廃止路線を訪ねて⑭ 大畑線
2014-03-03
下北半島は恐山の麓、下北から北上し「マグロ」で有名な大間を目指す目的で建設された「大畑線」。かなり「軍事的要素」が高い路線であったが、晩年は「下北交通」として第二の人生を送っていた事は記憶に新しいであろう。終点の大畑は、大間の南に位置し、大間まではそれこそ「下北交通」がバスで活躍している。そんな大畑線も姿が無くなってしまってから既に10数年の歳月が流れている。私は1983年にこの大畑線を訪問しているが、当時は「いい旅チャレンジ20000km」の「消化試合」に過ぎず、それほどこだわりも無く印象が薄かった。

(私の所有している大畑線唯一の「資料」。「駅前」と呼べる雰囲気の駅前ではない。それは歴史の紐を解けばすべてが解決。)
しかし、当時を思い出すと「秘境駅訪問家」などが喜びそうな「樺山」や、むつ市の中心部に近い「田名部」など、いろんな顔を見せてくれる事が分かる。そして大畑から大間(奥戸)までの大間線、いわゆる「未成線区間」は地味に有名であり、その痕跡は現在でも数多くで残っている。また「下風呂駅」ではご覧のように、完全に列車が通るイメージが出来そうなくらいに整備されている。

(画像はウィキペディアより。未成線区間の「下風呂駅」の予定地であったと思われる場所にある「下風呂駅」。それこそレールを敷いてしまえば列車がやってきそうな・・・)
未成線訪問ビギナーが訪問するには非常にやりやすいであろう大畑線であるが、廃線跡訪問としてはいかがであろうか。だが大畑や田名部などは現在も駅舎が残っており訪問のし甲斐があろう。
私の訪問した1983年の時は野辺地から一旦大湊に寄り、更に大畑まで行く直通列車であった。そして大畑で折り返し再び大畑に戻ってくるという運行であったため、ずっと座っていれば良く、かなり楽な思いもした。大湊より快速「なつどまり」に接続し、再び野辺地に戻るには大変便利であったが、国鉄時代の大湊線と大畑線の関係は、基本「大湊」での乗り換えを促すようなダイヤであったが、下北~大湊の往復運賃は?と少々疑問が残る。もちろん下北で律儀に待ち合わせをするのが本来であろうが、やはり拠点は大湊であるためそちらに比重がかかる事になる。

(下北交通時代のキハ85。ご覧の通り「国鉄車両」であるが、現在は国鉄色に塗り替えられ保存されていると聞く。画像はウィキペディアより。)
もともと下北交通はバス会社であったが、鉄道の経営をしてみてどういう印象であったろうか?大畑線廃止の際にはあの「南部縦貫鉄道」が大湊線と一緒に引き取るような話が出たらしいが、下北半島を拠点とする下北バス(当時)が「わてのテリトリーを荒らされては困る!」と奮起し大畑線を引き取ったという逸話がある。鉄道経営は全くのド素人。しかも赤字路線を引き取るというリスクもあるというのに、一体どういう作戦があったのであろうか。今、その答えが出て何年も経過しているが、やはり鉄道経営は非常に難しい部分があるのであろう。

(ウィキペディアよりの画像は現在の大畑駅の駅舎。下北交通所有であることは現在も変わらないが、国鉄時代よりは「下北交通カラー」に染められ若干新しさを感じる。)
下北交通時代にはJRとの間のレールは撤去されてしまい完全に「独立」した感であった。が、やはり客流動などを考えると大湊まで出るか野辺地まで直通列車を走らせるのが正解であったろう。もちろんそういう運行となると手続きやら何やらで面倒な部分もあろうが、やはり「下北止まり」では乗客的に便利であるとは思えない。沿線人口の減少とモータリゼーションの原因はどの鉄道路線も同じ問題を抱えているが、この「下北が起点」と言う事も要因になっていると私は思う。

(下北交通になってから大畑駅に車庫が新設された。現在は「大畑線キハ85動態保存会」がここで運転会を開催している。画像はウィキペディア。)
そんな大畑線であるが、大間(奥戸)までの延伸と共に北海道側には「戸井線」という未成線と連結させる計画まであったそうだ。その計画も、現在の「海峡線」の開業でお分かりのように、戸井線と大間線を繋ぐと言う事は、本州と北海道を「陸続き」にさせる計画であったのだが頓挫してしまった。もしこちらが「海峡線」となっていたらどうなっていたのであろうか・・・まず「青森駅」の存在価値や地位が薄れてしまうであろう。そして野辺地が「新青森」となっていたかも知れない。
残念ながら私は国鉄・大畑線の時代しか知らない。しかしながら下北交通時代はさぞかし厳しい経営を強いられたであろう。国鉄から民間バス会社に譲渡された唯一の例として活躍したが、現在はその「バス」が引き継いでいる。若干運行形態は違うものの、大畑、更に大間までの足として活躍している功績は大きい。もし私が「樺山」に再び訪問するような事があった時、樺山駅はどのように私を迎えてくれるのであろうか・・・

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(私の所有している大畑線唯一の「資料」。「駅前」と呼べる雰囲気の駅前ではない。それは歴史の紐を解けばすべてが解決。)
しかし、当時を思い出すと「秘境駅訪問家」などが喜びそうな「樺山」や、むつ市の中心部に近い「田名部」など、いろんな顔を見せてくれる事が分かる。そして大畑から大間(奥戸)までの大間線、いわゆる「未成線区間」は地味に有名であり、その痕跡は現在でも数多くで残っている。また「下風呂駅」ではご覧のように、完全に列車が通るイメージが出来そうなくらいに整備されている。

(画像はウィキペディアより。未成線区間の「下風呂駅」の予定地であったと思われる場所にある「下風呂駅」。それこそレールを敷いてしまえば列車がやってきそうな・・・)
未成線訪問ビギナーが訪問するには非常にやりやすいであろう大畑線であるが、廃線跡訪問としてはいかがであろうか。だが大畑や田名部などは現在も駅舎が残っており訪問のし甲斐があろう。
私の訪問した1983年の時は野辺地から一旦大湊に寄り、更に大畑まで行く直通列車であった。そして大畑で折り返し再び大畑に戻ってくるという運行であったため、ずっと座っていれば良く、かなり楽な思いもした。大湊より快速「なつどまり」に接続し、再び野辺地に戻るには大変便利であったが、国鉄時代の大湊線と大畑線の関係は、基本「大湊」での乗り換えを促すようなダイヤであったが、下北~大湊の往復運賃は?と少々疑問が残る。もちろん下北で律儀に待ち合わせをするのが本来であろうが、やはり拠点は大湊であるためそちらに比重がかかる事になる。

(下北交通時代のキハ85。ご覧の通り「国鉄車両」であるが、現在は国鉄色に塗り替えられ保存されていると聞く。画像はウィキペディアより。)
もともと下北交通はバス会社であったが、鉄道の経営をしてみてどういう印象であったろうか?大畑線廃止の際にはあの「南部縦貫鉄道」が大湊線と一緒に引き取るような話が出たらしいが、下北半島を拠点とする下北バス(当時)が「わてのテリトリーを荒らされては困る!」と奮起し大畑線を引き取ったという逸話がある。鉄道経営は全くのド素人。しかも赤字路線を引き取るというリスクもあるというのに、一体どういう作戦があったのであろうか。今、その答えが出て何年も経過しているが、やはり鉄道経営は非常に難しい部分があるのであろう。

(ウィキペディアよりの画像は現在の大畑駅の駅舎。下北交通所有であることは現在も変わらないが、国鉄時代よりは「下北交通カラー」に染められ若干新しさを感じる。)
下北交通時代にはJRとの間のレールは撤去されてしまい完全に「独立」した感であった。が、やはり客流動などを考えると大湊まで出るか野辺地まで直通列車を走らせるのが正解であったろう。もちろんそういう運行となると手続きやら何やらで面倒な部分もあろうが、やはり「下北止まり」では乗客的に便利であるとは思えない。沿線人口の減少とモータリゼーションの原因はどの鉄道路線も同じ問題を抱えているが、この「下北が起点」と言う事も要因になっていると私は思う。

(下北交通になってから大畑駅に車庫が新設された。現在は「大畑線キハ85動態保存会」がここで運転会を開催している。画像はウィキペディア。)
そんな大畑線であるが、大間(奥戸)までの延伸と共に北海道側には「戸井線」という未成線と連結させる計画まであったそうだ。その計画も、現在の「海峡線」の開業でお分かりのように、戸井線と大間線を繋ぐと言う事は、本州と北海道を「陸続き」にさせる計画であったのだが頓挫してしまった。もしこちらが「海峡線」となっていたらどうなっていたのであろうか・・・まず「青森駅」の存在価値や地位が薄れてしまうであろう。そして野辺地が「新青森」となっていたかも知れない。
残念ながら私は国鉄・大畑線の時代しか知らない。しかしながら下北交通時代はさぞかし厳しい経営を強いられたであろう。国鉄から民間バス会社に譲渡された唯一の例として活躍したが、現在はその「バス」が引き継いでいる。若干運行形態は違うものの、大畑、更に大間までの足として活躍している功績は大きい。もし私が「樺山」に再び訪問するような事があった時、樺山駅はどのように私を迎えてくれるのであろうか・・・

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