廃止路線を訪ねて⑮ 鍛冶屋線
2014-04-22
かつて加古川線から三つの支線が分岐していた。三木線・北条線・鍛冶屋線の三路線であるが、現在は北条線のみが残っているのは周知の通りだ。その中でも一番早く廃止されてしまったのが鍛冶屋線である。鍛冶屋線では「西脇」の存在が非常に大きく、こちらが「加古川線」と思えてしまうほど列車の運行は野村(現・西脇市)から鍛冶屋線に乗り入れ西脇や鍛冶屋に向かう列車がほとんどであった。特に西脇は西脇市の中心に位置し利用者が多かった事から、鍛冶屋線廃止の際は野村~西脇間だけでも残そうみたいな運動があったと聞いた。結局、路線名がアダとなり現在の姿になっているのは周知の通りであるが、現在も曽我井以外は何らかの形で鉄道の歴史があった「証」がある。

(私が唯一所有する鍛冶屋線の「資料」。と言っても鍛冶屋線内は何も残っておらず残念であるが、当時は鍛冶屋線に関しては全くのノーマークであった。)
私がこの地に訪問したのは1983年・春である。それこそ「18」で参戦したわけだが、この時に加古川線とその支線を全て制覇している。この支線の中では三木線が当時一番楽しみであった。その模様は後日紹介するとして、鍛冶屋線の参戦に関しては北条線制覇の後、粟生から鍛冶屋までの直通列車であった。途中の西脇で乗客の入れ替わりが多く、と言うよりほとんどここで下車してしまい、鍛冶屋まで向かったのは地元民よりむしろ私のような「物好き」の方が割合的に多かったような印象だ。

(中村町の駅舎はウィキペディアよりの画像。現在は公園に整備され、鉄道の歴史もしっかりと残されている。)
終点鍛冶屋では折り返し時間わずか6分であったためとにかく慌ただしかった印象しか残っていない。入場券を購入したり写真を撮っているうちに出発時間になってしまったが、列車のドアが閉まった瞬間に「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影し忘れてしまった事に気付き、出発した列車の中から駅名表を通り過ぎる際に自身の姿と一緒に収めるという「荒技」に出た。結果的に成功したが、鍛冶屋駅に関してはこんな印象がとても強く残っており他の記憶を消された感じだ。

(画像はウィキペディアより。現在の市原駅は「鍛冶屋線資料館」として第二の人生を送っている。)
そんな鍛冶屋線も現在は先述した通り、何らかの形で鉄道の歴史の証が各駅で見られる。終点・鍛冶屋と市原は「鍛冶屋線資料館」として駅舎が使われているが、市原に関しては一度駅舎が取り壊され復元されたものだ。中村町と羽安は公園に整備された。曽我井に関しては「証が無い」と先ほど述べたが、曽我井駅付近の道路に駅があった事を証明する「標識」が唯一の「証」となっているらしい。そして鍛冶屋線の中心駅・西脇に関してはホテルとバスロータリーに変身。今でも町の中心として活躍している。

(終点・鍛冶屋の現在の姿。「鍛冶屋線資料館」として現在も駅舎が残る。画像はウィキペディアより。)
廃線訪問ビギナーには訪問し安い「物件」であろうが、鍛冶屋線沿線住民はかなり鉄道に思い入れがあったようで、今もこうして何らかの形で鉄道の歴史が残っているのは先述の通りだ。特に西脇は市の中心部に駅があったため廃止の報告はさぞかし無念であったろう。
他の交通機関はどうかわからないが、鉄道という交通機関は廃線跡や廃止後の「遺跡」等が全国に多く存在する。多くの場合、それにとても興味を持ちそしてノスタルジックになってしまうのは私だけであろうか?例えば「路線バス」に関して言えば「廃止バス停跡」というのが全国にどれだけ存在するのであろうか。もし存在したとしてもどれだけの興味がもてるのか。船に関しては、例えば「青函連絡船」等は「摩周丸」等が保存されているが青森駅などの連絡設備は撤去されているし、宇高航路等も同じ状況であろう。飛行機に関しては全く情報がないのでご教示いただければ幸いであるが・・・これらと鉄道を比較してみた場合、私にとっての鉄道は「特別な存在」であるからかも知れないが、やはり廃線跡はグッと引き付けられる「何か」がある。このブログをご覧の皆様はどうお感じになられるであろうか?
私の身近には、ご存じ相模線の「西寒川」が存在する。西寒川駅は公園に整備されかつての面影はないが、寒川~西寒川間に関しては「一之宮公園」の中で今もレールが活きている。私が実際に公園内に訪れても往時の面影がハッキリと伝わってくる。もう廃止から30年経過したが、まだまだ列車がやってきそうな感じだ。
かつてより鉄道の性能が格段に向上しているはずなのに利用者が減少傾向である不思議な現象。それは鉄道以外の交通機関も性能がアップしている、いわゆる「モータリゼーション」や人口の一極集中化や少子高齢化などによる人口減少などによるものが原因であろう。
現在の鉄道事業法では、廃止に関しては「許可制」から「届出制」に変更された。つまり経営者側の考えが利用者より優位に立つことになるのだ。以前の「83線区」の時代には「廃止したいのですが・・・皆様いかがでしょうか?」とひとつひとつの問題をクリアしなければならなかったが、現在は「廃止するのでヨロシク!」と経営者側が一方的に決められる。以前より簡単に廃止ができるようになったのもひとつの要因であるかのように近年は鉄道路線の廃止が多い。
全国に散らばる廃止路線跡や未成線跡。紙切れ一枚で簡単に廃止できる現在の状況は皆様どういう風に感じるであろう。確かに経営者の立場に立ったとしたら苦渋の決断であることも分からなくはない。しかしながら鍛冶屋線に限らず、その廃止路線や未成線ひとつひとつの歴史は非常に重いはずだ。あなた自身の「歴史」と同じくらいに。

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(私が唯一所有する鍛冶屋線の「資料」。と言っても鍛冶屋線内は何も残っておらず残念であるが、当時は鍛冶屋線に関しては全くのノーマークであった。)
私がこの地に訪問したのは1983年・春である。それこそ「18」で参戦したわけだが、この時に加古川線とその支線を全て制覇している。この支線の中では三木線が当時一番楽しみであった。その模様は後日紹介するとして、鍛冶屋線の参戦に関しては北条線制覇の後、粟生から鍛冶屋までの直通列車であった。途中の西脇で乗客の入れ替わりが多く、と言うよりほとんどここで下車してしまい、鍛冶屋まで向かったのは地元民よりむしろ私のような「物好き」の方が割合的に多かったような印象だ。

(中村町の駅舎はウィキペディアよりの画像。現在は公園に整備され、鉄道の歴史もしっかりと残されている。)
終点鍛冶屋では折り返し時間わずか6分であったためとにかく慌ただしかった印象しか残っていない。入場券を購入したり写真を撮っているうちに出発時間になってしまったが、列車のドアが閉まった瞬間に「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影し忘れてしまった事に気付き、出発した列車の中から駅名表を通り過ぎる際に自身の姿と一緒に収めるという「荒技」に出た。結果的に成功したが、鍛冶屋駅に関してはこんな印象がとても強く残っており他の記憶を消された感じだ。

(画像はウィキペディアより。現在の市原駅は「鍛冶屋線資料館」として第二の人生を送っている。)
そんな鍛冶屋線も現在は先述した通り、何らかの形で鉄道の歴史の証が各駅で見られる。終点・鍛冶屋と市原は「鍛冶屋線資料館」として駅舎が使われているが、市原に関しては一度駅舎が取り壊され復元されたものだ。中村町と羽安は公園に整備された。曽我井に関しては「証が無い」と先ほど述べたが、曽我井駅付近の道路に駅があった事を証明する「標識」が唯一の「証」となっているらしい。そして鍛冶屋線の中心駅・西脇に関してはホテルとバスロータリーに変身。今でも町の中心として活躍している。

(終点・鍛冶屋の現在の姿。「鍛冶屋線資料館」として現在も駅舎が残る。画像はウィキペディアより。)
廃線訪問ビギナーには訪問し安い「物件」であろうが、鍛冶屋線沿線住民はかなり鉄道に思い入れがあったようで、今もこうして何らかの形で鉄道の歴史が残っているのは先述の通りだ。特に西脇は市の中心部に駅があったため廃止の報告はさぞかし無念であったろう。
他の交通機関はどうかわからないが、鉄道という交通機関は廃線跡や廃止後の「遺跡」等が全国に多く存在する。多くの場合、それにとても興味を持ちそしてノスタルジックになってしまうのは私だけであろうか?例えば「路線バス」に関して言えば「廃止バス停跡」というのが全国にどれだけ存在するのであろうか。もし存在したとしてもどれだけの興味がもてるのか。船に関しては、例えば「青函連絡船」等は「摩周丸」等が保存されているが青森駅などの連絡設備は撤去されているし、宇高航路等も同じ状況であろう。飛行機に関しては全く情報がないのでご教示いただければ幸いであるが・・・これらと鉄道を比較してみた場合、私にとっての鉄道は「特別な存在」であるからかも知れないが、やはり廃線跡はグッと引き付けられる「何か」がある。このブログをご覧の皆様はどうお感じになられるであろうか?
私の身近には、ご存じ相模線の「西寒川」が存在する。西寒川駅は公園に整備されかつての面影はないが、寒川~西寒川間に関しては「一之宮公園」の中で今もレールが活きている。私が実際に公園内に訪れても往時の面影がハッキリと伝わってくる。もう廃止から30年経過したが、まだまだ列車がやってきそうな感じだ。
かつてより鉄道の性能が格段に向上しているはずなのに利用者が減少傾向である不思議な現象。それは鉄道以外の交通機関も性能がアップしている、いわゆる「モータリゼーション」や人口の一極集中化や少子高齢化などによる人口減少などによるものが原因であろう。
現在の鉄道事業法では、廃止に関しては「許可制」から「届出制」に変更された。つまり経営者側の考えが利用者より優位に立つことになるのだ。以前の「83線区」の時代には「廃止したいのですが・・・皆様いかがでしょうか?」とひとつひとつの問題をクリアしなければならなかったが、現在は「廃止するのでヨロシク!」と経営者側が一方的に決められる。以前より簡単に廃止ができるようになったのもひとつの要因であるかのように近年は鉄道路線の廃止が多い。
全国に散らばる廃止路線跡や未成線跡。紙切れ一枚で簡単に廃止できる現在の状況は皆様どういう風に感じるであろう。確かに経営者の立場に立ったとしたら苦渋の決断であることも分からなくはない。しかしながら鍛冶屋線に限らず、その廃止路線や未成線ひとつひとつの歴史は非常に重いはずだ。あなた自身の「歴史」と同じくらいに。

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