新十津川ストーリー
2014-05-06

2008年6月、私は北海道鉄道路線制覇の途中である稚内より遥々この地にやってきた。しかし時計の針は既に夕方6時半を回っていた。新十津川へのアプローチは路線バスだ。函館本線・滝川駅より約2.4km離れた地は、とある路線バス番組的に考えたら徒歩などでも移動可能なほど近い。新十津川駅は新十津川町の中心部にあり、中央病院にも近いのだが、付近には商店など無く、飲み物などが欲しくなった場合は病院の購買等での調達となる。1日3本・・・この列車本数の中で、列車に揺られ通院しているのはどれくらいいるのであろうか?

「札沼線」とは、その名の通り「札幌」と「石狩沼田」を結ぶ路線として活躍していた。しかし太平洋戦争中に石狩当別~石狩沼田が休止されたが終戦後に復活した。だが新十津川~石狩沼田間が昭和47年に廃止されてしまい現在の形となった。その後は周知のとおり、特に札幌寄りは乗客増加が著しく、ついには一部区間の複線化と電化が実現している。石狩当別(正確には北海道医療大学)を境に路線カラーが全く異なる路線は珍しいが、更にここまでハッキリと明暗分かれているのもかなり稀であろう。国鉄時代は「しんとつがわ」といったが、JRになってからは「しんとつかわ」に変化している。

さて、私たちはこの「新十津川」に念願かなってやって来たわけだが、まだ列車は来ていない。普通に考えたら、滝川より札幌に向かう場合「新十津川経由」を選択する人はまずいないであろう。もし現在も石狩沼田までつながっていたとしても、深川から札沼線経由で札幌に行く人も皆無であろう。そう考えると、私は特別な存在なのであろうか?確かに乗り潰しの使命を背負っている以上(と言っても誰に頼まれた訳でもないが)、わざわざ遠回りをしなければならないのが宿命なのであろうが、やっている事は一般ではない。

まぁ、その事はあまり深く追求しないとして、新十津川駅は棒線化され交換設備は無く、現在は駅員無配置である。以前は交換設備または側線があったと思われる不自然な空間があるが、現在は全くと言っていいほど全て撤去されていてサッパリしている。札沼線という路線名は現在ほとんど使われる事なく「学園都市線」という愛称が一般的に使用されているが、この新十津川の地において「学園都市線」の愛称はイメージほど遠く、まるでジャイアント馬場がタイガーマスクを被っているようでもある。

駅舎的には「駅寝派」には向いていると思われドアもシャットアウトできるが、治安の関係上お勧めは当然できない。しかし北海道っぽい、なかなかの造りである。開業当時からの物なのか何代か改築されているのかは不明であるが、メンテナンスも行き届き、長年に渡り豪雪からお客様を守ってきた証が所々に見受けられる。とても利用者が多いとは思えないが、これからも飛躍していく事はほぼ無いに等しいであろう。札幌寄りのような目覚ましい変化は期待する方が無理かもしれない。

そしてやって来た列車はお馴染みである昭和の車両だ。ペイントこそ異なるものの、車内にはJNR式扇風機が存在する。我々の乗車するDCは札幌へは直通せず、石狩当別で乗り換えが必要のようだ。とはいっても、直通客はほぼ皆無に等しいのだろうが、本日は私のような「珍客」が存在する。しかしながら、私のような珍客ばかりがいつもいるとは限らない。例え珍客が毎日いたとしても、路線維持の数値を右肩上がりに弾き出すには程遠いであろう。

新十津川から先の廃止区間には若干レールが残るが200~300m位先で途切れていた。その途切れたレールの先にはいったいどのような景色があったのであろう。現在は面影がほとんどの廃止区間で確認するのが困難らしいと聞く。私は乗っていた列車を一度降り、レールの先を発車時間までずっと見つめていた・・・

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