夏色の相模鉄道③ 相鉄いずみ野線
2020-07-10
相鉄いずみ野線は二俣川から分岐されるが、開業当初から旅客輸送を目的として建設され、神中鉄道時代における砂利輸送などの貨物を主体とした輸送とは全く異なり、完全に将来を見越した設計となっている。
もともとは現在の湘南台より更に進み香川付近で相模線と交差し平塚まで到達する延伸計画があるのは有名な話であるが、新幹線が倉見付近に駅を新設する計画が浮上したのを受け平塚までの延伸がペンディングされ、途中で分岐点を設けるか倉見までの延伸に専念するか検討中であった。2009年に平塚までの延伸免許が期限切れになることを受け10年の延長更新がなされたが、現在は倉見までの延伸が具体化したらしく、藤沢市遠藤付近にある慶應義塾大学付近までの延伸がほぼ具体化しているようだ。


今回も「地理院地図」による現在と1961年頃の比較。いずみ野駅であるが、二俣川から本気で平塚まで延伸をかんがえていたのか・・・は別として、全くの不毛地帯に駅を作ることによって「開発」というマジックをいかに活用するかは当時の相鉄の方針であった。このいずみ野線に相鉄が大きな期待がかけられていたのが伺える一面である。
これはあくまで個人的な意見と見解であるが、新幹線の倉見駅は構想から既にウン十年経過しているのと、新横浜~小田原間に駅を作ると新幹線の所要時間が遅くなるためやや疑問もある。もちろんリニアが開通したらひとつの手段として有効であろうと思うが、自身がかつて倉見に在住していた経験から、恐らく駅が新設されてもあまり意味を持たないようなイメージもある。もちろん「のぞみ」が停車すればまた大きな変化があると思うが、こだまのみの停車駅では相鉄を延伸するほど需要があるかどうかというイメージである。



そして平塚延伸によりポイントとなるのが香川とここ湘南台である。上から現在と1974年頃と1961年頃での比較である。湘南台は周知の通り市営地下鉄と相鉄が小田急と接続するようになり発展目覚しく、急行停車駅である長後と立場が逆転してしまった。それは中央林間と南林間との関係にも似たような部分もあるが、後はいずみ野線と市営地下鉄の速達性をいかに進めるかによって今後の未来の展開が決まってくるであろう。
では平塚延伸はどうか。平塚から東京方面へは間違いなくJRの方がスピード面で勝るが、湘南台方面へは便利になり有効であろう。ただ、どれだけのパイがあるかを考えると、やはりスピード面でJRに勝たなければ大きなパイは拾えないであろう。ただ、香川は移転して相模線との交点を乗換駅にすれば一気に価値が上がるであろうし、湘南みずきに住まわれる方のアクセスも向上するであろう。ただ、湘南みずきの広大な土地はもともと平塚延伸のために所有していた相模鉄道の土地である。現在宅地化されているが、その中に平塚までの線路敷設予定地も含まれていたはずなので今後の展開が気になる。逆にいうと、平塚延伸を断念し宅地化のみに専念したかも知れない。もし本気で平塚まで延伸するなら香川付近は地下化するしかないであろう。
さて、今回具現化されようとしている慶應義塾大学付近であるが、まだまだ開発の余地があるので将来的に住宅やマンションなどの建設も行われるであろう。もちろん大学生たちの通学には重宝するであろうが、その先の延伸に関しても開発の余地はあるので期待して良いであろう。現在、慶應義塾大学方面へは、特に利用者の多いラッシュ時などには「ツインライナー」と呼ばれる、わかりやすく言えば2両編成のバスが頻繁に運行されている。利用者数や将来的な見解を見ても慶応大学付近までの延伸は妥当であろうと思う。そしてかしわ台の章でも述べたが、車両基地を新たに作れるくらいの土地の余裕があるので、今後の活用次第であろう。
かつての砂利輸送から神中鉄道の買収、更に本線を国に買収され元の神中鉄道が現在の相鉄になり更にJRに乗り入れ都心までの運転が可能になり、また更に延伸計画がある。留まる事を知らない相模鉄道は一体どこまで、そしていつまで進化を続けるのだろう。今一番「ナウい」のは、もしかしたら相鉄かも知れない。
もともとは現在の湘南台より更に進み香川付近で相模線と交差し平塚まで到達する延伸計画があるのは有名な話であるが、新幹線が倉見付近に駅を新設する計画が浮上したのを受け平塚までの延伸がペンディングされ、途中で分岐点を設けるか倉見までの延伸に専念するか検討中であった。2009年に平塚までの延伸免許が期限切れになることを受け10年の延長更新がなされたが、現在は倉見までの延伸が具体化したらしく、藤沢市遠藤付近にある慶應義塾大学付近までの延伸がほぼ具体化しているようだ。


今回も「地理院地図」による現在と1961年頃の比較。いずみ野駅であるが、二俣川から本気で平塚まで延伸をかんがえていたのか・・・は別として、全くの不毛地帯に駅を作ることによって「開発」というマジックをいかに活用するかは当時の相鉄の方針であった。このいずみ野線に相鉄が大きな期待がかけられていたのが伺える一面である。
これはあくまで個人的な意見と見解であるが、新幹線の倉見駅は構想から既にウン十年経過しているのと、新横浜~小田原間に駅を作ると新幹線の所要時間が遅くなるためやや疑問もある。もちろんリニアが開通したらひとつの手段として有効であろうと思うが、自身がかつて倉見に在住していた経験から、恐らく駅が新設されてもあまり意味を持たないようなイメージもある。もちろん「のぞみ」が停車すればまた大きな変化があると思うが、こだまのみの停車駅では相鉄を延伸するほど需要があるかどうかというイメージである。



そして平塚延伸によりポイントとなるのが香川とここ湘南台である。上から現在と1974年頃と1961年頃での比較である。湘南台は周知の通り市営地下鉄と相鉄が小田急と接続するようになり発展目覚しく、急行停車駅である長後と立場が逆転してしまった。それは中央林間と南林間との関係にも似たような部分もあるが、後はいずみ野線と市営地下鉄の速達性をいかに進めるかによって今後の未来の展開が決まってくるであろう。
では平塚延伸はどうか。平塚から東京方面へは間違いなくJRの方がスピード面で勝るが、湘南台方面へは便利になり有効であろう。ただ、どれだけのパイがあるかを考えると、やはりスピード面でJRに勝たなければ大きなパイは拾えないであろう。ただ、香川は移転して相模線との交点を乗換駅にすれば一気に価値が上がるであろうし、湘南みずきに住まわれる方のアクセスも向上するであろう。ただ、湘南みずきの広大な土地はもともと平塚延伸のために所有していた相模鉄道の土地である。現在宅地化されているが、その中に平塚までの線路敷設予定地も含まれていたはずなので今後の展開が気になる。逆にいうと、平塚延伸を断念し宅地化のみに専念したかも知れない。もし本気で平塚まで延伸するなら香川付近は地下化するしかないであろう。
さて、今回具現化されようとしている慶應義塾大学付近であるが、まだまだ開発の余地があるので将来的に住宅やマンションなどの建設も行われるであろう。もちろん大学生たちの通学には重宝するであろうが、その先の延伸に関しても開発の余地はあるので期待して良いであろう。現在、慶應義塾大学方面へは、特に利用者の多いラッシュ時などには「ツインライナー」と呼ばれる、わかりやすく言えば2両編成のバスが頻繁に運行されている。利用者数や将来的な見解を見ても慶応大学付近までの延伸は妥当であろうと思う。そしてかしわ台の章でも述べたが、車両基地を新たに作れるくらいの土地の余裕があるので、今後の活用次第であろう。
かつての砂利輸送から神中鉄道の買収、更に本線を国に買収され元の神中鉄道が現在の相鉄になり更にJRに乗り入れ都心までの運転が可能になり、また更に延伸計画がある。留まる事を知らない相模鉄道は一体どこまで、そしていつまで進化を続けるのだろう。今一番「ナウい」のは、もしかしたら相鉄かも知れない。
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夏色の相模鉄道② かしわ台
2020-07-05
前回アップした海老名の章でも述べたが、ここかしわ台は相鉄の中では比較的新しい駅である。それまであった大塚本町を廃止しかしわ台とさがみ野に分散させた形にしてかしわ台に車両基地を作った。車両基地ができる前はとんでもない山の中で、正直言って「出る」環境であったろう。
ただ、元々の大塚本町の利用者にも不便の無いようかつての大塚本町駅舎はかしわ台駅東口として、ホームは連絡通路として近年まで使用されてきた。しかしながら駅舎は改築されかつての駅舎は姿をけしたものの、現在も「かしわ台駅」として利用されている。


今回も「地理院地図」にお世話になった。現在と1961年頃のかしわ台比較。かしわ台付近の本線は車両基地の中に消え、改めてルート変更された部分に新たに駅を設置しているのがわかる。特にご覧になってお分かりと思うが、現在のかしわ台駅設置前は一面大自然であった。写真では平面であるが、実際にはかなり立体的で段差が多く、駅設置や車両基地の設置にもかなりの苦労が伺えるであろう。
さて、ここかしわ台であるが、実は私の親戚宅の最寄り駅であり幼少期は再三に渡り訪問していた。ちょうどかしわ台が開業して間もないくらいからで、それまで住んでいた横浜は戸部の団地を離れかしわ台に一軒家を購入したのだ。私も引っ越しの手伝いに行ったりしたが、当時のかしわ台駅界隈はかなり発展途上で、しかも山を開拓して宅地化したため坂が非常に多い。親戚宅もかなりの急坂を登るため車だとひっくり返りそうな、いわばひとりバックドロップ状態にもなりかねないくらいの角度である。体感であるが、恐らく大井川鐵道のアブト区間よりも
ウン百パーミル急である。しかしながらその頂点にある親戚宅の窓からはかしわ台駅がハッキリと見えるので、幼少期はずっと窓を眺めていたものだ。周りから見たらなんて大人しい子供なのだろうと誤解されていたかも知れない。
だがそこから見る風景は、かしわ台の横全景とわいわないがかなりのパノラマ度で、それこそ旧大塚本町のホーム見えるが、幼少時はそこを自転車置場か何かと思っていた。しかしながら、その「自転車置場」からかしわ台駅まではかなりの距離があり、大塚本町をかしわ台としての再利用は苦渋の決断であったと思う。だが、そうして大塚本町の利用者の事もちゃんと考える辺り、会社としての姿勢は評価されよう。
現在と1961年頃との比較を可動式の地図で示してみた。ご覧の通り、地形的制約と将来的な見解が浅かった事からバスロータリー等のスペースが無いのがわかる。現在も駅前はやや狭さを否定できず、更にバスロータリー等のスペースが無い事から、特に朝のラッシュ時等は不便を感じる場面も少なくない。
そんなかしわ台の駅界隈も宅地化が進みスーパー銭湯やスーパーマーケットなどが進出しいくらか賑やかになったものの、地形的制約から駅前はロータリーなどのスペースはなく、バスなどの交通機関でのアプローチはかなり不便を強いられ安全面でも不安な材料を抱えている。
私が、引っ越し直後の親戚宅へ訪問時では先述通りの発展途上であったので現在の姿が想像できなかったが、それ以来の現在、もちろん住宅や商業施設が劇的に増えたものの、イメージ的には昔と変わらぬままの印象である。
ただ、将来的にも他社からの乗り入れが増えて車両基地もキャパ不足気味になるのではと心配材料もあるが、多分その辺りも相鉄は計算しているであろう。
ただ、個人的な意見としては、相模線の入谷付近にはまだ土地に余裕があるので、たとえば相鉄厚木線を使い相模国分から分岐して入谷に直接向かうルートを作るか、JR海老名の手前付近で分岐させ一旦厚木まで行き、戻る形で入谷に向かうかになると思う。ただ、手間はかかるものの土地はそれなりにあるので有効であろう。でもなければ、湘南台よりの延伸により慶應義塾大学付近に駅ができるのであれば、まだまだ土地に余裕があるので思いきってこの慶應義塾大学付近新駅に車両基地を併設するという手もある。いずれにしてもこれは私の勝手な想像であって、実際には法律的な制約や経済的なやりくりもあるので現実的かどうかは不明であるが、ひとつの案としては有効であろうかも知れない。
ただ、元々の大塚本町の利用者にも不便の無いようかつての大塚本町駅舎はかしわ台駅東口として、ホームは連絡通路として近年まで使用されてきた。しかしながら駅舎は改築されかつての駅舎は姿をけしたものの、現在も「かしわ台駅」として利用されている。


今回も「地理院地図」にお世話になった。現在と1961年頃のかしわ台比較。かしわ台付近の本線は車両基地の中に消え、改めてルート変更された部分に新たに駅を設置しているのがわかる。特にご覧になってお分かりと思うが、現在のかしわ台駅設置前は一面大自然であった。写真では平面であるが、実際にはかなり立体的で段差が多く、駅設置や車両基地の設置にもかなりの苦労が伺えるであろう。
さて、ここかしわ台であるが、実は私の親戚宅の最寄り駅であり幼少期は再三に渡り訪問していた。ちょうどかしわ台が開業して間もないくらいからで、それまで住んでいた横浜は戸部の団地を離れかしわ台に一軒家を購入したのだ。私も引っ越しの手伝いに行ったりしたが、当時のかしわ台駅界隈はかなり発展途上で、しかも山を開拓して宅地化したため坂が非常に多い。親戚宅もかなりの急坂を登るため車だとひっくり返りそうな、いわばひとりバックドロップ状態にもなりかねないくらいの角度である。体感であるが、恐らく大井川鐵道のアブト区間よりも
ウン百パーミル急である。しかしながらその頂点にある親戚宅の窓からはかしわ台駅がハッキリと見えるので、幼少期はずっと窓を眺めていたものだ。周りから見たらなんて大人しい子供なのだろうと誤解されていたかも知れない。
だがそこから見る風景は、かしわ台の横全景とわいわないがかなりのパノラマ度で、それこそ旧大塚本町のホーム見えるが、幼少時はそこを自転車置場か何かと思っていた。しかしながら、その「自転車置場」からかしわ台駅まではかなりの距離があり、大塚本町をかしわ台としての再利用は苦渋の決断であったと思う。だが、そうして大塚本町の利用者の事もちゃんと考える辺り、会社としての姿勢は評価されよう。
現在と1961年頃との比較を可動式の地図で示してみた。ご覧の通り、地形的制約と将来的な見解が浅かった事からバスロータリー等のスペースが無いのがわかる。現在も駅前はやや狭さを否定できず、更にバスロータリー等のスペースが無い事から、特に朝のラッシュ時等は不便を感じる場面も少なくない。
そんなかしわ台の駅界隈も宅地化が進みスーパー銭湯やスーパーマーケットなどが進出しいくらか賑やかになったものの、地形的制約から駅前はロータリーなどのスペースはなく、バスなどの交通機関でのアプローチはかなり不便を強いられ安全面でも不安な材料を抱えている。
私が、引っ越し直後の親戚宅へ訪問時では先述通りの発展途上であったので現在の姿が想像できなかったが、それ以来の現在、もちろん住宅や商業施設が劇的に増えたものの、イメージ的には昔と変わらぬままの印象である。
ただ、将来的にも他社からの乗り入れが増えて車両基地もキャパ不足気味になるのではと心配材料もあるが、多分その辺りも相鉄は計算しているであろう。
ただ、個人的な意見としては、相模線の入谷付近にはまだ土地に余裕があるので、たとえば相鉄厚木線を使い相模国分から分岐して入谷に直接向かうルートを作るか、JR海老名の手前付近で分岐させ一旦厚木まで行き、戻る形で入谷に向かうかになると思う。ただ、手間はかかるものの土地はそれなりにあるので有効であろう。でもなければ、湘南台よりの延伸により慶應義塾大学付近に駅ができるのであれば、まだまだ土地に余裕があるので思いきってこの慶應義塾大学付近新駅に車両基地を併設するという手もある。いずれにしてもこれは私の勝手な想像であって、実際には法律的な制約や経済的なやりくりもあるので現実的かどうかは不明であるが、ひとつの案としては有効であろうかも知れない。
夏色の相模鉄道① 海老名
2020-06-30
前回の「相模線・ベビーローテーション」シリーズより引き続き今回も航空写真等を交えながら紹介したいと思うが、周知の通り、相模線と相模鉄道は切っても切れない縁であり、相模線の前身は相模鉄道であった。そして現在の相鉄本線の前身は神中鉄道だったという複雑な変遷を持つ。そして厚木駅は相模鉄道と神中鉄道の接続駅であり相鉄厚木線は「本線」であった。
やがて神中鉄道を相鉄が買収し元々の相鉄本線である相模線が国に買収され現在に至るわけであるが、地方の鉄道が次々と衰退したり廃止されていく中で、相模鉄道は令和になった現在でも進化している。車両的な事はもちろんであるが、いずみ野線が湘南台まで延伸されたり、西谷からJRに乗り入れたりと近年の発展は留まる事を知らない。さらに新横浜方面への延伸も決定し、私たちがイメージしていた相鉄カラーが完全に変わった感じだ。


今回も緊急事態宣言の自粛要請に伴い「地理院地図」より参考にしてみたい。現在と1961年頃との比較であるが、駅が数百メートル移転しているのがわかる。移転前で相鉄が小田急に乗り入れる形で本厚木までの運転を実現していた。
それこそかつては砂利輸送が主体であった頃や資金不足で横浜までの延伸に苦労したとか、それぞれのいろいろなエピソードが現在では想像できないくらいに「準大手」のイメージは今はない。しかしながら海老名寄りでは相模国分から分岐する相鉄厚木線の存在や旧大塚本町の駅舎はかしわ台の駅舎として活躍(現在は改築された)していたりと、まだまだ昔の面影が少なくない。
そんな歴史の紐を解くべく、今回も「地理院地図」の航空写真を活用させていただいて「Google Map」のストリートビューと併せて相模鉄道の変遷を追ってみたい。


かつての海老名を拡大してみた。同じく「地理院地図」より現在と1961年との比較。かつての海老名駅は完全に相鉄と小田急の通過地点の一部になり完全にホームがあった面影はない。ただ、駅前の道路等はかつての名残があり現在も雰囲気は残っているが、ご覧の通りかなり狭く、もちろんロータリー的なスペースもない。もし現在移転していなかったら大変な事になっていただろう。
海老名といえば現在は相鉄の起点であるが、元々は厚木が起点だったためこちらは「後輩」という事になる。相模鉄道の気持ちとしては相模川の対岸にある厚木市にまで鉄路を敷きたかったであろうが、技術的な部分と資金難などの問題から実現せず、先に相模川に橋を架ける事に成功した小田急線を介す事で本厚木に乗り入れを実現させている。
しかしながら小田急が利用者増による列車増発と海老名に車両基地を作る関係から海老名駅自体が現在の位置に移設された際に相鉄の乗り入れがなくなった。更に、後述するが海老名と大塚本町の間に相鉄の車庫を作り車庫付近に駅を設置するため大塚本町をかしわ台とさがみ野に分割させかしわ台を車庫に隣接させる駅として機能させた。


旧・海老名から至近距離にある相模国分信号場の新旧比較。ご覧の通り、旅客駅時代と規模的に殆んど変わっていないのがわかる.。現在も旅客ホームは健在であるが、ホームに接するレールは撤去されている。
そんな事もあり、小田急線の海老名駅が移設するに合わせて相鉄も移設されますます本厚木への乗り入れが困難な状況になった。国鉄末期には相模線にも海老名駅が開設され乗り換えに便利になり、近年ではロマンスカーも停車するようになった。駅前も発展が目覚ましく、気がついたら何もなかった駅前にはビナウォークやららぽーとが進出し本厚木よりも大都会的なイメージに変身した。
現在の相模国分をグーグルマップのストリートビューにてご覧頂こう。ご覧の通り、まだまだ昔の面影を残す。特にホームの有効長が現役時代のままである。恐らく2両編成が限界であろう姿は「砂利輸送」の時代を彷彿させる。
激変した海老名であるが、そんな中、異彩を放つ隣の相模国分信号場の存在を忘れてはならない。かつては旅客駅であったが、現在は厚木線を分岐する役割となっているが、かつての旅客ホームも健在だ。もちろん関係者しか利用できないよう外部からの侵入を防ぐ仕組みになっている。だが、ホームの長さは我々がイメージしている相鉄には程遠いくらい華奢な存在である。なんたって車両2~3両分しかないため車両基地7は更に横浜方面へ進むとかしわ台到着前に相鉄車庫が見えてくるのでレールファンは確認作業に忙しいと思うが、かなり楽しめるであろう。現に私がそうなのであるから。
最後は可動地図で新旧の海老名駅比較をしてみたい。かつて周囲は本当に田んぼなどしか無かった事がよくわかるであろう。私の記憶でも小学生中学生時代では現在の海老名駅前が想像できないくらいの発展途上であった。

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やがて神中鉄道を相鉄が買収し元々の相鉄本線である相模線が国に買収され現在に至るわけであるが、地方の鉄道が次々と衰退したり廃止されていく中で、相模鉄道は令和になった現在でも進化している。車両的な事はもちろんであるが、いずみ野線が湘南台まで延伸されたり、西谷からJRに乗り入れたりと近年の発展は留まる事を知らない。さらに新横浜方面への延伸も決定し、私たちがイメージしていた相鉄カラーが完全に変わった感じだ。


今回も緊急事態宣言の自粛要請に伴い「地理院地図」より参考にしてみたい。現在と1961年頃との比較であるが、駅が数百メートル移転しているのがわかる。移転前で相鉄が小田急に乗り入れる形で本厚木までの運転を実現していた。
それこそかつては砂利輸送が主体であった頃や資金不足で横浜までの延伸に苦労したとか、それぞれのいろいろなエピソードが現在では想像できないくらいに「準大手」のイメージは今はない。しかしながら海老名寄りでは相模国分から分岐する相鉄厚木線の存在や旧大塚本町の駅舎はかしわ台の駅舎として活躍(現在は改築された)していたりと、まだまだ昔の面影が少なくない。
そんな歴史の紐を解くべく、今回も「地理院地図」の航空写真を活用させていただいて「Google Map」のストリートビューと併せて相模鉄道の変遷を追ってみたい。


かつての海老名を拡大してみた。同じく「地理院地図」より現在と1961年との比較。かつての海老名駅は完全に相鉄と小田急の通過地点の一部になり完全にホームがあった面影はない。ただ、駅前の道路等はかつての名残があり現在も雰囲気は残っているが、ご覧の通りかなり狭く、もちろんロータリー的なスペースもない。もし現在移転していなかったら大変な事になっていただろう。
海老名といえば現在は相鉄の起点であるが、元々は厚木が起点だったためこちらは「後輩」という事になる。相模鉄道の気持ちとしては相模川の対岸にある厚木市にまで鉄路を敷きたかったであろうが、技術的な部分と資金難などの問題から実現せず、先に相模川に橋を架ける事に成功した小田急線を介す事で本厚木に乗り入れを実現させている。
しかしながら小田急が利用者増による列車増発と海老名に車両基地を作る関係から海老名駅自体が現在の位置に移設された際に相鉄の乗り入れがなくなった。更に、後述するが海老名と大塚本町の間に相鉄の車庫を作り車庫付近に駅を設置するため大塚本町をかしわ台とさがみ野に分割させかしわ台を車庫に隣接させる駅として機能させた。


旧・海老名から至近距離にある相模国分信号場の新旧比較。ご覧の通り、旅客駅時代と規模的に殆んど変わっていないのがわかる.。現在も旅客ホームは健在であるが、ホームに接するレールは撤去されている。
そんな事もあり、小田急線の海老名駅が移設するに合わせて相鉄も移設されますます本厚木への乗り入れが困難な状況になった。国鉄末期には相模線にも海老名駅が開設され乗り換えに便利になり、近年ではロマンスカーも停車するようになった。駅前も発展が目覚ましく、気がついたら何もなかった駅前にはビナウォークやららぽーとが進出し本厚木よりも大都会的なイメージに変身した。
現在の相模国分をグーグルマップのストリートビューにてご覧頂こう。ご覧の通り、まだまだ昔の面影を残す。特にホームの有効長が現役時代のままである。恐らく2両編成が限界であろう姿は「砂利輸送」の時代を彷彿させる。
激変した海老名であるが、そんな中、異彩を放つ隣の相模国分信号場の存在を忘れてはならない。かつては旅客駅であったが、現在は厚木線を分岐する役割となっているが、かつての旅客ホームも健在だ。もちろん関係者しか利用できないよう外部からの侵入を防ぐ仕組みになっている。だが、ホームの長さは我々がイメージしている相鉄には程遠いくらい華奢な存在である。なんたって車両2~3両分しかないため車両基地7は更に横浜方面へ進むとかしわ台到着前に相鉄車庫が見えてくるのでレールファンは確認作業に忙しいと思うが、かなり楽しめるであろう。現に私がそうなのであるから。
最後は可動地図で新旧の海老名駅比較をしてみたい。かつて周囲は本当に田んぼなどしか無かった事がよくわかるであろう。私の記憶でも小学生中学生時代では現在の海老名駅前が想像できないくらいの発展途上であった。

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