西遊記 ⑨
2023-01-14
さて本題に入ろう。因美線は久々の乗車であるが、正直、懐かしい感じがしたのは改良が石勝線ほど大胆にされていなかったからであろう。郡家では若桜鉄道が分岐するが、私が来た時は「若桜線」であったハッキリとした記憶が薄く、記録だけがしっかりと残っている。何せ高校1年の夏休みであったのと、咄嗟に思い付いての旅だったので、事前の計画も旅立つ一週間前くらいだったと思う。しかも当時はデジタルカメラなど存在せず、Canon AE-1プログラムというネガ式のアナログカメラであったが、実は帰郷後にネガを現像しようと写真屋に持っていく際に一部のネガを途中で落としてしまい紛失してしまったのだ!せっかくの記録が…と当時はもちろん、現在も悔やみきれない大きな痛手として私の心に深いダメージが残ってしまったのだ。そのためこの若桜線や因美線などの部分は当時の写真が無い!実に悔しく、皆様に画像でお伝えできない事が残念でならない。と言っても仕方がない。再びこうして訪問できただけでも神に感謝しなければならないのかも知れない。
そんなこともあり当時の記憶が薄いという事になるが、やはり懐かしさみたいなのは肌で感じることができるのは既に私の身体には「鉄道」というものが身体の一部になってしまっているのかも知れない。

郡家では若桜鉄道と接続する。実は1984年に国鉄若桜線時代に制覇しているのだが、正直言ってほとんど記憶に無い。失礼ながら、写真を現像しようと写真やにもっていく途中でネガを落としてしまい写真も残ってないのが超残念である。
その郡家では国鉄時代の風景を感じる事ができてある意味懐かしさが伝わってくるが、車両に関しては、特にJRになり「スーパーはくと」や「スーパーいなば」など私にはあまり馴染みの無い特急がいつの間にか誕生しており、かなり斬新なデザインの車両が因美線の一部で走っておりイメージが全く変わってしまった。いや、因美線は「陰陽連絡」であるのだからこれが本来の姿なのであろう。「砂丘」などの急行列車が走っていてはいけないのかも知れない。

智頭では津山方面への「JR」が待っていた。私は智頭方面へとわざわざ別料金を支払って智頭急行へ貢献しているため、残念ながらこの列車に乗ることはできない。ただ、この列車に乗れば国鉄時代からの風景が売るほど待っているので後ろ髪引かれる思い出あった。もちろん未知の世界である智頭急行への旅路も計り知れないワクワク感があるため、いわば苦渋の選択で計画通り智頭急行の案内に従うことにした。
そしていよいよ智頭に到着した。ここより未知の世界である智頭急行になるが、智頭急行の開業により島式ホームが一本増えた。隣に停車する智頭「急行」の普通列車は1両編成でホームをやや持て余し気味だ。ただ、私の今回の制覇では智頭より「急」いで「行」く旅ではないので各駅をじっくり堪能したい。

別の日にレンタカーで訪れた智頭以南にある美作滝尾であるが、智頭から津山まではこうした趣のある風景が続く。映画「男はつらいよ」にも出てくる美作滝尾は現在駅員無配置であるが、かつては数多くの別れや出会いを見てきた事であろう。
いよいよ別料金での旅が始まるべく、列車は因美線を大きく突き放し、一気に智頭急行モードとなった。もちろん、特急列車が走るため線形やレール等はそうした基準に満ちているが、とにかく山深いので建設公団の苦労が手に取れるようにわかる風景が車窓を彩る。もちろん、近年の技術ではかつてほどの苦労はそう多くないであろうが、お陰で我々は旅の醍醐味を車窓から感じとる事ができるのだから嬉しい。そして特急列車が走る前提での敷設のため踏切が無く、途中の駅では街を列車から見下ろす場面も少なくない。

そしてこちらも別の日に撮影した智頭以南にある知和である。因美線では、いや西日本では現在もこうした風景が少なくなく、むしろ貴重な存在をこうして維持されている事に感謝しなければならない!
特に大原は智頭急行が開業してできた新しい駅であるから地元の方の期待も無限に大きいであろう。特急停車駅であるという事からも智頭急行スタイルを感じることができる。更に智頭急行では「恋山形」や「宮本武蔵」など個性的な名前の駅もあり「白うさぎ」で一気に通過してしまうのはもったいない!やはり普通列車を選んで私はラッキーだった。

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そんなこともあり当時の記憶が薄いという事になるが、やはり懐かしさみたいなのは肌で感じることができるのは既に私の身体には「鉄道」というものが身体の一部になってしまっているのかも知れない。

郡家では若桜鉄道と接続する。実は1984年に国鉄若桜線時代に制覇しているのだが、正直言ってほとんど記憶に無い。失礼ながら、写真を現像しようと写真やにもっていく途中でネガを落としてしまい写真も残ってないのが超残念である。
その郡家では国鉄時代の風景を感じる事ができてある意味懐かしさが伝わってくるが、車両に関しては、特にJRになり「スーパーはくと」や「スーパーいなば」など私にはあまり馴染みの無い特急がいつの間にか誕生しており、かなり斬新なデザインの車両が因美線の一部で走っておりイメージが全く変わってしまった。いや、因美線は「陰陽連絡」であるのだからこれが本来の姿なのであろう。「砂丘」などの急行列車が走っていてはいけないのかも知れない。

智頭では津山方面への「JR」が待っていた。私は智頭方面へとわざわざ別料金を支払って智頭急行へ貢献しているため、残念ながらこの列車に乗ることはできない。ただ、この列車に乗れば国鉄時代からの風景が売るほど待っているので後ろ髪引かれる思い出あった。もちろん未知の世界である智頭急行への旅路も計り知れないワクワク感があるため、いわば苦渋の選択で計画通り智頭急行の案内に従うことにした。
そしていよいよ智頭に到着した。ここより未知の世界である智頭急行になるが、智頭急行の開業により島式ホームが一本増えた。隣に停車する智頭「急行」の普通列車は1両編成でホームをやや持て余し気味だ。ただ、私の今回の制覇では智頭より「急」いで「行」く旅ではないので各駅をじっくり堪能したい。

別の日にレンタカーで訪れた智頭以南にある美作滝尾であるが、智頭から津山まではこうした趣のある風景が続く。映画「男はつらいよ」にも出てくる美作滝尾は現在駅員無配置であるが、かつては数多くの別れや出会いを見てきた事であろう。
いよいよ別料金での旅が始まるべく、列車は因美線を大きく突き放し、一気に智頭急行モードとなった。もちろん、特急列車が走るため線形やレール等はそうした基準に満ちているが、とにかく山深いので建設公団の苦労が手に取れるようにわかる風景が車窓を彩る。もちろん、近年の技術ではかつてほどの苦労はそう多くないであろうが、お陰で我々は旅の醍醐味を車窓から感じとる事ができるのだから嬉しい。そして特急列車が走る前提での敷設のため踏切が無く、途中の駅では街を列車から見下ろす場面も少なくない。

そしてこちらも別の日に撮影した智頭以南にある知和である。因美線では、いや西日本では現在もこうした風景が少なくなく、むしろ貴重な存在をこうして維持されている事に感謝しなければならない!
特に大原は智頭急行が開業してできた新しい駅であるから地元の方の期待も無限に大きいであろう。特急停車駅であるという事からも智頭急行スタイルを感じることができる。更に智頭急行では「恋山形」や「宮本武蔵」など個性的な名前の駅もあり「白うさぎ」で一気に通過してしまうのはもったいない!やはり普通列車を選んで私はラッキーだった。

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西遊記⑧
2023-01-07
翌日、鳥取で朝を迎えたのは1982年に「山陰」に乗りやって来て以来実に約30年ぶりになるが、下車するのは初めてなので実に新鮮だった。その30年の間に国鉄は民営化され、全国各地のローカル線の多くが廃止された。だが、廃止されず生き残った路線も経営的に苦戦する場面が多く、存続の危機にたたされている路線も少なくない。そうした中、私は1984年以来の乗車になる因美線を使い智頭へ向かい、新たに開通した智頭急行へのチャレンジを計画していた。

鳥取は山陰本線の駅とは思えないほど立派に生まれ変わったが、高架化されたのは1978年と、以外にその歴史は古い。新幹線の駅を彷彿させるような造りは、現在でも昭和なイメージを感じさせないくらいモダンな雰囲気を醸し出す。
ところで全く私事であるが、私が国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」として旅に出ていた時代と、レールファンを23年ぶりに復活させて「勝手に」チャレンジ20000kmとして旅をしている現在との決定的な違い・・・それは、現在のチャレンジの旅は旅費が全て2倍かかっている事だ!つまり私が現在行っているチャレンジの旅は常に妻が同行しているため、切符にしても宿泊にしても常にふたり分の経費がかかってしまうのだ。子供の頃は運賃半額などの特典はあったが、大人になり、その半額分を、いや、更に倍返しとして公共に収めるわけであるから人生うまくできている。というより、得することもあれば損をする事もあるのだから、つまり人生をトータルで考えた場合、その人の運命バロメーター的なものが最終的に平均値を指すように仕組まれているような気がする。

鳥取のホームでは静岡や浜松と間違いそうな風景であるが、高架化完成当時は「ナウい」設計であったのだろう。現在もそのエッセンスを受け継いでいるが、特にJR化後に完成した駅に見る高知や福井、そして旭川や札幌、金沢などのように駅ホーム全体を屋根が覆う設計が現在の主流となっているのは利用者にとっても嬉しい設計である。特に雪国などでのそれはかなり重宝するであろう。
というか、妻がレールファンであれば問題ないのだが「家にひとりでいてもつまらないし」という理由からの同行であるので私もやや複雑な思いである。というより「自分だけ旅行に行って私は待ってろというのか」という考えであろうと思うが、その「旅行」にも人それぞれの考え方や価値観があり、私のように列車ばかり一日中乗っていて有名な観光地や豪華な食事をするわけでもない旅に同行して本当に楽しいのかと思う。近年ではレンタカーによる駅めぐりも増えていささか融通は利くが、基本、駅から駅への移動のみで、しかも「東オサワ」などの秘境を喜んで行く私にくっついてきて果たして本人はどう思っているのか・・・いわゆる一般の旅行とはかけ離れて異なるわけだし、周りからは「旅行に行ってきたんだ~いいねェ~」みたいに言われるが、私はいいとして、妻は一体どう感じているのか・・・それこそ古い駅名標や駅舎を「風光明媚」と感じる私をどう思っているのか・・・沢山の疑問を抱え、いつも旅に出ていた。

最近の列車では窓を開放できないためやや写真が霞んでしまう。どこかで聴いた歌ではないが「くもりガラスの向こうは・・・」風の街ではなく因幡社であった。
おかげで現在はJRとJR以外のいわゆる民鉄の98%近くを現在制覇しているが、旅番組を視ている時でも「ここ、私行った事ある?」みたいに自身が訪問した場所や日時がほとんど記憶になく、そこで食べたスイーツや朝食などはしっかりと記憶している妻をこれからも本当に同行させていいのかどうか・・・そんな思いを抱えながら乗車する因美線の列車は、鳥取のプラットホームを持て余してしまうほどの編成である。

智頭よりいよいよ「別料金」での制覇となる。「急行」と冠された鉄道会社なのに普通列車での制覇は少々失礼か・・・いや、普通列車でこそ地域密着的制覇となる!
因美線の乗車は1984年以来である事は先述しているが、当時との決定的は違いは鳥取~智頭間には特急列車が運転されている事である!国鉄時代は急行「砂丘」が岡山~鳥取間を走っていたが、現在の主役は姫路からの特急「スーパーはくと」になり智頭を境に因美線の役割や使命が全く異なってしまう異色の路線に変化した。
全く私個人の意見であるが、石勝線の開通時には夕張線に特急列車が走り、そしてその駅の数々が立派に改良された姿に度胆を抜かれたが、因美線の変化については石勝線のような驚きは少なかった。なぜだろうかと思ったが、それは今回の旅で実際に現地に訪れた時に何となく気付いたイメージであった。

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鳥取は山陰本線の駅とは思えないほど立派に生まれ変わったが、高架化されたのは1978年と、以外にその歴史は古い。新幹線の駅を彷彿させるような造りは、現在でも昭和なイメージを感じさせないくらいモダンな雰囲気を醸し出す。
ところで全く私事であるが、私が国鉄時代に「いい旅チャレンジ20000km」として旅に出ていた時代と、レールファンを23年ぶりに復活させて「勝手に」チャレンジ20000kmとして旅をしている現在との決定的な違い・・・それは、現在のチャレンジの旅は旅費が全て2倍かかっている事だ!つまり私が現在行っているチャレンジの旅は常に妻が同行しているため、切符にしても宿泊にしても常にふたり分の経費がかかってしまうのだ。子供の頃は運賃半額などの特典はあったが、大人になり、その半額分を、いや、更に倍返しとして公共に収めるわけであるから人生うまくできている。というより、得することもあれば損をする事もあるのだから、つまり人生をトータルで考えた場合、その人の運命バロメーター的なものが最終的に平均値を指すように仕組まれているような気がする。

鳥取のホームでは静岡や浜松と間違いそうな風景であるが、高架化完成当時は「ナウい」設計であったのだろう。現在もそのエッセンスを受け継いでいるが、特にJR化後に完成した駅に見る高知や福井、そして旭川や札幌、金沢などのように駅ホーム全体を屋根が覆う設計が現在の主流となっているのは利用者にとっても嬉しい設計である。特に雪国などでのそれはかなり重宝するであろう。
というか、妻がレールファンであれば問題ないのだが「家にひとりでいてもつまらないし」という理由からの同行であるので私もやや複雑な思いである。というより「自分だけ旅行に行って私は待ってろというのか」という考えであろうと思うが、その「旅行」にも人それぞれの考え方や価値観があり、私のように列車ばかり一日中乗っていて有名な観光地や豪華な食事をするわけでもない旅に同行して本当に楽しいのかと思う。近年ではレンタカーによる駅めぐりも増えていささか融通は利くが、基本、駅から駅への移動のみで、しかも「東オサワ」などの秘境を喜んで行く私にくっついてきて果たして本人はどう思っているのか・・・いわゆる一般の旅行とはかけ離れて異なるわけだし、周りからは「旅行に行ってきたんだ~いいねェ~」みたいに言われるが、私はいいとして、妻は一体どう感じているのか・・・それこそ古い駅名標や駅舎を「風光明媚」と感じる私をどう思っているのか・・・沢山の疑問を抱え、いつも旅に出ていた。

最近の列車では窓を開放できないためやや写真が霞んでしまう。どこかで聴いた歌ではないが「くもりガラスの向こうは・・・」風の街ではなく因幡社であった。
おかげで現在はJRとJR以外のいわゆる民鉄の98%近くを現在制覇しているが、旅番組を視ている時でも「ここ、私行った事ある?」みたいに自身が訪問した場所や日時がほとんど記憶になく、そこで食べたスイーツや朝食などはしっかりと記憶している妻をこれからも本当に同行させていいのかどうか・・・そんな思いを抱えながら乗車する因美線の列車は、鳥取のプラットホームを持て余してしまうほどの編成である。

智頭よりいよいよ「別料金」での制覇となる。「急行」と冠された鉄道会社なのに普通列車での制覇は少々失礼か・・・いや、普通列車でこそ地域密着的制覇となる!
因美線の乗車は1984年以来である事は先述しているが、当時との決定的は違いは鳥取~智頭間には特急列車が運転されている事である!国鉄時代は急行「砂丘」が岡山~鳥取間を走っていたが、現在の主役は姫路からの特急「スーパーはくと」になり智頭を境に因美線の役割や使命が全く異なってしまう異色の路線に変化した。
全く私個人の意見であるが、石勝線の開通時には夕張線に特急列車が走り、そしてその駅の数々が立派に改良された姿に度胆を抜かれたが、因美線の変化については石勝線のような驚きは少なかった。なぜだろうかと思ったが、それは今回の旅で実際に現地に訪れた時に何となく気付いたイメージであった。

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西遊記 ⑦
2022-12-31
寺前までは電車で来れたが、ここから先和田山まではディーゼルカーとなる。つまり非電化となるので昔のままの風景である。しかしながら、車両や駅がリニューアルされている部分もあり国鉄時代そのままというわけにはいかない。だが何となく僅かながらに播但線らしさを、いや、国鉄の匂いを私は感じた。


播但線の終点、和田山に着いた。山陰本線ではまだまだ国鉄色豊かな風景が見られる。運転台を取り付ける改造を施し延命措置をとられた国鉄車両はまだまだ現役である事を無言でアピールしているようだ。
さて、和田山に着いた私は山陰本線に乗り鳥取に向かう。実は山陰本線のこの区間の乗車は約27年振りであり、当時は旧型客車の運用による夜行普通列車「山陰」で乗車して以来となる。更にこの区間を何回か通っているが、夜行列車での行き来しかないため昼間の姿を知らないのである。ある意味今回が「初」的な経験であろうがため、特に餘部鉄橋付近は実に楽しみであった。


国鉄カラーが豊富な山陰本線では、点在する電化区間でも国鉄車が対応していた。もちろん播但線も電化・非電化の両区間を乗り換え無しで対応していて、バリエーションが豊かで止まらない!
城崎や豊岡も昼間の姿を見るのが初めてであるが、城崎は国鉄時代より駅名が変わりますます観光色を増したイメージだ。そして豊岡では宮津線、いわゆるかつての北近畿タンゴ鉄道、現在の京丹後鉄道との連絡があり構内が広いイメージもあったが、側線に列車が留置されて構内の様子がわからなかった、しかしまだまだ国鉄時代の雰囲気が充分に伝わってきており、初めてみる日中の豊岡にやや懐かしさを感じる事ができたのが嬉しい材料であった。

車両ばかりではなく、駅風景も国鉄時代を彷彿させる。風光明媚な豊岡ではご覧の景色が健在であった。もちろん、風光明媚とは鉄道関係の設備を指す。
さて、私の乗った列車はいよいよ餘部橋梁にさしかる。先述通りこの場所は夜中にしか通った事がないため迫力とか雰囲気を味わった事が無かった。つまり実質初体験物語である。だが、私の訪問時には既にフェンスが線路脇両サイドに貼られ、国鉄時代の昭和カラー溢れる大迫力のノーフェンスではなかったが、それでも雄大な迫力は圧巻であった。恐らく小橋や武藤辺りがムーンサルトとかを繰り広げたら、それはそれは芸術的に映るであろう、くらいの大パノラマであるが、受ける方も大変であろう…
そんな事を考えながら橋を渡るとすぐに餘部「駅」に接するが、こちらも近年に安全対策が取られかつての迫力は薄れたものの、説得力大であった。
こうして昭和の思い出を見つけながら、私の旅は更に進化し深化していくのであろう。

そしてこんな風景も車窓から飛び出してくる。かつて鉄道が主役だった時代は24時間休むまもなく稼働していた事であろう。
やがて今夜の宿泊地である鳥取に着いた。私の初訪である1982年は既に高架化されていたので、高架化され既に40年以上経過している事になる。そう感じさせない鳥取のホームはなぜか初々しい気持ちになった。旧型客車による普通夜行列車「山陰」から見た朝一番の鳥取の風景とほとんど変わり無く、懐かしさも感じるが、今回の旅では夜の時間帯の到着である。ひさびさに見る鳥取の駅名標を暫く見ていると、何だか豆腐ちくわが食べたくなってきた。私は売店に足を急がせいくつかの酒類を買い込むと、そのまま今宵の宿のある方角に消えていった。

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播但線の終点、和田山に着いた。山陰本線ではまだまだ国鉄色豊かな風景が見られる。運転台を取り付ける改造を施し延命措置をとられた国鉄車両はまだまだ現役である事を無言でアピールしているようだ。
さて、和田山に着いた私は山陰本線に乗り鳥取に向かう。実は山陰本線のこの区間の乗車は約27年振りであり、当時は旧型客車の運用による夜行普通列車「山陰」で乗車して以来となる。更にこの区間を何回か通っているが、夜行列車での行き来しかないため昼間の姿を知らないのである。ある意味今回が「初」的な経験であろうがため、特に餘部鉄橋付近は実に楽しみであった。


国鉄カラーが豊富な山陰本線では、点在する電化区間でも国鉄車が対応していた。もちろん播但線も電化・非電化の両区間を乗り換え無しで対応していて、バリエーションが豊かで止まらない!
城崎や豊岡も昼間の姿を見るのが初めてであるが、城崎は国鉄時代より駅名が変わりますます観光色を増したイメージだ。そして豊岡では宮津線、いわゆるかつての北近畿タンゴ鉄道、現在の京丹後鉄道との連絡があり構内が広いイメージもあったが、側線に列車が留置されて構内の様子がわからなかった、しかしまだまだ国鉄時代の雰囲気が充分に伝わってきており、初めてみる日中の豊岡にやや懐かしさを感じる事ができたのが嬉しい材料であった。

車両ばかりではなく、駅風景も国鉄時代を彷彿させる。風光明媚な豊岡ではご覧の景色が健在であった。もちろん、風光明媚とは鉄道関係の設備を指す。
さて、私の乗った列車はいよいよ餘部橋梁にさしかる。先述通りこの場所は夜中にしか通った事がないため迫力とか雰囲気を味わった事が無かった。つまり実質初体験物語である。だが、私の訪問時には既にフェンスが線路脇両サイドに貼られ、国鉄時代の昭和カラー溢れる大迫力のノーフェンスではなかったが、それでも雄大な迫力は圧巻であった。恐らく小橋や武藤辺りがムーンサルトとかを繰り広げたら、それはそれは芸術的に映るであろう、くらいの大パノラマであるが、受ける方も大変であろう…
そんな事を考えながら橋を渡るとすぐに餘部「駅」に接するが、こちらも近年に安全対策が取られかつての迫力は薄れたものの、説得力大であった。
こうして昭和の思い出を見つけながら、私の旅は更に進化し深化していくのであろう。

そしてこんな風景も車窓から飛び出してくる。かつて鉄道が主役だった時代は24時間休むまもなく稼働していた事であろう。
やがて今夜の宿泊地である鳥取に着いた。私の初訪である1982年は既に高架化されていたので、高架化され既に40年以上経過している事になる。そう感じさせない鳥取のホームはなぜか初々しい気持ちになった。旧型客車による普通夜行列車「山陰」から見た朝一番の鳥取の風景とほとんど変わり無く、懐かしさも感じるが、今回の旅では夜の時間帯の到着である。ひさびさに見る鳥取の駅名標を暫く見ていると、何だか豆腐ちくわが食べたくなってきた。私は売店に足を急がせいくつかの酒類を買い込むと、そのまま今宵の宿のある方角に消えていった。

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西遊記 ⑥
2022-12-24
姫路では私の想像を遥かに超えた列車が待っていた。何と播但線のホームには電車が停まっていたのだ!つまり私の知らぬ間に播但線は電化されていたのだ。確かに姫路寄りでは利用者も少なくなく、電化した方が能率が良いであろう。私は大納得で瞬時にそれを受け入れる事が出来た。もちろん計画段階ではその事実を既にわかっていたが、実際に目の当たりにすると妙に嬉しい。

昭和生まれの方ならお馴染みの列車であろう。少年時代によく見かけた首都圏の車両は、今や地方路線の主役となっていた。もちろん年数の経過とともに後輩の車両に随時入れ替わっていくであろうから、ここが最後の活躍の場として余生を送っている事になる。
さて、私は播但線初体験物語であるが、忘れてはならないのが飾磨支線であろう。現役時代も割りと地味な存在であったが、運転本数も地味なので乗り潰し泣かせな路線であった。飾磨という駅名は現在、山陽電気鉄道にその名を譲っているが、国鉄時代の廃線跡の面影は全線通してほぼ無いであろう。特に姫路は高架化されたため飾磨支線の「し」の字も無い。更に本線は電車になったため、私の知る播但線、つまり80系のようなディーゼル特急「はまかぜ」が播但線全駅を通過するイメージの雰囲気はほとんど無かった。全く新しい鉄道路線にチャレンジする思いで乗り込む播但線は、学校帰りの学生諸君たちが播但線の売り上げにかなり貢献しているイメージである。昔とは比較にならないくらい便利になった播但線は、途中の福崎辺りまで生活感溢れた車内風景が描かれていた。


播但線の中でも利用者が多い部類に入る福崎。そして播但線の代表格である寺前。寺前では電化区間と非電化区間の境界線隣、電車とディゼルカーが共存する。
しかしながら、寺前が特急停車駅に格上げされたことは嬉しい限りであるが、恐らく急行列車が廃止になったための対応策であろう。そして国鉄時代には市販の時刻表の表示が発車時間のみであったが、現在では発着時間で2行となり、ますます代表駅の風格が増した感がある。しかしながら姫路寄りの各駅に比べたらややひっそりとしていて、利用者も姫路寄りほどではない。正直いって私の印象では、播但線は割りと地味な部類に入るのかなと思っていたが、実際に乗ってみると、こうして寺前ひとつとっても実に愛着が湧いてくるではないか。
今回の旅の切符は「18」を使用しているため乗車できる列車が制限されてしまうが、そんな中でも小さな喜びと発見を求めながら、更に和田山方面へと心弾ませていた。

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昭和生まれの方ならお馴染みの列車であろう。少年時代によく見かけた首都圏の車両は、今や地方路線の主役となっていた。もちろん年数の経過とともに後輩の車両に随時入れ替わっていくであろうから、ここが最後の活躍の場として余生を送っている事になる。
さて、私は播但線初体験物語であるが、忘れてはならないのが飾磨支線であろう。現役時代も割りと地味な存在であったが、運転本数も地味なので乗り潰し泣かせな路線であった。飾磨という駅名は現在、山陽電気鉄道にその名を譲っているが、国鉄時代の廃線跡の面影は全線通してほぼ無いであろう。特に姫路は高架化されたため飾磨支線の「し」の字も無い。更に本線は電車になったため、私の知る播但線、つまり80系のようなディーゼル特急「はまかぜ」が播但線全駅を通過するイメージの雰囲気はほとんど無かった。全く新しい鉄道路線にチャレンジする思いで乗り込む播但線は、学校帰りの学生諸君たちが播但線の売り上げにかなり貢献しているイメージである。昔とは比較にならないくらい便利になった播但線は、途中の福崎辺りまで生活感溢れた車内風景が描かれていた。


播但線の中でも利用者が多い部類に入る福崎。そして播但線の代表格である寺前。寺前では電化区間と非電化区間の境界線隣、電車とディゼルカーが共存する。
しかしながら、寺前が特急停車駅に格上げされたことは嬉しい限りであるが、恐らく急行列車が廃止になったための対応策であろう。そして国鉄時代には市販の時刻表の表示が発車時間のみであったが、現在では発着時間で2行となり、ますます代表駅の風格が増した感がある。しかしながら姫路寄りの各駅に比べたらややひっそりとしていて、利用者も姫路寄りほどではない。正直いって私の印象では、播但線は割りと地味な部類に入るのかなと思っていたが、実際に乗ってみると、こうして寺前ひとつとっても実に愛着が湧いてくるではないか。
今回の旅の切符は「18」を使用しているため乗車できる列車が制限されてしまうが、そんな中でも小さな喜びと発見を求めながら、更に和田山方面へと心弾ませていた。

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三段峡への挑戦⑥ 安野
2017-06-20

実は、安野という駅自体を今回の訪問でその存在を知った。ご紹介の旅が決定した時に、当然ながら訪問先をピックアップする。そのプロセスの中で、現役時代は地味だった駅も廃線になればこうして存在感をアピールしてくるのだ。だから過去の現役時代の姿が光ってくる・・・逆に言うと何とも皮肉な話だ。って、私が勝手に思っているだけであるが・・・
というより、やはりこの安野は現役時代に訪問してみたかった。もちろんできなかったわけではないが、かつての「いい旅チャレンジ20000km」時代に、つまり国鉄時代に訪問を検討した結果、約半日を費やしてしまう行程がどうしても歩留まり悪く感じ、つい後回しにしてしまった。結果的に可部線非電化区間を制覇できずに終わってしまうという結果になってしまったが、やはり経験出来るうちに経験しておくというのが最大のセオリーという事を、過去を振り返っても嫌というほど経験してしまっている私にとって、更なる追加事項となってしまう。
であるが、ご紹介するように、ほぼ現役時代のまま現在も姿をとどめていることが実に嬉しい。だが、現実問題列車はやって来ないが、面影すら残っていない他の廃止路線の事を考えると、本当に感謝の思いで止まない。今後もこの地に鉄道の歴史が存在したことを後世に伝えるためにも是非「証拠」としていつまでも残していただきたい。
そして、前回に引き続き今回も国鉄時代の写真を、相互リンクさせていただいてる「プラットホームの旅」を管理なさっている「massi1」様にご協力頂いた。この場を借りまして、改めて感謝の意を表したいと思います。
ご覧になってお分かりいただけるように、国鉄時代はJR時代に比べかなり味がある事にお気づきになられる事と思う。ちなみに私は可部線に限らず国鉄・JRともに経験あるが、今になって改めて両者の違いがはっきりとわかるような気がする。それは、私と同世代、または先輩の方々もお気づきになられている事と思われるが、その答えは明白であろう。

そしてこちらは国鉄時代の駅名標であるが・・・もちろん貴重な存在!「massi1」様、ご協力ありがとうございます!






まず、私の訪問時の2016年夏。つまり現在の姿であるが、マジ、現役時代そのものではないか!かつて列車交換ができた事と思われるが、後に紹介する「massi1」様の写真を視て更に驚いた!

こちらが私の訪問時の2016年夏。そして・・・


こちらは「massi1」様ご協力の国鉄時代。ど~ですか!ほとんど変化が無い事にお気づきであろうと思われる。実に、まさに嬉しい限りだ。今後もこのまま継続して後世に伝えて欲しい気持ちである。



そして「massi1」様ご提供の国鉄時代。いや、既にJR化されてからのお写真かも知れないが、いずれにしても国鉄色に染まっている事間違いなし画像。そして、既にこの時代から交換設備が外されていた事が確認出来る貴重な資料となった。

そして再び私の訪問時に戻る。ちょうど政(まつりごと)を司る重要な何かが開催中であったらしい。駅前には堂々、そのアピール度100%状態であったが、確かこの駅は既に役目を終えているはず・・・

構内にある踏切も現役時代そのまま。というか、マジ、冗談抜きで営業しているのではと錯覚してしまうほどの保存具合。

そして私は次の駅に向かった・・・

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