国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑤ 越後中里
2023-10-21

群馬から国境の長いトンネルを抜け最初に大きな文明を感じるのはここ越後中里であった。もちろん、シーズンにはメッカとして活躍するであろうが、鉄道での役割は既に過去においてほぼ終了しており、現在はローカル輸送を中心に活躍している。
駅舎や駅前もその昭和の風景にマッチするようなイメージで現在に至っており、初めて来た場所なのになぜか懐かしささえ感じてしまった。



到着するなり早速駅舎内に入ると・・・ご覧の通り、昭和の風景満載であった!
新幹線開通前は急行や特急など在来線の優等列車が頻繁に走る中、越後中里にもシーズン問わず一部の列車が停車していたので、私の中ではそういう「位置付け」なっていた。
そして今回、いざ訪問してみたら、なんと国鉄時代の面影をほぼそのままに残したイメージであった。有効長の長いホームが当時の盛栄を無言で語りかけており、現在のJRでの編成ではホームを持て余してしまう。この事は上越線の各駅に言える事であろうが、いや、上越線に限らず全国各地の鉄道路線に言える事であるが、とにかく適正な車両数、適正な編成により極力経費を抑えるような経営努力は国鉄時代にはあまり見られなかったイメージであるが、それでも輸送量の減少により苦しい戦いを強いられている。そして鉄道自体の価値や意味も少しずつ変化してきている。

某ロックアーティストの大ファンの私からすると、一瞬「オッ!」と思わせるような張り紙が貼ってあった。こうしたアピールを見ると久々に私もひと滑りしたい気持ちになってくる。
実は、レールファン休業中に私は上越方面や信越方面によくスキーに出掛けた。ちょうどスキーからスノーボードへ人気が移り変わる時代であったが、その時は当然ながらマイカーであり、シーズンによく運転されていた「シュプール」などには全く乗車したことはない。ただ、現在のように圏央道は無く、神奈川から関越道に乗るには16号線で川越まで出るか、第三京浜から途中一般道を挟み練馬から関越道に乗るしかなかった。そしてようやく外環道と首都高、そして関越道がつながり一般道を挟まずに関越道に乗れる時代が来たと大変喜んでいた時代であった。現在は圏央道と関越道が繋がっており、非常に便利になり到達時間が飛躍的に向上した。
つまりこうした一連の流れひとつ取ってもわかるように、既に「シュプール」の時代は終わっていたのだ。恐らく、現在もシュプールが運転されていたとして、レールファンに返り咲いた私がスキーに行くとしてもやはりマイカーを選択するであろう。マイカーを使わないとしても、格安の夜行バスなどにシフトするであろうかもしれないが、やはり苗場や神立へのスキーは列車だと不便だ。

私の訪問時である7月では仮眠、いや「夏眠」状態であった。だが、やや小柄なイメージであるが・・・
国鉄からJRになり、大きく役割が変化した上越線だが、人々の鉄道利用にもここ数十年で大きな変化がみられ、ハッキリとした形になってきた。優等列車は全て新幹線に変わり便利になった一方で、在来線などで活躍した優等列車も去っていき、レールファンからすれば華やかさやバラエティー感が薄くなってしまったイメージになった。
しかしながら越後中里のホームに立つと、何故か懐かしいあの時代の風景が甦ってきた。某新幹線の駅前にはかつての総理大臣の銅像があると聞いている。上越新幹線は彼の象徴でもあるイメージではあるが、私は新幹線でもなく、SLでもなく、何故か上越新幹線開通前のL特急が華やかだったあの時代が好きだ。そんな時代を知る私は越後中里に呼ばれたのだろうか。

にほんブログ村

にほんブログ村

にほんブログ村
続きを読むでホーム風景がご覧になれます。
スポンサーサイト
国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編④ 岩原スキー場前
2023-10-14

記録的な猛暑の報告を各所より聞く2023年夏に今回の旅は慣行されたが、そんな中、私はスキー場へ行ってきた。といってもスキー場「前駅」であるのでゲレンデは無いが、いや「スキー場前」と名乗っているのだから目の前にゲレンデがあるはずであろうが、残念ながらその確認ができなかった。どうやら駅より若干離れているらしい。
確かに、駅に到着する前にはスキー施設や宿泊施設を通り抜け駅に到着した。つまりそこが岩原スキー場だったのかと後にわかった。



バブル期にはお隣の神立高原スキー場(現・神立スノーリゾート)へは度々訪れていたが、岩原スキー場はもしかしたら一度スキーに来たかも知れない記憶がある。付近には宿泊施設が多数あるが、駅はその外れにあった。
岩原スキー場「前駅」の駅舎、というより待合室は、かつて臨時駅だったとは思えないほど立派な造りであった。ちなみに、ご存知かと思われるがあえて解説すると、この岩原は「いわっぱら」と読む。
さて、この岩原スキー場前駅であるが、先述通り私の知る限りではスキー場の営業日に合わせて営業される、いわば「臨時駅」であったが、いつからかスキーシーズンに限らず通年営業していたので毎日営業の臨時駅ということになる。JR化の際に昇格し通常の旅客駅として営業しているが、現在では上野から直通でやってくる列車は定期便では皆無となり、更に高速道路による夜行バスやマイカーでの往来が非常に便利になった事で「電車でスキーに行く」という昭和の常識はほとんど見かけなくなってしまった。もちろん、近年のそれは新幹線による「ガーラ」が担っているであろうが、いずれにしても夜行列車の廃止等によりそのポジションは薄れていった。



駅舎内に入ってみた。私のイメージでは「常設の臨時駅」であったが、JRになり旅客駅に昇格。以前に窓口があったと思われる場所は掲示板で閉ざされ「スキー場前」という駅名があまり感じない雰囲気を醸し出してた。
という時代の流れの中で取り残されてしまったような岩原スキー場前「駅」であるが、周辺には若干の民家や、なんとリゾートマンションもありさながらバブル時代を思い出させる。そのため若干の定期的な利用者がありそうな雰囲気であるが、私の訪問時には独占状態であった。
ホームは2面2線で、下りホームは島式ホームであるが、上り側に鉄柵が施され片側しか使用できないようになっている。そして上野からの臨時列車め停車できるようにホームの有効長は長く、現在のJR形編成ではやや持て余してしまいそうな国鉄型ホームが時代を感じる。かつてはスキー客用の臨時列車「シュプール」が各スキー場方面へ運転されていたが、岩原スキー場前には停車したのだろうか記憶が薄いのだが・・・



プラットホームへ出てみた。有効長が長いホームがかつての盛栄を無言で語りかけていた。国鉄時代は「毎日営業の臨時駅」であったが、臨時駅にしてはかなり立派な造りである。
実は今回の旅で、越後湯沢を出て最初に到着したのがここ岩原スキー場であった。スキー場なのに何故か暑い・・・この奇妙な現象の中、私の「国境越え」はまだまだ続くのであった。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
「続きを読む」で下りホームの風景をご覧になれます。
国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑥ 湯檜曽
2023-09-23

国境越え3駅の中で最も文明を感じることができるのは湯檜曽であろう。駅前には郵便局があり、更に車で5~6分くらい下れば道の駅もある。
今回私が訪問したタイミングによるものであろうか、やはり定期的な利用者ではない乗客がほぼシェアしていると思われかなりのギャラリーを感じることができた。



モダンな駅舎に生まれ変わった湯檜曽。かつてのログハウス風の駅舎のイメージは全く無いが、基礎部分にその雰囲気を感じることができる。すぐ隣には郵便局があり、駐車場を共用しているイメージであった。
近年に駅舎を建て替えたばかりでかつての国鉄式駅舎のイメージは全く無いが、ひとたびホームへ出るとそのイメージは全く異なるものとなる。この駅も土合と同様に上りホームと下りホームが分かれており下りホームはトンネル内にあるが、駅舎からホームまでは460段以上の階段は無く、短い通路を伝ってすぐにホームに到着する。そして何と、駅舎に入った途端、一気に冷風が舞い込み汗だくの私を大きく包んでくれたのだ。恐らく25~26℃くらいと思われ、外部の気温と比べるとかなり涼しい。つまりトンネル内からの冷たい冷気が天然の冷房となり、猛暑の中の訪問客を心地よくしてくれているのだ。トンネル内は恐らく冬季も外気より気温が暖かいと思われ、天然の空調による経済効果は絶大であろう。これは経営者側も大きな経費節約になると思われ、それこそ「トンネル効果」であろう。



駅舎内は以外にシンプルであるが、清潔感もあり新しさをとても感じる。この駅舎内に入ったとたん、とても冷たい空気が流れてきた。つまり下りホーム側から天然の冷風が舞い込んできて一気に猛暑の苦しみから逃れる事ができたのだ。
ところで先程「文明を感じる」と述べたが、旅客輸送のみで鉄道会社が潤うであろうほどの文明を感じる事は比較的難しい。やはり中心は登山者や私のような「専門家」が利用者数をシェアしていると思われるが、首都圏から近いこともありその数は少なくないイメージであった。私の訪問時にも、下りホームには少なくとも10人以上が列車を待っていたし、駅前にも登山者が絶え間なく歩いていたイメージであった。つまりこうした事情によりこの地に駅が設置されているのだなと改めて感じることができた。それはちゃんと意味を持っているんだよ、との無言のアンサーだったのかも知れない。増して18きっぷのシーズンでもあったため、それ以外の利用者も不特定多数いたことになる。もちろん、その中に私の「一名」が含まれているが…



地上ホームは築堤というか一段高い場所にある。一面一線ではあるが、架線柱をご覧いただくともう一本レールがあるイメージだ。ちょっと古い資料で調べてみたら、上下線の渡り線的な役割をする線路があったらしい。ただ、30年以上前には既に役割を終えていたらしいので、いまだその遺構が感じる事が出来るのは嬉しい材料である。
さて、地上ホームであるが、一面一線のシンプル構造であり築堤上にある。ウィキによるとこの湯檜曽は移転後の新しい駅であり、かつての湯檜曽は北湯檜曽信号場として閉塞的な役割として使用されていたらしい。恐らく列車本数に応じて列車の待避など行われていた可能性もあるが、新幹線開通後の1984年に廃止されたらしく、ほとんど使用されていなかったと思われる。ただ、現在も遺構などが若干残っていると聞いているので是非とも訪れてみたかったが、恐らく一般の進入は禁止であろうと思われ、大掛かりな許可をいただくが、保線員としてJR東日本に就職する以外にこの地の訪問は難しいと思われる。
特にSL時代には相当の苦労があったと思われる水上~越後湯沢間であるが、新清水トンネルの開通や大清水トンネル開通による新幹線の恩恵を受け、国境越えが非常にスムーズになった。もちろん、関越トンネルによる高速道路の存在も忘れてはならないが、いずれにせよ、いくつもの難題を乗り越えて現在に継承してくれている先輩方の英知と勇気、そして決断に感謝したい。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
続きを読むをクリックすると下りホームの様子がご覧になれます。
国境の長いトンネルを抜けると、そこは「ぐんまちゃん」だった。上越編⑤ 土合(後編)
2023-09-16

さて、今回は土合の下りホームへのアプローチとなる。東京方面からの場合には土合は群馬県最後の駅となるが、長野県側から来る場合は群馬県に入って最初の駅となる。
下りホームは新清水トンネル内にあるのは既に先告ご承知の通りであるが、真夏の炎天下での参戦となればこの特殊な構造はかなりの恩恵を受ける事であろうとかなりの期待が持てる。




駅舎よりちょっとした通路を通り、いよいよ462段へと向かう。まるでジェットコースターが一気に加速する前に登る坂道の如く、前置きが少々長い。
だが、実際はちがった。実は土合に来る前に湯檜曽へ寄ったが、トンネル内の下りホームは通路に入った瞬間に物凄い冷気を感じ、天然クーラーが効いているイメージであったが、土合の場合はホームへ繋がる階段ではむしろ湿度が高く湿気ているイメージが強い。そのため冷気をさほど感じることができずホームへのアプローチにやや負担がかかってしまった。それでも駅舎から下りホームへは下り階段のためさほど体力を使わないが、下りホームから駅舎へ伝う場合は上り階段となるためスタミナのロスが大きい。私はそれを覚悟の上、下りホームへと向かった。




「人生は振り返らずに前進あるのみ!」とは言うものの、時には振り返るのも必要だ。私は下り階段で下りホームへ向かう際に何度も振り返って撮影していた。ご覧の通りシーズンともありギャラリー多数!
同伴の妻は駅舎で待ってもらい、私は人生で2度目となる土合下りホームへの階段を下り始めた。先述通りギャラリー多数・満員御礼であるが、すれ違う登り階段ギャラリーは皆全て疲労の表情を隠せずにいた・・・とにかくギャラリーが多いため、なんとなく四国88ヶ所巡りかなと錯覚を起こしてしまいそうな感じであった。いや、軽装備による登山であるならむしろこの土合の方が都合がいいのではないか。かつて首都圏某所にあった人工雪スキー場「ザウ○」のような感覚で、気軽に列車で訪れ登山ができる。これは素晴らしい事だ。
そして登山に疲れたら、駅舎内には喫茶店、そして駅前にはドライブインなどの飲食店があり、何かと重宝する。まさに、私が今回訪問したタイミングは「18」のシーズンだったため、そうしたギャラリーも多かったはずだ。


階段は5段ずつで区切られているので何段登ったかがわかりやすいのだが、その分歩数も多くなり462段以上の歩数が必要になってくる。
さて、今回は下りホームの紹介だが、先述通り待避線側にあったホームが本線上に新設され待避線側のホームは使用できなくなった。つまり待避線が撤去された事を意味するが、旧ホームはまだ残っており、かつての土合を感じることができる。ただ、WCは閉鎖されたため、用を足したい方は駅舎まで移動しなければならない。場合によってはある種の試練かも知れないが、基本、経営者側は極力経費や維持費を押さえたいわけだからいざ仕方ない事であろう。
ところで、下りホームからの帰り道の事である。下ってきた462段の階段を、今度は登らなければならない。その階段を登っていて気がついたのだが、先述通り、駅舎へと繋がる長い階段は5段ずつ区切られて一旦階段がなくなる。つまり5段登ったら2~3歩歩いてまた5段を登るというパターンの繰り返しとなるわけだ。要するに、帰りの登り階段は必要以上にスタミナをロスする。あの「無尽蔵のスタミナ」といわれたジャンボ鶴田もこの登り階段を見たら唖然とするであろう。階段を見上げるとゴールは遥か彼方にある。460段越えの階段に対しこのパターンを何回繰り返せばいいのか・・・計算したら気が遠くなった。







ようやくホームへ到着した。ご覧の通り、待避線のあった場所にホームが新たに作られ本線と接する形になった。つまり列車待避が必要なくなった、又は待避しなくてもいいようにダイヤを整理した結果を表わす象徴と言えるであろう。新たに設置されたホームは短編成での対応のみ可能となったが、トンネル内のホームであるという特徴的な独特ムードは昔も今も変わらない!
200段目に近づいた頃であった。ホームに列車が通過又は到着したらしく、ホーム側から一気に強り風圧がこみ上げ辺り一帯が白く曇りだした。強烈な風圧だったので恐らく貨物列車の通過であったと思われるが、その風圧によりトンネル内の冷たい空気が押し上げられ階段の暖かい空気と融合し、水蒸気が冷却された結果だと思われる。確かに、ホームへ繋がる通路は猛暑の余韻を感じていたが、ホームに到着する2~3段前くらいの階段の位置からは空気が冷たくなり、天然の冷房感を感じた。つまりホームと階段にはかなりの温度差があったわけだ。そこへ貨物列車の通過があり上下の空気が混ざり合ったわけである。
確かに、下りホームへ繋がる階段はかなりの湿気を感じたのは先述通りであるが、こうした化学反応(とはオーバーかもしれないが)が見られるのもこうした構造ならではである。
何れにしても、現世まで生き残っているのは奇跡としか思えないこの土合の風景は来世にも同じ姿で末長く残っていただきたいものである。

FC2 Blog Ranking

にほんブログ村

にほんブログ村
国境の長いトンネルを抜けると、そこはぐんまちゃんだった。上越編④ 土合(前編)
2023-09-09

上越線の土合と言えば知る人ぞ知る、いや、私が説明するまでもなく大変有名な駅である。ご存じの通り、土合は日本一のモグラ駅として名高いが、下りホームと駅舎をつなぐ通路には460段以上の階段があり、ダイエット効果は抜群である。また、トレーニングにも最適で、やたらと下手なジム通いをするよりもかなり効果的であろう。
歴史の紐を解くまでもなく下りホームが後付けとう事は明白であるが、上りホームは単線時代から受け継いでいた交換設備が新清水トンネル開通後も待避線として暫く使われてきたイメージになる。現在は上り・下りホーム併せて棒線化されているが、上りホームは島式ホームの片側は鉄柵が施されている。ただ、島式ホームだった面影もややとどめており、除雪用のラッセルの格納庫と思われる部分へ繋がる側線は残されかつての名残を感じる事もできる。



お馴染み、土合の駅舎風景である。夏休みともあってギャラリー多数!基本的に登山客が中心となる性格の駅であるが、ご覧の通り、登山に向かうにはちょっと軽装備な利用者も・・・
さて、今回も2回に分けて紹介したいが、まずは地上部分の紹介である。もともとこちらが本家本元の土合であり、単線だったため信号場としてのスタートだったと聞いているが、私はその頃にはまだこの世に存在していなかったため新清水トンネルが開通し「とき」や「佐渡」などの花形列車が活躍した時代からが私のテリトリーとなる。また、寝台急行「天の川」や急行~特急「鳥海」などもここを通過していったと思うと何だか感慨深い。


国鉄型の風景が今も残る。もちろん、以前は職員が対応するシーンも見られたであろうが、正直、もし私がこの駅の勤務を任されたら、特に夜間などは業務を全うできるか心配なイメージだ。
私が初めて土合に訪れたのは1982年の夏で、何と長岡夜行での訪問であった。ただ、当時は予定の都合から下車できず、ただ窓越しに確認するのみにとどまってしまった。実際に下車したのは2008年3月で、まだ雪が残る土合の上りホームに降り立った。だが今回は真夏の炎天下の中での参戦のためできれば日射を避けたい思いで溢れていた。ただ、前回と今回の訪問で決定的に違うのは積雪の有無の他に、やはり先述通り交換設備(待避線)が外された事だった。

待合室もあるが、連日の猛暑日の中の訪問ではこの場所も例外ではない。空調設備がないので、ある意味自己防衛の世界になるが、日差しが直接当たる場所と比較するとその差は一目瞭然であるため、この場所があるだけでもありがたい。
私が知る限りでは、新清水トンネルが開通し複線化されて以降、上り島式ホームの片側はほとんど使用される事は無かった記憶であるが、これは下りホームにも言える事で、新幹線開通以降、列車本数の減少と共に列車の退避が不要になったという事である。
この事は土樽の章でも既に述べた通りで、優等列車は全て新幹線にシフトしてしまったため在来線が無用の長物になってしまったイメージになってしまった。もちろん、貨物輸送に関しては現在も大動脈であることには変わりないが、特に土合では下りホームはトンネル内のため維持管理も大変であろう。
ただ、貨物列車も減少すれば単線化や、それこそ廃止のような事態にもなりかねない。もちろん私はそのような事を望まないので、ぜひ今後も活躍していただきたい国境越えである。
「続きを読む」をクリックすると、上りホーム風景がご覧になれるので是非!