上田で荷物を忘れてしまいましたが ⑮
2023-05-06
大月で再び中央線と合流し東京方面へ乗る列車は見慣れた車体であるがペイントが違うのでやや違和感漂う。しかしながら国鉄時代から馴染みある115系のため懐かしさと同時に乗り慣れた雰囲気により安心感が湧いてくる。
ただ、全く個人的感覚として115系と113系のくべつをつける時に車両正面の塗装でライト下に角度が有るか無いかで判別していた記憶であるが、JRになり個性豊かな塗装が増えたためそうした判定がしにくくなった。特にしなの鉄道の車両などは私のような判定の仕方だとほぼ判別不可能である。そうした中でも国鉄車両が健在なのは嬉しい材料であるので贅沢を言ってはいけないであろう。

吾妻線・大前で撮影した115系であるが、113系との区別をつける際に、前面の塗装で見分けていた記憶だ。こうした車両もだんだんと見られなくなっていくのは寂しい限りであるが、やはり旧い者ばかりでもよくないのかも知れない。しかしながら、やはり新しいものも取り入れてこそ、こうした旧い者がもっと輝きを増す事であろう。
藤野や相模湖などの駅名標を見るといよいよ帰郷したイメージとなる。普段はこうした駅を利用する機会がないはずなのに何故か我が家に戻ってきた雰囲気になるから不思議なものだ。しかも藤野と相模湖の両駅は中央線にたったふたつの神奈川県内にある駅のため尚更愛着が湧く。マイカーでは過去に何度か来ている相模湖であるが、藤野はほとんど縁が無かった。こういう機会がないと来る事が無いのである意味ラッキーであろう。

「E257系」というネーミングからして民営化後に製造された車両である事が伺える。形式の数値からして185系的な使い道の目論見が感じ取れるが、ご覧のようにホームライナーと併用されていた時期もあった。現在は「あずさ」からの運用は外れたが、「踊り子」で185系の置き換えとして現在も活躍している。
それは隣の高尾でも言えることかも知れない。高尾は通勤電車と中距離列車のボーダーラインの駅であり、塩尻、松本方面からやってくる普通列車の終点でもある。つまり、普通列車の利用の際は乗り換えが必要となるわけだ。かつては新宿まで中距離列車が乗り入れていたが、現在は高尾になったので新宿では中央線の中距離列車が見られなくなった。
ライバルの京王線も直通で新宿まで行くため高尾で境界を引くのは何となく勿体ないイメージは私の個人的な意見であるが皆様はどう思われるであろうか。
例えば湘南新宿ラインと連携すれば「古河発大月行」とか「籠原発甲府行」など面白そうではないか。または韮崎発君津行」など、未知の可能性が広がり、利用者の乗り換え回数が減り利用価値が高まるであろう。特急の運用では東京を通り越して千葉までの運用はあるが、やはり普通列車で思いきって「平塚発甲府行」などが出現したら「横浜線や相模線を経由すれば早いのでは?」などの声を頂きそうであるが、無限の可能性を秘めているので高尾で終わらすのは勿体ない❕
など考えながらいわゆる「国電」に乗り換えるために足早にホームを移動した。上田で忘れた荷物を背負いながら…

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ただ、全く個人的感覚として115系と113系のくべつをつける時に車両正面の塗装でライト下に角度が有るか無いかで判別していた記憶であるが、JRになり個性豊かな塗装が増えたためそうした判定がしにくくなった。特にしなの鉄道の車両などは私のような判定の仕方だとほぼ判別不可能である。そうした中でも国鉄車両が健在なのは嬉しい材料であるので贅沢を言ってはいけないであろう。

吾妻線・大前で撮影した115系であるが、113系との区別をつける際に、前面の塗装で見分けていた記憶だ。こうした車両もだんだんと見られなくなっていくのは寂しい限りであるが、やはり旧い者ばかりでもよくないのかも知れない。しかしながら、やはり新しいものも取り入れてこそ、こうした旧い者がもっと輝きを増す事であろう。
藤野や相模湖などの駅名標を見るといよいよ帰郷したイメージとなる。普段はこうした駅を利用する機会がないはずなのに何故か我が家に戻ってきた雰囲気になるから不思議なものだ。しかも藤野と相模湖の両駅は中央線にたったふたつの神奈川県内にある駅のため尚更愛着が湧く。マイカーでは過去に何度か来ている相模湖であるが、藤野はほとんど縁が無かった。こういう機会がないと来る事が無いのである意味ラッキーであろう。

「E257系」というネーミングからして民営化後に製造された車両である事が伺える。形式の数値からして185系的な使い道の目論見が感じ取れるが、ご覧のようにホームライナーと併用されていた時期もあった。現在は「あずさ」からの運用は外れたが、「踊り子」で185系の置き換えとして現在も活躍している。
それは隣の高尾でも言えることかも知れない。高尾は通勤電車と中距離列車のボーダーラインの駅であり、塩尻、松本方面からやってくる普通列車の終点でもある。つまり、普通列車の利用の際は乗り換えが必要となるわけだ。かつては新宿まで中距離列車が乗り入れていたが、現在は高尾になったので新宿では中央線の中距離列車が見られなくなった。
ライバルの京王線も直通で新宿まで行くため高尾で境界を引くのは何となく勿体ないイメージは私の個人的な意見であるが皆様はどう思われるであろうか。
例えば湘南新宿ラインと連携すれば「古河発大月行」とか「籠原発甲府行」など面白そうではないか。または韮崎発君津行」など、未知の可能性が広がり、利用者の乗り換え回数が減り利用価値が高まるであろう。特急の運用では東京を通り越して千葉までの運用はあるが、やはり普通列車で思いきって「平塚発甲府行」などが出現したら「横浜線や相模線を経由すれば早いのでは?」などの声を頂きそうであるが、無限の可能性を秘めているので高尾で終わらすのは勿体ない❕
など考えながらいわゆる「国電」に乗り換えるために足早にホームを移動した。上田で忘れた荷物を背負いながら…

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上田で荷物を忘れてしまいましたが ③
2023-02-11
初めての中央西線であるが、次の金山では国鉄時代には無かった東海道線のホームができて乗り換えにたいへん便利になった。やや駅自体も移転して名鉄も乗り換えられるようになり国鉄時代とはイメージが一新、いずれにしてもドデカイ存在になった。
愛知県の中心部にほど近い千種を過ぎ、多治見や中津川を過ぎると旅情溢れる風景になってくる。そして中仙道らしい風景がさらに深まっていくが、南木曽や上松など、渋い駅が私を向かえてくれるのでどうしても下車したい衝動にかられてしまう。というのも、以前に家族旅行で嬬恋~南木曽などを訪れているが、どうやら我が家の家系のルーツがあるらしく、父がノリノリで中仙道を徒歩で探索した記憶があるが、私は鉄道設備が見当たらないため割りとクールだった印象だ。しかも現地までは自家用車で向かった記憶で、中央道などは恐らく全通していなかった記憶では途中の塩尻辺りでは一般道だった記憶だ。もちろん、そのような記憶はあるものの、南木曽や上松に下車したい思いというのは駅舎や鉄道設備を確認したいという思いである。

今回の旅の写真であるが、デジカメ購入前でアナログ式のキャノンAE-1プログラムでの参戦となった。そのため写真の保存が少ないため、この南木曽を始め、今後に登場する写真もウィキのお世話になる事になってしまう。という事で、この画像はウィキより拝借したものである南木曽。国鉄からJRになり、昔のイメージとは打って変わって中山道の宿場町の雰囲気を充分に醸し出す駅舎に変身している。
恐らくそのクールさから翌年のブルートレイン「富士」による九州の旅に繋がり私のご機嫌を取ろうという作戦だったのかも知れないか、いずれにしても中仙道よりも当然ながら「富士」の方が俄然テンションが上がったわけだから、父にしたら大成功と感じたであろう。理由はどうあれ、寝台特急に人生初で乗車させていただいたのだから感謝しなければならない。
そんな記憶のある中仙道~木曽福島辺りを列車ではあっという間に過ぎてしまう。もちろん「しなの」であれば瞬であろうが、普通列車ではその歩みも緩やかになり懐かしい思い出が甦る。ただ、外国人観光客にも人気のある妻籠付近を私は電車でスルーしなければならないのは・・・そう、旅の目的は観光ではなく鉄道路線を制覇する事だ。

これは私が撮影した特急「しなの」であるが、上の南木曽と比べてもらえば一目瞭然、こちらの写真は「Canon AE-1プログラム」というアナログ式のカメラで撮影したものである。国鉄時代は日本初の振り子式特急電車として381系で運転され話題となった。その後紀勢本線での「くろしお」や、伯備線の「やくも」などで活躍していた381系であるが、現在の「しなの」はご覧の383系に変わり、いかにもJR東海っぽい姿に変った。
さて、木曽福島より先は更に山深くなり、国鉄時代には381系の振り子式電車の提案、開発した意味が納得できるような景色が車窓を賑わせていた。日本は意外にも山岳国家であるため、太平洋側と日本海側との間には大きな山が蔓延っている。その間を移動する際には必ず山越えをしなければならない。これは我々日本人に与えられた試練なのであろうか。先人の方々は、特に鉄道を敷設する際にはスイッチバックやループ線など、勾配に弱い鉄道を何とか活かそうと必死であったに違いない。特に上越線や肥薩線などは、上から来る要求や指令に現場は応えなければならない訳であるから設計も敷設もなみなみならぬ苦労があった事であろう。更に北海道などは厳しい環境や気候にも耐えなければならず、現在のように重機や技術も発達していない時代での「鉄道を敷く」という作業は、まさに命懸けであろう。
そんな歴史を噛み締めていると、なんだか鉄道という文化や歴史が偉大に見えてきた。まもなく塩尻到着のアナウンスが聞こえてきたが、国鉄末期に大改造ビフォー・アフターを敢行した駅だ。何度か紹介しているが、当時、鉄道技術の集大成を全面に押し出したイメージで迎えた現在の姿は、30年以上経った現在でも活きている。その姿は、まさにかつての格闘アニメの如く、一子相伝的に現在まで受け継がれ、そして活躍している。

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愛知県の中心部にほど近い千種を過ぎ、多治見や中津川を過ぎると旅情溢れる風景になってくる。そして中仙道らしい風景がさらに深まっていくが、南木曽や上松など、渋い駅が私を向かえてくれるのでどうしても下車したい衝動にかられてしまう。というのも、以前に家族旅行で嬬恋~南木曽などを訪れているが、どうやら我が家の家系のルーツがあるらしく、父がノリノリで中仙道を徒歩で探索した記憶があるが、私は鉄道設備が見当たらないため割りとクールだった印象だ。しかも現地までは自家用車で向かった記憶で、中央道などは恐らく全通していなかった記憶では途中の塩尻辺りでは一般道だった記憶だ。もちろん、そのような記憶はあるものの、南木曽や上松に下車したい思いというのは駅舎や鉄道設備を確認したいという思いである。

今回の旅の写真であるが、デジカメ購入前でアナログ式のキャノンAE-1プログラムでの参戦となった。そのため写真の保存が少ないため、この南木曽を始め、今後に登場する写真もウィキのお世話になる事になってしまう。という事で、この画像はウィキより拝借したものである南木曽。国鉄からJRになり、昔のイメージとは打って変わって中山道の宿場町の雰囲気を充分に醸し出す駅舎に変身している。
恐らくそのクールさから翌年のブルートレイン「富士」による九州の旅に繋がり私のご機嫌を取ろうという作戦だったのかも知れないか、いずれにしても中仙道よりも当然ながら「富士」の方が俄然テンションが上がったわけだから、父にしたら大成功と感じたであろう。理由はどうあれ、寝台特急に人生初で乗車させていただいたのだから感謝しなければならない。
そんな記憶のある中仙道~木曽福島辺りを列車ではあっという間に過ぎてしまう。もちろん「しなの」であれば瞬であろうが、普通列車ではその歩みも緩やかになり懐かしい思い出が甦る。ただ、外国人観光客にも人気のある妻籠付近を私は電車でスルーしなければならないのは・・・そう、旅の目的は観光ではなく鉄道路線を制覇する事だ。

これは私が撮影した特急「しなの」であるが、上の南木曽と比べてもらえば一目瞭然、こちらの写真は「Canon AE-1プログラム」というアナログ式のカメラで撮影したものである。国鉄時代は日本初の振り子式特急電車として381系で運転され話題となった。その後紀勢本線での「くろしお」や、伯備線の「やくも」などで活躍していた381系であるが、現在の「しなの」はご覧の383系に変わり、いかにもJR東海っぽい姿に変った。
さて、木曽福島より先は更に山深くなり、国鉄時代には381系の振り子式電車の提案、開発した意味が納得できるような景色が車窓を賑わせていた。日本は意外にも山岳国家であるため、太平洋側と日本海側との間には大きな山が蔓延っている。その間を移動する際には必ず山越えをしなければならない。これは我々日本人に与えられた試練なのであろうか。先人の方々は、特に鉄道を敷設する際にはスイッチバックやループ線など、勾配に弱い鉄道を何とか活かそうと必死であったに違いない。特に上越線や肥薩線などは、上から来る要求や指令に現場は応えなければならない訳であるから設計も敷設もなみなみならぬ苦労があった事であろう。更に北海道などは厳しい環境や気候にも耐えなければならず、現在のように重機や技術も発達していない時代での「鉄道を敷く」という作業は、まさに命懸けであろう。
そんな歴史を噛み締めていると、なんだか鉄道という文化や歴史が偉大に見えてきた。まもなく塩尻到着のアナウンスが聞こえてきたが、国鉄末期に大改造ビフォー・アフターを敢行した駅だ。何度か紹介しているが、当時、鉄道技術の集大成を全面に押し出したイメージで迎えた現在の姿は、30年以上経った現在でも活きている。その姿は、まさにかつての格闘アニメの如く、一子相伝的に現在まで受け継がれ、そして活躍している。

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飯田線の後、実は身延線も制覇してましたが。③
2022-11-05
身延を出た私達はいつしか睡魔に襲われていたが、既に夜の時間帯ということもあり、身延を離れるにつれいつしか貸し切り状態になっていた。そのため逆に深い眠りには付けず、駅を停車すく毎に目が覚めた。なぜか防犯機能が働いてしまう私であるが、もちろんもっと乗客がいても防犯機能が働く。つまりいつ、どこで、どういう状況であろうと誰の挑戦でも受けているわけだ。

(身延線の中心駅である身延に到着した。昼間に来れたらもっと風光明媚な風景を楽しめたのかも知れない。もし国鉄時代に訪問を果たしていたらどんな風景が私を待っていたのであろうか。)
そうこうしているうちにやがて西富士宮に着いた。いままではある意味秘境駅訪問の延長みたいなイメージだったが、ここから一気に生活感あふれやや乗客が増えた。そして隣の富士宮より更に乗客が増えた。立ち席が出るほどてはなかったが、やはり通勤客でほぼ占められている。これが正常の鉄道風景であろうか。今までが正常ではなかったのかも知れない。

(富士で東海道線に乗り換える。更に熱海でもJR東日本の車両に乗り換えるのだが、西から東海道線で熱海に着くと、ようやく帰ってきたなという気分になるイメージだ。隣の湯河原より神奈川県になるという事もあろうが、なにせ相模湾が待っているのだから、湘南ボーイとしては安らぎの風景になってくれる。)
ただ、身延線はぜひ113系のクロスシートで制覇してみたかったのだが、叶わなかった。ロングシートでの制覇はややもったいない路線であろう。もちろん身延線には特急列車も運転されているが、クロスシートの普通列車での制覇はある意味醍醐味のような気がする。一昔前の国鉄の風景が見れないのはある意味寂しい。いや、時代の移り変わりに私が付いていけないだけなのだろうか。

(富士では既にご覧の風景。さすがの相方も披露を隠せずにいた。そして東海道線で藤沢へ向かい小田急に乗り換え鵠沼海岸で下車すれば完結となる。だが、流石にこの時間帯からではこの距離はかなり修行の領域となるイメージであった。)
私は一応北陸新幹線の長野~金沢間と北海道新幹線、更に新規開業の西九州新幹線以外ののJR全線を制覇している。いや、もっと正確に言えば東北本線と仙石線をつなぐ短絡線も未制覇である。だがしかし、これは素晴らしい事だ。自画自賛しては申し訳ないが、自分でもよくやったと思う。ただ、その半分くらいは国鉄時代に制覇した路線である。もちろんそれ以来訪問していない路線もあれば何度も再訪した路線もある。しかし、ただ「乗った、乗らない」に限らず昔見たあの国鉄時代の風景が残っているとなぜだか嬉しい。23年のブランクを経て再び乗りつぶしを再開したのは恐らくこの国鉄時代の風景を全国に求めたからであろう。白糠線や相模線寒川支線は廃止されてもまだまだ「国鉄」は全国に残っているはずだ。そんな思いを胸に、私の国鉄探しはこの時から本格的に幕を開けたのであった。

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(身延線の中心駅である身延に到着した。昼間に来れたらもっと風光明媚な風景を楽しめたのかも知れない。もし国鉄時代に訪問を果たしていたらどんな風景が私を待っていたのであろうか。)
そうこうしているうちにやがて西富士宮に着いた。いままではある意味秘境駅訪問の延長みたいなイメージだったが、ここから一気に生活感あふれやや乗客が増えた。そして隣の富士宮より更に乗客が増えた。立ち席が出るほどてはなかったが、やはり通勤客でほぼ占められている。これが正常の鉄道風景であろうか。今までが正常ではなかったのかも知れない。

(富士で東海道線に乗り換える。更に熱海でもJR東日本の車両に乗り換えるのだが、西から東海道線で熱海に着くと、ようやく帰ってきたなという気分になるイメージだ。隣の湯河原より神奈川県になるという事もあろうが、なにせ相模湾が待っているのだから、湘南ボーイとしては安らぎの風景になってくれる。)
ただ、身延線はぜひ113系のクロスシートで制覇してみたかったのだが、叶わなかった。ロングシートでの制覇はややもったいない路線であろう。もちろん身延線には特急列車も運転されているが、クロスシートの普通列車での制覇はある意味醍醐味のような気がする。一昔前の国鉄の風景が見れないのはある意味寂しい。いや、時代の移り変わりに私が付いていけないだけなのだろうか。

(富士では既にご覧の風景。さすがの相方も披露を隠せずにいた。そして東海道線で藤沢へ向かい小田急に乗り換え鵠沼海岸で下車すれば完結となる。だが、流石にこの時間帯からではこの距離はかなり修行の領域となるイメージであった。)
私は一応北陸新幹線の長野~金沢間と北海道新幹線、更に新規開業の西九州新幹線以外ののJR全線を制覇している。いや、もっと正確に言えば東北本線と仙石線をつなぐ短絡線も未制覇である。だがしかし、これは素晴らしい事だ。自画自賛しては申し訳ないが、自分でもよくやったと思う。ただ、その半分くらいは国鉄時代に制覇した路線である。もちろんそれ以来訪問していない路線もあれば何度も再訪した路線もある。しかし、ただ「乗った、乗らない」に限らず昔見たあの国鉄時代の風景が残っているとなぜだか嬉しい。23年のブランクを経て再び乗りつぶしを再開したのは恐らくこの国鉄時代の風景を全国に求めたからであろう。白糠線や相模線寒川支線は廃止されてもまだまだ「国鉄」は全国に残っているはずだ。そんな思いを胸に、私の国鉄探しはこの時から本格的に幕を開けたのであった。

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飯田線の後、実は身延線も制覇してましたが。②
2022-10-29
甲府に着いた私達は腹減り状態だったので、身延線の車内で食べようと食料を調達する事にした。私は相方に座席確保をお願いし、私が売店でおにぎりなどを買うことにした。
乗り換え時間があまりなかったので私は急いで身延線ホームへと向かったら、意外や意外。列車内は帰宅客でフルハウスだったのだ。それでも相方が座席を確保してくれているだろうと必死で車内を探したら「席、取っといたよ❕」と言う彼はつり革に掴まっていた…


(中央線の列車はご覧の車両とカラーで運転されていた。私のイメージではスカ色で当たり前だったので、JRになってからの中央線は車両こそ国鉄であるが、塗装が違うため新鮮さと戸惑いの両方が一気に来たイメージであった。逆に身延線ではご覧の車両が湘南色で甲府のホームに停泊しているものかとばかり思っていたが、ここで計算違いが発生。身延線の車両はJR化後に製造された新型車両(当時)であった。)
私の計算違いだった。身延線の列車はクロスシートだと完全に思い込んでいた私は、例え混んでても各駅ごとに下車しいつしか空腹を満たす時間が来るであろうと思い込んでいた。たが、時代は変わり、身延線の車両はいつしかロングシートに変わっていたのた。レールファン23年のブランクがこんなところででてしまったのだ。相方は涼しい顔をしているが、私にしてみたらかなりショックで、改めてこのブランクを埋めなければならないと感じた瞬間でもあった。そして彼には申し訳ない気持ちでいっぱいとなってしまった。

(画像はウィキより引用させていただいた現在の身延線車両313系である。私が弁当を購入している間、同行の相方に座席の確保を依頼したのだが、座席確保の報告をする相方の姿はつり革につかまる姿であった。)
予想通り甲府から距離が離れるほど車内の乗客が減っていったが、空腹を満たすためにはどうしてもロングシートを活用しなければならず、結局そのロングシートで握り飯やサンドウィッチを頬張る以外の術は見つからなかった。
身延線も考えてみたらなかなかの景色を車窓から眺められると思っていたが、私の訪問時は既に日没が始まっており、一定の暗闇と鉄道という文明以外に何かを見つけ出す事が出来なかった。

(夕方の帰宅ラッシュ時より身延線制覇が始まる。我々もこの長い道のりなら食事もゆっくり出来ると思ったのだが・・・ロングシートのうえラッシュ時と重なり、食事のスタートも更にゆっくりの時間帯となった。)
まさか身延線がロングシートの旅になると思わなかったが、暗闇の中、ようやく「身延」と描かれた駅名標の真ん前に私の乗った車両が停車した。飯田線のように下車駅が無いためひたすら南下するわけだが、私は良いとして、相方はかなり疲労困憊だったろう。しかも「18」的な切符のため乗車できる列車が制限される中、更にロングシートで甲府から富士まで行くなんて、ある意味修行のようだ。
とはいうものの、私的には初身延線のため新鮮であった。空腹を満たされては例えロングシートでも睡魔がジャブのように襲っていくる。私はラストスパートに向け…再びロングシートに身をまかせたのであった。

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乗り換え時間があまりなかったので私は急いで身延線ホームへと向かったら、意外や意外。列車内は帰宅客でフルハウスだったのだ。それでも相方が座席を確保してくれているだろうと必死で車内を探したら「席、取っといたよ❕」と言う彼はつり革に掴まっていた…


(中央線の列車はご覧の車両とカラーで運転されていた。私のイメージではスカ色で当たり前だったので、JRになってからの中央線は車両こそ国鉄であるが、塗装が違うため新鮮さと戸惑いの両方が一気に来たイメージであった。逆に身延線ではご覧の車両が湘南色で甲府のホームに停泊しているものかとばかり思っていたが、ここで計算違いが発生。身延線の車両はJR化後に製造された新型車両(当時)であった。)
私の計算違いだった。身延線の列車はクロスシートだと完全に思い込んでいた私は、例え混んでても各駅ごとに下車しいつしか空腹を満たす時間が来るであろうと思い込んでいた。たが、時代は変わり、身延線の車両はいつしかロングシートに変わっていたのた。レールファン23年のブランクがこんなところででてしまったのだ。相方は涼しい顔をしているが、私にしてみたらかなりショックで、改めてこのブランクを埋めなければならないと感じた瞬間でもあった。そして彼には申し訳ない気持ちでいっぱいとなってしまった。

(画像はウィキより引用させていただいた現在の身延線車両313系である。私が弁当を購入している間、同行の相方に座席の確保を依頼したのだが、座席確保の報告をする相方の姿はつり革につかまる姿であった。)
予想通り甲府から距離が離れるほど車内の乗客が減っていったが、空腹を満たすためにはどうしてもロングシートを活用しなければならず、結局そのロングシートで握り飯やサンドウィッチを頬張る以外の術は見つからなかった。
身延線も考えてみたらなかなかの景色を車窓から眺められると思っていたが、私の訪問時は既に日没が始まっており、一定の暗闇と鉄道という文明以外に何かを見つけ出す事が出来なかった。

(夕方の帰宅ラッシュ時より身延線制覇が始まる。我々もこの長い道のりなら食事もゆっくり出来ると思ったのだが・・・ロングシートのうえラッシュ時と重なり、食事のスタートも更にゆっくりの時間帯となった。)
まさか身延線がロングシートの旅になると思わなかったが、暗闇の中、ようやく「身延」と描かれた駅名標の真ん前に私の乗った車両が停車した。飯田線のように下車駅が無いためひたすら南下するわけだが、私は良いとして、相方はかなり疲労困憊だったろう。しかも「18」的な切符のため乗車できる列車が制限される中、更にロングシートで甲府から富士まで行くなんて、ある意味修行のようだ。
とはいうものの、私的には初身延線のため新鮮であった。空腹を満たされては例えロングシートでも睡魔がジャブのように襲っていくる。私はラストスパートに向け…再びロングシートに身をまかせたのであった。

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飯田線の後、実は身延線も制覇してましたが。①
2022-10-22
辰野に着いた時点で飯田線の制覇は完了したが、実は塩嶺トンネル開通直前以来だったので辰野へ来たのは約25年ぷりくらいになる。前回来たのは中央線の上り夜行普通列車(つまり長野夜行)で長野から新宿までの道中であったが、当時の飯田線車両は80系などの旧型車だった。いつかは乗りたいと思っていたが、その後急激に119系に変わりその夢は叶わなかった。しかし現在ではその119系も引退してしまい時代を感じるようになってしまった。そして塩嶺トンネルが開通してからはしばらく訪問する機会が無かったので、中央線の塩尻~みどり湖~岡谷間の制覇はレールファンを復活させてからのつい最近になってしまった。

久々の辰野に着いた。ここより中央「本線」になるのだが、塩嶺トンネル開通後は特急列車がやってこなくなってしまったため、なんとなく飯田線の延長線になったイメージが強い(あくまで個人の感想だが)。
そんな中、岡谷~辰野~塩尻の旧線はなんとなく飯田線の延長区間のようなイメージになってしまい特急列車もやって来なくなってしまったのでやや寂しいが、身延線制覇のため干渉に浸る間もなく上諏訪方面へと向かった。本当は新線区間のみどり湖の初乗りもしてみたかったのだが、時間の制約から次回にまわす事になった。
みどり湖経由の新線区間開業の少し前に塩尻の改良工事が完了しているが、私は工事完成直後が初訪だったので改良前を知らない。だが、改良後についてはこのブログで以前に紹介したように、実に機能的、実用的な配線に生まれ変わった。

辰野では見慣れない列車が停車していた。まだレールファンを復活させて間もない頃であったが、もちろん何かの改造車という事は即座にわかった。既に貴重な部類になっているであろう普通列車の姿は、当時の私の目にはある意味新鮮に映った。
その塩尻へは向かわずに岡谷を目指すが、岡谷ではその新線と合流する。ここで「飯田線」を捨て中央線に乗り換えこの辺りの中心地、上諏訪に着いた。多分、上諏訪は中学生時代に訪問して以来ぶりだったろう。駅にやや変化があった。なんとホームに足湯が設置されていたのだ❗もちろん国鉄時代には無かったしあり得ない光景であったが、もし国鉄時代にあったら、そして停車時間が長かったら中央線の普通夜行列車乗車時には活用しまくっていたであろう。
ただ現実に戻った私は昼さがりの列車なのに、秘境駅訪問を予定通りクリアした私には睡魔がジャブからストレートで襲っていた。そしてほとんど意識の無いまま甲府に到着してしまった。

小淵沢では小海線のDCを見かけた。もちろん「いい旅チャレンジ20000km」時代にはなかった車両であるため違和感を感じずにはいられなかった。
私は睡魔に襲われほとんど記憶になかったが、相方のおさるは小淵沢でしっかりと小海線の姿をキャッチしていた。もちろん、JR仕様の車両は当時の私には全て新鮮であった。

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久々の辰野に着いた。ここより中央「本線」になるのだが、塩嶺トンネル開通後は特急列車がやってこなくなってしまったため、なんとなく飯田線の延長線になったイメージが強い(あくまで個人の感想だが)。
そんな中、岡谷~辰野~塩尻の旧線はなんとなく飯田線の延長区間のようなイメージになってしまい特急列車もやって来なくなってしまったのでやや寂しいが、身延線制覇のため干渉に浸る間もなく上諏訪方面へと向かった。本当は新線区間のみどり湖の初乗りもしてみたかったのだが、時間の制約から次回にまわす事になった。
みどり湖経由の新線区間開業の少し前に塩尻の改良工事が完了しているが、私は工事完成直後が初訪だったので改良前を知らない。だが、改良後についてはこのブログで以前に紹介したように、実に機能的、実用的な配線に生まれ変わった。

辰野では見慣れない列車が停車していた。まだレールファンを復活させて間もない頃であったが、もちろん何かの改造車という事は即座にわかった。既に貴重な部類になっているであろう普通列車の姿は、当時の私の目にはある意味新鮮に映った。
その塩尻へは向かわずに岡谷を目指すが、岡谷ではその新線と合流する。ここで「飯田線」を捨て中央線に乗り換えこの辺りの中心地、上諏訪に着いた。多分、上諏訪は中学生時代に訪問して以来ぶりだったろう。駅にやや変化があった。なんとホームに足湯が設置されていたのだ❗もちろん国鉄時代には無かったしあり得ない光景であったが、もし国鉄時代にあったら、そして停車時間が長かったら中央線の普通夜行列車乗車時には活用しまくっていたであろう。
ただ現実に戻った私は昼さがりの列車なのに、秘境駅訪問を予定通りクリアした私には睡魔がジャブからストレートで襲っていた。そしてほとんど意識の無いまま甲府に到着してしまった。

小淵沢では小海線のDCを見かけた。もちろん「いい旅チャレンジ20000km」時代にはなかった車両であるため違和感を感じずにはいられなかった。
私は睡魔に襲われほとんど記憶になかったが、相方のおさるは小淵沢でしっかりと小海線の姿をキャッチしていた。もちろん、JR仕様の車両は当時の私には全て新鮮であった。

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