阿仁合線に乗ったらこうなった(後編)
2015-09-12
そういえば阿仁合はかつて鉱山で賑わったそうだ。鉱山と言えばあの「小坂」も同じ秋田県にあるのでなんとなくの同類項かも知れない。だが、近年の小坂は携帯電話の部品から金を取り出し再生するという事で、それこそかつての鉱山施設が「再生」しているらしい。果たして阿仁合はどうなのであろうか・・・
そんな阿仁合を過ぎると更に山深くなるが、阿仁合線自体も更にローカルムードが漂う。終点の比立内までそんな風景が続くが、その比立内は当時は終点であった。そのレールの先を見る限り、現在の姿は想像できないくらいであったが、心のどこかに「未成線」的な概念が漂っており、なんというか「繋がったらいいなぁ」みたいな事を中学生ながらに考えていた。

(1983年訪問時の比立内。ご覧の通り、夕方5時頃というのに外はまだ明るい。そして駅名標下部の左側に本当に駅名が刻み込まれるとは当時は思わなかった。)
現在は周知の通りの姿であり、鷹ノ巣から角館までがレールによって結ばれている。だが、皆様もご存知の通り、年間数億円の赤字が出ていると聞く。例えば、我々が住んでいる地域にこういった鉄道路線が存在し赤字計上が続いているとしよう。そして「赤字補填のために来月から住民税が10%アップします」と通知が来たら、あなたならどう感じるであろう。マイカー所有者などは挙って「廃止」を大賛成する事であろう。普段利用していない組織のために更に課税させられるのは、普通に考えてナンセンスであり生活に支障があるからだ。実際に課税させられているかどうかは分からないが、第三セクターが運営する鉄道(以外の組織も含め)は、各自治体が株主である場合がほとんどであるためこういう場面もあることであろう。かつて、いわゆる「赤字ローカル線」が国鉄から転換された時に転換交付金というものが支払われた。そしてその転換交付金の一部を金融機関に預け、その利息を赤字補填に充てようという目論見が、それこそ「一般常識」であった。だが、社会情勢の変化と共に、現在の第三セクターの現状は周知の通りである。金利が下がり、更に利用者減で当初の思惑通りには行かなくなったのだ。

(そして2011年の比立内。多分、上の写真と同じ駅名標であろうが、1983年の訪問以来の駅名標はすっかりリニューアルされていた。もちろん、経営母体が変更になっての事もあるが、本当に次の駅名が両方とも書かれているのが私にしてみたら凄い事であった。であるが・・・経営的に、新しい駅名が表示されている区間は特に厳しい戦いである事であろう。)
国鉄時代から「未成線」として、奥羽本線のバイパス的機能の役割を果たすべく敷設されたと聞いた秋田内陸縦貫鉄道、国鉄時代の「鷹角線」であるが、遠い将来、いや、近い将来に鉄道としての役割を失う時が来るであろうかも知れない。基本的に鉄道は大量輸送という事が最大のメリットであるため、こういった地方の鉄道ではその最大のメリットを発揮できない場合が多い。というより、首都圏にある千葉モノレールでさえ経営的に苦戦が続いている。やはり鉄道的にはこういった問題とは常に背中合わせなのであろう。特に地方の鉄道に関してはその色が更に濃さを増すであろう。私はレールファンであるが、こういった問題とも常に向き合わなければならない。

(2011年訪問時の、確か阿仁マタギであったと思う。とにかくこの日はJR・秋田内陸線共に大雪のため運行ダイヤが乱れまくっていた。積雪に対する北国特有の知識をもってしてもダイヤが大幅に乱れたのだから相当のモノであったろう。)
昭和から平成へ・・・その時代背景を支えてきたのは、実は鉄道であると私は信じている。もちろん「マイカー」「飛行機」などの交通手段が平成の現在は完全に主役であろう。例えば時代劇で言うなら「水戸黄門」・・・で例えるなら黄門様は「マイカー」「飛行機」であり「風車の弥七」「うっかり八兵衛」的な存在が鉄道かも知れない。だが、その「風車の弥七」的な鉄道も、しっかりと時代を支えてきたし今でもしっかりと活躍している。そんな健気な鉄道を愛さずにいられない・・・そんな思いにさせる「内陸」の今後が気になる存在である。

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そんな阿仁合を過ぎると更に山深くなるが、阿仁合線自体も更にローカルムードが漂う。終点の比立内までそんな風景が続くが、その比立内は当時は終点であった。そのレールの先を見る限り、現在の姿は想像できないくらいであったが、心のどこかに「未成線」的な概念が漂っており、なんというか「繋がったらいいなぁ」みたいな事を中学生ながらに考えていた。

(1983年訪問時の比立内。ご覧の通り、夕方5時頃というのに外はまだ明るい。そして駅名標下部の左側に本当に駅名が刻み込まれるとは当時は思わなかった。)
現在は周知の通りの姿であり、鷹ノ巣から角館までがレールによって結ばれている。だが、皆様もご存知の通り、年間数億円の赤字が出ていると聞く。例えば、我々が住んでいる地域にこういった鉄道路線が存在し赤字計上が続いているとしよう。そして「赤字補填のために来月から住民税が10%アップします」と通知が来たら、あなたならどう感じるであろう。マイカー所有者などは挙って「廃止」を大賛成する事であろう。普段利用していない組織のために更に課税させられるのは、普通に考えてナンセンスであり生活に支障があるからだ。実際に課税させられているかどうかは分からないが、第三セクターが運営する鉄道(以外の組織も含め)は、各自治体が株主である場合がほとんどであるためこういう場面もあることであろう。かつて、いわゆる「赤字ローカル線」が国鉄から転換された時に転換交付金というものが支払われた。そしてその転換交付金の一部を金融機関に預け、その利息を赤字補填に充てようという目論見が、それこそ「一般常識」であった。だが、社会情勢の変化と共に、現在の第三セクターの現状は周知の通りである。金利が下がり、更に利用者減で当初の思惑通りには行かなくなったのだ。

(そして2011年の比立内。多分、上の写真と同じ駅名標であろうが、1983年の訪問以来の駅名標はすっかりリニューアルされていた。もちろん、経営母体が変更になっての事もあるが、本当に次の駅名が両方とも書かれているのが私にしてみたら凄い事であった。であるが・・・経営的に、新しい駅名が表示されている区間は特に厳しい戦いである事であろう。)
国鉄時代から「未成線」として、奥羽本線のバイパス的機能の役割を果たすべく敷設されたと聞いた秋田内陸縦貫鉄道、国鉄時代の「鷹角線」であるが、遠い将来、いや、近い将来に鉄道としての役割を失う時が来るであろうかも知れない。基本的に鉄道は大量輸送という事が最大のメリットであるため、こういった地方の鉄道ではその最大のメリットを発揮できない場合が多い。というより、首都圏にある千葉モノレールでさえ経営的に苦戦が続いている。やはり鉄道的にはこういった問題とは常に背中合わせなのであろう。特に地方の鉄道に関してはその色が更に濃さを増すであろう。私はレールファンであるが、こういった問題とも常に向き合わなければならない。

(2011年訪問時の、確か阿仁マタギであったと思う。とにかくこの日はJR・秋田内陸線共に大雪のため運行ダイヤが乱れまくっていた。積雪に対する北国特有の知識をもってしてもダイヤが大幅に乱れたのだから相当のモノであったろう。)
昭和から平成へ・・・その時代背景を支えてきたのは、実は鉄道であると私は信じている。もちろん「マイカー」「飛行機」などの交通手段が平成の現在は完全に主役であろう。例えば時代劇で言うなら「水戸黄門」・・・で例えるなら黄門様は「マイカー」「飛行機」であり「風車の弥七」「うっかり八兵衛」的な存在が鉄道かも知れない。だが、その「風車の弥七」的な鉄道も、しっかりと時代を支えてきたし今でもしっかりと活躍している。そんな健気な鉄道を愛さずにいられない・・・そんな思いにさせる「内陸」の今後が気になる存在である。

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阿仁合線に乗ったらこうなった(中編)
2015-09-08
キハ20仕様のDCに揺られながら見る田園風景は、やはり私にしてみれば「ローカル線」を感じるひと時でもある。そういえば「秋田美人」という言葉がある。確かに、私の経験上秋田出身の女性は、ある意味間違いない!と思えるくらい素敵な方が多い。阿仁合線の車窓を見ているとそのことがうなずける。こんな素敵な風景の中、例えばここで育った「あきたこまち」や「比内地鶏」などを毎日食していると、それは素晴らしく育んで行くことであろう。「美人」などという表現では足りないくらいの魅力があふれている。

(1983年訪問時の合川。島式ホームで列車交換ができる。駅名標をご覧になってわかるように、かなり地球にやさしい造りになっている。恐らく阿仁合線の中間駅で最大の利用者があったと思われる。)
実際に、私は「米内沢出身」という方と職場で一緒になった事があった。もちろん女性であるが、月日は流れ退職してしまった。そして教えられた住所が「北秋田郡阿仁町中村」であった。これって米内沢からかなり離れているじゃん?て思った。いつだか私が「出身はどこ?」と聞いたとき「秋田県」と答えたので「秋田のどこ?列車が走っているところならマニアックなところを言っても多分わかるよ」と言った結果が米内沢であったが、恐らく彼女は私に気を使ったのであろう。阿仁町中村だと余りにもマニアックで地元過ぎ「一般常識」ではないからだ。現在は「北秋田市阿仁中村」に変更になっているが、どちらにしてもマニアック。であるが、私は「最寄りが阿仁マタギ」であると容易に、そして瞬時にわかってしまった。とは言え、米内沢であっても「一般常識」とはかなりかけ離れていると思われる。

(そして2011年訪問時の阿仁合。転換後は車両基地や本社が置かれ、まさに秋田内陸線の中心的存在である。国鉄時代より貫禄が増した感じだ。)
と前振りが長くなってしまったが、その「秋田美人」は確かに魅力ある女性であった。もちろん外見だけではなく内面的な意味も含まれての事である。その女性を思うと、あの阿仁合線の風景をつい思い出してしまうから不思議だ。そんな米内沢は、かつては列車交換が出来た駅であったが現在は棒線化されてしまった。
そういえば、米内沢の前に合川も通り過ぎていた。その合川であるが、恐らく阿仁合線の中間駅で最大の乗降客数であったろう。そのため(かどうか分からないが)、しっかりと島式ホームの存在を見せてくれた。駅名標からはかなり離れた距離に停車した私の座席位置であったが、望遠レンズをグッと引き寄せ強引に撮影した。もちろんその乗降客は恐らく学生さんがほとんどのウェートを占めていることであったろう。とは言え、合川町の中心部にあるため学生以外の利用者も当然ながら多いと思われる。その合川町も現在は合併して北秋田市になった。

(同じく2011年訪問時。ご覧の状況の中、既に列車運行的に支障が出ていた。東京方面へ向かうには今乗っている列車がほぼ「最終」となるため角館で新幹線との接続が非常に気になっていた。)
そして阿仁合である。現在は秋田内陸鉄道の本社や車庫なども置かれ中心的存在であるが、当時は単なる列車交換の、そして沿線最大の中心駅の印象しかなかった。という表現はおかしいが、私にしてみたら単なる中間駅の印象であったため、現在の姿が不思議でならない。というより、それだけ私の知識的なものが不足していたのであろう。今考えたら、それこそ「一般常識」な感じであろうが・・・ただ、まだ夕方の4時半くらいであったためとにかく外は明るい。更に東北の旅を始めてまだ二日目なので体力的にも精神的にも余裕満々であった。2011年の「秋田内陸」の時に訪問の際は角館から東京方面へ接続する最終列車的な存在だったのでもう外は真っ暗だ。更に豪雪の中、秋田内陸縦貫鉄道に乗車する前のJRで既に1時間以上の遅れが発生していての予定変更であるから、これ以上の遅れが許されない状況での移動であった。

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(1983年訪問時の合川。島式ホームで列車交換ができる。駅名標をご覧になってわかるように、かなり地球にやさしい造りになっている。恐らく阿仁合線の中間駅で最大の利用者があったと思われる。)
実際に、私は「米内沢出身」という方と職場で一緒になった事があった。もちろん女性であるが、月日は流れ退職してしまった。そして教えられた住所が「北秋田郡阿仁町中村」であった。これって米内沢からかなり離れているじゃん?て思った。いつだか私が「出身はどこ?」と聞いたとき「秋田県」と答えたので「秋田のどこ?列車が走っているところならマニアックなところを言っても多分わかるよ」と言った結果が米内沢であったが、恐らく彼女は私に気を使ったのであろう。阿仁町中村だと余りにもマニアックで地元過ぎ「一般常識」ではないからだ。現在は「北秋田市阿仁中村」に変更になっているが、どちらにしてもマニアック。であるが、私は「最寄りが阿仁マタギ」であると容易に、そして瞬時にわかってしまった。とは言え、米内沢であっても「一般常識」とはかなりかけ離れていると思われる。

(そして2011年訪問時の阿仁合。転換後は車両基地や本社が置かれ、まさに秋田内陸線の中心的存在である。国鉄時代より貫禄が増した感じだ。)
と前振りが長くなってしまったが、その「秋田美人」は確かに魅力ある女性であった。もちろん外見だけではなく内面的な意味も含まれての事である。その女性を思うと、あの阿仁合線の風景をつい思い出してしまうから不思議だ。そんな米内沢は、かつては列車交換が出来た駅であったが現在は棒線化されてしまった。
そういえば、米内沢の前に合川も通り過ぎていた。その合川であるが、恐らく阿仁合線の中間駅で最大の乗降客数であったろう。そのため(かどうか分からないが)、しっかりと島式ホームの存在を見せてくれた。駅名標からはかなり離れた距離に停車した私の座席位置であったが、望遠レンズをグッと引き寄せ強引に撮影した。もちろんその乗降客は恐らく学生さんがほとんどのウェートを占めていることであったろう。とは言え、合川町の中心部にあるため学生以外の利用者も当然ながら多いと思われる。その合川町も現在は合併して北秋田市になった。

(同じく2011年訪問時。ご覧の状況の中、既に列車運行的に支障が出ていた。東京方面へ向かうには今乗っている列車がほぼ「最終」となるため角館で新幹線との接続が非常に気になっていた。)
そして阿仁合である。現在は秋田内陸鉄道の本社や車庫なども置かれ中心的存在であるが、当時は単なる列車交換の、そして沿線最大の中心駅の印象しかなかった。という表現はおかしいが、私にしてみたら単なる中間駅の印象であったため、現在の姿が不思議でならない。というより、それだけ私の知識的なものが不足していたのであろう。今考えたら、それこそ「一般常識」な感じであろうが・・・ただ、まだ夕方の4時半くらいであったためとにかく外は明るい。更に東北の旅を始めてまだ二日目なので体力的にも精神的にも余裕満々であった。2011年の「秋田内陸」の時に訪問の際は角館から東京方面へ接続する最終列車的な存在だったのでもう外は真っ暗だ。更に豪雪の中、秋田内陸縦貫鉄道に乗車する前のJRで既に1時間以上の遅れが発生していての予定変更であるから、これ以上の遅れが許されない状況での移動であった。

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阿仁合線に乗ったらこうなった(前編)
2015-09-04
全く関係ない話であるが「一般常識」という言葉がある。Web辞書等で検索してみると「常識(じょうしき)は、社会の構成員が有していて当たり前のものとしている価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為」とある。就活等でよくお目にかかるのが「一般常識問題」であろう。その中で、例えば「就中」をなんと読むか?的な問題がある。さて、我々は普段こんな言葉を日常的に使うであろうか?恐らく私たちが生活していく中で「就中」という言葉を使っている人は極希であろう。というより、なにぶん古い言葉なので「ナウい」と同じような感じの死語的なものであろう。なのになぜこれが「一般常識」なのか私にはわからない。基本的に常識とは「青信号は進め」的な事であろうと思う。なのに就活などで「青信号は~」的な問題はほとんど出てこない。一般常識とうたっているにも関わらず。であるから、もし「就中」などの問題を出す場合「一般常識」というより「就職試験問題常識」と表現を変えた方がいいと思うのは私だけであろうか?

(2011年訪問時の鷹巣駅。JRとは別に独立した駅舎を持つ。ご覧の通り季節的には1月で、なんと震災2ヶ月前であった。)
ただ「日本の総理大臣は?」の問いに「安倍晋三」は正解であろうが「菅直人」でも正解であろう。だが「枝野幸男」では果たして正解であろうか?個人的に、将来的には「正解」かもしれないと思うが・・・というより正解であったらいいなぁと思う。って、これ、「現在の日本の総理大臣は」という問いではないからだ。もし民主党が再び政権を握った場合、党首が「枝野」である可能性もなくはない。

(そしてこちらが1983年訪問時。国鉄(現・JR)と秋田内陸線では駅名の表現が異なる。)
などとひねくれたスタートで申し訳ないが、阿仁合線という名は「一般常識」ではないであろう。というのも、現在は秋田内陸縦貫鉄道であるからだ。私は「阿仁合線」としても「秋田内陸縦貫鉄道」としても乗車した。阿仁合線としては1983年の「東北乗り潰し」で実現している。そして秋田内陸縦貫鉄道としては2011年1月、なんと震災の2ヶ月前であった。
今回は阿仁合線を中心に紹介してみたいと思うが、なにせもう30年くらい前の話なので記憶的にどうなのか・・・的な部分があるが、ハッキリ言って私が地味に好む路線であったのでかなりの印象があった。

(こちらは2011年訪問時の鷹巣駅である。私のような「湘南」にしてみたら、この景色は実に厳しい戦いであると感じる。本当にこの季節は現地の人にとって生活していくにも実に体力を要すると思う。)
そんなわけで私は五能線制覇後に乗車した奥羽本線の客車普通列車で鷹ノ巣に到着したのが午後3時近かった。15時26分発の阿仁合線DCに乗車する。8月という事は夏真っ盛りのため3時半・4時くらいでも全然昼間の感覚であるくらい明るい。とは言え、関東とは少々時差があると思うのだが、そんな事はあまり感じなかった。沿線各地では早速「蝉時雨」であるが、当時のDCでは冷房設備がないため窓を開けると更にその蝉時雨が倍増する感じであった。

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(2011年訪問時の鷹巣駅。JRとは別に独立した駅舎を持つ。ご覧の通り季節的には1月で、なんと震災2ヶ月前であった。)
ただ「日本の総理大臣は?」の問いに「安倍晋三」は正解であろうが「菅直人」でも正解であろう。だが「枝野幸男」では果たして正解であろうか?個人的に、将来的には「正解」かもしれないと思うが・・・というより正解であったらいいなぁと思う。って、これ、「現在の日本の総理大臣は」という問いではないからだ。もし民主党が再び政権を握った場合、党首が「枝野」である可能性もなくはない。

(そしてこちらが1983年訪問時。国鉄(現・JR)と秋田内陸線では駅名の表現が異なる。)
などとひねくれたスタートで申し訳ないが、阿仁合線という名は「一般常識」ではないであろう。というのも、現在は秋田内陸縦貫鉄道であるからだ。私は「阿仁合線」としても「秋田内陸縦貫鉄道」としても乗車した。阿仁合線としては1983年の「東北乗り潰し」で実現している。そして秋田内陸縦貫鉄道としては2011年1月、なんと震災の2ヶ月前であった。
今回は阿仁合線を中心に紹介してみたいと思うが、なにせもう30年くらい前の話なので記憶的にどうなのか・・・的な部分があるが、ハッキリ言って私が地味に好む路線であったのでかなりの印象があった。

(こちらは2011年訪問時の鷹巣駅である。私のような「湘南」にしてみたら、この景色は実に厳しい戦いであると感じる。本当にこの季節は現地の人にとって生活していくにも実に体力を要すると思う。)
そんなわけで私は五能線制覇後に乗車した奥羽本線の客車普通列車で鷹ノ巣に到着したのが午後3時近かった。15時26分発の阿仁合線DCに乗車する。8月という事は夏真っ盛りのため3時半・4時くらいでも全然昼間の感覚であるくらい明るい。とは言え、関東とは少々時差があると思うのだが、そんな事はあまり感じなかった。沿線各地では早速「蝉時雨」であるが、当時のDCでは冷房設備がないため窓を開けると更にその蝉時雨が倍増する感じであった。

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1983年3月、松浦鉄道ではなく国鉄松浦線を体験した時の事を記してみた(後編)
2015-07-02
そんな事、当時の中学生が知る由もなく、ただただ時間だけが過ぎていった。ただ、気がかりだったのが、この列車が佐世保に着くのが21時45分。乗り換える夜行列車「ながさき」は翌日の0時30分であったので約3時間待ちであった!現在の私であるならば、事前にインターネットで「旨い店」を検索し、地魚などで一杯嗜んでいた事であろう。だが、当時はそんな事が全く分からなく、そして事前準備も知識もない。ただひたすら待合室で待つのだろうなぁ・・・などと計画段階からわかっていた。というより、中学生だから「旨い店」で過ごしてはいけないであろうが・・・


(今回の記事の写真は全て「プラットホームの旅」よりご提供いただきました。私の訪問とほぼ同時期くらいの松浦駅。私の訪問は夜であったが、こうして昼間の画像を見てみると、またひと味違った雰囲気を醸し出している。)
そんな列車は海岸線を走り、さぞかし景色が素敵だろうなぁと思われるであろうが、そう、私の乗った列車は「最終列車」である。窓の外は何も見えない、というより真っ暗・・・ただひたすら佐世保に着く時間を待つしかなかった。いや、佐世保についても更に3時間近く列車を待たなければならない!これは完全に神に与えられた試練であろう、そう自分に言い聞かせるしかなかった。


(同じく平戸口も同じような「昭和」「国鉄」の雰囲気を醸し出している。写真は「プラットホームの旅」より。
そんな中、ある事件が起こった。確か松浦であったと思うが、私は用を足そうと列車内の化粧室に入った。すると・・・なんと便器に腕時計を落としてしまったのだ! ウワ━(。・ω・)ァァ━・゚・ しかもデジタルだ!私はすぐさま車掌に報告した。すると・・列車の下から時計を取ってきてくれたのだ。ありがとうございます!停車時間が6分くらいあったのでそれもラッキーであった。そう、かつて列車に設置されていたWCは、いわゆる「垂れ流し」であったため便器と線路が「直通」なのであった。その事も追い風になり、時計を紛失せずに済んだのだ。


(佐世保駅も同じく「プラットホームの旅」よりの写真。とても広い待合室で、私は夜行普通列車「ながさき」に乗車するため約3時間程待った。というより、佐世保発は「ながさき」の愛称は無く「4420」という列車番号のみの表現であった。)
やたら「時間との戦い」となったこの松浦線であったが、この車掌の温かさが「旅情」を誘うキッカケとなった。佐世保駅で私は何をしていたのであろう。ハッキリ言って記憶にないが、この車掌の件は非常に鮮明に記憶に残っている。そんな事を考えながら、出発15分前まで開かない改札を見つめ「ながさき」を待つ自分の姿を、今の自分が頭の中に描いていた。
この記事の写真は全て「プラットホームの旅」の管理人様でいらっしゃるmassi1様にご協力いただきました。心から感謝致します。

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(今回の記事の写真は全て「プラットホームの旅」よりご提供いただきました。私の訪問とほぼ同時期くらいの松浦駅。私の訪問は夜であったが、こうして昼間の画像を見てみると、またひと味違った雰囲気を醸し出している。)
そんな列車は海岸線を走り、さぞかし景色が素敵だろうなぁと思われるであろうが、そう、私の乗った列車は「最終列車」である。窓の外は何も見えない、というより真っ暗・・・ただひたすら佐世保に着く時間を待つしかなかった。いや、佐世保についても更に3時間近く列車を待たなければならない!これは完全に神に与えられた試練であろう、そう自分に言い聞かせるしかなかった。


(同じく平戸口も同じような「昭和」「国鉄」の雰囲気を醸し出している。写真は「プラットホームの旅」より。
そんな中、ある事件が起こった。確か松浦であったと思うが、私は用を足そうと列車内の化粧室に入った。すると・・・なんと便器に腕時計を落としてしまったのだ! ウワ━(。・ω・)ァァ━・゚・ しかもデジタルだ!私はすぐさま車掌に報告した。すると・・列車の下から時計を取ってきてくれたのだ。ありがとうございます!停車時間が6分くらいあったのでそれもラッキーであった。そう、かつて列車に設置されていたWCは、いわゆる「垂れ流し」であったため便器と線路が「直通」なのであった。その事も追い風になり、時計を紛失せずに済んだのだ。


(佐世保駅も同じく「プラットホームの旅」よりの写真。とても広い待合室で、私は夜行普通列車「ながさき」に乗車するため約3時間程待った。というより、佐世保発は「ながさき」の愛称は無く「4420」という列車番号のみの表現であった。)
やたら「時間との戦い」となったこの松浦線であったが、この車掌の温かさが「旅情」を誘うキッカケとなった。佐世保駅で私は何をしていたのであろう。ハッキリ言って記憶にないが、この車掌の件は非常に鮮明に記憶に残っている。そんな事を考えながら、出発15分前まで開かない改札を見つめ「ながさき」を待つ自分の姿を、今の自分が頭の中に描いていた。
この記事の写真は全て「プラットホームの旅」の管理人様でいらっしゃるmassi1様にご協力いただきました。心から感謝致します。

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1983年3月、松浦鉄道ではなく国鉄松浦線を体験した時の事を記してみた(前編)
2015-06-28
松浦鉄道・・・かつては国鉄松浦線であったのは周知の通りである。だが、全く私事であるが、松浦鉄道の経験が私には無い。私の松浦鉄道は「松浦線」での制覇である。1983年と言えば、私のブログで散々登場する「東北」があるが、それは8月。同じ年の3月にはこれから紹介する松浦線を含め九州への訪問を実現させ、鹿児島交通制覇を最大のテーマとした旅でもあった。

(伊万里では、松浦線はスイッチバックの形をとる。現在は筑肥線と分断されてしまったが、国鉄時代は博多から松浦方面に直通する列車も設定されていた。)
さて、今回の松浦線の旅であるが、既に鹿児島交通の制覇を終え筑肥線で伊万里についたのが午後5時頃であった。一旦有田へ行き「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影し再び伊万里に戻ってきた。そういえばこの2つの地区は「焼き物」で大変有名な全国区であるが、当時中学生の私には「そんなの関係無えー!」と、某芸人のギャグに相当する感性であった。ただひとつ言えることは「素敵なローカル線」である事。これは万人の共通事項であろう。

(日本最西端の駅として名高い平戸口。現在は「たびら」を冠するが、現在と両隣の駅名が違っている。また、平戸島は「男はつらいよ」のロケ地としても有名である。)
さて、先述した通り現・松浦鉄道は私の制覇時は国鉄松浦線であった。当時からほぼ全ての列車が伊万里で運転系統が分断されていて、有田~伊万里間と伊万里~佐世保間での運転がほとんどであった。そして私の乗った列車は伊万里発佐世保行きの最終列車であった。途中の松浦まではまだこのあとも列車が設定されているが、伊万里を19時1分に出る私の乗った列車が佐世保行きの最終とは・・・若干「店じまい」が早いと感じてしまう。

(後に「事件」が発生した松浦。列車交換のため少々の停車時間があったが・・・あれっ、この列車って急行仕様ではないか?って思ってしまった。自分が乗った車両ってこれだったっけ?と当時の記憶を辿っていった。)
その松浦であるが、漁港の町として知られ、東京方面ではよく「長崎産」として近海魚が出回ているのは周知の通りであろう。「あじ」「さば」などな年間通してスーパーなどでも見られ、私たちの身近な存在としておなじみである、などといっているが、私は「さかなクン」ではないのでそれほどの知識は無いのでご了承の程・・・
そして現在のたびら平戸口、当時の平戸口ではお馴染みの「日本最西端の駅」としても知られ、松浦線では松浦とともに中心的存在でもある。そしてなんといっても平戸島は、映画「男はつらいよ」のロケ地しても名高く「ワットくん」こと中村雅俊も出演し、大竹しのぶとともに「漁港の街」を大いにアピールしたのが第20作であった。

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(伊万里では、松浦線はスイッチバックの形をとる。現在は筑肥線と分断されてしまったが、国鉄時代は博多から松浦方面に直通する列車も設定されていた。)
さて、今回の松浦線の旅であるが、既に鹿児島交通の制覇を終え筑肥線で伊万里についたのが午後5時頃であった。一旦有田へ行き「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影し再び伊万里に戻ってきた。そういえばこの2つの地区は「焼き物」で大変有名な全国区であるが、当時中学生の私には「そんなの関係無えー!」と、某芸人のギャグに相当する感性であった。ただひとつ言えることは「素敵なローカル線」である事。これは万人の共通事項であろう。

(日本最西端の駅として名高い平戸口。現在は「たびら」を冠するが、現在と両隣の駅名が違っている。また、平戸島は「男はつらいよ」のロケ地としても有名である。)
さて、先述した通り現・松浦鉄道は私の制覇時は国鉄松浦線であった。当時からほぼ全ての列車が伊万里で運転系統が分断されていて、有田~伊万里間と伊万里~佐世保間での運転がほとんどであった。そして私の乗った列車は伊万里発佐世保行きの最終列車であった。途中の松浦まではまだこのあとも列車が設定されているが、伊万里を19時1分に出る私の乗った列車が佐世保行きの最終とは・・・若干「店じまい」が早いと感じてしまう。

(後に「事件」が発生した松浦。列車交換のため少々の停車時間があったが・・・あれっ、この列車って急行仕様ではないか?って思ってしまった。自分が乗った車両ってこれだったっけ?と当時の記憶を辿っていった。)
その松浦であるが、漁港の町として知られ、東京方面ではよく「長崎産」として近海魚が出回ているのは周知の通りであろう。「あじ」「さば」などな年間通してスーパーなどでも見られ、私たちの身近な存在としておなじみである、などといっているが、私は「さかなクン」ではないのでそれほどの知識は無いのでご了承の程・・・
そして現在のたびら平戸口、当時の平戸口ではお馴染みの「日本最西端の駅」としても知られ、松浦線では松浦とともに中心的存在でもある。そしてなんといっても平戸島は、映画「男はつらいよ」のロケ地しても名高く「ワットくん」こと中村雅俊も出演し、大竹しのぶとともに「漁港の街」を大いにアピールしたのが第20作であった。

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