西遊記⑩
2023-01-21
普通列車での制覇となった智頭急行であるが、やがて姫新線との交点でもある佐用に着いた。智頭から別れ暫く山あいの中を走っていたため佐用に着くと一大ターミナルに感じる。
佐用では姫新線と連絡しており文字通り姫路から津山を結ぶが、「白うさぎ」はわざわざ上郡経由で佐用にやって来る。もちろんその理由についてはご覧の皆様の方がよくご存じであろうが、せっかくの「陰陽連絡」である姫新線を使わないのはややもったいない気がする。

智頭急行では駅名標の撮影しかできなかった。というより、制覇の証として起点駅と終点駅の駅名標を収める事はもちろん、途中駅の駅名標も収める事にしている。だが、こうした個性あふれる駅には改めて訪問する必要がありそうだ。現在は桃色に染まっている恋山形もそのひとつ。
本竜野や播磨新宮など利用者もそれなりにあって、なおかつ高速化事業も完成しているので佐用までは姫新線経由もおもしろいであろう。しかしながら、やはりせっかく智頭急行を敷設したのだから上郡経由も大いに活用したい思惑もあるであろう。もちろんスピード面では智頭急行が圧勝であるため、というよりそうした目的で敷設されたのだから一般的には当然ながら活用するのが当然であろう。ただ私の場合、陰陽連絡のスピードを気にする旅ではない。そこにレールがある限り、制覇する宿命を背負っている以上、陰陽連絡の目的は二の次になってしまう。制覇したら自動的に「連絡している」という事になろう。

そして智頭急行の中間駅を代表する駅である大原。周囲は山に囲まれ静寂な雰囲気を醸し出している。利用者はそれほど多くはないが、車庫などの設備があり智頭急行の要衝駅となっている。
そういえば私は北越急行を「はくたか」で制覇している。私が中学生の頃はまさかほくほく線が本当に開通し、そして特急列車が走るとは思っていなかった。しかしそれは実現し、暫くの間北陸方面への近道として活用され多くの乗客に貢献してきた。
もちろん、将来的に北陸新幹線開通後の経営的な部分も初めから計算され視野に入れていたので大きな混乱も無く現在に至っているのであろう。ただやはり、私の個人的な考えではほくほく線は特急列車での制覇だけではややもったいない想いだ。北越急行も、もともとの目的は「スピード」であって、会社名にもその想いが込められている。なのに私はあえて北越急行を普通列車で再訪したいとは、何ともひねくれ者ではないか。何となく世間に対し申し訳ない気持ちになる。しかしながら、そんな思いもあり今回の智頭急行訪問は敢えて普通列車にしたのだ。

何となく人名的な駅名が多い智頭急行であるが、中でも歴史上の人物そのままは珍しいであろう。会社名にも冠されている通り「急いで行く」を売りにしている智頭急行であるが、普通列車でしか巡り会えない魅力的な風景も沢山ある。今回の旅は「智頭鈍行」で良かったのだ!
そして終点の上郡に着いたが、山深い中にありターミナルという印象には遥か彼方に遠いイメージであった。山陽本線の上り列車に乗り帰郷するわけだが、やたらホームが長く、乗り換えるという作業のはずなのにかなりの運動量になり、普段は運動不足の私にはかなり健康管理に貢献した事であろう。
国鉄時代には割りと地味な存在であった上郡であるが、JRになり智頭急行が開通してからはかなりそのポジションも変わった。ただ、変わったのは鉄道設備など鉄道運用の都合に関する事が殆どであるが、上郡の街自体は恐らく昔の静寂な雰囲気を醸し出す素敵な街として現在も進行形であろう。

智頭急行のもうひとつの要衝駅となる佐用。姫新線との接続駅となるが、特急列車がやって来るようになって大きく変化した。姫路へは姫新線でも智頭急行でも行けるが、智頭急行の場合、普通列車なら上郡で乗り換えが発生するため姫新線の方が便利であろう。ただ、佐用の利用者にとっては選択肢が増えますます利便性が向上した。
相生を過ぎ姫路に着く頃にはそろそろ昼間の食事が気になる時間となってきた。もちろん所持しているきっぷは「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、本日の到着予定地は神奈川である!つまり普通列車のみで帰郷するわけだ。私はこの時点で「西日本」と呼ばれる日本国土の左半分の地域にいる。姫路から新快速などの速達列車を利用させてもらうが、当然ながら新幹線を利用するのが一般的なため、ここからは己との戦いとなる。直通で東京行きの普通列車が姫路からでていたら早速乗車しているであろう。しかも583系の運用であったなら尚更新幹線など利用せず、いや、振り向きもせずに乗車している事であろう。もちろん自由席で寝台がセットされている状態の列車であるが・・・そんな夢のような事を頭に描きながら、姫路のホームでわずかな待ち時間にたぬきそばをすすっていた。

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佐用では姫新線と連絡しており文字通り姫路から津山を結ぶが、「白うさぎ」はわざわざ上郡経由で佐用にやって来る。もちろんその理由についてはご覧の皆様の方がよくご存じであろうが、せっかくの「陰陽連絡」である姫新線を使わないのはややもったいない気がする。

智頭急行では駅名標の撮影しかできなかった。というより、制覇の証として起点駅と終点駅の駅名標を収める事はもちろん、途中駅の駅名標も収める事にしている。だが、こうした個性あふれる駅には改めて訪問する必要がありそうだ。現在は桃色に染まっている恋山形もそのひとつ。
本竜野や播磨新宮など利用者もそれなりにあって、なおかつ高速化事業も完成しているので佐用までは姫新線経由もおもしろいであろう。しかしながら、やはりせっかく智頭急行を敷設したのだから上郡経由も大いに活用したい思惑もあるであろう。もちろんスピード面では智頭急行が圧勝であるため、というよりそうした目的で敷設されたのだから一般的には当然ながら活用するのが当然であろう。ただ私の場合、陰陽連絡のスピードを気にする旅ではない。そこにレールがある限り、制覇する宿命を背負っている以上、陰陽連絡の目的は二の次になってしまう。制覇したら自動的に「連絡している」という事になろう。

そして智頭急行の中間駅を代表する駅である大原。周囲は山に囲まれ静寂な雰囲気を醸し出している。利用者はそれほど多くはないが、車庫などの設備があり智頭急行の要衝駅となっている。
そういえば私は北越急行を「はくたか」で制覇している。私が中学生の頃はまさかほくほく線が本当に開通し、そして特急列車が走るとは思っていなかった。しかしそれは実現し、暫くの間北陸方面への近道として活用され多くの乗客に貢献してきた。
もちろん、将来的に北陸新幹線開通後の経営的な部分も初めから計算され視野に入れていたので大きな混乱も無く現在に至っているのであろう。ただやはり、私の個人的な考えではほくほく線は特急列車での制覇だけではややもったいない想いだ。北越急行も、もともとの目的は「スピード」であって、会社名にもその想いが込められている。なのに私はあえて北越急行を普通列車で再訪したいとは、何ともひねくれ者ではないか。何となく世間に対し申し訳ない気持ちになる。しかしながら、そんな思いもあり今回の智頭急行訪問は敢えて普通列車にしたのだ。

何となく人名的な駅名が多い智頭急行であるが、中でも歴史上の人物そのままは珍しいであろう。会社名にも冠されている通り「急いで行く」を売りにしている智頭急行であるが、普通列車でしか巡り会えない魅力的な風景も沢山ある。今回の旅は「智頭鈍行」で良かったのだ!
そして終点の上郡に着いたが、山深い中にありターミナルという印象には遥か彼方に遠いイメージであった。山陽本線の上り列車に乗り帰郷するわけだが、やたらホームが長く、乗り換えるという作業のはずなのにかなりの運動量になり、普段は運動不足の私にはかなり健康管理に貢献した事であろう。
国鉄時代には割りと地味な存在であった上郡であるが、JRになり智頭急行が開通してからはかなりそのポジションも変わった。ただ、変わったのは鉄道設備など鉄道運用の都合に関する事が殆どであるが、上郡の街自体は恐らく昔の静寂な雰囲気を醸し出す素敵な街として現在も進行形であろう。

智頭急行のもうひとつの要衝駅となる佐用。姫新線との接続駅となるが、特急列車がやって来るようになって大きく変化した。姫路へは姫新線でも智頭急行でも行けるが、智頭急行の場合、普通列車なら上郡で乗り換えが発生するため姫新線の方が便利であろう。ただ、佐用の利用者にとっては選択肢が増えますます利便性が向上した。
相生を過ぎ姫路に着く頃にはそろそろ昼間の食事が気になる時間となってきた。もちろん所持しているきっぷは「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、本日の到着予定地は神奈川である!つまり普通列車のみで帰郷するわけだ。私はこの時点で「西日本」と呼ばれる日本国土の左半分の地域にいる。姫路から新快速などの速達列車を利用させてもらうが、当然ながら新幹線を利用するのが一般的なため、ここからは己との戦いとなる。直通で東京行きの普通列車が姫路からでていたら早速乗車しているであろう。しかも583系の運用であったなら尚更新幹線など利用せず、いや、振り向きもせずに乗車している事であろう。もちろん自由席で寝台がセットされている状態の列車であるが・・・そんな夢のような事を頭に描きながら、姫路のホームでわずかな待ち時間にたぬきそばをすすっていた。

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西遊記 ⑤
2022-12-17
揖斐には初めて来たが、何故か初めての感じがしないのは子供の頃にコロタン文庫の書籍で散々見ていた行き先だからかも知れない。ただ、揖斐という地名は何となく名鉄のイメージが張り付いていたので近鉄の駅とは意外なアンサーであった。だが、過去の時刻表を見てみると、やはり名鉄と近鉄が競合しており、しかも名鉄揖斐線は岐阜市内線との直通運転という懐かしい響きが確認出来た。やはり私の記憶は間違っていなかったのだ。しかも現在の樽見鉄道・本巣付近は名鉄と近鉄で入り組んでおり、やはり先述した通りであったのでなんとなく嬉しくなったのだが、やはり現存の近鉄揖斐線=養老鉄道という図式に早く馴染まなければならないと感じた。

ウィキペディアより引用させていただいた現在の新快速。JRになってから、正直言って斬新なデザインの車両が多くなり区別がつかなくなってきたのは気のせいか・・・だが、国鉄時代に比べ、地域ごと・JRごとに何となくのデザインや雰囲気の特徴が現れている印象があり「これは西日本、これは東日本」などの区別は何となくつくようになってきた(あくまで個人的な意見だが)。
揖斐より折り返し大垣に戻ってきた。そして大垣より東海道にて今回の旅の主役である智頭急行へと向かうが、先述通り「18」のめ新幹線などの移動ではなく、18による制約を受けた列車に乗り関ヶ原越えをしなければならない。そして今回は智頭急行制覇の前に播但線を制覇するため姫路で下車する事が確定している。だが、米原から新快速で一気に姫路まで行けるためある意味得した気分にもなる。
既に今回の旅では、というより、23年のブランクを乗り越え、ひとり「いい旅チャレンジ20000km」を敢行するに当たり、レールファン復活後はただ闇雲に乗り潰すのではなく、未乗車路線を各ブロック毎に分けて制覇する事にした。そのため後の予定が組みやすくなり効率良く回る事ができるわけだ。つまり今回は播但線と智頭急行の組み合わせであるが、気が付けば「あとあそことあそこを乗れば全線いくな」という先が見えてきた感が出てきた。そうなると俄然バイタリティーが湧いてくる。私は勇んで更に西に向かうべく、JR西日本の車両に流れ込んだ。

かつての新快速221系であるが、現在は新快速の定期運用から外れている。JR化後に登場した車両で、私にしてみたら新しい車両的イメージの部類に入る。カメラ機能の低下によりやや画像が赤みかかっているが・・・
米原よりは先述の新快速にて軽快に関西付近を駆け抜ける。私が新快速に初めて乗ったのは1981年の夏で、当時開催されていた神戸万博、いわゆるポートピアの真っ最中であったが、その時は当時新鋭の117系だった。その117系も現在は終焉を迎えるタイミングという事からして時代を感じてしまう。
他の競合他社と激しいデッドヒートを繰り広げている関西圏であるが、大阪をスルーする形は現在の首都圏の形である上野東京ラインや湘南新宿ライン的な感覚であろう。ようやく首都圏も東京スルー形になったが、時代は既に夜行列車や急行列車が無くなり「あゝ、上野駅」的な情緒溢れる風景が少なくなってしまった。

1980年代の新快速といえば・・・ご覧の117系であるが、写真は1983年の浜松である。つまり東海地区にも117系が登場し、「快速」として運転されていた。117系の登場当時は「ライバル」との戦いに強烈な光を注ぎ込んだイメージであった。
ただ、JRについて関西圏と首都圏で決定的に違うのは、路線別運転か方向別運転かの差であろう。関西については方向別運転であり緩行系列車と快速系列車が同一ホームで乗り換えができてわりとスムーズに移動できるのに対し、首都圏では路線別運転となっており、例えば京浜東北線と東海道線が同一ホームで乗り換えができる場面が無い。これは常磐線や東北本線などにも恐らく言える事でであろう事象で、歴史が古く、継ぎ足しに次ぐ継ぎ足しの結果が現在の姿になったであろうが、利用者にとってはある意味不便他ならない。まぁ、意図的(かも知れない)に階段を使う乗り換えが東海地区に無くもないが、基本、関西の東海道線は乗り換えが実に便利だと実感する。しかしながら今回は新快速の終点、姫路での乗り換えのためやはり階段を使う事になる。まぁ、それはそれでいいのだが、いずれにしても国鉄時代からすっかり様変わりした風景も内容的には昔のままなのだからぜひこれからも便利に進化してほしいなと偉そうな事を考えていたら、高架化が完成して間もない姫路のホームに滑り込んだ。

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ウィキペディアより引用させていただいた現在の新快速。JRになってから、正直言って斬新なデザインの車両が多くなり区別がつかなくなってきたのは気のせいか・・・だが、国鉄時代に比べ、地域ごと・JRごとに何となくのデザインや雰囲気の特徴が現れている印象があり「これは西日本、これは東日本」などの区別は何となくつくようになってきた(あくまで個人的な意見だが)。
揖斐より折り返し大垣に戻ってきた。そして大垣より東海道にて今回の旅の主役である智頭急行へと向かうが、先述通り「18」のめ新幹線などの移動ではなく、18による制約を受けた列車に乗り関ヶ原越えをしなければならない。そして今回は智頭急行制覇の前に播但線を制覇するため姫路で下車する事が確定している。だが、米原から新快速で一気に姫路まで行けるためある意味得した気分にもなる。
既に今回の旅では、というより、23年のブランクを乗り越え、ひとり「いい旅チャレンジ20000km」を敢行するに当たり、レールファン復活後はただ闇雲に乗り潰すのではなく、未乗車路線を各ブロック毎に分けて制覇する事にした。そのため後の予定が組みやすくなり効率良く回る事ができるわけだ。つまり今回は播但線と智頭急行の組み合わせであるが、気が付けば「あとあそことあそこを乗れば全線いくな」という先が見えてきた感が出てきた。そうなると俄然バイタリティーが湧いてくる。私は勇んで更に西に向かうべく、JR西日本の車両に流れ込んだ。

かつての新快速221系であるが、現在は新快速の定期運用から外れている。JR化後に登場した車両で、私にしてみたら新しい車両的イメージの部類に入る。カメラ機能の低下によりやや画像が赤みかかっているが・・・
米原よりは先述の新快速にて軽快に関西付近を駆け抜ける。私が新快速に初めて乗ったのは1981年の夏で、当時開催されていた神戸万博、いわゆるポートピアの真っ最中であったが、その時は当時新鋭の117系だった。その117系も現在は終焉を迎えるタイミングという事からして時代を感じてしまう。
他の競合他社と激しいデッドヒートを繰り広げている関西圏であるが、大阪をスルーする形は現在の首都圏の形である上野東京ラインや湘南新宿ライン的な感覚であろう。ようやく首都圏も東京スルー形になったが、時代は既に夜行列車や急行列車が無くなり「あゝ、上野駅」的な情緒溢れる風景が少なくなってしまった。

1980年代の新快速といえば・・・ご覧の117系であるが、写真は1983年の浜松である。つまり東海地区にも117系が登場し、「快速」として運転されていた。117系の登場当時は「ライバル」との戦いに強烈な光を注ぎ込んだイメージであった。
ただ、JRについて関西圏と首都圏で決定的に違うのは、路線別運転か方向別運転かの差であろう。関西については方向別運転であり緩行系列車と快速系列車が同一ホームで乗り換えができてわりとスムーズに移動できるのに対し、首都圏では路線別運転となっており、例えば京浜東北線と東海道線が同一ホームで乗り換えができる場面が無い。これは常磐線や東北本線などにも恐らく言える事でであろう事象で、歴史が古く、継ぎ足しに次ぐ継ぎ足しの結果が現在の姿になったであろうが、利用者にとってはある意味不便他ならない。まぁ、意図的(かも知れない)に階段を使う乗り換えが東海地区に無くもないが、基本、関西の東海道線は乗り換えが実に便利だと実感する。しかしながら今回は新快速の終点、姫路での乗り換えのためやはり階段を使う事になる。まぁ、それはそれでいいのだが、いずれにしても国鉄時代からすっかり様変わりした風景も内容的には昔のままなのだからぜひこれからも便利に進化してほしいなと偉そうな事を考えていたら、高架化が完成して間もない姫路のホームに滑り込んだ。

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西遊記 ④
2022-12-10
久々の関西線で桑名に着いた。何度か来てはいるが下車するのは初めてである。四日市と違いJRと近鉄だ駅を共用しているためやたら広い。国鉄時代とはさほど駅風景に変化が感じられなかったのである意味懐かしさを感じるが、ここで乗り換えるのは養老鉄道という鉄道会社の路線だ。養老鉄道…聞いたこと無いな…新しい鉄道路線が私の知らない間に開業したのか。それにしては昔からある鉄道の雰囲気を醸し出しているな…などと計画段階で考えていたら、かつては近鉄の路線であったと知った。そうか、なるほど。そういえば桑名から北に向かう近鉄線って昔あったな、みたいに時刻表の地図に描かれた路線を思い出した。そうか、つまり最近よく見かけるようになった経営分離方式で、経営的に厳しい部分を分社化して運営しているということだ。私にしてみたら完全に浦島太郎状態であった。それ以前に、私は西方面の私鉄路線にとても疎い。云わば私のウィークポイントでもある。

桑名よりいよいよ養老鉄道の初体験である。実は養老鉄道の名はレールファン復活まで全く知らなかったし聞かなかったが、後に元近鉄路線であると判明し、納得。
さて、生まれて初めての養老鉄道。全く予備知識の無いまま養老鉄道のホームに着いたら私を待っていたのは近鉄の車両であった。いや、正確に言うと、近鉄の車両という事さえわからなかった。ただでさえ車両知識が疎いのに、更に輪をかけて西方面の私鉄にはかなり馴染みが無いため、極端に言うと京阪と阪急の区別がつかないくらい西の私鉄は難しかった。ビスタカー、テレビカー、パノラマカーくらいはわかるが、普通列車が登場するともう判別がつかない。大げさに言うとこんなイメージであるが、逆にそんな私だからこそ養老鉄道などは新鮮味が出てくるのかも知れない。

そしてこれが養老鉄道の車両であるが、やはり近鉄仕様!と言いたいところであるが、正直、私は関西の私鉄に関しては知識が疎く、皆様に胸を張って「近鉄だよ!」と言えないのが本音である・・・しかしやはり近鉄の顔をしているのでやはり納得!
タイフォンが鳴り止み、早速桑名を後にすると一気にJR路線が小さく見え隠れする風景が窓の向こう側に映し出された。私にしてみたら新しく聞く鉄道会社の名前であるが、設備や駅を見ると懐かしい雰囲気を醸し出しているのが違和感である。そんな違和感の中、列車は中心駅である養老に着いた。ホーム屋根の内側には無数の瓢箪が吊るされている。なんだか不思議な空間であるが、ここは瓢箪の町なのかと改めて「国内旅行業務取扱管理者」のライセンスホルダーとしての私の血が騒ぐ。そういえば千葉方面にも養老ってあったよなぁ・・・我が地元にもそんな名前の居酒屋チェーンあったよなぁ・・・それと何か関係があるのかなぁ。など考えながら、駅名標に向けシャッターを切っていた。


養老鉄道の中心である養老ではご覧の通りひょうたんだらけであった。某居酒屋チェーンの屋号は恐らくこの町にある滝が語源であろうと思われる。
大垣で完結すると思い込んでいた養老鉄道であったが、実はその先の揖斐まで行かなければならない。あれ?揖斐って名鉄じゃなかったっけ?などと曖昧な知識で予定を組んでいたが、実はかつて名鉄と近鉄、そして国鉄が入り乱れていた激戦地区だったのだ。正直、私にしてみたらかつての北九州に網の目を張り巡らしていた炭坑路線のように見えて何が何だかわからない大垣付近であったが、現在では揖斐までの養老鉄道と樽見鉄道の2社でスッキリ感がある。もちろん東海道線の赤坂支線もあるが、それでも私には複雑さが半減して見えた。ただ、揖斐へはもちろん初めての訪問なので緊張感はある。何れにしても大垣はJRと連絡する要衝の駅であるから一旦完結するイメージになる。

大垣駅の入場券。ご覧の通り、他の国鉄の入場券の値段との違いが分かる。訪問当時理由はわからなかったが、実は近鉄と駅を共用していたため近鉄の入場券プライスにしたという。事情を知らなかった私は当時10枚くらい一気に購入。
そういえばかつて国鉄時代に大垣には何度も寄ったが、当時、大垣の入場券は80円であった。国鉄の入場券は基本的に120円なのだが、なぜか大垣はディスカウント思考なイメージだったので、私は10枚くらいまとめて購入した事柄ある。
当時ディスカウントの理由はわからなかったのだが、現在の養老鉄道が近鉄より分社化される前に国鉄と駅を共用していたための措置であるとの事だった。利用者にすれば40円の差は大きく、特に私のようなマニアには持ってこいの材料であった。
そんな大垣を退き、再び養老鉄道で揖斐にむかう。これから先、どんな試練が待ち受けている事であろうか。

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桑名よりいよいよ養老鉄道の初体験である。実は養老鉄道の名はレールファン復活まで全く知らなかったし聞かなかったが、後に元近鉄路線であると判明し、納得。
さて、生まれて初めての養老鉄道。全く予備知識の無いまま養老鉄道のホームに着いたら私を待っていたのは近鉄の車両であった。いや、正確に言うと、近鉄の車両という事さえわからなかった。ただでさえ車両知識が疎いのに、更に輪をかけて西方面の私鉄にはかなり馴染みが無いため、極端に言うと京阪と阪急の区別がつかないくらい西の私鉄は難しかった。ビスタカー、テレビカー、パノラマカーくらいはわかるが、普通列車が登場するともう判別がつかない。大げさに言うとこんなイメージであるが、逆にそんな私だからこそ養老鉄道などは新鮮味が出てくるのかも知れない。

そしてこれが養老鉄道の車両であるが、やはり近鉄仕様!と言いたいところであるが、正直、私は関西の私鉄に関しては知識が疎く、皆様に胸を張って「近鉄だよ!」と言えないのが本音である・・・しかしやはり近鉄の顔をしているのでやはり納得!
タイフォンが鳴り止み、早速桑名を後にすると一気にJR路線が小さく見え隠れする風景が窓の向こう側に映し出された。私にしてみたら新しく聞く鉄道会社の名前であるが、設備や駅を見ると懐かしい雰囲気を醸し出しているのが違和感である。そんな違和感の中、列車は中心駅である養老に着いた。ホーム屋根の内側には無数の瓢箪が吊るされている。なんだか不思議な空間であるが、ここは瓢箪の町なのかと改めて「国内旅行業務取扱管理者」のライセンスホルダーとしての私の血が騒ぐ。そういえば千葉方面にも養老ってあったよなぁ・・・我が地元にもそんな名前の居酒屋チェーンあったよなぁ・・・それと何か関係があるのかなぁ。など考えながら、駅名標に向けシャッターを切っていた。


養老鉄道の中心である養老ではご覧の通りひょうたんだらけであった。某居酒屋チェーンの屋号は恐らくこの町にある滝が語源であろうと思われる。
大垣で完結すると思い込んでいた養老鉄道であったが、実はその先の揖斐まで行かなければならない。あれ?揖斐って名鉄じゃなかったっけ?などと曖昧な知識で予定を組んでいたが、実はかつて名鉄と近鉄、そして国鉄が入り乱れていた激戦地区だったのだ。正直、私にしてみたらかつての北九州に網の目を張り巡らしていた炭坑路線のように見えて何が何だかわからない大垣付近であったが、現在では揖斐までの養老鉄道と樽見鉄道の2社でスッキリ感がある。もちろん東海道線の赤坂支線もあるが、それでも私には複雑さが半減して見えた。ただ、揖斐へはもちろん初めての訪問なので緊張感はある。何れにしても大垣はJRと連絡する要衝の駅であるから一旦完結するイメージになる。

大垣駅の入場券。ご覧の通り、他の国鉄の入場券の値段との違いが分かる。訪問当時理由はわからなかったが、実は近鉄と駅を共用していたため近鉄の入場券プライスにしたという。事情を知らなかった私は当時10枚くらい一気に購入。
そういえばかつて国鉄時代に大垣には何度も寄ったが、当時、大垣の入場券は80円であった。国鉄の入場券は基本的に120円なのだが、なぜか大垣はディスカウント思考なイメージだったので、私は10枚くらいまとめて購入した事柄ある。
当時ディスカウントの理由はわからなかったのだが、現在の養老鉄道が近鉄より分社化される前に国鉄と駅を共用していたための措置であるとの事だった。利用者にすれば40円の差は大きく、特に私のようなマニアには持ってこいの材料であった。
そんな大垣を退き、再び養老鉄道で揖斐にむかう。これから先、どんな試練が待ち受けている事であろうか。

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西遊記 ③
2022-12-03
名古屋で下車したムーンライトながらを名残惜しみながら見送り、そして中央線のホームへ向かう。中央線では金山までは東京方面に戻る形になるが、かつては東海道線のホームは無く、現在の姿が何となく不自然に感じる。もちろん現在は周知の通り金山で東海道線や名鉄に乗り換えられるメリットが発生するため非常に便利になったが、どうも私は国鉄時代の感覚が抜けないらしい。
その金山を過ぎ、私が下車した駅は勝川。正直、あまり馴染みの無い未知の駅であったが、東海交通事業の始発となりその名を知る事になった。とは大袈裟であるが、恐らくこういう機会が無ければ縁がなかったであろう。JRとはやや離れた場所にある東海交通事業の勝川は、私の訪問時にはまだ完成形ではなく、いかにも今すぐ中央線とドッキングするかのような状態であったが、駅は仮住居のような佇まいであった。ただ、その時からかなり時間が経過している現在であるが、未だ当時のまま「仮設」である。
というより、元々は貨物列車専用的な路線として計画されていたため基本的には客流動的な事は最初から計画の範囲外だった。そして本来は終点だった清洲が後に枇杷島に変更された事については皆様の方がよくご存知であろうと思われるが、要するに名古屋を迂回する形で貨物専用路線が計画されていたのを旅客路線に転用した訳なので、沿線はかなり宅地化が進んだものの、利用者が進みたい方向に路線が敷かれているがどうかは未知数であるため利用者数値的にはやや劣勢になっているという事だ。

勝川で中央線より東海交通事業に乗り換えるのだが、お互い離れている位置にあるため少々歩く。高架が途中で途切れているような造りになっているのは、当然ながら中央線とドッキング予定であるのがわかりやすい設計になっているので、一応JR側に乗り入れるような意思を感じる事ができる。しかし、私の訪問時より十年以上経過した現在も中央線とは繋がっておらず、ご覧の状態のまま現在に至る。
しかしながらあのような立派なレールに1両編成の単行列車を走らせるのはややもったいない気もするが、せっかく作ったのだから活用しようという意味も込められていよう。ただ、勝川からの沿線風景は私の予想に反して意外にも宅地化されている場面も少なくない。
そして立派な高架橋を走っているのだから大都会の鉄道と何ら遜色無いのだが、肝心の愛知県中心部へは競合他社と路線が交差するものの連絡機能がないため乗り換える駅が無い。更に運賃がやや高値なのと、大都会近郊にしては運転本数もそう多くなく、走っている車両がレールバスのような華奢な車両のためスピード感がやや薄いイメージである。つまり地元の方にしてみたら利用しやすいとは言えないかも知れない状況の城北線であるので、更に親会社も路線の飛躍に積極性を感じられない状況になっているのだ。
とは言うものの、何だかんだ言っても散々楽しんでいた私であるが、気が付けば終点の枇杷島に着いてしまい少々残念な思いを抱いていたのだから、やはり「全線制覇」という課題が無ければ知る事ができなかったわけだ。人生何があるかわからない。少々名残惜しい気持ちであるが、通勤時間帯でありながらややひっそりした跨線橋を渡り東海道線のホームへ急いだ。


最初はほとんど区別がつかないであろう勝川の駅名標である。上がJR東海で下が東海交通事業であるのはお分かりであろうが、東海交通事業の方が仮駅というのがややもったいない。
東海道線のホームへ来た途端一気に気持ちが切り替わり、枇杷島よりひとつ戻り名古屋で関西線に乗り換える。私が関西線を訪れたのは1982年3月と8月であるが、関西線の名古屋~亀山まで電化されたのは1982年5月なので、私は電化直前と直後に訪れたことになる。この辺りでは並走する競合他社とデッドヒートを繰り広げ…と言いたいところであるが、当時はスピードでも料金でも運転本数でも競合他社の圧勝で、国鉄はDCやDLが牽引する旧型客車などが運用されていたわけだから、当然ながらほとんどの地元民は近鉄を利用するであろう。

大都会近郊なのにたった一両編成で大丈夫?と言いたくなるのだが、その大都会を迂回するような形をとる城北線なので少々残念な気持ちもある。しかし沿線人口は決して少なくないのでもっと良い活用法が出てくる事に期待したい。
それでも国鉄は少しでも抵抗しようと電化したわけであるが、あれから40年程経過した現在はどのように変化しているのであろうか。今回の旅で私が乗車した限りでは、朝のラッシュ時では少なくとも車両編成は短いながらも上り列車はフルハウスであった。私が乗車した下り方面は座席が選べるほどの乗車率だったが、旧型客車の国鉄時代からすれば格段の進歩であろう。もちろん、旅情を誘うには旧型客車のほうが俄然テンションマックスであろうが…

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その金山を過ぎ、私が下車した駅は勝川。正直、あまり馴染みの無い未知の駅であったが、東海交通事業の始発となりその名を知る事になった。とは大袈裟であるが、恐らくこういう機会が無ければ縁がなかったであろう。JRとはやや離れた場所にある東海交通事業の勝川は、私の訪問時にはまだ完成形ではなく、いかにも今すぐ中央線とドッキングするかのような状態であったが、駅は仮住居のような佇まいであった。ただ、その時からかなり時間が経過している現在であるが、未だ当時のまま「仮設」である。
というより、元々は貨物列車専用的な路線として計画されていたため基本的には客流動的な事は最初から計画の範囲外だった。そして本来は終点だった清洲が後に枇杷島に変更された事については皆様の方がよくご存知であろうと思われるが、要するに名古屋を迂回する形で貨物専用路線が計画されていたのを旅客路線に転用した訳なので、沿線はかなり宅地化が進んだものの、利用者が進みたい方向に路線が敷かれているがどうかは未知数であるため利用者数値的にはやや劣勢になっているという事だ。

勝川で中央線より東海交通事業に乗り換えるのだが、お互い離れている位置にあるため少々歩く。高架が途中で途切れているような造りになっているのは、当然ながら中央線とドッキング予定であるのがわかりやすい設計になっているので、一応JR側に乗り入れるような意思を感じる事ができる。しかし、私の訪問時より十年以上経過した現在も中央線とは繋がっておらず、ご覧の状態のまま現在に至る。
しかしながらあのような立派なレールに1両編成の単行列車を走らせるのはややもったいない気もするが、せっかく作ったのだから活用しようという意味も込められていよう。ただ、勝川からの沿線風景は私の予想に反して意外にも宅地化されている場面も少なくない。
そして立派な高架橋を走っているのだから大都会の鉄道と何ら遜色無いのだが、肝心の愛知県中心部へは競合他社と路線が交差するものの連絡機能がないため乗り換える駅が無い。更に運賃がやや高値なのと、大都会近郊にしては運転本数もそう多くなく、走っている車両がレールバスのような華奢な車両のためスピード感がやや薄いイメージである。つまり地元の方にしてみたら利用しやすいとは言えないかも知れない状況の城北線であるので、更に親会社も路線の飛躍に積極性を感じられない状況になっているのだ。
とは言うものの、何だかんだ言っても散々楽しんでいた私であるが、気が付けば終点の枇杷島に着いてしまい少々残念な思いを抱いていたのだから、やはり「全線制覇」という課題が無ければ知る事ができなかったわけだ。人生何があるかわからない。少々名残惜しい気持ちであるが、通勤時間帯でありながらややひっそりした跨線橋を渡り東海道線のホームへ急いだ。


最初はほとんど区別がつかないであろう勝川の駅名標である。上がJR東海で下が東海交通事業であるのはお分かりであろうが、東海交通事業の方が仮駅というのがややもったいない。
東海道線のホームへ来た途端一気に気持ちが切り替わり、枇杷島よりひとつ戻り名古屋で関西線に乗り換える。私が関西線を訪れたのは1982年3月と8月であるが、関西線の名古屋~亀山まで電化されたのは1982年5月なので、私は電化直前と直後に訪れたことになる。この辺りでは並走する競合他社とデッドヒートを繰り広げ…と言いたいところであるが、当時はスピードでも料金でも運転本数でも競合他社の圧勝で、国鉄はDCやDLが牽引する旧型客車などが運用されていたわけだから、当然ながらほとんどの地元民は近鉄を利用するであろう。

大都会近郊なのにたった一両編成で大丈夫?と言いたくなるのだが、その大都会を迂回するような形をとる城北線なので少々残念な気持ちもある。しかし沿線人口は決して少なくないのでもっと良い活用法が出てくる事に期待したい。
それでも国鉄は少しでも抵抗しようと電化したわけであるが、あれから40年程経過した現在はどのように変化しているのであろうか。今回の旅で私が乗車した限りでは、朝のラッシュ時では少なくとも車両編成は短いながらも上り列車はフルハウスであった。私が乗車した下り方面は座席が選べるほどの乗車率だったが、旧型客車の国鉄時代からすれば格段の進歩であろう。もちろん、旅情を誘うには旧型客車のほうが俄然テンションマックスであろうが…

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長良川艶歌 (後編)
2021-10-30
名湯「子宝温泉」で入浴まで済ませ心身ともに蘇った私は、再び列車で北濃方面へ向かう。というのも、残念ながら子宝温泉に宿泊施設は無く、美濃白鳥にある宿を素泊まりでインターネットで予約する事にした。
民宿をインターネットで予約する・・・私の「いい旅チャレンジ20000km」時代では民宿ガイドや時刻表の巻末辺りの宿の羅列を上から下まで見ながら探していたので、クリックひとつで、などありえなかった、というよりそんな概念など全く無い時代だ。私の旅に新しい息吹を吹き込んだ宿はほぼ割烹旅館。確か料金前払いで予め女将に「明日は朝一で出発で~す」と伝えたので本当に寝るだけ!超素泊まりであった。
ところでこちらの割烹旅館、私の寝る部屋は4枚くらいの障子にロックが掛かるシステムであったが、今考えたら普段は宴会場として使用しているのであろう。そして宿泊希望者がいたらその宴会場が宿部屋に早変わりする…そんなシステムになっているようだ。

終点の北濃であるが、とうとう右側に駅名が書かれる事はなかった。地形的には美濃白鳥からの方が九頭竜湖方面への延伸は自然であるが、北濃から先は白川郷などへのバス連絡も考えられていたのであろうか。
翌朝6時に起床。素泊まりのため朝食などはない。しかしながらその事は予定通りであり、この長良川鉄道の特長を充分に発揮させるべくあえて朝食を後回しにした訳は後程詳しく紹介しよう。
6時59分の美濃白鳥発北濃行に乗車するため身支度を急いだ。宿の女将に丁寧にあいさつをした後、日曜日ではなかったが、田中星児氏のように爽やかでビューティフルな朝を迎え美濃白鳥駅界隈を歩く。夜は暗くて分からなったが、こうして歩いてみるとなかなか風情ある街並みではないか!旅の疲れも一気に吹き飛んでしまうような素敵な街並みは、素泊まりで素通りするには勿体ない風景!だが、素通りしなければならないのは乗り潰しの宿命でもあろう。
早速美濃白鳥駅に着いたら既に駅には列車がいた。昨日の美濃白鳥止まりの最終列車が停泊していたのだ。もちろん美濃白鳥始発のため座って北濃まで行ける、というより北濃発の上りの始発となるための回送をわざわざ旅客扱いしているのであろうが、私たち以外の乗客は皆無に等しかったのは仕方がない。

北濃からの一番列車は美濃白鳥始発の下り北農行き一番列車がそのまま折り返す。北濃発の上り一番列車を美濃白鳥より回送しているわけであるが、営業運転として開放しているので利用者にとってはありがたい。
昔の私なら美濃白鳥で一泊するなどという発想というか概念が無かった。もちろん駅寝等はしたくなかったし、専ら夜行列車を宿代わりにしていたので途中駅で切るという発想が無かった。とはいえ、既に紹介している東北の旅では駅寝の連続であったが・・・だからこそ、こうして年齢を重ね新たなチャレンジを試みながら北濃へ向かうのは実に新鮮だ。
さっきまで美濃白鳥駅で改札をしていた初老の紳士が、今度はマスコンを持って運転席へ。そう、朝一の美濃白鳥での改札員は、実は運転手だったのだ。地方交通線ならではの「一人何役」であるが、現在は本当に合理化がドラスティックにシステム化されている。1970年代では鉄道のワンマン化など考えられなかったので、現在のワンマン化が当たり前の時代は改めてその確立されたシステムに感心してしまう。

北濃は越美北線と繋がった暁には当然ながら島式ホームの列車交換駅となっていたであろう。かつては九頭竜湖まで国鉄バスが連絡していたが、現在は途中で途切れてしまっている。ある意味「太川・蛭子コンビ泣かせ」の徒歩区間は8キロくらいの道のりであるらしい。
やがて北濃に到着した。途中から乗車して来た若干の乗客も下車。私は事前に運転手に同じ列車で折り返す旨を伝えてあったため切符回収等は無く、運転手も「あいつはその道を極める最重要人物であろう」とお察しいただいていたであろうが為、私は遠慮なくホーム等の駅設備にシャッターを切る事ができた。
驚いたのは北濃にはまだ「ターンテーブル」がいた事だ!もし使えるのなら、観光用にSLを走らせるのも夢ではないであろうが・・・しかし、ターンテーブルの横にあるレールはその先で途切れ、越美線の「過去の未来」が閉ざされていた。無理してでも九頭竜湖まで繋げたらまた違った運命を辿っていたろうが、線形が悪く、所要時間等を考えても全線通しての利用はまず無いと思われる。何せ旅客だけでは企業として利益を産むには至難の業であろう。既に叶わぬ夢となってしまったが、それでも夢だけは見ていたい。そんな思いを抱きながらレールの先にある何かを振りほどき、北濃を後にした。
郡上踊りで有名な郡上八幡をほぼ無関心に、いや、とても関心はあるのだが乗りつぶしの宿命上、どうしても無関心を装わなければならず辛いところであるが、二つ先の「深戸」に向かった。そう、ここでようやく朝食の「後述」が出てくるのだ。深戸では駅舎に食堂「ステーション深戸」が併設されており、地元民の憩いの場になっている。「後述」とは深戸で朝食をいただく計画だったのだ。

北濃より折り返し深戸で遅い朝食を頂く。そう、ここの駅舎には飲食店「ステーション深戸」が入居しているので超便利!
深戸で朝食をいただく・・・こんな概念も「いい旅チャレンジ20000km」時代の私には無かったプログラムである。頼んだモーニングセットはコーヒーにパン、そしてなぜか素麺がセットになっている優れものだ。暫くして我々以外にもお客様が入ってきたため冷房のスイッチオン。昭和の冷風が風鈴を鳴らす長閑な風景。駅直結の「ステーション深戸」は長良川鉄道最大の特長であろう❗
ここで1時間半のインターバルの後、美濃太田に向い帰路についた。

同じく深戸のホームより撮影。駅舎を出てすぐの場所で撮影したのだが、列車乗り場はホームの先端方面にあるようだ。
朝の越美南線は新鮮であった。既に夢敗れ、越美北線と繋がり「越美線」となる日は永遠に無いであろう。だが、今もこうして地元民に愛されながら活躍している鉄道がそこにはある。私はこんな風景を求めるために旅に出るのかなと自身に問いながら、寄り添う長良川のせせらぎの反射に瞳を細める時、私の「いい旅チャレンジ20000km・第2章」は既に始まっていた。

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民宿をインターネットで予約する・・・私の「いい旅チャレンジ20000km」時代では民宿ガイドや時刻表の巻末辺りの宿の羅列を上から下まで見ながら探していたので、クリックひとつで、などありえなかった、というよりそんな概念など全く無い時代だ。私の旅に新しい息吹を吹き込んだ宿はほぼ割烹旅館。確か料金前払いで予め女将に「明日は朝一で出発で~す」と伝えたので本当に寝るだけ!超素泊まりであった。
ところでこちらの割烹旅館、私の寝る部屋は4枚くらいの障子にロックが掛かるシステムであったが、今考えたら普段は宴会場として使用しているのであろう。そして宿泊希望者がいたらその宴会場が宿部屋に早変わりする…そんなシステムになっているようだ。

終点の北濃であるが、とうとう右側に駅名が書かれる事はなかった。地形的には美濃白鳥からの方が九頭竜湖方面への延伸は自然であるが、北濃から先は白川郷などへのバス連絡も考えられていたのであろうか。
翌朝6時に起床。素泊まりのため朝食などはない。しかしながらその事は予定通りであり、この長良川鉄道の特長を充分に発揮させるべくあえて朝食を後回しにした訳は後程詳しく紹介しよう。
6時59分の美濃白鳥発北濃行に乗車するため身支度を急いだ。宿の女将に丁寧にあいさつをした後、日曜日ではなかったが、田中星児氏のように爽やかでビューティフルな朝を迎え美濃白鳥駅界隈を歩く。夜は暗くて分からなったが、こうして歩いてみるとなかなか風情ある街並みではないか!旅の疲れも一気に吹き飛んでしまうような素敵な街並みは、素泊まりで素通りするには勿体ない風景!だが、素通りしなければならないのは乗り潰しの宿命でもあろう。
早速美濃白鳥駅に着いたら既に駅には列車がいた。昨日の美濃白鳥止まりの最終列車が停泊していたのだ。もちろん美濃白鳥始発のため座って北濃まで行ける、というより北濃発の上りの始発となるための回送をわざわざ旅客扱いしているのであろうが、私たち以外の乗客は皆無に等しかったのは仕方がない。

北濃からの一番列車は美濃白鳥始発の下り北農行き一番列車がそのまま折り返す。北濃発の上り一番列車を美濃白鳥より回送しているわけであるが、営業運転として開放しているので利用者にとってはありがたい。
昔の私なら美濃白鳥で一泊するなどという発想というか概念が無かった。もちろん駅寝等はしたくなかったし、専ら夜行列車を宿代わりにしていたので途中駅で切るという発想が無かった。とはいえ、既に紹介している東北の旅では駅寝の連続であったが・・・だからこそ、こうして年齢を重ね新たなチャレンジを試みながら北濃へ向かうのは実に新鮮だ。
さっきまで美濃白鳥駅で改札をしていた初老の紳士が、今度はマスコンを持って運転席へ。そう、朝一の美濃白鳥での改札員は、実は運転手だったのだ。地方交通線ならではの「一人何役」であるが、現在は本当に合理化がドラスティックにシステム化されている。1970年代では鉄道のワンマン化など考えられなかったので、現在のワンマン化が当たり前の時代は改めてその確立されたシステムに感心してしまう。

北濃は越美北線と繋がった暁には当然ながら島式ホームの列車交換駅となっていたであろう。かつては九頭竜湖まで国鉄バスが連絡していたが、現在は途中で途切れてしまっている。ある意味「太川・蛭子コンビ泣かせ」の徒歩区間は8キロくらいの道のりであるらしい。
やがて北濃に到着した。途中から乗車して来た若干の乗客も下車。私は事前に運転手に同じ列車で折り返す旨を伝えてあったため切符回収等は無く、運転手も「あいつはその道を極める最重要人物であろう」とお察しいただいていたであろうが為、私は遠慮なくホーム等の駅設備にシャッターを切る事ができた。
驚いたのは北濃にはまだ「ターンテーブル」がいた事だ!もし使えるのなら、観光用にSLを走らせるのも夢ではないであろうが・・・しかし、ターンテーブルの横にあるレールはその先で途切れ、越美線の「過去の未来」が閉ざされていた。無理してでも九頭竜湖まで繋げたらまた違った運命を辿っていたろうが、線形が悪く、所要時間等を考えても全線通しての利用はまず無いと思われる。何せ旅客だけでは企業として利益を産むには至難の業であろう。既に叶わぬ夢となってしまったが、それでも夢だけは見ていたい。そんな思いを抱きながらレールの先にある何かを振りほどき、北濃を後にした。
郡上踊りで有名な郡上八幡をほぼ無関心に、いや、とても関心はあるのだが乗りつぶしの宿命上、どうしても無関心を装わなければならず辛いところであるが、二つ先の「深戸」に向かった。そう、ここでようやく朝食の「後述」が出てくるのだ。深戸では駅舎に食堂「ステーション深戸」が併設されており、地元民の憩いの場になっている。「後述」とは深戸で朝食をいただく計画だったのだ。

北濃より折り返し深戸で遅い朝食を頂く。そう、ここの駅舎には飲食店「ステーション深戸」が入居しているので超便利!
深戸で朝食をいただく・・・こんな概念も「いい旅チャレンジ20000km」時代の私には無かったプログラムである。頼んだモーニングセットはコーヒーにパン、そしてなぜか素麺がセットになっている優れものだ。暫くして我々以外にもお客様が入ってきたため冷房のスイッチオン。昭和の冷風が風鈴を鳴らす長閑な風景。駅直結の「ステーション深戸」は長良川鉄道最大の特長であろう❗
ここで1時間半のインターバルの後、美濃太田に向い帰路についた。

同じく深戸のホームより撮影。駅舎を出てすぐの場所で撮影したのだが、列車乗り場はホームの先端方面にあるようだ。
朝の越美南線は新鮮であった。既に夢敗れ、越美北線と繋がり「越美線」となる日は永遠に無いであろう。だが、今もこうして地元民に愛されながら活躍している鉄道がそこにはある。私はこんな風景を求めるために旅に出るのかなと自身に問いながら、寄り添う長良川のせせらぎの反射に瞳を細める時、私の「いい旅チャレンジ20000km・第2章」は既に始まっていた。

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