夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑩
2022-08-20
小学生がブルートレインに乗って東京から西鹿児島にやってくる…これは凄い事だ。本当にとんでもない事が始まり、そして終えようとしていた。もちろん、親も同伴だが…
「ご乗車お疲れ様でした。次は終点西鹿児島です。どちら様もお忘れものなどございませんようご注意ください。お乗り換えのご案内をいたします。伊集院、川内方面…」

ようやく西鹿児島に到着した。このブログに再再々登場くらいの写真で申し訳ないがこれは到着翌日に撮影した記憶である。現在は新幹線が到達して駅の様子が全く変わってしまったが、ホームへ行くと意外にも昔の面影が残っている場面も少なくない。
最後のアナウンスが流れた。窓には留置線であろうか、やたらたくさんの列車が停まっている。アナウンスが終わってもなかなか西鹿児島のホームに着かない。波打つレールの分岐は果てしなく広がっていた。やはり西鹿児島はブルートレインの終点なのだから物凄く格式高い大きな駅なのだなと子供ながらに感じた。西鹿児島という駅名はコロタン文庫の書籍にもしょっちゅう出てくる駅だからとても大きく、到達するまでの距離感に納得してしまう。だが、西鹿児島へのプロローグという事は、寝台特急「富士」の終着駅というエピローグでもある。


「富士」を下車した私たち御一行は、更に本日の宿がある指宿へと目指した。指宿枕崎線の当時は冷房等無かった記憶であるが、それほど暑さを感じた記憶が無い。海辺へ出て砂風呂を楽しみたかったが・・・実現したのはそれから32年後の2010年であった。
西鹿児島のホームに生まれて初めて足を踏み入れた。首都圏と比べやや低いホームは車両のステップより更にもう一段降りるイメージで、首都圏の高さあるプラットホームに慣れてしまっている私からすればかなりの違和感を感じる。特に九州に入ってから気付いたのだが、こちらはやたらプラットホームの高さが低い。数々の写真をご覧いただければわかると思うが、車両の下部にある車輪などが見えるくらいしか高さが無い。恐らくSL時代から続く設備であろうが、列車に乗るにはかなり段差があり、現在の鉄道風景とはかなり異なる。もちろんバリアフリーなどの単語をほとんど聞かない時代であるから、当時はかなり大変な思いをされている利用者も少なくなかったであろう。現在は在来線ホームの真上を新幹線が通るようになり、近代的な駅に生まれ変わった。在来線ホームも嵩上げされホームと列車の段差がほぼなくなった。
そんなプラットホームに時代を感じながら私たちの御一行は更に南の「薩摩富士」目指し、指宿枕崎線の待つホームに足を急がせた。

こちらも散々このブログで登場しているが「富士」下車の翌日に撮影したDC版「にちりん」である。今回の旅で私たちは583系の有明に乗り熊本を目指したが、ちょうど向かいのホームに停車していた。その奥には更に583系が留置されており、昼夜問わず活躍していた事を象徴させる。
1978年8月21日、ブルートレインの旅は終わった。あれだけ憧れていたブルートレインに初めて乗車した感動と喜び。茅ヶ崎駅のホーム先端から写真を撮ったり相模線ホームから通過シーンを見ていたり…そしてこの「富士」の体験を皮切りに翌年の583系「ゆうづる」へと発展していき、やがて遠距離を仲間やひとりで旅をする事になっていく事になり私の旅は進化を遂げていった。
一夜明け「富士」から初めて見る九州の風景。車窓からは風光明媚な彩りが私を引き付けて止まなかった。それはもちろん大自然の景色ではなく、鉄道風景である。24時間26分…もし現存したらあなたはこの24時間26分のサバイバルに挑戦したいと思いますか?

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「ご乗車お疲れ様でした。次は終点西鹿児島です。どちら様もお忘れものなどございませんようご注意ください。お乗り換えのご案内をいたします。伊集院、川内方面…」

ようやく西鹿児島に到着した。このブログに再再々登場くらいの写真で申し訳ないがこれは到着翌日に撮影した記憶である。現在は新幹線が到達して駅の様子が全く変わってしまったが、ホームへ行くと意外にも昔の面影が残っている場面も少なくない。
最後のアナウンスが流れた。窓には留置線であろうか、やたらたくさんの列車が停まっている。アナウンスが終わってもなかなか西鹿児島のホームに着かない。波打つレールの分岐は果てしなく広がっていた。やはり西鹿児島はブルートレインの終点なのだから物凄く格式高い大きな駅なのだなと子供ながらに感じた。西鹿児島という駅名はコロタン文庫の書籍にもしょっちゅう出てくる駅だからとても大きく、到達するまでの距離感に納得してしまう。だが、西鹿児島へのプロローグという事は、寝台特急「富士」の終着駅というエピローグでもある。


「富士」を下車した私たち御一行は、更に本日の宿がある指宿へと目指した。指宿枕崎線の当時は冷房等無かった記憶であるが、それほど暑さを感じた記憶が無い。海辺へ出て砂風呂を楽しみたかったが・・・実現したのはそれから32年後の2010年であった。
西鹿児島のホームに生まれて初めて足を踏み入れた。首都圏と比べやや低いホームは車両のステップより更にもう一段降りるイメージで、首都圏の高さあるプラットホームに慣れてしまっている私からすればかなりの違和感を感じる。特に九州に入ってから気付いたのだが、こちらはやたらプラットホームの高さが低い。数々の写真をご覧いただければわかると思うが、車両の下部にある車輪などが見えるくらいしか高さが無い。恐らくSL時代から続く設備であろうが、列車に乗るにはかなり段差があり、現在の鉄道風景とはかなり異なる。もちろんバリアフリーなどの単語をほとんど聞かない時代であるから、当時はかなり大変な思いをされている利用者も少なくなかったであろう。現在は在来線ホームの真上を新幹線が通るようになり、近代的な駅に生まれ変わった。在来線ホームも嵩上げされホームと列車の段差がほぼなくなった。
そんなプラットホームに時代を感じながら私たちの御一行は更に南の「薩摩富士」目指し、指宿枕崎線の待つホームに足を急がせた。

こちらも散々このブログで登場しているが「富士」下車の翌日に撮影したDC版「にちりん」である。今回の旅で私たちは583系の有明に乗り熊本を目指したが、ちょうど向かいのホームに停車していた。その奥には更に583系が留置されており、昼夜問わず活躍していた事を象徴させる。
1978年8月21日、ブルートレインの旅は終わった。あれだけ憧れていたブルートレインに初めて乗車した感動と喜び。茅ヶ崎駅のホーム先端から写真を撮ったり相模線ホームから通過シーンを見ていたり…そしてこの「富士」の体験を皮切りに翌年の583系「ゆうづる」へと発展していき、やがて遠距離を仲間やひとりで旅をする事になっていく事になり私の旅は進化を遂げていった。
一夜明け「富士」から初めて見る九州の風景。車窓からは風光明媚な彩りが私を引き付けて止まなかった。それはもちろん大自然の景色ではなく、鉄道風景である。24時間26分…もし現存したらあなたはこの24時間26分のサバイバルに挑戦したいと思いますか?

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑨
2022-08-13
宮崎を過ぎ車窓から海岸線が消え山深くなってきた。「寝台特急がこんな凄い所を通るの?」と子供ながらに思っていたが、山肌に生い茂る草木が窓ガラスにぶち当たり音をたてながら通過していく。私は自分の座席から離れ通路でその光景を眺めていたが、相変わらず窓ガラスを引きちぎるような音をたてながら前進する「富士」に健気さを感じずにいられなかった。


2010年訪問時の都城。若干のリニューアルこそあるものの、私が「富士」で最初に訪問した当時の1978年とあまり変わっていないであろう昭和の風景を醸し出している。
都城に着くと、少年ながらにもSL時代の駅の雰囲気を感じたが、非電化区間は既に無煙化か終了しており、DCが主役の構内では旧型客車による普通列車の姿も見られた。
既に寝台特急としての機能はしていない中、宮崎からの乗客も入れ替りが多少あり昼間の特急らしい仕事をする「富士」であったが、父母が「トシロって読まないでミヤコノジョウって読むんだなぁ」などと普段聞かない地名の読み方に感心していた。


そしてこちらも2010年訪問時の隼人。駅舎はモダンにリニューアルされていたが、駅構内は昭和の、国鉄の雰囲気を醸し出している。ホームがかさ上げされている様子がわかるが、それでも列車の出入口との段差がやや気になる。
霧島神宮、隼人を過ぎると、やがて竜ヶ水付近ではお馴染みの景色が見えてきた。鹿児島県の象徴でもある風景が海の向こうで煙をあげながら見え隠れする。小学生の少年でもやはりその風景には圧巻され、何か自分はとんでもない場所に来ているのだなと改めて感じた。東京、いや、地元神奈川の中心、横浜から一体何キロあるのだろう…時計は既に夕方の6時を過ぎている。そう、昨日同じくらいの時間に東京からこの列車に乗ったんだよな~と、丸一日私を乗せた「富士」の偉大さに改めて気づかせられた。


2010年に撮影した鹿児島駅舎(上)は1976年に使用を開始したので私が「富士」に乗車して訪れた時は既に新しい駅舎として営業していた。それから月日が流れ現在の駅舎は2020年より使用を開始したので貴重な写真になってしまった。「富士」から撮影した鹿児島の向かい側のホームではキハ20(だったと思う)の普通列車が待っていた。既にこの時点で東京から24時間以上列車に乗っていた事になる。
鹿児島に着くとキハ20の普通列車が対面に停車していた。貨物側線が宮崎方面へ斜めに向いており、かつての主役だった名残を感じるが、逆に私は鹿児島が「風車の弥七」的な存在に感じ、その位置で輝く姿が素晴らしい。その証拠にこうして「富士」も停車するではないか!もちろんそれは年齢を重ねた私が今感じる事であるが、小学生でその経験ができるとは何と贅沢なのか…
やがて夕陽がかなり西に傾く頃「現在の主役」に到着するプロローグが幾つもの分岐機通過の音色を奏で始めた。

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2010年訪問時の都城。若干のリニューアルこそあるものの、私が「富士」で最初に訪問した当時の1978年とあまり変わっていないであろう昭和の風景を醸し出している。
都城に着くと、少年ながらにもSL時代の駅の雰囲気を感じたが、非電化区間は既に無煙化か終了しており、DCが主役の構内では旧型客車による普通列車の姿も見られた。
既に寝台特急としての機能はしていない中、宮崎からの乗客も入れ替りが多少あり昼間の特急らしい仕事をする「富士」であったが、父母が「トシロって読まないでミヤコノジョウって読むんだなぁ」などと普段聞かない地名の読み方に感心していた。


そしてこちらも2010年訪問時の隼人。駅舎はモダンにリニューアルされていたが、駅構内は昭和の、国鉄の雰囲気を醸し出している。ホームがかさ上げされている様子がわかるが、それでも列車の出入口との段差がやや気になる。
霧島神宮、隼人を過ぎると、やがて竜ヶ水付近ではお馴染みの景色が見えてきた。鹿児島県の象徴でもある風景が海の向こうで煙をあげながら見え隠れする。小学生の少年でもやはりその風景には圧巻され、何か自分はとんでもない場所に来ているのだなと改めて感じた。東京、いや、地元神奈川の中心、横浜から一体何キロあるのだろう…時計は既に夕方の6時を過ぎている。そう、昨日同じくらいの時間に東京からこの列車に乗ったんだよな~と、丸一日私を乗せた「富士」の偉大さに改めて気づかせられた。


2010年に撮影した鹿児島駅舎(上)は1976年に使用を開始したので私が「富士」に乗車して訪れた時は既に新しい駅舎として営業していた。それから月日が流れ現在の駅舎は2020年より使用を開始したので貴重な写真になってしまった。「富士」から撮影した鹿児島の向かい側のホームではキハ20(だったと思う)の普通列車が待っていた。既にこの時点で東京から24時間以上列車に乗っていた事になる。
鹿児島に着くとキハ20の普通列車が対面に停車していた。貨物側線が宮崎方面へ斜めに向いており、かつての主役だった名残を感じるが、逆に私は鹿児島が「風車の弥七」的な存在に感じ、その位置で輝く姿が素晴らしい。その証拠にこうして「富士」も停車するではないか!もちろんそれは年齢を重ねた私が今感じる事であるが、小学生でその経験ができるとは何と贅沢なのか…
やがて夕陽がかなり西に傾く頃「現在の主役」に到着するプロローグが幾つもの分岐機通過の音色を奏で始めた。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑧
2022-08-06
やがて列車は日向市に到着。当時は全く知らない初めての駅であり未知の駅である。駅自体は普通に中間駅とあまり変わらなかったが、というよりなぜこのような小さい駅に「富士」が停まるのだろうかと、利用者数ではなく駅の規模などで考えていた当時小学生の私であったが、近年には高架化され立派な佇まいとなった。某路線バス旅番組でも「黄金タッグ」が「歌のお姉さん」をゲストを迎えバスの乗り換えで日向市が登場するが、かなりモダンに生まれ変わり、かつての国鉄時代にあった典型的な片側だけ出口がある駅のイメージは全くなかった。私も近年に「ドリームにちりん」でも訪問しているが、確かにシンプルかつモダンな駅に生まれ変わりかつてのイメージは全く感じられず、旅客利用にはかなり便利になったと思う。この時ドリームにちりんに乗り久々に訪れた時はここ日向市ではかなりの乗客があった。中には学生の乗車もあり、ある意味貴重な「始発列車」の使命を果たしていた感が伺えたのだが、学生よ、特急で通学ですか!さすが「富士」の停車駅であった風格がひしひしと伝わってきた。

画像はウィキペディアより、現在の日向市。ご覧の通り立派な高架駅に生まれ変わった。近年でも某バス旅番組で乗り換え場面で登場する。現在は島式ホーム1本の1面2線でシンプルな構造になりかつては無かった東側からも駅を利用できるようになり、格段に便利になった。
そして日向市を過ぎるといよいよ宮崎に到着!この駅なら私も知っていた。だが…意外にも旅客設備は2面3線のシンプル構造の駅だったのである意味拍子抜けしてしまったが、側線は多く張り巡らされ、県を代表する駅としてのメンツを保ったイメージであった。ただ、運輸機能はお隣の南宮崎に任せてあるのでこちら宮崎では県の代表としての旅客駅の機能を充分に発揮してもらわなければならないであろう。その象徴としてJR化後の1993年に高架化され東西の分断が無くなったので更に代表としての風格が増した事であろう。

こちらもウィキペディアよりの画像であるが、高架化前の日向市駅舎。国鉄時代の典型的な駅の形であるホームに接する駅舎を持つ2面3線の構内は、2~3本の貨物側線があり細島への貨物線も分岐していた。現在の西口にしか駅舎が無く、東側からの利用は不便な構造であった。
この時の「富士」乗車時では到着が15時40分であるが、出発が15時48分であった。この8分間で、実は機関車交換が行われるのだ。当時、宮崎~鹿児島間は非電化区間であったのでここで電気機関車からディーゼル機関車に交換されるイベントが発生!もちろん事前にその事をコロタン文庫で確認していたので早速ホーム先端へと向かい写真バチバチさせていただいた。その後の1979年に宮崎~鹿児島間が電化されたので、ある意味非電化時代最後の制覇となり貴重な乗車となった。

得意の写真で申し訳無いが、宮崎で撮影したDF50はこの時に撮影したものだ。宮崎以降は非電化のため、新大阪発の「彗星」も当時は都城までDF50の牽引であった。地上時代の宮崎は2面3線の構造で側線2~3本のシンプル配線であった。県を代表する駅としては物足りない気もするが、現在は高架化され日向市と共に立派な面構えとなった。
私の記憶だと宮崎より全席自由席となり私の座席にも地元の乗車が次から次へと乗ってきたが、当時の時刻表を確認すると延岡から全席自由席になっていた。今になってこういう事に気づくというのも何となく嬉しいというか素敵な経験をしたと改めて感じるが、いずれにしても、以前に紹介した「鈍行列車、再発見!」でもあるように、この自由席化で他の乗客ゾロゾロに父が「鈍行列車になった」と間違ってしまうほどサプライズ的な光景であった。東京からずっと乗車してきた座席は、既にこの区間では地元の方の貴重な足として機能していたのだ。もう寝台列車としての役割は既に終了し「昼寝」どころか「夕寝」として機能していたのかも知れない。
自由席となりディーゼル機関車の牽引になった寝台特急「富士」の西鹿児島へと向かう車窓の向こうは、更に山深く草木は窓ガラスにブチ当たる風景がしばらく続いた。

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画像はウィキペディアより、現在の日向市。ご覧の通り立派な高架駅に生まれ変わった。近年でも某バス旅番組で乗り換え場面で登場する。現在は島式ホーム1本の1面2線でシンプルな構造になりかつては無かった東側からも駅を利用できるようになり、格段に便利になった。
そして日向市を過ぎるといよいよ宮崎に到着!この駅なら私も知っていた。だが…意外にも旅客設備は2面3線のシンプル構造の駅だったのである意味拍子抜けしてしまったが、側線は多く張り巡らされ、県を代表する駅としてのメンツを保ったイメージであった。ただ、運輸機能はお隣の南宮崎に任せてあるのでこちら宮崎では県の代表としての旅客駅の機能を充分に発揮してもらわなければならないであろう。その象徴としてJR化後の1993年に高架化され東西の分断が無くなったので更に代表としての風格が増した事であろう。

こちらもウィキペディアよりの画像であるが、高架化前の日向市駅舎。国鉄時代の典型的な駅の形であるホームに接する駅舎を持つ2面3線の構内は、2~3本の貨物側線があり細島への貨物線も分岐していた。現在の西口にしか駅舎が無く、東側からの利用は不便な構造であった。
この時の「富士」乗車時では到着が15時40分であるが、出発が15時48分であった。この8分間で、実は機関車交換が行われるのだ。当時、宮崎~鹿児島間は非電化区間であったのでここで電気機関車からディーゼル機関車に交換されるイベントが発生!もちろん事前にその事をコロタン文庫で確認していたので早速ホーム先端へと向かい写真バチバチさせていただいた。その後の1979年に宮崎~鹿児島間が電化されたので、ある意味非電化時代最後の制覇となり貴重な乗車となった。

得意の写真で申し訳無いが、宮崎で撮影したDF50はこの時に撮影したものだ。宮崎以降は非電化のため、新大阪発の「彗星」も当時は都城までDF50の牽引であった。地上時代の宮崎は2面3線の構造で側線2~3本のシンプル配線であった。県を代表する駅としては物足りない気もするが、現在は高架化され日向市と共に立派な面構えとなった。
私の記憶だと宮崎より全席自由席となり私の座席にも地元の乗車が次から次へと乗ってきたが、当時の時刻表を確認すると延岡から全席自由席になっていた。今になってこういう事に気づくというのも何となく嬉しいというか素敵な経験をしたと改めて感じるが、いずれにしても、以前に紹介した「鈍行列車、再発見!」でもあるように、この自由席化で他の乗客ゾロゾロに父が「鈍行列車になった」と間違ってしまうほどサプライズ的な光景であった。東京からずっと乗車してきた座席は、既にこの区間では地元の方の貴重な足として機能していたのだ。もう寝台列車としての役割は既に終了し「昼寝」どころか「夕寝」として機能していたのかも知れない。
自由席となりディーゼル機関車の牽引になった寝台特急「富士」の西鹿児島へと向かう車窓の向こうは、更に山深く草木は窓ガラスにブチ当たる風景がしばらく続いた。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっと細かくリメイク版⑦
2022-07-30
別府を出て間もなく大分に到着した。「富士」にとっても国鉄にとっても重要な駅である。構内はだだっ広い。「富士」はここで何両か車両を切り離し身軽になる。もちろん切り離された車両は上り「富士」に増結され東京へ帰って行く事であろう。既に時間は昼を迎え、私の乗車している「富士」は寝台特急としての機能は終了している雰囲気になっていた。つまり「ヒルネ」となっていつしか「にちりん」などの補完列車として我々を西鹿児島まで案内してくれるのだ。

画像はウィキペディアより。大分に停車中の「富士」であるが、恐らくこの頃は大分で終点の時代であったろう。だが、背景に注目いただくと高架化前の地上時代であるので国鉄時代の名残を充分に感じる事ができる。私の乗車時はここで数両切り離し、身軽になって西鹿児島へ向かった。
さて、私は「ヒルネ」をしながら大分を出るわけだが、その前に先ほど触れた切り離し作業を確認しなければならない。残念ながら写真は撮影したのだか現在は所有していない。ただ、私の記憶にはしっかりと焼き付いているのでその風景をプリントアウトしたいのだが…ドラえも―ん❕状態である。
そして初めて見る大分の駅はとにかく感動であるのだが、つい最近まで地上駅だったので、レールファンを復活させてからもギリギリその地上駅を体感できたのが実に懐かしく良い思い出になった。とはいえ既に高架化の工事は始まっていたので本当に意味でのギリギリだったが「富士」に乗りたどり着いた時とほとんど変わらない雰囲気が残っていた事が実に嬉しかった。

大分から先、鹿児島までの区間は単線区間が多くなる。途中駅では旅客扱いしなくても列車同士のすれ違いのために停車する駅もちらほら登場。どこの駅かは記憶に無いが「にちりん」と列車交換のため運転停車したが、今見るともの凄い貴重な風景ではないか!
食堂車も切り離し身軽になった「富士」は大分より先、佐伯・延岡・日向市・宮崎と停車する。幸崎や臼杵、津久見、などは停まらない特急の風格が溢れていたが、こうした駅は当時名前すら知らず、全く未知の世界の連続であったので新鮮過ぎるくらい新鮮だった。
更に大分から先は単線区間が多くなり、途中駅で何度か上り列車との待ち合わせをする場面も。佐伯を過ぎ宗太朗越えを終えたら延岡のひとつ手前の北延岡でも列車交換のアナウンスがあった。大阪や岡山すら停車しない「富士」が、時刻表上では停車駅では無い全く予定していない無人駅で「富士」が停車するのがものすごい出来事に思う。
その北延岡では上りの「富士」との交換であった。地味な無人駅で寝台特急「富士」同士の列車交換は、列車内でなく駅ホームなどで見学できたら見ごたえがあったであろう。隣の延岡でなく北延岡というところがなかなか渋い。24系25型の最新式寝台特急同士の列車交換は、意外にも地味なくらいにひっそりと催された。

こちらは「富士」乗車時に撮影した延岡。ひとつ手前の北延岡で上り「富士」と交換した後に到着したが、ご覧の通り貨物盛栄!この列車に乗車したお陰で色々な都市の名前を覚えるきっかけとなったといっても過言ではない。残念ながら現在は高千穂線の姿はないが、この「富士」に乗車した翌年頃から時刻表なども見るようになり高千穂線の存在も知るようになった。
「富士」同士の列車交換を無事に終えしばらくすると延岡に到着した。記憶はなかったが、当時の時刻表を調べてみたら何と延岡では4分停車!特に機関車交換などの行事が始まるわけではないが、実はここからB寝台は全席自由席となり西鹿児島へと向かうのだ!後述するが、私の記憶だと宮崎からと思っていたが・・・
延岡といえばかつては高千穂線の連絡駅としても活躍していたが、当時はそんな状況を全く知らなかった。もし高千穂線の存在を知っていたらもっと違う角度から延岡のホームを観察していたであろうが、なんたって小学4年生である。ブルートレインの停車駅を覚えるのに精一杯であった。現在は高千穂方面へは路線バスに譲り日豊本線に専念する形となった。大分以降ではややローカルなイメージの風景が続いていたが、久々の「大都会」は、果てしない夢を追い続けいつの日か大空駆け巡る気持ちになった。

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画像はウィキペディアより。大分に停車中の「富士」であるが、恐らくこの頃は大分で終点の時代であったろう。だが、背景に注目いただくと高架化前の地上時代であるので国鉄時代の名残を充分に感じる事ができる。私の乗車時はここで数両切り離し、身軽になって西鹿児島へ向かった。
さて、私は「ヒルネ」をしながら大分を出るわけだが、その前に先ほど触れた切り離し作業を確認しなければならない。残念ながら写真は撮影したのだか現在は所有していない。ただ、私の記憶にはしっかりと焼き付いているのでその風景をプリントアウトしたいのだが…ドラえも―ん❕状態である。
そして初めて見る大分の駅はとにかく感動であるのだが、つい最近まで地上駅だったので、レールファンを復活させてからもギリギリその地上駅を体感できたのが実に懐かしく良い思い出になった。とはいえ既に高架化の工事は始まっていたので本当に意味でのギリギリだったが「富士」に乗りたどり着いた時とほとんど変わらない雰囲気が残っていた事が実に嬉しかった。

大分から先、鹿児島までの区間は単線区間が多くなる。途中駅では旅客扱いしなくても列車同士のすれ違いのために停車する駅もちらほら登場。どこの駅かは記憶に無いが「にちりん」と列車交換のため運転停車したが、今見るともの凄い貴重な風景ではないか!
食堂車も切り離し身軽になった「富士」は大分より先、佐伯・延岡・日向市・宮崎と停車する。幸崎や臼杵、津久見、などは停まらない特急の風格が溢れていたが、こうした駅は当時名前すら知らず、全く未知の世界の連続であったので新鮮過ぎるくらい新鮮だった。
更に大分から先は単線区間が多くなり、途中駅で何度か上り列車との待ち合わせをする場面も。佐伯を過ぎ宗太朗越えを終えたら延岡のひとつ手前の北延岡でも列車交換のアナウンスがあった。大阪や岡山すら停車しない「富士」が、時刻表上では停車駅では無い全く予定していない無人駅で「富士」が停車するのがものすごい出来事に思う。
その北延岡では上りの「富士」との交換であった。地味な無人駅で寝台特急「富士」同士の列車交換は、列車内でなく駅ホームなどで見学できたら見ごたえがあったであろう。隣の延岡でなく北延岡というところがなかなか渋い。24系25型の最新式寝台特急同士の列車交換は、意外にも地味なくらいにひっそりと催された。

こちらは「富士」乗車時に撮影した延岡。ひとつ手前の北延岡で上り「富士」と交換した後に到着したが、ご覧の通り貨物盛栄!この列車に乗車したお陰で色々な都市の名前を覚えるきっかけとなったといっても過言ではない。残念ながら現在は高千穂線の姿はないが、この「富士」に乗車した翌年頃から時刻表なども見るようになり高千穂線の存在も知るようになった。
「富士」同士の列車交換を無事に終えしばらくすると延岡に到着した。記憶はなかったが、当時の時刻表を調べてみたら何と延岡では4分停車!特に機関車交換などの行事が始まるわけではないが、実はここからB寝台は全席自由席となり西鹿児島へと向かうのだ!後述するが、私の記憶だと宮崎からと思っていたが・・・
延岡といえばかつては高千穂線の連絡駅としても活躍していたが、当時はそんな状況を全く知らなかった。もし高千穂線の存在を知っていたらもっと違う角度から延岡のホームを観察していたであろうが、なんたって小学4年生である。ブルートレインの停車駅を覚えるのに精一杯であった。現在は高千穂方面へは路線バスに譲り日豊本線に専念する形となった。大分以降ではややローカルなイメージの風景が続いていたが、久々の「大都会」は、果てしない夢を追い続けいつの日か大空駆け巡る気持ちになった。

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夏色のダイアリー ~寝台特急「富士」の思い出~ もっとワイドにリメイク版⑥
2022-07-23
小倉より日豊本線経由になり、大分までの停車駅は中津と別府のみである。大分より先は佐伯、延岡、日向市、宮崎である。ご覧になってお気づきと思うが、現在の日豊本線を走る「ソニック」などの特急列車の停車駅に比べ格段に少ないのがお分かりであろう。もちろん特急としての「格」は充分であるが、それよりもむしろこれらの停車駅以外の都市間輸送に貢献していたのは「日南」「ゆのか」「しいば」などの急行列車である。現在のように急行列車が全廃されてからはその役割が特急列車に委ねられているが、逆に停車駅がグッと増えて特急列車としての風格みたいなものが無くなったような気がする。

画像はウィキペディアより転用させていただいたA寝台個室。後年はシングルデラックスと呼ばれるようになったが、寝台料金は1万円だった記憶!当時のイチマンエンであるから相当のブルジョア的存在であった。洗面台兼テーブルが付いた室内は「個室」というブランドが実に画期的な夢の寝台車的存在であった。
九州方面へは東京発着ばかりでなく、京都や新大阪からも寝台特急が発着していた。「明星」や「金星」などは一部583系で運転され、九州内の特急「有明」などとペアで運用された。昭和を知る世代ならよくご存知であろうが、583系は寝台だと3段式のため特に中段が狭く、当時小学生、中学生だった私でさえその居住性に疑問を感じざるを得なかった。そして座席特急としてはリクライニングができないという一番のウィークポイントがあり評判は今ひとつであった。
583系の運用で一番輝いたのは晩年の夜行急行「津軽」や「きたぐに」だったと思う。急行料金ならあの空間でも納得できるし、寝台、座席の両方で1編成組めるのも良い。さらに交直両用なので電化区間で狭軌であれば日本国内どこへでも走れるという最大の長所がある。できれば「ムーンライト」など快速での運用があると非常に個人的には嬉しかったが、なかなか時代とマッチしなかったのがある意味勿体ない気がする。

「富士」から撮影した中津。1977年に高架化されたが「富士」での訪問が1978年なのでご覧の通り真新しいではないか!地上時代の配線は全く知らないのだが、静岡や鳥取など当時流行していたのであろうシンプルな高架駅に変身した。
さて、日豊本線経由でわざわざ遠回りして西鹿児島へ向かう寝台特急「富士」を始発から終点までの切符を持っているのは恐らく私たち家族だけであったろう。いや、単純に私が「富士に乗りたい❕」と言わなければ普通に新幹線などで現地入りしていたはずだ。つまり私のわがままで家族が巻き添えを喰らったわけだ。しかも乗務員さえ途中駅で交代するのだから、もしかしたら始発から終点までの乗車はタブーなのかも知れない。

熱海・登別・箱根などと同様に「○○温泉」とつけなくても温泉!と一発でわかる別府は、日本を代表する温泉街として古くから親しまれている。写真奥に2本の急行列車が停車しているのがわかるが、当時の時刻表を確認してみたら豊肥本線経由の急行「火の山」と久大本線経由の急行「由布」であると思われる。いずれも「富士」との乗り換えを考慮しての連絡時間となってるが「富士」を別府で捨て「由布」に乗り換え由布院に行くなんて、何とも贅沢!そんな乗客が羨ましい・・・
そして別府も同じく高架化され温泉の玄関口として相応しい面構えとなった。とはいえ、高架化が完成されたのは1966年なので意外とその歴史は古い。私が生まれる前に既に高架化されていたという事は特筆すべき事であり、高架化されたホームにSLが発着していた事になる。これは素晴らしい景色であったろう。隣には急行列車が停車していたが、恐らく「富士」との連絡ダイヤであろう。グリーン車も連結され昔の豪華な急行はどこ行きだったのであろう。由布院方面なら私も興味あるが、当時の私にはそんな余裕はない。いや、由布院は当時、現在のイメージとは違いどちらかというと「湯治場」的な感じだったと思うが、その事すら知らない小学生であったので何よりも電車だ。普段茅ヶ崎や東京、そして上野辺りでしか見なかったブルートレインに乗っている私は何だかとんでもない事をしているようで、全く未知の世界だった「日本全国制覇」が恐らくこの旅より開花したと思う。そして数年後に始まる「いい旅チャレンジ20000km」のプロローグとして幼い私の心に根付いたのかも知れない。

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画像はウィキペディアより転用させていただいたA寝台個室。後年はシングルデラックスと呼ばれるようになったが、寝台料金は1万円だった記憶!当時のイチマンエンであるから相当のブルジョア的存在であった。洗面台兼テーブルが付いた室内は「個室」というブランドが実に画期的な夢の寝台車的存在であった。
九州方面へは東京発着ばかりでなく、京都や新大阪からも寝台特急が発着していた。「明星」や「金星」などは一部583系で運転され、九州内の特急「有明」などとペアで運用された。昭和を知る世代ならよくご存知であろうが、583系は寝台だと3段式のため特に中段が狭く、当時小学生、中学生だった私でさえその居住性に疑問を感じざるを得なかった。そして座席特急としてはリクライニングができないという一番のウィークポイントがあり評判は今ひとつであった。
583系の運用で一番輝いたのは晩年の夜行急行「津軽」や「きたぐに」だったと思う。急行料金ならあの空間でも納得できるし、寝台、座席の両方で1編成組めるのも良い。さらに交直両用なので電化区間で狭軌であれば日本国内どこへでも走れるという最大の長所がある。できれば「ムーンライト」など快速での運用があると非常に個人的には嬉しかったが、なかなか時代とマッチしなかったのがある意味勿体ない気がする。

「富士」から撮影した中津。1977年に高架化されたが「富士」での訪問が1978年なのでご覧の通り真新しいではないか!地上時代の配線は全く知らないのだが、静岡や鳥取など当時流行していたのであろうシンプルな高架駅に変身した。
さて、日豊本線経由でわざわざ遠回りして西鹿児島へ向かう寝台特急「富士」を始発から終点までの切符を持っているのは恐らく私たち家族だけであったろう。いや、単純に私が「富士に乗りたい❕」と言わなければ普通に新幹線などで現地入りしていたはずだ。つまり私のわがままで家族が巻き添えを喰らったわけだ。しかも乗務員さえ途中駅で交代するのだから、もしかしたら始発から終点までの乗車はタブーなのかも知れない。

熱海・登別・箱根などと同様に「○○温泉」とつけなくても温泉!と一発でわかる別府は、日本を代表する温泉街として古くから親しまれている。写真奥に2本の急行列車が停車しているのがわかるが、当時の時刻表を確認してみたら豊肥本線経由の急行「火の山」と久大本線経由の急行「由布」であると思われる。いずれも「富士」との乗り換えを考慮しての連絡時間となってるが「富士」を別府で捨て「由布」に乗り換え由布院に行くなんて、何とも贅沢!そんな乗客が羨ましい・・・
そして別府も同じく高架化され温泉の玄関口として相応しい面構えとなった。とはいえ、高架化が完成されたのは1966年なので意外とその歴史は古い。私が生まれる前に既に高架化されていたという事は特筆すべき事であり、高架化されたホームにSLが発着していた事になる。これは素晴らしい景色であったろう。隣には急行列車が停車していたが、恐らく「富士」との連絡ダイヤであろう。グリーン車も連結され昔の豪華な急行はどこ行きだったのであろう。由布院方面なら私も興味あるが、当時の私にはそんな余裕はない。いや、由布院は当時、現在のイメージとは違いどちらかというと「湯治場」的な感じだったと思うが、その事すら知らない小学生であったので何よりも電車だ。普段茅ヶ崎や東京、そして上野辺りでしか見なかったブルートレインに乗っている私は何だかとんでもない事をしているようで、全く未知の世界だった「日本全国制覇」が恐らくこの旅より開花したと思う。そして数年後に始まる「いい旅チャレンジ20000km」のプロローグとして幼い私の心に根付いたのかも知れない。

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