スカイ・ハイ③

さて、その「複雑」の一角をなす添田であるが、添田線が廃止され駅構内の配線もかなり変更された。まずは、と言うより駅舎に接していた添田線用の一番線のレールは完全撤去!そして何本かあった側線も外され、まるで抜け殻のように変身していた。数々の駅を見てきたが、さすがにこの添田は痛々しい印象を否定できずにいる自分であった。
そんな日田彦山線であるが添田以降が若干貨物色が薄れてくる。と言うのも日田彦山線で一番新しい駅「歓遊舎ひこさん」が開設されたこともあろう。添田町の地域自立促進プロジェクトの一環として設置され、道の駅ともドッキングしている。石炭産業が衰退してしまった現在、こうした町の「起爆剤」が全国各地で見られるが、やはり「道の駅」と言う名の通り、現在の主役はやはり「マイカー」であろう。

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(添田からはかつて添田線が分岐していたのは周知の通り。現在は線路がほとんど剥され無残な姿となっているのは寂しい。しかし、かつての盛隆もしっかりと確認できる「遺産」でもある。)

そして路線名となっている彦山であるが、かなりの由緒ある場所らしく、ウィキを開くと「英彦山(ひこさん)は、福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町とにまたがる標高1,199mの山である。耶馬日田英彦山国定公園の一部をなす。日本百景・日本二百名山の一つ。また、弥彦山(新潟県)・雪彦山(兵庫県)とともに日本三彦山に数えられる。」と記されているが、列車で訪れる人はそう多くないであろう。

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(彦山は現在も構内は広い。利用者は以前よりも減少しているが、ふたつ隣の「歓遊舎ひこさん」では道の駅との合体で生き残りを図る。)

こうしてみてみると日田彦山線は数々のカラーを持って備えている。それもそのはず、日田彦山線は数々の路線を繋ぎ合わせた「合作」だからだ。詳しい歴史はこちらを参考にしていただくとして、日田彦山線は数々の変遷と統合を繰り返してきた。しかしながら私はその変遷時代に私は生まれていないので実感が無く、完全に歴史上の出来事であり伝説である。だが、その伝説は若干形を変えながらもしっかりと「遺跡」として現在も残っていた。

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(画像はミックスマテリアル様ご提供の今山駅。1986年の国鉄仕様だ。)

「戦争を知らない子供たち」という歌が私の子供の頃によく歌われた。発売されたのが1971年と聞いているが私は2歳!確かに私は「戦争を知らずに僕らは育った」のだが、戦争を知っている大人たちは既に現役から退き「戦争を知らない子供たち」が現在の社会を担っている。確かに戦争は悲しい出来事であるが、私たちにとってみたら「伝説」である事を考えると私たちはある意味幸せなのかも知れない。当時「大人」であった私たちの先輩たちは壮絶な時代を生き抜いてきたと私は思う。
現在「JR」と呼ばれる全国に張り巡らされた鉄道路線は、かつては私鉄であったものを国が買収したり「タコ部屋」等と語り継がれている強制労働などによって敷かれた路線など多くの変遷を持つものがほとんどであるが、その多くは軍事目的で敷かれたり国有化されたものだ。現在の様に車がそれほど発達していなかった時代は鉄道が主役であった。世界的に見てもこれほど鉄道路線が敷かれている国も珍しい部類だ。そしてほとんど人影が見られない山奥にまでレールを敷き日本の細部までの交通網を完成させようとしたが・・・その多くは「ローカル線」と名の付く路線に変身したり、中には廃止されてしまう路線も多数出てきた。
時代の変化と共に衰退していく鉄道・・・私たちが今見ている鉄道の姿は、かつて先人たちがただならぬ思い出築き上げた「財産」であると思う。出来ればその「財産」を将来にわたっても引き継がれてほしい思いである。日田彦山線のみならず、特に北九州の「網の目」は現在もかつての栄光を我々に「表現」している。もちろん衰退して枯れ果てた姿を見るのは寂しいが、私たちの先輩はこうして「財産」を残してくれたおかげで今の私たちがある。そんな筑豊地区の路線を「そのまま残せ」とは言わないが、しっかりとメンテナンスやリニューアルを繰り返してでも次世代に引き渡して欲しい・・・

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(画像はミックスマテリアル様ご提供の1998年、筑前岩屋~大行司間の一枚。非常に「らしさ」が溢れているではないか!かつてここにSLが走っていたと思うと・・・)

やがて「夜明」に到着する時間となった。久大本線で久留米に向かう予定になっているが、乗り換え時間は3分。ワンマンのため運転手に切符を見せると「乗り換えですか?」と聞かれたので肯くと、何やら無線みたいなもので連絡を取っていた。そう、交換列車に乗り換え客がいる旨を報告していたのだ。既に列車は到着しており、3分と言う時間があるにも関わらず、なぜか私たちを急ぎ足にさせた。編成の短い列車たちには持て余すくらいの長いホームを端から端まで移動するような感覚で息を切らせながら跨線橋を駆け登った。乗り換える列車は真新しい黄色の車両でJR仕様である。
学生たちが多く乗車し立席もいる大盛況の中、ポツンと2つの席が空いていた。私たちはそこに招かれるように着席した。その席から今乗って来た「国鉄車両」が見える。その車窓に映る国鉄車両からは北九州のかつての盛栄が投影されているように思えてならなかった。


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スカイ・ハイ②

城野より日田彦山線へと入って行くDC。私は当時レールファンを復活して日が浅かったのでこの国鉄車両であるDCは非常に懐かしかったし健在であったのは嬉しかった。途中の志井公園はモノレールの企救丘駅の至近距離にあり、駅周辺は開発された住宅街だ。北九州市はこの志井公園駅の設置に難色を示したが、周知の通り現在は駅が存在する。乗降客数も1500~1600人位で安定しており日田彦山線の大きな収入源のひとつとなっている。

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(画像はウィキペディアより、現在の呼野駅。つい30年くらい前まではしっかりとスイッチバック設備があったが、現在はご覧の通り。しかしながら今もこうして「遺跡」が残るのは嬉しい気持ちもあるが哀愁漂う感もある。)

と明るい材料のある日田彦山線であるが、しばらく列車は進む呼野に到着する。この呼野はかつて通過式のスイッチバック駅として北九州では珍しい存在であった。現在は解消されているがホーム跡などが残っておりかつての面影を偲ばせる。そして隣はズバリ「採銅所」なる駅が登場。「企救丘」の住宅街の景色からは考えられないほどの変貌ぶりだ。と言うよりこちらが本来の日田彦山線の姿であり、志井公園の景色は「現在」であるのだ。ところでこの「採銅所」と言う駅名。ちょっとウィキを開いた見たら、なんと字名で集落の名前である。由来は「地名はこの駅の周辺で銅を採掘していたことに由来するとされる。1956年までは採銅所村という独立した自治体であった。」と記されているので文字通り銅で発展してきた街なのであろう。現在はその面影がほとんどないと思われるが、2011年に駅舎が改築されたらしい。呼野と共に是非再訪したい物件となった。

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(その名もずばり「採銅所」。実際に付近では銅が採掘されていたらしい。いかにも北九州らしい地名だ。)

さて、列車は更に南下していくが隣の香春ではかつて添田線が分岐していた。添田線と言えば私の世代であると「赤字日本一」の名で全国にその名を知らしめた物件だ。北海道の「美幸線」と共に赤字率では常にワーストの位置に顔をだしていたが、石炭の時代が終焉を迎えた現在は全く意味のない路線となってしまい例の「83線区」に名を連ね「リバプールの風」となってしまった。途中の大任では油須原線と接続する予定であり、当時は比較的重要な路線であったろう。と言うよりも、実はこちらが本来の「日田彦山線」であったが、開業当時は「日田線」と呼ばれた。私たちの知る添田線の原型が分離され添田線となるのだが、私の世代を含め若いレールファンは全く実感がわかないのも正直なところだ。だが、車窓に映る「ボタ山」を見るとやはりかつての「栄光」が見え隠れする感を否定できない。やはり北九州は炭鉱で栄えた街なのだ。

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(日田彦山線の代表格である田川伊田。平成筑豊鉄道が分岐する。広かった構内もかなり配線が変更された。)

そんな車窓を眺めていると田川伊田に到着。隣の田川後藤寺と共に田川市の中核を成す都市、そして駅でもある。しかし駅構内はかつての面影が沢山残っていた。今にでもSLがやってきそうな風景。そう、この駅にはDCが似合わないのかもしれない。田川後藤寺で一旦下車し後藤寺線を制覇するため新飯塚へ向かう。後藤寺線制覇の模様は別途機会を設ける事とし、折り返して田川後藤寺へ戻ってきた私は再び日田彦山線を滑り出した。田川後藤寺からは典型的なローカル線の風景となり利用者もそう多くない部類に入る。

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(隣の田川伊田と共に代表格の田川後藤寺。こちらも平成筑豊鉄道が分岐するが、かつては石炭輸送で栄えた仲間でもあった。)

さて、この辺りはかつての栄光時代であった石炭輸送時代の路線図が全く複雑すぎて私には理解の範囲外であった。まず田川伊田と田川後藤寺では現在の平成筑豊鉄道が分岐。そして池尻では各炭鉱への貨物支線が分岐。更に隣の豊前川崎からは上山田線が、更に更にふたつ隣の添田では香春から分岐していた添田線が再び合流していた。と、なんだか偉そうに知ったか振りであるが、実は路線図は大体頭に描けるが路線名と一致しない。何ともこの網の目のような筑豊の路線図を理解しろと言われても・・・ラクダが針の穴を通るよりも難しいかも知れない。


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スカイ・ハイ①

エネルギー革命・・・少なくとも昭和30年代までは間違いなく日本の経済を支えていた「代表」は北海道や九州であろう。もちろん今も支えている事に変わりはないが、私の言っているのは「石炭」の事である。「若松」や「室蘭」と言えば日本でも有数の石炭積み出し港としてその名を馳せたが、そんな石炭輸送をしっかりと支えていたのは何を隠そう「鉄道」である。そして若松や室蘭などは沢山の貨物側線があり、構内は煙が絶え間なく夜中でも賑わっていたと聞く。そう、芸能人でいうと「石原裕次郎」や「美空ひばり」的なイメージか。しかしながら若い方は「石原裕次郎」と言われてもあまりピンと来ないであろう。私でさえ小学校・中学校時代だし、イメージ的に「西部警察」や「太陽にほえろ!」の時代だ。「♪おいらはドラマー~」は既に伝説状態で全く分からない。

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(1986年、筑前岩尾駅。やはり添田~夜明間は「炭鉱」と言うよりはローカルムードたっぷり。画像はリンクさせていただいているミックスマテリアル様ご提供。)

私の生まれた頃は「石炭」の時代は既に終焉を迎え、全国各地からはSLが撤退してきた頃だ。私の身近にあった東海道線は113(115)系が普通列車として主流になっており、急行「伊豆」は153系が使用されていた。そんな沿線に住んでいた私は「SL」は物語のイメージに過ぎない存在であった。だから、例えば筑豊本線は確かに石炭列車がピストン輸送されていたため直方駅の構内は広い。しかしそれは「伝説」であるので実感が無いが確かにその過去を確認できる存在だ。現在の姿を考えるとかつての「伝説」のイメージがつかない場面もあるが、確かに華やいだ時代もあったのだ。その筑豊本線と共に現在も活躍しているのが日田彦山線である。そして後藤寺線と共に現在にその「過去」を伝える貴重な存在となってしまった。

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(同じく1986年、今山駅にて。やはりローカルと言えばこの風景であろう。画像はミックスマテリアル様ご提供。)

私は2008年1月に日田彦山線を訪問している。本当なら1980年代に訪問予定であったが実現できず、多くの未制覇路線を残したまま変な空白地帯が出来てしまった。そして九州地区でも重要な「筑豊地区」は全く手を付けずに多くの路線が廃止されてしまった。「お蔵入り」となった計画は山ほどあったが、それこそ実行自体もお蔵入りになってしまい大変もったいない事をしてしまったが・・・2008年訪問時は車両も変わり路線を経営している会社も変わっていた。しかしほとんどの駅が最小限のリニューアルにとどまり昔の面影を残していた。

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(こちらは1998年の宝珠山~大鶴間にて。約12年の歳月が経ってもほとんど風景的に変化が無い感がある。とても素敵な風景だ。画像はミックスマテリアル様ご提供。)

日田彦山線の列車は起点の城野ではなく小倉より直通の列車がほとんどである。と言うより全列車が小倉から発着している。出発までにはまだ時間があったので北九州名物の「かしわうどん」をいただいた。私は「蕎麦」であったが、やはり味はもちろん、この小倉駅の「ホームでいただく」と言う事が最高の調味料になっていたようで鶏肉の旨さが際立つ。
そんな小倉駅のホームから乗車する日田彦山線は意外と乗車率が良かった。もちろんJRにしてみたらうれしい光景であるが、私のような「よそ者」にとってみたら若干「想定外」であった、と言ったら失礼であるかも知れないが、やはりローカル線の風景ではないのが若干残念であった・・・


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いつどこで、どういう状況においても、誰の挑戦でも受ける!(後編)

唐津線に訪問したのは1983年4月、それこそ「18」を握りしめての旅であった。鹿児島交通廃止の情報を受け、神奈川県は湘南地区からなんと18きっぷのみで九州に上陸してしまったのだ!今考えたらとんでもない事を考えたものだが当時私は中学生。時間はあるが金はない・・・との事情から当然の「選択肢」であった。

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(1983年訪問時の姪浜にて。この駅も高架化により大きく変貌。かつての筑肥線時代のイメージは全く感じない。そして何より、地下鉄と相互乗り入れが開始され福岡市中心部と直結されたことが大きい。)

その道中で私は唐津線と筑肥線を制覇する訳だが、筑肥線に関しては電化直後の訪問で、唐津周辺の鉄道景色は劇的な変化をもたらしていた。先述した東唐津の変遷と共に名実ともに「中心」となった唐津駅は高架化され堂々とした佇まいになった。それまでの唐津駅は唐津線の中間駅的な存在に過ぎず「代表駅」のイメージには程遠かった。現在の姿になったのは約30年前で、電化と同時に先述の「呼子線」の一部を筑肥線に組み込み福岡の中心部へのアクセスが飛躍的に向上。更に姪浜から地下鉄と相互乗り入れが開始され、以前とは全く違う形にパワーアップされた。

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(「日本三大松原」のひとつ、虹ノ松原の最寄駅として活躍する虹ノ松原駅。何ともロマンチックな駅名だ。画像はウィキペディアより。)

私が唐津駅に到着したのは唐津線であるから当然気動車である。途中の山本ではかつて「東側」の筑肥線も接続しており、さながら「ジャンクション」であった。更にここから「唐津線・岸嶽支線」が分岐しており、それこそ配線が複雑であった事であろう。岸嶽支線は1971年に無くなってしまったが、貨物支線的な役割をしていて後に旅客営業も始めた。いわゆる「炭鉱で栄えた」という経緯であるが、時代と共にその役目を終えた形になった。

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(筑肥線と唐津線のジャンクションであった山本駅。かつては岸嶽支線も分岐しておりまさに「ジャンクション」であった。現在は筑肥「西線」のみを分岐し唐津線の駅として活躍。画像はウィキペディアより。)

そんな山本駅では筑肥線の「西側」の路線が唐津線を南側でオーバークロスする形になっているのはかつての名残であるが、その「西側」に関してはローカル色豊かな路線である。時刻表の地図上では「幹線」で区分されているのが不思議なくらいであり、新しいレールファンにしてみたらマギー司郎張りの「マジック」ではなかろうか・・・
そしてこの「西側」については、私のブログと相互リンクさせていただいている「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人様においては「メッカ」である。特に「西相知」においては特段のこだわりや思い入れがしっかりと表現されており、是非ご確認いただきたい思いである。1983年の訪問時には全くのノーマークであったが、現在になってこの筑肥線の「西側」が煌めいてきた。

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(「西側」に所属する西相知はかつて交換設備があった。現在は棒線化され寂しいが、ここは私のブログと相互リンクさせていただいてる「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人でいらっしゃるLM様の「メッカ」でもある。画像はウィキペディアより。)

そして「東側」であるがなんといっても電化と同時に激変し、姪浜~博多間が廃止され同区間が地下鉄化された。私が訪問した時は真新しい2面4線のホームに地下鉄車両がお目見え。普通にローカル線のイメージしかなかった筑肥線がこれほどまでに激変したものかと目を疑ってしまった。時間の関係から旧・姪浜駅への訪問はできなかったが、全く似ても似つかなかったであろう。地下鉄車両は筑前前原まで乗り入れてくるので非常に便利になった印象だ。同じ路線でありながらこれほど明暗が分かれた実例も珍しいであろう。

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(1983年訪問時の西側の終点「伊万里」。現在は周知の通り「松浦線」は第三セクターとして第二の人生を歩んでいる。)


もちろんどちらが「明」でどちらが「暗」かはその人の捉え方次第であろう。以前に私が紹介した「塩尻」に若干プロジェクトが似ている感があるが、この筑肥線の変貌は「なるべくしてなった変化」であろう。確かに当時の国鉄事情からすれば「英断」であったかも知れないが、やはり鉄道が「山本」「東唐津」「唐津」と分散していた唐津市民にしてみれば、この英断によって唐津駅に統一され、数ある選択肢の中から「鉄道を利用する」という事が比重を大きく占める事になったであろう。一方の「西側」については、ますます「ローカル色」が強くなりさながら「マニア」には気になる存在になってしまった。現在の姿になりもう30年以上経過した。私の訪問時は中学生であったから自然と「世代」がばれてしまうが、当時のこの変貌ぶりを間近で見た事は非常に貴重である。が、しかし変貌前の姿を見れなかったのが残念でならない。その姿を実際に見ようものなら中学2年生以前にタイムスリップしなければならない。
その姿を確認できた方が非常に羨ましい。特にスイッチバック時代の「東唐津」は、小学生時代の私は非常に憧れたものだ。と言うより、こんな小学生は若干「特異」かも知れないが・・・


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いつどこで、どういう状況においても、誰の挑戦でも受ける!(前編)

少々強引かも知れないが、時刻表の地図上で唐津線と筑肥線をペアで見た場合「白鳥座」になんとなく見える。とはいうもののかなり「翼の位置」が異なる配置になるが・・・
この唐津線と筑肥線は、私の知る限りでもかなりの変遷があり興味を引く。私は1983年の春に訪問しているが、筑肥線の東側がまさに電化直後であった。これは非常に残念な事である・・・と言うのも「非電化時代」を体験できなかったからだ。若く、または新しいレールファンにしてみたら現在の筑肥線の姿が異様な光景に映る事であろう。もちろん歴史の紐を解いて自身でその変遷を解決しておられるであろうが、やはり唐津線を挟んでの現在の筑肥線の姿はやや違和感を感じる。いっそのこと路線名を変更した方が利用者もスムーズになろう。レールファンならともかく、一般の方からすれば全く理解に苦しむ存在かもしれない。

東唐津駅(旧駅舎)
(1983年に虹ノ松原~山本間が廃止されたと同時にこの旧・東唐津駅も無くなってしまった。スイッチバック式の駅であり、運行上はネックとなっていた。画像はウィキぺディアより。)

さて、この筑肥線の変遷で注目すべき点はなんといっても「東唐津」の存在であろう。かつての東唐津は唐津市の中心部から見て松浦川の対岸にあった。博多方面から来た列車はここで進行方向を変えて南に下り山本方面へと行く・・・つまり東唐津はスイッチバックの駅であった。唐津市の中心部の人にとって鉄道で博多方面に向かう際には、一旦山本まで出るか松浦川を渡り東唐津駅まで出向かなければならず、かなりの不便さを感じずにはいられなかった。この解決策として以前に紹介した「塩尻」同様、当時の国鉄事情を考えた場合かなりの「英断」であったろう「ビフォーアフター」が敢行された。以前から工事されていた「呼子線」の一部区間を開業させ「東唐津」「唐津」「山本」の三つに分散されていた唐津市の鉄道事情を「唐津」に一本化しようというプロジェクトが動いたのだ。

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(1983年の電化と同時に大きく変貌した唐津。それまでは唐津線の単なるローカル駅の佇まいであったが、ご覧の通り高架化され筑肥線と唐津線の接続駅となった。利用者も一気に増えて市の中心としてマジェスティックな印象を醸し出す。画像はウィキペディアより。)

「呼子線」とは、筑肥線の虹ノ松原から唐津を経て呼子に至る路線で1968年から着工されていた。路盤やトンネル、高架橋などはほとんど完成していたが、唐津周辺での土地の取得に時間がかかっているうちに「国鉄事情」が変化していき頓挫してしまった。しかしながら需要が見込めると思われる虹ノ松原~唐津を筑肥線に組み込む事で工事を完成させ電化と併せて開業させようと企てた。それが現在の姿である。

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(1983年、電化直後に私が訪問した時の唐津駅。真新しいホームと車両が初々しい。昼間の時間帯であったため駅は若干閑散としていたが、当時はとても唐津線の「唐津駅」とは思えぬ変貌振りであった。)

電化は唐津線の唐津~西唐津も併せて電化され、西唐津には電車区が置かれた。西唐津から先はそれこそ「呼子線」であるが、現在においてとうとうレールに走る列車の姿を見ることが出来なかった。しかし唐津市にとって、この「プロジェクト」は博多方面への交通手段として相当の飛躍であったろう。だが、その陰には筑肥線の虹ノ松原~東唐津~山本の区間が廃止されたという「空(むな)しさ」がある。つまりこの区間が無くなってしまった事により筑肥線が分断されてしまったのだ。「分断された」だけでなく、筑肥線を名乗る両者は姿・カラー・運用など全く異なる存在となってしまった。
私たちのようなレールファンにすれば筑肥線の「西側」は非常に気になる存在になる事であろう。しかし華やかに見える「東側」も近年は運賃・所要時間でも勝る高速バスに若干押され気味と聞いた。改良から30年経った現在、さらなる改良の時期に来たのではなかろうか。新しく高架上に移設された東唐津駅も、もしかしたらそう願っているかも知れない。



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プロフィール

ダイヤモンド☆トナカイ

Author:ダイヤモンド☆トナカイ
創設:1969.03.09
所在地:神奈川県湘南地区

〇2013年6月11日、北陸新幹線長野駅にてJR全線制覇いたしました。
国内の鉄道は、沖縄の「ゆいレール」を残し全線制覇しました。(とは言うものの、2015年3月の北陸新幹線延伸によりJR全線制覇は「ベルト返上」しました)

★ ブログ記事の「リメイク版」は、以前にホームページで紹介した旅日記をブログでリメイクしたものです。


◎ブログの登場人物

★ ダイナミック☆トナカイ
・・・中学時代の後輩で、2013年に約30年振りに再会を果たした。数多くの写真を提供していただいた「盟友」でもある。

★ おさる・・・かつて私がバンド活動をしていた時のメンバーで、鉄道復活のきっかけを作ってくれた人物。彼とは「秘境駅」を数回訪問した「親友」でもある。

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