神栖界隈(後編)
2015-12-01
原点・・・このブログをご覧の皆様にも必ずあるであろう。それは、一瞬でもそれに触れた時なんとなく懐かしい感じがするのではなかろうか。人はよく「原点回帰」や「初心に帰る」などと言うが、それは何か道に迷ったときや再スタートを切る時などによく使う言葉だ。ではなぜそういう場面で原点に帰るのであろう。恐らくそれは、それに初めて触れた時の「感動」や「新鮮さ」などを思い出すからか。

(多分知手付近であったと思う。この辺りでようやく「臨海」と呼べるくらいな鉄道になってくるが、果たして神栖から先は貨物列車が運転されているのであろうか?)
私のレールファンの原点は「西寒川」であり「相模線」である。そしてブルートレインだ。後で考えてみたら相模線って傍から見てかなり偉大(?)なのかなと感じる時があった。「たらこ色」のDCが初めて走り出したのが相模線と聞いたことがあるし、キハ58が「新型車両の試運転」と題して相模線で運転されたこともあった。首都圏にありながらDCが運転され哀愁漂う路線として親しまれてきたであろうが、国鉄にしてみたら試験運転などにも手頃な存在であったのだろう。

(こちらも知手付近、というより神栖~知手間だったと思うが、手前の広い緑地と赤い建物の間にレールが敷いてある。完全なる工業団地を貫く鹿島臨海鉄道は、やはり旅客営業には向かないかも知れない。)
既に終焉を迎えようとしているかも知れない鹿島臨海鉄道の貨物線を見たとき、なぜかそんな思いが一瞬であったが心を過ぎった。そして先述したRJ社(当時)の「旅と鉄道」の「種村直樹の汽車旅相談室」でこの鹿島臨海鉄道の旅客営業の話題で盛り上がったシーンを思い出した。私がまだ中学生であった1980年代である。私は1984年頃までがレールファンの全盛期であった。もちろん現在でもしっかりとレールを楽しんではいるが、なんというか当時とは違った楽しみ方をしている。つまり楽しみ方の「角度」が色々あるのだという事がわかってきた、とでも言おうか。そして幅が広がったとも言えるであろう。そんな今の自分が過去の自分を見てみると、なんというか無邪気であり頑なであった頃の自分がなんとなく懐かしい。

(そして奥ノ谷浜付近と思われる場所にあった踏切。この踏切ではないと思ったが、ある踏切を境に右が草ぼうぼうの線路、左がレール上に枕木が置いてあるが草は刈られていた、という景色になっていた。)
私はレールファン歴に27年のブランクがある。その27年のブランクを埋めるという訳ではないが、全国を旅していると、かつての「いい旅チャレンジ20000km」に夢中であった頃と比較できるのが実に嬉しい。とは言え、ハッキリ言って「遠い記憶」でもあるから覚えていない事も多々あるが「国鉄」「JR」の違いもなんとなく楽しい。多分私がこれから旅をする時もきっとどこかに「原点」を探し求めていくであろう。それは、もしかしたら見つからないかも知れないし、もしかしたらその時は突然にやってくるかも知れない。「ラブストーリーは~」ではないが、もし突然その時がやってきたら私は周りが見えなくなってしまうくらい夢中になってしまうであろう。多分、この瞬間がたまらなく、そして味わいたいからまた旅に出るのかも知れない。飽きもせず二度三度・・・いや、永遠かも・・・

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(多分知手付近であったと思う。この辺りでようやく「臨海」と呼べるくらいな鉄道になってくるが、果たして神栖から先は貨物列車が運転されているのであろうか?)
私のレールファンの原点は「西寒川」であり「相模線」である。そしてブルートレインだ。後で考えてみたら相模線って傍から見てかなり偉大(?)なのかなと感じる時があった。「たらこ色」のDCが初めて走り出したのが相模線と聞いたことがあるし、キハ58が「新型車両の試運転」と題して相模線で運転されたこともあった。首都圏にありながらDCが運転され哀愁漂う路線として親しまれてきたであろうが、国鉄にしてみたら試験運転などにも手頃な存在であったのだろう。

(こちらも知手付近、というより神栖~知手間だったと思うが、手前の広い緑地と赤い建物の間にレールが敷いてある。完全なる工業団地を貫く鹿島臨海鉄道は、やはり旅客営業には向かないかも知れない。)
既に終焉を迎えようとしているかも知れない鹿島臨海鉄道の貨物線を見たとき、なぜかそんな思いが一瞬であったが心を過ぎった。そして先述したRJ社(当時)の「旅と鉄道」の「種村直樹の汽車旅相談室」でこの鹿島臨海鉄道の旅客営業の話題で盛り上がったシーンを思い出した。私がまだ中学生であった1980年代である。私は1984年頃までがレールファンの全盛期であった。もちろん現在でもしっかりとレールを楽しんではいるが、なんというか当時とは違った楽しみ方をしている。つまり楽しみ方の「角度」が色々あるのだという事がわかってきた、とでも言おうか。そして幅が広がったとも言えるであろう。そんな今の自分が過去の自分を見てみると、なんというか無邪気であり頑なであった頃の自分がなんとなく懐かしい。

(そして奥ノ谷浜付近と思われる場所にあった踏切。この踏切ではないと思ったが、ある踏切を境に右が草ぼうぼうの線路、左がレール上に枕木が置いてあるが草は刈られていた、という景色になっていた。)
私はレールファン歴に27年のブランクがある。その27年のブランクを埋めるという訳ではないが、全国を旅していると、かつての「いい旅チャレンジ20000km」に夢中であった頃と比較できるのが実に嬉しい。とは言え、ハッキリ言って「遠い記憶」でもあるから覚えていない事も多々あるが「国鉄」「JR」の違いもなんとなく楽しい。多分私がこれから旅をする時もきっとどこかに「原点」を探し求めていくであろう。それは、もしかしたら見つからないかも知れないし、もしかしたらその時は突然にやってくるかも知れない。「ラブストーリーは~」ではないが、もし突然その時がやってきたら私は周りが見えなくなってしまうくらい夢中になってしまうであろう。多分、この瞬間がたまらなく、そして味わいたいからまた旅に出るのかも知れない。飽きもせず二度三度・・・いや、永遠かも・・・

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神栖界隈(前編)
2015-11-27
既にこのブログでも述べているし、レールファンなら周知の事実であろう。鹿島臨海鉄道はかつて、現在の貨物線である北鹿島(現・鹿島サッカースタジアム)~奥ノ谷浜間にあった鹿島港南までは旅客列車が運転されていた。残念ながら私は現役時代に訪問できなかった。しかし、旅客列車がこの地に走り出してから約30年くらい経過した現在、旅客列車は廃止されてしまい、旅客列車の終点であった鹿島港南駅は駅自体がなくなってしまった。しかしながら当時を知る者として、そこに旅客列車が存在した歴史は実に心に深く刻み込まれている事であろう。

(少し見にくいが神栖に到着した。雨の中の訪問は若干メランコリーであったが、それでも訪問出来た時の喜びは大きい。)
2015年8月、念願かなってこの地に訪問することに成功した。しかし・・・現実はかなり厳しいものとなっていた。訪問当日は夕方5時頃となってしまい悪天候という事も重なって、事実上写真的なものはそう多く撮影できなかった。そんな中で鹿島臨海鉄道のそれを見ていると、心の中が渋くなってしまうほどの哀愁が私に迫ってきた。まずは奥ノ谷浜付近。実際に奥ノ谷浜が現在機能しているのかどうかは不明であるが、その付近を横切る道路がある。もちろんそれは踏切であるが、その踏切を境に片方は草ボウボウ、片方はレールの上に枕木が乗せられており事実上「廃止」的雰囲気が漂っていた。

(正面から改めて、かつては旅客営業していた神栖駅。現在は貨物のみの営業である。構内は広く、多くの側線が張り巡らされているが、なんと、現在も旅客ホームが残っていると聞く!もう少し時間があったらじっくりと訪問できたのに・・・)
順番は前後してしまうが神栖にも訪問した。こちらはどうやら健在のようで、貨物列車の車両が多くひしめきあう。そして建屋内には職員と思われる人もおられ、事実上「営業」していたのであろう。であるが周知の通り、時代は鉄道を利用して貨物を輸送するという事がめっきり少なくなってしまった。というより、近い将来的に鉄道で貨物を輸送するという事が逆に貴重な存在となっていくかも知れない。特に臨海鉄道的な存在は、産業遺産にでも変化していくのではなかろうか?とはオーバーであろうが、それくらい鉄道の貨物という存在がそんな雰囲気になっている現在のレール事情であろう。「臨海鉄道」という名の云われが、そして原点が実はここ「神栖」にある。そしてそこから更に続く貨物線は確かに「臨海」であった。2015年訪れたこの地で私は鹿島臨海鉄道の原点を見た。

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(少し見にくいが神栖に到着した。雨の中の訪問は若干メランコリーであったが、それでも訪問出来た時の喜びは大きい。)
2015年8月、念願かなってこの地に訪問することに成功した。しかし・・・現実はかなり厳しいものとなっていた。訪問当日は夕方5時頃となってしまい悪天候という事も重なって、事実上写真的なものはそう多く撮影できなかった。そんな中で鹿島臨海鉄道のそれを見ていると、心の中が渋くなってしまうほどの哀愁が私に迫ってきた。まずは奥ノ谷浜付近。実際に奥ノ谷浜が現在機能しているのかどうかは不明であるが、その付近を横切る道路がある。もちろんそれは踏切であるが、その踏切を境に片方は草ボウボウ、片方はレールの上に枕木が乗せられており事実上「廃止」的雰囲気が漂っていた。

(正面から改めて、かつては旅客営業していた神栖駅。現在は貨物のみの営業である。構内は広く、多くの側線が張り巡らされているが、なんと、現在も旅客ホームが残っていると聞く!もう少し時間があったらじっくりと訪問できたのに・・・)
順番は前後してしまうが神栖にも訪問した。こちらはどうやら健在のようで、貨物列車の車両が多くひしめきあう。そして建屋内には職員と思われる人もおられ、事実上「営業」していたのであろう。であるが周知の通り、時代は鉄道を利用して貨物を輸送するという事がめっきり少なくなってしまった。というより、近い将来的に鉄道で貨物を輸送するという事が逆に貴重な存在となっていくかも知れない。特に臨海鉄道的な存在は、産業遺産にでも変化していくのではなかろうか?とはオーバーであろうが、それくらい鉄道の貨物という存在がそんな雰囲気になっている現在のレール事情であろう。「臨海鉄道」という名の云われが、そして原点が実はここ「神栖」にある。そしてそこから更に続く貨物線は確かに「臨海」であった。2015年訪れたこの地で私は鹿島臨海鉄道の原点を見た。

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恋の列車はオオアライ発④ 鹿島サッカースタジアム
2015-11-03

サッカースタジアムと鉄道・・・一見、なんの関係もない繋がりであろうが、サッカースタジアムが出来たおかげで単なる貨物駅から臨時駅に昇格した「北鹿島」である。かつてはここでスイッチバックして鹿島港南まで旅客列車が運転されていたが、利用者が元々少なかったので僅かな営業期間で廃止された。基本的に鹿島サッカースタジアム「駅」はJRの駅であるが、ここに停車する全ての定期列車は基本的に鹿島臨海鉄道である。というより、サッカーの試合がある日のみ営業するので「定期列車」と表現するのはおかしいかも知れない。

(サッカースタジアムの脇にある「ホントかよ?」という道を進入していった。ナビの案内そのまま素直にハンドルを切るが、まさか列車からの乗客をこんな獣道を通らせてスタジアムまで行かせるとは到底思えなかった。であるが、とりあえず行くしかない。私はナビに身を任せた。)
鹿島港南までの旅客営業時代はこの北鹿島には列車が停車ぜず、スイッチバックのための運転停車のみであった。後述する神栖と鹿島港南の2駅が旅客駅であったが、貨物はその先の奥ノ谷浜まで到達していた。現在もそうであるが、JRと鹿島臨海鉄道では別外車のため、基本的には別料金が発生するが、その計算方法は非常に特殊で、当時RJ社発行の「旅と鉄道」の「種村直樹の汽車旅相談室」では随分と話題になり論議を呼んだ。結論としては「連絡運輸」的にはむつかしく考えずに常識的、かつシンプルにまとまっておりお客様には不便の無い対応となってた。つまりそれが現在まで受け継がれているわけだ。


(するとご覧の場所に出た。そして跨線橋的歩道橋が出現する。ここを登るとJR鹿島サッカースタジアム駅の改札に行くことが出来る。というか、かつては貨物駅だったので旅客ホームがあるのは実に不思議な気持ちだ。)
と、旅客的には非常に特殊であるが、基本貨物駅であるためプラットホームが無かったが、臨時駅昇格時に当然ながらホームが出来た。とは言え、普段は旅客扱いをしないためひっそりとしている。だが、サッカー開催日には観戦者でごった返すであろう事が容易に推測できる。
私は2015年にマイカーで訪問したが、カーナビにはとんでもない道を案内されてしまった。わかりやすく言うと「獣道」である。サッカースタジアムの脇にある超細い未舗装の道を、まるで自動車学校のコースにあるかのようなクランクの連続的な道を「これ、本当に駅まで通じているの?」と言ってしまいたくなるような雰囲気な感じで雨の中を突き進んでいった、というより突き進まされた。



(そして歩道橋のサミット付近で入口が出現。かつての北鹿島から比べればある意味劇的変化であろう。というより、予想以上に立派な造りであったので驚かされた部分のあった。とは言え、入口は防犯上開放されていないのが残念であったが・・・)
そして到着してみると・・駅からスタジアムへ繋がる歩道が確かにあった!って、車で来た道を考えると、歩道の方は実に単純でスタジアムと駅までは屋根付きの道ではないか!!車の方が訪問に苦労するという事はどういう事だ。というより、貨物駅であるなら、その貨物を駅まで運ぶのにこんな道では大変不便であろう。そんな思いは駅に通じる歩道橋を登り切ったサミットに辿り着いた時に解決した。なんと線路を挟んだ向かい側、つまり通常の駅で言う北口の南口的な考えで言うと、私は南口にたどり着いたが北口では・・・ちゃんと広い道路が駅に接しているではないか!ナビよ、こっちを教えてくれよなっ。夜の訪問であったなら確実に「出る」だろう環境だ。


(「♪歩道橋の上から~」と、何かの歌ではないが(ちょっと古いかもしれないが)歩道橋の両側は鉄柵、いやフェンスでがっちりガードされている。そこから見る景色はやはり「貨物駅」的な風景だ。)
普段はなかなかの貨物駅っぷりであろうが、もちろん歩道橋からはスタジアムが拝め、それはホームからでも同じ事であろう。貨物列車は現在でも北鹿島でスイッチバックするであろうが、次回訪問時はその模様を体験してみたい気持ちだ。レールファンではない一般のサッカーファンはこのような複雑な歴史を持つ駅をどう思うのであろう。というより何も思わず、何も感じないかも知れないが・・・

歩道橋からはもちろん「アレ」が見える。もちろん列車ではなくても参戦出来るが、マイカーだと私が入ってきた「ホントかよ」的な道を少々入っていく。そして未舗装の駐車場が分散してある状態だ。

見よ!これが私が通ってきた道、そして「駅前一等地」だ。まるで河原にある獣道のようだ。もっと他に道があるであろう。頼むよ、ナビ!

そしてこちらが反対側の光景。広々とした駅前は、貨物駅に相応しいであろう。大型トラックも充分に待機出来る環境だ。というより、なぜナビはマニアックな道を案内するのか?

ちなみに鹿島サッカースタジアム駅とスタジアムはご覧の通路で繋がっている。是非マイカー用にもこういった道を整備していただきたのが個人的は印象であったが・・・

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恋の列車はオオアライ発③
2015-10-30
さて、大洗付近が沿線最大で海岸に近づくであろが、やや海が遠い・・・そして大洗を過ぎると那珂川に沿う。そして橋を渡るとすぐに那珂湊の街にたどり着くくらいにまで接近。川を挟んで隣同士の位置にある湊線と大洗鹿島線はなんとなく不思議だ。
やがて列車は勝田寄りから進入する不思議な構造となり水戸に到着する。計画時には特急も運転される的な案もあり線形的にも設備的にも「本線規格」であるから高架化された場所が多く踏切もほとんどない記憶であった。

(2015年の訪問時にはちょうど列車の出発時間であった大洗。本社や車庫もあり、文字通り大洗鹿島線の中心的存在である。付近にはアウトレットモールや、シーズンには海水浴場もあり楽しみ方は多彩だ。)
そういえば、私はこの「恋の列車はオオアライ発①」で一青窈のテレビについて述べていた。それは別に「妻がテレビも見ないくせにつけっ放しで洗濯しやがって!」という事を言いたい訳ではなかった。この番組で一青窈が述べた「伝えたかった」という言葉が凄く印象に残ったからだ。そして私はその事をこのブログをご覧の皆様に伝えたかったのだ。自身の思いを伝える・・・これは一青窈とは形は違えど「伝える」という事で共通する。最近、私のブログでプロレスの話題が出てくる場面が少なくないという印象をお持ちであろう。結構私はこのブログで自身の言いたいことをかなり言っているかも知れないが、もしこのブログで鉄道の話題のみに特化し「ここに行きました」「この車両に乗りました」だけを記事にしていたら、私はブログを始めて3年以上経過したが、ここまで続けられなかったであろう。鉄道というカテゴリーを借り、ブログというフィルターを通して自身の思いを伝える・・・これは素晴らしい事だ。

(2015年訪問時はあいにくの空模様であったが、それでも列車を利用する人は少なくなかった。しかしながら、広い構内はやや持て余しの印象でもあった。)
最近のプロレス業界は「氷河期」と言われている事であろう。普通の一般に話題になることが少ない。私が小学生位の頃は猪木・馬場が全盛でプロレス中継も「ゴールデン」であった。しかし現在は「ゴールデン」ではない。その理由のひとつとして「伝える」という部分がやや薄い気がするのが私的な考えである。「力道山」と言えば日本にプロレスを持ち込んだ人物。私はリアルタイムではないがその名は知っている。力道山の時代のプロレスを今DVD等で見てみると技が単純で、それこそ「空手チョップ」しか出してない印象だ。現在の若者がこの試合を見て「スゴイ試合だ!」とは思わないかも知れないであろう。
では、なぜ力道山がリアルタイムでなくても世代を超えてその名を知られているか・・・それは「伝える」という事が明確であったのだろう。戦後の混乱期において街頭テレビで観る力道山の姿は日本国民の言わば「希望」であったのだろう。「キル・ザ・ジャップ」「リメンバー・パールハーバー」などと言われていた時代に、ガタイの良い大きな外国人相手に体の小さい日本人が立ち向かっていく・・・その力強い空手チョップに多くの日本国民が勇気づけられた事であろう。恐らく力道山はプロレスを通じて「頑張ろう、日本人」的なメッセージを伝えたかったのであろう。空手チョップにその思いを込めたのだ。

(大洗駅の時刻表であるが、全てがワンマンでない事を初めて知った。車掌乗務の列車にもいつかは乗ってみたい。)
そして時代が馬場・猪木に変わり、更に後世へ・・・必ずプロレスには「サイドストーリー」があった。「俺たちの時代」「天龍革命」「超世代」などのキーワードにピンと来たらあなたはかなりの「プロレス通」であろう。そのサイドストーリーを感じながら試合を観るのが面白い。そう、試合を通じてサイドストーリーを「伝える」という事がプロレスなのだ。これは他の格闘技には無いかも知れない。シリーズ前にサイドストーリーがあり、シリーズ最終戦でそのサイドストーリーの決着をつける・・・みたいな感じか。
私もこの「伝える」という事をこれからも大事にしていきたい。「~ということを伝えたかった」とこれからもブログに綴っていく事であろう。それは鉄道という名を借りた「サイドストーリー」的な場面が多くなるかも知れない。であるが、基本、私は鉄道だ。私が崇拝する某ロックアーティストが言っていた。「ひとつでいい。何か自分が熱くなるものがあれば、人生はハッピーになる」と。そう、私には鉄道がある。これからもその思いを末永く伝えていきたい。とは言え、この記事の半分以上は「プロレス」になってしまったが・・・

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やがて列車は勝田寄りから進入する不思議な構造となり水戸に到着する。計画時には特急も運転される的な案もあり線形的にも設備的にも「本線規格」であるから高架化された場所が多く踏切もほとんどない記憶であった。

(2015年の訪問時にはちょうど列車の出発時間であった大洗。本社や車庫もあり、文字通り大洗鹿島線の中心的存在である。付近にはアウトレットモールや、シーズンには海水浴場もあり楽しみ方は多彩だ。)
そういえば、私はこの「恋の列車はオオアライ発①」で一青窈のテレビについて述べていた。それは別に「妻がテレビも見ないくせにつけっ放しで洗濯しやがって!」という事を言いたい訳ではなかった。この番組で一青窈が述べた「伝えたかった」という言葉が凄く印象に残ったからだ。そして私はその事をこのブログをご覧の皆様に伝えたかったのだ。自身の思いを伝える・・・これは一青窈とは形は違えど「伝える」という事で共通する。最近、私のブログでプロレスの話題が出てくる場面が少なくないという印象をお持ちであろう。結構私はこのブログで自身の言いたいことをかなり言っているかも知れないが、もしこのブログで鉄道の話題のみに特化し「ここに行きました」「この車両に乗りました」だけを記事にしていたら、私はブログを始めて3年以上経過したが、ここまで続けられなかったであろう。鉄道というカテゴリーを借り、ブログというフィルターを通して自身の思いを伝える・・・これは素晴らしい事だ。

(2015年訪問時はあいにくの空模様であったが、それでも列車を利用する人は少なくなかった。しかしながら、広い構内はやや持て余しの印象でもあった。)
最近のプロレス業界は「氷河期」と言われている事であろう。普通の一般に話題になることが少ない。私が小学生位の頃は猪木・馬場が全盛でプロレス中継も「ゴールデン」であった。しかし現在は「ゴールデン」ではない。その理由のひとつとして「伝える」という部分がやや薄い気がするのが私的な考えである。「力道山」と言えば日本にプロレスを持ち込んだ人物。私はリアルタイムではないがその名は知っている。力道山の時代のプロレスを今DVD等で見てみると技が単純で、それこそ「空手チョップ」しか出してない印象だ。現在の若者がこの試合を見て「スゴイ試合だ!」とは思わないかも知れないであろう。
では、なぜ力道山がリアルタイムでなくても世代を超えてその名を知られているか・・・それは「伝える」という事が明確であったのだろう。戦後の混乱期において街頭テレビで観る力道山の姿は日本国民の言わば「希望」であったのだろう。「キル・ザ・ジャップ」「リメンバー・パールハーバー」などと言われていた時代に、ガタイの良い大きな外国人相手に体の小さい日本人が立ち向かっていく・・・その力強い空手チョップに多くの日本国民が勇気づけられた事であろう。恐らく力道山はプロレスを通じて「頑張ろう、日本人」的なメッセージを伝えたかったのであろう。空手チョップにその思いを込めたのだ。

(大洗駅の時刻表であるが、全てがワンマンでない事を初めて知った。車掌乗務の列車にもいつかは乗ってみたい。)
そして時代が馬場・猪木に変わり、更に後世へ・・・必ずプロレスには「サイドストーリー」があった。「俺たちの時代」「天龍革命」「超世代」などのキーワードにピンと来たらあなたはかなりの「プロレス通」であろう。そのサイドストーリーを感じながら試合を観るのが面白い。そう、試合を通じてサイドストーリーを「伝える」という事がプロレスなのだ。これは他の格闘技には無いかも知れない。シリーズ前にサイドストーリーがあり、シリーズ最終戦でそのサイドストーリーの決着をつける・・・みたいな感じか。
私もこの「伝える」という事をこれからも大事にしていきたい。「~ということを伝えたかった」とこれからもブログに綴っていく事であろう。それは鉄道という名を借りた「サイドストーリー」的な場面が多くなるかも知れない。であるが、基本、私は鉄道だ。私が崇拝する某ロックアーティストが言っていた。「ひとつでいい。何か自分が熱くなるものがあれば、人生はハッピーになる」と。そう、私には鉄道がある。これからもその思いを末永く伝えていきたい。とは言え、この記事の半分以上は「プロレス」になってしまったが・・・

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恋の列車はオオアライ発②
2015-10-26
2008年の大洗鹿島線制覇は鹿島神宮からのスタートとなった。大洗鹿島線で私が一番関心を持っていたのは、もちろん「鹿島サッカースタジアム」であった。かつては北鹿島と称し、スイッチバックをして鹿島港南までの旅客列車が運転されていたのは先述通りであったが、臨時ながら旅客駅に昇格したのだから多少なりとも全容の一部でも確認できることであろう。というより、この列車に乗らなければこの旧・北鹿島(貨)への訪問はできない。かつては国鉄の駅でありながら国鉄では行かれない、しかも鹿島臨海鉄道でいっても列車は止まらない・・・かなり特殊で異様な雰囲気を醸し出す駅であった。なのにあっけなく通過・・・的な、何とも言えない訪問であった。だがしかし、2015年にはマイカーでしっかりと訪問しているので、その模様は後日にしっかりと紹介する予定なので乞うご期待!


(新鉾田はかつての鹿島鉄道・鉾田駅からはかなり離れた位置にあった。そのため両者を乗り継ぐ乗客はほぼ皆無であったと聞く。しかし、文字通り新しい鉾田市の玄関口ではあるが、若干市街地から離れているのがもったいない。)
そして列車は大洗へ向かうが「鹿島臨海鉄道」と名乗るからには相当の海岸沿いを走ることであろうと思うのであるが、実際は、特に大洗まではやや内陸を走る。新鉾田付近では更に内陸に入り込み、とても「臨海」名乗れるかどうかくらいまでくる。新鉾田と言えば市街地中心部からはかなり離れた位置に駅があるが、その中心部にはかつて「鉾田駅」があったのはレールファンならもちろんご存知であろう。2015年に私が訪問した時はちょうど何かも祭りだったらしく、一般道にはかなりの賑わいの中、神輿(みこし)も出ていたほどであるからこの辺りではかなり有名な祭りなのであろう。しかし、その鉾田駅は鹿島鉄道廃止と共に姿を消した。その鉾田駅前に比べたら、こちらの新鉾田駅前は実にすっきり感がある。どうせなら鹿島鉄道鉾田で鹿島臨海鉄道と接続させるようにすればと素人の考えかも知れないが、それが自然の意見であろう。

(シジミの産地として知られる涸沼。2015年訪問時のものであるが、表記は「ひぬま駅」であった。考えてみれば難読であろうかも知れない。)
そんな新鉾田を過ぎ「しじみ」の産地として知られる涸沼を過ぎると大洗に出る。そう、先述通りここには本社や車庫があり、まさに中心的存在である。大洗まで来るとようやく海に近づくが「臨海」と呼ぶにはまだまだ離れた感があるのは気のせいか。2015年訪問時は雨天であったが、やはり構内は広く堂々としていた。実は2005年頃にもこの辺りを訪問している事はどこかの記事でも触れているはずだが、その時の宿泊はここ大洗であった。当時はレールファン休業中であったので大洗駅までは出向かずにいたが、付近のアウトレットモールなどを堪能。9月であったため私が利用した民宿は完全に貸切であったが、基本的に海水浴シーズンから外れた時期であったため宿泊前日に「本当に来ますか?」的なメールが宿泊先から来ていた。もちろん予定通りであるとの意向を伝えたが、向こうにしてみればシーズンオフに2ヶ月前から予約する私が「珍客」であったのだろう。だが、その2年後にレールファンを復活して列車でこの地に再訪するとは、まさか予想もしなかった。

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(新鉾田はかつての鹿島鉄道・鉾田駅からはかなり離れた位置にあった。そのため両者を乗り継ぐ乗客はほぼ皆無であったと聞く。しかし、文字通り新しい鉾田市の玄関口ではあるが、若干市街地から離れているのがもったいない。)
そして列車は大洗へ向かうが「鹿島臨海鉄道」と名乗るからには相当の海岸沿いを走ることであろうと思うのであるが、実際は、特に大洗まではやや内陸を走る。新鉾田付近では更に内陸に入り込み、とても「臨海」名乗れるかどうかくらいまでくる。新鉾田と言えば市街地中心部からはかなり離れた位置に駅があるが、その中心部にはかつて「鉾田駅」があったのはレールファンならもちろんご存知であろう。2015年に私が訪問した時はちょうど何かも祭りだったらしく、一般道にはかなりの賑わいの中、神輿(みこし)も出ていたほどであるからこの辺りではかなり有名な祭りなのであろう。しかし、その鉾田駅は鹿島鉄道廃止と共に姿を消した。その鉾田駅前に比べたら、こちらの新鉾田駅前は実にすっきり感がある。どうせなら鹿島鉄道鉾田で鹿島臨海鉄道と接続させるようにすればと素人の考えかも知れないが、それが自然の意見であろう。

(シジミの産地として知られる涸沼。2015年訪問時のものであるが、表記は「ひぬま駅」であった。考えてみれば難読であろうかも知れない。)
そんな新鉾田を過ぎ「しじみ」の産地として知られる涸沼を過ぎると大洗に出る。そう、先述通りここには本社や車庫があり、まさに中心的存在である。大洗まで来るとようやく海に近づくが「臨海」と呼ぶにはまだまだ離れた感があるのは気のせいか。2015年訪問時は雨天であったが、やはり構内は広く堂々としていた。実は2005年頃にもこの辺りを訪問している事はどこかの記事でも触れているはずだが、その時の宿泊はここ大洗であった。当時はレールファン休業中であったので大洗駅までは出向かずにいたが、付近のアウトレットモールなどを堪能。9月であったため私が利用した民宿は完全に貸切であったが、基本的に海水浴シーズンから外れた時期であったため宿泊前日に「本当に来ますか?」的なメールが宿泊先から来ていた。もちろん予定通りであるとの意向を伝えたが、向こうにしてみればシーズンオフに2ヶ月前から予約する私が「珍客」であったのだろう。だが、その2年後にレールファンを復活して列車でこの地に再訪するとは、まさか予想もしなかった。

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