お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。1984年ダイヤ改正版 九州編①
2021-02-05
さて前回に引き続き、今度は九州バージョンを立案してみた。今回の九州に関しても1983年の東北旅行から帰郷して間もなく構想していたのでいずれはの思いがあったのだが実現できなかった。
九州に関しても周知の通りエネルギー革命以前は、特に北九州で鉄道が石炭輸送に大きく貢献しており、現在でもその名残をとどめる箇所が少なくない。
しかしながらその多くが廃止され、北海道ほどではないか鉄道空白地帯が出来上がってしまった。1984年は、その空白地帯に鉄道がまだ健在であった最後の時代であろう。ただ残念なのが、1984年のダイヤ改正で夜行普通列車「ながさき」が廃止されたり室木線の車両がPCからDCに変更されたりと、近代化、合理化の波がしっかりと押し寄せてきた印象でもあった。

こちらは1983年3月に訪問した当時の鹿児島交通・南多布施。背景でお分かりのように素敵な駅舎が存在していた。残念ながら下車はできなかったが、駅舎の重みが車内からでも充分に伝わってきた。
今回の1984年ダイヤ改正当時、私は中学3年~高校生になったばかりであるが、そんな成長著しい中の旅を想定して立案してみた。当時は私の好きな日田彦山線の呼野はまだスイッチバックが健在であり、そして赤字日本一にも輝いた添田線など、訪問してみたい箇所が多数存在した。もちろんそれら全てを制覇する立案であるが、前回と同じ条件として宿は全て夜行列車であるのと、国鉄以外の私鉄路線も全て込みでチャレンジしてみた。
結局のところ当時の呼野には訪問できなかったが、近年に同じく好きであった採銅所とともに呼野の訪問に成功している。だが、スイッチバックは既になくなり勾配上のホームだけが取り残された形となっていたが、スイッチバック時代のホーム等はまだ健在であったので面影を確認する事に成功しただけでもおおきな収穫であったと思う。

こちらの呼野は2016年に訪問。既にスイッチバックは使用停止になり残骸だけが残っていた。そして駅舎も取り壊されリニューアルの最中でもあった。
そして、1983年には鹿児島交通の廃止が3月31日にエックスデーと噂されたが、延期されしばらく営業していたが、その後水害にあい、1984年の3月に廃止されてしまった。今回の立案では最後の鹿児島交通も含まれているのである意味貴重な立案となったのだが、復旧されなかったのは非常に残念な思いである。
では次回のアップで今の私が立案した九州鉄道路線制覇の旅を公開してみよう。

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続きを読むをクリックすると、1984年に立案した当時の九州制覇計画が貼り付けてある。結局北海道計画とともに御蔵入りになってしまったが、もし実行していたら北海道とともに人生最大の旅になった事は間違いない。
九州に関しても周知の通りエネルギー革命以前は、特に北九州で鉄道が石炭輸送に大きく貢献しており、現在でもその名残をとどめる箇所が少なくない。
しかしながらその多くが廃止され、北海道ほどではないか鉄道空白地帯が出来上がってしまった。1984年は、その空白地帯に鉄道がまだ健在であった最後の時代であろう。ただ残念なのが、1984年のダイヤ改正で夜行普通列車「ながさき」が廃止されたり室木線の車両がPCからDCに変更されたりと、近代化、合理化の波がしっかりと押し寄せてきた印象でもあった。

こちらは1983年3月に訪問した当時の鹿児島交通・南多布施。背景でお分かりのように素敵な駅舎が存在していた。残念ながら下車はできなかったが、駅舎の重みが車内からでも充分に伝わってきた。
今回の1984年ダイヤ改正当時、私は中学3年~高校生になったばかりであるが、そんな成長著しい中の旅を想定して立案してみた。当時は私の好きな日田彦山線の呼野はまだスイッチバックが健在であり、そして赤字日本一にも輝いた添田線など、訪問してみたい箇所が多数存在した。もちろんそれら全てを制覇する立案であるが、前回と同じ条件として宿は全て夜行列車であるのと、国鉄以外の私鉄路線も全て込みでチャレンジしてみた。
結局のところ当時の呼野には訪問できなかったが、近年に同じく好きであった採銅所とともに呼野の訪問に成功している。だが、スイッチバックは既になくなり勾配上のホームだけが取り残された形となっていたが、スイッチバック時代のホーム等はまだ健在であったので面影を確認する事に成功しただけでもおおきな収穫であったと思う。

こちらの呼野は2016年に訪問。既にスイッチバックは使用停止になり残骸だけが残っていた。そして駅舎も取り壊されリニューアルの最中でもあった。
そして、1983年には鹿児島交通の廃止が3月31日にエックスデーと噂されたが、延期されしばらく営業していたが、その後水害にあい、1984年の3月に廃止されてしまった。今回の立案では最後の鹿児島交通も含まれているのである意味貴重な立案となったのだが、復旧されなかったのは非常に残念な思いである。
では次回のアップで今の私が立案した九州鉄道路線制覇の旅を公開してみよう。

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続きを読むをクリックすると、1984年に立案した当時の九州制覇計画が貼り付けてある。結局北海道計画とともに御蔵入りになってしまったが、もし実行していたら北海道とともに人生最大の旅になった事は間違いない。
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版北海道編③
2021-01-30
さて、今回のアップで予告通り1984年バージョンの北海道計画の立案をしてみた。
先述通り、宿は全て夜行列車で駅寝は無し!使用する切符は「北海道ワイド周遊券」のため周遊区間内に限り特急・急行列車の自由席に限りワイドのみで乗車可能である。つまり北海道内は特急・急行料金は無しで乗れるわけだ!しかも当時は夜行列車の宝庫であるので非常にやり易い。その反面、枝線制覇の際には運転本数が少ないのと接続の関係があるため、場合によっては乗る列車をあらかじめ決めておいてから計画を遡って立案しなければならないという、いわばパズルを解くむつかしさも兼ね備えている。そのためもちろんやりがいはあろうが、実際にこの立案で当時にタイムマシンで移動し実行できるのか・・・的な部分もあろう。いや、当時の私ならまだ「ガラスの」十代であったから体力的には問題なかったに違いない。
いずれにしても、この約2週間の旅をあなたならどう捉えるであろうか?
「やってみたい?」
「やってみたい!」

ポイントとなるのは中湧別~湧別間の名寄本線(湧別支線)制覇の際、中湧別の待ち合わせ時間を使って「徒歩で四号線訪問」である!「四号線」とは、湧別~中湧別間にあった仮乗降場(JR化とともに駅に昇格)で、全国版の時刻表には掲載されていない関係から、私の好きだった天北線の「飛行場前」とともに謎めいたお気に入りの駅であった。中湧別から3キロほどの地点にあるのと、1984年当時は高校生であったので歩いても余裕で行けた事であろう。ちなみに相模線・寒川支線の寒川~西寒川間が1.5キロのため、この区間を往復した距離と同じ計算となると、私なりにこの区間の所要時間が自然と頭に浮かんでくる。もちろん四号線から再び徒歩で中湧別に戻る事はなく、四号線から湧別行きに乗車し、折り返して中湧別に向かえば「制覇」となるので私は喜んで四号線に足を運んだ事であろう。
一応四号線の所属は名寄本線であるが、運転系統的には湧網線と一体化しており、完全に湧網線の一部と考えて良さそうだ。いや、もう完全に湧網線であろう。

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続きを読むをクリックすると1984年当時に私が立案した北海道計画が貼ってある。1983年に東北の旅を終え密かに次の構想があったのだが、恐らく1983年の年末~1984年年始頃にダイヤ改正号を引っさげて立案に挑んだものである。同時期に九州の計画も立案しており、恐らく費用だけ何とかなれが本気で旅に出た事であろう。
先述通り、宿は全て夜行列車で駅寝は無し!使用する切符は「北海道ワイド周遊券」のため周遊区間内に限り特急・急行列車の自由席に限りワイドのみで乗車可能である。つまり北海道内は特急・急行料金は無しで乗れるわけだ!しかも当時は夜行列車の宝庫であるので非常にやり易い。その反面、枝線制覇の際には運転本数が少ないのと接続の関係があるため、場合によっては乗る列車をあらかじめ決めておいてから計画を遡って立案しなければならないという、いわばパズルを解くむつかしさも兼ね備えている。そのためもちろんやりがいはあろうが、実際にこの立案で当時にタイムマシンで移動し実行できるのか・・・的な部分もあろう。いや、当時の私ならまだ「ガラスの」十代であったから体力的には問題なかったに違いない。
いずれにしても、この約2週間の旅をあなたならどう捉えるであろうか?
「やってみたい?」
「やってみたい!」

ポイントとなるのは中湧別~湧別間の名寄本線(湧別支線)制覇の際、中湧別の待ち合わせ時間を使って「徒歩で四号線訪問」である!「四号線」とは、湧別~中湧別間にあった仮乗降場(JR化とともに駅に昇格)で、全国版の時刻表には掲載されていない関係から、私の好きだった天北線の「飛行場前」とともに謎めいたお気に入りの駅であった。中湧別から3キロほどの地点にあるのと、1984年当時は高校生であったので歩いても余裕で行けた事であろう。ちなみに相模線・寒川支線の寒川~西寒川間が1.5キロのため、この区間を往復した距離と同じ計算となると、私なりにこの区間の所要時間が自然と頭に浮かんでくる。もちろん四号線から再び徒歩で中湧別に戻る事はなく、四号線から湧別行きに乗車し、折り返して中湧別に向かえば「制覇」となるので私は喜んで四号線に足を運んだ事であろう。
一応四号線の所属は名寄本線であるが、運転系統的には湧網線と一体化しており、完全に湧網線の一部と考えて良さそうだ。いや、もう完全に湧網線であろう。

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続きを読むをクリックすると1984年当時に私が立案した北海道計画が貼ってある。1983年に東北の旅を終え密かに次の構想があったのだが、恐らく1983年の年末~1984年年始頃にダイヤ改正号を引っさげて立案に挑んだものである。同時期に九州の計画も立案しており、恐らく費用だけ何とかなれが本気で旅に出た事であろう。
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 北海道編②
2021-01-25
さて、私と同世代か先輩の方々なら北海道の乗り潰し計画の際に大きな衝撃を受けた事であろう。運転本数が少ない、接続が悪い、昼間の時間帯のダイヤに空白など様々な困難を乗り越えなければならないが、特に接続に関しては稚内での天北線と宗谷本線の関係や長万部での函館本線と瀬棚線、室蘭本線など挙げたらキリがない。

1984年の時刻表には既に掲載されていない白糠線の終点・北進。私は廃止の2週間前に訪問したが、既に全国からマニアが多く駆けつけており、私の乗った列車も満員御礼であった。
1980年代前半では特に稚内での天北線と宗谷本線との乗り換えは「乗るな!」と言わんばかりのダイヤ設定になっていた。70年代ではちゃんと接続していたのに…
例えば上り夜行急行列車「利尻」に乗るために天北線で音威子府方面から稚内を目指すと南稚内での列車交換となり稚内までたどり着けない。ではと下り「利尻」で音威子府で天北線に乗り換え興浜北線を片付けて稚内にたどり着くと宗谷本線の乗り換えはなんと3時間待ちとなってしまう。他のパターンでも同様の待ち時間を要求してくるのはなんとも乗り潰し泣かせであった。ところが1984年のダイヤ改正では下り「利尻」のパターンで天北線経由で稚内目指すと、なんと稚内で2分の乗り換え時間ではあるが、稚内に到達できるように改善されたのだ!もちろん、乗り潰しマニアのための措置では無いであろうが、それでもこの改正は実に大きく、折り返しからの宗谷本線普通列車では幌延で羽幌線、美深では美幸線などとの接続が非常に良く予定を組みやすくなった。他の天北線と宗谷本線との待ち時間もかなり改善され「乗せてあげる」から「乗っていただく」の姿勢が徐々に見えて来た時期でもあった。
1978年の時刻表ではこの下り「利尻」と天北線の関係は実に効率よく乗り換えができ、なぜ80年代になって「乗るな!」的なダイヤになったのかわからない。当時の当事者に是非ご意見うかがいたい心境である。

今回も1983年訪問時の写真を使用しているが、こちらは現在の南千歳である千歳空港。当時は国鉄の空港アクセス駅第一号(だったと思う)として高い注目を集めた。現在はその座を新千歳空港に譲り、こちらは乗り換え駅として活躍している。
ただ、例えば深川での留萌本線と深名線の関係や網走での石北本線、釧網本線と湧網線の関係も悪く、10分早く着いていれば乗り換えられる場面もチラホラ。特に中湧別では湧別支線がまるで湧網線の一部であるかのような運転系統で、名前は名寄本線であるはずの湧別支線は朝の始発以外連携は無い。とはいえ、1日2往復しか運転されていないので自然と選択肢は狭まるわけだが、ただ、運転本数が少ないなら中湧別でしっかりと各方面の列車を接続させるべきではなかろうかと改めて思う。

そして帯広はもちろん高架化前で、確か5番線まであった。隣の駅名に注目していただきたいのだが、この駅名は今は亡き士幌線の駅であり、当時の士幌線は糠平より先は全国初の国鉄代行バス路線として注目され、マニアの間でも憧れの路線であった。当然私も!
さっきから接続が悪い!とクレームばかり付けているが、実は連携プレーができている関係が少なくないのも事実である。例えば浜頓別での興浜北線と天北線の関係や興部での名寄本線と興浜南線の関係、更に留萌での羽幌線と留萌本線の関係など、一部の関係以外はほぼ連携がしっかりと取れているのがわかる。こうしていただくと乗り潰し派ばかりでなく一般的にも利用者が利用しやすくなる。
しかしながら乗り潰し計画とはいつも思うが、それは人生と同じで、必ずどこかの乗り換えで行き詰まり別の方法を考える。時には到着駅の時間を決めてからそれに合わせるように遡り乗車する列車を決めていく。あるいは最初からルートを決めておいて、待ち時間に関係なくそのルートを貫くなど方法は様々だ。もちろん時と場合によるが、私は待ち時間を好まないタイプなので少しでも効率良くと考えてしまう事から味の無い、パンチがない計画になる事が多い。最近は少しスパイスを足す事を意識してるが、昔の乗り潰しの旅はそんな余裕が無い。良いか悪いかは別として、究極の乗り潰しとなっていた。

こちらは新得。石勝線が開通して2年が経過していたが、まだまだ斬新感と新鮮感が溢れていた。
隣の駅名はトマムに改称前の石勝高原が名を連ねている。
かつては「宮脇派?種村派?」なんて言葉も一部で流行った記憶だが、私は恐らく宮脇派の部類に入るであろう。いや、できれば仲間と一緒の方が行動しやすいし、例えば1983年の東北乗り潰しの際は同じ部活の後輩が山形の親戚宅に泊まり、私の旅計画に合わせて山形よりスポット参戦して共に行動したので、やはり種村派方式であろう。いずれにしても、大事なのは派閥とうこうよりも如何に旅を楽しむ事ではなかろうか(だよねっ!)。
とにかく、この私が立案した約2週間かかる北海道乗り潰し計画では先述した「宿は全て夜行列車」であり、其れゆえ過酷な旅になる事であろう。1984年だと既に白糠線は葬られているが、それでもこれから廃止がささやかれている路線がゴマンといた。もし本当にこれらが近い将来に全廃された時、本当に北海道は鉄道空白地帯だらけになってしまうのではないか・・・と思っていた当時であるが、それが現実のものとなり現在の姿である。
さて次回アップでは、いよいよ昨年末に無い頭を捻りながら立案した1984年バージョンの北海道乗り潰しの計画を公開してみよう。恐らく皆様がご覧になられたらドン引きしてしまうであろうし、実際にこれを実行したら過酷な旅になるであろう。冗談抜きで生きて帰れるかわからないサバイバルな計画となっているが、1980年代に実際に私は青春18や周遊券ー使い一週間~10日の旅に出たが、まだまだ余力があった。計画を立ててみると所々で食事や風呂の時間が取れそうな場面もある。こうなったらタイムマシンに乗り1984年まで遡って実際に試してみたくなる。次回アップの立案を見ていただいて皆様からのご意見を是非伺いたい気持ちである。

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1984年の時刻表には既に掲載されていない白糠線の終点・北進。私は廃止の2週間前に訪問したが、既に全国からマニアが多く駆けつけており、私の乗った列車も満員御礼であった。
1980年代前半では特に稚内での天北線と宗谷本線との乗り換えは「乗るな!」と言わんばかりのダイヤ設定になっていた。70年代ではちゃんと接続していたのに…
例えば上り夜行急行列車「利尻」に乗るために天北線で音威子府方面から稚内を目指すと南稚内での列車交換となり稚内までたどり着けない。ではと下り「利尻」で音威子府で天北線に乗り換え興浜北線を片付けて稚内にたどり着くと宗谷本線の乗り換えはなんと3時間待ちとなってしまう。他のパターンでも同様の待ち時間を要求してくるのはなんとも乗り潰し泣かせであった。ところが1984年のダイヤ改正では下り「利尻」のパターンで天北線経由で稚内目指すと、なんと稚内で2分の乗り換え時間ではあるが、稚内に到達できるように改善されたのだ!もちろん、乗り潰しマニアのための措置では無いであろうが、それでもこの改正は実に大きく、折り返しからの宗谷本線普通列車では幌延で羽幌線、美深では美幸線などとの接続が非常に良く予定を組みやすくなった。他の天北線と宗谷本線との待ち時間もかなり改善され「乗せてあげる」から「乗っていただく」の姿勢が徐々に見えて来た時期でもあった。
1978年の時刻表ではこの下り「利尻」と天北線の関係は実に効率よく乗り換えができ、なぜ80年代になって「乗るな!」的なダイヤになったのかわからない。当時の当事者に是非ご意見うかがいたい心境である。

今回も1983年訪問時の写真を使用しているが、こちらは現在の南千歳である千歳空港。当時は国鉄の空港アクセス駅第一号(だったと思う)として高い注目を集めた。現在はその座を新千歳空港に譲り、こちらは乗り換え駅として活躍している。
ただ、例えば深川での留萌本線と深名線の関係や網走での石北本線、釧網本線と湧網線の関係も悪く、10分早く着いていれば乗り換えられる場面もチラホラ。特に中湧別では湧別支線がまるで湧網線の一部であるかのような運転系統で、名前は名寄本線であるはずの湧別支線は朝の始発以外連携は無い。とはいえ、1日2往復しか運転されていないので自然と選択肢は狭まるわけだが、ただ、運転本数が少ないなら中湧別でしっかりと各方面の列車を接続させるべきではなかろうかと改めて思う。

そして帯広はもちろん高架化前で、確か5番線まであった。隣の駅名に注目していただきたいのだが、この駅名は今は亡き士幌線の駅であり、当時の士幌線は糠平より先は全国初の国鉄代行バス路線として注目され、マニアの間でも憧れの路線であった。当然私も!
さっきから接続が悪い!とクレームばかり付けているが、実は連携プレーができている関係が少なくないのも事実である。例えば浜頓別での興浜北線と天北線の関係や興部での名寄本線と興浜南線の関係、更に留萌での羽幌線と留萌本線の関係など、一部の関係以外はほぼ連携がしっかりと取れているのがわかる。こうしていただくと乗り潰し派ばかりでなく一般的にも利用者が利用しやすくなる。
しかしながら乗り潰し計画とはいつも思うが、それは人生と同じで、必ずどこかの乗り換えで行き詰まり別の方法を考える。時には到着駅の時間を決めてからそれに合わせるように遡り乗車する列車を決めていく。あるいは最初からルートを決めておいて、待ち時間に関係なくそのルートを貫くなど方法は様々だ。もちろん時と場合によるが、私は待ち時間を好まないタイプなので少しでも効率良くと考えてしまう事から味の無い、パンチがない計画になる事が多い。最近は少しスパイスを足す事を意識してるが、昔の乗り潰しの旅はそんな余裕が無い。良いか悪いかは別として、究極の乗り潰しとなっていた。

こちらは新得。石勝線が開通して2年が経過していたが、まだまだ斬新感と新鮮感が溢れていた。
隣の駅名はトマムに改称前の石勝高原が名を連ねている。
かつては「宮脇派?種村派?」なんて言葉も一部で流行った記憶だが、私は恐らく宮脇派の部類に入るであろう。いや、できれば仲間と一緒の方が行動しやすいし、例えば1983年の東北乗り潰しの際は同じ部活の後輩が山形の親戚宅に泊まり、私の旅計画に合わせて山形よりスポット参戦して共に行動したので、やはり種村派方式であろう。いずれにしても、大事なのは派閥とうこうよりも如何に旅を楽しむ事ではなかろうか(だよねっ!)。
とにかく、この私が立案した約2週間かかる北海道乗り潰し計画では先述した「宿は全て夜行列車」であり、其れゆえ過酷な旅になる事であろう。1984年だと既に白糠線は葬られているが、それでもこれから廃止がささやかれている路線がゴマンといた。もし本当にこれらが近い将来に全廃された時、本当に北海道は鉄道空白地帯だらけになってしまうのではないか・・・と思っていた当時であるが、それが現実のものとなり現在の姿である。
さて次回アップでは、いよいよ昨年末に無い頭を捻りながら立案した1984年バージョンの北海道乗り潰しの計画を公開してみよう。恐らく皆様がご覧になられたらドン引きしてしまうであろうし、実際にこれを実行したら過酷な旅になるであろう。冗談抜きで生きて帰れるかわからないサバイバルな計画となっているが、1980年代に実際に私は青春18や周遊券ー使い一週間~10日の旅に出たが、まだまだ余力があった。計画を立ててみると所々で食事や風呂の時間が取れそうな場面もある。こうなったらタイムマシンに乗り1984年まで遡って実際に試してみたくなる。次回アップの立案を見ていただいて皆様からのご意見を是非伺いたい気持ちである。

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お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 北海道編①
2021-01-20
さて、今回からは私がティーンエイジだった頃の時刻表を使い時空を超えた旅を立案してみた。というのも、緊急事態宣言が発令され外出等が制限される中、過去の時刻表を使い今の私がどのような立案ができるか試す機会が出来た。今回は1984年2月のダイヤ改正版の時刻表を使い立案してみたが、1984年といえば国鉄時代も終盤に差し掛かる時代であった。東北・上越新幹線が大宮暫定開業して約1年半程経過し、地方の赤字ローカル線も廃止が進められ日本の鉄道シーンが大きく変化していく過渡期でもあった。1984年の鉄道旅といえば私は「18きっぷ」を使い四国乗りつぶしを敢行した一度のみであったが、その気になれば北海道や九州も行けたはず。アルバイトもしていたので自身で資金も調達できたし、なぜもっと旅をしなかったのかと、少々もったいない事をしたなと今になって思う。そうならないためにも行ける時に行くのが最近の私のポリシーでもあるのだが、予期せぬ感染症などの社会情勢に私たちは今後の対応を迫られる場面でもある非常に厳しい毎日である。
そんな当時に国鉄は1982年11月15日に上越新幹線開業に併せて全国規模のダイヤ大改正を行った。
同年6月23日に東北新幹線が開業した時より更に大胆に特急列車や急行列車が大幅に整理され、地方都市近郊では普通列車が短編成化され運転本数を増やした。だが、貨物列車は超大胆に整理され「合理化」なる言葉がひっきりなしに聞かれるようになった。私は丁度その前後辺りがレールファン全盛期で、中学時代を迎えた私は「青春18」を片手に全国を駆け巡った時期でもあった。

今回は駅名標にこだわり1983年訪問時の写真を掲載してみた。もちろん国鉄時代の釧路であるが、JRになった今でも当時とほとんど変わらない風景となっている。
そして1984年には更にダイヤに手が加えられ、一部の優等列車や夜行列車が姿を消した。1984年では私は高校生になったが、鉄道以外のジャンルにも幅広く興味を示したため段々とレールファンがフェードアウトしていった時期でもあった。もしもっとレールファンを続けていれば北海道や九州などの多くの国鉄時代を「制覇」という名を借りて経験できた事であろう。
残念ながら、この時期より多くの鉄道路線が廃止され、更に「国鉄」という組織そのものもなくなってしまうという、史上最大の転機を向かえた時期でもあった。

「は~るばる来たぜ函館ぇ~!」的な雰囲気たっぷりの函館は、今は亡き「乗船口」の案内が。当時は函館~網走の運転である特急「おおとり」や函館本線経由の特急「北海」なども健在であった。
そんな時代の空白を埋めるべく、私はタイムマシンに乗ったつもりで当時の時刻表を引っ張りだし「仮想、北海道」と「仮想、九州」の全線制覇計画を組んでみた。もちろん北海道では「三菱」はまだ健在であったし札幌や函館の路面電車や地下鉄も全て込での慣行である。九州では網の目のように張り巡らされた炭鉱路線もまだまだ生き残っていたが、当時は先述通りまだ学生であった事もあり、宿泊の宿は全て「夜行列車」という条件で計画してみた。当時は函館~札幌間の函館本線夜行普通列車や、網走や稚内、そして釧路へは札幌から夜行急行列車が運転されており、宿の心配は無いのが嬉しい。これらを組み合わせれば比較的楽に予定を組めるはずなのだが…運転本数が少ない上に嫌がらせとも取れる接続の悪さも少なくない。しかし、それを乗り越え如何に効率良く、そして時間をかけずに多くの路線を片付けて行くかが最大のポイントであろうとテーマに位置付けた。ただ、乗車券は「ワイド周遊券」のため特急や急行を別料金無しで乗れるのは非常に大きい。

登別とともに観光地として名高い洞爺。お隣の伊達紋別からはかつて胆振線が発着しており倶知安まで続いていたが、新大滝と御園間で列車が途切れる場合もあり、制覇計画にはある意味苦労する場面もあった。
さて、今回はそんな思いを胸に秘めながら久々に北海道の計画を組んでみたが、1984年当時のお蔵入りした北海道計画も久々に見てみた。が…やはり中学生、高校生時代の荒削りな部分が目立つ反面、発想力が中学生時代よりも高校生時代でやや成長している部分もあり、まさに発展途上であった。ただ、皆様から見たら今の私と中学高校時代の私と比較した場合は、それほど変わらないんじゃないか?的なものを感じるかも知れないが「今の私を見てください!」的な、本当に飾り気の無いありのままの計画になっている。恐らく「ここはこうした方がいいんじゃねぇ?」的なご意見もあろうと思われる。ただ、私としては三沢光晴のように奥の手の更に奥の手を持っているわけでもなく、そして閃きもない。その分、持ってる技を全て出し切ったつもりだ。そんな健気な私を温かく見守っていただけたら幸いである。

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そんな当時に国鉄は1982年11月15日に上越新幹線開業に併せて全国規模のダイヤ大改正を行った。
同年6月23日に東北新幹線が開業した時より更に大胆に特急列車や急行列車が大幅に整理され、地方都市近郊では普通列車が短編成化され運転本数を増やした。だが、貨物列車は超大胆に整理され「合理化」なる言葉がひっきりなしに聞かれるようになった。私は丁度その前後辺りがレールファン全盛期で、中学時代を迎えた私は「青春18」を片手に全国を駆け巡った時期でもあった。

今回は駅名標にこだわり1983年訪問時の写真を掲載してみた。もちろん国鉄時代の釧路であるが、JRになった今でも当時とほとんど変わらない風景となっている。
そして1984年には更にダイヤに手が加えられ、一部の優等列車や夜行列車が姿を消した。1984年では私は高校生になったが、鉄道以外のジャンルにも幅広く興味を示したため段々とレールファンがフェードアウトしていった時期でもあった。もしもっとレールファンを続けていれば北海道や九州などの多くの国鉄時代を「制覇」という名を借りて経験できた事であろう。
残念ながら、この時期より多くの鉄道路線が廃止され、更に「国鉄」という組織そのものもなくなってしまうという、史上最大の転機を向かえた時期でもあった。

「は~るばる来たぜ函館ぇ~!」的な雰囲気たっぷりの函館は、今は亡き「乗船口」の案内が。当時は函館~網走の運転である特急「おおとり」や函館本線経由の特急「北海」なども健在であった。
そんな時代の空白を埋めるべく、私はタイムマシンに乗ったつもりで当時の時刻表を引っ張りだし「仮想、北海道」と「仮想、九州」の全線制覇計画を組んでみた。もちろん北海道では「三菱」はまだ健在であったし札幌や函館の路面電車や地下鉄も全て込での慣行である。九州では網の目のように張り巡らされた炭鉱路線もまだまだ生き残っていたが、当時は先述通りまだ学生であった事もあり、宿泊の宿は全て「夜行列車」という条件で計画してみた。当時は函館~札幌間の函館本線夜行普通列車や、網走や稚内、そして釧路へは札幌から夜行急行列車が運転されており、宿の心配は無いのが嬉しい。これらを組み合わせれば比較的楽に予定を組めるはずなのだが…運転本数が少ない上に嫌がらせとも取れる接続の悪さも少なくない。しかし、それを乗り越え如何に効率良く、そして時間をかけずに多くの路線を片付けて行くかが最大のポイントであろうとテーマに位置付けた。ただ、乗車券は「ワイド周遊券」のため特急や急行を別料金無しで乗れるのは非常に大きい。

登別とともに観光地として名高い洞爺。お隣の伊達紋別からはかつて胆振線が発着しており倶知安まで続いていたが、新大滝と御園間で列車が途切れる場合もあり、制覇計画にはある意味苦労する場面もあった。
さて、今回はそんな思いを胸に秘めながら久々に北海道の計画を組んでみたが、1984年当時のお蔵入りした北海道計画も久々に見てみた。が…やはり中学生、高校生時代の荒削りな部分が目立つ反面、発想力が中学生時代よりも高校生時代でやや成長している部分もあり、まさに発展途上であった。ただ、皆様から見たら今の私と中学高校時代の私と比較した場合は、それほど変わらないんじゃないか?的なものを感じるかも知れないが「今の私を見てください!」的な、本当に飾り気の無いありのままの計画になっている。恐らく「ここはこうした方がいいんじゃねぇ?」的なご意見もあろうと思われる。ただ、私としては三沢光晴のように奥の手の更に奥の手を持っているわけでもなく、そして閃きもない。その分、持ってる技を全て出し切ったつもりだ。そんな健気な私を温かく見守っていただけたら幸いである。

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