上田で荷物を忘れてしまいましたが ⑮
2023-05-06
大月で再び中央線と合流し東京方面へ乗る列車は見慣れた車体であるがペイントが違うのでやや違和感漂う。しかしながら国鉄時代から馴染みある115系のため懐かしさと同時に乗り慣れた雰囲気により安心感が湧いてくる。
ただ、全く個人的感覚として115系と113系のくべつをつける時に車両正面の塗装でライト下に角度が有るか無いかで判別していた記憶であるが、JRになり個性豊かな塗装が増えたためそうした判定がしにくくなった。特にしなの鉄道の車両などは私のような判定の仕方だとほぼ判別不可能である。そうした中でも国鉄車両が健在なのは嬉しい材料であるので贅沢を言ってはいけないであろう。

吾妻線・大前で撮影した115系であるが、113系との区別をつける際に、前面の塗装で見分けていた記憶だ。こうした車両もだんだんと見られなくなっていくのは寂しい限りであるが、やはり旧い者ばかりでもよくないのかも知れない。しかしながら、やはり新しいものも取り入れてこそ、こうした旧い者がもっと輝きを増す事であろう。
藤野や相模湖などの駅名標を見るといよいよ帰郷したイメージとなる。普段はこうした駅を利用する機会がないはずなのに何故か我が家に戻ってきた雰囲気になるから不思議なものだ。しかも藤野と相模湖の両駅は中央線にたったふたつの神奈川県内にある駅のため尚更愛着が湧く。マイカーでは過去に何度か来ている相模湖であるが、藤野はほとんど縁が無かった。こういう機会がないと来る事が無いのである意味ラッキーであろう。

「E257系」というネーミングからして民営化後に製造された車両である事が伺える。形式の数値からして185系的な使い道の目論見が感じ取れるが、ご覧のようにホームライナーと併用されていた時期もあった。現在は「あずさ」からの運用は外れたが、「踊り子」で185系の置き換えとして現在も活躍している。
それは隣の高尾でも言えることかも知れない。高尾は通勤電車と中距離列車のボーダーラインの駅であり、塩尻、松本方面からやってくる普通列車の終点でもある。つまり、普通列車の利用の際は乗り換えが必要となるわけだ。かつては新宿まで中距離列車が乗り入れていたが、現在は高尾になったので新宿では中央線の中距離列車が見られなくなった。
ライバルの京王線も直通で新宿まで行くため高尾で境界を引くのは何となく勿体ないイメージは私の個人的な意見であるが皆様はどう思われるであろうか。
例えば湘南新宿ラインと連携すれば「古河発大月行」とか「籠原発甲府行」など面白そうではないか。または韮崎発君津行」など、未知の可能性が広がり、利用者の乗り換え回数が減り利用価値が高まるであろう。特急の運用では東京を通り越して千葉までの運用はあるが、やはり普通列車で思いきって「平塚発甲府行」などが出現したら「横浜線や相模線を経由すれば早いのでは?」などの声を頂きそうであるが、無限の可能性を秘めているので高尾で終わらすのは勿体ない❕
など考えながらいわゆる「国電」に乗り換えるために足早にホームを移動した。上田で忘れた荷物を背負いながら…

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
ただ、全く個人的感覚として115系と113系のくべつをつける時に車両正面の塗装でライト下に角度が有るか無いかで判別していた記憶であるが、JRになり個性豊かな塗装が増えたためそうした判定がしにくくなった。特にしなの鉄道の車両などは私のような判定の仕方だとほぼ判別不可能である。そうした中でも国鉄車両が健在なのは嬉しい材料であるので贅沢を言ってはいけないであろう。

吾妻線・大前で撮影した115系であるが、113系との区別をつける際に、前面の塗装で見分けていた記憶だ。こうした車両もだんだんと見られなくなっていくのは寂しい限りであるが、やはり旧い者ばかりでもよくないのかも知れない。しかしながら、やはり新しいものも取り入れてこそ、こうした旧い者がもっと輝きを増す事であろう。
藤野や相模湖などの駅名標を見るといよいよ帰郷したイメージとなる。普段はこうした駅を利用する機会がないはずなのに何故か我が家に戻ってきた雰囲気になるから不思議なものだ。しかも藤野と相模湖の両駅は中央線にたったふたつの神奈川県内にある駅のため尚更愛着が湧く。マイカーでは過去に何度か来ている相模湖であるが、藤野はほとんど縁が無かった。こういう機会がないと来る事が無いのである意味ラッキーであろう。

「E257系」というネーミングからして民営化後に製造された車両である事が伺える。形式の数値からして185系的な使い道の目論見が感じ取れるが、ご覧のようにホームライナーと併用されていた時期もあった。現在は「あずさ」からの運用は外れたが、「踊り子」で185系の置き換えとして現在も活躍している。
それは隣の高尾でも言えることかも知れない。高尾は通勤電車と中距離列車のボーダーラインの駅であり、塩尻、松本方面からやってくる普通列車の終点でもある。つまり、普通列車の利用の際は乗り換えが必要となるわけだ。かつては新宿まで中距離列車が乗り入れていたが、現在は高尾になったので新宿では中央線の中距離列車が見られなくなった。
ライバルの京王線も直通で新宿まで行くため高尾で境界を引くのは何となく勿体ないイメージは私の個人的な意見であるが皆様はどう思われるであろうか。
例えば湘南新宿ラインと連携すれば「古河発大月行」とか「籠原発甲府行」など面白そうではないか。または韮崎発君津行」など、未知の可能性が広がり、利用者の乗り換え回数が減り利用価値が高まるであろう。特急の運用では東京を通り越して千葉までの運用はあるが、やはり普通列車で思いきって「平塚発甲府行」などが出現したら「横浜線や相模線を経由すれば早いのでは?」などの声を頂きそうであるが、無限の可能性を秘めているので高尾で終わらすのは勿体ない❕
など考えながらいわゆる「国電」に乗り換えるために足早にホームを移動した。上田で忘れた荷物を背負いながら…

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
スポンサーサイト
上田で荷物を忘れてしまいましたが ③
2023-02-11
初めての中央西線であるが、次の金山では国鉄時代には無かった東海道線のホームができて乗り換えにたいへん便利になった。やや駅自体も移転して名鉄も乗り換えられるようになり国鉄時代とはイメージが一新、いずれにしてもドデカイ存在になった。
愛知県の中心部にほど近い千種を過ぎ、多治見や中津川を過ぎると旅情溢れる風景になってくる。そして中仙道らしい風景がさらに深まっていくが、南木曽や上松など、渋い駅が私を向かえてくれるのでどうしても下車したい衝動にかられてしまう。というのも、以前に家族旅行で嬬恋~南木曽などを訪れているが、どうやら我が家の家系のルーツがあるらしく、父がノリノリで中仙道を徒歩で探索した記憶があるが、私は鉄道設備が見当たらないため割りとクールだった印象だ。しかも現地までは自家用車で向かった記憶で、中央道などは恐らく全通していなかった記憶では途中の塩尻辺りでは一般道だった記憶だ。もちろん、そのような記憶はあるものの、南木曽や上松に下車したい思いというのは駅舎や鉄道設備を確認したいという思いである。

今回の旅の写真であるが、デジカメ購入前でアナログ式のキャノンAE-1プログラムでの参戦となった。そのため写真の保存が少ないため、この南木曽を始め、今後に登場する写真もウィキのお世話になる事になってしまう。という事で、この画像はウィキより拝借したものである南木曽。国鉄からJRになり、昔のイメージとは打って変わって中山道の宿場町の雰囲気を充分に醸し出す駅舎に変身している。
恐らくそのクールさから翌年のブルートレイン「富士」による九州の旅に繋がり私のご機嫌を取ろうという作戦だったのかも知れないか、いずれにしても中仙道よりも当然ながら「富士」の方が俄然テンションが上がったわけだから、父にしたら大成功と感じたであろう。理由はどうあれ、寝台特急に人生初で乗車させていただいたのだから感謝しなければならない。
そんな記憶のある中仙道~木曽福島辺りを列車ではあっという間に過ぎてしまう。もちろん「しなの」であれば瞬であろうが、普通列車ではその歩みも緩やかになり懐かしい思い出が甦る。ただ、外国人観光客にも人気のある妻籠付近を私は電車でスルーしなければならないのは・・・そう、旅の目的は観光ではなく鉄道路線を制覇する事だ。

これは私が撮影した特急「しなの」であるが、上の南木曽と比べてもらえば一目瞭然、こちらの写真は「Canon AE-1プログラム」というアナログ式のカメラで撮影したものである。国鉄時代は日本初の振り子式特急電車として381系で運転され話題となった。その後紀勢本線での「くろしお」や、伯備線の「やくも」などで活躍していた381系であるが、現在の「しなの」はご覧の383系に変わり、いかにもJR東海っぽい姿に変った。
さて、木曽福島より先は更に山深くなり、国鉄時代には381系の振り子式電車の提案、開発した意味が納得できるような景色が車窓を賑わせていた。日本は意外にも山岳国家であるため、太平洋側と日本海側との間には大きな山が蔓延っている。その間を移動する際には必ず山越えをしなければならない。これは我々日本人に与えられた試練なのであろうか。先人の方々は、特に鉄道を敷設する際にはスイッチバックやループ線など、勾配に弱い鉄道を何とか活かそうと必死であったに違いない。特に上越線や肥薩線などは、上から来る要求や指令に現場は応えなければならない訳であるから設計も敷設もなみなみならぬ苦労があった事であろう。更に北海道などは厳しい環境や気候にも耐えなければならず、現在のように重機や技術も発達していない時代での「鉄道を敷く」という作業は、まさに命懸けであろう。
そんな歴史を噛み締めていると、なんだか鉄道という文化や歴史が偉大に見えてきた。まもなく塩尻到着のアナウンスが聞こえてきたが、国鉄末期に大改造ビフォー・アフターを敢行した駅だ。何度か紹介しているが、当時、鉄道技術の集大成を全面に押し出したイメージで迎えた現在の姿は、30年以上経った現在でも活きている。その姿は、まさにかつての格闘アニメの如く、一子相伝的に現在まで受け継がれ、そして活躍している。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
愛知県の中心部にほど近い千種を過ぎ、多治見や中津川を過ぎると旅情溢れる風景になってくる。そして中仙道らしい風景がさらに深まっていくが、南木曽や上松など、渋い駅が私を向かえてくれるのでどうしても下車したい衝動にかられてしまう。というのも、以前に家族旅行で嬬恋~南木曽などを訪れているが、どうやら我が家の家系のルーツがあるらしく、父がノリノリで中仙道を徒歩で探索した記憶があるが、私は鉄道設備が見当たらないため割りとクールだった印象だ。しかも現地までは自家用車で向かった記憶で、中央道などは恐らく全通していなかった記憶では途中の塩尻辺りでは一般道だった記憶だ。もちろん、そのような記憶はあるものの、南木曽や上松に下車したい思いというのは駅舎や鉄道設備を確認したいという思いである。

今回の旅の写真であるが、デジカメ購入前でアナログ式のキャノンAE-1プログラムでの参戦となった。そのため写真の保存が少ないため、この南木曽を始め、今後に登場する写真もウィキのお世話になる事になってしまう。という事で、この画像はウィキより拝借したものである南木曽。国鉄からJRになり、昔のイメージとは打って変わって中山道の宿場町の雰囲気を充分に醸し出す駅舎に変身している。
恐らくそのクールさから翌年のブルートレイン「富士」による九州の旅に繋がり私のご機嫌を取ろうという作戦だったのかも知れないか、いずれにしても中仙道よりも当然ながら「富士」の方が俄然テンションが上がったわけだから、父にしたら大成功と感じたであろう。理由はどうあれ、寝台特急に人生初で乗車させていただいたのだから感謝しなければならない。
そんな記憶のある中仙道~木曽福島辺りを列車ではあっという間に過ぎてしまう。もちろん「しなの」であれば瞬であろうが、普通列車ではその歩みも緩やかになり懐かしい思い出が甦る。ただ、外国人観光客にも人気のある妻籠付近を私は電車でスルーしなければならないのは・・・そう、旅の目的は観光ではなく鉄道路線を制覇する事だ。

これは私が撮影した特急「しなの」であるが、上の南木曽と比べてもらえば一目瞭然、こちらの写真は「Canon AE-1プログラム」というアナログ式のカメラで撮影したものである。国鉄時代は日本初の振り子式特急電車として381系で運転され話題となった。その後紀勢本線での「くろしお」や、伯備線の「やくも」などで活躍していた381系であるが、現在の「しなの」はご覧の383系に変わり、いかにもJR東海っぽい姿に変った。
さて、木曽福島より先は更に山深くなり、国鉄時代には381系の振り子式電車の提案、開発した意味が納得できるような景色が車窓を賑わせていた。日本は意外にも山岳国家であるため、太平洋側と日本海側との間には大きな山が蔓延っている。その間を移動する際には必ず山越えをしなければならない。これは我々日本人に与えられた試練なのであろうか。先人の方々は、特に鉄道を敷設する際にはスイッチバックやループ線など、勾配に弱い鉄道を何とか活かそうと必死であったに違いない。特に上越線や肥薩線などは、上から来る要求や指令に現場は応えなければならない訳であるから設計も敷設もなみなみならぬ苦労があった事であろう。更に北海道などは厳しい環境や気候にも耐えなければならず、現在のように重機や技術も発達していない時代での「鉄道を敷く」という作業は、まさに命懸けであろう。
そんな歴史を噛み締めていると、なんだか鉄道という文化や歴史が偉大に見えてきた。まもなく塩尻到着のアナウンスが聞こえてきたが、国鉄末期に大改造ビフォー・アフターを敢行した駅だ。何度か紹介しているが、当時、鉄道技術の集大成を全面に押し出したイメージで迎えた現在の姿は、30年以上経った現在でも活きている。その姿は、まさにかつての格闘アニメの如く、一子相伝的に現在まで受け継がれ、そして活躍している。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村