よろしく哀愁。よろしく九州⑱ 和多田
2016-05-30

多分、この駅をわざわざ「観光用」として訪問するのは恐らく全国探しても私くらいであろう。実に生活感あふれる地味な駅であろうこの駅は、恐らくレールファンのブログでもそう取り上げられる事が多くないと思われる物件である。という事は、つまり私の「得意分野」でもあるわけだ。地味の真骨頂・・・和多田駅をひとことで言うとそんな表現ができるかも知れない。
さて、私がこの駅に初遭遇したのは1983年4月1日。つまり筑肥線部分電化開業直後で、更にこの駅の開業直後である。虹の松原~山本間が廃止された際に誕生した駅であるが、ある意味「呼子線」の駅として開業したという言い方もできる。それは東唐津も同じであろう。紹介が遅れたが、この駅はJR九州は筑肥線の駅であり開業は1983年3月22日である。駅の位置としては唐津市の市街地東側の端くらいにあり、当然ながら地元民の利用が約9割9分9厘9毛を占めるであろうと思われ、付近は住宅が多い。ちょっと歩けば道幅の広い国道があり、国道沿いには商業施設がひしめき合う。
駅の特徴として最もたるものは、駅のすぐそばを唐津線が通り過ぎていくという事か。筑肥線にはホームがあるが、すぐそばを走る唐津線にホームが無い。理由的にはもちろん佐賀線方面よりも博多方面への利用が圧倒的であろうという計算と建設費的な問題であろう。国鉄の駅として開業した和多田であるから当然その辺の事情もあろうが、逆に予定線である呼子線の一部を筑肥線として開業させ「東唐津」「山本」「唐津」と、行き先によって利用駅を使い分けなければいけなかった唐津市民の不便さを「唐津」に統合させた国鉄の英断も素晴らしい。確かに和多田に佐賀線のホームがあればこの和多田駅の価値も変わったであろうが、開業から30年以上たった今も開業当時とほとんど変化が無いのが逆にいい味を醸し出している印象でもあった。

国道から1本生活道路に入ると和多田に着く。高架駅として開業したが、開業当時のまま現在に至っている。

恐らく学生の利用が中心となるであろう。しかしながら付近は住宅街となっているので博多方面への通勤利用もあると思われる。



レールファン的にはハッキリ言って地味な存在であろう。普通に生活感あふれる駅であるから尚更だ。


1面1線の棒線型で、ハッキリ言ってなんの特徴も無い。しかしながら、私にとっては「新しい駅」的な存在で、しかも地味さ加減が気になる。


すぐそばを唐津線が走る。ハッキリ言ってホームがあっても良さそうだが、筑肥線側にしかホームが無い事で更に地味さ加減が倍増する!


上が開業直後の1983年4月1日で、下が2016年1月の訪問。比べてもらうとわかるが、開業当時はかなり「新百合ケ丘」「東戸塚」的な印象であるのがわかる。つまり「開発途上」であった開業当時から比べしっかりと「街」が形成されている印象だ。

そんな存在の和多田は実に素敵だ。そして更に次の訪問先に向かった。

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よろしく哀愁。よろしく九州⑮ 山本
2016-05-22

わりと地味に有名かも知れない山本であるが、その理由としては駅名と同じ苗字の方が多くおられる事であろうと思われる。事実、私の親戚にも「山本」はいるし、会社などではよく聞く苗字でもある。というより、そういうことを抜きにしてもこの駅は実に魅力のある駅で、まだまだ昭和の、いや、国鉄の面影が今も残る貴重な駅である。そう、決して地味な存在ではないが、こうした駅も私の得意分野であり好きな駅でもある。
若いレールファン等は筑肥線が分断されている事や本牟田部付近で唐津線と筑肥線がオーバークロスするのが、歴史的背景とはわかっているものの、恐らく実感としてないため不思議な感覚であろうと思う。私自身も実際にこの地に初めて訪問したのは1983年3月で筑肥線電化直後であった。そのため旧・東唐津や虹の松原~山本間の筑肥線は制覇していない。その訪問から30年以上経過して今回の訪問となった訳であるが、逆にその訪問当時とほとんど変わっていなかったのが嬉しかった。そして懐かしかった。初訪当時は、旧線時代はどういう配線になっているのかが非常に気になったものであるが、山本駅自体の配線は意外にも単純でありシンプルであったので逆に驚いてしまった。だが、このシンプルさが今となっては逆に面白い。と、なんだか「逆」という単語がやたらと出てきたが、現在は駅員無配置となってしまい更に寂しくなってしまった。かつては駅員がポイント操作などを行っていたであろう姿がないのが残念であるが、駅舎もホームも昔のままであるから、むしろこのまま22世紀もこの雰囲気を残してもらいたい物件である。
ところで全く関係無いが、駅名を聞いて「小鉄」という文字が頭をよぎったら、あなたは相当の強者(つわもの)であろう・・・

山本駅の駅舎。国道沿いにあるため実にわかりやすい。かつては岸嶽支線と筑肥線の旧線を分岐していてさぞかし賑わった事であろう。現在は駅員無配置である。


列車から降りて駅舎へ向かうのでなく、駅舎から駅のホームへ向かってみる。そう、これぞ地元民の感覚。駅舎は駅員無配置ながらなかなな渋い。



更に駅舎から隣のホームに向かう気分になってみる。跨線橋は無く、ご覧のような構内踏切によりホームを移動する。懐かしい風景だ。





構内は確かに広いが、かつての岸嶽支線や旧・筑肥線の面影は感じられなかった。岸嶽支線はともかく、旧・筑肥線の面影はないのが意外であった。とは言え、東唐津~山本の旧線が廃止されて既に30年以上経っているので当然といえば当然か。



山本に着く前に、実は本牟田部の前も通った。もちろん筑肥線と唐津線のオーバークロス部も拝んできた。本牟田部付近はオーバークロス部より山本までは、ある意味複線のような感じであるが、列車本数的に考えても、この本牟田部で一旦収束して山本までを単線にした方がJR的にも都合がいいのではないのか。

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よろしく哀愁。よろしく九州⑯ 厳木
2016-03-28

「きうらぎ」ではなく「きゅうらぎ」と読むこの駅であるが、実は今回この駅の訪問が決定したのはこの旅に出る一週間前くらいであった。職場の同僚と休憩室で話ていた時、偶然にも九州出身と聞いた。そしてその場所が隣の多久であったのだ。そもそも唐津線の駅訪問は予定していなかったのであるが、この同僚と話をしているうちに突然訪問意欲が湧いてしまった。という事で、なんとか時間をやりくりし無理やり(でもないが)訪問を決定した。とは言え、もし予定していなくてもこの厳木駅前は通るはずだったので、どちらにしても駅舎を見た途端に急遽寄りたくなっていたであろう。
ところで、今述べたようにここ厳木駅は立派な駅舎がある。正直言って私はこの厳木に関しては事前知識を装備していなかったため、いい意味で裏切られた感じであった。そして駅構内にはSL時代の面影もあり地味に名所気分を味わえる雰囲気である。ウィキで利用者を調べてみたら500人アンダーでほぼ安定しているのである意味安心材料である。が、駅周辺は河原が迫っていて地形的に集落がある雰囲気は感じなかったが、私が気付かなかっただけであろう。とは言え、付近には道の駅や厳木ダムもあり観光要素も揃っている感があった。それよりなにより私にとっては「駅舎」が最大の観光要素となってしまったが・・・


駅前には「平成的」なバスストップがある。そして駅前は意外に整備されている。もちろんそれは近年の出来事であろうが。


そしていよいよ駅舎へ。やはり訪問を決めてよかったと思う。昔ながらの姿は心休まる癒しの空間だ。

もちろん近年のものであろうが、いや、昔からあるものかも知れないが、ひと文字ひと文字に力強さを感じずにいられない。




私の家に「はなれ」としてこんな空間があったら、ここに篭って旅計画などを考えながら一日中時刻表を見て過ごすのも楽しいであろう。



そしてホームへ。唐津線の初訪は1983年3月であるが、当時は全くのノーマークであった。というより、当時中学生であった私がこの駅の魅力がわかったらかなりの強者(つわもの)であったろう。そう、ここは「大人の魅力」がたっぷりの駅だ。


そして「アレ」の存在が大きい。某BS局のTV番組「ローカル線聞き込み~」的な番組ならきっと名所登録されている事であろう。

という事で「安らぎの空間」を後にし、次の「名所登録」に向かうことにした。

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よろしく哀愁。よろしく九州⑫ 西相知
2016-03-12

さて、この西相知を紹介する前に皆様に報告しなければならない事がある。それは・・・今回の西相知訪問に関して相互リンクさせていただいている「LM徒然草」の管理人でいらっしゃるLMさんから少々ご意見をいただいてしまった。西相知と言えばLMさんのお膝元。そのLMさんのブログに関しては私が説明するまでもなく、どの記事も素晴らしい内容と作品の数々。そしてこの西相知に関してもかなりの思い入れを記されていらっしゃる。そんなLMさんの「メッカ」に、私は挨拶もせずに足を踏み入れてしまった!そんな私はかなりの不行き届き者である。という事で、次回はしっかりとLMさんに報告してからの訪問とする事にした!きっとLMさんから良い情報とアドバイス、そしてご利益が頂ける事であろう。

という事で、今回の西相知の訪問は、今回紹介している九州の旅では最終日の行程である。宿泊先の嬉野温泉から有田、伊万里方面を回り西相知にやって来た。カーナビに案内されるままに到着したが、到着する前から「あれがそうかな」とかなり遠くからでも確認できる西相知の佇まいであった。さて、ここを左折すれば駅かなと左折車線に入った途端・・・なんと駅から赤いダンプの行列が私の行く手を塞いでしまったのだ。1台、2台・・・強面(こわもて)のダンプは恐らく4台は通りすぎたであろうか。私は左折ウインカーを出したまま立ち往生してしまった。ところが、確か5台目あたりでダンプの動きが一旦停止した。そう、私が駅に入りたいと察したのかそのまま動かない。私は即座に西相知駅に向かいハンドルを切った。待っていてくれた運転手に窓越しに挨拶をした。迫力ある表情(とは失礼かも知れない。この場を借りてお詫び申し上げます!)は一転して笑顔で私を迎えてくれた。ありがとう!運転手さん。さすが九州男児。やはり義理人情に厚い何かを感じてしまう。そしてLMさんありがとう!こんな素敵な場所がLMさんのお膝元とは羨ましい!!!これからもよろしくお願いいたします。


さて、私が西相知駅に入ろうと左折ウインカーを出したら、狙っていたかのようにダンプの行列が!そして4台目が過ぎた頃で一台のダンプが止まった。そう、私に道を譲ってくれたのだ。私はすかさず脇道へ。そしてダンプが通り過ぎるのを待ち、駅の駐車スペースに車を入れた。

そしていよいよ西相知駅へ。LMさんのブログによると、かつては素敵な木造駅舎があると記されていたが・・・現在ではご覧の状況。





ご覧の通り、かつては交換設備があったと思われるが、現在ではご覧の状況。だが、しっかりと面影を残している。

ホームからダイレクト的に一般道へ繋がる道路。多分写真右側に駅舎があったと思われるがLMさんいかがでしょう。


かつての下り線はご覧の状況に。LMさん情報によると、どうやらここはJRの保線的資材置き場になっているらしい。このPC枕木と思われる資材は当然筑肥線の西区間で使用されているとは思えない。ここから東区間や他の路線に運び出されているのであろうか。


私が思うに、これって秘境駅にある定番的アイテムなのであろうか。
今回の旅であるが、初日を除き天気に恵まれた感がある。特に最終日はご覧の状況で、この後向かう唐津線等は実に心地よく、そして1月とは思えない気温の中で旅は進行していった。実は、この最終日の行程は宿泊先である嬉野温泉を出発する直前に予定ルートを変更した。とは言え、最初から西相知駅への訪問計画はあったから予定通りと言えば予定通りであるが、今回の旅では「外から鉄道を見る」という楽しさを再確認させられた旅でもあった。決して鉄道旅では味わえないレンタカーによる鉄道路線めぐりの旅。時間的に許されるならここ西相知駅にしばらく佇んでいたかった。が、この後航路にて帰宅しなければならない時間がある。後ろ髪ひかれる思いで西相知駅を去ったが、次回訪問する時は、それこそ1時間とか2時間とか滞在時間をしっかり取って来よう。もちろんLMさんにもご一報入れさせていただいて・・・

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いつどこで、どういう状況においても、誰の挑戦でも受ける!(後編)
2014-04-28
唐津線に訪問したのは1983年4月、それこそ「18」を握りしめての旅であった。鹿児島交通廃止の情報を受け、神奈川県は湘南地区からなんと18きっぷのみで九州に上陸してしまったのだ!今考えたらとんでもない事を考えたものだが当時私は中学生。時間はあるが金はない・・・との事情から当然の「選択肢」であった。


(1983年訪問時の姪浜にて。この駅も高架化により大きく変貌。かつての筑肥線時代のイメージは全く感じない。そして何より、地下鉄と相互乗り入れが開始され福岡市中心部と直結されたことが大きい。)
その道中で私は唐津線と筑肥線を制覇する訳だが、筑肥線に関しては電化直後の訪問で、唐津周辺の鉄道景色は劇的な変化をもたらしていた。先述した東唐津の変遷と共に名実ともに「中心」となった唐津駅は高架化され堂々とした佇まいになった。それまでの唐津駅は唐津線の中間駅的な存在に過ぎず「代表駅」のイメージには程遠かった。現在の姿になったのは約30年前で、電化と同時に先述の「呼子線」の一部を筑肥線に組み込み福岡の中心部へのアクセスが飛躍的に向上。更に姪浜から地下鉄と相互乗り入れが開始され、以前とは全く違う形にパワーアップされた。

(「日本三大松原」のひとつ、虹ノ松原の最寄駅として活躍する虹ノ松原駅。何ともロマンチックな駅名だ。画像はウィキペディアより。)
私が唐津駅に到着したのは唐津線であるから当然気動車である。途中の山本ではかつて「東側」の筑肥線も接続しており、さながら「ジャンクション」であった。更にここから「唐津線・岸嶽支線」が分岐しており、それこそ配線が複雑であった事であろう。岸嶽支線は1971年に無くなってしまったが、貨物支線的な役割をしていて後に旅客営業も始めた。いわゆる「炭鉱で栄えた」という経緯であるが、時代と共にその役目を終えた形になった。

(筑肥線と唐津線のジャンクションであった山本駅。かつては岸嶽支線も分岐しておりまさに「ジャンクション」であった。現在は筑肥「西線」のみを分岐し唐津線の駅として活躍。画像はウィキペディアより。)
そんな山本駅では筑肥線の「西側」の路線が唐津線を南側でオーバークロスする形になっているのはかつての名残であるが、その「西側」に関してはローカル色豊かな路線である。時刻表の地図上では「幹線」で区分されているのが不思議なくらいであり、新しいレールファンにしてみたらマギー司郎張りの「マジック」ではなかろうか・・・
そしてこの「西側」については、私のブログと相互リンクさせていただいている「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人様においては「メッカ」である。特に「西相知」においては特段のこだわりや思い入れがしっかりと表現されており、是非ご確認いただきたい思いである。1983年の訪問時には全くのノーマークであったが、現在になってこの筑肥線の「西側」が煌めいてきた。

(「西側」に所属する西相知はかつて交換設備があった。現在は棒線化され寂しいが、ここは私のブログと相互リンクさせていただいてる「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人でいらっしゃるLM様の「メッカ」でもある。画像はウィキペディアより。)
そして「東側」であるがなんといっても電化と同時に激変し、姪浜~博多間が廃止され同区間が地下鉄化された。私が訪問した時は真新しい2面4線のホームに地下鉄車両がお目見え。普通にローカル線のイメージしかなかった筑肥線がこれほどまでに激変したものかと目を疑ってしまった。時間の関係から旧・姪浜駅への訪問はできなかったが、全く似ても似つかなかったであろう。地下鉄車両は筑前前原まで乗り入れてくるので非常に便利になった印象だ。同じ路線でありながらこれほど明暗が分かれた実例も珍しいであろう。

(1983年訪問時の西側の終点「伊万里」。現在は周知の通り「松浦線」は第三セクターとして第二の人生を歩んでいる。)
もちろんどちらが「明」でどちらが「暗」かはその人の捉え方次第であろう。以前に私が紹介した「塩尻」に若干プロジェクトが似ている感があるが、この筑肥線の変貌は「なるべくしてなった変化」であろう。確かに当時の国鉄事情からすれば「英断」であったかも知れないが、やはり鉄道が「山本」「東唐津」「唐津」と分散していた唐津市民にしてみれば、この英断によって唐津駅に統一され、数ある選択肢の中から「鉄道を利用する」という事が比重を大きく占める事になったであろう。一方の「西側」については、ますます「ローカル色」が強くなりさながら「マニア」には気になる存在になってしまった。現在の姿になりもう30年以上経過した。私の訪問時は中学生であったから自然と「世代」がばれてしまうが、当時のこの変貌ぶりを間近で見た事は非常に貴重である。が、しかし変貌前の姿を見れなかったのが残念でならない。その姿を実際に見ようものなら中学2年生以前にタイムスリップしなければならない。
その姿を確認できた方が非常に羨ましい。特にスイッチバック時代の「東唐津」は、小学生時代の私は非常に憧れたものだ。と言うより、こんな小学生は若干「特異」かも知れないが・・・

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(1983年訪問時の姪浜にて。この駅も高架化により大きく変貌。かつての筑肥線時代のイメージは全く感じない。そして何より、地下鉄と相互乗り入れが開始され福岡市中心部と直結されたことが大きい。)
その道中で私は唐津線と筑肥線を制覇する訳だが、筑肥線に関しては電化直後の訪問で、唐津周辺の鉄道景色は劇的な変化をもたらしていた。先述した東唐津の変遷と共に名実ともに「中心」となった唐津駅は高架化され堂々とした佇まいになった。それまでの唐津駅は唐津線の中間駅的な存在に過ぎず「代表駅」のイメージには程遠かった。現在の姿になったのは約30年前で、電化と同時に先述の「呼子線」の一部を筑肥線に組み込み福岡の中心部へのアクセスが飛躍的に向上。更に姪浜から地下鉄と相互乗り入れが開始され、以前とは全く違う形にパワーアップされた。

(「日本三大松原」のひとつ、虹ノ松原の最寄駅として活躍する虹ノ松原駅。何ともロマンチックな駅名だ。画像はウィキペディアより。)
私が唐津駅に到着したのは唐津線であるから当然気動車である。途中の山本ではかつて「東側」の筑肥線も接続しており、さながら「ジャンクション」であった。更にここから「唐津線・岸嶽支線」が分岐しており、それこそ配線が複雑であった事であろう。岸嶽支線は1971年に無くなってしまったが、貨物支線的な役割をしていて後に旅客営業も始めた。いわゆる「炭鉱で栄えた」という経緯であるが、時代と共にその役目を終えた形になった。

(筑肥線と唐津線のジャンクションであった山本駅。かつては岸嶽支線も分岐しておりまさに「ジャンクション」であった。現在は筑肥「西線」のみを分岐し唐津線の駅として活躍。画像はウィキペディアより。)
そんな山本駅では筑肥線の「西側」の路線が唐津線を南側でオーバークロスする形になっているのはかつての名残であるが、その「西側」に関してはローカル色豊かな路線である。時刻表の地図上では「幹線」で区分されているのが不思議なくらいであり、新しいレールファンにしてみたらマギー司郎張りの「マジック」ではなかろうか・・・
そしてこの「西側」については、私のブログと相互リンクさせていただいている「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人様においては「メッカ」である。特に「西相知」においては特段のこだわりや思い入れがしっかりと表現されており、是非ご確認いただきたい思いである。1983年の訪問時には全くのノーマークであったが、現在になってこの筑肥線の「西側」が煌めいてきた。

(「西側」に所属する西相知はかつて交換設備があった。現在は棒線化され寂しいが、ここは私のブログと相互リンクさせていただいてる「LM徒然草 ~駅のある風景~」の管理人でいらっしゃるLM様の「メッカ」でもある。画像はウィキペディアより。)
そして「東側」であるがなんといっても電化と同時に激変し、姪浜~博多間が廃止され同区間が地下鉄化された。私が訪問した時は真新しい2面4線のホームに地下鉄車両がお目見え。普通にローカル線のイメージしかなかった筑肥線がこれほどまでに激変したものかと目を疑ってしまった。時間の関係から旧・姪浜駅への訪問はできなかったが、全く似ても似つかなかったであろう。地下鉄車両は筑前前原まで乗り入れてくるので非常に便利になった印象だ。同じ路線でありながらこれほど明暗が分かれた実例も珍しいであろう。

(1983年訪問時の西側の終点「伊万里」。現在は周知の通り「松浦線」は第三セクターとして第二の人生を歩んでいる。)
もちろんどちらが「明」でどちらが「暗」かはその人の捉え方次第であろう。以前に私が紹介した「塩尻」に若干プロジェクトが似ている感があるが、この筑肥線の変貌は「なるべくしてなった変化」であろう。確かに当時の国鉄事情からすれば「英断」であったかも知れないが、やはり鉄道が「山本」「東唐津」「唐津」と分散していた唐津市民にしてみれば、この英断によって唐津駅に統一され、数ある選択肢の中から「鉄道を利用する」という事が比重を大きく占める事になったであろう。一方の「西側」については、ますます「ローカル色」が強くなりさながら「マニア」には気になる存在になってしまった。現在の姿になりもう30年以上経過した。私の訪問時は中学生であったから自然と「世代」がばれてしまうが、当時のこの変貌ぶりを間近で見た事は非常に貴重である。が、しかし変貌前の姿を見れなかったのが残念でならない。その姿を実際に見ようものなら中学2年生以前にタイムスリップしなければならない。
その姿を確認できた方が非常に羨ましい。特にスイッチバック時代の「東唐津」は、小学生時代の私は非常に憧れたものだ。と言うより、こんな小学生は若干「特異」かも知れないが・・・

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