旅を楽しくする実践講座 2021
2021-01-01
新年あけましておめでとうございます!
今年も鉄道全線完全制覇の旅をよろしくお願いいたします。

今回の写真掲載は1978年、二見書房より発行の「ブルートレイン」より右側のカード内容を紹介していたが、期間限定という事でご了承頂き、お蔵入りになっていた渋谷駅の様子に差し替えさせていただき紹介していきたい。
2021年スタートした!国鉄からJRに移管してから既に30年以上経過したが、とにかく合理化され民営化ならではの努力がなされており、国鉄時代からは想像もつかないほど進化している。ワンマン運転が当たり前の時代である現代の鉄道事情も、国鉄時代では山陰本線などでワンマン運転が導入された事が非常に新鮮かつショッキングな出来事であった。どんな小さなローカル線でも車掌が乗務していたし、そして駅員のいる改札では必ず職員が座り硬券の切符にパンチ(鋏)を入れていた、そんな時代であった。
そして切符の販売などをコンピューターで処理する「マルス」の機能が本格的に進化しはじめたのが私がレールファンとして全盛期であった小学校高学年~中学校時代である1970年代~1980年代からであった記憶だ。

今回は私自身も撮影していた事さえ記憶から遠ざかっていた東横線の旧・渋谷駅の様子を紹介しよう。もちろんこの風景は記憶に新しいが、時間の経過とともに後世に引き継がれ貴重な風景となる事であろう。
しかしながら、まだまだマルスによる周遊券等の発券は少なかった記憶で、駅のみどりの窓口などでは周遊券などは発券別に常備券の在庫を持たねばならず、切符売り場の窓口職員や、もっと言えば改札に立つ職員等は、一年に数枚しか売れない周遊券等の細かいルールなどを全て覚えるというのはかなり大変な作業であったろう。もちろん、全て頭に入っているというのがプロとして当然であるはずだし、そしてそれを前提として我々利用者は快適に旅が出来る事が基本的な考え方であろう。

ホームは頭端式で渋谷を通過できる列車は皆無である。ウィキによると昭和2年の開業という事なので物凄い年月が流れていいた事になる。もちろんその間増改築が著しく行われ現在の姿になった事は周知の通りである。
私のブログにちょくちょく顔を出す「種村直樹の汽車旅相談室」は、そんな旅先でのトラブル等を「規則」を通じて解説・解決していく趣旨であった。現代における若い世代のレールファン達はこの「汽車旅~」に関してはもう伝説に部類に入っていると思われるし、種村直樹と聞いても「昔の人」的イメージか、むしろ知らない方のほうが多いであろう。
改めて「種村直樹の汽車旅相談室」について解説すると、RJ社が発行(当時)する「旅と鉄道」という鉄道誌に始まる。最初は「旅を楽しくする実践講座」というタイトルであったが「汽車旅相談室」に名前を変えて連載がスタートした。インターネット等が発達していない時代に鉄道旅のトラブル等の解決策として大きな反響を呼んだが、相談室への接触方法としては種村直樹氏の自宅にハガキや手紙を送付し、それを種村氏が返答・返信し、種村氏が厳選した相談のいくつかが「旅と鉄道」に掲載される、というイメージである。「えっ、種村氏に直接ハガキって、どうして住所が分かるの?」というクエスチョンが出てくると思うが、昔は雑誌そのものに筆者の住所等が普通に掲載されていた。昨年他界した志村けん氏も、雑誌等の付録に掲載されているタレントの住所等を見ていかりや長介の自宅に「弟子入り志願」に行ったとの本人談であった。
「汽車旅相談室」はその後単行本としていくつか発行された事ひとつとってもいかにこの相談室の反響が大きかったか頷けるであろう。

現在ではなんと西武鉄道との乗り入れが実現している東急東横線。かつて「伊豆戦争」を知る者にとっては現在のこのシーンが信じられない出来事であろう。
以前に私が取り上げた相談室の内容のひとつに「一筆書き乗車」というタイトルの記事がある。それは「一筆書き乗車中に例えば相模線の寒川支線(当時、現在は廃止)に乗車したくなった場合、別途寒川~西寒川の往復乗車券を買い往復するのは有効か?」みたいな内容である。この件に関して大反響を呼んだ事は私のブログでも解説しており、私のブログにも多くの意見が寄せられた。私自身も「違法」という意見を述べているが、久々に当時の「旅と鉄道」を読んでみたらとんでもない事が書いてあった。それは、一筆書きとはかけ離れた内容で拡大解釈し、「そんなにうまい話があるんですね。早速試してみます。」的な内容の文面が種村氏の元にたくさん寄れられたというのだ。例えば茅ヶ崎から茂原辺りまで行く場合、茅ヶ崎から120円(当時)を買い大網~茂原の別途往復切符を用意して「一筆書き中だ」と言えば安く済みますね、という者も出てくる的な内容であった。「そんなにうまい話」はともかく、それをわざわざ「試してみる」と種村氏にハガキを送るという事自体私には理解できないし信じられないが、実際に実行した者も少なくなかったであろう。そんな事もあって「違法ではないが感心しません」から回数をまたいで「規則の解釈上も疑問で、やめよう」にタイトルを変更し注意を呼びかけた経緯のある疑惑付きの内容であった。

かつての東横線では「特急」の設定が無かった。現在の特急の停車駅は実によく考えられた結果だと思う。私にしてみたら綱島や日吉をも通過するシーンは実に新鮮だ。
そんな汽車旅相談を日々読み続けていた中学生であったが、23年というブランクを乗り越えレールファンに復帰したのが2007年頃であった。そして2014年11月、私は「はまなす」に最初で最後の試乗をするために北海道へ旅立ったのであった。
その時の出来事。私は音威子府で「常盤軒」のそばを堪能した後、帰郷のため札幌から「はまなす」に乗る計画であった。札幌では待ち時間をあえて作って「はまなす」での飲料・食料や「日帰り温泉」の準備も進めていた。銭湯は苗穂と桑園の駅前にある事をインターネットで確認していたので桑園でスーパー銭湯を利用する事に決めた。

そしてなんといっても桜木町が廃止され元町・中華街までの延伸が実現した事である。実は横浜市営地下鉄も関内から分岐して中華街までの延伸が予定されていた。現在でもその名残が地下鉄の関内駅ホームで見られるが、結局東急に先手を打たれ、というより市営地下鉄の計画が頓挫してしまい断念・・・
いや、しかしすごい時代だ。銭湯ひとつ探すにも部屋の中でパソコンを眺めていればすぐに見つかる。私がかつてレールファン全盛で旅をしていた国鉄時代では、わざわざ書店で「駅前の宿」的な本を端から読みあさったり時刻表の巻末くらいにある広告や民宿案内みたいなページで日帰り温泉できる宿などを探すしかなかった時代だ。
私の場合、雑誌などで探す事もあったが、例えば旅先の現地で後に折り返し戻ってくる比較的待ち時間のある駅周辺を窓から眺め煙突を探す。もちろん工場とかの煙突ではなく「銭湯」の煙突だ。見つかると「よし、ここで下車だ!」とあらかじめ決めておいて折り返し戻ってきたら銭湯に向かう・・・みたいな、なんともアナログ的な探し方であった。この方法では実際に青森と南小松島で成功しているが、早い話、駅員さんなどにリサーチするのが一番いいかも知れない。なのになぜか私は煙突にこだわった。
そういえば一度だけ駅員にリサーチして入った銭湯が男鹿であった。秋田に折り返す列車を一本送らせても秋田から乗る列車は同じのため銭湯に向かう決意をしたのであった。

かつてはここに5000系も姿を現していた時代があった。私が小学生時代の頃まで見かけた記憶があるが、やがて8000系も東急から姿を消す事となったのは寂しい限りである。
そんな旅慣れた私が自信満々で桑園で下車するため切符を窓口で見せた。別途区間の乗越精算のため自動改札から出られないためだ。私は音威子府~東京都区内の切符を見せて札幌~桑園の乗越運賃を係員に渡そうとした。ところが「これでは足りませんね。白石~桑園までの運賃をお願いします」と更に追加の運賃を請求された。「いやいや、サロベツで札幌まできて、札幌からはまなすに乗るんですけど・・・」と説明したが・・・ここで気がついた。そう、函館本線と千歳線の接点は白石であるから、特急の止まらない白石からは札幌まで乗り越しても「途中下車しなければ」料金不要である。つまり私は白石で「途中下車した」事になるのだ。こんな初歩的な事を、しかもベテランの域を超えた(?)レールファンが見落とすとは!駅員にあわせる顔もなかった、って、駅員さんが私の事をレールファンとは知らないであろうが・・・とにかく、こんな基本的な事を見落とす大失態である!!!その後のスーパー銭湯内で私は、湯船の中で恥ずかしくていられなかったのであった・・・
あれだけ「汽車旅相談室」などと豪語していた私にとって、これほどの大失態とは・・・

普段はなかなか行く事が無かったであろう渋谷駅ホームの横浜寄りの姿。レールファン以外はあまりこういうシーンを眺めることは少ないと思うが、現在では渋谷をスルーする事ができるようになりある意味効率的な運転ができるようになった。
それはともかく、汽車旅相談室で読んだ国鉄職員の怠慢や姿勢は、現在のJR時代には、私の経験上や知る限りでは殆んど無いと思う。むしろJR九州などは、私が肥薩線で「隼人の風」と「いさぶろう・しんぺい」の乗車を兼ねて熊本へ抜ける際に「隼人の風」が大雨で肥薩線の霧島温泉で列車が立ち往生したまま運休になってしまい、熊本方面に行く道のりが閉ざされた際について、本来私の持っているフリーきっぷでは新幹線は利用できないのだが、救済処置として新幹線に乗車できるよう鹿児島中央に連絡をしてくれて対応してくれたのだ!
お客様に有利なよう、そして不便ないように対応してくれた姿勢・・・素晴らしいと思った。おかげで九州新幹線「初乗車」をフリーきっぷで体験できたのだ。当時は新八代から在来線に乗り換える時代であったので尚更貴重であろう。国鉄時代の汽車旅相談室に出てくる国鉄職員の杓子定規な考えには到底想像もつかない現在シーンがそこには存在した。いや、私がかつて国鉄時代に旅をしていた時も汽車旅相談室に出てくるようなトラブルは無く、むしろ優しく有利になるように対応してくれた思い出の方が多いし強い。であるのだから、やはり我々も「お客だ」的な意識をあまり持たずに、もっと鉄道会社に歩み寄る姿勢を持つ事でもっと楽しい旅が出来そうな気がする。そう、鉄道会社の影の努力があってこそ私たちは定まった時刻に列車に乗り、そして旅が出来るのである。皆様もご存じと思われるが、海外等では20時間遅れなんて列車もざらにある。それを考えると2~3分遅れでも車内アナウンスが入る日本の鉄道事情は、他の国から見たら考えられないシーンでもあるだろう。

そして相鉄が更なる延伸計画を企てている中、東急はどう変化していくのであろうか。輸送量増加に伴い東京寄りを複々線にしないと捌ききれない状態であったろうが、目蒲線や大井町線等既存の路線を活用し東横線や田園都市線を改良する事で複々線をぜずに対応した姿は記憶に新しい。西武は相鉄の乗り入れにやや難色を示しているらしいが、そこは是非西武の英断に期待する!
さて、皆様の鉄道の旅はいかがであろうか。たくさんの経験、そして素敵な思い出などあれば私に是非お知らせ願いたい。
鉄道での旅・・・私は今の時代にあえて「汽車旅」と表現したい。その汽車旅を楽しくしていく術は我々自身から歩み寄る・・・そして作り出すものではないか。そう感じてならない2021年である。

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今年も鉄道全線完全制覇の旅をよろしくお願いいたします。

今回の写真掲載は1978年、二見書房より発行の「ブルートレイン」より右側のカード内容を紹介していたが、期間限定という事でご了承頂き、お蔵入りになっていた渋谷駅の様子に差し替えさせていただき紹介していきたい。
2021年スタートした!国鉄からJRに移管してから既に30年以上経過したが、とにかく合理化され民営化ならではの努力がなされており、国鉄時代からは想像もつかないほど進化している。ワンマン運転が当たり前の時代である現代の鉄道事情も、国鉄時代では山陰本線などでワンマン運転が導入された事が非常に新鮮かつショッキングな出来事であった。どんな小さなローカル線でも車掌が乗務していたし、そして駅員のいる改札では必ず職員が座り硬券の切符にパンチ(鋏)を入れていた、そんな時代であった。
そして切符の販売などをコンピューターで処理する「マルス」の機能が本格的に進化しはじめたのが私がレールファンとして全盛期であった小学校高学年~中学校時代である1970年代~1980年代からであった記憶だ。

今回は私自身も撮影していた事さえ記憶から遠ざかっていた東横線の旧・渋谷駅の様子を紹介しよう。もちろんこの風景は記憶に新しいが、時間の経過とともに後世に引き継がれ貴重な風景となる事であろう。
しかしながら、まだまだマルスによる周遊券等の発券は少なかった記憶で、駅のみどりの窓口などでは周遊券などは発券別に常備券の在庫を持たねばならず、切符売り場の窓口職員や、もっと言えば改札に立つ職員等は、一年に数枚しか売れない周遊券等の細かいルールなどを全て覚えるというのはかなり大変な作業であったろう。もちろん、全て頭に入っているというのがプロとして当然であるはずだし、そしてそれを前提として我々利用者は快適に旅が出来る事が基本的な考え方であろう。

ホームは頭端式で渋谷を通過できる列車は皆無である。ウィキによると昭和2年の開業という事なので物凄い年月が流れていいた事になる。もちろんその間増改築が著しく行われ現在の姿になった事は周知の通りである。
私のブログにちょくちょく顔を出す「種村直樹の汽車旅相談室」は、そんな旅先でのトラブル等を「規則」を通じて解説・解決していく趣旨であった。現代における若い世代のレールファン達はこの「汽車旅~」に関してはもう伝説に部類に入っていると思われるし、種村直樹と聞いても「昔の人」的イメージか、むしろ知らない方のほうが多いであろう。
改めて「種村直樹の汽車旅相談室」について解説すると、RJ社が発行(当時)する「旅と鉄道」という鉄道誌に始まる。最初は「旅を楽しくする実践講座」というタイトルであったが「汽車旅相談室」に名前を変えて連載がスタートした。インターネット等が発達していない時代に鉄道旅のトラブル等の解決策として大きな反響を呼んだが、相談室への接触方法としては種村直樹氏の自宅にハガキや手紙を送付し、それを種村氏が返答・返信し、種村氏が厳選した相談のいくつかが「旅と鉄道」に掲載される、というイメージである。「えっ、種村氏に直接ハガキって、どうして住所が分かるの?」というクエスチョンが出てくると思うが、昔は雑誌そのものに筆者の住所等が普通に掲載されていた。昨年他界した志村けん氏も、雑誌等の付録に掲載されているタレントの住所等を見ていかりや長介の自宅に「弟子入り志願」に行ったとの本人談であった。
「汽車旅相談室」はその後単行本としていくつか発行された事ひとつとってもいかにこの相談室の反響が大きかったか頷けるであろう。

現在ではなんと西武鉄道との乗り入れが実現している東急東横線。かつて「伊豆戦争」を知る者にとっては現在のこのシーンが信じられない出来事であろう。
以前に私が取り上げた相談室の内容のひとつに「一筆書き乗車」というタイトルの記事がある。それは「一筆書き乗車中に例えば相模線の寒川支線(当時、現在は廃止)に乗車したくなった場合、別途寒川~西寒川の往復乗車券を買い往復するのは有効か?」みたいな内容である。この件に関して大反響を呼んだ事は私のブログでも解説しており、私のブログにも多くの意見が寄せられた。私自身も「違法」という意見を述べているが、久々に当時の「旅と鉄道」を読んでみたらとんでもない事が書いてあった。それは、一筆書きとはかけ離れた内容で拡大解釈し、「そんなにうまい話があるんですね。早速試してみます。」的な内容の文面が種村氏の元にたくさん寄れられたというのだ。例えば茅ヶ崎から茂原辺りまで行く場合、茅ヶ崎から120円(当時)を買い大網~茂原の別途往復切符を用意して「一筆書き中だ」と言えば安く済みますね、という者も出てくる的な内容であった。「そんなにうまい話」はともかく、それをわざわざ「試してみる」と種村氏にハガキを送るという事自体私には理解できないし信じられないが、実際に実行した者も少なくなかったであろう。そんな事もあって「違法ではないが感心しません」から回数をまたいで「規則の解釈上も疑問で、やめよう」にタイトルを変更し注意を呼びかけた経緯のある疑惑付きの内容であった。

かつての東横線では「特急」の設定が無かった。現在の特急の停車駅は実によく考えられた結果だと思う。私にしてみたら綱島や日吉をも通過するシーンは実に新鮮だ。
そんな汽車旅相談を日々読み続けていた中学生であったが、23年というブランクを乗り越えレールファンに復帰したのが2007年頃であった。そして2014年11月、私は「はまなす」に最初で最後の試乗をするために北海道へ旅立ったのであった。
その時の出来事。私は音威子府で「常盤軒」のそばを堪能した後、帰郷のため札幌から「はまなす」に乗る計画であった。札幌では待ち時間をあえて作って「はまなす」での飲料・食料や「日帰り温泉」の準備も進めていた。銭湯は苗穂と桑園の駅前にある事をインターネットで確認していたので桑園でスーパー銭湯を利用する事に決めた。

そしてなんといっても桜木町が廃止され元町・中華街までの延伸が実現した事である。実は横浜市営地下鉄も関内から分岐して中華街までの延伸が予定されていた。現在でもその名残が地下鉄の関内駅ホームで見られるが、結局東急に先手を打たれ、というより市営地下鉄の計画が頓挫してしまい断念・・・
いや、しかしすごい時代だ。銭湯ひとつ探すにも部屋の中でパソコンを眺めていればすぐに見つかる。私がかつてレールファン全盛で旅をしていた国鉄時代では、わざわざ書店で「駅前の宿」的な本を端から読みあさったり時刻表の巻末くらいにある広告や民宿案内みたいなページで日帰り温泉できる宿などを探すしかなかった時代だ。
私の場合、雑誌などで探す事もあったが、例えば旅先の現地で後に折り返し戻ってくる比較的待ち時間のある駅周辺を窓から眺め煙突を探す。もちろん工場とかの煙突ではなく「銭湯」の煙突だ。見つかると「よし、ここで下車だ!」とあらかじめ決めておいて折り返し戻ってきたら銭湯に向かう・・・みたいな、なんともアナログ的な探し方であった。この方法では実際に青森と南小松島で成功しているが、早い話、駅員さんなどにリサーチするのが一番いいかも知れない。なのになぜか私は煙突にこだわった。
そういえば一度だけ駅員にリサーチして入った銭湯が男鹿であった。秋田に折り返す列車を一本送らせても秋田から乗る列車は同じのため銭湯に向かう決意をしたのであった。

かつてはここに5000系も姿を現していた時代があった。私が小学生時代の頃まで見かけた記憶があるが、やがて8000系も東急から姿を消す事となったのは寂しい限りである。
そんな旅慣れた私が自信満々で桑園で下車するため切符を窓口で見せた。別途区間の乗越精算のため自動改札から出られないためだ。私は音威子府~東京都区内の切符を見せて札幌~桑園の乗越運賃を係員に渡そうとした。ところが「これでは足りませんね。白石~桑園までの運賃をお願いします」と更に追加の運賃を請求された。「いやいや、サロベツで札幌まできて、札幌からはまなすに乗るんですけど・・・」と説明したが・・・ここで気がついた。そう、函館本線と千歳線の接点は白石であるから、特急の止まらない白石からは札幌まで乗り越しても「途中下車しなければ」料金不要である。つまり私は白石で「途中下車した」事になるのだ。こんな初歩的な事を、しかもベテランの域を超えた(?)レールファンが見落とすとは!駅員にあわせる顔もなかった、って、駅員さんが私の事をレールファンとは知らないであろうが・・・とにかく、こんな基本的な事を見落とす大失態である!!!その後のスーパー銭湯内で私は、湯船の中で恥ずかしくていられなかったのであった・・・
あれだけ「汽車旅相談室」などと豪語していた私にとって、これほどの大失態とは・・・

普段はなかなか行く事が無かったであろう渋谷駅ホームの横浜寄りの姿。レールファン以外はあまりこういうシーンを眺めることは少ないと思うが、現在では渋谷をスルーする事ができるようになりある意味効率的な運転ができるようになった。
それはともかく、汽車旅相談室で読んだ国鉄職員の怠慢や姿勢は、現在のJR時代には、私の経験上や知る限りでは殆んど無いと思う。むしろJR九州などは、私が肥薩線で「隼人の風」と「いさぶろう・しんぺい」の乗車を兼ねて熊本へ抜ける際に「隼人の風」が大雨で肥薩線の霧島温泉で列車が立ち往生したまま運休になってしまい、熊本方面に行く道のりが閉ざされた際について、本来私の持っているフリーきっぷでは新幹線は利用できないのだが、救済処置として新幹線に乗車できるよう鹿児島中央に連絡をしてくれて対応してくれたのだ!
お客様に有利なよう、そして不便ないように対応してくれた姿勢・・・素晴らしいと思った。おかげで九州新幹線「初乗車」をフリーきっぷで体験できたのだ。当時は新八代から在来線に乗り換える時代であったので尚更貴重であろう。国鉄時代の汽車旅相談室に出てくる国鉄職員の杓子定規な考えには到底想像もつかない現在シーンがそこには存在した。いや、私がかつて国鉄時代に旅をしていた時も汽車旅相談室に出てくるようなトラブルは無く、むしろ優しく有利になるように対応してくれた思い出の方が多いし強い。であるのだから、やはり我々も「お客だ」的な意識をあまり持たずに、もっと鉄道会社に歩み寄る姿勢を持つ事でもっと楽しい旅が出来そうな気がする。そう、鉄道会社の影の努力があってこそ私たちは定まった時刻に列車に乗り、そして旅が出来るのである。皆様もご存じと思われるが、海外等では20時間遅れなんて列車もざらにある。それを考えると2~3分遅れでも車内アナウンスが入る日本の鉄道事情は、他の国から見たら考えられないシーンでもあるだろう。

そして相鉄が更なる延伸計画を企てている中、東急はどう変化していくのであろうか。輸送量増加に伴い東京寄りを複々線にしないと捌ききれない状態であったろうが、目蒲線や大井町線等既存の路線を活用し東横線や田園都市線を改良する事で複々線をぜずに対応した姿は記憶に新しい。西武は相鉄の乗り入れにやや難色を示しているらしいが、そこは是非西武の英断に期待する!
さて、皆様の鉄道の旅はいかがであろうか。たくさんの経験、そして素敵な思い出などあれば私に是非お知らせ願いたい。
鉄道での旅・・・私は今の時代にあえて「汽車旅」と表現したい。その汽車旅を楽しくしていく術は我々自身から歩み寄る・・・そして作り出すものではないか。そう感じてならない2021年である。

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2020年・謹賀新年ご挨拶
2020-01-01
新年、あけましておめでとうございます。今年も「鉄道全線完全制覇の旅」をよろしくお願いいたします。
さて、年は明け、いよいよ今年は2020年。東海道新幹線が開通した昭和39年以来、オリンピックが日本で、しかも東京で開催されるという記念すべき年である。
東京オリンピック・・・若い世代ならともかく、私の世代でも昭和39年のオリンピックは全く分からない・・・生まれてないし~みたいな世代である。
両親や知人に聞いた限りではあるが、当時のオリンピックは相当に爆発的に盛り上がったそうだ!日本の高度経済成長時代。常に前年比130%以上(かどうかは分からないが)的売上が当り前的な世の中。日本中が湧いて沸いて盛り上がっていた時代であろう。

ある意味毎年恒例となった「ダイナミック✩トナカイ」の画像を今年も紹介しよう。こちらはご覧の通り1980年代の常磐線特急である。上野の2階ホームであるが・・・上野といえば立ち食いそばがうまい!というか、この昭和時代のそれは現在のそれとひと味違っていたような気もするが・・・
周知の通り、それに併せて東海道新幹線が昭和39年10月1日に開通して東京から大阪間の所要時間がそれまでの半分になり日帰りが可能になった!これは、例えるならTOKIOに木村拓哉が、いや、東幹久や的場浩司(いわゆる助さん・格さん?)が加入したと想定したくらい凄い出来事であった!実にカルチャーショック!実に超非現実的。江戸時代に北斗の拳のケンシロウが「世紀末救世主」として君臨したと仮定した場合・・・くらい凄い事であろう。
余談ではあるが、私もとうとう「フルムーン」の適用年齢に、いつのまにかなってしまった事をつい最近になって気付くのが複雑な印象だったが・・・

稲毛のホーム先端で撮影した房総特急である。この撮影時、私は中学2年生であったが、ダイナミック✩トナカイは新入生として「鉄道研究クラブ」に入部してきた。そして房総急行がそろそろ全廃されるとの情報が流れ出した頃であった。
さて、昨年の10月であったろうか、私はあるドラマを視て「ハッ」と思わされた。
それはCSで放送された「鉄道警察官」というサスペンスドラマであったが、そのワンシーンで犯人がこんな台詞を言った。
要約すると「鉄道ファンはいつも孤独だ」「鉄道趣味とは所有できないから常に幻想を描いている」
確かこんな感じだった。
そう、私はいつも孤独だった。唯一中学校時代は「鉄道研究クラブ」に所属し仲間がたくさんいたが、先輩達は新入部員の私たちに「正直、こんなに入ってくると思わなかった」と漏らしていた。もちろん、当時の顧問であった教諭も驚いていた事だろう。その割には部活の場にほとんど姿を現さなかったのだが・・・
私の記憶だとそれまでは確か部員が3名~4名と聞いた。私の学年では恐らく10名以上いたであろう。だから先輩は泡食った状態だったと思われる。
確かに私の学年で一気に部員が増えて、それこそ野球部やサッカー部には及ばないものの、若干ながらメジャーデビューを果たした印象であった。そして、その中で私は年に4回発行する季刊紙班の編集長として君臨した。

時期を同じくしてこちらも常磐線特急の別バージョン。上野での撮影であるが、1980年代の上野は休みなく各方面からバラエティに富んだ列車が発着し飽きる事は無かった。しかも夜に関してはブルートレインも加わり、当時の私にしてみたら「上野の夜」は遥かなる夢であった!
だが、それまでの時代は部員3名くらいの孤独な活動であったのだから、先輩たちもとりわけ地味な活動であったろう。人数が多ければいいとか少ないから良くないとかではないが、やはりそこには「孤独」というキーワードが存在した。
中学卒業以降はレールファンというのがいかに特殊かということを思い知らされる訳であるが、そんな背景からも私が音楽の道を歩いた要因のひとつだったかも知れないと今になって思う。

撮影場所は不明であるが、文字通り信越線の特急である。右側は現在も新幹線の愛称で親しまれているが、左のネーミングは実に懐かしい!確か上野~中軽井沢間の臨時(季節)列車であった記憶だが・・・
確かに鉄道趣味は簡単に所有できる事では無いし頭の中で常に空想の鉄道を描いていた事は納得する。増して列車の走行音に興味を持つなど、一般的には考えられない「道楽」であろう。
私も半世紀を数える年齢になり、何となく「余命」みたいな事を真剣に考えるようになってきた。昔ならそんなことは全く考えなかったのだが、最近になって出来るうちにやりたい事はやれる時にやった方が良いと肌で感じるようになった。

最後は雷鳥である。景色的に大阪であろうと推測するが・・・何となく上野と勘違いしてしまいそうな風景である。この当時では考えられなかった北陸新幹線が、現在は将来的に福井まで延伸されようとしている。時代も変わったものだ~
今はインターネットの時代。クリックひとつでほぼやりたい事はできる時代だ。部屋にいる時は孤独かも知れないが、クリックするとそこは沢山の仲間たちがいる。所有こそできないものの、沢山の鉄道仲間が自身の熱い思いをぶつけている。
かつての「鉄道ジャーナル」にあった「タブレット」や「旅と鉄道」にあった「汽車旅相談室」などのように限られたコミニュケーションスペースで自分の思いをぶつける時代ではない。100人居れば100通りの鉄道がある。
そんな世の中である次の世代の鉄道シーンはいったいどのような変化をしているのであろうか。もしかして今年はそんな鉄道シーンのプロローグが聞けるかも知れない。
この記事の写真は全てダイナミック✩トナカイの提供です。

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さて、年は明け、いよいよ今年は2020年。東海道新幹線が開通した昭和39年以来、オリンピックが日本で、しかも東京で開催されるという記念すべき年である。
東京オリンピック・・・若い世代ならともかく、私の世代でも昭和39年のオリンピックは全く分からない・・・生まれてないし~みたいな世代である。
両親や知人に聞いた限りではあるが、当時のオリンピックは相当に爆発的に盛り上がったそうだ!日本の高度経済成長時代。常に前年比130%以上(かどうかは分からないが)的売上が当り前的な世の中。日本中が湧いて沸いて盛り上がっていた時代であろう。

ある意味毎年恒例となった「ダイナミック✩トナカイ」の画像を今年も紹介しよう。こちらはご覧の通り1980年代の常磐線特急である。上野の2階ホームであるが・・・上野といえば立ち食いそばがうまい!というか、この昭和時代のそれは現在のそれとひと味違っていたような気もするが・・・
周知の通り、それに併せて東海道新幹線が昭和39年10月1日に開通して東京から大阪間の所要時間がそれまでの半分になり日帰りが可能になった!これは、例えるならTOKIOに木村拓哉が、いや、東幹久や的場浩司(いわゆる助さん・格さん?)が加入したと想定したくらい凄い出来事であった!実にカルチャーショック!実に超非現実的。江戸時代に北斗の拳のケンシロウが「世紀末救世主」として君臨したと仮定した場合・・・くらい凄い事であろう。
余談ではあるが、私もとうとう「フルムーン」の適用年齢に、いつのまにかなってしまった事をつい最近になって気付くのが複雑な印象だったが・・・

稲毛のホーム先端で撮影した房総特急である。この撮影時、私は中学2年生であったが、ダイナミック✩トナカイは新入生として「鉄道研究クラブ」に入部してきた。そして房総急行がそろそろ全廃されるとの情報が流れ出した頃であった。
さて、昨年の10月であったろうか、私はあるドラマを視て「ハッ」と思わされた。
それはCSで放送された「鉄道警察官」というサスペンスドラマであったが、そのワンシーンで犯人がこんな台詞を言った。
要約すると「鉄道ファンはいつも孤独だ」「鉄道趣味とは所有できないから常に幻想を描いている」
確かこんな感じだった。
そう、私はいつも孤独だった。唯一中学校時代は「鉄道研究クラブ」に所属し仲間がたくさんいたが、先輩達は新入部員の私たちに「正直、こんなに入ってくると思わなかった」と漏らしていた。もちろん、当時の顧問であった教諭も驚いていた事だろう。その割には部活の場にほとんど姿を現さなかったのだが・・・
私の記憶だとそれまでは確か部員が3名~4名と聞いた。私の学年では恐らく10名以上いたであろう。だから先輩は泡食った状態だったと思われる。
確かに私の学年で一気に部員が増えて、それこそ野球部やサッカー部には及ばないものの、若干ながらメジャーデビューを果たした印象であった。そして、その中で私は年に4回発行する季刊紙班の編集長として君臨した。

時期を同じくしてこちらも常磐線特急の別バージョン。上野での撮影であるが、1980年代の上野は休みなく各方面からバラエティに富んだ列車が発着し飽きる事は無かった。しかも夜に関してはブルートレインも加わり、当時の私にしてみたら「上野の夜」は遥かなる夢であった!
だが、それまでの時代は部員3名くらいの孤独な活動であったのだから、先輩たちもとりわけ地味な活動であったろう。人数が多ければいいとか少ないから良くないとかではないが、やはりそこには「孤独」というキーワードが存在した。
中学卒業以降はレールファンというのがいかに特殊かということを思い知らされる訳であるが、そんな背景からも私が音楽の道を歩いた要因のひとつだったかも知れないと今になって思う。

撮影場所は不明であるが、文字通り信越線の特急である。右側は現在も新幹線の愛称で親しまれているが、左のネーミングは実に懐かしい!確か上野~中軽井沢間の臨時(季節)列車であった記憶だが・・・
確かに鉄道趣味は簡単に所有できる事では無いし頭の中で常に空想の鉄道を描いていた事は納得する。増して列車の走行音に興味を持つなど、一般的には考えられない「道楽」であろう。
私も半世紀を数える年齢になり、何となく「余命」みたいな事を真剣に考えるようになってきた。昔ならそんなことは全く考えなかったのだが、最近になって出来るうちにやりたい事はやれる時にやった方が良いと肌で感じるようになった。

最後は雷鳥である。景色的に大阪であろうと推測するが・・・何となく上野と勘違いしてしまいそうな風景である。この当時では考えられなかった北陸新幹線が、現在は将来的に福井まで延伸されようとしている。時代も変わったものだ~
今はインターネットの時代。クリックひとつでほぼやりたい事はできる時代だ。部屋にいる時は孤独かも知れないが、クリックするとそこは沢山の仲間たちがいる。所有こそできないものの、沢山の鉄道仲間が自身の熱い思いをぶつけている。
かつての「鉄道ジャーナル」にあった「タブレット」や「旅と鉄道」にあった「汽車旅相談室」などのように限られたコミニュケーションスペースで自分の思いをぶつける時代ではない。100人居れば100通りの鉄道がある。
そんな世の中である次の世代の鉄道シーンはいったいどのような変化をしているのであろうか。もしかして今年はそんな鉄道シーンのプロローグが聞けるかも知れない。
この記事の写真は全てダイナミック✩トナカイの提供です。

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新年のご挨拶 2019
2019-01-01
新年あけましておめでとうございます。今年も「鉄道全線完全制覇の旅」をよろしくお願いいたします。
ところで毎年思うのが、特に最近は時間の経過が早く感じ「もう正月かぁ」みたいな感じになる事だ。ついさっきまで猛暑だとか紅葉だとか話題だったと思っていたが、気がついたら「またひとつ歳を取る」的な感じになってしまう。

今年もダイナミック✩トナカイ提供の名画像にて新年を迎えてみよう。東京駅撮影の寝台特急入場シーンであるが、私にとってEF66での寝台特急は新しく新鮮な部類になる。私が寝台特急の機関車として最初にイメージするのがEF65の500番台であるが、私と同世代の方なら間違いなく納得していただけるであろう。
そんな中、昨年の10月にNHK・BSで「行くぞ、最果て 秘境×鉄道 アフリカ ポレポレ列車」という番組を観た。普段私は外国の鉄道旅に関する番組は観ないのだが、この時たまたま何気なく観たらいつの間にか番組に引き込まれてしまった。
このブログをご覧の方の中にもこの番組をご覧になった方がいらっしゃるかも知れないが、とにかくアフリカの鉄道は壮大かつダイナミックであり時間の進行が緩やかである。そして現地の方はとても人なつっこい。どこの国から来たかわからないような旅人でも気さくに接し、ある街では後で自分達の踊りや演奏があるから観に来いとまで言う。
そんな街にやって来る列車は「到着まで20時間遅れ」の情報でも誰ひとりクレームを付ける者もいない。「日本の鉄道は時間に正確」という理屈は以前より知っていたが、まさか20時間以上遅れても列車を待つとは・・・日頃私たちが忘れかけている何かを観た感じがした。

私のEF66のイメージは、貨物列車の「フレートライナー」である。その一昔前では「とびうお」として鮮魚を輸送していた時代は、私より先輩の方なら懐かしさ満載の材料であろうと思う。画像はダイナミック✩トナカイ
そんな時、私のブログを日頃から贔屓してくださっている「にわか者様」からある時貴重なコメントを頂いたので原文のまま紹介してみよう。その記事はこちらから。そしていただいたコメントは以下の通りである。
「白鳥に乗車されましたか!
それよりもべにばなですね!
もう懐かしい懐かしいと何回書いていることか・・・
新幹線ができて便利にはなりましたが、在来線の特急や急行がここまで消え去るとは・・・
私のテツな父親が「新幹線ができるまでは東海道も特急や急行がいろいろ走っていて面白かった。」とよく言ってましたが、まさか自分が同じ感覚に陥るとは思ってもみませんでした・・・」
といった内容であるが、皆様はどう思われたであろう。私的にポイントはコメントの後半部分、父親がかつての東海道線についての発言に対し、にわか者さん自身が年齢を重ね「自分も同じ感覚に陥るとは」の部分であり、まさに共感出来る部分である。
私はこの世に誕生して以来、半世紀が過ぎようとしている。そして幼少時代よりレールファンとなり様々なレールシーンを見てきた。そしてこのブログにて様々なレールシーンを紹介してきた。ただ、若い世代には年寄りの昔話に過ぎないかも知れない。


撮影駅は不明であるが、鹿児島本線の「交流機関車」である。考えてみたら私は最初で最後の乗車であった東京発九州方面へ向かう寝台特急「富士」の乗車では機関車交換が3回行われた。24時間25分かけて東京から西鹿児島(当時、現・鹿児島中央)まで走るのだから、それはイベント盛りだくさんであった。ちなみに昭和54年当時は宮崎~鹿児島間が非電化であったので牽引機関車はDF50であった。画像はダイナミック✩トナカイ
昨年、私はビッグエッグに矢沢永吉のライブに参戦した。御歳69にしてすごいパワーだった。しかも最前列での観戦だ。
先日、BSで「ボウリング革命★Pリーグ」という女子プロボーラーによるボーリングトーナメント戦の番組を久々に観たら、ベテランの姫路麗が、そしてその後に放送された優勝戦では私が以前からのファンでもある森彩奈江が優勝した。
そしてサッカーでは三浦知良が今も現役で頑張っている。当然ながら体力的には全盛期ではないだろう。
しかし私が言いたいのはそういう事ではなく、年齢を重ねて尚現役で頑張れるのは実に素晴らしく幸せな事であるという事だ。若い者に混ざって尚自身が輝く。これは並大抵の努力では出来ない至難であろう。努力+持って産まれたセンスや幸運も必要かも知れない。しかし、それよりももっと大切なのは「やり続ける事」であろう。

私がかつて在住していた地に降臨した姫路麗。相模線沿線の某ホーリング場に姿を現すのは異例中の異例であるので大変貴重なショットとなった。本人曰く「ボウリングのユニフォームに着替えたら撮影全然OK!」との事。プライベートなファッションの場合は頑なに撮影を拒否していた。我々は本人のポリシーを大切にして協力してこそ彼女の活躍が更に飛躍するであろうと改めて感じるシーンでもあった。
ジャイアント馬場は還暦過ぎても尚リングに上がっていた。もちろん全盛期の姿ではないが、現役のトップレスラーよりも数百倍の存在感的なオーラを放っていた。
「子供の頃に60歳といったら随分年寄りだなと思ってたけど、自分がなってみたら、何だ、まだやれるじゃねぇかと思った」
これは後楽園ホールで行われた自身の還暦試合後に放たれたこのコメントである。インタビュアーはあの徳光和夫氏であったが、その後物凄い歓声となる。追悼番組で関根勤氏が、あの時の歓声はメインイベントでスリーカウント入った時の歓声よりも凄かった、と語っていた。

さて、こちらも東京駅でのEF66であるが「上野・東京ライン」が新設された現在、こうしたシーンは完全に過去の物となってしまった。東京駅や横浜駅は万年工事の印象であるが、特に東京駅で線路やホームが足りない新幹線は、JR東海の気持ちひとつで東北新幹線との接続が夢でなくなり東京駅の慢性的混雑も解消できるのでは?と思うのは私だけであろうか?画像はダイナミック✩トナカイ
話は飛ぶが、最近私は日曜の夜にテレビ神奈川で放送されている「帰ってきたウルトラマン」にハマっていた(現在は放送終了)。帰ってきたウルトラマンといえば最初の放送は昭和46年頃の放送であったと思うが、番組に出てくるMATという地球防衛組織の所有車は「コスモスポーツ」である。若い世代にはこのコスモスポーツという車は馴染無いであろうが、私はミニカーで所有するほど好きな名車である。
もし今のこの時代に私がコスモスポーツを自家用車で乗っていたらどうだろう。コスモスポーツを知らない世代にもコスモスポーツの素晴らしさが伝わるであろうか。いや、私以外の方が乗られた方がもっと伝わるであろう。今の時代にコスモスポーツで国道134号線を走ったら絶対にかっこいいと思う。
確かに現在の車に比べ燃費は悪いしハンドルも重いであろう。ただ、そういう事ではなく、それを素直に受け入れた上でコスモスポーツの素晴らしさが伝われば最高であろう。

そしてこちらがウィキペディアより拝借した「マツダ・コスモスポーツ」である。「帰ってきたウルトラマン」にも登場するが、当時は超高嶺の花的価格で、とても我が家では購入不可能なお値段であった。ちなみに我が家は当時「ホンダN360」であった。
いろいろな事柄を並べてみたが、何となく私のいいたい事が伝わったであろうか。何も古い物がいいと言っているのではない。新しい物の中に混ざっても古い物が輝く姿が美しいと言っているのだ。新しい物の中だからこそ輝ける古い物。これは素晴らしい事だ。
私の鉄道感は古い物が多いであろう。私のブログ記事は昭和の、国鉄の物が多い。
今だからカズがかっこいい。今姫路麗が優勝するから意味がある。矢沢が今ドームを満タンにするから凄いのだ。
私はその意味が分かる人間でありたい。そしてそれを鉄道を通してこのブログで表現していければいいと思う。そしてそれに共感していただける方がひとりでもいれば私はラッキーであると思う。

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ところで毎年思うのが、特に最近は時間の経過が早く感じ「もう正月かぁ」みたいな感じになる事だ。ついさっきまで猛暑だとか紅葉だとか話題だったと思っていたが、気がついたら「またひとつ歳を取る」的な感じになってしまう。

今年もダイナミック✩トナカイ提供の名画像にて新年を迎えてみよう。東京駅撮影の寝台特急入場シーンであるが、私にとってEF66での寝台特急は新しく新鮮な部類になる。私が寝台特急の機関車として最初にイメージするのがEF65の500番台であるが、私と同世代の方なら間違いなく納得していただけるであろう。
そんな中、昨年の10月にNHK・BSで「行くぞ、最果て 秘境×鉄道 アフリカ ポレポレ列車」という番組を観た。普段私は外国の鉄道旅に関する番組は観ないのだが、この時たまたま何気なく観たらいつの間にか番組に引き込まれてしまった。
このブログをご覧の方の中にもこの番組をご覧になった方がいらっしゃるかも知れないが、とにかくアフリカの鉄道は壮大かつダイナミックであり時間の進行が緩やかである。そして現地の方はとても人なつっこい。どこの国から来たかわからないような旅人でも気さくに接し、ある街では後で自分達の踊りや演奏があるから観に来いとまで言う。
そんな街にやって来る列車は「到着まで20時間遅れ」の情報でも誰ひとりクレームを付ける者もいない。「日本の鉄道は時間に正確」という理屈は以前より知っていたが、まさか20時間以上遅れても列車を待つとは・・・日頃私たちが忘れかけている何かを観た感じがした。

私のEF66のイメージは、貨物列車の「フレートライナー」である。その一昔前では「とびうお」として鮮魚を輸送していた時代は、私より先輩の方なら懐かしさ満載の材料であろうと思う。画像はダイナミック✩トナカイ
そんな時、私のブログを日頃から贔屓してくださっている「にわか者様」からある時貴重なコメントを頂いたので原文のまま紹介してみよう。その記事はこちらから。そしていただいたコメントは以下の通りである。
「白鳥に乗車されましたか!
それよりもべにばなですね!
もう懐かしい懐かしいと何回書いていることか・・・
新幹線ができて便利にはなりましたが、在来線の特急や急行がここまで消え去るとは・・・
私のテツな父親が「新幹線ができるまでは東海道も特急や急行がいろいろ走っていて面白かった。」とよく言ってましたが、まさか自分が同じ感覚に陥るとは思ってもみませんでした・・・」
といった内容であるが、皆様はどう思われたであろう。私的にポイントはコメントの後半部分、父親がかつての東海道線についての発言に対し、にわか者さん自身が年齢を重ね「自分も同じ感覚に陥るとは」の部分であり、まさに共感出来る部分である。
私はこの世に誕生して以来、半世紀が過ぎようとしている。そして幼少時代よりレールファンとなり様々なレールシーンを見てきた。そしてこのブログにて様々なレールシーンを紹介してきた。ただ、若い世代には年寄りの昔話に過ぎないかも知れない。


撮影駅は不明であるが、鹿児島本線の「交流機関車」である。考えてみたら私は最初で最後の乗車であった東京発九州方面へ向かう寝台特急「富士」の乗車では機関車交換が3回行われた。24時間25分かけて東京から西鹿児島(当時、現・鹿児島中央)まで走るのだから、それはイベント盛りだくさんであった。ちなみに昭和54年当時は宮崎~鹿児島間が非電化であったので牽引機関車はDF50であった。画像はダイナミック✩トナカイ
昨年、私はビッグエッグに矢沢永吉のライブに参戦した。御歳69にしてすごいパワーだった。しかも最前列での観戦だ。
先日、BSで「ボウリング革命★Pリーグ」という女子プロボーラーによるボーリングトーナメント戦の番組を久々に観たら、ベテランの姫路麗が、そしてその後に放送された優勝戦では私が以前からのファンでもある森彩奈江が優勝した。
そしてサッカーでは三浦知良が今も現役で頑張っている。当然ながら体力的には全盛期ではないだろう。
しかし私が言いたいのはそういう事ではなく、年齢を重ねて尚現役で頑張れるのは実に素晴らしく幸せな事であるという事だ。若い者に混ざって尚自身が輝く。これは並大抵の努力では出来ない至難であろう。努力+持って産まれたセンスや幸運も必要かも知れない。しかし、それよりももっと大切なのは「やり続ける事」であろう。

私がかつて在住していた地に降臨した姫路麗。相模線沿線の某ホーリング場に姿を現すのは異例中の異例であるので大変貴重なショットとなった。本人曰く「ボウリングのユニフォームに着替えたら撮影全然OK!」との事。プライベートなファッションの場合は頑なに撮影を拒否していた。我々は本人のポリシーを大切にして協力してこそ彼女の活躍が更に飛躍するであろうと改めて感じるシーンでもあった。
ジャイアント馬場は還暦過ぎても尚リングに上がっていた。もちろん全盛期の姿ではないが、現役のトップレスラーよりも数百倍の存在感的なオーラを放っていた。
「子供の頃に60歳といったら随分年寄りだなと思ってたけど、自分がなってみたら、何だ、まだやれるじゃねぇかと思った」
これは後楽園ホールで行われた自身の還暦試合後に放たれたこのコメントである。インタビュアーはあの徳光和夫氏であったが、その後物凄い歓声となる。追悼番組で関根勤氏が、あの時の歓声はメインイベントでスリーカウント入った時の歓声よりも凄かった、と語っていた。

さて、こちらも東京駅でのEF66であるが「上野・東京ライン」が新設された現在、こうしたシーンは完全に過去の物となってしまった。東京駅や横浜駅は万年工事の印象であるが、特に東京駅で線路やホームが足りない新幹線は、JR東海の気持ちひとつで東北新幹線との接続が夢でなくなり東京駅の慢性的混雑も解消できるのでは?と思うのは私だけであろうか?画像はダイナミック✩トナカイ
話は飛ぶが、最近私は日曜の夜にテレビ神奈川で放送されている「帰ってきたウルトラマン」にハマっていた(現在は放送終了)。帰ってきたウルトラマンといえば最初の放送は昭和46年頃の放送であったと思うが、番組に出てくるMATという地球防衛組織の所有車は「コスモスポーツ」である。若い世代にはこのコスモスポーツという車は馴染無いであろうが、私はミニカーで所有するほど好きな名車である。
もし今のこの時代に私がコスモスポーツを自家用車で乗っていたらどうだろう。コスモスポーツを知らない世代にもコスモスポーツの素晴らしさが伝わるであろうか。いや、私以外の方が乗られた方がもっと伝わるであろう。今の時代にコスモスポーツで国道134号線を走ったら絶対にかっこいいと思う。
確かに現在の車に比べ燃費は悪いしハンドルも重いであろう。ただ、そういう事ではなく、それを素直に受け入れた上でコスモスポーツの素晴らしさが伝われば最高であろう。

そしてこちらがウィキペディアより拝借した「マツダ・コスモスポーツ」である。「帰ってきたウルトラマン」にも登場するが、当時は超高嶺の花的価格で、とても我が家では購入不可能なお値段であった。ちなみに我が家は当時「ホンダN360」であった。
いろいろな事柄を並べてみたが、何となく私のいいたい事が伝わったであろうか。何も古い物がいいと言っているのではない。新しい物の中に混ざっても古い物が輝く姿が美しいと言っているのだ。新しい物の中だからこそ輝ける古い物。これは素晴らしい事だ。
私の鉄道感は古い物が多いであろう。私のブログ記事は昭和の、国鉄の物が多い。
今だからカズがかっこいい。今姫路麗が優勝するから意味がある。矢沢が今ドームを満タンにするから凄いのだ。
私はその意味が分かる人間でありたい。そしてそれを鉄道を通してこのブログで表現していければいいと思う。そしてそれに共感していただける方がひとりでもいれば私はラッキーであると思う。

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「フルキヨキ」とは
2018-01-01
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さて、新年早々昨年の話で申し訳ないが、昨年の11月3日に私は「豊田真奈美引退試合」を観戦しに横浜は大さん橋ホールに出向いた。
豊田真奈美と聞いてピンと来たらあなたは相当熟練の女子プロレスフリークであろう。そう、私は久々に女子プロレスを観戦しに行ったのだ。恐らく20年以上振りくらいのため、現在活躍する現役レスラーはほとんどわからなかった。
ちなみに試合形式であるが、なんと1人一分勝負で50人と試合をするという、何とも無謀な、そして過去に前列がないであろう引退試合となった。

全く記事内容と関係ない写真の目白押しなのは新年恒例の事。今回のこの記事の写真は全て「ダイナミック✩トナカイ」の提供でお送りしよう。ご覧の「たざわ」は1983年頃の盛岡である。
だが、新陳代謝が激しいこの業界でバブル期に活躍したレスラーが今だに頑張っているのは実に素晴らしい事。25歳定年制という言葉が懐かしいくらいに現在でも現役を続けているレスラーは非常に貴重な存在であろう。中でも堀田佑美子や井上貴子などかつての全女仲間が現役で豊田真奈美の対戦相手として出場したのは実に感慨深い。中には男子のレスラーも登場。豊田真奈美の人間性がこの事ひとつとってもお分かりになろう。
実は、正直言ってこの大会の切符は手に入れたものの、試合当日まで観戦するかどうか悩んでいた。それは、試合の約一週間前に妻が骨折で入院してしまったのだ。経過はそれなりに順調であるが、やはり後ろめたいものがありなかなか会場に行くのに踏ん切りつかずにいた。だが、豊田真奈美の引退試合はこの日しかない❗との思いから、結局港・横浜に向けハンドルをきった。
この大会で特に感じたことは、とにかく豊田真奈美が「女性」という事。これは私個人の意見であるが、女性は「先輩・後輩」や「師匠」「友人」などの、いわゆる「絆」というものを前面に出してくる生物であるということをものすごく印象付けられた。
男の場合、恐らく照れからくるのか、それともプライドからなのかわからないが、女性ほど感情を表に出さないのではなかろうか。よく子供の頃「男の子なんだからメソメソしないの!」とか「男の子なんだからやられたらやり返すんだ!」など、何かにつけて「男なんだから」とよく親などに言われた記憶が皆さんもおありであろう。この「男」という単語にはいったいどんなキーワードが隠されているのであろうか。勿論十人十色、人それぞれ感情的な部分には違いはあろうが、やはりその事については逆に女性の方が顕著に表れていると思う。

こちらは1983~1984年頃の上野駅での撮影であろう。恐らく「クラブ活動」での撮影と思われる。ちなみにそのクラブ活動とは「鉄道研究クラブ」といい、私が中学生時代に所属した学校のクラブ活動であった。何度か紹介しているが、改めて報告すると、ダイナミック✩トナカイと私はこのクラブ活動の先輩・後輩の間柄であり、そして良き盟友でもあった。
豊田真奈美は私と2年しか年齢の違いがないが、彼女のファイトスタイルでよくぞここまで、この時代まで現役でいたと感心してしう。だが、やはり身体的に限界を感じ引退となってしまうわけだが、気持ち的には勿論現役続行の部分が100%であろう。
そういえば、よく定年したサラリーマンなどが定年後にやる事がなく、自分自身を見失う的な話を聞いたことがある。また、ニュースなどで、例えばお盆休みなどで長期休暇中にも関わらず丸の内のオフィス街にスーツ姿で「何となく仕事に来てしまった」みたいな事例も観たことがある。
私はそれについて否定も肯定もするつもりはない。それよりも私が言いたいのは「やることがある」という事は幸せなんだなという事が特に最近強く感じるようになった。そしてやるだけの環境や体力的なものも大切なんだなというのがかなり重要である事に最近気づいた。そしてそんな自分を更に将来に向け維持しなければならないであろうと思うようにもなった。

こちらも同じく「クラブ活動」の一環と思われる。1980年代の上野駅は非常なくらい頻繁に在来線の特急列車の行き来は激しかった。東京駅とは全く違う「北の玄関」のカラーが特異に放たれていた当時は、ある意味「メッカ」的存在でもあった。
豊田真奈美は引退したが、今後の活動などをまだ明言していない。果してプロレスよりも楽しいこと、やりたいことが見つかるのであろうか。それとももう既に決まっているのであろうか。
私は今後も鉄道と関わっていくであろうし、それが私のやりたい事でもある。そしてこのブログのテーマでもある「鉄道全線」はまだ乗り潰していない。勿論、その気になれば全線制覇できなくもない。だがあえて私は残してある。その理由は・・・その理由は皆様にお察しいただくとしよう。

こちらはダイナミック✩トナカイの単独行動によるものと思われる「くろしお」である。JR化後は「オーシャンアロー」なる新生特急が登場。国鉄派の私にとっては実に斬新なネーミングであった。
豊田真奈美の引退試合はとても素晴らしい興行であった。1人1分間で50人(正確には54人)との試合。試合というよりもお世話になったレスラー、お世話したレスラー達への別れの挨拶的な内容であった。豊田らしい・・・実に豊田らしい。後輩や先輩、そして同期との素晴らしい絆。
一足早く会場をあとにした私は、会場からかなり離れた位置にある駐車場に向かった。途中、山下公園を経由するが、桟橋から見る夜景はいつになく素敵だった。三連休の夜ということもあろう、桟橋には多くのカップルが夜景に向かい寄り添っている。ひとり駐車場に向かう私は「いったい自分はこの場所でひとり何をしているのだろう・・・」という思いが頭の中をかすめる。いや、今日は豊田真奈美が素敵な思い出をくれた。かつての仲間が、そしてライバル達が今日は笑顔で祝福してくれた。「ファイトスタイルを変えたりいろいろなキャラを演じるレスラーもいるけれど、私は豊田真奈美しか演じる事ができない。」これは後日にCSで放送された自身の引退試合のゲスト解説で述べたコメントである。勿論要約してあるが、内容的にはこんな感じである。
器用・不器用よりも最後まで豊田真奈美を演じる事ができた豊田真奈美は羨ましいし素晴らしい。

こちらは1984年頃の福井駅である。まだ地上時代の駅はカーブしたホームが特徴で、高架化された現在でもそのカーブしたホームが引き継がれている。私が北陸に初めて訪れたのは2006年頃であったので、国鉄時代に訪問できたダイナミック✩トナカイが実に羨ましい!
私自身、最後まで「ダイヤモンド⭐トナカイ」を演じる事ができるのであろうか。いや、演じる事が重要ではない。重要なのは鉄道が好きかどうかであろう。
桟橋から山下公園へ続く歩道には、かつての貨物線が転用されている。そこから見る夜景は実にロマンティック。かつて貨物列車に独占されていたのは実にもったいない!たった2本の鉄のかたまりにも、場所によりいろんなドラマが凝縮されている。そんなドラマを追い求め、今年も旅に出るのだろう。

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さて、新年早々昨年の話で申し訳ないが、昨年の11月3日に私は「豊田真奈美引退試合」を観戦しに横浜は大さん橋ホールに出向いた。
豊田真奈美と聞いてピンと来たらあなたは相当熟練の女子プロレスフリークであろう。そう、私は久々に女子プロレスを観戦しに行ったのだ。恐らく20年以上振りくらいのため、現在活躍する現役レスラーはほとんどわからなかった。
ちなみに試合形式であるが、なんと1人一分勝負で50人と試合をするという、何とも無謀な、そして過去に前列がないであろう引退試合となった。

全く記事内容と関係ない写真の目白押しなのは新年恒例の事。今回のこの記事の写真は全て「ダイナミック✩トナカイ」の提供でお送りしよう。ご覧の「たざわ」は1983年頃の盛岡である。
だが、新陳代謝が激しいこの業界でバブル期に活躍したレスラーが今だに頑張っているのは実に素晴らしい事。25歳定年制という言葉が懐かしいくらいに現在でも現役を続けているレスラーは非常に貴重な存在であろう。中でも堀田佑美子や井上貴子などかつての全女仲間が現役で豊田真奈美の対戦相手として出場したのは実に感慨深い。中には男子のレスラーも登場。豊田真奈美の人間性がこの事ひとつとってもお分かりになろう。
実は、正直言ってこの大会の切符は手に入れたものの、試合当日まで観戦するかどうか悩んでいた。それは、試合の約一週間前に妻が骨折で入院してしまったのだ。経過はそれなりに順調であるが、やはり後ろめたいものがありなかなか会場に行くのに踏ん切りつかずにいた。だが、豊田真奈美の引退試合はこの日しかない❗との思いから、結局港・横浜に向けハンドルをきった。
この大会で特に感じたことは、とにかく豊田真奈美が「女性」という事。これは私個人の意見であるが、女性は「先輩・後輩」や「師匠」「友人」などの、いわゆる「絆」というものを前面に出してくる生物であるということをものすごく印象付けられた。
男の場合、恐らく照れからくるのか、それともプライドからなのかわからないが、女性ほど感情を表に出さないのではなかろうか。よく子供の頃「男の子なんだからメソメソしないの!」とか「男の子なんだからやられたらやり返すんだ!」など、何かにつけて「男なんだから」とよく親などに言われた記憶が皆さんもおありであろう。この「男」という単語にはいったいどんなキーワードが隠されているのであろうか。勿論十人十色、人それぞれ感情的な部分には違いはあろうが、やはりその事については逆に女性の方が顕著に表れていると思う。

こちらは1983~1984年頃の上野駅での撮影であろう。恐らく「クラブ活動」での撮影と思われる。ちなみにそのクラブ活動とは「鉄道研究クラブ」といい、私が中学生時代に所属した学校のクラブ活動であった。何度か紹介しているが、改めて報告すると、ダイナミック✩トナカイと私はこのクラブ活動の先輩・後輩の間柄であり、そして良き盟友でもあった。
豊田真奈美は私と2年しか年齢の違いがないが、彼女のファイトスタイルでよくぞここまで、この時代まで現役でいたと感心してしう。だが、やはり身体的に限界を感じ引退となってしまうわけだが、気持ち的には勿論現役続行の部分が100%であろう。
そういえば、よく定年したサラリーマンなどが定年後にやる事がなく、自分自身を見失う的な話を聞いたことがある。また、ニュースなどで、例えばお盆休みなどで長期休暇中にも関わらず丸の内のオフィス街にスーツ姿で「何となく仕事に来てしまった」みたいな事例も観たことがある。
私はそれについて否定も肯定もするつもりはない。それよりも私が言いたいのは「やることがある」という事は幸せなんだなという事が特に最近強く感じるようになった。そしてやるだけの環境や体力的なものも大切なんだなというのがかなり重要である事に最近気づいた。そしてそんな自分を更に将来に向け維持しなければならないであろうと思うようにもなった。

こちらも同じく「クラブ活動」の一環と思われる。1980年代の上野駅は非常なくらい頻繁に在来線の特急列車の行き来は激しかった。東京駅とは全く違う「北の玄関」のカラーが特異に放たれていた当時は、ある意味「メッカ」的存在でもあった。
豊田真奈美は引退したが、今後の活動などをまだ明言していない。果してプロレスよりも楽しいこと、やりたいことが見つかるのであろうか。それとももう既に決まっているのであろうか。
私は今後も鉄道と関わっていくであろうし、それが私のやりたい事でもある。そしてこのブログのテーマでもある「鉄道全線」はまだ乗り潰していない。勿論、その気になれば全線制覇できなくもない。だがあえて私は残してある。その理由は・・・その理由は皆様にお察しいただくとしよう。

こちらはダイナミック✩トナカイの単独行動によるものと思われる「くろしお」である。JR化後は「オーシャンアロー」なる新生特急が登場。国鉄派の私にとっては実に斬新なネーミングであった。
豊田真奈美の引退試合はとても素晴らしい興行であった。1人1分間で50人(正確には54人)との試合。試合というよりもお世話になったレスラー、お世話したレスラー達への別れの挨拶的な内容であった。豊田らしい・・・実に豊田らしい。後輩や先輩、そして同期との素晴らしい絆。
一足早く会場をあとにした私は、会場からかなり離れた位置にある駐車場に向かった。途中、山下公園を経由するが、桟橋から見る夜景はいつになく素敵だった。三連休の夜ということもあろう、桟橋には多くのカップルが夜景に向かい寄り添っている。ひとり駐車場に向かう私は「いったい自分はこの場所でひとり何をしているのだろう・・・」という思いが頭の中をかすめる。いや、今日は豊田真奈美が素敵な思い出をくれた。かつての仲間が、そしてライバル達が今日は笑顔で祝福してくれた。「ファイトスタイルを変えたりいろいろなキャラを演じるレスラーもいるけれど、私は豊田真奈美しか演じる事ができない。」これは後日にCSで放送された自身の引退試合のゲスト解説で述べたコメントである。勿論要約してあるが、内容的にはこんな感じである。
器用・不器用よりも最後まで豊田真奈美を演じる事ができた豊田真奈美は羨ましいし素晴らしい。

こちらは1984年頃の福井駅である。まだ地上時代の駅はカーブしたホームが特徴で、高架化された現在でもそのカーブしたホームが引き継がれている。私が北陸に初めて訪れたのは2006年頃であったので、国鉄時代に訪問できたダイナミック✩トナカイが実に羨ましい!
私自身、最後まで「ダイヤモンド⭐トナカイ」を演じる事ができるのであろうか。いや、演じる事が重要ではない。重要なのは鉄道が好きかどうかであろう。
桟橋から山下公園へ続く歩道には、かつての貨物線が転用されている。そこから見る夜景は実にロマンティック。かつて貨物列車に独占されていたのは実にもったいない!たった2本の鉄のかたまりにも、場所によりいろんなドラマが凝縮されている。そんなドラマを追い求め、今年も旅に出るのだろう。

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新年のご挨拶 2017
2017-01-01
新年、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
毎年この時期になると私は憂鬱になる・・・なぜか?それは年末から新年にかけて私は休むまもなく労働しているからである。実はこの時期が一番の「稼ぎ時」なのであるから・・・

(多分今後貴重な写真になてくるであろう越後湯沢にて。もしかしてお蔵入りになるかも知れないのでアップしてみた。2014年3月の訪問なのだが、当然なのか必然なのか、まだまだ雪化粧の「越後」である。)
それはさておき、皆様は「レッドウォーリアーズ」というバンドをご存知か?そう、私のハンドルネーム「ダイヤモンド☆トナカイ」のモデルになった・・・いや、モチーフした「ダイアモンド✡ユカイ」がボーカルのロックバンドである。1980年代に活躍したので若い世代は伝説となっているであろうが、最近はダイヤモンド✡ユカイのバラエティ番組での活躍が目立ち、さながら「お笑い芸人」的な印象が強い。だがしかし、彼は正真正銘のロックンローラーである。

(こちらも越後湯沢にて。現在の「北越急行」はどんな風景なのか。近い将来確認しに行ってみたい。)
ところで私は最近、昔を思い出し「バンド活動」を再開した。特に私はひとりでスタジオにこもってベースを弾きまくるのが実に気持ちいい。その時に決まってコピーする楽曲が「レッドウオーリアーズ」である。あっ、言い忘れていたが、私はかつて音楽活動をしていてベーシストであるが、傍から見たら実に似合わない姿だと思う。もう10年以上音楽から離れていたから、こういった活動が実に新鮮である。だが、コピーするレッドウオーリアーズは、私は特に思い入れがあるバンドでも無く、好きなバンドは「キャロル」や「暴威(BOOWY)」「プリンセス・プリンセス」などだ。だからコピーする場合はこれらの楽曲をセレクトするのが自然であるが、なぜかレッドウオーリアーズなのである。なぜか?それは演奏していて実に楽しいからだ。もちろんかつては「ガンズ」や「キッス」「エアロスミス」など洋楽方面もコピーしていたしオリジナルもやっていた。

(北越急行はもちろんだが、上越新幹線の将来も気になるところ。今後の予定に注目したい。)
というより、レッドウオーリアーズは自身が好きになったバンドではなく、バンドメンバーがセレクトしたアーティストだ。だからどちらかというと「好きな曲」というより「課題曲」の印象が強い。だから、例えばレッドウオーリアーズの楽曲各種はベースラインで覚えている。歌詞がどうとかギターのリフがどうとかよりとにかくベースラインで曲を覚えてる。それは今でも変わりない。だからダイアモンド✡ユカイやシャケに特別な思い入れなどは無いが、逆に試し弾きするときは決まってレッドウオーリアーズの曲になるという不思議な現象が起こる。

(続いて水上。「温泉」として有名処であるが、レールファンとしてはある意味「ボーダーライン」の意味合いが強い。)
実は私が音楽をやるきっかけとなったのは「女にもてたい」という単純な動機からだ。だから「ガラスの」10代のころ、実際に自身が楽しんで音楽をやっていたかどうかというとやや問題があった。今になって改めて何十年ぶりかでスタジオに入って音を出す・・・そこには実に楽しんで演奏している自分がいる。よく昔はあんなに多くの曲をコピーしたものだ。スタジオでは5~6曲くらいしか用意していないが3時間みっちり演奏すると実に充実感!これは「女にもてたい」とかの理由でやっているのではない。そう、自分自身のためである。

(一応、私の住処からは日帰り圏内である。しかしながら「18」が無いととんでもない料金になるのは玉に瑕・・・」
私はかつて音楽活動をしていた時に鉄道から離れていたが、鉄道趣味を久々にカムバックさせた時、やはり懐かしさと旅を楽しむ自分がいた。それは「女にモテたい」ではなく自分自身が楽しむためのものである。
そう、つまりそれは何をやるにも「自分がどれだけ楽しめるか」という事。列車に揺られ旅をするにも、スタジオでベースを弾くにも、やはりそこには「楽しむ」というキーワードが絶対的に存在しなければいけないと思う。それは「女にモテたい」ではなく自身のため、自身がいかに楽しめるかが大事だ。もちろん、「女にモテたい」という気持ちで音楽をやれば、それは上っ面だけのものになりむしろ女にモテるという事がそう多くないであろう。スタジオに入って演奏していると、そういった昔の自分との再会もあった。だが今は違う。いかにして自分が楽しむか。鉄道旅も同じである。

(偶然ながらSLの運転があった。長いブランクのあった私が見ると、この景色もなんだか新鮮!)
私のブログをご覧になって、例えば1980年代の旅を皆様はどうお感じになられているのであろうか。ある意味、羨む場面もあろうかと思うが、当時の私の気持ちとしては「いい旅チャレンジ20000km」の義務みたいなものがあり、とにかく「制覇する」というこだわりが強かったため、旅そのものを楽しんだ部分というのがあまりなかった印象である。もちろんまだ中学生くらいであったため「旅の楽しみ方」というのがわからなかった部分もあろうが、基本的には「旅をこなす」印象が強かった。もちろん、結果的に貴重な旅をしているが、やはりまだまだ子供であった。
今は列車に揺られ旅をするのも、スタジオでベーシストに変身するものひとつひとつ楽しみながらチャレンジしている。いや、楽しんでやってやる!みたいな気持ちだから飽きないのかも知れない。
私のブログに訪問なされている皆様は、鉄道というカテゴリーに少なからず多からず興味をお持ちの方がほとんどであろう。そして鉄道というジャンルを楽しみながら触れ合っている事であろう。

(いつの日か「上越線全駅訪問」でもやってみたい気持ちである。)
要するに何を言いたいのか?それはきっかけがどうあれ、自身にやりたい事があるか、楽しめるものがあるかどうかだ。鉄道と一緒にいる時、時間の経つのを忘れていませんか?それ、非常に重要。というより、自身に夢中になれるものがあるかどうか?これ重要。やる事がある・・・これは人生において非常に重要であり素晴らしい事である。やる事がなくなったら人生面白くない。熱くなれるものがあるかどうか。それがあるかないかでその人のカラー、いや、オーラみたいなものが全然違ってくると思う。
自分自身のため・・・そう、私は人のために鉄道を趣味としているのではない。あくまで自分自身のためだ。これからも私は自分自身のために鉄道旅を続けていく事であろう。そんな旅を皆様に紹介していき、そしてそれを表現できたらそれは最高に素敵なことであろう。これからもそういう旅をしていきたい。

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今年もよろしくお願いいたします。
毎年この時期になると私は憂鬱になる・・・なぜか?それは年末から新年にかけて私は休むまもなく労働しているからである。実はこの時期が一番の「稼ぎ時」なのであるから・・・

(多分今後貴重な写真になてくるであろう越後湯沢にて。もしかしてお蔵入りになるかも知れないのでアップしてみた。2014年3月の訪問なのだが、当然なのか必然なのか、まだまだ雪化粧の「越後」である。)
それはさておき、皆様は「レッドウォーリアーズ」というバンドをご存知か?そう、私のハンドルネーム「ダイヤモンド☆トナカイ」のモデルになった・・・いや、モチーフした「ダイアモンド✡ユカイ」がボーカルのロックバンドである。1980年代に活躍したので若い世代は伝説となっているであろうが、最近はダイヤモンド✡ユカイのバラエティ番組での活躍が目立ち、さながら「お笑い芸人」的な印象が強い。だがしかし、彼は正真正銘のロックンローラーである。

(こちらも越後湯沢にて。現在の「北越急行」はどんな風景なのか。近い将来確認しに行ってみたい。)
ところで私は最近、昔を思い出し「バンド活動」を再開した。特に私はひとりでスタジオにこもってベースを弾きまくるのが実に気持ちいい。その時に決まってコピーする楽曲が「レッドウオーリアーズ」である。あっ、言い忘れていたが、私はかつて音楽活動をしていてベーシストであるが、傍から見たら実に似合わない姿だと思う。もう10年以上音楽から離れていたから、こういった活動が実に新鮮である。だが、コピーするレッドウオーリアーズは、私は特に思い入れがあるバンドでも無く、好きなバンドは「キャロル」や「暴威(BOOWY)」「プリンセス・プリンセス」などだ。だからコピーする場合はこれらの楽曲をセレクトするのが自然であるが、なぜかレッドウオーリアーズなのである。なぜか?それは演奏していて実に楽しいからだ。もちろんかつては「ガンズ」や「キッス」「エアロスミス」など洋楽方面もコピーしていたしオリジナルもやっていた。

(北越急行はもちろんだが、上越新幹線の将来も気になるところ。今後の予定に注目したい。)
というより、レッドウオーリアーズは自身が好きになったバンドではなく、バンドメンバーがセレクトしたアーティストだ。だからどちらかというと「好きな曲」というより「課題曲」の印象が強い。だから、例えばレッドウオーリアーズの楽曲各種はベースラインで覚えている。歌詞がどうとかギターのリフがどうとかよりとにかくベースラインで曲を覚えてる。それは今でも変わりない。だからダイアモンド✡ユカイやシャケに特別な思い入れなどは無いが、逆に試し弾きするときは決まってレッドウオーリアーズの曲になるという不思議な現象が起こる。

(続いて水上。「温泉」として有名処であるが、レールファンとしてはある意味「ボーダーライン」の意味合いが強い。)
実は私が音楽をやるきっかけとなったのは「女にもてたい」という単純な動機からだ。だから「ガラスの」10代のころ、実際に自身が楽しんで音楽をやっていたかどうかというとやや問題があった。今になって改めて何十年ぶりかでスタジオに入って音を出す・・・そこには実に楽しんで演奏している自分がいる。よく昔はあんなに多くの曲をコピーしたものだ。スタジオでは5~6曲くらいしか用意していないが3時間みっちり演奏すると実に充実感!これは「女にもてたい」とかの理由でやっているのではない。そう、自分自身のためである。

(一応、私の住処からは日帰り圏内である。しかしながら「18」が無いととんでもない料金になるのは玉に瑕・・・」
私はかつて音楽活動をしていた時に鉄道から離れていたが、鉄道趣味を久々にカムバックさせた時、やはり懐かしさと旅を楽しむ自分がいた。それは「女にモテたい」ではなく自分自身が楽しむためのものである。
そう、つまりそれは何をやるにも「自分がどれだけ楽しめるか」という事。列車に揺られ旅をするにも、スタジオでベースを弾くにも、やはりそこには「楽しむ」というキーワードが絶対的に存在しなければいけないと思う。それは「女にモテたい」ではなく自身のため、自身がいかに楽しめるかが大事だ。もちろん、「女にモテたい」という気持ちで音楽をやれば、それは上っ面だけのものになりむしろ女にモテるという事がそう多くないであろう。スタジオに入って演奏していると、そういった昔の自分との再会もあった。だが今は違う。いかにして自分が楽しむか。鉄道旅も同じである。

(偶然ながらSLの運転があった。長いブランクのあった私が見ると、この景色もなんだか新鮮!)
私のブログをご覧になって、例えば1980年代の旅を皆様はどうお感じになられているのであろうか。ある意味、羨む場面もあろうかと思うが、当時の私の気持ちとしては「いい旅チャレンジ20000km」の義務みたいなものがあり、とにかく「制覇する」というこだわりが強かったため、旅そのものを楽しんだ部分というのがあまりなかった印象である。もちろんまだ中学生くらいであったため「旅の楽しみ方」というのがわからなかった部分もあろうが、基本的には「旅をこなす」印象が強かった。もちろん、結果的に貴重な旅をしているが、やはりまだまだ子供であった。
今は列車に揺られ旅をするのも、スタジオでベーシストに変身するものひとつひとつ楽しみながらチャレンジしている。いや、楽しんでやってやる!みたいな気持ちだから飽きないのかも知れない。
私のブログに訪問なされている皆様は、鉄道というカテゴリーに少なからず多からず興味をお持ちの方がほとんどであろう。そして鉄道というジャンルを楽しみながら触れ合っている事であろう。

(いつの日か「上越線全駅訪問」でもやってみたい気持ちである。)
要するに何を言いたいのか?それはきっかけがどうあれ、自身にやりたい事があるか、楽しめるものがあるかどうかだ。鉄道と一緒にいる時、時間の経つのを忘れていませんか?それ、非常に重要。というより、自身に夢中になれるものがあるかどうか?これ重要。やる事がある・・・これは人生において非常に重要であり素晴らしい事である。やる事がなくなったら人生面白くない。熱くなれるものがあるかどうか。それがあるかないかでその人のカラー、いや、オーラみたいなものが全然違ってくると思う。
自分自身のため・・・そう、私は人のために鉄道を趣味としているのではない。あくまで自分自身のためだ。これからも私は自分自身のために鉄道旅を続けていく事であろう。そんな旅を皆様に紹介していき、そしてそれを表現できたらそれは最高に素敵なことであろう。これからもそういう旅をしていきたい。

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