寝台特急「富士」の思い出(リメイク版)②
2017-12-25
さて、関門トンネルを抜けると、いきなり広い構内に入り門司に到着した。早速「カメラ小僧」に変身する。そう、またまた機関車交換だ。今度は、東京から門司まで続いた直流区間が終わり、九州から交流区間となるため、交流専用の機関車「ED76」が牽引を担当する。ギャラリー達は即座に最前列に向かいバシバシシャッターを切るが、夏休みのため私と同世代の方々が多数参戦した。しかしブルートレインは道中、イベントが盛りだくさんあり鉄道ファンは忙しい。
そして私を乗せた〈富士〉は、小倉より日豊本線に入り大分・宮崎を経由して西鹿児島へ向う。中津、別府と停車の後、大分に到着した。現在の日豊本線の特急停車駅から考えると行橋や宇佐には見向きもせず、中津と別府しか停まらず大分に到着とは、さすが東京発の格式高い寝台列車である。
さて、ここ大分では10分以上停車時間がある。ここで後ろの何両か切り離す作業があるのと乗務員の交代など、何かと業務的作業が発生するための停車時間であるが、更にここ大分でかなり乗客が入れ替わる事であろうがための配慮でもあろう。
身軽になった<富士>は更に南下し鹿児島へ向けてレールのジョイント音を響かせる。既に「ヒルネ」状態となった寝台特急〈富士〉であるが、途中、都農付近では「リニア」の実験線が上部を掠めた。当時はリニアの実験場がここにあり、車両の形も現在と異なっていたが、現在は中央リニアとして具現化され開業に向け工事の真っ最中である。しかしながら何かと世間を騒がせる渦中にあり、レールファンとしては複雑な心境である。
子供ながらに、鉄道の未来の姿をしっかり目に焼き付けていた私は、そんな大人の事情など全く知らないし将来的にそんな事が起こるなんて全く予想だにしなかったが、それより一日も早くリニアの勇姿を拝んでみたいものだ。
さて、大分を過ぎると単線区間が多くなり、列車同士の行き違いのため、時に名の知らない駅で停車する。小学生のペーペーにはそんな鉄道事情は分からず「北延岡」に停車の際は「?」となってしまった。ところが、上り「富士」とすれ違い唖然。ある意味「隠れキャラ」的な存在となる北延岡であるが、今考えたら貴重な体験となってしまった。そんな事はお構いなしに列車は更に進み、間もなく宮崎に到着した。宮崎では、なんとまたまた機関車交換である。

(私の乗車当時はEF30であった。こちらもステンレス製の車体で関門トンネルで活躍していた。下関と門司では機関車交換のためホーム先頭ではいつもギャラリーが多数!)
当時、宮崎~西鹿児島(鹿児島)間はまだ電化されておらず非電化であったのでここよりディーゼル機関車である「DF50」である。関東在住の私にとってそんな機関車見たことない!そのため、またもカメラを握り締め列車の先頭へ突っ走っていった。現在、宮崎駅は高架駅となりスリムで機能的な近代的な駅に変身したが、当時はまだ地上にあり若干の側線があったが、ホーム2面3線と、県を代表する駅としては少し物足りなさを感じた。恐らく用地の制約から多くの鉄道設備を構内に設置できなかったのであろう。そのため、いわゆるそっち系の事の多くは隣の南宮崎に任せているイメージであろう。
さて、私たちの寝台座席は宮崎より「自由席」となってしまい「部外者」がゾロゾロと乗車してきた。東京からの格式高い由緒ある寝台特急が「自由席」とは!などと言っても、夕方4時頃に走る〈富士〉は、現地の特急列車を影から補完するに過ぎない存在となってしまったのか・・・
宮崎を過ぎると、山深くなっていき、単線のレールに山の斜面が迫り、生い茂る草木が窓ガラスにぶち当たる勢いだ。
都城を過ぎ、霧島神宮を出るとやがて「桜島」が勢い良く噴煙を上げている姿が目に飛び込んできた。さすが活火山!などと子供ながらに関心していると鹿児島に到着。かつては鹿児島を代表する駅であったので構内は広い!現在も残る貨物ホームが宮崎方に向いているのは、かつて肥薩線が「鹿児島本線」であった名残であろう事が現在も体感できるのがすばらしい。現在の旅客ホームは当然ながら後付けであろうが、それでも歴史を感じる風景だ。そんな鹿児島駅ではキハ20の普通列車が隣のホームに停車していた。

(1978年訪問時の宮崎駅にて。なんと地上時代!宮崎~西鹿児島は非電化(多分鹿児島~西鹿児島は電化されていたかも知れないが)のため宮崎で機関車交換。なんとDF50!こんな機関車、首都圏で見たこと無いためワクワクものであった。)
そして次の駅が本当に終点の西鹿児島である。駅到着のアナウンスが車内に響き渡ると同時に若干の寂しさを覚えたが「24時間25分」の長旅を達成した充実感に満ち溢れていた。
ハッキリ言って始発から終点まで乗車したのは私たちぐらいだけであったろう。当時、最長走行時間の列車で有名であったが、まる1日潰れてしまう移動手段を利用する人はどれだけいたであろうか。同伴の両親は恐らく精魂尽き果てていたであろうが・・・今となっては実現不可能な体験だけに、大変貴重なものとなってしまった。飛行機を使えば当然ながら24時間も移動で使うことはないであろう。ただ、早く現地に着けばいい、というだけの選択肢しかない旅はいかがであろう。それより、中には寝台特急のような選択肢もあるんだよと、そしてその選択肢も知っている、そして経験している自分は幸せであろう。色々な選択肢を知っていて、更にそれに挑戦できる事こそ旅の醍醐味ではなかろうか。私たち御一行は更に南下し、今夜の宿となる「指宿」へとローカル列車に揺られていった・・・

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そして私を乗せた〈富士〉は、小倉より日豊本線に入り大分・宮崎を経由して西鹿児島へ向う。中津、別府と停車の後、大分に到着した。現在の日豊本線の特急停車駅から考えると行橋や宇佐には見向きもせず、中津と別府しか停まらず大分に到着とは、さすが東京発の格式高い寝台列車である。
さて、ここ大分では10分以上停車時間がある。ここで後ろの何両か切り離す作業があるのと乗務員の交代など、何かと業務的作業が発生するための停車時間であるが、更にここ大分でかなり乗客が入れ替わる事であろうがための配慮でもあろう。
身軽になった<富士>は更に南下し鹿児島へ向けてレールのジョイント音を響かせる。既に「ヒルネ」状態となった寝台特急〈富士〉であるが、途中、都農付近では「リニア」の実験線が上部を掠めた。当時はリニアの実験場がここにあり、車両の形も現在と異なっていたが、現在は中央リニアとして具現化され開業に向け工事の真っ最中である。しかしながら何かと世間を騒がせる渦中にあり、レールファンとしては複雑な心境である。
子供ながらに、鉄道の未来の姿をしっかり目に焼き付けていた私は、そんな大人の事情など全く知らないし将来的にそんな事が起こるなんて全く予想だにしなかったが、それより一日も早くリニアの勇姿を拝んでみたいものだ。
さて、大分を過ぎると単線区間が多くなり、列車同士の行き違いのため、時に名の知らない駅で停車する。小学生のペーペーにはそんな鉄道事情は分からず「北延岡」に停車の際は「?」となってしまった。ところが、上り「富士」とすれ違い唖然。ある意味「隠れキャラ」的な存在となる北延岡であるが、今考えたら貴重な体験となってしまった。そんな事はお構いなしに列車は更に進み、間もなく宮崎に到着した。宮崎では、なんとまたまた機関車交換である。

(私の乗車当時はEF30であった。こちらもステンレス製の車体で関門トンネルで活躍していた。下関と門司では機関車交換のためホーム先頭ではいつもギャラリーが多数!)
当時、宮崎~西鹿児島(鹿児島)間はまだ電化されておらず非電化であったのでここよりディーゼル機関車である「DF50」である。関東在住の私にとってそんな機関車見たことない!そのため、またもカメラを握り締め列車の先頭へ突っ走っていった。現在、宮崎駅は高架駅となりスリムで機能的な近代的な駅に変身したが、当時はまだ地上にあり若干の側線があったが、ホーム2面3線と、県を代表する駅としては少し物足りなさを感じた。恐らく用地の制約から多くの鉄道設備を構内に設置できなかったのであろう。そのため、いわゆるそっち系の事の多くは隣の南宮崎に任せているイメージであろう。
さて、私たちの寝台座席は宮崎より「自由席」となってしまい「部外者」がゾロゾロと乗車してきた。東京からの格式高い由緒ある寝台特急が「自由席」とは!などと言っても、夕方4時頃に走る〈富士〉は、現地の特急列車を影から補完するに過ぎない存在となってしまったのか・・・
宮崎を過ぎると、山深くなっていき、単線のレールに山の斜面が迫り、生い茂る草木が窓ガラスにぶち当たる勢いだ。
都城を過ぎ、霧島神宮を出るとやがて「桜島」が勢い良く噴煙を上げている姿が目に飛び込んできた。さすが活火山!などと子供ながらに関心していると鹿児島に到着。かつては鹿児島を代表する駅であったので構内は広い!現在も残る貨物ホームが宮崎方に向いているのは、かつて肥薩線が「鹿児島本線」であった名残であろう事が現在も体感できるのがすばらしい。現在の旅客ホームは当然ながら後付けであろうが、それでも歴史を感じる風景だ。そんな鹿児島駅ではキハ20の普通列車が隣のホームに停車していた。

(1978年訪問時の宮崎駅にて。なんと地上時代!宮崎~西鹿児島は非電化(多分鹿児島~西鹿児島は電化されていたかも知れないが)のため宮崎で機関車交換。なんとDF50!こんな機関車、首都圏で見たこと無いためワクワクものであった。)
そして次の駅が本当に終点の西鹿児島である。駅到着のアナウンスが車内に響き渡ると同時に若干の寂しさを覚えたが「24時間25分」の長旅を達成した充実感に満ち溢れていた。
ハッキリ言って始発から終点まで乗車したのは私たちぐらいだけであったろう。当時、最長走行時間の列車で有名であったが、まる1日潰れてしまう移動手段を利用する人はどれだけいたであろうか。同伴の両親は恐らく精魂尽き果てていたであろうが・・・今となっては実現不可能な体験だけに、大変貴重なものとなってしまった。飛行機を使えば当然ながら24時間も移動で使うことはないであろう。ただ、早く現地に着けばいい、というだけの選択肢しかない旅はいかがであろう。それより、中には寝台特急のような選択肢もあるんだよと、そしてその選択肢も知っている、そして経験している自分は幸せであろう。色々な選択肢を知っていて、更にそれに挑戦できる事こそ旅の醍醐味ではなかろうか。私たち御一行は更に南下し、今夜の宿となる「指宿」へとローカル列車に揺られていった・・・

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寝台特急「富士」の思い出(リメイク版)①
2017-12-20

(2007年頃だったと思うが東京駅にてのひとコマ。晩年はEF66であった寝台特急「富士」の牽引機関車。私はEF65の500番台のイメージの方が強い。<写真はEF65の1000番台>)
ブルートレイン・・・それは寝台特急の代名詞であり、私達を「夢の世界」へと導いてくれる。我々人間は、人生の約3分の1を「眠る」という作業に費やし、この作業は決してやめることは許されない。しかし、この「眠る」という作業中に目的地に移動できたら、なんて効率のいい時間の使い方であろうか。そんな思いをかなえてくれる「ブルートレイン」は、その名の通り夜に走る列車であるため、眠りながら移動できることが最大のメリットである。しかし、近年は飛行機路線網の整備や新幹線の高速化、更には駅前再開発などによるビジネスホテルの増加などにより年々減少していった。また車両の老朽化や、運転士の後継者問題など様々な問題を抱え、ついに定期便のブルートレインは姿を消してしまった。
そんな中、私は小学校時代に乗った<富士>を思い出す。<富士>は、東京~西鹿児島(当時)を結ぶ、所要時間24時間25分というなんとも常識はずれの「移動手段」であった。私が初めて乗車した寝台特急であるためとても印象深く心に刻まれている。過去の記憶をたどり、是非紹介してみたい。

(画像はウィキペディアより。晩年の<富士>は<はやぶさ>と併結であった。EF66と言えば私のイメージでは「フレートライナー」である。余談だが、現在も「プラレール」で所有している。)
私は神奈川県民のため、本来なら横浜から乗車するのが普通だが、どうも中途半端は嫌いのようで、東京の親戚に若干お邪魔をし、東京からの乗車にすることにした。と言っても小学4年生。勿論一人旅など「犯罪行為」であった為、両親に駄々っ子して九州への寄行となったのは1978年8月の事である。
親戚宅出発後、地下鉄と山手線で東京駅へ。勿論私は興奮の雨あられであるが、同伴の両親も未体験ゾーンの「24時間25分」にいささか興奮気味であったであろう。
軽いフットワークと共に<富士>の停車するホームへ参上すると、既に列車は我々を待ち構えており「旅の始まり」を感じさせてくれた。「へぇ~、こんな風になっているんだぁ」みたいな感じで車内へ入り、きっぷに記された席番へ。当時、超最新型の2段ベッドの24系25型である。それまでは20系や14系などの3段式ベッドが主流であったが、時代の流れと共に2段式が主流になる。そして3段式寝台は急行列車などに格下げとなっていった。そんな時代の流れの最先端の寝台列車に乗車した私は、自身の身体がまだ華奢である事もあり、車内が凄く広く感じた・・・「ここで寝るのかい?」みたいな気持ちで、もう興奮しっぱなしである。
やがて発車へのプロローグとなるタイフォンがホームに響き渡り、18時定刻に「カクーン」と揺れを催し東京を後にした。私を乗せた列車は爽快に東海道を駆け抜けてゆく。それも実に爽快に。寝台列車なのに「寝るのがもったいない・・・」と子供ながらに感じていた私だが、茅ヶ崎を通過したときは、若干の優越感を覚えた。当時私は茅ヶ崎の耳鼻科に通院していて、帰りの茅ヶ崎駅で相模線に乗車する時刻の頃に<さくら>が通過して行き「いつかは乗りたいなぁ」と思っていた。そんな中私は<富士>を見るために相模線の乗車時刻をあと1時間遅らせると<富士>の通過シーンが拝める訳だが<富士>見たさに何回乗車時刻を遅らせた事か・・・そんな「ブルートレイン」に、今日は「乗る側」であったのだから、これは格別の思いであった。
そんな茅ヶ崎を迷う事なく通過したが、当時、鉄道で静岡より西へ行った事の無い私は、名古屋に到着したときには興奮が最高潮に達した。とは言うものの、そろそろ「子供」は寝る時間になっていた。

(1978年乗車時の西鹿児島にて撮影。当時は「バカチョンカメラ」であったため撮影テクニックはご了承を・・・)
「寝るのはもったいない!」との思いを抱きながらいつの間にか夢の中へと誘われていた私だが、一時目を覚ましたときは「三ノ宮」の駅名表が僅かに掠めた。再び気が付いたら「広島」の文字が見えた。やはり「人生の3分の1」の運命に逆らう事ができず、すっかり意識が無くなっていたようで、気付いたら明るくなっていて、初めて見る広島駅の広い構内に再び胸が騒ぎ出した。既に朝を向え、腹の虫も騒ぎ出す頃だが、食事をどうしたかはハッキリ覚えておらず、おそらく車内販売にて購入したであろう。
広島を過ぎると、他のブルートレインにはあまり聞かないレパートリーの停車駅である柳井、防府などに停車する。次の宇部は〈さくら〉なども停車し私にはお馴染みの駅であるが、更に次の停車駅は、鉄道ファンお待ちかねの下関。そう、最初の機関車交換のイベントがある駅だ。下関から隣の門司までは関門トンネルを通るため専用の機関車に牽引される。EF81(300番台)とEF30が主力だがこの日はEF30であった。個人的にはEF81(300番台)が好きであったが、まぁ仕方がない・・・と思いを巡らせながら機関車に向けシャッターを切る「カメラ小僧」と化していたのであった。

(画像はウィキペディアより。EF81の300番台はステンレス素材で出来ており「海底」に対応。後に紹介するEF30と共に関門トンネルで活躍していたが個人的にはEF81が好きであった。)

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姿なき挑戦者⑰ カシオペア(後編)
2017-04-10
さて、計画段階から函館より上りのカシオペアに乗車することが決定していて計画段階から札幌より乗りたかった自分を納得させるよう、函館ではカシオペアに乗車する前に湯の川温泉でひとっ風呂浴びる予定を組んだ。カシオペアではシャワーしかないため湯の川を選んだわけであるが、というより、私が1978年に初めて「富士」に乗車したときは、寝台特急でシャワーを浴びるなんてこと夢のまた夢であった時代だったため、この「シャワー」そものもが素敵に感じてしまうが、やはり湯船に沈み癒されたい。というより、確か青函連絡船にもシャワーや風呂の設備も確かあった記憶であるが、やはり列車も船も「揺れ」が最大の特徴であろうから、やはり日本有数の温泉街で・・・というわがままが自然と生まれてしまうのはある意味罪作りか・・・

(私が乗車した室内は「カシオペアツイン」である。被写体の中に妻であろう人物が若干写っているが、正直、あまり自慢できるものではないので、ご覧のみなさまは気にぜずに車内の雰囲気を感じてくれればいいと思う。というより、前述通りやや写真に赤みを帯びる結果になってしまった事を予めご了承いただきたい。)
というより、申し訳ないが同伴の妻は「月のもの」の最中であって温泉に入れないため、近くに有る無料の足湯で湯の川を堪能。私のみの温泉入浴となってしまった。なんて綴ってしまったら各方面からご意見頂いてしまうかも知れないが・・・湯の川の温泉街はほとんどの旅館などで日帰り入浴可のため、ブログをご覧の皆様も是非!!
って、私は湯の川温泉の観光大使でもなんでもないのだが、いずれにしても私の中では高い評価であるので内容についても保証付きである。

(これは私が撮影。ご覧の通りサロンカーであるが、ど~ですか、この貸切感。早朝のサロンカーはなぜか心地よい。この感覚、経験できたのはある意味私の財産か・・・)
さて、温泉を経て函館に戻ってきた私はカシオペアの出発時間まで待合室でその時を待つ。キオスクやお土産屋さんなどがどんどんシャッターを下ろす中、何もすることが無かったので私はワンセグで「水戸黄門」を見ていた。格さん(助さん?)が印籠を掲げる頃にちょうどカシオペアが入線する時刻となろう。予定通り、悪代官を成敗する頃にカシオペア入線のアナウンス。私ははやる気持ちを抑えながらホームへと足を弾ませた。
DD51のディーゼルエンジンの音がホーム一面に響き渡る中、銀色の車体が私を迎えてくれる。寝台特急=ブルートレインの概念がまざまざと打ち破られる斬新な車体。ワンランク上の寝台特急的なイメージになってしまう私は完全に「ブルトレ少年」なのであろうか。

(こちらはウィキペディアより。カシオペアの車体は過去の寝台特急とは全く違う感性の持ち主である事は一目瞭然であるが、ある意味昭和的感覚の進化系を味わえる列車でもある。)
気がついたら、といか、私がレールファンに復帰してから個室が当たり前の時代に変化していた寝台列車であるが、既にその件は北斗星のロイヤルで経験しているにも関わらず、カシオペアの車内はまたひと味違う。カシオペアツインとはいえ、個室であるというのが、昭和的寝台特急の感覚を持つ私としては実に新鮮。水揚げされた魚をその場で刺身にして食べている感覚だ。
気が付けばトンネル内を走る独特の「ゴーッ」という騒がしい音声が窓の外から響き渡ってくる。そう、青函トンネルだ。
考えてみたら、1983年に私は青函連絡船で北海道に初上陸した。その帰りも当然ながら連絡船を利用したが、その時は函館発0時40分発の夜行便であった。青森に4時半に到着するのだからハッキリ言って寝る暇がない。というか、落ちつかずに睡眠が取れないであろう。と思っていたが、当時はしっかりと睡眠を確保していた。なんて事をふと思い出してしまうカシオペア車内は実に充実。気が付けば外は明るくなっており、既にJR東、つまり青函トンネルを抜け本州に入っている事が無言のお告げで感じられた。

(こちらもウィキペディアより。ペイントこそ「ナウい」ものの、ご覧の交直両用機関車は実に昭和的風景。つい最近まで昭和が活躍していたという事に私的には価値を感じる。)
サロンカーへ行ってみた。ハッキリ言って貸切である。北斗星の時とはまた違い、素敵な空間。なんとなく「オトギノクニ」にでもいるような感じであった。ただ、カシオベアは「オール個室」のため、かえってサロンカーは無用の長物的であろう雰囲気であった。であるが、サロンカーのドアは自動で開閉され、昭和の私にとっては画期的な事件であった。最近は寝台特急がなくなり、こうして列車内で朝を迎えるという事が経験できるチャンスがめっきり減ってしまった。確かに豪華列車みたいなのが次々とデビューして、またデビューする予定で、一般には期待が膨らむ風景である。であるが、このカシオペアは、車体こそ新しいものの、味わえる風景は全く昭和的感覚そのもの。寝台も「オール個室」であるものの、基本的に味わえる感覚というものは2段ハネ時代とは変わらないが、個室であるから「朝の一杯」「睡眠前の晩酌」は周りを気にせずに味わえる。これは昭和の寝台特急との比較で決定的に違うもの。今に時代に是非この感覚を今の世代の方にも味わっていただきたいのだが・・・時代がそれを許さないのか。「七つ星」とかは豪華であるし私も経験してみたい。であるが「2段ハネ」に象徴されるような寝台特急、その延長線上に有るカシオペアの存在が実に眩しく素敵である。
上野駅の到着ホームは13番線ではなかったが、朝の時間帯の上野駅は、私を「いなかっぺ大将」的な昭和の感覚にしてくれる何かがなぜか心地良い。やはり私は古い人間なのか・・・そんな思いをカシオペアで感じてしまう私は、まだまだ「ブルトレ少年」なのであろうか・・・

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(私が乗車した室内は「カシオペアツイン」である。被写体の中に妻であろう人物が若干写っているが、正直、あまり自慢できるものではないので、ご覧のみなさまは気にぜずに車内の雰囲気を感じてくれればいいと思う。というより、前述通りやや写真に赤みを帯びる結果になってしまった事を予めご了承いただきたい。)
というより、申し訳ないが同伴の妻は「月のもの」の最中であって温泉に入れないため、近くに有る無料の足湯で湯の川を堪能。私のみの温泉入浴となってしまった。なんて綴ってしまったら各方面からご意見頂いてしまうかも知れないが・・・湯の川の温泉街はほとんどの旅館などで日帰り入浴可のため、ブログをご覧の皆様も是非!!
って、私は湯の川温泉の観光大使でもなんでもないのだが、いずれにしても私の中では高い評価であるので内容についても保証付きである。

(これは私が撮影。ご覧の通りサロンカーであるが、ど~ですか、この貸切感。早朝のサロンカーはなぜか心地よい。この感覚、経験できたのはある意味私の財産か・・・)
さて、温泉を経て函館に戻ってきた私はカシオペアの出発時間まで待合室でその時を待つ。キオスクやお土産屋さんなどがどんどんシャッターを下ろす中、何もすることが無かったので私はワンセグで「水戸黄門」を見ていた。格さん(助さん?)が印籠を掲げる頃にちょうどカシオペアが入線する時刻となろう。予定通り、悪代官を成敗する頃にカシオペア入線のアナウンス。私ははやる気持ちを抑えながらホームへと足を弾ませた。
DD51のディーゼルエンジンの音がホーム一面に響き渡る中、銀色の車体が私を迎えてくれる。寝台特急=ブルートレインの概念がまざまざと打ち破られる斬新な車体。ワンランク上の寝台特急的なイメージになってしまう私は完全に「ブルトレ少年」なのであろうか。

(こちらはウィキペディアより。カシオペアの車体は過去の寝台特急とは全く違う感性の持ち主である事は一目瞭然であるが、ある意味昭和的感覚の進化系を味わえる列車でもある。)
気がついたら、といか、私がレールファンに復帰してから個室が当たり前の時代に変化していた寝台列車であるが、既にその件は北斗星のロイヤルで経験しているにも関わらず、カシオペアの車内はまたひと味違う。カシオペアツインとはいえ、個室であるというのが、昭和的寝台特急の感覚を持つ私としては実に新鮮。水揚げされた魚をその場で刺身にして食べている感覚だ。
気が付けばトンネル内を走る独特の「ゴーッ」という騒がしい音声が窓の外から響き渡ってくる。そう、青函トンネルだ。
考えてみたら、1983年に私は青函連絡船で北海道に初上陸した。その帰りも当然ながら連絡船を利用したが、その時は函館発0時40分発の夜行便であった。青森に4時半に到着するのだからハッキリ言って寝る暇がない。というか、落ちつかずに睡眠が取れないであろう。と思っていたが、当時はしっかりと睡眠を確保していた。なんて事をふと思い出してしまうカシオペア車内は実に充実。気が付けば外は明るくなっており、既にJR東、つまり青函トンネルを抜け本州に入っている事が無言のお告げで感じられた。

(こちらもウィキペディアより。ペイントこそ「ナウい」ものの、ご覧の交直両用機関車は実に昭和的風景。つい最近まで昭和が活躍していたという事に私的には価値を感じる。)
サロンカーへ行ってみた。ハッキリ言って貸切である。北斗星の時とはまた違い、素敵な空間。なんとなく「オトギノクニ」にでもいるような感じであった。ただ、カシオベアは「オール個室」のため、かえってサロンカーは無用の長物的であろう雰囲気であった。であるが、サロンカーのドアは自動で開閉され、昭和の私にとっては画期的な事件であった。最近は寝台特急がなくなり、こうして列車内で朝を迎えるという事が経験できるチャンスがめっきり減ってしまった。確かに豪華列車みたいなのが次々とデビューして、またデビューする予定で、一般には期待が膨らむ風景である。であるが、このカシオペアは、車体こそ新しいものの、味わえる風景は全く昭和的感覚そのもの。寝台も「オール個室」であるものの、基本的に味わえる感覚というものは2段ハネ時代とは変わらないが、個室であるから「朝の一杯」「睡眠前の晩酌」は周りを気にせずに味わえる。これは昭和の寝台特急との比較で決定的に違うもの。今に時代に是非この感覚を今の世代の方にも味わっていただきたいのだが・・・時代がそれを許さないのか。「七つ星」とかは豪華であるし私も経験してみたい。であるが「2段ハネ」に象徴されるような寝台特急、その延長線上に有るカシオペアの存在が実に眩しく素敵である。
上野駅の到着ホームは13番線ではなかったが、朝の時間帯の上野駅は、私を「いなかっぺ大将」的な昭和の感覚にしてくれる何かがなぜか心地良い。やはり私は古い人間なのか・・・そんな思いをカシオペアで感じてしまう私は、まだまだ「ブルトレ少年」なのであろうか・・・

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姿なき挑戦者⑰ 寝台特急カシオペア (中編)
2017-04-05
前章でも触れたが、今回紹介する「カシオペア」の乗車は函館からである。上りの寝台特急に乗るという経験は皆様お有りであろうか?というか、首都圏在住の私にとっては実に贅沢なひと時であるという感覚だ。旅行最終日の朝に東京に着く。実質自宅には午前中か昼間には到着するという事だ。これすなわち翌日の仕事に備えての心構えの時間が充分すぎるくらいにある・・・写真の整理もできるし、いいね、これ!みたいな感覚で乗れる夜行列車、しかも寝台特急というのが嬉しい。しかも今回は「カシオペア」だ。だが、残念ながら、私が発注していた「メゾネットスイート」が納品されず、結果、通常のカシオペアツインになってしまった。が、それでもかなりの贅沢。20年以上レールから離れていた私にとって、この寝台特急に乗車するという事は実に意味がある。

(この章ではウィキペディアより画像を拝借してみた。先述したが、私がカシオペア乗車当時所有していたカメラのコンディションが良くなかったため画像に少々赤みが出ている。私の撮影した画像は次章で紹介してみようと思う。)
私が過去に乗車した寝台特急は「富士」「ゆうづる」「はくつる」「サンライズ」「北陸」「あけぼの」「北斗星」くらいか。しかも北斗星では初めて「ロイヤル」を体験した。その模様についてはこちらからご覧になっていただくとして、今回紹介しているカシオペアは私にとってはまったくもって新しいタイプの寝台特急であり衝撃的な列車でもあった。そう、カシオペアでは「北斗星」と同じような「スイート」がある事でこの列車の価値が倍増してくる。だが、当然のことながら「プラチナ」であるため私のような凡人ではとてもゲットする事は出来ないであろう。

(改めてウィキペディアより。函館駅でのひとコマである。連絡船が廃止され駅構内の配線は大きく変更されたが、弧を描く独特のホーム風景は昔も今も変わらない。)
ただ、実は「カシオペア」の晩年付近で私は旅行会社に毎日発注で「スイート」をお願いしていた。つまり、運転日にスイートが空いている日があったら抑えるという事を旅行会社にお願いしていたわけである。が、結果的には玉砕してしまったが、ある意味いい経験になった。というか、一般的に最後尾のスイートを憧れであろうが、私は「メゾネットタイプ」の方が好みであるのはいささか変わりものであろうか?なんて言ってはいるが、結局今回紹介するカシオペアの乗車が最初で最後であった。だが、経験できただけでも人生において輝かしい名誉と足跡を残したであろう・・・

(こちらもウィキペディアより。北海道に入ると非電化区間が連続するためご覧の機関車に変更される。機関車の重連はレールファンにとってみたら最高の「おもてなし」となるが、ご覧の機関車は国鉄時代のものであるのも感慨深いものがある。)
そんな思いもあり、私の寝台特急に対する思い入れはかなり深い。だから乗車する時は、それこそスーツビシッと決めて最上級の気持ちでその時を迎える・・・みたいな気分になる。
などと気取った台詞を記載してしまったが、紹介しているカシオペアの旅は、先述したが函館からの乗車となった。当時、江差線の制覇と函館市内の路面電車の制覇に1日取り、帰郷にカシオペアを使うという何とも贅沢な工程を組んだ。が、当然スイートなどはキャンセル待ちを含め取れず、結局予定通り「カシオペアツイン」の利用になった。それでもこうしてカシオペアの経験が出来ただけでも将来的に価値があろう。そんな寝台特急に最初で最後の乗車のため、路面電車を制覇した私は函館駅へと「はるばる」向かう。

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(この章ではウィキペディアより画像を拝借してみた。先述したが、私がカシオペア乗車当時所有していたカメラのコンディションが良くなかったため画像に少々赤みが出ている。私の撮影した画像は次章で紹介してみようと思う。)
私が過去に乗車した寝台特急は「富士」「ゆうづる」「はくつる」「サンライズ」「北陸」「あけぼの」「北斗星」くらいか。しかも北斗星では初めて「ロイヤル」を体験した。その模様についてはこちらからご覧になっていただくとして、今回紹介しているカシオペアは私にとってはまったくもって新しいタイプの寝台特急であり衝撃的な列車でもあった。そう、カシオペアでは「北斗星」と同じような「スイート」がある事でこの列車の価値が倍増してくる。だが、当然のことながら「プラチナ」であるため私のような凡人ではとてもゲットする事は出来ないであろう。

(改めてウィキペディアより。函館駅でのひとコマである。連絡船が廃止され駅構内の配線は大きく変更されたが、弧を描く独特のホーム風景は昔も今も変わらない。)
ただ、実は「カシオペア」の晩年付近で私は旅行会社に毎日発注で「スイート」をお願いしていた。つまり、運転日にスイートが空いている日があったら抑えるという事を旅行会社にお願いしていたわけである。が、結果的には玉砕してしまったが、ある意味いい経験になった。というか、一般的に最後尾のスイートを憧れであろうが、私は「メゾネットタイプ」の方が好みであるのはいささか変わりものであろうか?なんて言ってはいるが、結局今回紹介するカシオペアの乗車が最初で最後であった。だが、経験できただけでも人生において輝かしい名誉と足跡を残したであろう・・・

(こちらもウィキペディアより。北海道に入ると非電化区間が連続するためご覧の機関車に変更される。機関車の重連はレールファンにとってみたら最高の「おもてなし」となるが、ご覧の機関車は国鉄時代のものであるのも感慨深いものがある。)
そんな思いもあり、私の寝台特急に対する思い入れはかなり深い。だから乗車する時は、それこそスーツビシッと決めて最上級の気持ちでその時を迎える・・・みたいな気分になる。
などと気取った台詞を記載してしまったが、紹介しているカシオペアの旅は、先述したが函館からの乗車となった。当時、江差線の制覇と函館市内の路面電車の制覇に1日取り、帰郷にカシオペアを使うという何とも贅沢な工程を組んだ。が、当然スイートなどはキャンセル待ちを含め取れず、結局予定通り「カシオペアツイン」の利用になった。それでもこうしてカシオペアの経験が出来ただけでも将来的に価値があろう。そんな寝台特急に最初で最後の乗車のため、路面電車を制覇した私は函館駅へと「はるばる」向かう。

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姿なき挑戦者⑰ 寝台特急カシオペア (前編)
2017-03-30
「カシオペア」が時刻表上から消えてから久しいが、という事は、客車による寝台特急という概念が消えてからも久しい事になる。といというより寝台列車が大変に貴重なものとなってしまった現在、周知の通り「サンライズ」が唯一となってしまった。各都市にはリーズナブルなビジネスホテルなどが増え便利になり、更に夜行便に関しては列車がフェードアウトしていくのと反比例してバスが台頭してきて、特に若い世代からの評価が高い。夜の移動はバスが「常識」となった現在、違った意味で「バス」の番組もキャストが入れ替わり新たな旅が始まった。

(今回の記事の写真は、カメラのコンデションによりかなりお見苦しい画像を紹介してしまう事を予めご了承頂こう。こちらは上野駅で撮影した「カシオペア」であるが、「EF81」という機関車の形式からして実に昭和チックなイメージが良い!)
「カシオペア」と言えば私は「向谷実」を即座に浮かべるが、若い世代ではこの向谷氏は「鉄道好きの人の良いおじさま」的な感覚であろう。だが実は、周知の通り日本においての「フュージョン」という音楽のジャンルで人気の「カシオペア」の元メンバーであった。現在でもバンド自体は第一線で活躍するが、向谷氏は現在脱退している。しかしながらボーカルが無く、音楽の演奏のみでの勝負は、その質とセンスが問われるであろう。というか、この「カシオペア」という列車名を付ける際、実はJR東が向谷氏に打診したらしい。もちろん向谷氏は快諾、晴れてデビューとなったわけだ。

(ウィキペディアからの向谷氏。若い世代のレールファンからは「人の良いおじさま」的イメージであろうが、実はものすごいミュージシャンなのだ!)
私の場合、初めて乗車した寝台特急が「富士」であった。その模様はこちらで紹介しているが、当然ながらカシオペアのような豪華さは無く、開放B2段ハネと現在でいうシングルデラックスの2パターンしか無かった。食堂車も連結していたが、とてもとても小学生の私にとっては高嶺の花であったし、しかも当時この列車を東京から西鹿児島(当時)まで24時間25分かけてフル乗車した列車でもあったので食堂車ばかりも利用できないよねっ!みたいな列車であったから、このカシオペアは格段の進化であるとともに、当時「夢の寝台特急」として各メディアでも度々取り上げられてきた「個室寝台」が実現した形であった。もちろん先発の「北斗星」でその夢は実現していたが、カシオペアでは「オール個室」というのが魅力的であった。だがしかし・・・難点をひとつ挙げるとしたら、ひとり旅では利用しにくい事である。

(こちらは晩年の寝台特急「富士」。入線時に東京駅にて撮影した。私が小学生当時、まさか東京発の寝台特急が次々と廃止になるとは当時夢にも思わなかった。現在の頼みの綱は「サンライズ」のみとなってしまったが、車両寿命的にそろそろ局面を迎えている事であろう。)
そんな寝台特急「カシオペア」に最初で最後の乗車になったのが2009年の3月であった。ただ、全線制覇の都合上、函館からの乗車になってしまったのがやや残念であったが、終点の上野までじっくりと個室寝台を堪能。「北斗星」とはまた違った旅を味わえた。そんな旅の記憶を少しづつたどりながら紹介してみよう。

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「カシオペア」と言えば私は「向谷実」を即座に浮かべるが、若い世代ではこの向谷氏は「鉄道好きの人の良いおじさま」的な感覚であろう。だが実は、周知の通り日本においての「フュージョン」という音楽のジャンルで人気の「カシオペア」の元メンバーであった。現在でもバンド自体は第一線で活躍するが、向谷氏は現在脱退している。しかしながらボーカルが無く、音楽の演奏のみでの勝負は、その質とセンスが問われるであろう。というか、この「カシオペア」という列車名を付ける際、実はJR東が向谷氏に打診したらしい。もちろん向谷氏は快諾、晴れてデビューとなったわけだ。

(ウィキペディアからの向谷氏。若い世代のレールファンからは「人の良いおじさま」的イメージであろうが、実はものすごいミュージシャンなのだ!)
私の場合、初めて乗車した寝台特急が「富士」であった。その模様はこちらで紹介しているが、当然ながらカシオペアのような豪華さは無く、開放B2段ハネと現在でいうシングルデラックスの2パターンしか無かった。食堂車も連結していたが、とてもとても小学生の私にとっては高嶺の花であったし、しかも当時この列車を東京から西鹿児島(当時)まで24時間25分かけてフル乗車した列車でもあったので食堂車ばかりも利用できないよねっ!みたいな列車であったから、このカシオペアは格段の進化であるとともに、当時「夢の寝台特急」として各メディアでも度々取り上げられてきた「個室寝台」が実現した形であった。もちろん先発の「北斗星」でその夢は実現していたが、カシオペアでは「オール個室」というのが魅力的であった。だがしかし・・・難点をひとつ挙げるとしたら、ひとり旅では利用しにくい事である。

(こちらは晩年の寝台特急「富士」。入線時に東京駅にて撮影した。私が小学生当時、まさか東京発の寝台特急が次々と廃止になるとは当時夢にも思わなかった。現在の頼みの綱は「サンライズ」のみとなってしまったが、車両寿命的にそろそろ局面を迎えている事であろう。)
そんな寝台特急「カシオペア」に最初で最後の乗車になったのが2009年の3月であった。ただ、全線制覇の都合上、函館からの乗車になってしまったのがやや残念であったが、終点の上野までじっくりと個室寝台を堪能。「北斗星」とはまた違った旅を味わえた。そんな旅の記憶を少しづつたどりながら紹介してみよう。

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