お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。1978年ダイヤ改正版 急行王国日本列島縦断編 ③
2021-03-10

どぉ~ですか!この壮大な急行列車の乗り継ぎを。延べ92本の急行列車に乗車し16日間の旅となった!もちろん宿は夜行急行列車。待ち時間の長い駅では当然ながら食事と風呂を抜かりなく設定する。しかも寝台急行「天の川」を惜しみなく短区間での利用には、完全に「大人乗り」であろう。この区間でも寝台券を購入しなければならないが、とにかく急行のみでも「やればできる!」という事だ。

1970年代では私が人生で初めてひとりで乗車した急行「伊豆」が153系で運転されていた。そして時には155系の「修学旅行色」でも運転されている事があり、当時の私にとって155系の「伊豆」を見るのは超レアな出来事であった!(写真はミックス・マテリアル様提供)
ただ、残念だったのは両国発の房総急行と東京発の「伊豆」などを組み込めなかった事だ。いや「伊豆」に関していえば甲府より身延線を使えば組み込めたかも知れないが、静岡以降での急行の接続が「銀河」に限られてしまう事と、東京では東海道線以外に急行列車が繋がらないのでやや制約があるため今回は見送らせていただいた。それでも「踊り子世代」には「伊豆」「東海」の存在を知って欲しかったし、両国の「あのホーム」を想像して欲しかった思いである。

少々ピントが甘くて申し訳ないが、こちらは私が撮影した1980年前後の急行「外房」。大原での撮影であるが、当時木原線(現在のいすみ鉄道)の廃止情報を受け大原までやって来た時に撮影した。当時既に両国発の急行が全廃になるとの噂が流れていたので撮影したのだが、なにせ「キャノン デミEE28」での撮影のためこのような画像に・・・
いずれにしてもこれだけ多くの急行列車や夜行急行列車が運転されていたら旅も楽しくなるであろう。いや、現在のように特急列車しか無い時代に、急行列車はどのような輝きを魅せてくれるであろうか。確かに急行列車はグリーン車ではない限り乗り心地は決して良いとは言えない場合もあるであろう。そして停車駅が多い分所要時間がかかるであろう。ただ、視点を変えた時、急行列車の輝きはひと一倍眩しいに違いない。私はそんな健気な急行列車をひたすら求めて、いつしか過去の旅に出たくなった。

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お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。1978年ダイヤ改正版 急行王国日本列島縦断編 ②
2021-03-05
1978年の時刻表を使い急行列車のみによる日本列島縦断の旅を立案してみたが、立案したらものすごい事になった❕それこそ当時ケイブンシャ発行の「特急 急行大百科」に載っている懐かしい急行列車がワンサカと、さも現役で走っているかのような錯覚に陥る。実に興奮の雨霰となる数字の羅列は、眺めているだけでいつしか時の経つのを忘れてしまう感じだ。チャンスがあったら是非皆様も1978年バージョンの時刻表をお手に取ってご覧いただきたい所存である。

お馴染みの写真で申し訳ないが・・・1983年に撮影した白糠駅での急行「まりも」。14系とは今考えたら豪華急行列車であったが、1970年代に活躍した急行「阿蘇」や「くにさき」が当時14系を使用していて「豪華急行客車」と称賛されていた時代があったのだ!
ところで当時私が超お気に入りだった急行列車は「阿蘇」「くにさき」である!新大阪から熊本、大分間を夜行列車として運転され、当時最新であったろう14系座席客車急行列車でさながらブルートレインのイメージであった。
更に当時の急行列車の特徴として分割、併合が多く繰り返される事だ。イメージ的にはかつての特急「かもめ」「みどり」のように肥前山口で分割、併合されていた感じであるのだが、かつての急行はもっと凄い。「千秋」「こまくさ」や「らいでん」「いぶり」など無数に存在していた急行列車は途中駅で分割、併合を繰返し、結局主軸となる列車名は何?というくらいふたつみっつと途中駅でのイベントが多く、三階建や四階建の急行列車が全国にゴマンといた時代であった。

今回はこちらの時刻表を使用。1978年であるから急行列車がゴマンと掲載されていた!
そして今回の立案では盛岡発盛岡行きの「五葉」を意地でも組み込んだ事だ。ヤングなレールファンには是非知ってほしいこの急行は盛岡から花巻に向かい釜石線と山田線を経由して盛岡に戻ってくるという何ともエキゾチックな急行である!
そして寝台特急としても馴染み深かった「出羽」は1978年ではなんとDCで運転されていた夜行急行列車であった。上野~酒田間の運転であったが、余目よりなんと陸羽西線経由となるのだ!そして新庄より奥羽本線経由で上野へ向かう。つまり上野にDCが夜行列車でやって来るということだ!

そして今や貴重な画像となった上野駅への気動車乗り入れ時代。ご覧の通り水郡線を経由する急行列車であるが、今回の計画では水郡線の急行は組み込めなかったのでせめてお写真を・・・(写真はダイナミック✩トナカイ提供)
そしてこの時代に私は上野駅に何度も足を運んでいたが、旧型客車の「鳥海」や「越前」などが見られ、当時はなんの列車だかわからなかったが、今となっては写真に収めなかった事を実に悔やんでしまう。
また、今回の立案では只見線の急行「奥只見」や懐かしい上越線の急行「佐渡」、そして昼間バージョンの「日南」や長崎本線の「弓張」など本線を走る急行も盛り沢山に組み込み、更に駄目押しで、廃止された佐賀線経由の「ちくご」も後半に強引に入れてみた。さて皆様はどの辺りまでこれらの急行列車をご存知のであろうか。そしてどの急行に馴染みがありそして思い入れがおありであろうか。そんな輝かしい時代を走り抜けた急行列車達の思いを私にお知らせいただけたら幸いである。

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お馴染みの写真で申し訳ないが・・・1983年に撮影した白糠駅での急行「まりも」。14系とは今考えたら豪華急行列車であったが、1970年代に活躍した急行「阿蘇」や「くにさき」が当時14系を使用していて「豪華急行客車」と称賛されていた時代があったのだ!
ところで当時私が超お気に入りだった急行列車は「阿蘇」「くにさき」である!新大阪から熊本、大分間を夜行列車として運転され、当時最新であったろう14系座席客車急行列車でさながらブルートレインのイメージであった。
更に当時の急行列車の特徴として分割、併合が多く繰り返される事だ。イメージ的にはかつての特急「かもめ」「みどり」のように肥前山口で分割、併合されていた感じであるのだが、かつての急行はもっと凄い。「千秋」「こまくさ」や「らいでん」「いぶり」など無数に存在していた急行列車は途中駅で分割、併合を繰返し、結局主軸となる列車名は何?というくらいふたつみっつと途中駅でのイベントが多く、三階建や四階建の急行列車が全国にゴマンといた時代であった。

今回はこちらの時刻表を使用。1978年であるから急行列車がゴマンと掲載されていた!
そして今回の立案では盛岡発盛岡行きの「五葉」を意地でも組み込んだ事だ。ヤングなレールファンには是非知ってほしいこの急行は盛岡から花巻に向かい釜石線と山田線を経由して盛岡に戻ってくるという何ともエキゾチックな急行である!
そして寝台特急としても馴染み深かった「出羽」は1978年ではなんとDCで運転されていた夜行急行列車であった。上野~酒田間の運転であったが、余目よりなんと陸羽西線経由となるのだ!そして新庄より奥羽本線経由で上野へ向かう。つまり上野にDCが夜行列車でやって来るということだ!

そして今や貴重な画像となった上野駅への気動車乗り入れ時代。ご覧の通り水郡線を経由する急行列車であるが、今回の計画では水郡線の急行は組み込めなかったのでせめてお写真を・・・(写真はダイナミック✩トナカイ提供)
そしてこの時代に私は上野駅に何度も足を運んでいたが、旧型客車の「鳥海」や「越前」などが見られ、当時はなんの列車だかわからなかったが、今となっては写真に収めなかった事を実に悔やんでしまう。
また、今回の立案では只見線の急行「奥只見」や懐かしい上越線の急行「佐渡」、そして昼間バージョンの「日南」や長崎本線の「弓張」など本線を走る急行も盛り沢山に組み込み、更に駄目押しで、廃止された佐賀線経由の「ちくご」も後半に強引に入れてみた。さて皆様はどの辺りまでこれらの急行列車をご存知のであろうか。そしてどの急行に馴染みがありそして思い入れがおありであろうか。そんな輝かしい時代を走り抜けた急行列車達の思いを私にお知らせいただけたら幸いである。

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お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 東北編(後編)
2021-02-20
1984年バージョンでの東北制覇立案である。1984年のダイヤ改正でもPC(客車)普通列車はまだまだ健在で、廃止が予定されていた日中線などもDCに置き換えられずに活躍していた。また、東北本線や奥羽本線などにもPCはまだまだ健在であったが、徐々に50系客車に置き換えられており、旧型客車の終焉の時代を迎えていた時代でもあった。ただ、五能線では1983年に乗車した旧型客車による普通列車は1984年の改正ですべてDCに置き換えられており、客車列車自体の終焉も迎えてた時期でもあろう。

東北はすでに1983年に国鉄全線制覇しているが、今回の1984年バージョンの立案では国鉄以外の私鉄路線を全て含めてみた。ただ、この立案で使用する切符はもちろん「東北ワイド」であるが、東京発の有効期限が10日であるのに対し計画では12日と完全にオーバーしている。もっと効率の良い方法はあろうが、やはり私鉄を含めるとなかなか厳しい立案となるので私鉄をあきらめるかワイドを2枚用意するかのどちらかの選択になると思われる。「いや、私なら10日で収まりました!」という意見もあろうかと思われるので、もしそのようなご意見あったら是非報告が欲しい所存である。

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続きを読むをクリックすると1983年8月に私が実際に東北乗りつぶしを敢行した行程を貼ってある。既にこのブログでも紹介しているが、夜行列車で下車駅を乗り過ごし山形の運転停車で下車させてもらった事や、今でいう「ゴロンとシート」のような形で20系のB寝台を座席として開放していた臨時急行「おが」の乗車なども掲載されている。前回アップで掲載した計画バージョンとの違いを比較していただき、如何に1983年の東北の旅がサバイバルであったかをご覧頂ければ幸いである。

東北はすでに1983年に国鉄全線制覇しているが、今回の1984年バージョンの立案では国鉄以外の私鉄路線を全て含めてみた。ただ、この立案で使用する切符はもちろん「東北ワイド」であるが、東京発の有効期限が10日であるのに対し計画では12日と完全にオーバーしている。もっと効率の良い方法はあろうが、やはり私鉄を含めるとなかなか厳しい立案となるので私鉄をあきらめるかワイドを2枚用意するかのどちらかの選択になると思われる。「いや、私なら10日で収まりました!」という意見もあろうかと思われるので、もしそのようなご意見あったら是非報告が欲しい所存である。

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続きを読むをクリックすると1983年8月に私が実際に東北乗りつぶしを敢行した行程を貼ってある。既にこのブログでも紹介しているが、夜行列車で下車駅を乗り過ごし山形の運転停車で下車させてもらった事や、今でいう「ゴロンとシート」のような形で20系のB寝台を座席として開放していた臨時急行「おが」の乗車なども掲載されている。前回アップで掲載した計画バージョンとの違いを比較していただき、如何に1983年の東北の旅がサバイバルであったかをご覧頂ければ幸いである。
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 東北編(前編)
2021-02-15
1983年に私は東北の旅は既に終えているが、1984年2月ダイヤ改正バージョンで立案してみた。1983年に実際に東北を訪問した際は、極めて波乱万丈な旅となってしまった。当初の計画より現地でかなり手を加え変更したり、夜行列車乗車の際に下車駅で寝過ごしてしまい運転停車の駅で下車させてもらったり、夜行列車からの乗り換えで山形で「始発」を待合室で待っていた時には現地の人に声をかけられどこかへ連れていかれそうになったり…例えその人に悪意はなくても「受けてはいけない親切」ってあるものだよねと肌で感じたりと、何かと勉強になったりもした、いわば「人生のターニングポイント」的な旅であった。

1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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続きをクリックすると1983年8月に敢行した東北旅の元計画がご覧頂ける。次回アップの東北旅の実際の行程とかなり食い違う場面があり、如何に現地ではサバイバルな旅であったかお分かりいただける事であろう。もちろん、実際の旅で起こった新庄を下車しそこなって山形での運転停車で下車させてもらった事等は最初から計画に組み込めないため私も予定外の行動に当時は必死だった。もちろん、そんな経験があるからこそ現在のような適応能力があるのは言うまでもないが・・・(って、完全無欠の能力ではないが)

1979年訪問時の青森では、これから乗車する急行「津軽」の12系車両が一緒に収まっていた。青森発の上り「津軽」は青森を確か15時30分頃の出発であったのでめちゃめちゃ早い出発となる。寝台も連結されていたのでできれば寝台で帰郷したかったのだが、この時は座席であった。ちなみに1979年当時、私は小学校5年生であった。
ただ、計画自体は「ここをこうすれば」的な思いが後から後から出てくるものであり、1984年の時刻表を開き改めてその思いをぶつけてみた。1983年の時のように急行「おが」などの臨時列車を使わず全て定期便を使う事と、旅籠は必ず「夜行列車」という条件を付けての立案となる。もちろん夜行列車は寝台特急をフルに使うと「ヒルネ」の区間がない列車がほとんどのため莫大な経費がかかるので、ワイド周遊券特有のルールをフルに活用し「八甲田」「十和田」「津軽」などの急行列車を頻繁に使う事となる。ただ、周遊区間に入るまでの列車は東北上越新幹線開業に伴い在来線の特急.急行列車が激減したため乗車できる列車が限られてしまうが、それでも東北本線などの急行列車はまだまだ健在だったため現地までは周遊券のみで旅ができたのがラッキーであろう。

現在は由利高原鉄道として活躍している羽後矢島。1983年訪問当時のものであるので当然ながら国鉄時代である。今回、1984年での立案で紹介しているが、1983年訪問時では東北の私鉄各線を制覇しなかったので、できればタイムマシンに乗って栗原電鉄や南部縦貫鉄道などを制覇してみたい気持であった。
しかしながら2月改正の時点ではまだ三陸鉄道が開通前で、普代~田老や岩泉までは国鉄バスで移動しなければならないが、1983年の段階では八戸線の始発を八戸発で南に下れば普代から路線バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉へたどり着けたが、1984年の改正では北山崎展望台から先のバスが減便され岩泉方面への道が閉ざされてしまった。田老方面へもかなりの待ち時間になり、数ヵ月後に開通した三陸鉄道を利用した方が確実に効率的であろう。今回の立案では八戸線と久慈線を往復し八戸へ戻る事にしたが、やはり普代~田老、岩泉のルートが使えないのは実に大きな痛手である。

1982年に誕生した特急「たざわ」。新幹線連絡特急として活躍したが、現在は周知の通り、ミニ新幹線「こまち」としてグレードアップして活躍中。(この写真はダイナミック☆トナカイ提供)
1980年代では「急行全廃」がささやかれ、新幹線開業やダイヤ改正の度に急行列車が徐々にフェードアウトしていった。とはいえ、まだまだ全国では急行列車が活躍していたので周遊券利用の際は実に大きな活躍をしたイメージだ。
そんな状況下での立案をしてみたが、皆様はどういう印象を持たれるだろうか。次回アップでその詳細を紹介してみよう。

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続きをクリックすると1983年8月に敢行した東北旅の元計画がご覧頂ける。次回アップの東北旅の実際の行程とかなり食い違う場面があり、如何に現地ではサバイバルな旅であったかお分かりいただける事であろう。もちろん、実際の旅で起こった新庄を下車しそこなって山形での運転停車で下車させてもらった事等は最初から計画に組み込めないため私も予定外の行動に当時は必死だった。もちろん、そんな経験があるからこそ現在のような適応能力があるのは言うまでもないが・・・(って、完全無欠の能力ではないが)
お馴染みもしものコーナー。もしも今の私が昔の時刻表を使って旅計画を立案したら。 1984年ダイヤ改正版 九州編(後編)
2021-02-10
さて、今回も予告通り九州制覇の立案をしてみた。当時は北九州にまだ路面電車が健在で、筑豊電気鉄道と連携していたが、周知の通り現在は黒崎~熊西間は筑豊電気鉄道に組み込まれている。
そして意外にも路面電車が現在でも活躍しているのが熊本と長崎で、かなりの数の路線網での制覇はやや時間が読めない部分もある。平成に入り私は実際に制覇したが、特に長崎では観光客の利用も多く、日中でも立席客がいる場面もあった。
また、意外にパズルが解けない部分が上山田線と漆生線の関係や朝の時間帯での糸田線と伊田線の関係で、接続が意外に厳しかったのもやや辛い。特に上山田線は下山田で漆生線が接続するが、実際の運転系統では上山田で分断され、飯塚との間で往復運転をして漆生線と下山田~豊前川崎で一体化している。そこで気になるのが漆生線と上山田線の事実上の接点である嘉穂信号場の存在だ。当時中学生~高校生時代であった私であるが、関西本線の中在家信号場とともにこの嘉穂信号場は実に気になる存在で、その輝きもひと際群を抜いていた。
そして今回の立案で驚いたのが先述した室木線であった。1984年では既に廃止対象路線として名を連ねていたが、1984年のダイヤ改正からDCによる運転に切り替わっていた!それまではPC(客車列車)による運転で「いつか室木線に乗ってみたい!」と思っていたので非常に残念な気持ちである。私の中で室木線がDCに変更された記憶が薄く、正直「えっ?」という思いであった。
また、今回の立案では1984年当時に思いつかなかった西鉄宮地岳線(現在の貝塚線)から香椎で国鉄に乗り換える大技を披露した事だ。実際にこの乗り換えは平成に入ってからの訪問で実践しており、なかなか手応えある乗り換えパターンであったのだが、当時は全くこういう事を思いつかなかったので「古い中での新しい提案」として私の成長を感じる場面でもあった。
更に黒木線から鹿児島本線→佐賀線のパターンは1983年春に実践しており、黒木から乗り換えなしで佐賀線へ向かうのは1984年でも健在であったのが嬉しい。

苦労するのが宮原線である。往復できるのは夕方の1便のみであろうため、この一往復に賭けるために計画を遡って立てる。土曜日であれば日中に1往復運転があるのでそちらに合わせるともっとバリエーションが広がるのだが、ここはあえて定期列車にこだわってみた。
そして帰りは長崎から寝台特急!この奮発は実際にやってみたかったと今になって思う。
実際に計画を組んでみて、昼間の時間帯での接続にやや問題はあるものの、意外になんとかなるものだ。鹿児島交通再制覇とともに、タイムマシンに乗り実践してみたい九州の旅であった。

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そして意外にも路面電車が現在でも活躍しているのが熊本と長崎で、かなりの数の路線網での制覇はやや時間が読めない部分もある。平成に入り私は実際に制覇したが、特に長崎では観光客の利用も多く、日中でも立席客がいる場面もあった。
また、意外にパズルが解けない部分が上山田線と漆生線の関係や朝の時間帯での糸田線と伊田線の関係で、接続が意外に厳しかったのもやや辛い。特に上山田線は下山田で漆生線が接続するが、実際の運転系統では上山田で分断され、飯塚との間で往復運転をして漆生線と下山田~豊前川崎で一体化している。そこで気になるのが漆生線と上山田線の事実上の接点である嘉穂信号場の存在だ。当時中学生~高校生時代であった私であるが、関西本線の中在家信号場とともにこの嘉穂信号場は実に気になる存在で、その輝きもひと際群を抜いていた。
そして今回の立案で驚いたのが先述した室木線であった。1984年では既に廃止対象路線として名を連ねていたが、1984年のダイヤ改正からDCによる運転に切り替わっていた!それまではPC(客車列車)による運転で「いつか室木線に乗ってみたい!」と思っていたので非常に残念な気持ちである。私の中で室木線がDCに変更された記憶が薄く、正直「えっ?」という思いであった。
また、今回の立案では1984年当時に思いつかなかった西鉄宮地岳線(現在の貝塚線)から香椎で国鉄に乗り換える大技を披露した事だ。実際にこの乗り換えは平成に入ってからの訪問で実践しており、なかなか手応えある乗り換えパターンであったのだが、当時は全くこういう事を思いつかなかったので「古い中での新しい提案」として私の成長を感じる場面でもあった。
更に黒木線から鹿児島本線→佐賀線のパターンは1983年春に実践しており、黒木から乗り換えなしで佐賀線へ向かうのは1984年でも健在であったのが嬉しい。

苦労するのが宮原線である。往復できるのは夕方の1便のみであろうため、この一往復に賭けるために計画を遡って立てる。土曜日であれば日中に1往復運転があるのでそちらに合わせるともっとバリエーションが広がるのだが、ここはあえて定期列車にこだわってみた。
そして帰りは長崎から寝台特急!この奮発は実際にやってみたかったと今になって思う。
実際に計画を組んでみて、昼間の時間帯での接続にやや問題はあるものの、意外になんとかなるものだ。鹿児島交通再制覇とともに、タイムマシンに乗り実践してみたい九州の旅であった。

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