1983年・春爛漫<青春18>⑦
2019-05-20
宮津線で22時27分着、そして1時28分発という深夜の豊岡で夜行普通列車「山陰」に乗り換えるというとんでもない計画を組んだ私だが、豊岡から乗る、というマニアックな方法は他に考える人は多くなく、結局「満員御礼」の列車では座席確保ができなかった。結局、出入口のデッキで一夜(というより3時間くらいであるが)を過ごすこととなってしまった。当然寝ることはできず、相方には申し訳ないことをしたが、京都着5時24分、5時28分発の東海道線に乗り換えるため「ダッシュ」するのにはデッキにいるのは好都合であった。

高砂線制覇時の加古川。隣に描かれている駅名はかつて別府鉄道が分岐されていた。結局別府鉄道には乗車できずに現在に至るが、やはり乗車できなかったのが心残りである・・・
そして東海道線をひたすら乗り継ぎ茅ヶ崎まで向かうわけだが、当然東海道線内では爆睡・・・乗換駅付近ではまるで自身の頭の中に目覚ましでもセットされたかのように目が覚め、そして乗り換える。その繰り返しで寒川に着いたのが16時57分、つまり夕方5時頃であった。このころには既に頭の中は「風呂」「布団」の文字が掠めており、改めて布団で寝れること、そして無になり風呂に浸かれることのありがたさを染々感じるの事となった。

現在は駅名も改称され西脇市の代表駅となった野村。かつては鍛冶屋線を分岐していたが、加古川線は電化され更にパワーアップした。
さて、3回に渡り「青春18」の旅を紹介してきた旅の記録をご覧いただきありがたく思うが、何かお気付きになられたであろうか?そう、私の紹介してきた旅の文章には「どこどこから乗りどこどこで降りた」や「こんな列車に乗った」という表現がほとんどである。以前に紹介した東北乗り潰しの旅もそうだが「乗った」「降りた」の表現しかない。つまり、当時の私は「乗り潰し」のみに情熱を注ぎ、その路線ひとつひとつの「文化」や「景色」、もっと言えば「歴史的背景」をほとんど触れずに旅をしていた。つまり「中身」があまり無かったと思われるため、個々の印象が薄い。果たしてそれが良いか悪いかは別として、なぜ私はここまで鉄道に拘るのか?と自分に問うた事がある。私は物心着いた時から鉄道が好きであった。以来20年以上のブランクはあるものの再び鉄道と触れ合う時間ができた。先述したが、これからも鉄道に触れ合っていくことであろう。

恐らく1977年頃の撮影と思われる沼津。現在も当時の雰囲気を残したまま現在に至るが、こうした駅も時間の経過とともに少なくなっていくのはさみしい限りだ。
日本を代表する国民的某ロックアーティストの著書にこんな発言がある。「方向性を見失った時、人間は一番苦しい。俺には音楽があった」と。もし音楽という言葉を「鉄道」に置き換えるとすれば、自ずと「ヒント」が見えてくるような気がした。某ロックアーティストは既に還暦を過ぎ今年で古希になるが今もなお「現役」だ。インタビューなどでよく尋ねられる。「なぜ音楽を続けるのですか?」・・・音楽を続ける理由。「ミック・ジャガー、ローリング・ストーンズ、もう70歳過ぎてもでもやってます。なんで音楽を続けるのか?もうやめないんです。地位も名誉も、そしてお金も手に入れた。なのにやめないんです。なんでか?それには音楽と常に触れ合っていたい自分がいるんです」。つまり「自身の好きなことを続けるのに理由は無い!」という事である。好きだから歌い続ける・・・好きだから列車に揺られる。北海道に行く。廃線跡を訪ねる。九州に行く。かつての「炭坑」の盛栄時代の面影に触れる・・・そういう楽しみが待っている「人生」にしていきたい。
鉄道を趣味とするという事は、一般的に理解していただける場合が少ない。「いい趣味」とは言うが、私のようなものは「個性的」ととらわれているであろう。何かのテレビ番組で「路線バス降車ボタンマニア」という趣味の持主がこの世にいるらしい事を放送していた(確かタ〇リ倶楽部だったと思う)。私から見て、こちらの方が「個性的」だと思うし素敵な感性を持っておられ羨ましい限りだ。しかしながら鉄道雑誌が世の中にあり、パソコンを開くと私と同じ趣向の方が数多くおられる事に気づく。これは素晴らしい事だ。私はどちらかというと宮脇氏に近い趣向かも知れない事にも気付いた。地図・・駅・・旅・・時刻表・・辺りが私の好むところであるが、「デジタルATS」とか「VVVFインバーター」等の言葉には非常に弱い。また「12系客車」は即座にわかるが「E217系」と言われてもあまりピンとこない。

今回の旅では紹介していないが、私が小学生の頃は非常に気になる存在であった福知山線の尼崎駅・・・という表現では若いレールファンには少々伝わりにくいが、かつては塚口から尼崎港に向け福知山線の支線、通称尼崎港線が分岐していた。そして尼崎港線の尼崎は東海道線の尼崎とは別に独立してホームがあったので異色の雰囲気を醸し出していた。ご覧の写真はウィキペディアより拝借した尼崎港線の尼崎駅ホームである。
私の「乗り潰し」の旅もそろそろ終焉を迎えた。その気になれば、10日間あれば余裕で全線制覇達成できる。近年では早く全線制覇をして、今度は「線」ではなく「点」の旅もしてみたいと思っていた。現在、ややそれが実現している傾向にあるのは幸せな事であろう。「やる事がある」という事は幸せだと思う。全線制覇しても、その「次」の目標がある。これは素晴らしい事だ。人間はやる事が無くなってしまった時、それは「終焉」を指すのではなのか?「仕事」でも「趣味」でもいい。やる事があるという事は「バイタリティー」になる。つまり、自身の生きている「証」みたいな物を知らず知らずに求めているのではないか?
これからも私の「旅」を紹介していくつもりであるが、近い将来には最近の旅も紹介してみようと思う。過去の自分と旅のスタイルがどのように変化していったのか見届けていただきたい。そしてまたこれからも「証」を探す旅は永遠に終わらないであろう。

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高砂線制覇時の加古川。隣に描かれている駅名はかつて別府鉄道が分岐されていた。結局別府鉄道には乗車できずに現在に至るが、やはり乗車できなかったのが心残りである・・・
そして東海道線をひたすら乗り継ぎ茅ヶ崎まで向かうわけだが、当然東海道線内では爆睡・・・乗換駅付近ではまるで自身の頭の中に目覚ましでもセットされたかのように目が覚め、そして乗り換える。その繰り返しで寒川に着いたのが16時57分、つまり夕方5時頃であった。このころには既に頭の中は「風呂」「布団」の文字が掠めており、改めて布団で寝れること、そして無になり風呂に浸かれることのありがたさを染々感じるの事となった。

現在は駅名も改称され西脇市の代表駅となった野村。かつては鍛冶屋線を分岐していたが、加古川線は電化され更にパワーアップした。
さて、3回に渡り「青春18」の旅を紹介してきた旅の記録をご覧いただきありがたく思うが、何かお気付きになられたであろうか?そう、私の紹介してきた旅の文章には「どこどこから乗りどこどこで降りた」や「こんな列車に乗った」という表現がほとんどである。以前に紹介した東北乗り潰しの旅もそうだが「乗った」「降りた」の表現しかない。つまり、当時の私は「乗り潰し」のみに情熱を注ぎ、その路線ひとつひとつの「文化」や「景色」、もっと言えば「歴史的背景」をほとんど触れずに旅をしていた。つまり「中身」があまり無かったと思われるため、個々の印象が薄い。果たしてそれが良いか悪いかは別として、なぜ私はここまで鉄道に拘るのか?と自分に問うた事がある。私は物心着いた時から鉄道が好きであった。以来20年以上のブランクはあるものの再び鉄道と触れ合う時間ができた。先述したが、これからも鉄道に触れ合っていくことであろう。

恐らく1977年頃の撮影と思われる沼津。現在も当時の雰囲気を残したまま現在に至るが、こうした駅も時間の経過とともに少なくなっていくのはさみしい限りだ。
日本を代表する国民的某ロックアーティストの著書にこんな発言がある。「方向性を見失った時、人間は一番苦しい。俺には音楽があった」と。もし音楽という言葉を「鉄道」に置き換えるとすれば、自ずと「ヒント」が見えてくるような気がした。某ロックアーティストは既に還暦を過ぎ今年で古希になるが今もなお「現役」だ。インタビューなどでよく尋ねられる。「なぜ音楽を続けるのですか?」・・・音楽を続ける理由。「ミック・ジャガー、ローリング・ストーンズ、もう70歳過ぎてもでもやってます。なんで音楽を続けるのか?もうやめないんです。地位も名誉も、そしてお金も手に入れた。なのにやめないんです。なんでか?それには音楽と常に触れ合っていたい自分がいるんです」。つまり「自身の好きなことを続けるのに理由は無い!」という事である。好きだから歌い続ける・・・好きだから列車に揺られる。北海道に行く。廃線跡を訪ねる。九州に行く。かつての「炭坑」の盛栄時代の面影に触れる・・・そういう楽しみが待っている「人生」にしていきたい。
鉄道を趣味とするという事は、一般的に理解していただける場合が少ない。「いい趣味」とは言うが、私のようなものは「個性的」ととらわれているであろう。何かのテレビ番組で「路線バス降車ボタンマニア」という趣味の持主がこの世にいるらしい事を放送していた(確かタ〇リ倶楽部だったと思う)。私から見て、こちらの方が「個性的」だと思うし素敵な感性を持っておられ羨ましい限りだ。しかしながら鉄道雑誌が世の中にあり、パソコンを開くと私と同じ趣向の方が数多くおられる事に気づく。これは素晴らしい事だ。私はどちらかというと宮脇氏に近い趣向かも知れない事にも気付いた。地図・・駅・・旅・・時刻表・・辺りが私の好むところであるが、「デジタルATS」とか「VVVFインバーター」等の言葉には非常に弱い。また「12系客車」は即座にわかるが「E217系」と言われてもあまりピンとこない。

今回の旅では紹介していないが、私が小学生の頃は非常に気になる存在であった福知山線の尼崎駅・・・という表現では若いレールファンには少々伝わりにくいが、かつては塚口から尼崎港に向け福知山線の支線、通称尼崎港線が分岐していた。そして尼崎港線の尼崎は東海道線の尼崎とは別に独立してホームがあったので異色の雰囲気を醸し出していた。ご覧の写真はウィキペディアより拝借した尼崎港線の尼崎駅ホームである。
私の「乗り潰し」の旅もそろそろ終焉を迎えた。その気になれば、10日間あれば余裕で全線制覇達成できる。近年では早く全線制覇をして、今度は「線」ではなく「点」の旅もしてみたいと思っていた。現在、ややそれが実現している傾向にあるのは幸せな事であろう。「やる事がある」という事は幸せだと思う。全線制覇しても、その「次」の目標がある。これは素晴らしい事だ。人間はやる事が無くなってしまった時、それは「終焉」を指すのではなのか?「仕事」でも「趣味」でもいい。やる事があるという事は「バイタリティー」になる。つまり、自身の生きている「証」みたいな物を知らず知らずに求めているのではないか?
これからも私の「旅」を紹介していくつもりであるが、近い将来には最近の旅も紹介してみようと思う。過去の自分と旅のスタイルがどのように変化していったのか見届けていただきたい。そしてまたこれからも「証」を探す旅は永遠に終わらないであろう。

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1983年・春爛漫<青春18>⑥
2019-05-15
四国・高松では既に日付が変わっていた。しかし我々「中村夜行」に乗り昼間と同じような乗り換えを深夜未明に敢行しなければならない。「しなければならない」とは、実際問題、行程を考えたのは誰でも無い自分自身である。そんな行程は同行した相方もさぞ体力的に辛かったであろう。
まず深夜の琴平で中村夜行731Dの上りバージョン「764D」に乗り換える。琴平着1時53分、2時20分発。高松着が3時22分、宇高航路が3時52分発、宇野に4時52分着で乗り換える宇野線が5時4分発である。乗換時間をザッと列挙してみたが、もちろん寝ている暇がない。というより高松での列車接続がよくこんな時間に設定されているなと逆に関心してしまう。そして連絡船は宇野で宇野線の始発に接続する。これって乗客に「寝るな」と言っているようなものではないか?それに付き合う私も私であるが・・・
たが、これには深い事情がある。つまりこれは「岡山発(着)」の列車であると仮定して運転されているのだ。ただ、当時は瀬戸大橋が無いため途中は船になる。これがうまい具合に深夜未明の時間帯になるので高松や宇野では、ある意味人間の限界を超えた乗り換えが発生するわけだ。


(画像はウィキペディアより、現役時代の飾磨港。一応播但線に所属していたが、播但線全線通して運転される列車はなく、姫路で完全に分断されていた。つまり播但線ではなく「飾磨港線」として完全に別の路線となっていた。)
四国の夜行列車を旅籠とする考えであったが、結果的に痺れるような乗り換えを強いられるためある意味旅籠の役割をしないまま岡山に戻ってきたが、いっその事岡山で駅寝を敢行した方が効率が良かったのかもしれない。いや、駅寝を嫌う私にはこうした旅籠の選択はお似合いだったのか・・・しかし凄まじい旅籠であった。
さて、本日の行程は加古川線とそれから枝分かれする支線各種を制覇予定だ。しかし、なぜか播但線の一部区間を私は入れてなかった。これは接続の関係からであると思われるが、いつしか廃止されてしまい永遠に訪れる事ができなくなってしまった飾磨港駅。実は姫路~飾磨港まではかつて播但線の支線があった。現在も播但線は存在するが、それとはまったく異色の存在で際立って地味に目立つ存在であった。だが列車本数の関係からどう行程を組んでも組み入れることができなかったため「後回し」としたのであろう。この判断が後に響くとは・・・
そんな事を言ってもしょうがない。当時はただただ只管乗りつぶす事を最優先としていたため「楽しむ」みたいな事が出来なかったのであろう。


(国鉄時代に最初で最後の訪問となった三木線の各駅。加古川線とその枝線は実に接続がよく、乗り換えに非常に便利であった。現在、その枝線は廃止や三セク化などの変遷を辿ったが、我々の記憶に輝かしく刻まれている。)
当時非電化であった加古川線に乗り三木線、北条線、鍛冶屋線と制覇していく。特に三木線と鍛冶屋線は現在は無いため、貴重な体験となってしまったが、鍛冶屋線は西脇市の中心部にあった西脇駅があったため少々もったいない印象である。そして三木線に関しては、同じく北条線と一緒に第三セクター化されたが、残ったのは北条線だけになってしまった。
三木線に関しては途中「国包」で近代的な「カプセル駅舎」が話題となり将来の無人駅の姿を印象づけたが、現在では「貨車駅」が、特に北の国では定番となている。
終点の三木では付近に「電鉄三木」があるためひっそりとした印象であったが、とにかく私は「いい旅チャレンジ」の制覇路線が増えていくのが嬉しく、三木線の経営事情などほとんど分からない中学生であった。
そして厄神にもどり北条線を制覇。再び加古川線に乗り鍛冶屋線へ向かう。終点鍛冶屋では停車時間が約6分の為、入場券購入や「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに忙しい。しかし間に合わず発車の時間になってしまったため、走り出した列車から「証明写真撮影」という荒業にでた!結果的に成功したが、この「一か八か」の懸けに失敗していたら、証明写真を撮影するだけの為に再び訪れる事は出来なかったはずだ。ひとまず安心したが、再三加古川線に戻るのはかなりハードな行程だが、それを作ったのは誰でもない、自分自身である。
加古川線と枝分かれする支線との接続が良く、すんなり制覇に成功。若干粟生で1時間くらいの待ち時間があったが、これがいい調整時間となり、加古川線やその支線たちの奥深さを知る事になった。

経営母体は変わったものの、現在も頑張って営業している北条町。現在は国鉄時代から駅が100mくらい移転して新たな駅舎に生まれ変わった。
野村から加古川線で谷川まで行き福知山線に乗り換え、福知山から綾部経由で舞鶴線に乗り西舞鶴まで一気に駆け巡る。しかし、隣の東舞鶴まで行かないと舞鶴線の制覇とはならないため東舞鶴まで行くが、折り返す列車がなんと西舞鶴行き(か福知山行きだと思った)のDLが牽引する旧型客車だったのだ!だが隣の西舞鶴までしか乗れないなんて、もったいない。東舞鶴までは5~6分位しか乗れないのに、西舞鶴ではこれから1時間以上待って宮津線に乗り換える。なんと不憫な・・・この時、時計は夜七時を回っていた。この時間帯から宮津線とは・・・天橋立を車窓から眺めようと考えるが、ハッキリ言って日本三景は闇に包まれている事であろう。景色は完全にあきらめ普通に「いい旅チャレンジ」制覇のため宮津線で豊岡に向かうことにした。


(画像はウィキペディアより拝借した国鉄時代の東舞鶴駅舎(上)と、私撮影の西舞鶴駅名標。特に東舞鶴は近年に高架化されスッキリした印象である。跨線橋を使わずに乗り換えができ非常に便利になった、)
景色は見えなかったのは残念であるが、それより宮津線を制覇する事の方が大切であった。日本三景の「天橋立」とは、幻想的な名前であるが中学生の少年には全く分からない!日本有数の観光地を前にしてもこの少年は全く動じなかった。
さて、とうとう宮津線を豊岡まで乗り、宮津線の制覇となったわけだが、時計の針は22時30分をまわろうとしていた。こんな時間に豊岡に着いても乗り換える列車が無い。つまり「駅寝」をするか3時間待って夜行列車「山陰」に乗るか・・・当然の事ながら事前に計画しておいた「後者」の選択となるわけだが、こんな時間から夜行列車の乗るなんて・・・途轍もなく無謀な計画を組んだものだ。夜中の豊岡で何をしていろというのか。相方も文句ひとつ言わず良く付き合てくれたと思う。
3時間後、ようやく豊岡に姿を現した「山陰」であるが、深夜だというのにこれから私の予想をはるかに超えた事が起こったのだ。

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まず深夜の琴平で中村夜行731Dの上りバージョン「764D」に乗り換える。琴平着1時53分、2時20分発。高松着が3時22分、宇高航路が3時52分発、宇野に4時52分着で乗り換える宇野線が5時4分発である。乗換時間をザッと列挙してみたが、もちろん寝ている暇がない。というより高松での列車接続がよくこんな時間に設定されているなと逆に関心してしまう。そして連絡船は宇野で宇野線の始発に接続する。これって乗客に「寝るな」と言っているようなものではないか?それに付き合う私も私であるが・・・
たが、これには深い事情がある。つまりこれは「岡山発(着)」の列車であると仮定して運転されているのだ。ただ、当時は瀬戸大橋が無いため途中は船になる。これがうまい具合に深夜未明の時間帯になるので高松や宇野では、ある意味人間の限界を超えた乗り換えが発生するわけだ。


(画像はウィキペディアより、現役時代の飾磨港。一応播但線に所属していたが、播但線全線通して運転される列車はなく、姫路で完全に分断されていた。つまり播但線ではなく「飾磨港線」として完全に別の路線となっていた。)
四国の夜行列車を旅籠とする考えであったが、結果的に痺れるような乗り換えを強いられるためある意味旅籠の役割をしないまま岡山に戻ってきたが、いっその事岡山で駅寝を敢行した方が効率が良かったのかもしれない。いや、駅寝を嫌う私にはこうした旅籠の選択はお似合いだったのか・・・しかし凄まじい旅籠であった。
さて、本日の行程は加古川線とそれから枝分かれする支線各種を制覇予定だ。しかし、なぜか播但線の一部区間を私は入れてなかった。これは接続の関係からであると思われるが、いつしか廃止されてしまい永遠に訪れる事ができなくなってしまった飾磨港駅。実は姫路~飾磨港まではかつて播但線の支線があった。現在も播但線は存在するが、それとはまったく異色の存在で際立って地味に目立つ存在であった。だが列車本数の関係からどう行程を組んでも組み入れることができなかったため「後回し」としたのであろう。この判断が後に響くとは・・・
そんな事を言ってもしょうがない。当時はただただ只管乗りつぶす事を最優先としていたため「楽しむ」みたいな事が出来なかったのであろう。


(国鉄時代に最初で最後の訪問となった三木線の各駅。加古川線とその枝線は実に接続がよく、乗り換えに非常に便利であった。現在、その枝線は廃止や三セク化などの変遷を辿ったが、我々の記憶に輝かしく刻まれている。)
当時非電化であった加古川線に乗り三木線、北条線、鍛冶屋線と制覇していく。特に三木線と鍛冶屋線は現在は無いため、貴重な体験となってしまったが、鍛冶屋線は西脇市の中心部にあった西脇駅があったため少々もったいない印象である。そして三木線に関しては、同じく北条線と一緒に第三セクター化されたが、残ったのは北条線だけになってしまった。
三木線に関しては途中「国包」で近代的な「カプセル駅舎」が話題となり将来の無人駅の姿を印象づけたが、現在では「貨車駅」が、特に北の国では定番となている。
終点の三木では付近に「電鉄三木」があるためひっそりとした印象であったが、とにかく私は「いい旅チャレンジ」の制覇路線が増えていくのが嬉しく、三木線の経営事情などほとんど分からない中学生であった。
そして厄神にもどり北条線を制覇。再び加古川線に乗り鍛冶屋線へ向かう。終点鍛冶屋では停車時間が約6分の為、入場券購入や「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに忙しい。しかし間に合わず発車の時間になってしまったため、走り出した列車から「証明写真撮影」という荒業にでた!結果的に成功したが、この「一か八か」の懸けに失敗していたら、証明写真を撮影するだけの為に再び訪れる事は出来なかったはずだ。ひとまず安心したが、再三加古川線に戻るのはかなりハードな行程だが、それを作ったのは誰でもない、自分自身である。
加古川線と枝分かれする支線との接続が良く、すんなり制覇に成功。若干粟生で1時間くらいの待ち時間があったが、これがいい調整時間となり、加古川線やその支線たちの奥深さを知る事になった。

経営母体は変わったものの、現在も頑張って営業している北条町。現在は国鉄時代から駅が100mくらい移転して新たな駅舎に生まれ変わった。
野村から加古川線で谷川まで行き福知山線に乗り換え、福知山から綾部経由で舞鶴線に乗り西舞鶴まで一気に駆け巡る。しかし、隣の東舞鶴まで行かないと舞鶴線の制覇とはならないため東舞鶴まで行くが、折り返す列車がなんと西舞鶴行き(か福知山行きだと思った)のDLが牽引する旧型客車だったのだ!だが隣の西舞鶴までしか乗れないなんて、もったいない。東舞鶴までは5~6分位しか乗れないのに、西舞鶴ではこれから1時間以上待って宮津線に乗り換える。なんと不憫な・・・この時、時計は夜七時を回っていた。この時間帯から宮津線とは・・・天橋立を車窓から眺めようと考えるが、ハッキリ言って日本三景は闇に包まれている事であろう。景色は完全にあきらめ普通に「いい旅チャレンジ」制覇のため宮津線で豊岡に向かうことにした。


(画像はウィキペディアより拝借した国鉄時代の東舞鶴駅舎(上)と、私撮影の西舞鶴駅名標。特に東舞鶴は近年に高架化されスッキリした印象である。跨線橋を使わずに乗り換えができ非常に便利になった、)
景色は見えなかったのは残念であるが、それより宮津線を制覇する事の方が大切であった。日本三景の「天橋立」とは、幻想的な名前であるが中学生の少年には全く分からない!日本有数の観光地を前にしてもこの少年は全く動じなかった。
さて、とうとう宮津線を豊岡まで乗り、宮津線の制覇となったわけだが、時計の針は22時30分をまわろうとしていた。こんな時間に豊岡に着いても乗り換える列車が無い。つまり「駅寝」をするか3時間待って夜行列車「山陰」に乗るか・・・当然の事ながら事前に計画しておいた「後者」の選択となるわけだが、こんな時間から夜行列車の乗るなんて・・・途轍もなく無謀な計画を組んだものだ。夜中の豊岡で何をしていろというのか。相方も文句ひとつ言わず良く付き合てくれたと思う。
3時間後、ようやく豊岡に姿を現した「山陰」であるが、深夜だというのにこれから私の予想をはるかに超えた事が起こったのだ。

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1983年・春爛漫<青春18>⑤
2019-05-10
今日で5日目を迎えた「青春18」の旅。それは佐世保で迎えた。佐世保発「ながさき」、実は「列車名無し」になり、寝台を連結した長崎発の「ながさき」が正式に列車名を授かった列車である。早岐で長崎発とドッキングして佐世保発も正式に「ながさき」となるが、佐世保発の列車はハッキリ言って超ガラガラ!長崎発は上り列車でもそれなりに座席が埋っている事と思われる。だが事情を知っている者ならば、恐らく早岐で佐世保発の車両に移ってくる・・・そんなテクニックを持ち合わせている事であろう。だが、佐世保発の車両はそういったレールファンの事情などお構いなしにのどかな時間を提供してくれた。
そんな優雅な旧型客車で門司まで向かう。私の行き先が門司港ではないのが不安であるが、ほぼ7時間くらいあるので安心して仮眠できる。この旅では久々に夜の時間帯にゆっくりできそうだ。

基本、長崎本線では肥前山口で列車の分割・併合が行われるが、普通夜行列車「ながさき」はかつての長崎本線、つまり大村線経由のため早岐で分割・併合が行われる!なんて伝統的で古式ゆかしい列車であろうか!!
佐世保発の列車は早岐で「スイッチバック」するが、長崎から大村線経由でやってくる「ながさき」とここで併合する。つまり旧・長崎本線経由である伝統的な古式ゆかしい列車である。だが、そんな由緒正しい列車も、気が付いたら既に博多を過ぎ、北九州付近の通勤時間帯となっており、車内はスーツを召された立席客で埋め尽くされていた。声こそ出さなかったが、思わず「ウォーッ!」と叫びたくなるようなスーツの群れに私は動揺を隠せず、向かいの足を伸ばしていた座席を立ち席客に譲った。
ただ「ながさき」は、所謂「旧型客車」の為、スーツ姿のお客様がいる車内には、何か違和感「大」である。いままで鼾をかきながら横になっていた自分達は完全に浮きまくっていた。
やがて門司に到着すると、関門トンネルを抜けるため早速山陽本線に乗り換える。その時間、5分!写真など撮ってる暇など無い。せっかく門司に来たのに写真ひとつ撮れないなんて、何だか切ないが、これも自身が組んだ計画だ。仕方なく九州に別れを告げ、再び東京目指すが、そう容易くただでは帰らない。山陽本線、東海道本線には「支線」が多く存在する。東京に向かいながら細かい支線に寄り道すれば「いい旅チャレンジ20000km」の制覇路線も稼げる事だろう。
その第一弾として早速「宇部線」を制覇する。車両が新しく置き換わっており、清々しい気分だ。ただ、まだ通勤時間帯の為、われわれのような「色物」は完全に孤立してしまう


1983年訪問時の雀田(上)。そして現在の雀田(下)はウィキペディアより画像を拝借した。ご覧の通りほぼ昔と変わらないのは嬉しい材料だ。もちろん車両の変更はあったが、階段無しでの乗り換えは実に便利。
だが、そんなことはお構いなしに、今度は宇部新川より小野田線へ乗り換える。そろそろ通勤時間帯も過ぎ、落ち着きを見せるころだが、雀田より長門本山への支線も当然ながら乗り換える。雀田のホームは三角状になっており、支線と本線の乗り換えが階段なしでできる非常に機能的な設備であるのが嬉しい。
そしてこ存じ、ここで待っていた長門本山方面へ向かう列車は旧型国電の単行だ!ご覧の通りなかなかの「いぶし銀」であるが、何となく我が地元の鶴見線大川支線を彷彿させる風景でもあった。なかなか愛敬あるじゃないか。
そんな列車で長門本山に向かったが、終点の長門本山は周囲に何もない。もちろん、いわゆる「秘境」とは異なるが、別の意味で何もなく、哀愁漂う姿がまた愛らしい。山口県の片隅にこんな素敵な駅があったのか。隣の浜河内も同様、全国にはこうした「隠れ名店」ならぬ「隠れ名駅」があるものだとつくづく感じてしまう。


1983年訪問時の長門本山(上)と現在の長門本山(下・画像はウィキペディアより)。かつてはかなりの盛栄であったろうと感じる駅構内の様子であるが、現在は必要最低限の旅客スペースのみに縮小されているのが哀愁を感じる。
僅かな時間ではあったが、素敵な駅達に別れを告げ再び雀田に戻り今度は小野田へ向かう。そして山陽本線に乗り換え再び宇部に行き、また再び宇部線にて小郡へ向かう。とは、今改めて当時の記録を振り返るとなんだか変な行行動をしているし、もちろん一般的な行動ではない。何やら怪しい少年のようでもあるが、これはレールファンの宿命か、それとも性か。私はご当地のグルメに目を向けるでもなく、名所巡りを楽しむ訳でもなく、ただひたすら「いい旅チャレンジ」を満喫していた。
さて、小郡より山陽本線で徳山に抜けて旧・山陽本線であった岩徳線に乗る。その岩徳線にある西岩国はかつて岩国と名乗り、往時を偲ばせる由緒溢れる駅舎が現在も残っているため駅舎がいい!あの重厚な佇まいは、当時の建造技術を象徴するかのような素晴らしい設計だ。現在では普通にローカル線のひと駅に過ぎないが、その存在感は一際目立つ。
「岩徳線」とは、名前の通り「岩国」と「徳山」を結ぶ路線であるが、そんな岩徳線で途中、川西より分岐する岩日線(当時)がある。もちろん制覇しなければ気が済まない。接続列車の関係からいったん岩国まで行き、1時間半のインターバルの後に岩日線に乗り錦町に向かう事にした。現在は周知の通り第三セクターとなり第二の人生を送っているが、一番気になる存在が「御庄」であろう。近隣には「新岩国」なる新幹線の駅があるが、接続駅となっていないのは国鉄時代からである。新幹線の新岩国を開設する以前から岩日線の将来が既に見え隠れしていたのであろうか、あえて「別人」を装っていた。現在は駅名を変更し、新幹線との乗り換え駅だよ!とのアピール度は高いが、両者の距離は以前と変わらない。だが、精神論的にはかなりの距離を縮めた事であろう。

画像はウィキより拝借した新岩国。国鉄時代から御庄との関係が各方面で話題となっていたが、あの宮脇俊三氏も各著書でご意見を述べられていた。現在、御庄は「清流新岩国」と改称され世間一般にも連絡駅としてアピールしているが、両者の距離は現在も変わらない。
そんな新岩国を横目に見ながら錦川に沿って北上する。やがて錦町に到着するが「岩日線」の名の通り「岩国」と「日原」を結ぶ目的で敷設されたその先の鉄路は無い。現在は路盤を利用して観光列車的な乗り物が路盤の一部を利用している。なかなか微笑ましい限りであるが、未成線となりながら完成されたと仮定し想像しながら乗る「岩日線」もまた一際楽しい存在となる事であろう。
そんなことを思いながら岩国に再度戻ってきたのが午後6時近かった。ここで「乗り」はいったん終了し、今夜の宿に向かう。目指すは1982年「青春18」の旅で使用した「731D」だ。おや?と、この表現だけではわかりづらいであろう。結論から言うと四国に渡り、あの「中村夜行」に乗るということだ。つまりこの「中村夜行」が今夜の宿となる!とは言うものの、今回は違う。高知まで行かずに琴平で「上り」に乗り換える行程だ。つまり深夜未明の乗り換えを強いられ、実質「宿」とはほど遠い「乗り」の行程となる。
岡山から山陽本線と宇野線、宇高航路を乗り継いで高松なに着いたのは何と深夜0時30分!731Dは0時46分発だ。わかっているが、このあと深夜の時間帯に考えられない乗り換えが待っている。さあ、気合いを入れて乗らなければ・・・深夜未明とはいえ、列車が運転されているだけでもありがたい。いや、いっそ岡山で駅寝でもした方が効率がいいのかも知れない。たが私はただ頑なに駅寝を拒み、深夜未明の厳しい乗り換えを自分に課したのであった。

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そんな優雅な旧型客車で門司まで向かう。私の行き先が門司港ではないのが不安であるが、ほぼ7時間くらいあるので安心して仮眠できる。この旅では久々に夜の時間帯にゆっくりできそうだ。

基本、長崎本線では肥前山口で列車の分割・併合が行われるが、普通夜行列車「ながさき」はかつての長崎本線、つまり大村線経由のため早岐で分割・併合が行われる!なんて伝統的で古式ゆかしい列車であろうか!!
佐世保発の列車は早岐で「スイッチバック」するが、長崎から大村線経由でやってくる「ながさき」とここで併合する。つまり旧・長崎本線経由である伝統的な古式ゆかしい列車である。だが、そんな由緒正しい列車も、気が付いたら既に博多を過ぎ、北九州付近の通勤時間帯となっており、車内はスーツを召された立席客で埋め尽くされていた。声こそ出さなかったが、思わず「ウォーッ!」と叫びたくなるようなスーツの群れに私は動揺を隠せず、向かいの足を伸ばしていた座席を立ち席客に譲った。
ただ「ながさき」は、所謂「旧型客車」の為、スーツ姿のお客様がいる車内には、何か違和感「大」である。いままで鼾をかきながら横になっていた自分達は完全に浮きまくっていた。
やがて門司に到着すると、関門トンネルを抜けるため早速山陽本線に乗り換える。その時間、5分!写真など撮ってる暇など無い。せっかく門司に来たのに写真ひとつ撮れないなんて、何だか切ないが、これも自身が組んだ計画だ。仕方なく九州に別れを告げ、再び東京目指すが、そう容易くただでは帰らない。山陽本線、東海道本線には「支線」が多く存在する。東京に向かいながら細かい支線に寄り道すれば「いい旅チャレンジ20000km」の制覇路線も稼げる事だろう。
その第一弾として早速「宇部線」を制覇する。車両が新しく置き換わっており、清々しい気分だ。ただ、まだ通勤時間帯の為、われわれのような「色物」は完全に孤立してしまう


1983年訪問時の雀田(上)。そして現在の雀田(下)はウィキペディアより画像を拝借した。ご覧の通りほぼ昔と変わらないのは嬉しい材料だ。もちろん車両の変更はあったが、階段無しでの乗り換えは実に便利。
だが、そんなことはお構いなしに、今度は宇部新川より小野田線へ乗り換える。そろそろ通勤時間帯も過ぎ、落ち着きを見せるころだが、雀田より長門本山への支線も当然ながら乗り換える。雀田のホームは三角状になっており、支線と本線の乗り換えが階段なしでできる非常に機能的な設備であるのが嬉しい。
そしてこ存じ、ここで待っていた長門本山方面へ向かう列車は旧型国電の単行だ!ご覧の通りなかなかの「いぶし銀」であるが、何となく我が地元の鶴見線大川支線を彷彿させる風景でもあった。なかなか愛敬あるじゃないか。
そんな列車で長門本山に向かったが、終点の長門本山は周囲に何もない。もちろん、いわゆる「秘境」とは異なるが、別の意味で何もなく、哀愁漂う姿がまた愛らしい。山口県の片隅にこんな素敵な駅があったのか。隣の浜河内も同様、全国にはこうした「隠れ名店」ならぬ「隠れ名駅」があるものだとつくづく感じてしまう。


1983年訪問時の長門本山(上)と現在の長門本山(下・画像はウィキペディアより)。かつてはかなりの盛栄であったろうと感じる駅構内の様子であるが、現在は必要最低限の旅客スペースのみに縮小されているのが哀愁を感じる。
僅かな時間ではあったが、素敵な駅達に別れを告げ再び雀田に戻り今度は小野田へ向かう。そして山陽本線に乗り換え再び宇部に行き、また再び宇部線にて小郡へ向かう。とは、今改めて当時の記録を振り返るとなんだか変な行行動をしているし、もちろん一般的な行動ではない。何やら怪しい少年のようでもあるが、これはレールファンの宿命か、それとも性か。私はご当地のグルメに目を向けるでもなく、名所巡りを楽しむ訳でもなく、ただひたすら「いい旅チャレンジ」を満喫していた。
さて、小郡より山陽本線で徳山に抜けて旧・山陽本線であった岩徳線に乗る。その岩徳線にある西岩国はかつて岩国と名乗り、往時を偲ばせる由緒溢れる駅舎が現在も残っているため駅舎がいい!あの重厚な佇まいは、当時の建造技術を象徴するかのような素晴らしい設計だ。現在では普通にローカル線のひと駅に過ぎないが、その存在感は一際目立つ。
「岩徳線」とは、名前の通り「岩国」と「徳山」を結ぶ路線であるが、そんな岩徳線で途中、川西より分岐する岩日線(当時)がある。もちろん制覇しなければ気が済まない。接続列車の関係からいったん岩国まで行き、1時間半のインターバルの後に岩日線に乗り錦町に向かう事にした。現在は周知の通り第三セクターとなり第二の人生を送っているが、一番気になる存在が「御庄」であろう。近隣には「新岩国」なる新幹線の駅があるが、接続駅となっていないのは国鉄時代からである。新幹線の新岩国を開設する以前から岩日線の将来が既に見え隠れしていたのであろうか、あえて「別人」を装っていた。現在は駅名を変更し、新幹線との乗り換え駅だよ!とのアピール度は高いが、両者の距離は以前と変わらない。だが、精神論的にはかなりの距離を縮めた事であろう。

画像はウィキより拝借した新岩国。国鉄時代から御庄との関係が各方面で話題となっていたが、あの宮脇俊三氏も各著書でご意見を述べられていた。現在、御庄は「清流新岩国」と改称され世間一般にも連絡駅としてアピールしているが、両者の距離は現在も変わらない。
そんな新岩国を横目に見ながら錦川に沿って北上する。やがて錦町に到着するが「岩日線」の名の通り「岩国」と「日原」を結ぶ目的で敷設されたその先の鉄路は無い。現在は路盤を利用して観光列車的な乗り物が路盤の一部を利用している。なかなか微笑ましい限りであるが、未成線となりながら完成されたと仮定し想像しながら乗る「岩日線」もまた一際楽しい存在となる事であろう。
そんなことを思いながら岩国に再度戻ってきたのが午後6時近かった。ここで「乗り」はいったん終了し、今夜の宿に向かう。目指すは1982年「青春18」の旅で使用した「731D」だ。おや?と、この表現だけではわかりづらいであろう。結論から言うと四国に渡り、あの「中村夜行」に乗るということだ。つまりこの「中村夜行」が今夜の宿となる!とは言うものの、今回は違う。高知まで行かずに琴平で「上り」に乗り換える行程だ。つまり深夜未明の乗り換えを強いられ、実質「宿」とはほど遠い「乗り」の行程となる。
岡山から山陽本線と宇野線、宇高航路を乗り継いで高松なに着いたのは何と深夜0時30分!731Dは0時46分発だ。わかっているが、このあと深夜の時間帯に考えられない乗り換えが待っている。さあ、気合いを入れて乗らなければ・・・深夜未明とはいえ、列車が運転されているだけでもありがたい。いや、いっそ岡山で駅寝でもした方が効率がいいのかも知れない。たが私はただ頑なに駅寝を拒み、深夜未明の厳しい乗り換えを自分に課したのであった。

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1983年・春爛漫<青春18>④
2019-05-05
急行「かいもん」はそこそこの乗車率であったが、八代から自由席に乗って座れたのだからラッキーだった。ただ、青春18を握りしめながらの急行「かいもん」乗車は、正規料金のため当時中学生だった私には少々大きな出費であった。確か2500円くらいだったと思う。深夜1時というのに八代で切符売り場に駅員がおり、駅舎にはちゃんと明かりも点っていた。もちろん急行「かいもん」の急行券と乗車券を鳥栖まで買い八代駅の売り上げに少なからず貢献した。
途中、熊本では先程乗っていた混合列車2038レが向こうのホームに停車していた。「やっぱり車掌にお願いして熊本まで乗せてもらえば良かったかな~」みたいな事も頭に過ったが、基本2038レは八代~熊本間は回送扱いのため確実に断られたであろう。だが「宝くじだって買わなければ当たらない」ではないが、一応当たって砕けろ的に一言車掌にお願いしてみるべきだったと今改めて思う。もちろん断られるであろうが・・・

これが鳥栖で購入した入場券。「入場券」と表現したが、もちろん券売機でも入場券は売っていた。だが、硬券が欲しいためわざわざ職員のいる窓口から購入したのだが・・・しかし何となく困った表情をしていた職員が差し出しなのはご覧の切符であった。恐らく入場券の在庫が無かったのであろうと思われるが「券売機でも売ってますよ」とあえて言わなかったあたり、私を見るなり「その道の人」と判断されたのであろう。
さて、未明の鳥栖で下車し基山より甘木線を制覇する。鳥栖では窓口で入場券を求めたが、硬券ではなく券売機の端材のようなもので駅名と日付をスタンプしたような簡易な物であった。当時、私は硬券ではなかったので若干残念であると思ったが、逆にそれが現在「価値あるもの」に変身しているかも知れない。
朝一の鳥栖より基山から甘木線に乗るため「鳥栖発基山行き」という、鹿児島本線を走る奇妙なDC普通列車に乗る。こんな区間列車が朝一番に設定されているなんて、何やら怪しい気配がしなくもないが・・・だって二日市とか博多ではなく基山だよ!的な・・・
鳥栖5時1分発、基山に5時9分に到着する。乗り換える甘木線は5時35分発である。
だが、私は予想していた。時刻表上では基山が終点になっているが、多分跨線橋を渡り甘木線にわざわざ乗り換えなくても今乗っている列車が自動的に甘木線に変身するだろうと・・・
予想通りだった。鳥栖から基山まで甘木線を走るDCが「回送」されていたのだ。つまり乗り換えなしで甘木線への招待となったわけである。あたかも時刻表上の「マジック」では、別の列車として表記されていたが、やはりまたもや昔の明知小五郎的な天知茂のように、謎が解けたような気分になって嬉しい。
密かな喜びを胸に秘め、甘木線を制覇後、再び鹿児島本線で羽犬塚に出て矢部線に乗る。黒木のインターバルは5分と短く「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに精いっぱいであった。いつの間にか廃止され現在はその印象が薄いと思われる矢部線であるが、路線名の集落まで到達することなくフェードアウトしていったのはやや残念である。

こちらは矢部線の終点で唯一私が所有している写真である黒木。インターバルが5分くらいしか無かったため、ご覧のような写真しか撮影できなかった。路線名になっている矢部までの延伸が予定されていたが実現せず。とは言え、撮影テクニックは当時中学生であったので評価の対象外とお許しいただきたいのだが・・・
矢部線を後にして次は佐賀線を目指す。佐賀線は瀬高で乗り換えとなるのだが、またまた奇妙な列車が設定されていた。鹿児島本線・羽犬塚発瀬高行きのDCである。電化区間をDCが「瀬高」という中途半端な駅で終点なんて、またまた怪しい・・・だが、既に計画段階から何となく予想はしていた。やはり天地茂であったのだ。またまた時刻表上の「マジック」である。このDCは鹿児島本線から佐賀線直通列車だ。
またまた乗り換える手間が省けていささかラッキーでもあったが、地図上で見れば鹿児島方面から佐賀方面に行くのにしっかり「短絡」の役割をしているのである。だが、あくまでも「地図上」に過ぎず、1日数本の列車設定では「短絡」するかどうか、その人の判断によるであろう。しかしながらかつては優等列車も設定されており、それなりに盛栄もあった。更にこの佐賀線には名物も存在した。可動橋である。清水港線と同じような可動橋があった。更に全国でも珍しい「跳ね橋」があった。現在でも可動橋は重要文化財として保存されている。
ある意味文化財的な佐賀線であるが、あくまで私は「制覇」を主体としている。可動橋よりも大切な何かを求めなければならない。
せそんな佐賀線に乗り終点の佐賀に着くと同じホームの隣にボンネット式の特急「みどり」が待っていた。いや、我々を待っていたわけではないが、いずれにしても「18」であるから別料金を支払わぬ限りないそれを許してもらえない。仕方なく、計画通り普通列車で今度は唐津線に乗り北上する。唐津と言えば、私の訪問時は筑肥線が電化開業したばかりで、終点の西唐津は車庫が置かれて真新しい。同じく唐津も2面4線の高架駅になり、市を代表する駅として相応しい姿となった。

筑肥線電化直後の唐津。それまで唐津市民は行き先によって「唐津」「東唐津」「山本」など駅を使い分けていたが、路線の一部廃止と新線開業によって唐津に統一した。塩尻に続き、ここでも当時の国鉄の英断が現在に受け継がれているのが実に素晴らしい。
筑肥線制覇の為、新しくなった「電車」に乗り新線区間を行く。東唐津は非電化時代はスイッチバック式の駅であったが、電化と同時に現在地に移動した。非電化時代とは違い、高架化されたスマートなホームに変化した姿に地元の人は戸惑う人もいたであろう。しかし「機能的」となった駅は、スッキリした感があり清潔感あふれる。これからも地元の人に愛される駅となってほしい。
新線区間以外でも、ホームが嵩上げされておりリフォームされている。そして「虹の松原」という、何ともロマンチックな駅は、付近の観光名所をそのまま駅名としているが、ホームも新しく新鮮である。
「青春18」では筑肥線・姪浜までしか行けないため姪浜で折り返すが、電化と同時に相互乗り入れを開始した福岡市交通局が我々を迎えてくれた。こちら姪浜も電化と同時に高架化されスッキリ。完全に「ローカル」から脱却した感がある。

国鉄時代は筑肥線と松浦線のレールがつながっていた伊万里。焼き物で有名な町ではあるが、現在は両者とも経営母体が変わり、松浦鉄道とJR筑肥線は完全に分断されている。
姪浜で約1時間のインターバルの後、再び西唐津に戻り今度は分断された筑肥線の「西線」を制覇しに行く。唐津線を境に「東線」となった筑肥線とは全くカラーが違う、昔のままの「ローカル線」である。ここから更に西へ向かい伊万里から松浦線でまず有田に行き、折り返して今度は佐世保に向かう。そして日本最西端の駅「平戸口(当時)」も通り、昨日の「日本最南端(当時)の駅」と併せて、わずか2日間で「南」と「西」を体験。考えてみたらやたらと忙しい旅だ。

国鉄時代に唯一訪問した松浦線であるが、松浦では列車交換があったため、確か10分以上停車したはずだ。実はこの駅に停車中に列車のトイレに行ったのだが、便器とレールは当時直結していた。つまり表現は悪いが「垂れ流し」的な状態であったのだが、私は誤って便器に腕時計を落としてしまった。しかもデジタルだ!車掌に相談したところ、なんと松浦駅員にお願いして車両の下から私の腕時計を救い出してくれたのだ!当時あの時の関係者の皆様、本当にありがとうございます!!
やたら時間が長い松浦線を制覇し佐世保に着いたのは夜の9時45分である。松浦線最終列車だ。この後私たちは、普通夜行列車「ながさき」の分家を佐世保始発で乗り「宿」とする予定だ。しかし発車時間が0時30分発でなんと約3時間待ちである!3時間も一体なにをしてろというのか!と自分自身が立てた計画に腹が立つ。そんなに待たなくても座れるであろう。インターネットなど普及してない時代に、ただただ待合室で「待ちぼうけ」状態である。とは言ってもいずれ時間はやってくる。私たちは今夜の「宿」をいつかいつかと待ち続けていた。

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途中、熊本では先程乗っていた混合列車2038レが向こうのホームに停車していた。「やっぱり車掌にお願いして熊本まで乗せてもらえば良かったかな~」みたいな事も頭に過ったが、基本2038レは八代~熊本間は回送扱いのため確実に断られたであろう。だが「宝くじだって買わなければ当たらない」ではないが、一応当たって砕けろ的に一言車掌にお願いしてみるべきだったと今改めて思う。もちろん断られるであろうが・・・

これが鳥栖で購入した入場券。「入場券」と表現したが、もちろん券売機でも入場券は売っていた。だが、硬券が欲しいためわざわざ職員のいる窓口から購入したのだが・・・しかし何となく困った表情をしていた職員が差し出しなのはご覧の切符であった。恐らく入場券の在庫が無かったのであろうと思われるが「券売機でも売ってますよ」とあえて言わなかったあたり、私を見るなり「その道の人」と判断されたのであろう。
さて、未明の鳥栖で下車し基山より甘木線を制覇する。鳥栖では窓口で入場券を求めたが、硬券ではなく券売機の端材のようなもので駅名と日付をスタンプしたような簡易な物であった。当時、私は硬券ではなかったので若干残念であると思ったが、逆にそれが現在「価値あるもの」に変身しているかも知れない。
朝一の鳥栖より基山から甘木線に乗るため「鳥栖発基山行き」という、鹿児島本線を走る奇妙なDC普通列車に乗る。こんな区間列車が朝一番に設定されているなんて、何やら怪しい気配がしなくもないが・・・だって二日市とか博多ではなく基山だよ!的な・・・
鳥栖5時1分発、基山に5時9分に到着する。乗り換える甘木線は5時35分発である。
だが、私は予想していた。時刻表上では基山が終点になっているが、多分跨線橋を渡り甘木線にわざわざ乗り換えなくても今乗っている列車が自動的に甘木線に変身するだろうと・・・
予想通りだった。鳥栖から基山まで甘木線を走るDCが「回送」されていたのだ。つまり乗り換えなしで甘木線への招待となったわけである。あたかも時刻表上の「マジック」では、別の列車として表記されていたが、やはりまたもや昔の明知小五郎的な天知茂のように、謎が解けたような気分になって嬉しい。
密かな喜びを胸に秘め、甘木線を制覇後、再び鹿児島本線で羽犬塚に出て矢部線に乗る。黒木のインターバルは5分と短く「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するのに精いっぱいであった。いつの間にか廃止され現在はその印象が薄いと思われる矢部線であるが、路線名の集落まで到達することなくフェードアウトしていったのはやや残念である。

こちらは矢部線の終点で唯一私が所有している写真である黒木。インターバルが5分くらいしか無かったため、ご覧のような写真しか撮影できなかった。路線名になっている矢部までの延伸が予定されていたが実現せず。とは言え、撮影テクニックは当時中学生であったので評価の対象外とお許しいただきたいのだが・・・
矢部線を後にして次は佐賀線を目指す。佐賀線は瀬高で乗り換えとなるのだが、またまた奇妙な列車が設定されていた。鹿児島本線・羽犬塚発瀬高行きのDCである。電化区間をDCが「瀬高」という中途半端な駅で終点なんて、またまた怪しい・・・だが、既に計画段階から何となく予想はしていた。やはり天地茂であったのだ。またまた時刻表上の「マジック」である。このDCは鹿児島本線から佐賀線直通列車だ。
またまた乗り換える手間が省けていささかラッキーでもあったが、地図上で見れば鹿児島方面から佐賀方面に行くのにしっかり「短絡」の役割をしているのである。だが、あくまでも「地図上」に過ぎず、1日数本の列車設定では「短絡」するかどうか、その人の判断によるであろう。しかしながらかつては優等列車も設定されており、それなりに盛栄もあった。更にこの佐賀線には名物も存在した。可動橋である。清水港線と同じような可動橋があった。更に全国でも珍しい「跳ね橋」があった。現在でも可動橋は重要文化財として保存されている。
ある意味文化財的な佐賀線であるが、あくまで私は「制覇」を主体としている。可動橋よりも大切な何かを求めなければならない。
せそんな佐賀線に乗り終点の佐賀に着くと同じホームの隣にボンネット式の特急「みどり」が待っていた。いや、我々を待っていたわけではないが、いずれにしても「18」であるから別料金を支払わぬ限りないそれを許してもらえない。仕方なく、計画通り普通列車で今度は唐津線に乗り北上する。唐津と言えば、私の訪問時は筑肥線が電化開業したばかりで、終点の西唐津は車庫が置かれて真新しい。同じく唐津も2面4線の高架駅になり、市を代表する駅として相応しい姿となった。

筑肥線電化直後の唐津。それまで唐津市民は行き先によって「唐津」「東唐津」「山本」など駅を使い分けていたが、路線の一部廃止と新線開業によって唐津に統一した。塩尻に続き、ここでも当時の国鉄の英断が現在に受け継がれているのが実に素晴らしい。
筑肥線制覇の為、新しくなった「電車」に乗り新線区間を行く。東唐津は非電化時代はスイッチバック式の駅であったが、電化と同時に現在地に移動した。非電化時代とは違い、高架化されたスマートなホームに変化した姿に地元の人は戸惑う人もいたであろう。しかし「機能的」となった駅は、スッキリした感があり清潔感あふれる。これからも地元の人に愛される駅となってほしい。
新線区間以外でも、ホームが嵩上げされておりリフォームされている。そして「虹の松原」という、何ともロマンチックな駅は、付近の観光名所をそのまま駅名としているが、ホームも新しく新鮮である。
「青春18」では筑肥線・姪浜までしか行けないため姪浜で折り返すが、電化と同時に相互乗り入れを開始した福岡市交通局が我々を迎えてくれた。こちら姪浜も電化と同時に高架化されスッキリ。完全に「ローカル」から脱却した感がある。

国鉄時代は筑肥線と松浦線のレールがつながっていた伊万里。焼き物で有名な町ではあるが、現在は両者とも経営母体が変わり、松浦鉄道とJR筑肥線は完全に分断されている。
姪浜で約1時間のインターバルの後、再び西唐津に戻り今度は分断された筑肥線の「西線」を制覇しに行く。唐津線を境に「東線」となった筑肥線とは全くカラーが違う、昔のままの「ローカル線」である。ここから更に西へ向かい伊万里から松浦線でまず有田に行き、折り返して今度は佐世保に向かう。そして日本最西端の駅「平戸口(当時)」も通り、昨日の「日本最南端(当時)の駅」と併せて、わずか2日間で「南」と「西」を体験。考えてみたらやたらと忙しい旅だ。

国鉄時代に唯一訪問した松浦線であるが、松浦では列車交換があったため、確か10分以上停車したはずだ。実はこの駅に停車中に列車のトイレに行ったのだが、便器とレールは当時直結していた。つまり表現は悪いが「垂れ流し」的な状態であったのだが、私は誤って便器に腕時計を落としてしまった。しかもデジタルだ!車掌に相談したところ、なんと松浦駅員にお願いして車両の下から私の腕時計を救い出してくれたのだ!当時あの時の関係者の皆様、本当にありがとうございます!!
やたら時間が長い松浦線を制覇し佐世保に着いたのは夜の9時45分である。松浦線最終列車だ。この後私たちは、普通夜行列車「ながさき」の分家を佐世保始発で乗り「宿」とする予定だ。しかし発車時間が0時30分発でなんと約3時間待ちである!3時間も一体なにをしてろというのか!と自分自身が立てた計画に腹が立つ。そんなに待たなくても座れるであろう。インターネットなど普及してない時代に、ただただ待合室で「待ちぼうけ」状態である。とは言ってもいずれ時間はやってくる。私たちは今夜の「宿」をいつかいつかと待ち続けていた。

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1983年・春爛漫<青春18>③
2019-04-30
まる一日かけて「青春18」で乗車できる全ての列車を駆使し九州上陸というものすごい偉業を成し遂げた我々は、さらに「偉業」の行動に出る。
門司港から普通夜行列車「ながさき」に揺られて更に西へ向かったのだが、また更に深夜の肥前山口でまさかの今度は上りの「ながさき」を捕まえる。つまり上下の夜行普通列車「ながさき」を使い深夜ののりかえをする事で旅籠的役割をさせようというのだ!レールファンの間では「一般常識」かも知れないが、私にしてみたら人生で初の試みである!無事乗り換えることができるのか・・・いや、もしかしたら寝てしまい乗り過ごしてしまうのかも知れない・・・という緊張感から解放されず、とうとう眠れないまま肥前山口に2時54分に到着した。
そして即座に跨線橋を渡り、3時22分発の上り「ながさき」に乗り換える準備をする。いや、正確には「準備」というよりは時間も時間のためどこの施設も営業しておらず、ただひたすら待つだけだったが、待ち時間約30分がやたら長く感じたのは気のせいだったのか。
深夜の肥前山口はやたらと静まり返り、当然ながら我々しか人類はおらず、旧型客車の臭いがやたら恋しくなった。

画像はウィキより拝借した肥前山口構内。ここで数多くの列車が分割・併合が行われる。かつては寝台特急「さくら」などもここで切り離されていたが、その列車名が現在は新幹線で活躍していると思うとなんとなく感慨深い
上り「ながさき」では、座席はほぼ埋まっていたが二人旅の我々には座席に困る事はなかったが、どうせ鹿児島本線を南下すべく二日市で下車するのだら例え相席でも何ら不自由は無い。しかも二日市に5時7分に着いたら、乗り換える5時23分発の熊本行き普通列車は下りの始発だから全然座席が空いているだろう。そんな事を計画段階から予測できるまでに成長した当時中学生の私であるが、考えてみたら深夜から未明、明け方にかけて、よくこんな乗り換えを計画したものだ。
そして熊本着が7時49分の為、2時間以上も乗車する事になる。つまりここで完全に防犯機能が薄れ熟睡体勢に入いるであろう。仮に、途中駅で下車するという緊張感から解放され、万が一終点まで目が覚めなくても車掌に起こされるであろう。そこまでイメージしながら卓上で立案していたのだが、事実、熊本行き普通列車ではそんなイメージ通りに安心して熟睡できた。とはいえ久留米辺りまでは起きていたのだが・・・

ご覧の通り、久留米では天候的にあまり良くない風景になっているのがお分かりいただけたと思う。鉄道での旅であるから雨はあまり関係ないと思われがちであるが、この雨が後の鹿児島交通で大きく響く事になる。
熊本より南に向かう列車は接続が悪く9時11分の発車だ。しかも電化区間なのにDCの運用である。ならば三角線でも制覇してしまおうと考えるのが一般的であるが、それだと恐らく鹿児島本線の普通列車か一本遅れてて鹿児島交通との連絡が悪くなるのだろう。恐らく当時の私はそんな事を考え熊本での二時間待ちを敢行したはずだ。ただ、熊本での待ち時間は仰山あるので遅い朝食、というより早い昼食かもしれない食事を摂る事にした。
もちろん当時の熊本駅は現在のように新幹線がなかったので側線が沢山あり構内は広かった。現在はそれこそ側線跡地を新幹線ホームに利用しているので旅客駅としてスッキリ生まれかわった感じだ。

こちらは1978年訪問時に撮影した西鹿児島駅舎。我々世代なら懐かしい風景であろうが、私的に在来線と新幹線が直角に交わる現在の鹿児島中央は実に斬新でカッコイイ風景に思う。
さて、電化区間をDCに揺られ八代過ぎ出水に到着した我々は、ここから「電車」に乗り換えいよいよ西鹿児島に到着する。到着したのは14時11分!夜行列車を2回乗り、まる1日半以上かけようやく「18」で乗れる列車のみでたどり着いた西鹿児島。現在では新幹線のみで東京から鹿児島まで到達しようとすると半日潰れてしまうが、それでも格段の進歩。鹿児島に新幹線が来る事自体、私は画期的と思うが、30年前には考えられなかった。その時代に1日半かけて鹿児島に行くなど、どう考えても時間のロスだ。しかし学生である以上、経済的な制約があるため特急などの「別料金物」とは無縁の世
界であった。しかしながら、それを逆手に取り「楽しむ」という知恵を知らず知らずのうちに備えていた。

そしていよいよ鹿児島交通の列車に乗車する。枕崎で指宿枕崎線より乗り換えるが、ご覧の通り土砂降りの雨!駅舎は鹿児島交通所有のものでなかなか渋かった駅舎であったのを思い出す。しかし・・・森高千里ではないが、このあとも雨はずっと降り続いていた。
さて、1978年以来焼く5年ぶりに西鹿児島のホームに降り立ったわけであるが、小学校四年生から中学3年生に成長した私を西鹿児島はどう迎えてくれるか・・・入場券を買って駅で沢山写真を撮ろう!久々の西鹿児島をじっくり堪能したかったが・・・指宿枕崎線への乗り換え時間はなんと3分!自身が組んだ予定とはいえ、あまりに悲しい久々の再会であった。だが、感傷に浸っている暇はない。旅の目的は鹿児島に来ることではない。この先さらに「奥地」に進み「鹿児島交通」を制覇する事だ。それが目的でここまでやってきたのだから指宿枕崎線に揺られなければならないのだ。
指宿を過ぎ、枕崎に着いたのは17時3分。もう夕方だ。鹿児島交通が管理している枕崎駅の勇姿をカメラに納めたかったのだが、朝から降り続く雨音は更に激しくなってきた。仕方なく駅舎に身を寄せるが、国鉄の職員はいない。国鉄は駅業務を鹿児島交通に委託していたのだ。

車内改札の際に購入した鹿児島交通の乗車券。スペースの都合から横でアップしたので見づらくて申し訳無いが、この時から既に30年以上経過しているなんて、私自身信じられない思いである。
さて、約1時間のインターバルののちにいよいよ鹿児島交通に挑む。たが、枕崎の駅舎から眺める赤い列車には、更に激しくなる雨の飛沫が突き刺さる。写真に写る幼い姉妹もひとつの傘に身を寄せながら赤い車体に消えて行った。
枕崎より乗る鹿児島交通では、遠い昔に大活躍したであろう列車に乗り伊集院に向かう事になる。時刻表上では直通列車であるが、この時乗った列車は途中の加世田で乗り換えとなり、国鉄から譲り受けた旧・キハ10にバトンタッチされた。ワンウェイでありながら豪華二本立てとはなかなか贅沢ではないか❗今になって感じる鹿児島交通制覇の記憶は、30年以上経過した今でもハッキリと私の脳裏に刻み込まれている。
もちろん「18」ではなくしっかりと正規料金を支払い伊集院まで完乗し、そして今度は再び鹿児島本線を北上し「東京」目指していく。この際に鹿児島本線に乗った混合列車「2038レ」と鹿児島交通に関しては当ブログで別途紹介しているのでぜひご覧いただきたい。
さて、2038列車に揺られ八代に着いたのは深夜1時5分。乗った列車は混合列車、つまり貨物列車と旅客列車がひとつの編成となっているため貨物列車の役割も果たしている。旅客列車の終点は八代であるが、貨物列車は熊本が終点だ。旅客の車両は八代より先は「回送」という形で熊本へ向かう。しかし私達は八代よりもっと先に進みたい。いっそのこと、車掌にお願いして熊本まででも乗せてもらいたいと本気で考えていたが、断られるのは100パーセントだろう。ただ、八代より後発の急行「かいもん」が接続しているので、予定通り鳥栖まで「別料金」で向かう事にした。

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門司港から普通夜行列車「ながさき」に揺られて更に西へ向かったのだが、また更に深夜の肥前山口でまさかの今度は上りの「ながさき」を捕まえる。つまり上下の夜行普通列車「ながさき」を使い深夜ののりかえをする事で旅籠的役割をさせようというのだ!レールファンの間では「一般常識」かも知れないが、私にしてみたら人生で初の試みである!無事乗り換えることができるのか・・・いや、もしかしたら寝てしまい乗り過ごしてしまうのかも知れない・・・という緊張感から解放されず、とうとう眠れないまま肥前山口に2時54分に到着した。
そして即座に跨線橋を渡り、3時22分発の上り「ながさき」に乗り換える準備をする。いや、正確には「準備」というよりは時間も時間のためどこの施設も営業しておらず、ただひたすら待つだけだったが、待ち時間約30分がやたら長く感じたのは気のせいだったのか。
深夜の肥前山口はやたらと静まり返り、当然ながら我々しか人類はおらず、旧型客車の臭いがやたら恋しくなった。

画像はウィキより拝借した肥前山口構内。ここで数多くの列車が分割・併合が行われる。かつては寝台特急「さくら」などもここで切り離されていたが、その列車名が現在は新幹線で活躍していると思うとなんとなく感慨深い
上り「ながさき」では、座席はほぼ埋まっていたが二人旅の我々には座席に困る事はなかったが、どうせ鹿児島本線を南下すべく二日市で下車するのだら例え相席でも何ら不自由は無い。しかも二日市に5時7分に着いたら、乗り換える5時23分発の熊本行き普通列車は下りの始発だから全然座席が空いているだろう。そんな事を計画段階から予測できるまでに成長した当時中学生の私であるが、考えてみたら深夜から未明、明け方にかけて、よくこんな乗り換えを計画したものだ。
そして熊本着が7時49分の為、2時間以上も乗車する事になる。つまりここで完全に防犯機能が薄れ熟睡体勢に入いるであろう。仮に、途中駅で下車するという緊張感から解放され、万が一終点まで目が覚めなくても車掌に起こされるであろう。そこまでイメージしながら卓上で立案していたのだが、事実、熊本行き普通列車ではそんなイメージ通りに安心して熟睡できた。とはいえ久留米辺りまでは起きていたのだが・・・

ご覧の通り、久留米では天候的にあまり良くない風景になっているのがお分かりいただけたと思う。鉄道での旅であるから雨はあまり関係ないと思われがちであるが、この雨が後の鹿児島交通で大きく響く事になる。
熊本より南に向かう列車は接続が悪く9時11分の発車だ。しかも電化区間なのにDCの運用である。ならば三角線でも制覇してしまおうと考えるのが一般的であるが、それだと恐らく鹿児島本線の普通列車か一本遅れてて鹿児島交通との連絡が悪くなるのだろう。恐らく当時の私はそんな事を考え熊本での二時間待ちを敢行したはずだ。ただ、熊本での待ち時間は仰山あるので遅い朝食、というより早い昼食かもしれない食事を摂る事にした。
もちろん当時の熊本駅は現在のように新幹線がなかったので側線が沢山あり構内は広かった。現在はそれこそ側線跡地を新幹線ホームに利用しているので旅客駅としてスッキリ生まれかわった感じだ。

こちらは1978年訪問時に撮影した西鹿児島駅舎。我々世代なら懐かしい風景であろうが、私的に在来線と新幹線が直角に交わる現在の鹿児島中央は実に斬新でカッコイイ風景に思う。
さて、電化区間をDCに揺られ八代過ぎ出水に到着した我々は、ここから「電車」に乗り換えいよいよ西鹿児島に到着する。到着したのは14時11分!夜行列車を2回乗り、まる1日半以上かけようやく「18」で乗れる列車のみでたどり着いた西鹿児島。現在では新幹線のみで東京から鹿児島まで到達しようとすると半日潰れてしまうが、それでも格段の進歩。鹿児島に新幹線が来る事自体、私は画期的と思うが、30年前には考えられなかった。その時代に1日半かけて鹿児島に行くなど、どう考えても時間のロスだ。しかし学生である以上、経済的な制約があるため特急などの「別料金物」とは無縁の世
界であった。しかしながら、それを逆手に取り「楽しむ」という知恵を知らず知らずのうちに備えていた。

そしていよいよ鹿児島交通の列車に乗車する。枕崎で指宿枕崎線より乗り換えるが、ご覧の通り土砂降りの雨!駅舎は鹿児島交通所有のものでなかなか渋かった駅舎であったのを思い出す。しかし・・・森高千里ではないが、このあとも雨はずっと降り続いていた。
さて、1978年以来焼く5年ぶりに西鹿児島のホームに降り立ったわけであるが、小学校四年生から中学3年生に成長した私を西鹿児島はどう迎えてくれるか・・・入場券を買って駅で沢山写真を撮ろう!久々の西鹿児島をじっくり堪能したかったが・・・指宿枕崎線への乗り換え時間はなんと3分!自身が組んだ予定とはいえ、あまりに悲しい久々の再会であった。だが、感傷に浸っている暇はない。旅の目的は鹿児島に来ることではない。この先さらに「奥地」に進み「鹿児島交通」を制覇する事だ。それが目的でここまでやってきたのだから指宿枕崎線に揺られなければならないのだ。
指宿を過ぎ、枕崎に着いたのは17時3分。もう夕方だ。鹿児島交通が管理している枕崎駅の勇姿をカメラに納めたかったのだが、朝から降り続く雨音は更に激しくなってきた。仕方なく駅舎に身を寄せるが、国鉄の職員はいない。国鉄は駅業務を鹿児島交通に委託していたのだ。

車内改札の際に購入した鹿児島交通の乗車券。スペースの都合から横でアップしたので見づらくて申し訳無いが、この時から既に30年以上経過しているなんて、私自身信じられない思いである。
さて、約1時間のインターバルののちにいよいよ鹿児島交通に挑む。たが、枕崎の駅舎から眺める赤い列車には、更に激しくなる雨の飛沫が突き刺さる。写真に写る幼い姉妹もひとつの傘に身を寄せながら赤い車体に消えて行った。
枕崎より乗る鹿児島交通では、遠い昔に大活躍したであろう列車に乗り伊集院に向かう事になる。時刻表上では直通列車であるが、この時乗った列車は途中の加世田で乗り換えとなり、国鉄から譲り受けた旧・キハ10にバトンタッチされた。ワンウェイでありながら豪華二本立てとはなかなか贅沢ではないか❗今になって感じる鹿児島交通制覇の記憶は、30年以上経過した今でもハッキリと私の脳裏に刻み込まれている。
もちろん「18」ではなくしっかりと正規料金を支払い伊集院まで完乗し、そして今度は再び鹿児島本線を北上し「東京」目指していく。この際に鹿児島本線に乗った混合列車「2038レ」と鹿児島交通に関しては当ブログで別途紹介しているのでぜひご覧いただきたい。
さて、2038列車に揺られ八代に着いたのは深夜1時5分。乗った列車は混合列車、つまり貨物列車と旅客列車がひとつの編成となっているため貨物列車の役割も果たしている。旅客列車の終点は八代であるが、貨物列車は熊本が終点だ。旅客の車両は八代より先は「回送」という形で熊本へ向かう。しかし私達は八代よりもっと先に進みたい。いっそのこと、車掌にお願いして熊本まででも乗せてもらいたいと本気で考えていたが、断られるのは100パーセントだろう。ただ、八代より後発の急行「かいもん」が接続しているので、予定通り鳥栖まで「別料金」で向かう事にした。

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