風立ちぬ~今は秋OR冬?⑤
2020-12-10
石勝線の魅力はなんだろう?と自問自答しながら綴ってみたが、果たしてハッキリとした見解が記されていたであろうか。そして皆様に伝わったであろうか。多分どちらも満たされてはいなかったかも知れない。
ただ、ハッキリとわかることは炭坑路線が観光路線に変化した事。更に道東アクセスの役割をプラスし当時の最新設備を投資し飛躍し活躍してきた事。
ただ、沿線人口の減少やライバルである高速道路の出現で石勝線を取り巻く環境が大きく変わり、当初の思惑とは違った時代の流れを歩んでいる事も確かで、開業当時から駅や信号場の減少や格下げも目立ち北海道での鉄道経営の厳しさを改めて思いし知らされたイメージである。

夕張線の一部は特急列車が走るため改良された。開業当時、夕張線に特急列車が走る事自体強い衝撃を受けたが、現在ではその夕張線の一部であった駅も信号場等に格下げされてしまいJR北海道の厳しい現実がひしひしと伝わってくる。東追分もそのひとつだ。
それでも石勝線の新線区間はもともと人口希少地帯を走るのだから、ある程度の計算は出来ていたであろう。例えばオサワなどでわかるように駅としてではなく開業当初から信号場として現れているのは典型的な例であろうが、それでも計画当初は駅としての構想があったのだから、如何に石勝線が地元の悲願であったかお分かりであろう。
しかし、悲願が達成されよう頃にはそこに生活は無く、豊かな自然とのゴースト化した一部の集落が残るのみで、唯一、占冠が「大都会」としてリゾートと共に現在も活きているのはある意味奇跡と言っても良いくらい素晴らしい事である!そんな哀愁漂う石勝線が私は愛おしくてたまらないのであろう。

石勝線開業時には想像もしなかった建物が石勝線沿線に登場した!しかもバブル期には「リゾート」と呼ぶにふさわしい内容であったので私も憧れの存在であった。駅名も石勝高原から現駅名のトマムに改称されるほどその衝撃は凄かった。
二十歳くらいの頃、私は彼女とかとトマムのツインタワーやガレリアスイートに宿泊するのが密かな夢であった。二十代でその夢は果たせなかったが、そんな夢を抱いてしまう魅力がトマムにはある。そし2014年にはレンタカーで石勝線の各信号場と駅を巡ったが全てではなかった。
乗り潰しを主体として近年までライフワークだった名残からあまりリピートするという習慣や感覚が私には少ないように感じる中、再び三たびリピートしてきたのは石勝線のみである。
「もう、お腹いっぱい?」
いやいや、全然!私にはまだ知らない石勝線が無数にある。いや、あるはずだしもっと知りたい。石勝線の魅力について考えてみたが結論は出ない。いや、逆に完璧に魅力が全てわかってしまったら魅力が無くなってしまいそうな気がする。
魅力探しの旅…それは永遠に続きそうな気がする。だから石勝線の旅は面白いのかも知れない。

最後に鹿ノ谷であるが・・・全盛期は夕張鉄道との接続駅でもあった。広い構内が炭鉱時代の盛栄を無言で語りかけているが、現在はレールそのものがなくなってしまった。私的には新夕張~夕張はそのまま夕張線でもよかった気がするのだが、なぜ石勝線になったのか・・・その真意は如何に!

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鉄道全線完全制覇の旅
ただ、ハッキリとわかることは炭坑路線が観光路線に変化した事。更に道東アクセスの役割をプラスし当時の最新設備を投資し飛躍し活躍してきた事。
ただ、沿線人口の減少やライバルである高速道路の出現で石勝線を取り巻く環境が大きく変わり、当初の思惑とは違った時代の流れを歩んでいる事も確かで、開業当時から駅や信号場の減少や格下げも目立ち北海道での鉄道経営の厳しさを改めて思いし知らされたイメージである。

夕張線の一部は特急列車が走るため改良された。開業当時、夕張線に特急列車が走る事自体強い衝撃を受けたが、現在ではその夕張線の一部であった駅も信号場等に格下げされてしまいJR北海道の厳しい現実がひしひしと伝わってくる。東追分もそのひとつだ。
それでも石勝線の新線区間はもともと人口希少地帯を走るのだから、ある程度の計算は出来ていたであろう。例えばオサワなどでわかるように駅としてではなく開業当初から信号場として現れているのは典型的な例であろうが、それでも計画当初は駅としての構想があったのだから、如何に石勝線が地元の悲願であったかお分かりであろう。
しかし、悲願が達成されよう頃にはそこに生活は無く、豊かな自然とのゴースト化した一部の集落が残るのみで、唯一、占冠が「大都会」としてリゾートと共に現在も活きているのはある意味奇跡と言っても良いくらい素晴らしい事である!そんな哀愁漂う石勝線が私は愛おしくてたまらないのであろう。

石勝線開業時には想像もしなかった建物が石勝線沿線に登場した!しかもバブル期には「リゾート」と呼ぶにふさわしい内容であったので私も憧れの存在であった。駅名も石勝高原から現駅名のトマムに改称されるほどその衝撃は凄かった。
二十歳くらいの頃、私は彼女とかとトマムのツインタワーやガレリアスイートに宿泊するのが密かな夢であった。二十代でその夢は果たせなかったが、そんな夢を抱いてしまう魅力がトマムにはある。そし2014年にはレンタカーで石勝線の各信号場と駅を巡ったが全てではなかった。
乗り潰しを主体として近年までライフワークだった名残からあまりリピートするという習慣や感覚が私には少ないように感じる中、再び三たびリピートしてきたのは石勝線のみである。
「もう、お腹いっぱい?」
いやいや、全然!私にはまだ知らない石勝線が無数にある。いや、あるはずだしもっと知りたい。石勝線の魅力について考えてみたが結論は出ない。いや、逆に完璧に魅力が全てわかってしまったら魅力が無くなってしまいそうな気がする。
魅力探しの旅…それは永遠に続きそうな気がする。だから石勝線の旅は面白いのかも知れない。

最後に鹿ノ谷であるが・・・全盛期は夕張鉄道との接続駅でもあった。広い構内が炭鉱時代の盛栄を無言で語りかけているが、現在はレールそのものがなくなってしまった。私的には新夕張~夕張はそのまま夕張線でもよかった気がするのだが、なぜ石勝線になったのか・・・その真意は如何に!

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風立ちぬ~今は秋OR冬?④
2020-12-05
さて、石勝線の魅力について私なりに「なぜ?」を自分に問うたが、中にはこんなこともあった。
日本で初の普通列車設定無しの区間が誕生したことだ。そして新夕張~新得間では楓絡みで変則的な運賃計算が発生した。

石勝線で最も個性的であり変遷の多い駅であろう楓。本線上には旅客ホームがあるのだが、定期列車でこのホームに列車が停車する事はとうとう無かった。かつて存在した中線跡は現在ペンペン草の真っ最中であった。
石勝線開業当時はご存じ、普通列車は旧夕張線のラインを受け継ぐダイヤとなっており、いわゆる「登川支線」は新夕張~楓間で折り返し運転で設定されていた。ちなみに新しい楓は基本的に登川と旧楓の中間辺りに設置されたとの報告があるのだが、実際には旧楓寄りのイメージだったと思う。そして新らしい楓の利用者予測は開業当時で100人であった。これは旧楓と登川の利用者を単純に合計した数値らしいが、果たして当時の当事者は本気でこの数値を肯定していたのであろうか?残念ながら結果は皆様も既にご承知であろう。

続いてこちらはトマム。石勝高原時代には無かった長い跨線橋は星野リゾートまで続く。もちろん特急列車でしかやってこれない。
そんな楓は開業当時は中線一本を持ち、更に本線上にホームを持つが、それとは別に普通列車専用の独立ホームを持つ特殊な構造であった。この事ひとつでも超魅力を感じるのだが、また更に楓~新得では普通列車の設定が無く、またまた更に楓は特急列車や急行列車が通過(運転停車を覗く)するため楓から楓以東方面に行くには一旦新夕張に出て新得方面の特急列車等に乗り換えるという面倒な工程が発生する。もちろん楓~新夕張間の往復運賃は不要であるが、それにしても実際に年間でどれ程このルートでの利用があるかは別として、利用者にしてみたらなんとも面倒であろう。

石勝線開業当時は夜行急行列車「まりも」を除く全ての列車が停車していた占冠。現在はその座をトマムに譲っているが、村の人たちにとっては重要な存在であろう。もちろん普通列車はやってこないが・・・
そして、なんといっても新夕張~新得間の相互利用では特急や急行の利用は自由席に限り特急料金不要の特例ができた!これは凄い大盤振る舞いだ。では「青春18」はどうするの?という疑問が出てくるが、確か当時の時刻表などの案内には書いてなかった。しかし、私のブログに最近よく登場する「種村直樹の汽車旅相談室」にはこの石勝線の「18」に対するルールが紹介されていたが、種村氏は「18きっぷは普通列車専用のため新夕張~新得間の特急列車利用はできません」的な内容が記されていた。「あれっ?」と思われる方も少なくないであろう。当時のグレーゾーンにおいて種村氏は「乗れない」とハッキリとした見解を示していたが、青函トンネルの海峡線時代を含め皆様には現在の正しいルールが既にお分かりであろう。というより、青春18ひとつ取っても「一筋縄ではいかない」ところに石勝線の魅力を感じるのかも知れない。
もしかしたらこれから先の未来に、こうした「石勝線化」される路線が増えていくのであろうか。特に北海道辺りに顕著に見られると思われ、例えば宗谷本線や石北本線など、特に幹線系において可能性があるであろう。
普通列車がやってこない
本当にこんな駅や路線が近い将来増えていくのであろうか。石勝線が開通してから34年が経過した。34年前といえば国鉄時代であるが、既にこんなに前の時代から現在の形である唯一無二の路線が確立されていたのだ。

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日本で初の普通列車設定無しの区間が誕生したことだ。そして新夕張~新得間では楓絡みで変則的な運賃計算が発生した。

石勝線で最も個性的であり変遷の多い駅であろう楓。本線上には旅客ホームがあるのだが、定期列車でこのホームに列車が停車する事はとうとう無かった。かつて存在した中線跡は現在ペンペン草の真っ最中であった。
石勝線開業当時はご存じ、普通列車は旧夕張線のラインを受け継ぐダイヤとなっており、いわゆる「登川支線」は新夕張~楓間で折り返し運転で設定されていた。ちなみに新しい楓は基本的に登川と旧楓の中間辺りに設置されたとの報告があるのだが、実際には旧楓寄りのイメージだったと思う。そして新らしい楓の利用者予測は開業当時で100人であった。これは旧楓と登川の利用者を単純に合計した数値らしいが、果たして当時の当事者は本気でこの数値を肯定していたのであろうか?残念ながら結果は皆様も既にご承知であろう。

続いてこちらはトマム。石勝高原時代には無かった長い跨線橋は星野リゾートまで続く。もちろん特急列車でしかやってこれない。
そんな楓は開業当時は中線一本を持ち、更に本線上にホームを持つが、それとは別に普通列車専用の独立ホームを持つ特殊な構造であった。この事ひとつでも超魅力を感じるのだが、また更に楓~新得では普通列車の設定が無く、またまた更に楓は特急列車や急行列車が通過(運転停車を覗く)するため楓から楓以東方面に行くには一旦新夕張に出て新得方面の特急列車等に乗り換えるという面倒な工程が発生する。もちろん楓~新夕張間の往復運賃は不要であるが、それにしても実際に年間でどれ程このルートでの利用があるかは別として、利用者にしてみたらなんとも面倒であろう。

石勝線開業当時は夜行急行列車「まりも」を除く全ての列車が停車していた占冠。現在はその座をトマムに譲っているが、村の人たちにとっては重要な存在であろう。もちろん普通列車はやってこないが・・・
そして、なんといっても新夕張~新得間の相互利用では特急や急行の利用は自由席に限り特急料金不要の特例ができた!これは凄い大盤振る舞いだ。では「青春18」はどうするの?という疑問が出てくるが、確か当時の時刻表などの案内には書いてなかった。しかし、私のブログに最近よく登場する「種村直樹の汽車旅相談室」にはこの石勝線の「18」に対するルールが紹介されていたが、種村氏は「18きっぷは普通列車専用のため新夕張~新得間の特急列車利用はできません」的な内容が記されていた。「あれっ?」と思われる方も少なくないであろう。当時のグレーゾーンにおいて種村氏は「乗れない」とハッキリとした見解を示していたが、青函トンネルの海峡線時代を含め皆様には現在の正しいルールが既にお分かりであろう。というより、青春18ひとつ取っても「一筋縄ではいかない」ところに石勝線の魅力を感じるのかも知れない。
もしかしたらこれから先の未来に、こうした「石勝線化」される路線が増えていくのであろうか。特に北海道辺りに顕著に見られると思われ、例えば宗谷本線や石北本線など、特に幹線系において可能性があるであろう。
普通列車がやってこない
本当にこんな駅や路線が近い将来増えていくのであろうか。石勝線が開通してから34年が経過した。34年前といえば国鉄時代であるが、既にこんなに前の時代から現在の形である唯一無二の路線が確立されていたのだ。

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鉄道全線完全制覇の旅
風立ちぬ~今は秋OR冬?③
2020-11-30
石勝線の魅力はなんだろう?と自身に問うた場合、やはり新夕張~新得間は物凄い秘境地区に踏切無し、高規格線路、スノーシェルターと開業時当時の最新設備を投入した斬新の路線であり、その目的は札幌と道東アクセスを主題としたものである事がどうも私を惹き付けるみたいだ。
しかしながら計画された当初は紅葉山(現在の新夕張)から占冠を通り根室本線の金山に抜ける通称「紅葉山線」と日高町(国鉄時代の富内線、現在は廃止)から占冠を通り新得ぬける通称「狩勝線」の組み合わせで、両者の一部を具現化し現在の目的に変更し敷設された路線であることは周知の通りである。

国鉄時代の敷設計画が本気で進んでいたら大きな要衝になったであろう占冠。2面3線のホームは時刻表を見る限り旅客列車の交換は皆無であるが、貨物列車との交換風景は見れるのであろうか。
ご覧の通り、計画通りに敷設されていれば占冠が大きな拠点となっていたのは明白で、富良野辺りから占冠を通り日高町を経由して苫小牧へ出れば室蘭方面へのルートが確立する。もちろん、旅客輸送のみを目的に計画されたのではない事は誰がみても明白であろう。
ただ、石勝線の中でも重要なポイントとなるのが「トマム」の存在である。まさか先代が石勝線のルートを決める際にトマムが今のような一大リゾートとなり要衝となるとは考えもしなかったであろう。そのトマムからは現在でも本数は少ないながら金山と結ぶ路線バスが発着する。現在、根室本線の一部区間が不通になっていて、不通区間を含め廃止の案が出ているが、もし代行バスを走らせる場合金山から落合、新得と鉄道路線に忠実になるよりも金山からトマムに向かわせた方が実態にあっているではないか。実際に富良野で観光しトマムに宿泊する又はその逆のバターンの観光客が少なくないと聞く。もちろん観光客的な需要は「水物」ではあるが、やはり落合付近からトマムに接続させる方が実用的である。

私には「石勝高原」のイメージが強い駅舎風景のトマム。こちらの駅舎からの利用者は年間で何人いるのか不明だが、実は駅前から金山方面と占冠方面へ路線バスの運転がある!1日2本であるが、それでも素晴らしい。
ところで今回、この石勝線の記事を書くにあたり「北海観光節」のホームページ管理人様より全面協力をいただいた。
そこには、オサワ地区に住む開拓部落の方々の苦労や自然との戦いなどが壮絶に記されていた。
オサワは漢字で長和と書く。室蘭本線に同じく長和と書いてナガワと読む駅があるので,こちらはカタカナになっている。長和は奥穂別,上穂別とも言われた穂別町の最奥部で,明治38年に最初の8戸が入地している。
集落の中心地は信号場よりも数km南にあった。地図で見ると,ただでさえ山奥の穂別から穂別川をさかのぼること20数kmというすごいところだが,この長和にしても山一つ越えた福山にしても,鵡川を上って入植した者は皆無で,皆紅葉山から楓峠を越え稲里を経由して入植している。しかし,紅葉山から入ったにしても長和から紅葉山までは8里(32km)余りの険路で,日用品の調達すらままならない状況であった。
入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
「北海観光節」の文章をそのまま引用させていただいたが、ご覧の通りいかに壮絶だったかがものすごい勢いで伝わって来るではないか。楓方面へ道を切り開く姿などまさに時代を感じるが、現在ほど重機や道具等が発達していなかったのだからなおさら苦労が多かったに違いない。まさに命懸けの開拓である。


「新登川」として旅客駅の予定であった東オサワ信号場、とここで記して、その存在がお分かりいただけたであろうか。写真中央の白い小さな看板で「東オサワ」と表記されているが、もし旅客駅として開業していた場合、この階段を登るようなイメージで作られたのであろうか・・・
だが、時間が経過し時代が変わると高速道路が開通し石勝線も、夕張線を編入し紅葉山(新夕張)~新得が新規開通し先代の思い描いていた以上の交通手段か確立された頃にはそこに生活はなかった。つまり石勝線に信号場が多いのはこうした背景によるものがほとんどだが、そのなかでも占冠はよく現代シーンに残ってくれているものだと逆に感動してしまう。そしてトマムがリゾート地として脚光を浴び、紆余曲折はあったもののこうして今も活躍しているとは先代の頭の中には構想の欠片もなかったであろう。
「北海観光節」のホームページ管理人様、ご協力ありがとうございました。この場を借りまして、心より感謝させていただきます!

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鉄道全線完全制覇の旅
しかしながら計画された当初は紅葉山(現在の新夕張)から占冠を通り根室本線の金山に抜ける通称「紅葉山線」と日高町(国鉄時代の富内線、現在は廃止)から占冠を通り新得ぬける通称「狩勝線」の組み合わせで、両者の一部を具現化し現在の目的に変更し敷設された路線であることは周知の通りである。

国鉄時代の敷設計画が本気で進んでいたら大きな要衝になったであろう占冠。2面3線のホームは時刻表を見る限り旅客列車の交換は皆無であるが、貨物列車との交換風景は見れるのであろうか。
ご覧の通り、計画通りに敷設されていれば占冠が大きな拠点となっていたのは明白で、富良野辺りから占冠を通り日高町を経由して苫小牧へ出れば室蘭方面へのルートが確立する。もちろん、旅客輸送のみを目的に計画されたのではない事は誰がみても明白であろう。
ただ、石勝線の中でも重要なポイントとなるのが「トマム」の存在である。まさか先代が石勝線のルートを決める際にトマムが今のような一大リゾートとなり要衝となるとは考えもしなかったであろう。そのトマムからは現在でも本数は少ないながら金山と結ぶ路線バスが発着する。現在、根室本線の一部区間が不通になっていて、不通区間を含め廃止の案が出ているが、もし代行バスを走らせる場合金山から落合、新得と鉄道路線に忠実になるよりも金山からトマムに向かわせた方が実態にあっているではないか。実際に富良野で観光しトマムに宿泊する又はその逆のバターンの観光客が少なくないと聞く。もちろん観光客的な需要は「水物」ではあるが、やはり落合付近からトマムに接続させる方が実用的である。

私には「石勝高原」のイメージが強い駅舎風景のトマム。こちらの駅舎からの利用者は年間で何人いるのか不明だが、実は駅前から金山方面と占冠方面へ路線バスの運転がある!1日2本であるが、それでも素晴らしい。
ところで今回、この石勝線の記事を書くにあたり「北海観光節」のホームページ管理人様より全面協力をいただいた。
そこには、オサワ地区に住む開拓部落の方々の苦労や自然との戦いなどが壮絶に記されていた。
オサワは漢字で長和と書く。室蘭本線に同じく長和と書いてナガワと読む駅があるので,こちらはカタカナになっている。長和は奥穂別,上穂別とも言われた穂別町の最奥部で,明治38年に最初の8戸が入地している。
集落の中心地は信号場よりも数km南にあった。地図で見ると,ただでさえ山奥の穂別から穂別川をさかのぼること20数kmというすごいところだが,この長和にしても山一つ越えた福山にしても,鵡川を上って入植した者は皆無で,皆紅葉山から楓峠を越え稲里を経由して入植している。しかし,紅葉山から入ったにしても長和から紅葉山までは8里(32km)余りの険路で,日用品の調達すらままならない状況であった。
入植者達は互いに助け合って困窮した生活をしのいでいたが,しだいに絶望感が漂いはじめたあるとき,楓のほうから汽笛が聞こえてきたという。「汽笛がこんな近くに聞こえるのだから,この山を越えれば鉄道が走っているのではないか!」。開拓民達は期待に胸を膨らませ,明治39年3月,さっそく探検隊を結成して山中へと入った。しかし,人跡未踏の山の中である。背丈より高い藪に覆われ見通しはまったくきかず迷うこと3日,とうとう駅を発見できないうちに食料が尽きて村に引き返した。
これにも屈せず,隊員を4名から6名に増強して再度山に分け入り,探検すること4昼夜におよんだが,またも方向を失い食糧も尽きて,一行は大木の下に腰を下ろして茫然とした。しかし天は彼らを見放さなかった。そのとき汽笛一声虚空を破って響きわたり,一行は息を吹き返して山をすべり降りた。そこは楓炭鉱で,炭鉱事務所を訪問し事情を話したところ厚く歓迎され,楓に来たという証明書を書いてもらって村へ持ちかえったという。
すぐに部落民総出で道路開削工事に取り掛かったが,測量中に道を失うなど難航に難航を重ね,馬も通れる道ができたのは4年後のことであった。
「北海観光節」の文章をそのまま引用させていただいたが、ご覧の通りいかに壮絶だったかがものすごい勢いで伝わって来るではないか。楓方面へ道を切り開く姿などまさに時代を感じるが、現在ほど重機や道具等が発達していなかったのだからなおさら苦労が多かったに違いない。まさに命懸けの開拓である。


「新登川」として旅客駅の予定であった東オサワ信号場、とここで記して、その存在がお分かりいただけたであろうか。写真中央の白い小さな看板で「東オサワ」と表記されているが、もし旅客駅として開業していた場合、この階段を登るようなイメージで作られたのであろうか・・・
だが、時間が経過し時代が変わると高速道路が開通し石勝線も、夕張線を編入し紅葉山(新夕張)~新得が新規開通し先代の思い描いていた以上の交通手段か確立された頃にはそこに生活はなかった。つまり石勝線に信号場が多いのはこうした背景によるものがほとんどだが、そのなかでも占冠はよく現代シーンに残ってくれているものだと逆に感動してしまう。そしてトマムがリゾート地として脚光を浴び、紆余曲折はあったもののこうして今も活躍しているとは先代の頭の中には構想の欠片もなかったであろう。
「北海観光節」のホームページ管理人様、ご協力ありがとうございました。この場を借りまして、心より感謝させていただきます!

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鉄道全線完全制覇の旅
風立ちぬ~今は秋OR冬?②
2020-11-25
1983年秋、初めて北の大地を踏みしめた私は、同年の夏に中学三年生で東北一周の旅を経験したせいか、ひとまわり自分が大きくなったような余裕があった気がした。
東北ではトラブルの連続で、事前に立てた計画の原型がかなり崩れて即興で事態を修復する…そんな経験を積んだための、北海道では適応能力が身に付いた故の余裕だったのかも知れない。結果的に北海道の旅は100%事前計画通りに進んだが、むしろトラブルを望んでいたのかも知れない。

2014年訪問時の清水沢。もちろん「三菱」の姿はないが面影があるのはなんともノスタルジー。ホームと駅舎を結ぶ通路の長さが石炭時代の盛栄を無言で語りかけていた。
そんな中での石勝線初訪。まだまだ「夕張線」のイメージが強く、新夕張~新得イコール石勝線のイメージであったが、考えてみたら既存の追分~新夕張間も改良され新夕張~新得間と同等の規格になっているのだから、千歳空港(当時)~追分間も含め石勝線でよかろうと思う。ただ、新夕張~夕張間を「石勝線」としたのは個人的に疑問が残るのだが皆様はどうお考えであろうか。
結果、本線から「支線」に転落した新夕張~夕張間であるが、まだ当時は「三菱石炭鉱業」が清水沢で接続していたのだから時代を感じる。

こちらも2014年に訪問した時の楓の超有名アングルである。信号場に格下げされて10年が経過したが(当時)、駅舎こそ無いものの普通列車専用の独立ホームと本線上の旅客ホームは未だ健在であった。ただ、中線は撤去され本線上のホームへの通路は固く閉ざされていた。右側の道路は旧登川支線である事は周知の通り。
1983年の初訪は苫小牧から夕張線、いや、石勝線直通の夕張行きに乗り夕張を目指したが、この列車は石勝線開通前から設定されていた「夕張線」の名残を留めたダイヤであった。私は初代夕張駅を経験したが、正直言って夜の時間帯だったため駅風景を確認する事は難しく、それこそ「立ち寄った」に過ぎなかった。ただ、最初で最後であるが現役時代の楓を経験できてある意味貴重であったろう。ただ、欲を言えばスイッチバック時代の楓を経験してみたかったという贅沢な思いもある。しかしながらスイッチバック時代の楓を知る者は、登川支線の楓がまさか本線上の駅に、そして信号場へと変化するとは誰も思わなかったであろう。

「紅葉山」の現役時代である。現在の道の駅とその駐車場付近よりやや西寄りにあった。1983年に私が訪問した時はレールがはがされホームのみの残骸があった(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」のHP<現在は閉鎖>を管理していらっしゃるミックスマテリアル様提供)。
そんな石勝線の「本線」であるが、今でこそ信号場であるオサワ地区にはもの凄く壮絶な逸話がある。その辺りは次回に紹介したいと思うが、まさに開拓部落の方々の命懸けのドラマがそこにはあった。

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鉄道全線完全制覇の旅
東北ではトラブルの連続で、事前に立てた計画の原型がかなり崩れて即興で事態を修復する…そんな経験を積んだための、北海道では適応能力が身に付いた故の余裕だったのかも知れない。結果的に北海道の旅は100%事前計画通りに進んだが、むしろトラブルを望んでいたのかも知れない。

2014年訪問時の清水沢。もちろん「三菱」の姿はないが面影があるのはなんともノスタルジー。ホームと駅舎を結ぶ通路の長さが石炭時代の盛栄を無言で語りかけていた。
そんな中での石勝線初訪。まだまだ「夕張線」のイメージが強く、新夕張~新得イコール石勝線のイメージであったが、考えてみたら既存の追分~新夕張間も改良され新夕張~新得間と同等の規格になっているのだから、千歳空港(当時)~追分間も含め石勝線でよかろうと思う。ただ、新夕張~夕張間を「石勝線」としたのは個人的に疑問が残るのだが皆様はどうお考えであろうか。
結果、本線から「支線」に転落した新夕張~夕張間であるが、まだ当時は「三菱石炭鉱業」が清水沢で接続していたのだから時代を感じる。

こちらも2014年に訪問した時の楓の超有名アングルである。信号場に格下げされて10年が経過したが(当時)、駅舎こそ無いものの普通列車専用の独立ホームと本線上の旅客ホームは未だ健在であった。ただ、中線は撤去され本線上のホームへの通路は固く閉ざされていた。右側の道路は旧登川支線である事は周知の通り。
1983年の初訪は苫小牧から夕張線、いや、石勝線直通の夕張行きに乗り夕張を目指したが、この列車は石勝線開通前から設定されていた「夕張線」の名残を留めたダイヤであった。私は初代夕張駅を経験したが、正直言って夜の時間帯だったため駅風景を確認する事は難しく、それこそ「立ち寄った」に過ぎなかった。ただ、最初で最後であるが現役時代の楓を経験できてある意味貴重であったろう。ただ、欲を言えばスイッチバック時代の楓を経験してみたかったという贅沢な思いもある。しかしながらスイッチバック時代の楓を知る者は、登川支線の楓がまさか本線上の駅に、そして信号場へと変化するとは誰も思わなかったであろう。

「紅葉山」の現役時代である。現在の道の駅とその駐車場付近よりやや西寄りにあった。1983年に私が訪問した時はレールがはがされホームのみの残骸があった(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」のHP<現在は閉鎖>を管理していらっしゃるミックスマテリアル様提供)。
そんな石勝線の「本線」であるが、今でこそ信号場であるオサワ地区にはもの凄く壮絶な逸話がある。その辺りは次回に紹介したいと思うが、まさに開拓部落の方々の命懸けのドラマがそこにはあった。

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鉄道全線完全制覇の旅
風立ちぬ~今は秋OR冬?①
2020-11-20
風立ちぬ~今は秋。今日から私は心の旅人・・・というよりこの記事がアップされる頃にはほぼ冬の域に足を踏み入れている事であろう。
ところで、私が日本で一番好きな鉄道路線は石勝線であり、しかも新夕張~新得間であることは再三に渡りこのブログにてお伝えしてきたが、この意見にどれだけの方が協賛、そして賛同してくれるであろうか。もちろん魅力的な鉄道路線は他にもたくさんあり、そして人気のある路線も少なくない。ただ「一番というと…」という声も少なくないであろう。
ではなぜ私がこれほどまでに石勝線に魅力を感じているのか、この章を通じて皆様に少しでもご理解いただけたら幸いである。

1983年10月訪問時の新夕張。紅葉山から新夕張に改称されて2年が経過しているが、訪問当時の私は新しい「夕張線」を実に肌で感じた気持ちであった。駅前を散策したところ、現在の道の駅の場所に旧・紅葉山のホームなどの残骸がしっかり残っていた。
さて、ここで石勝線についていろいろ述べていくが、細かい歴史や沿革についてはウィキやその他鉄道誌に記載されている内容をダラダラト復唱する気は毛頭ない。というよりその辺りはそちら方面にお任せして、ここでは私の個人的意見や実際に訪問して感じた事をメインに綴りたいと思う。
私が石勝線に最初に訪問したのはこのブログにて再三に渡り紹介している1983年10月の事であった。メインテーマである白糠線廃止情報を受けての乗り収めに参戦する事であったが、夕張線から改良された石勝線誕生は私にとってもの凄く斬新な出来事で、特に新夕張~新得間はなぜか物凄く興味をそそられた。また、炭坑路線であったローカル線に一躍特急列車が走るとは実に画期的で、更には楓の普通列車独立ホームや連なる信号場や超秘境を走るのに当時としては最新の鉄道技術を駆使し道東アクセスとして最大の貢献をするなど、当時発行の鉄道ジャーナルや鉄道ファンなどくまなく読みいつか訪問したいと目をギラギラさせていた。
特に占冠や石勝高原(現、トマム)には実際にホームに降りたい!と中学生ながらに思っていた。

紅葉山から劇的に変化した新夕張。2014年訪問時に撮影したものなので、移転開業から実に33年が経過していたのだが、老朽化が見え隠れする場面を目の当たりにすると、開業当時の華やかさが嘘のように思えるのは気のせいか・・・
実際に下車できたのは1994年1月にトマム、占冠に至っては開業から33年経った2014年に下車というよりレンタカーでの訪問が事実上初であった。33年と言えば生まれた娘が33歳になったという事になるが、それほどの年月が経った事になる。開業当時は最新技術であった鉄道設備も、この時訪れた時には既に老朽化の入口に入りかけていた印象であった、くらいの時間が経過した事になる。にも関わらず石勝線への思いは殆んど変化がないのは自分でも面白いと思う。もちろん石北本線や宗谷本線など魅力たっぷりの路線はあるし、芸備線や、もっと言えば廃止された清水港線なんて大好きな路線でもある。しかしながら石勝線はそれらより群を抜いて強烈に私にアピールしてくるのはなぜだろうか。そんな思いが6年前(2020年現在)、石勝線のレンタカーでの訪問に結びついてくるわけであるが、特に東オサワ信号場他、各信号場への訪問が実現した事は人生で最大の部類に入る嬉しさを感じた。

2014年訪問時の東オサワである。もちろんであるがレンタカーでの訪問で、ご覧の通り「野生」「ジャングル」の血が漂う。というより、1983年に初めて石勝線に訪れたのが中学三年であったのでこうした信号場への訪問はほぼ不可能であったのだから、こうして未知の世界への冒険ができるようになった自分が実に幸せを感じるとともに、そうした環境にいられる事への感謝の気持ちが沸いて来る!的な思いを感じる石勝線の存在は私にとってはかけがえのないものである。
ただ、自然界の法則に規則正しく則っているため、特に東オサワなどは詰所には上から蛇が降ってきたりしたので近寄れなかったし、中には目の前まで来ていたにもかかわらず、取材を断念した事もあった。それでも石勝線の驚異を肌で実感できただけでも貴重な体験であったし、更に再び挑戦しようと硬い決意をした場面もあった。
正直言って私は大自然よりも都会の風景を好むが、特にオサワ辺りはハッキリ言って「ジャングル」である。よくぞこの地に鉄道を敷設しようとし、そして実際に現場にて果敢に山を切り開き、トンネルを掘ろうと行動した先代はとても勇敢であり素晴らしいとつくづく思う。現在ほど重機や技術も発達していない時代によくこれだけの仕事を成し遂げた事実は素晴らしい。ただ、時代の波には逆らえず、信号場や駅の廃止や格下げもあり開業当時よりかなり姿が変わってきている。将来を見越した設計であったが、先代の思いとは違った方向に進んでしまうのはある意味辛い部分でもあろう。石勝線が、というより経営母体であるJR北海道自身の経営が危ぶまれている現在、今後の動向が非常に注目されよう。

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ところで、私が日本で一番好きな鉄道路線は石勝線であり、しかも新夕張~新得間であることは再三に渡りこのブログにてお伝えしてきたが、この意見にどれだけの方が協賛、そして賛同してくれるであろうか。もちろん魅力的な鉄道路線は他にもたくさんあり、そして人気のある路線も少なくない。ただ「一番というと…」という声も少なくないであろう。
ではなぜ私がこれほどまでに石勝線に魅力を感じているのか、この章を通じて皆様に少しでもご理解いただけたら幸いである。

1983年10月訪問時の新夕張。紅葉山から新夕張に改称されて2年が経過しているが、訪問当時の私は新しい「夕張線」を実に肌で感じた気持ちであった。駅前を散策したところ、現在の道の駅の場所に旧・紅葉山のホームなどの残骸がしっかり残っていた。
さて、ここで石勝線についていろいろ述べていくが、細かい歴史や沿革についてはウィキやその他鉄道誌に記載されている内容をダラダラト復唱する気は毛頭ない。というよりその辺りはそちら方面にお任せして、ここでは私の個人的意見や実際に訪問して感じた事をメインに綴りたいと思う。
私が石勝線に最初に訪問したのはこのブログにて再三に渡り紹介している1983年10月の事であった。メインテーマである白糠線廃止情報を受けての乗り収めに参戦する事であったが、夕張線から改良された石勝線誕生は私にとってもの凄く斬新な出来事で、特に新夕張~新得間はなぜか物凄く興味をそそられた。また、炭坑路線であったローカル線に一躍特急列車が走るとは実に画期的で、更には楓の普通列車独立ホームや連なる信号場や超秘境を走るのに当時としては最新の鉄道技術を駆使し道東アクセスとして最大の貢献をするなど、当時発行の鉄道ジャーナルや鉄道ファンなどくまなく読みいつか訪問したいと目をギラギラさせていた。
特に占冠や石勝高原(現、トマム)には実際にホームに降りたい!と中学生ながらに思っていた。

紅葉山から劇的に変化した新夕張。2014年訪問時に撮影したものなので、移転開業から実に33年が経過していたのだが、老朽化が見え隠れする場面を目の当たりにすると、開業当時の華やかさが嘘のように思えるのは気のせいか・・・
実際に下車できたのは1994年1月にトマム、占冠に至っては開業から33年経った2014年に下車というよりレンタカーでの訪問が事実上初であった。33年と言えば生まれた娘が33歳になったという事になるが、それほどの年月が経った事になる。開業当時は最新技術であった鉄道設備も、この時訪れた時には既に老朽化の入口に入りかけていた印象であった、くらいの時間が経過した事になる。にも関わらず石勝線への思いは殆んど変化がないのは自分でも面白いと思う。もちろん石北本線や宗谷本線など魅力たっぷりの路線はあるし、芸備線や、もっと言えば廃止された清水港線なんて大好きな路線でもある。しかしながら石勝線はそれらより群を抜いて強烈に私にアピールしてくるのはなぜだろうか。そんな思いが6年前(2020年現在)、石勝線のレンタカーでの訪問に結びついてくるわけであるが、特に東オサワ信号場他、各信号場への訪問が実現した事は人生で最大の部類に入る嬉しさを感じた。

2014年訪問時の東オサワである。もちろんであるがレンタカーでの訪問で、ご覧の通り「野生」「ジャングル」の血が漂う。というより、1983年に初めて石勝線に訪れたのが中学三年であったのでこうした信号場への訪問はほぼ不可能であったのだから、こうして未知の世界への冒険ができるようになった自分が実に幸せを感じるとともに、そうした環境にいられる事への感謝の気持ちが沸いて来る!的な思いを感じる石勝線の存在は私にとってはかけがえのないものである。
ただ、自然界の法則に規則正しく則っているため、特に東オサワなどは詰所には上から蛇が降ってきたりしたので近寄れなかったし、中には目の前まで来ていたにもかかわらず、取材を断念した事もあった。それでも石勝線の驚異を肌で実感できただけでも貴重な体験であったし、更に再び挑戦しようと硬い決意をした場面もあった。
正直言って私は大自然よりも都会の風景を好むが、特にオサワ辺りはハッキリ言って「ジャングル」である。よくぞこの地に鉄道を敷設しようとし、そして実際に現場にて果敢に山を切り開き、トンネルを掘ろうと行動した先代はとても勇敢であり素晴らしいとつくづく思う。現在ほど重機や技術も発達していない時代によくこれだけの仕事を成し遂げた事実は素晴らしい。ただ、時代の波には逆らえず、信号場や駅の廃止や格下げもあり開業当時よりかなり姿が変わってきている。将来を見越した設計であったが、先代の思いとは違った方向に進んでしまうのはある意味辛い部分でもあろう。石勝線が、というより経営母体であるJR北海道自身の経営が危ぶまれている現在、今後の動向が非常に注目されよう。

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