蝦夷からアイヌへ・アゲイン 深名線④ 北母子里
2022-04-23

朱鞠内はオブジェが残るのみとなってしまった。ここより湖畔へ向かいたかったのだが、時間の制約と湖畔から先の訪問が困難な雰囲気であったので、今回は広い道路を使い北母子里へ向かう事にした。
かつて列車交換が出来た駅であった北母子里であるが、現在もその痕跡があると聞いて訪問してみた。本当は湖畔や白樺、そして蕗ノ台への訪問を計画していたが、特に白樺や蕗ノ台は通じる道路が閉鎖されている可能性があったので断念。その代わりと言ってはなんだが、痕跡が残ると聞いていた北母子里へチャレンジしてみた。結果は・・・「桜、散る」であった。いや、厳密に言えば「桜、咲く」であったのだが、万字同様に、とにかく自然の猛威には敵わない。
そこはNTTか何かの電波中継点になっていたが、確かにホームなどの残骸はあったろう。しかしながらその場所は6月という事でジャングルになっていた。時間が押し迫っている事もあったが、流石にその場で草刈りをする勇気も無く、見事に退散してしまったのであった。ただ、国鉄時代では列車交換ができたので、駅舎は無くとも名残だけでも確認したかった。残念ながら、目の前にして夢は叶わなかったが、駅周辺の雰囲気や風景を確認できただけでも良かったのであろう。
もちろん、グーグルのストリートビューなどでも確認できるが、やはり肉眼での感覚は一際違うであろう。中途半場な訪問に終ってしまったが、それでも別の意味で達成感もあり、充実した時間となった。
やはり物資輸送なくして深名線は成り立たないと改めて感じた一巻でもあった。





鉄道ブログに関する画像にしては程遠い絵になってしまったが、こちらがかつての北母子里「駅」であった場所だ。この設備の向こう側にホームなどの跡があると聞いていたが、私はその向こう側に進む勇気が無かった。一般的に考えたら間違いなく「怪しい人」と思われてしまう私の行動であろうが、やはり怪しい行動をしてもホームを確認するべきであったか・・・

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蝦夷からアイヌへ、アゲイン 深名線② 添牛内
2022-04-16

晩年には超過疎化地帯を走っていた深名線であるが、それでもちゃんと利用者がいらっしゃったのだから、沿線住民にとってみれば貴重な交通機関であったのだ。
私は深名線の現役時代には乗ることができなかったが、今回の旅では鉄道以外での訪問によりこの地を訪れる事ができた。本当は時間がもっとあれば朱鞠内より先の湖畔や蕗ノ台など、冬期には消えてしまう駅にぜひ足を運んでみたかった。特に湖畔は国鉄時代には仮駅だったので一般の時刻表には掲載されていない「隠れキャラ」だったので俄然興味があった。ただ現在は痕跡がほとんど残ってないのと、白樺や蕗ノ台に関しては通じる道路が狭い事や途中で通行止めになっている場合があると聞いていたので訪問を断念した。しかしながら最近になって、例え痕跡がなくとも湖畔は通行止めなども無く道も広いので近い将来には必ず会いに行きたいと思うようになってきた。


深名線が廃止され20年以上経過しているが、現在も駅へ通じる道は健在である。その道の先に待っていたのはご覧の建築物であった。豪雪地帯の駅舎には「男の勲章」がしっかりと刻み込まれていた。泣きたくなるような辛い時もあるけど、いつも駅舎は耐えてきた事であろう。時の重さに流されそうになった時でも・・・
蕗ノ台や白樺は国鉄時代は時刻表に掲載されていたが、特に湖畔は仮駅であり超隠れキャラだったのでその思いも一際だ。私が行くまでぜひ待っててもらいたい。
ただ、今回の旅では天北線の山軽へも出向いたが、やはり熊との共存は私の好みではなく、あくまで鉄道と共存するのが使命である。したがって、湖畔などの訪問の際は最も注意を促す最重要事項であろう。

添牛内に着く前に政和温泉付近にある幌加内町の道の駅に立ち寄った。その際に近くにあった深名線の痕跡を発見!できればもっと接近したかったが、雨天であったのと、スケジュールの詰まり具合から接近を断念。というより、接近するのにはそんなに時間がかからないのでやはり接近すれば良かったと後悔の念・・・
ところで今回紹介する添牛内であるが、個人などの支援により現在もその姿をとどめている。レールこそ無いものの、ホームや駅舎は現役時代とほとんど変わらなく健在である。
深名線の要衝駅であった幌加内は不審火により消失してしまったが、こうして深名線の駅がひとつでもあると、そこに鉄道の歴史があったという証になり安心材料にもなる。朱鞠内のようにレプリカ的なものも悪くはないが、やはりこうした古い木造駅舎を目の当たりにすると深名線の歴史を、そして自らのレールファンとしての歴史を感じずにはいられなくなる。



プラットホームも健在であった。先に紹介した沼牛に似たような風景が広がる。「ナイ」「ウシ」「べつ(ペツ)」などの地名を聞くと北海道らしいと感じてしまうが、まさに深名線はそのような駅名が多い。
私の感覚では深名線は「赤字ワーストのローカル線」的なイメージしかないが、かつては、特に深川寄りではかなりの利用者があり、それなりに鉄道らしい風景が続いていたのだ。
とは言うものの、先述の白樺や蕗ノ台などでは全盛期でも付近の集落は鉄道の運営に多大な影響を及ぼすほどの人口ではなかったので、旅客営業のみの運営はまず考えられないであろう。だが、開拓部落の方々にとってはなくてはならない移動手段だったに違いない。特に冬期には閉鎖される道路も少なくなかったはずだ。
しかしながら過疎化と利用者減少はエネルギー革命以降顕著化しており、木材や石炭などの貨物物資が衰退してしまっては、もはや慈善事業的な運営以外に深名線維持の方法が見つからない。更に過疎化が進行してしまっては打つ手無しであろう。

プラットホーム側からの駅舎展望。「展望」というほど遠くからの眺めではないが、そこに見えたのは「国鉄」であった。JR時代にも深名線は活躍したが、逆にJRしか知らない世代に国鉄を感じてもらう貴重な資料であろう。
鉄道敷設には時間と計画性、そして計算が必要以上に必要となり、かなり先を見越して敷設しないと開通の頃にはタイムラグが発生してしまい無駄になる場合も少なくない。特に青函トンネルでは開通する頃には既に飛行機等が台頭し、更に新幹線も敷設が遅れ在来線でのスタートとなった。現在は新幹線も通るようになったが、在来貨物列車との共存がネックとなり新幹線のスピードアップに支障が出ている。三線軌条で複線という当初の設計では現在の我々の要求には答えられない構造になっている。つまり時代に合っていないのだ。「第二青函トンネル」の案もでているが、そのトンネルが開通する頃には世の中の情勢がどうなっているのであろうか。また、現在の青函トンネルも寿命を迎えるなど様々な問題がで来るはずだ。
青函トンネルに比べ規模は小さいながら本来は「名羽線」であった朱鞠内~名寄間は結局築別~朱鞠内も石炭の衰退により未成線に終ってしまった。羽幌炭鉱が全盛期の時代に開通していたらまた違った運命をたどっていたかも知れない。

添牛内の「駅前一等地」ではこうした風景が展開されている。私のような神奈川県民などが想像する駅前とはかなりイメージが異なるが、それでも厳しい自然と戦いながら人の営みがあると思うと、なんだか人のたくましさを感じずにいられなくなる。
かつては開拓部落の人たちにとって無くてはならない鉄道路線であったはずだ。添牛内の駅舎に刻み込まれた数々の傷跡は、先人の方達を雪や風から守り、開拓への情熱が刻み込まれた証であろう。胸打たれた私の目には、いつしか駅舎の姿が滲み、雨降りしきる駅前一等地に立ちすくんでいた。やがて雨を遮り車のドアを開ける私は雨以外の何かで濡れた目を拭っていた。

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蝦夷からアイヌへ、アゲイン 深名線① 沼牛
2022-04-09

深名線と言えば泣く子も黙る赤字ローカル線のワースト常連であり国鉄時代には美幸線等と共に1、2を争った事もある路線であるが、JRになってからも沿線道路未整備ということで90年代まで生き残った数少ないレアな路線であったのは周知の通りであろう。
全線通して直通運転する列車は無く、必ず朱鞠内で乗り換えが発生するのは豪雪地帯を走るためダイヤが乱れるのを防ぐためという公式の理由であったが、実際はどうなのであろうか。
しかしながら沿線人口がどんどん減少し、もともと希少だったと思われる沿線人口が更に減っていくのだから、旅客だけで銭儲けをするには至難の技であろう。

2017年時点で健在であった沼牛駅舎。廃止年月が1995年であるから、私から見たら比較的新しい部類に入る。1980年代には北海道乗り潰し計画を何度も立てたが、この深名線も列車本数の少なさプラス接続の悪さで乗り潰し泣かせの路線でもあった。
例えば深名線に新富という駅があったのだが、利用者僅少という事で国鉄時代に幌加内町へ駅廃止の打診をし町は沿線住民の利用者などに確認をせずにOKしたところ、廃止後に通院で駅を利用していた年配ご夫婦が孤立してしまうという現状が起きてしまったのだ。高齢化社会、過疎化など日本が抱えてる大きな問題を象徴する場面として当時話題になったらしい。
国鉄時代には果たせなかったが、近年に私も実際に現地に訪れる事ができた。もちろん「リバプールの風」になってからであるが、やはりとても山深く、よくぞこの地にレールを敷いたなと、先人の苦労に胸打たれる思いであった。
残念ながら現役時代には訪問できなかった事が悔やまれるが、ある意味深名線の偉大さが無言の叫びで車の車窓からでも伝わって来た感じであった。




昭和の風景満載の駅舎であるが、先輩たちは北国特有の気候からこの建物に何度守られた事であろう。後輩の私たちは単純に古いだけの建物に見えるかも知れないが、先輩達はこの傷だらけの守り神にたくましさを感じる事であろう。
ところで深名線であるが、歴史的には北海道でよく聞く炭鉱などの話を聞いたことがない。いや、正確には羽幌線の築別から分岐し朱鞠内で合流する「名羽(めいう)線」では石炭輸送が目的とされ、名寄~朱鞠内~築別が基本的に名羽線として建設されたので一部区間は石炭輸送も当然ながら視野に入っていたが、深名線では基本、森林資源などが主なお客様であったと思われる。しかし時代は流れ貨物が衰退してからは旅客が「お荷物」となってしまった。それでも数少ない利用者には長距離利用が多く、代行バスになってからもそのままシフトしたと思われ、数ある廃止路線の中でも深名線は長距離旅客が多いのが特徴でもあった。





レールは無いものの、プラットホームは健在であった。車が通ったと思われる轍がある意味レールのあった証のように想像力を高めてくれる。その先には開拓部落の方々の期待がたくさん込められてたはずだ。
かつては北母子里や鷹泊なとにも列車交換設備があったが、晩年は幌加内と朱鞠内のみになり、極力経費削減をしていたイメージであった。しかし時代の波には勝てず、1990年代に入りとうとう力尽きてしまったのは残念な話であろう。ただ、営業最終日までワンマン化されず車掌が乗車していたのは特筆すべき事で、現在の地方鉄道では当たり前の光景であるワンマン運転が赤字ワーストの深名線に導入されなかったのは逆にワンマン化に対応する設備投資を抑える為であろうと考えられる。恐らくCTC化もされず、交換駅である朱鞠内と幌加内は終日職員がポイント操作を行っていたと思われる。つまり昔の国鉄がそのままJR後も続いていたわけなのだ。
さて、沼牛の現在は…ご覧の通り駅舎が現存しホームもあった。ホーム前の轍(わだち)に鉄道の歴史を感じる事ができるのは嬉しい材料であるが、とにかく旅客を主体にする運営には向いている事を否定せざるを得ない風景であった。周囲には若干ながらの集落を形成しているが、使用されていないであろう建物も少なくなく、鉄道の歴史だけが淡々と輝いている沼牛訪問であった。

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蝦夷からアイヌへ⑥ 鷹泊
2017-07-25

生まれて初めてこの地を訪れた。国鉄時代は常に収支係数ワースト常連の深名線に、いつか訪問してみたいと思っていたが、とうとう実現しないまま今日まで至ってしまった。そして今回、2017年6月にその思いを果たせたわけであるが、当然ながら既に現役ではないどころか、レールは既になく、面影すらない場所もある。だが、意外にも路盤や駅設備が現在でも残っている場所も少なくなく、廃止されてから20年以上経過した現在でも保存状態の良い場所もある。そんな面影を追いかけるため、この地に足を踏み入れてみた。


さて、こちらは2017年6月現在の鷹泊駅舎。ご覧の通り、現役時代そのまま現在に至る・・・的な保存具合だ。もちろんメンテナンスもしっかりとなされてる雰囲気をしっかりと感じ取る事が出来る。
だが、当日は雨・・・というか、前日に、特に西日本では記録的な豪雨との情報をメディアで確認していた。それが北上して北海道まで接近するとの情報であったが、実際には午前中で雨があがってしまった。であるが、私の深名線訪問時間は午前中。それでも深名線が私を待っていてくれるのなら・・・私はカーナビを駆使して各駅を訪問してみた。
まずは鷹泊。現在でも木造駅舎は健在である事はウィキで確認済みであったが、実際に訪問してみたら思った以上に保存状態がいい。そしてホームも未だ健在!草刈もしっかりとされており、管理人様の思いが伝わってくる。

そしてこちらがホーム側の駅舎。やや部分的に朽ち果てているものの、ほぼ完全な姿で今も健在なのが嬉しい。
さて、今後も深名線の訪問駅を順次紹介していく予定であるが、深名線を訪問した印象・・・ハッキリ言って旅客営業のみでは到底銭儲け出来ない大自然に囲まれた風景であった。一番大きな集落と言えばご存知幌加内であるが、今回の旅ではあえて訪問しなかった。しかしながら「そばの名産地」としてその名は高く、品質も申し分無いであろう。というのも、かつて私の実家がそば店を営んでいたが、確か幌加内産のそば粉を使用していた記憶であるので何かと縁が深い。


そしてホームへ。ホームも未だ健在であるが、もちろんレールは無い。だが。列車の雰囲気とか自然と感じ取る事が出来るのは実に良い。かつては列車交換ができて、二面三線で島式ホーム1本と駅舎に接する片面使用ホームがあった。しかしながら現在残っているのは駅舎に接するホームのみとなっている。
ただ、鷹泊は幌加内町には所在しないが、お隣の幌加内町にも引けを取らないくらい大自然豊かな町だ。そしてそこにレールの歴史が存在し乗客が少なくとも、特に冬季にはそのレールを刻む音が力強く思えたであろう。
ただ、この深名線は確かに乗客が少なく沿線人口も少ないが、それでも定期客がしっかりいたのが素晴らしい。そして、深名線の最もたる特徴として長距離客が少なくないという事だ。

そしてこちらが駅前一等地。ちゃんと駅まで舗装された道路が通じているのが実に良い。だが駅前には商店などの商業施設はなく、ただひたすら民家や倉庫的な建家があるのみであった。
特に深名線はバスに転換されても乗客は長距離客が多いと聞いた。逆に言うと、たとえば大きい病院など通院される方などは必然と名寄か深川、滝川、旭川などの大都市に限定されてしまうため長距離になってしまう。そんな沿線住民は、たとえ大雪でも時間通りにやってくる列車はある意味重宝した事であろう。だが、残念ながら経営側は利益が出なければ会社が成り立たない。路線廃止は必然となったわけであるが、それでもかつては貨物輸送もそれなりに盛んであった事であろうと思う。北海道は特に「開拓」と言う名の元、物資輸送などは今ほど道路が整備されていなく、道のコンディションも日によって良い日が少ない場合があり、そのため鉄道がそのメリットをいかんなく発揮できたため重宝された時代もあった。

レールがなくてもこれだけしっかりと存在感をアピール出来るのが素晴らしい。できれば駅舎内にも入ってみたかったが・・・
だが、時代も変わり列車の性能は上がったが、それと同時に自動車の性能も上がり、そして道路もアスファルトで整備され幅員も広がり便利になった。自動車免許を所有されている方はともかく、免許を所有されていない、いわゆる「交通弱者」と呼ばれる方などは完全なる定期客であった。そんな中、かつてこの深名線においてある「事件」があった。JRが利用者の少ない駅を廃止したいと幌加内町に打診したらOKとの返事だったので、ある駅が廃止になった(おそらく新富であったと思う)。だが、その廃止を知らされていない利用者は、ある日急に列車が停まらなくなってしまい、完全に孤立してしまったという逸話があった。これから更に少子高齢化時代が深まっていく中、ある意味象徴的な出来事といえよう。

そしてこちらが確か名寄よりの風景。わずかながら、なんとなくレールがあった名残が確認できる。
残念ながら深名線はなくなってしまったが、こうしてかつての鉄道の歴史が今も残っている姿を見つめていると、そんなかつての記憶がよみがえってくるから不思議だ。いや、それは必然の出来事なのであろう。であるから尚更深名線の記憶をこれからも大切にしたいと、深名線の最初の訪問先である鷹泊の駅舎を見つめながらそう感じていた。

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