題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑥
2023-06-17
「ばんえつ物語」と題しておきながらなかなか「ばんえつ」にたどり着かないのは前章の「木綿のハンカチーフ」のような展開になってしまったが・・・「ばんえつ物語」登場まで今暫くお待ちいただければ幸いである。
ところで、私のブログでは全線制覇に向けての過去の旅行程を紹介しているが、1984年に赤谷線を訪問した際の旅行程が抜けていたので追加させていただいた(こちらより)。

1984年3月に廃止された赤谷線は、新発田~東赤谷を結んでいた。いわゆる「83線区」に指定され、相模線の寒川支線と同時期に「リバプールの風」となったが、ちょうどこの時期はこうした廃止路線がある意味「ブーム」となっていたのは皮肉なものである。
その旅では確かな記録が手元に無かったため、記憶をたどり時刻表と照らし合わせながら作業させていただきアップした。その中でやや連絡接続が比較的よろしく無いようであったが、考え方次第では弥彦線の廃線区間である東三条~越後長沢の区間を制覇しても赤谷線の乗車には充分に間に合う事が判明した!同区間の制覇をしないまま廃線を向かえてしまったため非常に悔いが残って仕方がない。まだ子供だったので仕方がないが、それにしても柔軟性や可能性の広げ方に対して視野が狭い自分を改めて感じてしまったわけだ。その区間だけでも乗車していればまた一味違った旅になっていたであろうが…

何故か信越本線の鯨波にあった魚沼線の痕跡。魚沼線とは信越本線の来迎寺から西小千谷間を結んでいた路線で、赤谷線や相模線の寒川支線と同時期に廃止された。終点の西小千谷は小千谷市のほぼ中心部に近かったが、長岡へ行くのには信越本線を経由するためやや遠回りになる事と、川を挟んだ対岸には上越線の小千谷があり、長岡方面や東京方面へは当時、在来線特急「とき」や急行「佐渡」等頻繁に停車していたため利用者は少なく、更に併走する競合バス路線などもあり、魚沼線自体、鉄道としての役割や意味が薄くなっていた。だが、なぜ鯨波でこうしたアピールがなされていたかは不明である。
赤谷線制覇の際には、同じく同時期に廃止が発表されていた魚沼線も一緒に計画に組み込みたかったのだが、どう踠いても赤谷線と魚沼線の両方を組み込む事ができずにいたので、結局赤谷線を選ぶ事になった。だが、弥彦線の廃線区間は完全にその影に隠れてしまい、私の頭の回転の無さを引きずったまま現在に至ってしまったのを今さら気付いても仕方がない。後はドラえもんにでも頼むしかないであろう。
久々の吉田より越後線で新潟へ向かう。前回越後線に乗ったのは1982年8月で電化直前だったので気動車であった。ただ、新潟付近は、特に内野~新潟間は利用者も多く、気動車では限界でもあったであろう。上越新幹線開業に合わせて電化されたが、それは当然の流れであった。ただ、当時は子供ながらに吉田での弥彦線と越後線の交差処理が非常に気になった。平面なのか立体なのか…
もちろん、現在は既に答えは出ているが、当時はさぞかし複雑であろうと期待感ワクワクだったが、いざ現地に着いてみると、ある意味非常にシンプルだったのでやや拍子抜けした感があった。

いよいよ新潟より「ばんえつ物語号」に乗車する。やはりSLはどこへ行っても人気者であるが、運転する方は想像以上の労力が必要とされよう。石炭を燃やしながら水蒸気のチカラで列車を動かすという古典的な動力がなぜこの時代まで動態保存されているのか・・・世代が変わってもSLに対する人々の思いは変わらないという事であろう。
さて、ようやく新潟へ着いた。いよいよここよりばんえつ物語号の待つホームへ向かう。新幹線開業前に在来線ホームがリニューアルされたが、当時のままの姿でほぼ変わらずJRに引き継がれていたのは懐かしかった。現在は高架化されますますパワーアップした新潟であるが、高架化された事でホームから万代橋はみえるのであろうか…
ところで、私のブログでは全線制覇に向けての過去の旅行程を紹介しているが、1984年に赤谷線を訪問した際の旅行程が抜けていたので追加させていただいた(こちらより)。

1984年3月に廃止された赤谷線は、新発田~東赤谷を結んでいた。いわゆる「83線区」に指定され、相模線の寒川支線と同時期に「リバプールの風」となったが、ちょうどこの時期はこうした廃止路線がある意味「ブーム」となっていたのは皮肉なものである。
その旅では確かな記録が手元に無かったため、記憶をたどり時刻表と照らし合わせながら作業させていただきアップした。その中でやや連絡接続が比較的よろしく無いようであったが、考え方次第では弥彦線の廃線区間である東三条~越後長沢の区間を制覇しても赤谷線の乗車には充分に間に合う事が判明した!同区間の制覇をしないまま廃線を向かえてしまったため非常に悔いが残って仕方がない。まだ子供だったので仕方がないが、それにしても柔軟性や可能性の広げ方に対して視野が狭い自分を改めて感じてしまったわけだ。その区間だけでも乗車していればまた一味違った旅になっていたであろうが…

何故か信越本線の鯨波にあった魚沼線の痕跡。魚沼線とは信越本線の来迎寺から西小千谷間を結んでいた路線で、赤谷線や相模線の寒川支線と同時期に廃止された。終点の西小千谷は小千谷市のほぼ中心部に近かったが、長岡へ行くのには信越本線を経由するためやや遠回りになる事と、川を挟んだ対岸には上越線の小千谷があり、長岡方面や東京方面へは当時、在来線特急「とき」や急行「佐渡」等頻繁に停車していたため利用者は少なく、更に併走する競合バス路線などもあり、魚沼線自体、鉄道としての役割や意味が薄くなっていた。だが、なぜ鯨波でこうしたアピールがなされていたかは不明である。
赤谷線制覇の際には、同じく同時期に廃止が発表されていた魚沼線も一緒に計画に組み込みたかったのだが、どう踠いても赤谷線と魚沼線の両方を組み込む事ができずにいたので、結局赤谷線を選ぶ事になった。だが、弥彦線の廃線区間は完全にその影に隠れてしまい、私の頭の回転の無さを引きずったまま現在に至ってしまったのを今さら気付いても仕方がない。後はドラえもんにでも頼むしかないであろう。
久々の吉田より越後線で新潟へ向かう。前回越後線に乗ったのは1982年8月で電化直前だったので気動車であった。ただ、新潟付近は、特に内野~新潟間は利用者も多く、気動車では限界でもあったであろう。上越新幹線開業に合わせて電化されたが、それは当然の流れであった。ただ、当時は子供ながらに吉田での弥彦線と越後線の交差処理が非常に気になった。平面なのか立体なのか…
もちろん、現在は既に答えは出ているが、当時はさぞかし複雑であろうと期待感ワクワクだったが、いざ現地に着いてみると、ある意味非常にシンプルだったのでやや拍子抜けした感があった。

いよいよ新潟より「ばんえつ物語号」に乗車する。やはりSLはどこへ行っても人気者であるが、運転する方は想像以上の労力が必要とされよう。石炭を燃やしながら水蒸気のチカラで列車を動かすという古典的な動力がなぜこの時代まで動態保存されているのか・・・世代が変わってもSLに対する人々の思いは変わらないという事であろう。
さて、ようやく新潟へ着いた。いよいよここよりばんえつ物語号の待つホームへ向かう。新幹線開業前に在来線ホームがリニューアルされたが、当時のままの姿でほぼ変わらずJRに引き継がれていたのは懐かしかった。現在は高架化されますますパワーアップした新潟であるが、高架化された事でホームから万代橋はみえるのであろうか…
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題名の無い鉄道旅 part1 ばんえつ物語号 ⑤
2023-06-10
白新線から新発田へ抜け、坂町で折り返し再び羽越線に乗り新津を目指す。これより弥彦線を制覇するるためであるが、弥彦線制覇のためにわざわざ新発田へ出るなど、普通ならこのような鉄道利用をする方はいないであろう。しかし、単純に「乗りつぶし」という己の道楽をあえて貫くために、当時未制覇だった新発田~坂町にたどり着かなければならない。だがしかし、後年に寝台特急「あけぼの」でも制覇したのであえてこのタイミングで行く必要があったかは別として、これで1983年以来の羽越線全線制覇となったわけだ。
さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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さて、白新線は運転頻度が高く、しかも特急列車も運転されているため新発田~新津間の羽越線は乗りつぶし派には意外にも落とし穴的な同区間であるが、かつては寝台特急や特急列車が新潟へ寄らずに同区間を走る列車があり、さりげなく制覇していた方も少なくないであろう。だがやはり、何気に普通列車での制覇の方が味があって良い。以前に私が赤谷線制覇の際に、その行程で新発田~新津間を旧型客車で制覇した場面もあったが、今回はロングシートによる「三沢式フェイスロック」での再訪となった。やはりロングシートで車窓を眺めるという事はかなりの労力を必要とする(プロレスファンではない方には伝わりにくいが・・・)。

別の日に上越新幹線でやってきた新潟であるが、開業から30年以上経って初めて上越新幹線を新潟まで制覇した。この訪問後に在来線も高架化され、更に進化した新潟の今後に期待したい。
同区間の中心的な存在である水原も、通学時間に差し掛かろうという時間帯であるが、新潟方面へのアクセスが賑やかな海岸沿いに比べ実に穏やかな時間が過ぎていた。ちなみに水原は「すいばら」と読む(だが、決して水曜バラエティではない)が、水原と聞くと、我々世代では某製薬会社の殺虫剤で、街中のホーロー看板に登場するシーンを思い出す(こちらは「みずはら」と読むが)。現在でもレトロ調のお店などで見かける場合があるのは嬉しい限りであるが、ペアで「渦巻」の看板も見かけると尚更嬉しい。
車窓は穏やかな時間ではあるが、こちらは小刻みに乗り換えをするために慌ただしい時間が過ぎていた。新潟より新発田~坂町~新津と歩んでいるのに、今いる新津では何とまだ、朝の6時台である!いかに乗り換えがスムーズかお分かりであろう。そのスムーズな乗り換えは更に続き、東三条より弥彦線へと繋がっていく。

今回の旅で弥彦で撮影した115系であるが、2022年に定期運用を終了してしまった。上越新幹線開業とともに電化され導入された車両であるが、こうして当たり前だった風景が見られなくなるのは寂しい限りだ。
上越新幹線開業に合わせて電化された弥彦線であるが、国鉄時代からご存じの方は、現在の弥彦線の姿とはやや異なっていた事が記憶の片隅にあるであろう。弥彦線は信越本線と越後線を縦に貫く形で敷設されているが、実は東三条から更に南に伸びる路線が存在した。もちろん電化されること無く葬り去られてしまったが、今思えば、弥彦線のなかでも特殊な存在であり、地図上での、そして戸籍上での「弥彦線」としてのくくりでは収められない、何か特別な輝きがあった。播但線でいう「飾磨港」や、福知山線でいう「尼崎港」のような異端児的な輝きは薄いものの、しっかりとしたバイプレーヤー的な存在であった。もちろん支線ではなかったので列記とした起点駅であったが、なくなってしまうとやはり鉄道地図に不自然さが残る。そんな鉄道地図には載っていない弥彦線の終点駅は越後長沢と名乗っていた。

そしてこちらはウィキペディアによる現在の越後長沢「駅跡」である。ご覧のように現在はバス停留所の待合室として第二の人生を送っているが、名称が非常にわかりやすいのでビギナーでもここに鉄道の歴史があったと感じる事ができる。ただ、数々の国鉄赤字路線が廃止されバス転換された中、そのバス運営もかなりの苦戦が強いられている。中にはバスも廃止されてしまう場面も少なくなく、国鉄時代の赤字路線をそのまま受け継ぐのがいかに大変かという事が近年に特に顕著になってきている。
国鉄時代に越後長沢への訪問ができなかったのは悔いが残るが、電化後にウン十年経ってから初めて訪れた弥彦線は、国鉄色豊かな路線であった。
早速東三条より北上し弥彦に向かう。途中、新幹線と交差する燕三条に寄るが、周知の通り新幹線開業と同時にできた駅である。お陰で浦和ほどではないが、ひとつ間違えば戸惑いそうな駅名の数々なのに、またひとつ駅名が増えて、更にややっこしくなったイメージである。
そして隣の燕からはかつて新潟交通が新潟県の中心部までレールを伸ばしていた。白山下から県庁前までは路面電車的な軌道となっており、異色な路線であったが、それは既に「リバプールの風」となっており、昭和の思い出となってしまった。こうして弥彦線ひとつ乗るだけでも色々な思いがフラッシュバックしてくる。
1982年に訪れた吉田を過ぎまもなく弥彦に着こうとしている。弥彦は全く初めて訪れる駅なのに、なぜか懐かしさと親しみを感じずにはいられなかった。

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