにいるではないか!しかも高校生まで数名いる。そう、この「ドリームにちりん」は始発列車の役割もしているのだ。大きな荷物を持った乗客はもちろん終点の宮崎空港までの乗車と思われるが、特急列車で通学する高校生はいったいどのような思いで「ドリーム」に乗車しているのであろうか?
高鍋、佐土原と停車し宮崎に着く。ここも私の知らぬ間に高架化されていて、ものすごく新鮮な感じであった。しかし停車時間は確か1分であったのでじっくりと確認できなかったのが残念であるが、乗客がかなり下車した。私が小学生時代にこの宮崎に来た時は当然地上駅で、寝台特急「富士」での訪問であった。当時宮崎~西鹿児島は非電化であったので東京からやって来た「富士」はここ宮崎で機関車をELからDLに交換する作業があった。その時はDF50であり、そんな機関車は湘南地区在住の私にとって書籍でしか見た事なかったためもう「シャイニング・ウィザード」をまともに食らったような衝撃であった。

(宮崎空港で出発をまつ「普通列車」。つまり「ドリーム」が折り返しての変身である。随分と豪華な普通列車だ。)
そんな宮崎から更に南に下るのが現在の姿である「空港」まで列車は足を伸ばす。空港利用者にとっては非常に便利な制度が、つまり宮崎~宮崎空港間は特急列車に乗っても自由席ならば特急券無で乗車できる制度がある。日本で最初に空港アクセス駅として機能したのが「千歳空港」、つまり現在の南千歳である。当時はこの駅を通る全列車が停車し、文字通り「アクセス駅」として活躍。駅舎にあった雪印のマークが非常に印象的であった。現在はその地位を新千歳空港に譲ったが、そんなアクセス駅としてこの宮崎空港も活躍している。とはいうものの島式ホーム1本でやや華奢な印象ではあるが。そして地形の制約からか、若干ホームが弧を描いていてやや細い印象だ。しかしながらハイパーをはじめ普通列車などの列車が多く発着しておりアクセス駅としては「合格」であると私は思う。

(「ハイパー」で南宮崎に戻り日南線制覇に向かった。南宮崎は宮崎駅を補完する意味でも重要な駅だ。と言うより運転・運用上の「宮崎駅」であろう。)
「ドリームにちりん」から大きな荷物を持った全ての乗客は改札に向かった。改札を出ずに折り返すのは私たちくらいだけであった。ただここから普通列車で折り返し日南線を制覇する予定なのだが、その肝心の普通列車がやって来ない。もしやと思い改札に向かい駅員に問うた。「スミマセン、ここに表示されている普通列車の宮崎行ってこの特急列車が折り返しになるのですか?」と言ったら「そうだよ」と簡単に答えられてしまった。えっ、特急が普通列車になって折り返すんだ・・・と、なんだかマギー司郎に縦縞のハンカチを横縞のハンカチに変化させる手品を見せられた思いであった。一応、時刻表には臨時列車扱いで毎日運転されているような表示であったが、恐らく宮崎への回送列車を解放したものであろうと推測。有効な活用の仕方だ。もちろん座席は満席ではないが、約10名くらいであろうか、快適な「普通列車」で宮崎に向かっていった。

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(途中の津久見では完全に深夜の時間帯。利用者はほぼ皆無に近いであろう。昼間の時間帯は隣の臼杵と共に利用者が多い。)
そんな宮崎空港を目指しハイパーは既に日付の変わった日豊本線を只管南に下って行く。中津を過ぎるころには私の乗った車両は既に独占状態となっていた。他の車両も小倉で座席の確保を心配していたのがうそのような程ほとんど空席になっていた。行橋、中津辺りまでは終列車の役割もしている。そして大分に着くと、高架工事中となっている上りの部分を見上げた。大分は後ほど訪問するという予定であったのでその場はすぐに目を閉じ仮眠体制を取ったが、ここ大分に来るのはそれこそ小学校以来であった!約30年振り位に見た大分駅は既に新しく生まれ変わろうとしていた。私の乗った「ハイパー」はまだ高架化されていない昔からの地上ホームであった。しかしそれもいずれ近い将来に無くなってしまうであろうと思い、後ほどの訪問でしっかりと記録する事を心に誓った。

(かつては杉安までの「妻線」を分岐していた佐土原。現在でも宮崎までの通勤・通学駅として利用者が多い。佐土原付近になると完全に空は明るくなっていた。)
夜がだんだん明けてきた。所々記憶が無いのはやはり寝ていたのであるが、基本的に座席での仮眠は意識は働いているものだ。高架化された鉄路を進むとやがて日向市に着いた。私の初訪は1978年8月であったが、その時は地上であったので全く印象が違ってしまっていた。そして何より大きなバッグを持った乗客が数十名ホームにいるではないか!しかも高校生まで数名いる。そう、この「ドリームにちりん」は始発列車の役割もしているのだ。大きな荷物を持った乗客はもちろん終点の宮崎空港までの乗車と思われるが、特急列車で通学する高校生はいったいどのような思いで「ドリーム」に乗車しているのであろうか?
高鍋、佐土原と停車し宮崎に着く。ここも私の知らぬ間に高架化されていて、ものすごく新鮮な感じであった。しかし停車時間は確か1分であったのでじっくりと確認できなかったのが残念であるが、乗客がかなり下車した。私が小学生時代にこの宮崎に来た時は当然地上駅で、寝台特急「富士」での訪問であった。当時宮崎~西鹿児島は非電化であったので東京からやって来た「富士」はここ宮崎で機関車をELからDLに交換する作業があった。その時はDF50であり、そんな機関車は湘南地区在住の私にとって書籍でしか見た事なかったためもう「シャイニング・ウィザード」をまともに食らったような衝撃であった。

(宮崎空港で出発をまつ「普通列車」。つまり「ドリーム」が折り返しての変身である。随分と豪華な普通列車だ。)
そんな宮崎から更に南に下るのが現在の姿である「空港」まで列車は足を伸ばす。空港利用者にとっては非常に便利な制度が、つまり宮崎~宮崎空港間は特急列車に乗っても自由席ならば特急券無で乗車できる制度がある。日本で最初に空港アクセス駅として機能したのが「千歳空港」、つまり現在の南千歳である。当時はこの駅を通る全列車が停車し、文字通り「アクセス駅」として活躍。駅舎にあった雪印のマークが非常に印象的であった。現在はその地位を新千歳空港に譲ったが、そんなアクセス駅としてこの宮崎空港も活躍している。とはいうものの島式ホーム1本でやや華奢な印象ではあるが。そして地形の制約からか、若干ホームが弧を描いていてやや細い印象だ。しかしながらハイパーをはじめ普通列車などの列車が多く発着しておりアクセス駅としては「合格」であると私は思う。

(「ハイパー」で南宮崎に戻り日南線制覇に向かった。南宮崎は宮崎駅を補完する意味でも重要な駅だ。と言うより運転・運用上の「宮崎駅」であろう。)
「ドリームにちりん」から大きな荷物を持った全ての乗客は改札に向かった。改札を出ずに折り返すのは私たちくらいだけであった。ただここから普通列車で折り返し日南線を制覇する予定なのだが、その肝心の普通列車がやって来ない。もしやと思い改札に向かい駅員に問うた。「スミマセン、ここに表示されている普通列車の宮崎行ってこの特急列車が折り返しになるのですか?」と言ったら「そうだよ」と簡単に答えられてしまった。えっ、特急が普通列車になって折り返すんだ・・・と、なんだかマギー司郎に縦縞のハンカチを横縞のハンカチに変化させる手品を見せられた思いであった。一応、時刻表には臨時列車扱いで毎日運転されているような表示であったが、恐らく宮崎への回送列車を解放したものであろうと推測。有効な活用の仕方だ。もちろん座席は満席ではないが、約10名くらいであろうか、快適な「普通列車」で宮崎に向かっていった。

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ドリームにちりんへの旅(前編)
2014-06-10
近年まで活躍した「ドリームにちりん」は皆様の記憶に新しい存在であろう。九州は日豊本線を駆け巡るこの夜行列車は、当時日本国内唯一の「座席特急夜行列車」で異色の存在あった。私の知っている限りのルーツをたどると、この列車の源は夜行急行列車「日南」になる。「日南」は1980年代に活躍した夜行急行列車で門司港~大分~西鹿児島の運転であったが、宮崎~西鹿児島が普通列車に変身する。私の知っている限りの記憶だと、この「日南」は12系の客車列車であったが、なんと10系の寝台車も連結していた!

(1983年3月、九州に訪問した際に出会った「日南」。だが私の所持していた切符は「18」であったため残念ながら見送るしかなかったが・・・残念!<少し引用が古臭いが>)
しかしながら、もっとさかのぼると・・・「日南」という愛称の列車は、昭和52年現在ではなんと別府~宮崎間を走るDCの急行列車でもあった!夜行列車と2本立てであるが、これは私が昭和52年発行の「ケイブンシャ 特急・急行大百科」でも確認済である。こんな時代もあったのかと、なかなか貴重な資料であるが・・・
この当時は日豊本線の夜行列車と言うと、寝台特急「富士」「彗星」がいた。その他に・・・若いレールファンにはわからないであろうが、大阪~大分を走る座席急行列車「くにさき」の存在が非常に大きい。同じく座席急行列車「阿蘇」とともに14系客車を使用し、当時は「豪華急行列車」と絶賛されたものであった。

(同じく1983年に訪問した時の門司港。「有明」の隣にいるのは当時「日南」と姉妹列車の「かいもん」。こちらは鹿児島本線経由であった。)
と、変遷を繰り返した列車も運用の関係から客車⇒特急車両に生まれ変わった。一般的には車両も置き換わり「グレードアップ」した感があるが、私のようなレールファンにしてみたら若干寂しい感じを否定できない・・・が、逆に恐らく日本で唯一となるであろう座席夜行特急列車に変身したのであった。残念ながら「日南」時代には乗車できなかったが、この「ハイパー」の時代に私は乗車する事に成功、2010年5月、若干小銭が出来た関係から時期外れの旅に出かけたのであった。

(若干記事の内容とは異なるが、南宮崎ではこんな車両が停泊していた。国鉄⇒JRに変身してからそれぞれの「個性」がハッキリした形になった感だ。)
この旅の出発当日は仕事を午前中に終わらせ新横浜から一路西へ向かった。現地で夜行の、しかも座席特急で自由席を目指す初の試み。とは言え、かつての旅では周遊券を使い急行の夜行列車などで多くを経験してきたので大体の「理屈」は分かる。あとは席が空いているかどうかだ。「ドリームにちりん」は博多~小倉~鹿児島中央の運転で日豊本線経由である。私は小倉から乗車の為座れなかったら致命的であるが・・・
小倉に着いて約10~15分位の乗り換え時間は非常にスリリングであった。意外にも新幹線から「ドリーム」への乗り換え客が多く、私は小走り気味に在来線のホームに向かう。それなりに列を作った自由席への乗場に「ハイパー」がやって来た。果たして座れるのか・・・

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(1983年3月、九州に訪問した際に出会った「日南」。だが私の所持していた切符は「18」であったため残念ながら見送るしかなかったが・・・残念!<少し引用が古臭いが>)
しかしながら、もっとさかのぼると・・・「日南」という愛称の列車は、昭和52年現在ではなんと別府~宮崎間を走るDCの急行列車でもあった!夜行列車と2本立てであるが、これは私が昭和52年発行の「ケイブンシャ 特急・急行大百科」でも確認済である。こんな時代もあったのかと、なかなか貴重な資料であるが・・・
この当時は日豊本線の夜行列車と言うと、寝台特急「富士」「彗星」がいた。その他に・・・若いレールファンにはわからないであろうが、大阪~大分を走る座席急行列車「くにさき」の存在が非常に大きい。同じく座席急行列車「阿蘇」とともに14系客車を使用し、当時は「豪華急行列車」と絶賛されたものであった。

(同じく1983年に訪問した時の門司港。「有明」の隣にいるのは当時「日南」と姉妹列車の「かいもん」。こちらは鹿児島本線経由であった。)
と、変遷を繰り返した列車も運用の関係から客車⇒特急車両に生まれ変わった。一般的には車両も置き換わり「グレードアップ」した感があるが、私のようなレールファンにしてみたら若干寂しい感じを否定できない・・・が、逆に恐らく日本で唯一となるであろう座席夜行特急列車に変身したのであった。残念ながら「日南」時代には乗車できなかったが、この「ハイパー」の時代に私は乗車する事に成功、2010年5月、若干小銭が出来た関係から時期外れの旅に出かけたのであった。

(若干記事の内容とは異なるが、南宮崎ではこんな車両が停泊していた。国鉄⇒JRに変身してからそれぞれの「個性」がハッキリした形になった感だ。)
この旅の出発当日は仕事を午前中に終わらせ新横浜から一路西へ向かった。現地で夜行の、しかも座席特急で自由席を目指す初の試み。とは言え、かつての旅では周遊券を使い急行の夜行列車などで多くを経験してきたので大体の「理屈」は分かる。あとは席が空いているかどうかだ。「ドリームにちりん」は博多~小倉~鹿児島中央の運転で日豊本線経由である。私は小倉から乗車の為座れなかったら致命的であるが・・・
小倉に着いて約10~15分位の乗り換え時間は非常にスリリングであった。意外にも新幹線から「ドリーム」への乗り換え客が多く、私は小走り気味に在来線のホームに向かう。それなりに列を作った自由席への乗場に「ハイパー」がやって来た。果たして座れるのか・・・

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