「西寒川駅」に拘る! ④
2017-06-05
前回に引き続きフォトを紹介したい。お馴染みの画像も登場するが、とりあえずこれだけの「乗客」が駅にいるのは、駅開業以来「初」ではなかろうか?
今回の写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」というホームページを管理していらっしゃるミックス・マテリアルさんにもご協力いただいた。こちらのホームページは昭和を主体とした貴重な画像を多数紹介していらっしゃる。特に相模線に関しては私の幼少時代の頃の写真も数多く、非常に懐かしい。一見の価値大有り!

営業最終日の光景。この日は定期列車の他に臨時列車が5~7本位設定されていた。

珍しくヘッドマークをつけて登場。最終日ならではの光景だ。1984年3月31日が営業最終日であった。学校的な世間は春休みのためギャラリーの年齢層がかなり低い。

若干雪が解けているホームへ。コンクリでなく、砂利のホームだ。もちろん「点字ブロック」などは無い。かつて「砂利輸送」が主体であったことを考えると何とも不思議な感がある。

最初で最後の「区間列車」。西寒川行きの定期列車は全て茅ヶ崎発であったが、営業最終日は寒川~西寒川の臨時区間列車も登場。

以下の写真は全て「ミックス・マテリアルさん」にご協力いただいた。これは昭和49年頃の西寒川駅である。しかもキハ10!私は昭和50年にこの地に引っ越してきたので一年前だ。私にとってはとても懐かしい光景であり、一番最初に相模線という存在を知った初期の姿である。ひじょうに分かりづらいが、左中央奥に廃ブルドーザーが写っている。私を含め近所の子供はこのブルでよく遊んだものだ。

昭和53年頃の西寒川駅。ホームの長さが2両分くらいしかなく、3両編成の列車は寒川寄りの車両がはみ出る。

昭和53年頃の時刻表。一日4本の列車設定であるが、朝1本、午後3本と偏りを見せる。昼間利用したいときは寒川駅まで徒歩か一ノ宮小学校付近の神奈中バス停まで歩く。

西寒川駅のすぐそばを県道が横切るが、その踏切から寒川方を望む。両端は住宅が点々としているが、現在は「住宅街」である。

力強く走るキハ10のたらこ色。個人的には2色塗装が好きであったが、徐々にたらこに変身。後発のキハ20は私が当時一番好んでいた車両である。ちなみに左横の空地は現在「一ノ宮公園」に変身している。

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今回の写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」というホームページを管理していらっしゃるミックス・マテリアルさんにもご協力いただいた。こちらのホームページは昭和を主体とした貴重な画像を多数紹介していらっしゃる。特に相模線に関しては私の幼少時代の頃の写真も数多く、非常に懐かしい。一見の価値大有り!

営業最終日の光景。この日は定期列車の他に臨時列車が5~7本位設定されていた。

珍しくヘッドマークをつけて登場。最終日ならではの光景だ。1984年3月31日が営業最終日であった。学校的な世間は春休みのためギャラリーの年齢層がかなり低い。

若干雪が解けているホームへ。コンクリでなく、砂利のホームだ。もちろん「点字ブロック」などは無い。かつて「砂利輸送」が主体であったことを考えると何とも不思議な感がある。

最初で最後の「区間列車」。西寒川行きの定期列車は全て茅ヶ崎発であったが、営業最終日は寒川~西寒川の臨時区間列車も登場。

以下の写真は全て「ミックス・マテリアルさん」にご協力いただいた。これは昭和49年頃の西寒川駅である。しかもキハ10!私は昭和50年にこの地に引っ越してきたので一年前だ。私にとってはとても懐かしい光景であり、一番最初に相模線という存在を知った初期の姿である。ひじょうに分かりづらいが、左中央奥に廃ブルドーザーが写っている。私を含め近所の子供はこのブルでよく遊んだものだ。

昭和53年頃の西寒川駅。ホームの長さが2両分くらいしかなく、3両編成の列車は寒川寄りの車両がはみ出る。

昭和53年頃の時刻表。一日4本の列車設定であるが、朝1本、午後3本と偏りを見せる。昼間利用したいときは寒川駅まで徒歩か一ノ宮小学校付近の神奈中バス停まで歩く。

西寒川駅のすぐそばを県道が横切るが、その踏切から寒川方を望む。両端は住宅が点々としているが、現在は「住宅街」である。

力強く走るキハ10のたらこ色。個人的には2色塗装が好きであったが、徐々にたらこに変身。後発のキハ20は私が当時一番好んでいた車両である。ちなみに左横の空地は現在「一ノ宮公園」に変身している。

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「西寒川駅」に拘る! ③
2016-06-30
西寒川駅の現役時代を集めてみた。過去の記事と重複する部分もあるが、ぜひこの「こだわり」を知っていただきたい。





雪の中の西寒川「5連発」。銀世界の西寒川駅のフォトは、おそらく所有しているのは全国探しても私のみであると思う。関東地区でこれだけの降雪は一年に数回あるかないかである。


駅の裏側から。つまり「私の住まい」の方角からである。駅前一等地の景色は「フェンス越しのノン・フィクション」。

お馴染みの一枚。私の記事等によく登場する画像である。西寒川駅といえばこの景色が一番似合っている。

現在の一之宮公園付近。畑が広がっているが、現在は完全住宅街に変身している。

記事に出てきた一枚。自宅より至近距離にあるのに、なぜか私の「マイカー」が紛れ込んでいる。

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以前からちょっと気になる事があるので興味ある方は「続きを読む」を開いてください。ちなみに鉄道とは全く関係ない内容です。





雪の中の西寒川「5連発」。銀世界の西寒川駅のフォトは、おそらく所有しているのは全国探しても私のみであると思う。関東地区でこれだけの降雪は一年に数回あるかないかである。


駅の裏側から。つまり「私の住まい」の方角からである。駅前一等地の景色は「フェンス越しのノン・フィクション」。

お馴染みの一枚。私の記事等によく登場する画像である。西寒川駅といえばこの景色が一番似合っている。

現在の一之宮公園付近。畑が広がっているが、現在は完全住宅街に変身している。

記事に出てきた一枚。自宅より至近距離にあるのに、なぜか私の「マイカー」が紛れ込んでいる。

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以前からちょっと気になる事があるので興味ある方は「続きを読む」を開いてください。ちなみに鉄道とは全く関係ない内容です。
「西寒川駅」に拘る!①
2016-06-26
以前に西寒川駅に関しては当ブログにて紹介しているが、もっとより多くの方に「西寒川駅」を知っていただきたく、数回に渡り記事をアップしてみようと思う。既に前回の記事や、私のホームページ「西寒川駅」と重複する部分もあろうかと思うが、改めて紹介してみたい。
国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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廃止路線を訪ねて② (相模線・寒川支線)(リメイク版)
2016-06-22
かつて紹介した西寒川に関する記事であるが、個人的な思い入れもありバックナンバーを引っ張り出してみた。若いレールファンにも西寒川駅を知っていただくという意味もあるが、私の世代に近い方も懐かしい部分もあると思うので数回にわたり紹介してみようと思う。

(お馴染みの写真である1984年2月に撮影の西寒川駅。中学卒業を控え、学校も1ヶ月くらい自由登校になりかなり優雅なひと時を過ごした。)
相模線は、東海道線の茅ヶ崎より北へ進み、横浜線の橋本に至る33.3キロの路線である。だが、かつては、途中の寒川より1.5キロの支線が延びていた。詳しい歴史については割愛するが、私はかつて、この支線の終点「西寒川」の駅前に住んでいた事がある。幼少時代~高校生までこの地で過ごしたため、この生活こそ私の鉄道人生の「原点」と言っても過言ではないであろう。茅ヶ崎の耳鼻科への通院に週に2~3回相模線を利用していた。おそらくこの経験が「鉄道」の目覚めのきっかけとなったであろうが、タイトルに「訪ねて」としたのは正確でないかも知れない。窓を開ければ駅は見えた訳だし、歩いて20秒もかからないので、あえて「訪ねる」までも無いであろう。

駅は棒線の一面一線で駅員無配置である。車止めの先には過去の「四之宮」までの線路跡らしき空間が確認できた。廃止前は、1日4本の列車が設定されており、朝1本、夕方3本とやや偏りを見せていたが、昼間の列車は設定されていないため、相模線の利用の際には寒川駅まで出向かなければならない。鉄道制覇の際の門出には必ず西寒川からの出発に拘った。ホームは3両編成の列車ははみ出てしまうというのに、朝には4両編成の列車もやってくる。若干の雨よけ用の屋根の下にはラッチと呼べるかどうか分からないが改札があり、駅前一等地はいきなり工場の壁にぶち当たる。左へ向うと飲食店と理容店があり、右の四之宮方面にも理容店があったが、四之宮方は現在は廃業している。ちなみにこの理容店は女性が経営していたが、順番待ちの際には紅茶のサービスがあった。更に右には工場地帯に続く道があり、民家も疎らだ。そんな寒川支線も昭和59年3月に廃止されてしまった。それから暫くして私は西寒川の駅前の自宅を辞した。父の仕事の関係で同じ相模線の倉見駅付近に転居したのだ。

現在、線路跡はほぼ緑道として残っているため、その痕跡を確認できる。また、西寒川駅に関しては「八角広場」となり、付近の住民の憩いの場となっている。また、付近には高速道路も建設され、景色がかなり変化してきた。現役当時は、私の知る限りだがキハ10の気動車が走る姿が最初である。それからキハ20、キハ35と変化していったが、私はキハ20が一番好きであった。キハ35はロングシートのため、乗ってて味気なく、車窓を見るのにも一苦労である。また、鉄道路線制覇の旅の出発の際、最初のスタートの駅が「西寒川」であった。西寒川は無人駅のため、車内で車掌からきっぷを購入する。
当時はまだ「ワンマン」という概念が鉄道には無かったため、車掌も忙しかったと思う。と言っても寒川~西寒川間は乗客も疎らであるため業務に多少なりとも余裕があったであろうが・・・そんな西寒川も、今は記憶の中の一部になってしまったが、目を閉じると、今もホームに「キハ20」が私を待ってる情景が鮮明に蘇る。

(廃止当日の1984年3月31日のみ運転された寒川~西寒川間の区間運転列車。通常は全て茅ヶ崎発着であったので貴重な臨時列車であった。)
さて、西寒川駅に関しては、別途ホームページを用意したので、そちらも参照して頂ければ幸いである。

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(お馴染みの写真である1984年2月に撮影の西寒川駅。中学卒業を控え、学校も1ヶ月くらい自由登校になりかなり優雅なひと時を過ごした。)
相模線は、東海道線の茅ヶ崎より北へ進み、横浜線の橋本に至る33.3キロの路線である。だが、かつては、途中の寒川より1.5キロの支線が延びていた。詳しい歴史については割愛するが、私はかつて、この支線の終点「西寒川」の駅前に住んでいた事がある。幼少時代~高校生までこの地で過ごしたため、この生活こそ私の鉄道人生の「原点」と言っても過言ではないであろう。茅ヶ崎の耳鼻科への通院に週に2~3回相模線を利用していた。おそらくこの経験が「鉄道」の目覚めのきっかけとなったであろうが、タイトルに「訪ねて」としたのは正確でないかも知れない。窓を開ければ駅は見えた訳だし、歩いて20秒もかからないので、あえて「訪ねる」までも無いであろう。

駅は棒線の一面一線で駅員無配置である。車止めの先には過去の「四之宮」までの線路跡らしき空間が確認できた。廃止前は、1日4本の列車が設定されており、朝1本、夕方3本とやや偏りを見せていたが、昼間の列車は設定されていないため、相模線の利用の際には寒川駅まで出向かなければならない。鉄道制覇の際の門出には必ず西寒川からの出発に拘った。ホームは3両編成の列車ははみ出てしまうというのに、朝には4両編成の列車もやってくる。若干の雨よけ用の屋根の下にはラッチと呼べるかどうか分からないが改札があり、駅前一等地はいきなり工場の壁にぶち当たる。左へ向うと飲食店と理容店があり、右の四之宮方面にも理容店があったが、四之宮方は現在は廃業している。ちなみにこの理容店は女性が経営していたが、順番待ちの際には紅茶のサービスがあった。更に右には工場地帯に続く道があり、民家も疎らだ。そんな寒川支線も昭和59年3月に廃止されてしまった。それから暫くして私は西寒川の駅前の自宅を辞した。父の仕事の関係で同じ相模線の倉見駅付近に転居したのだ。

現在、線路跡はほぼ緑道として残っているため、その痕跡を確認できる。また、西寒川駅に関しては「八角広場」となり、付近の住民の憩いの場となっている。また、付近には高速道路も建設され、景色がかなり変化してきた。現役当時は、私の知る限りだがキハ10の気動車が走る姿が最初である。それからキハ20、キハ35と変化していったが、私はキハ20が一番好きであった。キハ35はロングシートのため、乗ってて味気なく、車窓を見るのにも一苦労である。また、鉄道路線制覇の旅の出発の際、最初のスタートの駅が「西寒川」であった。西寒川は無人駅のため、車内で車掌からきっぷを購入する。
当時はまだ「ワンマン」という概念が鉄道には無かったため、車掌も忙しかったと思う。と言っても寒川~西寒川間は乗客も疎らであるため業務に多少なりとも余裕があったであろうが・・・そんな西寒川も、今は記憶の中の一部になってしまったが、目を閉じると、今もホームに「キハ20」が私を待ってる情景が鮮明に蘇る。

(廃止当日の1984年3月31日のみ運転された寒川~西寒川間の区間運転列車。通常は全て茅ヶ崎発着であったので貴重な臨時列車であった。)
さて、西寒川駅に関しては、別途ホームページを用意したので、そちらも参照して頂ければ幸いである。

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「西寒川駅」に拘る!⑥
2013-01-18
「西寒川駅」に拘る!はいかがだったでしょうか?私が最も好きな駅であり最も愛した駅でもあった。丹波〇郎氏を「霊界の宣伝マン」とするならば、私は「西寒川駅の宣伝マン」とでも言おうか。
国鉄相模線(当時)の寒川より枝分かれした1.5kmの路線は、数々の変遷の中、昭和59年にこの世を去った。私は中学から高校へのステップの時期でもあった。そして、高校2年の時に西寒川駅前の自宅から、同じく相模線の倉見駅付近に引っ越した。
あれだけ好きだった鉄道もちょうどこの時期に休止状態に入る。なぜ私は鉄道から離れたのであろう?あるとき自分に問うた。恐らく、もし鉄道ファンを続けていたならば、列車の来ない駅を毎日眺めなければならない・・・そして西寒川駅の取り壊し作業をカメラに収めたりしなければならない。恐らくそれがあまりに寂しく、つらかったのであろう。
私は鉄道以外の趣味を「音楽」と位置付けた。ギターやベースなどに打ち込み、バンド活動もした。所属したバンドでは、2枚目のアルバムで楽曲提供などもした。今ではいい思い出だが鉄道ほどのめり込むほどの楽しさは無かった。
運命とは皮肉なもので、そのバンド活動で知り合った元メンバーが提供してくれた秘境駅関係の書籍がきっかけとなり、今こうして鉄道と向かい合う日が再び訪れた。そのブランク、なんと20年!
20年も経つと「10年ひと昔」の勘定で言えばふた昔。取り巻く環境はことごとく変化していて、私のような古い考えなどは、とてもついていけなかった。しかし、ちょっと足を止めてみると、私のかつて好きだった「風景」が所々に現れる。485系や24系など、現在も活躍しているではないか!
そして「あれから」20年後に再び「西寒川駅」を訪れてみた。同時に「自宅」も訪ねてみた。元自宅については、もちろん他の人の住まいになっているが、すっかりリフォームされてかつての面影はない。そして「駅」に行ってみる。厳密に言えば「駅」が先に来るのだが、とりあえず文面の構成上、許していただこう。20年振りの「駅」はなんとなく面影はあるものの、すっかり「公園」として機能していた。そしてすぐ近くには高速道路の建設作業が眺められた。自宅付近含め「新しくなった景色」になかなか馴染めなかったが、確かにこの地に私は住み、そして西寒川駅と共に約9年の義務教育時代を過ごした。
だが、駅が駅でなくなってしまった現実は変わらない。相模線の「本線」は現在電化された。もし廃止されずに残っていたら、寒川支線は電化されたのであろうか?もちろん結果は分かっている。
今、あなたは西寒川駅についてどのような印象をお持ちであろう?「行ったことない」「神奈川県にあった駅とは思えない」等、意見は様々であろう。私はこれからも「西寒川駅」に強いこだわりを持ち、「西寒川駅」を伝えていく。そしてあなたが私のメッセージを受けて「西寒川駅」について何かを感じてくれた時、もしかしたらあなたは「八角広場」の前に立っているかも知れない。


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国鉄相模線(当時)の寒川より枝分かれした1.5kmの路線は、数々の変遷の中、昭和59年にこの世を去った。私は中学から高校へのステップの時期でもあった。そして、高校2年の時に西寒川駅前の自宅から、同じく相模線の倉見駅付近に引っ越した。
あれだけ好きだった鉄道もちょうどこの時期に休止状態に入る。なぜ私は鉄道から離れたのであろう?あるとき自分に問うた。恐らく、もし鉄道ファンを続けていたならば、列車の来ない駅を毎日眺めなければならない・・・そして西寒川駅の取り壊し作業をカメラに収めたりしなければならない。恐らくそれがあまりに寂しく、つらかったのであろう。
私は鉄道以外の趣味を「音楽」と位置付けた。ギターやベースなどに打ち込み、バンド活動もした。所属したバンドでは、2枚目のアルバムで楽曲提供などもした。今ではいい思い出だが鉄道ほどのめり込むほどの楽しさは無かった。
運命とは皮肉なもので、そのバンド活動で知り合った元メンバーが提供してくれた秘境駅関係の書籍がきっかけとなり、今こうして鉄道と向かい合う日が再び訪れた。そのブランク、なんと20年!
20年も経つと「10年ひと昔」の勘定で言えばふた昔。取り巻く環境はことごとく変化していて、私のような古い考えなどは、とてもついていけなかった。しかし、ちょっと足を止めてみると、私のかつて好きだった「風景」が所々に現れる。485系や24系など、現在も活躍しているではないか!
そして「あれから」20年後に再び「西寒川駅」を訪れてみた。同時に「自宅」も訪ねてみた。元自宅については、もちろん他の人の住まいになっているが、すっかりリフォームされてかつての面影はない。そして「駅」に行ってみる。厳密に言えば「駅」が先に来るのだが、とりあえず文面の構成上、許していただこう。20年振りの「駅」はなんとなく面影はあるものの、すっかり「公園」として機能していた。そしてすぐ近くには高速道路の建設作業が眺められた。自宅付近含め「新しくなった景色」になかなか馴染めなかったが、確かにこの地に私は住み、そして西寒川駅と共に約9年の義務教育時代を過ごした。
だが、駅が駅でなくなってしまった現実は変わらない。相模線の「本線」は現在電化された。もし廃止されずに残っていたら、寒川支線は電化されたのであろうか?もちろん結果は分かっている。
今、あなたは西寒川駅についてどのような印象をお持ちであろう?「行ったことない」「神奈川県にあった駅とは思えない」等、意見は様々であろう。私はこれからも「西寒川駅」に強いこだわりを持ち、「西寒川駅」を伝えていく。そしてあなたが私のメッセージを受けて「西寒川駅」について何かを感じてくれた時、もしかしたらあなたは「八角広場」の前に立っているかも知れない。


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