題名の無い鉄道旅 part2 奥久慈風っ子号④
2023-08-12
水郡線制覇の旅であるが、臨時列車の恩恵も受けまた違った価値観が産まれてくる事に気づいた。いままではこうした臨時列車やイベント列車にはあまり縁が無かったイメージの私であるが、平成になり、そして国鉄からJRに変わり世の中の仕組みや風景も一段と変化してくる。ただひとり、変わっていないのは浦島太郎状態の私だけであろうか。水郡線は観光スポットで有名な袋田も通るが、そのような滝など目もくれずに上菅谷で乗り換え常陸太田へ向かうあたり、やはり昔と変わっていないのであろう。

一応「快速」の表示があった「奥久慈風っこ号」であるが、この後、快速という名のスピードだとかえって困りそうな光景が見えてくる。「快速」という格付けにも鉄道会社によって解釈が多彩であり、JRでは普通列車と急行列車の間で、指定席券以外に快速料金等の特別な料金が基本発生しない列車である。ただ、停車駅の数やパターンでは鉄道会社により特急より格上だったりする場面も多く、日本の鉄道会社による快速の位置付けを追求していくだけでも面白いかも知れない。
上菅谷に着くと、早速常陸太田方面への乗り換え準備を始めた。水戸まで行く「風っ子」を見送り、そしてまもなく私は常陸太田へ向かった。風っ子からの乗り換え客は私たちが唯一あったが、水戸方面から来た常陸太田行きにはそれなりに乗客がいたのでさすがと思ったが、常陸太田に到着したらその意味が何となくわかった気がした。


つまり「風っこ」とはトロッコ風の列車である事が判明した。雨の日にはどうするんだ~とかスピード出したままトンネル入ったらどうなるんだ~とか考えてはいけない。一応「快速」を名乗っているが、あまりスピードを出してはいけないイメージである。
というのも、かつてこの地には日立電鉄が乗り入れており「常北太田」と名乗り駅が隣接していた。私がこの時に見た光景は既に廃止後であったが、レールが剥がされ砂利と駅舎のみがそのまま残った状態であった。もう少しレールファンの復活が早ければ、私も日立電鉄の最終に間に合ったであろう。だが、残念ながらアフターザフェスティバルであった。もったいない事をしてしまったが、我々の記憶より消えることはないであろう。

車内では終始和やかなムードが流れていた。こうした雰囲気なら一般に混ざってのレールファンでは無く、堂々としたレールファンとして活動する事ができるのが最大のメリットである。
そんな哀愁漂う風景を後に水戸へ向かった私は、普段の列車で普段の風景を眺めながら普段の生活へと戻っていった。ただ、こうして「普段」があるということは実に素晴らしい。だが、その素晴らしい普段には「前提」がある事を改めて教えてくれた。
奥久慈を離れ、いつしか景色が更に普段になってきた。もちろん、東京を越え湘南方面に着く頃には更にその風景は深くなる事であろう。

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一応「快速」の表示があった「奥久慈風っこ号」であるが、この後、快速という名のスピードだとかえって困りそうな光景が見えてくる。「快速」という格付けにも鉄道会社によって解釈が多彩であり、JRでは普通列車と急行列車の間で、指定席券以外に快速料金等の特別な料金が基本発生しない列車である。ただ、停車駅の数やパターンでは鉄道会社により特急より格上だったりする場面も多く、日本の鉄道会社による快速の位置付けを追求していくだけでも面白いかも知れない。
上菅谷に着くと、早速常陸太田方面への乗り換え準備を始めた。水戸まで行く「風っ子」を見送り、そしてまもなく私は常陸太田へ向かった。風っ子からの乗り換え客は私たちが唯一あったが、水戸方面から来た常陸太田行きにはそれなりに乗客がいたのでさすがと思ったが、常陸太田に到着したらその意味が何となくわかった気がした。


つまり「風っこ」とはトロッコ風の列車である事が判明した。雨の日にはどうするんだ~とかスピード出したままトンネル入ったらどうなるんだ~とか考えてはいけない。一応「快速」を名乗っているが、あまりスピードを出してはいけないイメージである。
というのも、かつてこの地には日立電鉄が乗り入れており「常北太田」と名乗り駅が隣接していた。私がこの時に見た光景は既に廃止後であったが、レールが剥がされ砂利と駅舎のみがそのまま残った状態であった。もう少しレールファンの復活が早ければ、私も日立電鉄の最終に間に合ったであろう。だが、残念ながらアフターザフェスティバルであった。もったいない事をしてしまったが、我々の記憶より消えることはないであろう。

車内では終始和やかなムードが流れていた。こうした雰囲気なら一般に混ざってのレールファンでは無く、堂々としたレールファンとして活動する事ができるのが最大のメリットである。
そんな哀愁漂う風景を後に水戸へ向かった私は、普段の列車で普段の風景を眺めながら普段の生活へと戻っていった。ただ、こうして「普段」があるということは実に素晴らしい。だが、その素晴らしい普段には「前提」がある事を改めて教えてくれた。
奥久慈を離れ、いつしか景色が更に普段になってきた。もちろん、東京を越え湘南方面に着く頃には更にその風景は深くなる事であろう。

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題名の無い鉄道旅 part2 奥久慈風っ子号③
2023-08-05
郡山でいよいよ水郡線に乗り換える。郡山からの水郡線は、普段は設定されていない臨時列車で常陸大子まで向かう事になっている。常陸大子より「奥久慈風っ子号」に乗るわけであるが、奥久慈風っ子号の運転日にやや合わせて運転される普通列車のため、ただでさえ運転本数が少ないのだから乗り遅れるわけにはいかない。
私は同行している妻に「先に行って席を取っておくから」と、東北本線の列車を降りた瞬間から水郡線に向けダッシュし始めたのであった。

かつて水郡線で運用されていたキハ110。現在、水郡線での運用は無くなり貴重な画像となってしまったが、JR化後に製造された車両であるため私にしてみたら新しい部類に感じる。とはいえ、初登場より既に30年以上経過しており、今後の進退が注目される事になるであろう。
とりあえず座席は確保できたが妻がなかなかやって来ない。もちろん携帯電話を持っているのでかけてみたが出ない。後から気付いたが、妻の携帯電話は私が妻の荷物と一緒に持っていたので出るわけがない。列車の出発時間が迫るなか、ようやく妻がやって来た。何でも水郡線の乗り場がわからなかったらしい。一応妻には「水郡線」と伝えてあったのでそれを頼りに駅員などに聞いたらしいが、水郡線の発着ホームである4番線がなかなか見つからない。3番線の次が5番線で、4番線は切り欠きホームとなる特殊構造であるので、鉄道素人の妻には4番線を探すのにものすごい労力があったそうだ。何とか間に合い無事郡山に別れを告げたが、まさかこんな所に落とし穴があるとは思いもしなかった。やはり中学の頃のような鉄道仲間と旅するのとは勝手が違う。私はある意味反省をしながら奥久慈の山深い風景を眺めていた。

そしてこちらが現在水郡線で運用されているキハE130と名乗っている車両である。JR化後の車両については申し訳ないが、形式等の番号では即座に「こんな車両だ」と頭に浮かばなく、しかも「E」などアルファベットが付属しているから尚更馴染みが無かった。だが、車内はもちろん新しく清潔感が漂っていたので、昔の水郡線のようなイメージは少ない。郡山での撮影であるが、この時に事件が起こった・・・
常陸大子に着くと暫くして「奥久慈風っ子号」が入線してきた。SLが似合いそうな水郡線の風景であるが、やって来た列車はひと目でわかる国鉄車両で、トロッコ風に改造されたDCである。時間が逆戻りし一気に国鉄モードとなった私は、少年時代に戻ったかのように、アナログカメラを被写体に向けていた。

常陸大子よりいよいよ「奥久慈風っこ号」に乗車する。私にとっては見慣れた車両であったが、ある意味塗装がJRらしくそれほど違和感を感じなかった。だが、列車が入線すると、そのイメージはものすごい勢いで覆されたのであった。
記憶は曖昧だが、こうしたイベント的な臨時列車に乗車するのは恐らくこの時が初めてであろう私であるが、普段の鉄道旅で駅や列車内外の撮影においては一般の乗客もいるためやや気を使ったり、時には「変なおじさん」と間違えられたら嫌だなと撮影をためらう場面も少なくない。しかし、こうしたイベント的列車はある意味周りも「同業者」のため堂々と撮影できるのが良い。解放されたウインドウも何故だかいつもより心地よい風が入ってくる。文字通り風になびかされながら時を忘れてしまいそうな鉄道風景に、持参した缶酎ハイの数がいつしか減る速度が早まっていた。

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私は同行している妻に「先に行って席を取っておくから」と、東北本線の列車を降りた瞬間から水郡線に向けダッシュし始めたのであった。

かつて水郡線で運用されていたキハ110。現在、水郡線での運用は無くなり貴重な画像となってしまったが、JR化後に製造された車両であるため私にしてみたら新しい部類に感じる。とはいえ、初登場より既に30年以上経過しており、今後の進退が注目される事になるであろう。
とりあえず座席は確保できたが妻がなかなかやって来ない。もちろん携帯電話を持っているのでかけてみたが出ない。後から気付いたが、妻の携帯電話は私が妻の荷物と一緒に持っていたので出るわけがない。列車の出発時間が迫るなか、ようやく妻がやって来た。何でも水郡線の乗り場がわからなかったらしい。一応妻には「水郡線」と伝えてあったのでそれを頼りに駅員などに聞いたらしいが、水郡線の発着ホームである4番線がなかなか見つからない。3番線の次が5番線で、4番線は切り欠きホームとなる特殊構造であるので、鉄道素人の妻には4番線を探すのにものすごい労力があったそうだ。何とか間に合い無事郡山に別れを告げたが、まさかこんな所に落とし穴があるとは思いもしなかった。やはり中学の頃のような鉄道仲間と旅するのとは勝手が違う。私はある意味反省をしながら奥久慈の山深い風景を眺めていた。

そしてこちらが現在水郡線で運用されているキハE130と名乗っている車両である。JR化後の車両については申し訳ないが、形式等の番号では即座に「こんな車両だ」と頭に浮かばなく、しかも「E」などアルファベットが付属しているから尚更馴染みが無かった。だが、車内はもちろん新しく清潔感が漂っていたので、昔の水郡線のようなイメージは少ない。郡山での撮影であるが、この時に事件が起こった・・・
常陸大子に着くと暫くして「奥久慈風っ子号」が入線してきた。SLが似合いそうな水郡線の風景であるが、やって来た列車はひと目でわかる国鉄車両で、トロッコ風に改造されたDCである。時間が逆戻りし一気に国鉄モードとなった私は、少年時代に戻ったかのように、アナログカメラを被写体に向けていた。

常陸大子よりいよいよ「奥久慈風っこ号」に乗車する。私にとっては見慣れた車両であったが、ある意味塗装がJRらしくそれほど違和感を感じなかった。だが、列車が入線すると、そのイメージはものすごい勢いで覆されたのであった。
記憶は曖昧だが、こうしたイベント的な臨時列車に乗車するのは恐らくこの時が初めてであろう私であるが、普段の鉄道旅で駅や列車内外の撮影においては一般の乗客もいるためやや気を使ったり、時には「変なおじさん」と間違えられたら嫌だなと撮影をためらう場面も少なくない。しかし、こうしたイベント的列車はある意味周りも「同業者」のため堂々と撮影できるのが良い。解放されたウインドウも何故だかいつもより心地よい風が入ってくる。文字通り風になびかされながら時を忘れてしまいそうな鉄道風景に、持参した缶酎ハイの数がいつしか減る速度が早まっていた。

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題名の無い鉄道旅 part2 奥久慈風っ子号③
2023-07-29
横須賀線が東京方面へ向かう際に大船から先、東海道貨物線を利用し(実際は線路を増設し)横浜羽沢方面から新鶴見を経由し品川へと向かうルートになるため、一旦東海道線を乗り越えなければならない。それを大船~保土ヶ谷間で実現させ、大船~戸塚間で上り線が、戸塚~保土ヶ谷間で下り線が乗り越える形を取り、間にある戸塚にホームを新設して方向別の乗換駅として活用させたのだ。文章だと伝わりにくいので前章で芸術的な図を記したが、このプロジェクトにより戸塚は東海道線が停車するようになり乗換駅として活用されるようになったのだ。


戸塚の駅周辺はかなり整備された。市営地下鉄も乗り入れるようになり益々利用者が増えたが、東海道線と横須賀線の乗り換え駅としての機能もしっかりと活かされている。
かつて戸塚では、東京寄りのホーム先端部に「開かずの踏切」があり、さらに小田原寄りには川がながれており、ホームが川の上まで延長されており改良の苦労が伺えたが、現在は開かずの踏切は解消され駅前もスッキリした。
奥久慈風っ子号の紹介のはずなのに東海道線でかなりのスペースを割いてしまったが、この東海道線と横須賀線の分離運転は私にとって非常に大きな革命として子供心を揺さぶられた事件であった。

戸塚の改良により、現在では乗り入れる列車もバラエティになった。総武線・横須賀線直通運転開始当時、大船に「わかしお」等の特急が乗り入れる風景が実に新鮮であったが、現在はこうした活用も出てきた。ブログに載せるような写真では無く申し訳ないが・・・
その分離運転のタイミングで戸塚~保土ヶ谷間に新しく東戸塚が開設されたが、開設前は山深く発展途上の雰囲気満載で、本当に駅ができるのかと、駅設置予定の看板がやたら眩しかった印象であった。開設後も暫くは発展途上の風景が続きかつての新百合ヶ丘的なイメージであったが、現在は周知の通り、以前のイメージなど全く無いくらいに成長した。
そんな思い出深い風景を眺めながら、昭和の国鉄時代にのように、律儀に東京まで東海道線をのり山手線又は京浜東北線に乗り換え上野まで出て、13番線ではないものの地上ホームの15番線辺りから出る東北本線普通列車に乗り換える。
「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、可能な限り「18」で乗れる列車を使い黒磯までやって来た。レールファンはご存じであるかと思われるが、黒磯は交流、直立電化区間の境界線であり、国鉄時代で黒磯から先の東北本線では交流機関車が牽引する旧型客車による普通列車が頻繁に運転されていた。そのため、東北新幹線開業当時は福島や郡山辺りでは既に新幹線と旧型客車による共演が当たり前の時代であったのだ。

湘南新宿ラインの活用により、東海道線からこのような駅へ乗り換えなしで行けるようになったのは実に新鮮であり驚きでもあった。逆に言うと、茅ヶ崎あたりから東京方面へ向かう際、しっかりと行き先と経由を確認しないと、例えば寝過ごしてしまった場合、とんでもない駅で目が覚める可能性があるであろう。
私が福島は飯坂温泉で自動車免許の合宿が終了して帰郷する際、交通費の節約のため普通列車のみで帰郷した。もちろん、それまでの数々の経験からそのような行動は既に慣れたものであったが、当時はレールファン休業中であったので、写真などの記録は全くしていなかった。今思えば残念でもあるが、その際も黒磯まで旧型客車に揺られ帰郷したのたがからとても思い出深い。
水郡線一路線を制覇するだけなのに、そのプロセスで色々な思い出が甦ってくる。やはりあえてこのような表現をするが、汽車旅は良い!などと思い出に浸っていたら、とんでもないちょっとした事件がおこったのだ。

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戸塚の駅周辺はかなり整備された。市営地下鉄も乗り入れるようになり益々利用者が増えたが、東海道線と横須賀線の乗り換え駅としての機能もしっかりと活かされている。
かつて戸塚では、東京寄りのホーム先端部に「開かずの踏切」があり、さらに小田原寄りには川がながれており、ホームが川の上まで延長されており改良の苦労が伺えたが、現在は開かずの踏切は解消され駅前もスッキリした。
奥久慈風っ子号の紹介のはずなのに東海道線でかなりのスペースを割いてしまったが、この東海道線と横須賀線の分離運転は私にとって非常に大きな革命として子供心を揺さぶられた事件であった。

戸塚の改良により、現在では乗り入れる列車もバラエティになった。総武線・横須賀線直通運転開始当時、大船に「わかしお」等の特急が乗り入れる風景が実に新鮮であったが、現在はこうした活用も出てきた。ブログに載せるような写真では無く申し訳ないが・・・
その分離運転のタイミングで戸塚~保土ヶ谷間に新しく東戸塚が開設されたが、開設前は山深く発展途上の雰囲気満載で、本当に駅ができるのかと、駅設置予定の看板がやたら眩しかった印象であった。開設後も暫くは発展途上の風景が続きかつての新百合ヶ丘的なイメージであったが、現在は周知の通り、以前のイメージなど全く無いくらいに成長した。
そんな思い出深い風景を眺めながら、昭和の国鉄時代にのように、律儀に東京まで東海道線をのり山手線又は京浜東北線に乗り換え上野まで出て、13番線ではないものの地上ホームの15番線辺りから出る東北本線普通列車に乗り換える。
「18」のため乗車できる列車が制限されてしまうが、可能な限り「18」で乗れる列車を使い黒磯までやって来た。レールファンはご存じであるかと思われるが、黒磯は交流、直立電化区間の境界線であり、国鉄時代で黒磯から先の東北本線では交流機関車が牽引する旧型客車による普通列車が頻繁に運転されていた。そのため、東北新幹線開業当時は福島や郡山辺りでは既に新幹線と旧型客車による共演が当たり前の時代であったのだ。

湘南新宿ラインの活用により、東海道線からこのような駅へ乗り換えなしで行けるようになったのは実に新鮮であり驚きでもあった。逆に言うと、茅ヶ崎あたりから東京方面へ向かう際、しっかりと行き先と経由を確認しないと、例えば寝過ごしてしまった場合、とんでもない駅で目が覚める可能性があるであろう。
私が福島は飯坂温泉で自動車免許の合宿が終了して帰郷する際、交通費の節約のため普通列車のみで帰郷した。もちろん、それまでの数々の経験からそのような行動は既に慣れたものであったが、当時はレールファン休業中であったので、写真などの記録は全くしていなかった。今思えば残念でもあるが、その際も黒磯まで旧型客車に揺られ帰郷したのたがからとても思い出深い。
水郡線一路線を制覇するだけなのに、そのプロセスで色々な思い出が甦ってくる。やはりあえてこのような表現をするが、汽車旅は良い!などと思い出に浸っていたら、とんでもないちょっとした事件がおこったのだ。

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題名の無い鉄道旅 part2 奥久慈風っ子号②
2023-07-22
今回は厚木から相模線の始発でスタートする旅であるが、現在は都合の良い始発駅まで自家用車で行けるようになった。国鉄時代に比べたらかなり私の旅のスタイルも変化して融通が効くようになった。国鉄時代は相模線の西寒川か寒川より出発が当たり前であり、寒川「駅」までは自転車で行かなければならなかった。現在のように厚木や海老名など、行き先によって自在に変化させるような事は考えられなかったが、こうして自身の成長と共に変化していくのもまた素晴らしいではないか。
そんな私であるが、茅ヶ崎より東海道線で東京まで出て京浜東北線を間に挟み上野より東北本線で宇都宮方面へ向かう辺り、全く成長していないのがお分かりいただけるであろう。恐らく当時は湘南新宿ラインも開通していたはずだし、なぜ戸塚や大船辺りで乗り換えなかったのかと思ってしまうが、やはり昔からのクセが抜けないのと、上野より乗車すれば座れるという計算があったのだ。その思惑はズバリ的中し、私の計算に一寸の狂いもなく上野より無事座って宇都宮方面へと向かうことが出来たのだ。

ダイナミック✡トナカイ(中学時代の後輩)が撮影した写真を拝借させていただいた。1982年~1983年ころに大船で撮影された横須賀線と東海道線のツーショットである。ご覧の通り、首都圏では路線によってレールが敷かれているため、同じ方向でも跨線橋を使う乗り換えが発生する場面が多い。この不便な状況を少しでも和らげようと、戸塚で同一ホームによる方向別の乗り換えに切り替える事により跨線橋を使わない乗り換えを事を実現させた。
そういえば最近、義理の妹が約3年ぶりくらいに千葉から帰郷するということで子供達を引き連れ、実家のある茅ヶ崎へと来ることになった。周知の通り、現在は総武線と横須賀線は直通運転を行っており、神奈川から千葉方面へは乗り換え無しで行き来できる。直通運転になったのは昭和55年であるから、それをリアリタイムで知っているという事は世代がバレてしまいそうであるが、この直通運転には利用者の乗り換えを配慮したある細工があったのだ。
東海道線と横須賀線を乗り換える際に、首都圏では方向別運転ではなく路線別運転であるため、例えば東海道線対横須賀線や京浜東北線などへの乗り換えは必ず跨線橋を使わなければならないというデメリットが発生する。これは歴史が古く、継ぎ足し継ぎ足しで増線を繰り返してきた首都圏の特徴といっても過言ではない。たが、この「階段を使う乗り換え」を少しでも緩和しようと、東海道線と横須賀線の分離運転の際にある秘策か実行されていたのだ。

文面での説明よりもと思い、大船~戸塚の関係を記してみた。大変芸術的な略図で申し訳ないが大船~東戸塚間で横須賀線が東海道線を右から左に越える際に、戸塚を挟み上下線を分けて越線させる事で戸塚での方向別運転と乗り換えを実現させた。これにより、戸塚は東京~大船間で唯一、跨線橋を使わない乗り換えができる駅となった。
実際は戸塚の茅ヶ崎寄りに東海道線と横須賀線のダブルクロスがあり、これにより東海道線と横須賀線両者の乗り入れが実現している。
というのも、かつて横須賀線は大船より東海道線に乗り入れ東京の地上にある東海道線ホームまで運転されていた。それを大船より別途線路を敷き、戸塚より先は東海道貨物線に寄り添う形で品川に向かい、品川から新たに地下へ線路を新設し、東京に新しく出来た総武線の地下ホームへとつなぐ事で、東海道線と横須賀線の分離運転が実現し現在に至るという事である。
その一大プロジェクトの中に戸塚に島式ホームを一本増設して方向別で東海道線と横須賀線を同一ホームに停車させれば両者の乗り換えは階段を使わずに済むイメージも組み込まれており、唯一、階段を使わずに乗り換えられる駅として設定されたのだ。
実際に私が物心付いた頃には、東海道線で戸塚を通ると既に新しいホームが完成形に近かった横を通過していった記憶であった。そう、かつて東海道線は、戸塚は通過駅だったのた。

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そんな私であるが、茅ヶ崎より東海道線で東京まで出て京浜東北線を間に挟み上野より東北本線で宇都宮方面へ向かう辺り、全く成長していないのがお分かりいただけるであろう。恐らく当時は湘南新宿ラインも開通していたはずだし、なぜ戸塚や大船辺りで乗り換えなかったのかと思ってしまうが、やはり昔からのクセが抜けないのと、上野より乗車すれば座れるという計算があったのだ。その思惑はズバリ的中し、私の計算に一寸の狂いもなく上野より無事座って宇都宮方面へと向かうことが出来たのだ。

ダイナミック✡トナカイ(中学時代の後輩)が撮影した写真を拝借させていただいた。1982年~1983年ころに大船で撮影された横須賀線と東海道線のツーショットである。ご覧の通り、首都圏では路線によってレールが敷かれているため、同じ方向でも跨線橋を使う乗り換えが発生する場面が多い。この不便な状況を少しでも和らげようと、戸塚で同一ホームによる方向別の乗り換えに切り替える事により跨線橋を使わない乗り換えを事を実現させた。
そういえば最近、義理の妹が約3年ぶりくらいに千葉から帰郷するということで子供達を引き連れ、実家のある茅ヶ崎へと来ることになった。周知の通り、現在は総武線と横須賀線は直通運転を行っており、神奈川から千葉方面へは乗り換え無しで行き来できる。直通運転になったのは昭和55年であるから、それをリアリタイムで知っているという事は世代がバレてしまいそうであるが、この直通運転には利用者の乗り換えを配慮したある細工があったのだ。
東海道線と横須賀線を乗り換える際に、首都圏では方向別運転ではなく路線別運転であるため、例えば東海道線対横須賀線や京浜東北線などへの乗り換えは必ず跨線橋を使わなければならないというデメリットが発生する。これは歴史が古く、継ぎ足し継ぎ足しで増線を繰り返してきた首都圏の特徴といっても過言ではない。たが、この「階段を使う乗り換え」を少しでも緩和しようと、東海道線と横須賀線の分離運転の際にある秘策か実行されていたのだ。

文面での説明よりもと思い、大船~戸塚の関係を記してみた。大変芸術的な略図で申し訳ないが大船~東戸塚間で横須賀線が東海道線を右から左に越える際に、戸塚を挟み上下線を分けて越線させる事で戸塚での方向別運転と乗り換えを実現させた。これにより、戸塚は東京~大船間で唯一、跨線橋を使わない乗り換えができる駅となった。
実際は戸塚の茅ヶ崎寄りに東海道線と横須賀線のダブルクロスがあり、これにより東海道線と横須賀線両者の乗り入れが実現している。
というのも、かつて横須賀線は大船より東海道線に乗り入れ東京の地上にある東海道線ホームまで運転されていた。それを大船より別途線路を敷き、戸塚より先は東海道貨物線に寄り添う形で品川に向かい、品川から新たに地下へ線路を新設し、東京に新しく出来た総武線の地下ホームへとつなぐ事で、東海道線と横須賀線の分離運転が実現し現在に至るという事である。
その一大プロジェクトの中に戸塚に島式ホームを一本増設して方向別で東海道線と横須賀線を同一ホームに停車させれば両者の乗り換えは階段を使わずに済むイメージも組み込まれており、唯一、階段を使わずに乗り換えられる駅として設定されたのだ。
実際に私が物心付いた頃には、東海道線で戸塚を通ると既に新しいホームが完成形に近かった横を通過していった記憶であった。そう、かつて東海道線は、戸塚は通過駅だったのた。

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題名の無い鉄道旅 part2 奥久慈風っ子号①
2023-07-15
国鉄時代を含め、私にとって水郡線は制覇に苦労した路線であった。苦労とはやや語弊がある表現であるが、首都圏在住の私にとって日帰り可能な範囲である水郡線であるのだが、いざ出陣しようとしても適当な切符がなかなか見当たらなかった。「東北ワイド」だとフリー区間から外れてしまい、かといって正規料金だと膨大な金額を請求されてしまう。私が油田でも堀当て大金持ちだったら直ちに正規料金で水郡線を訪れていたであろうが、残念なながら、私のような凡才にはそのようなラッキーには縁がかなり遠い話である。ならばと他の方法を探すしかない!と空を見上げると、即座に「18」の風景が雲の隙間から飛び出てくる。
そんなわけで、私は18のシーズンを待って、初めて出会う水郡線の風景をワクワク感で待っていた。

上菅谷でキハ110との交換風景は今や貴重な画像となった。水郡線は国鉄時代にCTC化が進み、一気に無人駅が増えたが、上菅谷は駅員が配置されている。上菅谷で常陸太田への支線を分岐するが、終点・常陸太田で連絡していた日立電鉄は、私の訪問時には既に「リバプールの風」となっていた。
水郡線のように、こうした首都圏近郊にある路線の制覇については、当時まだ未開の地が意外にも多く「近いからいつでも行ける」という感覚からいつしか後回しになっていた。たが「いつでも行ける」イコール行かないわけだから、結果的に制覇していない路線が多くあるわけだ。この時期はこうした路線の制覇作業の真っ最中であり、両毛線や内房線など、いつでも行けるようで行かない路線を集中的に制覇していた。

恐らく終焉時期であろう1980年代に撮影されたと思われるダイナミック✡トナカイ(中学時代の後輩)が撮影した急行「奥久慈」である。上野にDCが姿を現すのは恐らくこの時期で最後であったろうがため、ギャラリーがものすごい。
水郡線を制覇しようと時刻表を見ると、何やら臨時列車的な運転があることに気づいた。よくよく調べてみると、どうやらトロッコ列車風の臨時列車らしい。1984年以来レールファンを休業して2007年にレールファンを復活させてまだそれほど時間が経っていないので、私の知らない世界が多い。そんな中、その臨時列車は国鉄車両の改造であることがわかった。最近では国鉄車両がこうした使い方をされているのかと哀愁を感じてしまったが、それでもこの時代まで生き残っていたのは奇跡というか素晴らしい。私は早速指定席券を手配し現地訪問の準備に取りかった。

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そんなわけで、私は18のシーズンを待って、初めて出会う水郡線の風景をワクワク感で待っていた。

上菅谷でキハ110との交換風景は今や貴重な画像となった。水郡線は国鉄時代にCTC化が進み、一気に無人駅が増えたが、上菅谷は駅員が配置されている。上菅谷で常陸太田への支線を分岐するが、終点・常陸太田で連絡していた日立電鉄は、私の訪問時には既に「リバプールの風」となっていた。
水郡線のように、こうした首都圏近郊にある路線の制覇については、当時まだ未開の地が意外にも多く「近いからいつでも行ける」という感覚からいつしか後回しになっていた。たが「いつでも行ける」イコール行かないわけだから、結果的に制覇していない路線が多くあるわけだ。この時期はこうした路線の制覇作業の真っ最中であり、両毛線や内房線など、いつでも行けるようで行かない路線を集中的に制覇していた。

恐らく終焉時期であろう1980年代に撮影されたと思われるダイナミック✡トナカイ(中学時代の後輩)が撮影した急行「奥久慈」である。上野にDCが姿を現すのは恐らくこの時期で最後であったろうがため、ギャラリーがものすごい。
水郡線を制覇しようと時刻表を見ると、何やら臨時列車的な運転があることに気づいた。よくよく調べてみると、どうやらトロッコ列車風の臨時列車らしい。1984年以来レールファンを休業して2007年にレールファンを復活させてまだそれほど時間が経っていないので、私の知らない世界が多い。そんな中、その臨時列車は国鉄車両の改造であることがわかった。最近では国鉄車両がこうした使い方をされているのかと哀愁を感じてしまったが、それでもこの時代まで生き残っていたのは奇跡というか素晴らしい。私は早速指定席券を手配し現地訪問の準備に取りかった。

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