白糠線・リメイク・アゲイン⑤
2020-02-15
上茶路を過ぎ下北進を過ぎるといよいよ北進に到着するわけであるが、景色的には上白糠からさして変化はない。大自然に囲まれ酪農業が盛んな印象の風景が続いているが、終点の北進は周囲に本当に何もない。文明と呼べる、鉄道経営における収入源となろう民家や産業的なものが何もない。あるのは草木に囲まれた大自然のみ。よくぞここに旅客駅を設けたものだと、中学生でも関心してしまうくらいに何もない。駅を降りたのはほぼ100%レールファンであった。そして各方面へ放射状に散っていく。もちろんその後は乗ってきた列車でほぼ全員が折り返すのだから車掌もあえて改札に来ない。

上茶路はかつて石炭の積出があったらしいが、私の訪問当時は既に広い構内の側線は錆び付いており役目を終えていた。
北進に到着し「いい旅チャレンジ20000km」としてとりあえず1線区制覇した。わざわざ周遊券を使い連絡船や夜行列車を乗り継ぎこの1線区のために力を振り絞った。乗ってしまえば何て事はないが、もう乗れなくなると思うとなぜか心苦しい。北進の先は約100~200メートルくらい線路が伸びていた。その線路の先にレールがつながる日がもし来たとしたら、当時の私でも胸ワクワクものであったろう。いや、更に北に進むんだよとあえて車止めを駅から遠ざけたのかも知れない。

下北進は既にメンテナンスを終了していたのか、駅名標の文字が読みにくくなっていた。もう新しく塗り替えられる事は・・・
北進から先の未成線では螺湾(らわん)という駅が計画されていた。そしてそこから更に分岐し阿寒湖方面を経て北見相生方面への接続が計画されていた。これ、完成していたらすごいよね?って思う。もちろん収支関係は別として・・・
恐らく足寄出身の松山千春の印象や発言もやや変化があったろう。ほんのわずかではあろうが「螺湾蕗」を持つその手には若干ながら力の入りが違っていたはずだ。
北進まで開通してたった11年で幕を降ろした白糠線であるが、当時、日本一の赤字路線と囁かれた美幸線より先に廃止された白糠線は、ある意味私にとって英雄である。

終点の北進では既に紅葉の時期に入っていた。というか、当時中学生の私にとって季節とか全く関係なかったと思う。それよりこの白糠線が消えていってしまう事のほうが至って重要であった。
私の身近にあった廃止路線は相模線・寒川支線であった。いわゆる西寒川支線と一般的に呼ばれるもので寒川~西寒川間の1.5kmであった。もちろんこのブログで何度も紹介しているが、この寒川支線に至っては事前に廃止されるという情報が白糠線ほど目立ってされなかった。いわば地味にフェードアウトしていったわけであるが、廃止当日はTBSラジオのクルーも現れたしそれなりに賑やかであった。もちろん思い入れも強いが、この白糠線も私が始めて北の大地を踏み、そして訪ねた路線としての思い入れは強い。

私のブログに何度も登場した北進駅全景。ご覧の通り、鉄道施設以外に文明と呼べる物が無いに等しい。ここから更に北へ向かい足寄までの延伸計画があったが・・・ただ、スペース的に将来交換設備が設けられるよう準備がなされていた記憶であった。
私が訪問してから約2週間後に白糠線はその生涯を終えた。その後町営バスが後を引き継いだが、確か時刻表には掲載されていなかった気がする。当時、士幌線の糠平~十勝三股間が代行バスの時刻表が掲載されていて特異な空気を醸し出していたが、白糠線のそれはなかったのは残念であった。
そして白糠線廃止後、次々と全国のローカル線が廃止されていった。特に北海道の鉄道路線は現在、国鉄時代の半分位の姿になってしまい、更に現在でも札沼線の一部や日高本線などの廃止が囁かれている。もしかしたら北海道の鉄道路線は、近い将来、札幌近郊のみになってしまうかも知れない。そんな事を示唆させる第一歩が、もしかしたら白糠線だったのであろうか・・・

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上茶路はかつて石炭の積出があったらしいが、私の訪問当時は既に広い構内の側線は錆び付いており役目を終えていた。
北進に到着し「いい旅チャレンジ20000km」としてとりあえず1線区制覇した。わざわざ周遊券を使い連絡船や夜行列車を乗り継ぎこの1線区のために力を振り絞った。乗ってしまえば何て事はないが、もう乗れなくなると思うとなぜか心苦しい。北進の先は約100~200メートルくらい線路が伸びていた。その線路の先にレールがつながる日がもし来たとしたら、当時の私でも胸ワクワクものであったろう。いや、更に北に進むんだよとあえて車止めを駅から遠ざけたのかも知れない。

下北進は既にメンテナンスを終了していたのか、駅名標の文字が読みにくくなっていた。もう新しく塗り替えられる事は・・・
北進から先の未成線では螺湾(らわん)という駅が計画されていた。そしてそこから更に分岐し阿寒湖方面を経て北見相生方面への接続が計画されていた。これ、完成していたらすごいよね?って思う。もちろん収支関係は別として・・・
恐らく足寄出身の松山千春の印象や発言もやや変化があったろう。ほんのわずかではあろうが「螺湾蕗」を持つその手には若干ながら力の入りが違っていたはずだ。
北進まで開通してたった11年で幕を降ろした白糠線であるが、当時、日本一の赤字路線と囁かれた美幸線より先に廃止された白糠線は、ある意味私にとって英雄である。

終点の北進では既に紅葉の時期に入っていた。というか、当時中学生の私にとって季節とか全く関係なかったと思う。それよりこの白糠線が消えていってしまう事のほうが至って重要であった。
私の身近にあった廃止路線は相模線・寒川支線であった。いわゆる西寒川支線と一般的に呼ばれるもので寒川~西寒川間の1.5kmであった。もちろんこのブログで何度も紹介しているが、この寒川支線に至っては事前に廃止されるという情報が白糠線ほど目立ってされなかった。いわば地味にフェードアウトしていったわけであるが、廃止当日はTBSラジオのクルーも現れたしそれなりに賑やかであった。もちろん思い入れも強いが、この白糠線も私が始めて北の大地を踏み、そして訪ねた路線としての思い入れは強い。

私のブログに何度も登場した北進駅全景。ご覧の通り、鉄道施設以外に文明と呼べる物が無いに等しい。ここから更に北へ向かい足寄までの延伸計画があったが・・・ただ、スペース的に将来交換設備が設けられるよう準備がなされていた記憶であった。
私が訪問してから約2週間後に白糠線はその生涯を終えた。その後町営バスが後を引き継いだが、確か時刻表には掲載されていなかった気がする。当時、士幌線の糠平~十勝三股間が代行バスの時刻表が掲載されていて特異な空気を醸し出していたが、白糠線のそれはなかったのは残念であった。
そして白糠線廃止後、次々と全国のローカル線が廃止されていった。特に北海道の鉄道路線は現在、国鉄時代の半分位の姿になってしまい、更に現在でも札沼線の一部や日高本線などの廃止が囁かれている。もしかしたら北海道の鉄道路線は、近い将来、札幌近郊のみになってしまうかも知れない。そんな事を示唆させる第一歩が、もしかしたら白糠線だったのであろうか・・・

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白糠線・リメイク・アゲイン④
2020-02-10
上白糠に着く。私は駅名標を撮影するのに精一杯であったが、冷静に考えると周囲には何もない。いや、何もないという表現は正しくない。実際には酪農業と大自然の風景が広がっていると言えばいいだろうか。「何もない」とは、鉄道を銭儲けとして運営するにあたり、旅客や産業などの文明が乏しいという事だ。ただ、列車の中はレールファンで大盛況である。
上白糠を過ぎると公式では茶路であるが、茶路と上白糠との間には共栄仮乗降場がある。全国版の時刻表に載っていない、いわば「隠れキャラ」であったが、ここ白糠線にも唯一の存在。函館で「道内時刻表」を購入していた私はしっかり確認済みであった。現在のJR時代には考えられないであろうし、新しい現在の若いレールファンには無い認識であろうが、特に北海道にはこの仮乗降場が多く存在し、その駅を見つける事自体が非常にエキサイトする場面でもあった。

上白糠は白糠を出て最初の駅。白糠線の晩年では一閉塞のためすべての駅が棒線化されていた。もちろんここ上白糠も。
仮乗降場は基本的に板張りや枕木を並べたホームが特徴であったが、例えば宗谷本線の天塩川温泉のように、国鉄時代は仮乗降場でも現在は普通に隠れキャラとは思えないほど立派なものもあった。ちなみに私が当時最も憧れた仮乗降場は天北線にあった「飛行場前」や名寄本線にあった「四号線」であった。

白糠線唯一の仮乗降場である共栄。国鉄に馴染みのない世代ではこの仮乗降場は伝説に過ぎないであろうが、当時の「道内時刻表」にはこの仮乗降場もちゃんと掲載されていて、それを見つけるとわけもなく興奮したものだ。
共栄仮乗降場も確か板張りの駅であった記憶で、宗谷本線の糠南的な感じだったと思う。
さて、共栄を過ぎると茶路、縫別と停車するが、私は駅名標等を撮影するのに夢中で、景色を見ながらこの路線の存在理由や今後などの推測などはする余裕も無かった。いや、当時はまだ中学生だったので、そんな知識すらなかった。ただ「廃止」と聞くと一目散に駆けつける・・・みたいな衝動に駆られる以外に術のない中学生であったのだ。

茶路では駅前にやや生活を感じる。だが、鉄道経営に影響を与えるほどの生活感を感じ取ることはできなかった記憶だ。
そして縫別を過ぎると上茶路に着くとやや構内が広い雰囲気を感じ取った。ホームも島式でありいくつかの側線も確認できた。もちろん機能していなかったが、それでもかつての盛栄を感じ取ることができた。中学生なりに。近年まではホームや側線が残っていたらしいが、現在はどうなのだろうか。私は北海道の数々の廃線跡を巡ってきたが、ここ白糠線は未だ訪問していない。いずれは訪問してみたいが、なにせ35年以上も初訪から経過している。だが、上茶路は今もやや残骸が残っていると聞いた。いつか、というか近い将来に訪問してみたい。

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上白糠を過ぎると公式では茶路であるが、茶路と上白糠との間には共栄仮乗降場がある。全国版の時刻表に載っていない、いわば「隠れキャラ」であったが、ここ白糠線にも唯一の存在。函館で「道内時刻表」を購入していた私はしっかり確認済みであった。現在のJR時代には考えられないであろうし、新しい現在の若いレールファンには無い認識であろうが、特に北海道にはこの仮乗降場が多く存在し、その駅を見つける事自体が非常にエキサイトする場面でもあった。

上白糠は白糠を出て最初の駅。白糠線の晩年では一閉塞のためすべての駅が棒線化されていた。もちろんここ上白糠も。
仮乗降場は基本的に板張りや枕木を並べたホームが特徴であったが、例えば宗谷本線の天塩川温泉のように、国鉄時代は仮乗降場でも現在は普通に隠れキャラとは思えないほど立派なものもあった。ちなみに私が当時最も憧れた仮乗降場は天北線にあった「飛行場前」や名寄本線にあった「四号線」であった。

白糠線唯一の仮乗降場である共栄。国鉄に馴染みのない世代ではこの仮乗降場は伝説に過ぎないであろうが、当時の「道内時刻表」にはこの仮乗降場もちゃんと掲載されていて、それを見つけるとわけもなく興奮したものだ。
共栄仮乗降場も確か板張りの駅であった記憶で、宗谷本線の糠南的な感じだったと思う。
さて、共栄を過ぎると茶路、縫別と停車するが、私は駅名標等を撮影するのに夢中で、景色を見ながらこの路線の存在理由や今後などの推測などはする余裕も無かった。いや、当時はまだ中学生だったので、そんな知識すらなかった。ただ「廃止」と聞くと一目散に駆けつける・・・みたいな衝動に駆られる以外に術のない中学生であったのだ。

茶路では駅前にやや生活を感じる。だが、鉄道経営に影響を与えるほどの生活感を感じ取ることはできなかった記憶だ。
そして縫別を過ぎると上茶路に着くとやや構内が広い雰囲気を感じ取った。ホームも島式でありいくつかの側線も確認できた。もちろん機能していなかったが、それでもかつての盛栄を感じ取ることができた。中学生なりに。近年まではホームや側線が残っていたらしいが、現在はどうなのだろうか。私は北海道の数々の廃線跡を巡ってきたが、ここ白糠線は未だ訪問していない。いずれは訪問してみたいが、なにせ35年以上も初訪から経過している。だが、上茶路は今もやや残骸が残っていると聞いた。いつか、というか近い将来に訪問してみたい。

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白糠線 リメイク・アゲイン③
2020-02-05
弱冠中学生にして初めて青函連絡船にのり、そして初めて新鋭のキハ183系に乗車。さらに、今回白糠線と併せて訪問テーマでもあった開業してまだ間もない石勝線探索も慣行した。以前にも話したが、私が一番お気にいりの鉄道路線は石勝線だ。しかも新夕張~上落合の新線区間である。残念ながら白糠線には向かう道中は石勝線が夜の時間帯の訪問になってしまうが、翌日の白糠線制覇後は特急「おおぞら」で昼間の時間帯にじっくり観察できる。とりあえず私は札幌に向かい、今夜の宿となる急行「まりも」の夜行列車バージョンで白糠を目指した。もちろん自由席だ。
ある程度は予測していたが、白糠に到着すると同業者がやたらと下車した。夏休みでもない平日によくこれだけの人が集まるなと中学生ながらに関心していたが、逆に長期休暇ではないのによくこんな所に中学生がやって来たなどと周りから関心を持たれていたかも知れない。

札幌より夜行急行列車「まりも」で白糠に到着。途中、新得、帯広などで入場券を購入するため改札を出た。特に帯広は深夜未明の時間帯で全く人気がなかった記憶だ。新得では上下の「まりも」の列車交換風景が見られた。
白糠では約一時間の待ち合わせがあった。
白糠のホームにやって来た白糠線下り始発列車は釧路発の2両編成で、当時は知らなかったが急行「ノサップ」の合間に使用されている車両であった。もちろん白糠始発ではないため既に乗客はいたが、意外に座席が空いていたので終点の北進まで座ることができたのは嬉しかった。

こちらは白糠線制覇後再び白糠に戻ってきた時の風景である。やはり同業者ギャラリーが多数。このあとギャラリー達は帯広方面と釧路方面に別れたが、私は釧路に行き、折り返し特急「おおぞら」で札幌目指した。
さて、2両編成のDCは白糠を出ると早速右に折れる。白糠線とはもともと根室本線のバイパス的な役割をする路線の一部で白糠より北に向かい終点の北進より更に北へ進み螺湾を経て池北線(当時)の足寄に繋がる路線の一部であった。更に足寄より新得を結んで根室本線のバイパス的な役割をさせる予定であったが、沿線の人口や産業などがかなり乏しく、というより石炭産業も傾きを見せ始めていたし、そして、なんといっても帯広を通らないしバイパスさせる意味も薄いなどの理由から完全に頓挫したのであろう。もちろん森林資源や石炭などが豊富で、一時期は石炭を白糠線で運んだ時期もあり盛栄を迎えた時もあったが、石炭産業が衰退していく中、将来的に未来が見えない部分も感じていたはずだ。それでも北進まで開通させたのは、ある意味快挙である。もちろん、その裏には政治的駆け引きが見え隠れするが、全線開通から10年くらいで廃止になってしまうのだから、やはり現実は厳しいのであろう。

急行用の車両とはいえ、かなりお疲れの様子が伺えた。多分、白糠線の運用を終えたあと、釧路まで回送されて再び「ノサップ」として根室を目指す事であろう。
そんな大人の事情など全くわからないまま、というか、それより私はこの白糠線を廃止前に制覇するのが最大のテーマであり、ある意味人生をかけていた。1日3往復しか設定の無い中、いかにして英知を絞るか。そしていかにして写真に収めるか。当時中学生の私には今これしかできない。とにかく窓に向けシャッターを切る、切る、斬りまくる!

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ある程度は予測していたが、白糠に到着すると同業者がやたらと下車した。夏休みでもない平日によくこれだけの人が集まるなと中学生ながらに関心していたが、逆に長期休暇ではないのによくこんな所に中学生がやって来たなどと周りから関心を持たれていたかも知れない。

札幌より夜行急行列車「まりも」で白糠に到着。途中、新得、帯広などで入場券を購入するため改札を出た。特に帯広は深夜未明の時間帯で全く人気がなかった記憶だ。新得では上下の「まりも」の列車交換風景が見られた。
白糠では約一時間の待ち合わせがあった。
白糠のホームにやって来た白糠線下り始発列車は釧路発の2両編成で、当時は知らなかったが急行「ノサップ」の合間に使用されている車両であった。もちろん白糠始発ではないため既に乗客はいたが、意外に座席が空いていたので終点の北進まで座ることができたのは嬉しかった。

こちらは白糠線制覇後再び白糠に戻ってきた時の風景である。やはり同業者ギャラリーが多数。このあとギャラリー達は帯広方面と釧路方面に別れたが、私は釧路に行き、折り返し特急「おおぞら」で札幌目指した。
さて、2両編成のDCは白糠を出ると早速右に折れる。白糠線とはもともと根室本線のバイパス的な役割をする路線の一部で白糠より北に向かい終点の北進より更に北へ進み螺湾を経て池北線(当時)の足寄に繋がる路線の一部であった。更に足寄より新得を結んで根室本線のバイパス的な役割をさせる予定であったが、沿線の人口や産業などがかなり乏しく、というより石炭産業も傾きを見せ始めていたし、そして、なんといっても帯広を通らないしバイパスさせる意味も薄いなどの理由から完全に頓挫したのであろう。もちろん森林資源や石炭などが豊富で、一時期は石炭を白糠線で運んだ時期もあり盛栄を迎えた時もあったが、石炭産業が衰退していく中、将来的に未来が見えない部分も感じていたはずだ。それでも北進まで開通させたのは、ある意味快挙である。もちろん、その裏には政治的駆け引きが見え隠れするが、全線開通から10年くらいで廃止になってしまうのだから、やはり現実は厳しいのであろう。

急行用の車両とはいえ、かなりお疲れの様子が伺えた。多分、白糠線の運用を終えたあと、釧路まで回送されて再び「ノサップ」として根室を目指す事であろう。
そんな大人の事情など全くわからないまま、というか、それより私はこの白糠線を廃止前に制覇するのが最大のテーマであり、ある意味人生をかけていた。1日3往復しか設定の無い中、いかにして英知を絞るか。そしていかにして写真に収めるか。当時中学生の私には今これしかできない。とにかく窓に向けシャッターを切る、切る、斬りまくる!

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白糠線 リメイク・アゲイン②
2020-01-30
もう、こうなったら止まらない(ha-ha)。私はまず切符の選定に入る。「青春18」は夏休みも終わり既に期間外であったが、例え期間内であっても北海道を漫喫するにはやや限界があるであろう。そこで東北の時に活躍した「ワイド周遊券」がすぐに頭に浮かんだ。北海道版なら10月だと、なんと季節割というのがあり通常版の2割引きくらいで販売される!更に、当時中学生であったので「特権」を申請すればなんと定価の半額近くにまでなる!私は早速次の日に学割申請書を取りに行った。

もう何度もこのブログに登場している北海道ワイド。どーですか、この割引率!学生よ、学問はもちろん大事である。しかし今しかできない旅もある!行ける時には確実に大海原に揉まれる方がいい!!
だが・・・いつに行けばいいのであろうか。廃止予定日は確か10月23日とかであったから夏休みみたいな長期休暇が無い。しかし・・・天は我に見方をするものである。10月中旬、体育祭が土曜か日曜に開催されたその代休が火曜日か何かになり、前日の月曜は体育の日で祭日。そして更に町制記念日とか開校記念日とか何かのメモリアルが重なり何と4連休となった。もちろんこれを逃したら二度と白糠線には乗れない。私は半ば強引に旅費を捻出し(もちろん親の援助とお年玉の残金などでね)北へ向かう準備をした。

こちらの画像も再・再・再・・・登場くらいで申し訳ないが、旅のスタートはいつもここから。というか、トップにいつもいる画像だしね、的な。しかしながらこの光景も既にメモリーになってしまって久しいのが寂しい限りだ。
だが、とても贅沢な切符の使い方をする事になった。先程周遊券の話をしたが、北海道ワイド周遊券の有効期間は何と20日間だ!私の休みは4日間。この白糠線のために20日間有効の切符を4日間で使いきるという人生初の試み。しかも「東北」では散々苦労をし、寝過ごしたり駅で一夜を過ごすなど計画には無い事象ばかりが沢山発生した。しかも東北から帰って来てまだ2ヶ月での旅に、北の大地はいったい私をどう受けとめ、そしてどう迎え入れてくれるのであろうか。心配と不安で怖くなる。それでも旅に出たくなる。先程「宮脇氏や種村氏は難しい」と言っておきながら、中学生としてはかなりタメ張っているんじゃないか、という錯覚さえ起こす。

画像は鉄道見聞録より転用させていただきました。往年の八甲田は宇都宮(黒磯じゃない!)で機関車交換があった。
そんな事を考えているうちに体育祭も終わり(いや、記憶は薄いが恐らく体育祭には参加せず、体育祭の日を旅の行程に組み込んだかも知れないが)いよいよ人生初の北の大地に向かう。初の蝦夷。初のアイヌ。そして北へ向かうために私が選んだ夜行列車は急行「八甲田」であった。ワイド周遊券だと目的地までの道中は自由席なら急行券無しで乗車できるからだ。いや、東北・上越新幹線が開通し北へ向かう急行列車が減少していく中、貴重になりつつあった急行列車しか選択できないのは少々辛かったがそれでも夜行急行が残っている事はまだまだ「価値」があるという事。将来的に「急行全廃」が囁かれているのだから乘れるうちに乗った方がいい。しかも急行券無しで乗車できるのだから。
「八甲田」といえば急行夜行列車のため深夜未明の時間帯でも主要駅の仙台や盛岡などに停車する。というより「上野発の夜行列車」が仙台や盛岡などを通るのは深夜未明の時間帯が多く寝台特急などは通過してしまうため、それに対する補完の意味で停車させるのだろう。お陰で東北の旅で散々お世話になったので、再び乘れると思うと乗る前から気持ちが高ぶる。
旅行程もバッチリ組んで、出発するのみ。前日に茅ヶ崎で「北海道ワイド」を購入して準備万端だ。そして旅のスタートである「西寒川」に向かうため、黄昏時の「たらこ色」目指してドアをあけたのであった。

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もう何度もこのブログに登場している北海道ワイド。どーですか、この割引率!学生よ、学問はもちろん大事である。しかし今しかできない旅もある!行ける時には確実に大海原に揉まれる方がいい!!
だが・・・いつに行けばいいのであろうか。廃止予定日は確か10月23日とかであったから夏休みみたいな長期休暇が無い。しかし・・・天は我に見方をするものである。10月中旬、体育祭が土曜か日曜に開催されたその代休が火曜日か何かになり、前日の月曜は体育の日で祭日。そして更に町制記念日とか開校記念日とか何かのメモリアルが重なり何と4連休となった。もちろんこれを逃したら二度と白糠線には乗れない。私は半ば強引に旅費を捻出し(もちろん親の援助とお年玉の残金などでね)北へ向かう準備をした。

こちらの画像も再・再・再・・・登場くらいで申し訳ないが、旅のスタートはいつもここから。というか、トップにいつもいる画像だしね、的な。しかしながらこの光景も既にメモリーになってしまって久しいのが寂しい限りだ。
だが、とても贅沢な切符の使い方をする事になった。先程周遊券の話をしたが、北海道ワイド周遊券の有効期間は何と20日間だ!私の休みは4日間。この白糠線のために20日間有効の切符を4日間で使いきるという人生初の試み。しかも「東北」では散々苦労をし、寝過ごしたり駅で一夜を過ごすなど計画には無い事象ばかりが沢山発生した。しかも東北から帰って来てまだ2ヶ月での旅に、北の大地はいったい私をどう受けとめ、そしてどう迎え入れてくれるのであろうか。心配と不安で怖くなる。それでも旅に出たくなる。先程「宮脇氏や種村氏は難しい」と言っておきながら、中学生としてはかなりタメ張っているんじゃないか、という錯覚さえ起こす。

画像は鉄道見聞録より転用させていただきました。往年の八甲田は宇都宮(黒磯じゃない!)で機関車交換があった。
そんな事を考えているうちに体育祭も終わり(いや、記憶は薄いが恐らく体育祭には参加せず、体育祭の日を旅の行程に組み込んだかも知れないが)いよいよ人生初の北の大地に向かう。初の蝦夷。初のアイヌ。そして北へ向かうために私が選んだ夜行列車は急行「八甲田」であった。ワイド周遊券だと目的地までの道中は自由席なら急行券無しで乗車できるからだ。いや、東北・上越新幹線が開通し北へ向かう急行列車が減少していく中、貴重になりつつあった急行列車しか選択できないのは少々辛かったがそれでも夜行急行が残っている事はまだまだ「価値」があるという事。将来的に「急行全廃」が囁かれているのだから乘れるうちに乗った方がいい。しかも急行券無しで乗車できるのだから。
「八甲田」といえば急行夜行列車のため深夜未明の時間帯でも主要駅の仙台や盛岡などに停車する。というより「上野発の夜行列車」が仙台や盛岡などを通るのは深夜未明の時間帯が多く寝台特急などは通過してしまうため、それに対する補完の意味で停車させるのだろう。お陰で東北の旅で散々お世話になったので、再び乘れると思うと乗る前から気持ちが高ぶる。
旅行程もバッチリ組んで、出発するのみ。前日に茅ヶ崎で「北海道ワイド」を購入して準備万端だ。そして旅のスタートである「西寒川」に向かうため、黄昏時の「たらこ色」目指してドアをあけたのであった。

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白糠線 リメイク・アゲイン①
2020-01-25
かつて、このブログで白糠線に関しての体験記は再三に渡り紹介してきたが、内容が箇条書きっぽくなっていてやや伝わりにくい部分もあり再リニューアルしてみた。しかしながら白糠線が廃止されてから既に35年以上経過し、私が訪問した時期も廃止の2週間前であり当時中学生であったので何かと慌ただしい感じであった。白糠線の廃止は1983年10月。よく中学生でありながらこの10月という時期に訪問できたと思う。その辺りも含め今回は詳細に記憶を辿りながら皆様にお伝えしたい。

どこにいったかと思っていたら母が勝手に使っていた!という事で「チャレンジ」の時にもらったパスケース。他にも踏破線区数に応じていろいろなグッズがもらえた。私は100線区踏破した時(かどうか記憶は定かでないが)にチャレンジのカッパ(レインコート)をもらった。現在も一度も着用ぜずに保存してある。
1980年代といえば「いい旅チャレンジ20000km」がブームになりレールファンでなくても国鉄全線踏破を狙ったものも多数いたものだ。私は当時からレールファンであったので、当然のごとく例に漏れず参加した。
そして世間では国鉄赤字・再建が毎日のように紙面に顔を出し「民営化」「赤字ローカル線廃止」などの言葉は私などの子供でも自然と頭に植えてくされてしまう単語となっていた。ある意味「20000km」は国鉄の赤字対策のひとつでもあったのだ。

北海道ではこんな硬券入場券が観光用で販売されていた。もちろん通常バージョンも。もちろん、使えないよねっ!
1980年代といえば宮脇俊三氏や種村直樹氏が全盛で活躍した時代であった。しかし、当時小学生・中学生の私にとってはやや難しく、宮脇氏の表現を借りれば「理解の範囲に及ばない」書物であった。特に種村氏は当時「初」であったか「唯一」であったか「レールウェイライター」を名乗り斬新な旅をしていた記憶だ。
特に「旅と鉄道」という季刊紙では「汽車旅相談室」なるコーナーがあり、国鉄に対する意見を「規則」を用いてかなり強く発言していた。

画像はウィキより、現役時代の白糠線は北進駅。車両的には釧路~根室間を走る急行「ノサップ」の空時間の運用らしい。当時はそんな事知らなかったが、だがなぜか急行用の車両に乗れたのにはやや優越気分でもあった。
そんな時代に赤字ローカル線廃止第1号として白糠線が先陣を切って廃止されるわけであるが、私はこの白糠線廃止に異常に興味を持ち、まだ見ぬ北の大地初訪問も併せて「上野発の夜行列車」で向かう決意をしたのであった。
もちろん白糠線以前にも廃止された路線はいくつかあったが、国鉄赤字がある意味「ブーム」となり赤字ローカル線を一気に廃止しよう❗と決めてからの廃止は白糠線が初となる。そして白糠線以外にも廃止路線が次々と発表されそれこそブームに乗った感じであった。
さて、白糠線廃止情報が流れたのはいつ頃であったろう。恐らく夏休みが終わる頃か9月初旬であったと思う。いや、当時はインターネットなど発達していない時代だったから、発表はもっと早かったかも知れないが、私が情報を得たのが9月だったと思う。確か何かのレール誌であったはずだが、白糠線には絶対に乗っておかなければいけないとは思うものの、考えてみたら夏休みに周遊券で東北一周の旅から帰って来てまだ1ヶ月経つか経たないかの時期であった。

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どこにいったかと思っていたら母が勝手に使っていた!という事で「チャレンジ」の時にもらったパスケース。他にも踏破線区数に応じていろいろなグッズがもらえた。私は100線区踏破した時(かどうか記憶は定かでないが)にチャレンジのカッパ(レインコート)をもらった。現在も一度も着用ぜずに保存してある。
1980年代といえば「いい旅チャレンジ20000km」がブームになりレールファンでなくても国鉄全線踏破を狙ったものも多数いたものだ。私は当時からレールファンであったので、当然のごとく例に漏れず参加した。
そして世間では国鉄赤字・再建が毎日のように紙面に顔を出し「民営化」「赤字ローカル線廃止」などの言葉は私などの子供でも自然と頭に植えてくされてしまう単語となっていた。ある意味「20000km」は国鉄の赤字対策のひとつでもあったのだ。

北海道ではこんな硬券入場券が観光用で販売されていた。もちろん通常バージョンも。もちろん、使えないよねっ!
1980年代といえば宮脇俊三氏や種村直樹氏が全盛で活躍した時代であった。しかし、当時小学生・中学生の私にとってはやや難しく、宮脇氏の表現を借りれば「理解の範囲に及ばない」書物であった。特に種村氏は当時「初」であったか「唯一」であったか「レールウェイライター」を名乗り斬新な旅をしていた記憶だ。
特に「旅と鉄道」という季刊紙では「汽車旅相談室」なるコーナーがあり、国鉄に対する意見を「規則」を用いてかなり強く発言していた。

画像はウィキより、現役時代の白糠線は北進駅。車両的には釧路~根室間を走る急行「ノサップ」の空時間の運用らしい。当時はそんな事知らなかったが、だがなぜか急行用の車両に乗れたのにはやや優越気分でもあった。
そんな時代に赤字ローカル線廃止第1号として白糠線が先陣を切って廃止されるわけであるが、私はこの白糠線廃止に異常に興味を持ち、まだ見ぬ北の大地初訪問も併せて「上野発の夜行列車」で向かう決意をしたのであった。
もちろん白糠線以前にも廃止された路線はいくつかあったが、国鉄赤字がある意味「ブーム」となり赤字ローカル線を一気に廃止しよう❗と決めてからの廃止は白糠線が初となる。そして白糠線以外にも廃止路線が次々と発表されそれこそブームに乗った感じであった。
さて、白糠線廃止情報が流れたのはいつ頃であったろう。恐らく夏休みが終わる頃か9月初旬であったと思う。いや、当時はインターネットなど発達していない時代だったから、発表はもっと早かったかも知れないが、私が情報を得たのが9月だったと思う。確か何かのレール誌であったはずだが、白糠線には絶対に乗っておかなければいけないとは思うものの、考えてみたら夏休みに周遊券で東北一周の旅から帰って来てまだ1ヶ月経つか経たないかの時期であった。

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