究極の加太越え
2014-06-07
1982年3月、国鉄から新しく発売された「青春18のびのびきっぷ」は今までの概念を覆す斬新な切符として登場した。別料金の発生しない列車(要するに普通列車や快速列車)に乗り降り自由、駅の改札を通過するのも「フリーパス」と、何とも常識破りな切符にただただ私は驚くばかりであった。当時は「いい旅チャレンジ20000km」なる国鉄全線乗り潰しが一般的に流行っていたため更に追い打ちをかけるような切符であった。

(下車印がほとんど無いに等しいのは寂しいが、当時は「のびのびきっぷ」という名前であった。)
2014年現在でもその「18きっぷ」は健在で、筒石駅などに行けば「常備券」が購入できると聞く。そんな切符が出てきたからには使わない手は無い。当時中学1年生から2年生へのステップアップの春休みでの旅である。当時、私の所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」ではそのような情報を受けたからには、旅に出ないわけにはいかない!と言う事で、クラブのメンバー男5人で行く事になったが、子供ばかりでは行かせられないと顧問の教諭も参戦し計6人での旅となった。だが色気が無い・・・私の「鉄道」と言う名の概念では「女性」が全くないのだ。現在は「鉄子」なるカテゴリーが存在し女性のレールファンも珍しくなくなってきたが、とにかく私の場合は女性のレールファンという概念が当時は全くなかった。現在は女性ものびのびとレールを楽しんでいるように思う。

(1982年3月、関西本線の旧型客車に揺られ富田浜に着いた。列車交換の為少々停車時間があったのでホームに降りてみたが、とても名古屋近郊とは思えない風景であった。)
さて、1982年3月に発売された「18」をどのように使うか、レールファンとしては試す意味と「いい旅チャレンジ~」の制覇路線消化作業とで実に経済的に乗りつぶす事が出来るのが魅力に映った。中学のクラブ活動では選ばれた5人が(と言っても誰が選んだわけでもないが)それぞれの想いを胸に抱き「大垣夜行」で西へ向かった。
私たちは名古屋で下車した。乗り換える関西本線の列車はDLが牽引する旧型客車の編成だ。新しいレールファンには信じられないであろうが、約30年前の関西本線名古屋口ではそんな景色が見られた。とは言え私が訪問したのは3月。5月には名古屋~亀山間の電化が決定している。そう、私は電化直前に訪問していたのだ。実は同じ年の8月にもこの区間を訪問している。つまり電化直前と直後に訪問した事になる。
今回の紹介は電化直前であるが、やはり開業直前とあって各駅のホームが嵩上げされていた。既に架線も敷かれていていつ113系(115系)が運転されてもおかしくない状況であった。

(同じく富田浜にて、私たちが乗車した名古屋発亀山行普通列車。ご覧の通り、電化直前の為嵩上げされたホームが真新しい。架線も敷かれいよいよ電化開業が近づいた雰囲気であった。)
弥富や桑名を通るが、なぜか通勤時間帯のにぎやかさが無い。四日市もそうだが、特に桑名ではお隣の近鉄のにぎやかなホームとはまるで別の空間であった。名古屋近郊でありながらのんびりとした時間が過ぎていくが、私は当時中学生。その辺の事情はあまりよくわからず、ただただ客車列車の雰囲気を楽しむに過ぎなかった。と言うより客車列車の意味もそれほど分かっていなかったと思う。何しろこういう旅は人生初であるから・・・
亀山で天王寺方面への列車に乗り換えるがこちらも非電化の為相模線でお馴染みのDCがお出迎えであった。この関西本線で私が一番楽しみにしていたのは「加太越え」であった。古くから人々の往来があり、鉄道が開通した現在でも難所として知られ、途中「中在家信号場」があるのはレールファンの間では有名だ。現在は北海道の「常紋」と共に使用停止状態の中在家であるが当時は立派な信号場として機能しており列車交換も当然行われていた。しかし一般的に考えたら「中在家」などあまりにもマニアック過ぎるが、私にしてみたら、小学生くらいからコロタン文庫の「駅名全百科」を見てこの中在家は特別な存在であったので、この中在家に近付くにつれもうワクワクものであった。とは言え「駅」ではないので乗降が出来ないし列車交換でもない限り停車もしない。残念ながら列車交換は無かったが、しっかりと中在家を収めることに成功した。

(小学校時代から憧れていた中在家。「憧れ」とは、全くもって変な小学生だ。)
スイッチバックの信号場はこの地区においては大変珍しい存在であるが、珍しいというだけでなく大変煌めく存在であった。しかし現在はその「珍しい存在」も役目を終えようとしている。いや、既に終えてしまった。この後私たちは弧を描く柘植駅のホームに降り立った。草津線に乗り換え信楽線を目指すのだが・・・
柘植駅のホームでやや後ろを振り返る時間が多かった。他のメンバーは次の草津線に気持ちを持って行かれているが・・・ハッキリ言って当時は子供であったが、過ぎてきた中在家が気になって仕方が無かった。「もう一度訪問したい・・・」中在家が引き付ける魅力はいったい何なのであろう。中学生の少年が夢中になってしまう存在(と言っても私だけかも知れないが)。このブログをご覧になっている皆様、中在家信号場をどういう存在で見つめているのであろう。もしかしたら存在すら知らないかもしれない。しかしながら、このスイッチバックがかつての関西本線の「難所」であった事を現在も無言で語りかけているような気がする。

(1981年加太~関での気動車はリンクさせていただいているミックスマテリアル様のホームページ「昔訪ねた気動車ローカル線」より。現在の概念からはこの区間での長編成は全く考えられないが「ローカル」という風情が良く出ている。)
最近ブログを始めてからこうした「昔」を振り返る時間が多くなった。特にこうした子供時代の旅など懐かしさ満点でブログにはやや良い事ばかりを公開しているが決してそればかりではない。もちろんそれは私だけではないであろう。それでも私は運が良かったのかそれほどのトラブルもなく順調に旅ができた。
「人生の旅」もこうした「加太越え」のような難所がこれからも私、そしてこのブログをご覧の皆様にも待ち受けている事であろう。「天に軌道のある如く、人はそれぞれ運勢をというものを持っております。」などとどこかの映画で聞いた「口上」であるが、もし自身の歩む人生の道で「難所」が現れた時に「中在家」のような存在がもしあったとしたら私は救われるような気がする。と言うより、自分自身がその「中在家」を見つけなければならないのかも知れない。そして中在家でうまく列車交換ができたとき、次のステップがさらなる幸運を呼ぶことであろう気がする。

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(下車印がほとんど無いに等しいのは寂しいが、当時は「のびのびきっぷ」という名前であった。)
2014年現在でもその「18きっぷ」は健在で、筒石駅などに行けば「常備券」が購入できると聞く。そんな切符が出てきたからには使わない手は無い。当時中学1年生から2年生へのステップアップの春休みでの旅である。当時、私の所属していたクラブ活動「鉄道研究クラブ」ではそのような情報を受けたからには、旅に出ないわけにはいかない!と言う事で、クラブのメンバー男5人で行く事になったが、子供ばかりでは行かせられないと顧問の教諭も参戦し計6人での旅となった。だが色気が無い・・・私の「鉄道」と言う名の概念では「女性」が全くないのだ。現在は「鉄子」なるカテゴリーが存在し女性のレールファンも珍しくなくなってきたが、とにかく私の場合は女性のレールファンという概念が当時は全くなかった。現在は女性ものびのびとレールを楽しんでいるように思う。

(1982年3月、関西本線の旧型客車に揺られ富田浜に着いた。列車交換の為少々停車時間があったのでホームに降りてみたが、とても名古屋近郊とは思えない風景であった。)
さて、1982年3月に発売された「18」をどのように使うか、レールファンとしては試す意味と「いい旅チャレンジ~」の制覇路線消化作業とで実に経済的に乗りつぶす事が出来るのが魅力に映った。中学のクラブ活動では選ばれた5人が(と言っても誰が選んだわけでもないが)それぞれの想いを胸に抱き「大垣夜行」で西へ向かった。
私たちは名古屋で下車した。乗り換える関西本線の列車はDLが牽引する旧型客車の編成だ。新しいレールファンには信じられないであろうが、約30年前の関西本線名古屋口ではそんな景色が見られた。とは言え私が訪問したのは3月。5月には名古屋~亀山間の電化が決定している。そう、私は電化直前に訪問していたのだ。実は同じ年の8月にもこの区間を訪問している。つまり電化直前と直後に訪問した事になる。
今回の紹介は電化直前であるが、やはり開業直前とあって各駅のホームが嵩上げされていた。既に架線も敷かれていていつ113系(115系)が運転されてもおかしくない状況であった。

(同じく富田浜にて、私たちが乗車した名古屋発亀山行普通列車。ご覧の通り、電化直前の為嵩上げされたホームが真新しい。架線も敷かれいよいよ電化開業が近づいた雰囲気であった。)
弥富や桑名を通るが、なぜか通勤時間帯のにぎやかさが無い。四日市もそうだが、特に桑名ではお隣の近鉄のにぎやかなホームとはまるで別の空間であった。名古屋近郊でありながらのんびりとした時間が過ぎていくが、私は当時中学生。その辺の事情はあまりよくわからず、ただただ客車列車の雰囲気を楽しむに過ぎなかった。と言うより客車列車の意味もそれほど分かっていなかったと思う。何しろこういう旅は人生初であるから・・・
亀山で天王寺方面への列車に乗り換えるがこちらも非電化の為相模線でお馴染みのDCがお出迎えであった。この関西本線で私が一番楽しみにしていたのは「加太越え」であった。古くから人々の往来があり、鉄道が開通した現在でも難所として知られ、途中「中在家信号場」があるのはレールファンの間では有名だ。現在は北海道の「常紋」と共に使用停止状態の中在家であるが当時は立派な信号場として機能しており列車交換も当然行われていた。しかし一般的に考えたら「中在家」などあまりにもマニアック過ぎるが、私にしてみたら、小学生くらいからコロタン文庫の「駅名全百科」を見てこの中在家は特別な存在であったので、この中在家に近付くにつれもうワクワクものであった。とは言え「駅」ではないので乗降が出来ないし列車交換でもない限り停車もしない。残念ながら列車交換は無かったが、しっかりと中在家を収めることに成功した。

(小学校時代から憧れていた中在家。「憧れ」とは、全くもって変な小学生だ。)
スイッチバックの信号場はこの地区においては大変珍しい存在であるが、珍しいというだけでなく大変煌めく存在であった。しかし現在はその「珍しい存在」も役目を終えようとしている。いや、既に終えてしまった。この後私たちは弧を描く柘植駅のホームに降り立った。草津線に乗り換え信楽線を目指すのだが・・・
柘植駅のホームでやや後ろを振り返る時間が多かった。他のメンバーは次の草津線に気持ちを持って行かれているが・・・ハッキリ言って当時は子供であったが、過ぎてきた中在家が気になって仕方が無かった。「もう一度訪問したい・・・」中在家が引き付ける魅力はいったい何なのであろう。中学生の少年が夢中になってしまう存在(と言っても私だけかも知れないが)。このブログをご覧になっている皆様、中在家信号場をどういう存在で見つめているのであろう。もしかしたら存在すら知らないかもしれない。しかしながら、このスイッチバックがかつての関西本線の「難所」であった事を現在も無言で語りかけているような気がする。

(1981年加太~関での気動車はリンクさせていただいているミックスマテリアル様のホームページ「昔訪ねた気動車ローカル線」より。現在の概念からはこの区間での長編成は全く考えられないが「ローカル」という風情が良く出ている。)
最近ブログを始めてからこうした「昔」を振り返る時間が多くなった。特にこうした子供時代の旅など懐かしさ満点でブログにはやや良い事ばかりを公開しているが決してそればかりではない。もちろんそれは私だけではないであろう。それでも私は運が良かったのかそれほどのトラブルもなく順調に旅ができた。
「人生の旅」もこうした「加太越え」のような難所がこれからも私、そしてこのブログをご覧の皆様にも待ち受けている事であろう。「天に軌道のある如く、人はそれぞれ運勢をというものを持っております。」などとどこかの映画で聞いた「口上」であるが、もし自身の歩む人生の道で「難所」が現れた時に「中在家」のような存在がもしあったとしたら私は救われるような気がする。と言うより、自分自身がその「中在家」を見つけなければならないのかも知れない。そして中在家でうまく列車交換ができたとき、次のステップがさらなる幸運を呼ぶことであろう気がする。

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