1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅⑤
2019-03-15
さて、いよいよ最終日となった。途中、豊橋辺りから快速運転となり終点の東京まで主要駅しか停車しない大垣夜行。一応横浜などにも停まるが、未明のため茅ヶ崎方面に折り返す列車が無い。いや、厳密にいえばあるのだが、やはり終点までゆっくり寝ていたい。そして計画では、この後東京近郊路線を「踏破」するため、普段行かれないような所をピックアップしてある。しかしながら見慣れた風景に安心したのか、既にメンバーは皆「帰るモード」になっていた。若干18きっぷがもったいないが、仕方なく東海道線で折り返し茅ヶ崎方面へ向かった。

今回の旅はある意味私に新しい旅のスタイルを教えてくれた。後に私の旅はこのスタイルが進化し深化していった。だが、こうした風景はやはりその訪問当時にしか見られない貴重なものだ。
計5日間の「部活」であったが、帰宅するとまた旅に出たくなった。この年の夏休みには青春18がまた発売され、今度は部活でなく自主行動での旅に出る事になる。そして青春18が定着して恒例化していき、私の旅も恒例化していく。そして学校の長期休暇の度に「18の旅」は進化していった。次第に行程の方もロスなく無駄なく組めるようになってきた。人間とは知らぬ間に成長していくものだ。そしてそのような旅を続けていくうちに、やがてそれは「財産」となっていった。

国鉄時代の素敵な風景は今も私の胸に深く刻み込まれている。風景とは裏腹に経営状態や企業の姿勢を世間に問われ続け、現在は民営化され新しいスタイルになりもう30年以上が経過した。民営化された答えは果たして・・・
ある人は「人生の折り返し地点を迎えた」等と言う。「折り返し地点」とは何であろうか?もし人生に「折り返し」があるとすれば、それはやがて「幼少時代」に戻っていくという事なのであろうか?私は「折り返し地点」など無いと思う。「振り返り」はするが折り返さない。私の旅は乗り潰しの都合上「折り返し」があるが、それは乗車駅に戻ってくる事を指す。つまりそれは人生には当てはまらないと思う。
これからも私はおそらく鉄道にふれあい、そして電車、気動車に揺られ続けていくであろう。そしていつしか自身を再び振り返った時、今よりも多くの「財産」を抱えているに違いない。

電化前から非常に気になっていた備中神代。電化直前、電化直後、そして2017年にはレンタカーで訪問。2017年には既にかつての駅舎はなかったのはさみしい限りであった。そしてこの後布原へ向かったが、あまりの幅員狭に断念せざるを得なかったのは今でも心残りである。

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今回の旅はある意味私に新しい旅のスタイルを教えてくれた。後に私の旅はこのスタイルが進化し深化していった。だが、こうした風景はやはりその訪問当時にしか見られない貴重なものだ。
計5日間の「部活」であったが、帰宅するとまた旅に出たくなった。この年の夏休みには青春18がまた発売され、今度は部活でなく自主行動での旅に出る事になる。そして青春18が定着して恒例化していき、私の旅も恒例化していく。そして学校の長期休暇の度に「18の旅」は進化していった。次第に行程の方もロスなく無駄なく組めるようになってきた。人間とは知らぬ間に成長していくものだ。そしてそのような旅を続けていくうちに、やがてそれは「財産」となっていった。

国鉄時代の素敵な風景は今も私の胸に深く刻み込まれている。風景とは裏腹に経営状態や企業の姿勢を世間に問われ続け、現在は民営化され新しいスタイルになりもう30年以上が経過した。民営化された答えは果たして・・・
ある人は「人生の折り返し地点を迎えた」等と言う。「折り返し地点」とは何であろうか?もし人生に「折り返し」があるとすれば、それはやがて「幼少時代」に戻っていくという事なのであろうか?私は「折り返し地点」など無いと思う。「振り返り」はするが折り返さない。私の旅は乗り潰しの都合上「折り返し」があるが、それは乗車駅に戻ってくる事を指す。つまりそれは人生には当てはまらないと思う。
これからも私はおそらく鉄道にふれあい、そして電車、気動車に揺られ続けていくであろう。そしていつしか自身を再び振り返った時、今よりも多くの「財産」を抱えているに違いない。

電化前から非常に気になっていた備中神代。電化直前、電化直後、そして2017年にはレンタカーで訪問。2017年には既にかつての駅舎はなかったのはさみしい限りであった。そしてこの後布原へ向かったが、あまりの幅員狭に断念せざるを得なかったのは今でも心残りである。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅④
2019-03-10
私たち御一行は、高松より「中村夜行」こと731Dに乗り高知を目指す。先程も触れたが、この列車にはリクライニングシート車両が連結されている。中村で折り返し急行「あしずり」に変身するため車両自体はグリーン車マークが入っているが、実際には急行に変身してもグリーン車としては運用されておらず、指定席としての運用だ。やるなっ、国鉄四国支部!かなりの太っ腹でないか。さらに中村夜行こと731Dもこの「指定席」の車両にも特別な料金設定をしておらず、普通に解放!トーカ堂の北さんではないが、これはかなりお買い得である。しかしながら皆考えることは同じ。この車両ばかり「満員御礼」であるのはある意味常識か。

近年に高架化された高知。こちらは当然高架化前の撮影になるが、隣の駅が小さく表記されているのは実際に隣にある駅で、大きく表記されているのは利用者が多い隣の駅である。
さて、我々は未明の高知で731Dを乗り捨てる。もちろん我々が去った席は即座に埋まる事であろう。高知に着いたのは4時20分。ここで高松に折り返す列車は高知4時58分、始発のDLが牽引するPCだが、旧型客車ではなく、なんと新しく置き換わった50系であった。少々残念であったが、今考えたら50系の乗車はある意味貴重であったのではなかろうか。全国の旧型客車を置き換えるために造られたであろう50系であるが、国鉄がJRに移管されてからは急激に客車列車の運用が減ったと思う。そのため、せっかく製造された50系も活躍の場が減っていき、ある意味短命だった印象なのだが、皆様はどうお感じになられただろう。

列車交換のためのわずかな停車時間であったが、なかなか魅力のある駅を発見したものだ。こうした駅は私が最も好む部類であるが、近年ではこうした駅舎を持つ駅も少なくなってきた。
しかし、高知から乗り換えなしで高松に行けるのはとても楽ではあるが、高松着が10時34分の為、約5時間乗りっ放しである。逆に後半は修業的な精神的ダメージを受ける覚悟をしなければならないであろう。
とはいいながら途中の豊永など私か知らなかった駅なのに、列車交換のため少々停車していたらなぜか愛着が湧き出しそうな感情になってしまう。意外に四国はこうした駅の宝庫でなかろうか。
そんな発見に喜ぶ中学生を乗せた列車は、頭端式の櫛形ホームにDCが顔を連ねる高松に着くと、改札口横には「讃岐うどん」の文字。香川と言えばこれだろう!私達は一目散にその文字の見える「空間」へと向かった。この時が「初」讃岐うどんであるが、高松では連絡船に乗り換える事になっている。だが約一時間ほどの待ち合わせのため少々時間がある。うどんで体を温めてから本州に上陸しよう!そんな重大な決意を胸に箸を動かす。そういえば先述した通り瀬戸大橋はまだ無い。本州へ上陸するには「宇高」か「仁掘」の連絡船に乗らなければならない。連絡船というとどうしても「北へ帰る人の群れは誰も無口」で「凍えそうなカモメ」でも出てきそうな寒々しい風景をイメージしてしまうが全くそんな事はなく、むしろ甲板でかっぱえびせんを天高く翳せば元気なカモメが群れをなす。そんなアットホームな乗り物であるが、もちろん本州へは民間のフェリーでも上陸できる。しかし基本「船」しかない。
高松では連絡船乗り場に向かう通路がホームに対し斜めになっている。現在ではホームに対し約90度でうどん店があるのだが、当時は斜め45度くらいに連絡船への連絡通路があり、それにあわせてうどん店もホームから見ると斜め45度になっていた。
食事を終了し宇高航路に乗り換え。実は青春18で「連絡船」も乗船可能であるため、もちろん別料金なしで本州入りできる。切符の機能をフルに使っての行程だ。
宇野で船から列車にチェンジして岡山より山陽本線の「普通列車」に乗り換え、いよいよ最終の行程に近付く。
途中、神戸で東海道線に変わるが、今で言う上野・東京ラインが東京をスルーするように神戸も何気なく途中駅の様に過ぎ何のアクセントも無い。

実質的に徳島線との乗り換え駅である阿波池田。実際にはとなりの佃で分岐するが、土讃線の要衝駅である事は今も昔も変わらない。
そんな列車で姫路から大垣行きに乗り換えるのだが、途中岡山辺りでアクシデントがあった。それは岡山発姫路行き普通列車で姫路に向かうのだが、メンバーの若干名が乗っていなかった・・・顧問の教諭が慌てて折りかえし岡山に向かうが、私を含め乗車していたグループは予定通りそのまま姫路まで向かう事になった。
どこの駅だか忘れたが、新幹線停車駅で我々に追いついた顧問の教諭はしっかりとはぐれたメンバーを連れていた。どうやって見つけだしたかは忘れてしまったが、何れにせよ無事メンバー全員揃って大垣まで向かう事ににり教諭も面子が保てたろう。だが、ある意味予想外の出費にいささか怒りのやり場も無いまま大垣に向け列車に身を預けていた。しかしながら「携帯電話」等無い時代。どのようにして探し出したのだろう。

国鉄時代の高松の画像はウィキより。ご覧頂いてわかると思うが、手前のうどん店がホームに向かって斜めになっている。これは画像手前に連絡船乗り場に繋がる通路があるためで、現在この通路はない。そしてうどん店もホームに対し垂直になった。
既に疲労困憊の皆の衆であるが、こういう時こそやたら腹が減るものだ。列車に乗っていると、結局「食う」か「寝る」かの選択肢しかない。または車両や駅の風景を楽しむ・・・とはいえ、レールファンでない方にはこの「駅を見て楽しむ」という行為はなかなか理解してもらえないかも知れないのだが・・・
さて、旅も終焉に近づきもう帰るのみの行程であるが、それより何より「風呂」に入りたい。今回の旅行程は4泊5日なのだが、お風呂タイムなど無い!乗り換え優先、制覇優先であるため宿は夜行列車だ。もちろん寝台などではなく普通に座席だ。たまにはふとんの中で寛ぎたい。いや、こういうシーンだからこそ布団のありがたみがわかるものだ。

これが大垣駅の入場券であるが料金に注目していただきたい。ご覧の通り、他の駅に比べ破格の料金設定である!その理由は・・・
そんな普段の幸せやありがたみが身に染みてわかった中学生を乗せた「湘南色」はようやく大垣に着いた。とりあえず待ち時間がたっぷりあるので入場券を買いに行く。大垣の入場券はなんと80円!国鉄の入場券は120円なのだがこの「入場セール」に、惜しげもなく10枚以上購入。なぜこんなに破格なのかというと、大垣には近鉄(現・養老鉄道)が乗り入れており国鉄と改札が共同であったのでこんな破格な入場券が提供される仕組みだったのだ。
さて、一瞬であるが入場券のブームが到来したあと、いよいよ上り「大垣夜行」に乗り帰郷する。とはいえ、もちろん東京行きだ。座席確保はもう手慣れたものだ。東京寄りでは恐らく急行「東海」とペアで運用されているであろうお馴染みの165系であるので勝手はわかっている。
電留線から入線してきた「大垣夜行」は普通列車なのに妙に風格があった。車内に乗り込むと、早速リクライニングできない固定ボックスシートに男同士身を寄せながら出発の時間を待っていた。

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近年に高架化された高知。こちらは当然高架化前の撮影になるが、隣の駅が小さく表記されているのは実際に隣にある駅で、大きく表記されているのは利用者が多い隣の駅である。
さて、我々は未明の高知で731Dを乗り捨てる。もちろん我々が去った席は即座に埋まる事であろう。高知に着いたのは4時20分。ここで高松に折り返す列車は高知4時58分、始発のDLが牽引するPCだが、旧型客車ではなく、なんと新しく置き換わった50系であった。少々残念であったが、今考えたら50系の乗車はある意味貴重であったのではなかろうか。全国の旧型客車を置き換えるために造られたであろう50系であるが、国鉄がJRに移管されてからは急激に客車列車の運用が減ったと思う。そのため、せっかく製造された50系も活躍の場が減っていき、ある意味短命だった印象なのだが、皆様はどうお感じになられただろう。

列車交換のためのわずかな停車時間であったが、なかなか魅力のある駅を発見したものだ。こうした駅は私が最も好む部類であるが、近年ではこうした駅舎を持つ駅も少なくなってきた。
しかし、高知から乗り換えなしで高松に行けるのはとても楽ではあるが、高松着が10時34分の為、約5時間乗りっ放しである。逆に後半は修業的な精神的ダメージを受ける覚悟をしなければならないであろう。
とはいいながら途中の豊永など私か知らなかった駅なのに、列車交換のため少々停車していたらなぜか愛着が湧き出しそうな感情になってしまう。意外に四国はこうした駅の宝庫でなかろうか。
そんな発見に喜ぶ中学生を乗せた列車は、頭端式の櫛形ホームにDCが顔を連ねる高松に着くと、改札口横には「讃岐うどん」の文字。香川と言えばこれだろう!私達は一目散にその文字の見える「空間」へと向かった。この時が「初」讃岐うどんであるが、高松では連絡船に乗り換える事になっている。だが約一時間ほどの待ち合わせのため少々時間がある。うどんで体を温めてから本州に上陸しよう!そんな重大な決意を胸に箸を動かす。そういえば先述した通り瀬戸大橋はまだ無い。本州へ上陸するには「宇高」か「仁掘」の連絡船に乗らなければならない。連絡船というとどうしても「北へ帰る人の群れは誰も無口」で「凍えそうなカモメ」でも出てきそうな寒々しい風景をイメージしてしまうが全くそんな事はなく、むしろ甲板でかっぱえびせんを天高く翳せば元気なカモメが群れをなす。そんなアットホームな乗り物であるが、もちろん本州へは民間のフェリーでも上陸できる。しかし基本「船」しかない。
高松では連絡船乗り場に向かう通路がホームに対し斜めになっている。現在ではホームに対し約90度でうどん店があるのだが、当時は斜め45度くらいに連絡船への連絡通路があり、それにあわせてうどん店もホームから見ると斜め45度になっていた。
食事を終了し宇高航路に乗り換え。実は青春18で「連絡船」も乗船可能であるため、もちろん別料金なしで本州入りできる。切符の機能をフルに使っての行程だ。
宇野で船から列車にチェンジして岡山より山陽本線の「普通列車」に乗り換え、いよいよ最終の行程に近付く。
途中、神戸で東海道線に変わるが、今で言う上野・東京ラインが東京をスルーするように神戸も何気なく途中駅の様に過ぎ何のアクセントも無い。

実質的に徳島線との乗り換え駅である阿波池田。実際にはとなりの佃で分岐するが、土讃線の要衝駅である事は今も昔も変わらない。
そんな列車で姫路から大垣行きに乗り換えるのだが、途中岡山辺りでアクシデントがあった。それは岡山発姫路行き普通列車で姫路に向かうのだが、メンバーの若干名が乗っていなかった・・・顧問の教諭が慌てて折りかえし岡山に向かうが、私を含め乗車していたグループは予定通りそのまま姫路まで向かう事になった。
どこの駅だか忘れたが、新幹線停車駅で我々に追いついた顧問の教諭はしっかりとはぐれたメンバーを連れていた。どうやって見つけだしたかは忘れてしまったが、何れにせよ無事メンバー全員揃って大垣まで向かう事ににり教諭も面子が保てたろう。だが、ある意味予想外の出費にいささか怒りのやり場も無いまま大垣に向け列車に身を預けていた。しかしながら「携帯電話」等無い時代。どのようにして探し出したのだろう。

国鉄時代の高松の画像はウィキより。ご覧頂いてわかると思うが、手前のうどん店がホームに向かって斜めになっている。これは画像手前に連絡船乗り場に繋がる通路があるためで、現在この通路はない。そしてうどん店もホームに対し垂直になった。
既に疲労困憊の皆の衆であるが、こういう時こそやたら腹が減るものだ。列車に乗っていると、結局「食う」か「寝る」かの選択肢しかない。または車両や駅の風景を楽しむ・・・とはいえ、レールファンでない方にはこの「駅を見て楽しむ」という行為はなかなか理解してもらえないかも知れないのだが・・・
さて、旅も終焉に近づきもう帰るのみの行程であるが、それより何より「風呂」に入りたい。今回の旅行程は4泊5日なのだが、お風呂タイムなど無い!乗り換え優先、制覇優先であるため宿は夜行列車だ。もちろん寝台などではなく普通に座席だ。たまにはふとんの中で寛ぎたい。いや、こういうシーンだからこそ布団のありがたみがわかるものだ。

これが大垣駅の入場券であるが料金に注目していただきたい。ご覧の通り、他の駅に比べ破格の料金設定である!その理由は・・・
そんな普段の幸せやありがたみが身に染みてわかった中学生を乗せた「湘南色」はようやく大垣に着いた。とりあえず待ち時間がたっぷりあるので入場券を買いに行く。大垣の入場券はなんと80円!国鉄の入場券は120円なのだがこの「入場セール」に、惜しげもなく10枚以上購入。なぜこんなに破格なのかというと、大垣には近鉄(現・養老鉄道)が乗り入れており国鉄と改札が共同であったのでこんな破格な入場券が提供される仕組みだったのだ。
さて、一瞬であるが入場券のブームが到来したあと、いよいよ上り「大垣夜行」に乗り帰郷する。とはいえ、もちろん東京行きだ。座席確保はもう手慣れたものだ。東京寄りでは恐らく急行「東海」とペアで運用されているであろうお馴染みの165系であるので勝手はわかっている。
電留線から入線してきた「大垣夜行」は普通列車なのに妙に風格があった。車内に乗り込むと、早速リクライニングできない固定ボックスシートに男同士身を寄せながら出発の時間を待っていた。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅③
2019-03-05
本日で3日目を迎えた。皆もそろそろ列車に乗って過ごす事に慣れてきたようで、逆に乗り物に乗っていないと落ち着かない体質に変化していった。そして列車の中で仮眠する術も知らず知らずの内に身につけてきたようだ。とはいえ「18」による同業者が全国に多数犇めくため、下り夜行列車は軒並み満員御礼である。
そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅②
2019-02-25
さて、我々御一行は「大垣夜行」にて一路名古屋を目指す。もちろん「初」の為、皆の衆は興奮の雨・霰で一睡もできない・・・わけでもない。一体何をしていたのかはハッキリ覚えていないが、私はとにかく起きていたのはハッキリ覚えている、いや、寝られなかった。そんな状態がのらりくらりと続き、東京を出てから約6時間半オーバーで名古屋着した。ここで関西本線に乗り換え亀山に向かうのだが、我々が座席を離れた瞬間、座席に座れず東京から乗車していた「同業者」たちが我々の占領していた座席を目指し一目散に向かってきた。そうだろう。例えこの先岐阜や大垣までであっても座って仮眠したいのは誰でも同じだ。大垣までならばその先「大垣ダッシュ」が待っている。少しでもエネルギーを蓄えなければ・・・

電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅①
2019-02-20
節分も過ぎ、寒さもいささかやわらいできた今日この頃、そろそろ「青春」のシーズンになってきた。
私が青春18きっぷを使い旅に出たのは1982年の春である。そう、それこそ青春18きっぷがこの世に登場した時であった。
既に以前紹介した今回の旅であるが、改めてバックナンバーを引っ張り出してみて紹介してみようと思う。と言っても当時はまだ国鉄時代。民営化がささやかれ赤字ローカル線廃止の話題に盛り上がる中「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーンも重なり「18」を握りしめたレールファンが全国に犇めいていた。もう35年以上前になるが、当時の模様を再現しながら紹介してみよう。もちろん、当時はまだ産まれていない方もおられる事であろうし知らない駅名や列車名が出てくるかも知れない。そんな方も「こんな旅があったんだ」みたいな発見を少しでもしてもらえたら本望である。

旅の始まりはいつも西寒川から。もちろん、新しいレールファンにとってこの駅は伝説的な存在であろう。だが、こうした伝説を少しでも共感していただけたら幸いである。
1982年の春、新しいフリー切符が発売された。その名も「青春18のびのびきっぷ」だ。現在は「のびのび」が無くなり「青春18きっぷ」としてお馴染みとなっている。普通・快速列車と一部区間は特急列車に乗車でき、JR線各社の路線で乗降り自由。登場初期は8000円で一日有効が3枚と二日間有効が1枚の計4枚で合計5日間有効であった。最後の二日間有効の一枚の意味は不明であるが、一日有効と同じ一枚2000円であるのが特徴である。その後いろいろ変更され、現在は5日間有効で11500円。学生の長期休暇に合わせて発売される。
私は登場したシーズンに初・18きっぷを使用して旅に出た。既に先述している「鉄道研究クラブ」という中学校のクラブ活動の一環として春休みを利用しての出陣だ。
「鉄道研究クラブ」と名乗っているが、別に朝練などは無く(朝から何を練習するのか?)、所属選手はそれなりにいたが、いつも決まったメンバーが出席している、いわゆる「帰宅部」と化していると言っても過言ではない。というより、授業が終わった放課後などに何を活動すれば?という、テーマもなく専用の部屋もない状態で果たして活動できるのか。だが、写真部と顧問が同じの為若干写真部とグルで活動していた時期も。時には理科室、時には放送室と「居場所」の固定が無いまま細々と活動していた。しかし休日になると東京方面などに繰り出し「撮り」に出向。その時は「お前、いたの?」という所属選手まで参戦してくるという、何とも特殊な部活であった。

1982年春に登場した18きっぷ。発売当初は「のびのび」であったが、しばらくして現在のネーミングになった。発売当初は2日間有効の切符が一枚あった。その真意は不明であるが、8000円で5日間有効であったのでお買い得であった。
さて、前置きが長くなってしまったが、鉄道研究クラブの「部活」として旅に出ることになったメンバーは私を含め5人である。プラス顧問の教諭を入れ合計6人での旅になった。だが実際は我々仲間内で旅に出る予定であったが「未成年者のみの行動は危ない!」との理由から教諭が参戦する事になったのだ。
というより、我々の計画が教諭の耳に入り見て見ぬ振りができなくなったのであろう。ある意味、学校の、教諭の面子を保つためかも知れないが、何れにせよ、この「大人の事情」が後に役立つ事になろうとは思いもしなかった。
ところで既に、行程は私が計画したのは「木次恋しぐれ」で先述したが、この時「いい旅チャレンジ20000km」の真っ最中であり、踏破こそ乗車の証でもあった。乗り潰しも含め計画していったが、今その行程を見てみると、なかなか無駄が多く🔰若葉マークが見え隠れしている。ここをこう乗れば制覇(当時のいい旅チャレンジ20000kmでは踏破と表現)できるのになぁ~みたいな部分が多々あるが、何しろ「初」の為、しかも全行程を普通列車に制限しなければならないため自身の全ての英知を出し切って時刻表を駆使しながらの計画立案であった。ようやく教諭からOKがでたのでいよいよ実行である。私の出発駅はもちろん「西寒川」だ!

西寒川の末期はキハ30であった。ロングシートで通勤用としては重宝したであろうが、キハ20に思い入れがあった私は、キハ20からキハ30に順次入れ替わっていく相模線のシーンにかなり辛い思いをした。
相模線・西寒川より19時15分発の最終列車に乗る。もちろん、西寒川から旅に出るメンバーは私一人の記憶。他のメンバーは「寒川」より乗車することになっている。教諭は確か茅ヶ崎からだったと思った。そして東海道線上りに乗り東京へ。東京で約3時間程待って「大垣行き」の夜行列車で西へ向かう行程だ。
さて、いよいよ出発の時が来た!東京発23時25分の大垣行き。3時間待たないと座れない・・・「ムーンライトながら」のように座席指定は無く、座席指定できるのはグリーン車のみである。もちろん全員のメンバーが3時間待ち普通座席に着席した。そしてタイフォンが鳴り響くと、我々を乗せた165系は大垣目指して西へ向かうのであった・・・

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私が青春18きっぷを使い旅に出たのは1982年の春である。そう、それこそ青春18きっぷがこの世に登場した時であった。
既に以前紹介した今回の旅であるが、改めてバックナンバーを引っ張り出してみて紹介してみようと思う。と言っても当時はまだ国鉄時代。民営化がささやかれ赤字ローカル線廃止の話題に盛り上がる中「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーンも重なり「18」を握りしめたレールファンが全国に犇めいていた。もう35年以上前になるが、当時の模様を再現しながら紹介してみよう。もちろん、当時はまだ産まれていない方もおられる事であろうし知らない駅名や列車名が出てくるかも知れない。そんな方も「こんな旅があったんだ」みたいな発見を少しでもしてもらえたら本望である。

旅の始まりはいつも西寒川から。もちろん、新しいレールファンにとってこの駅は伝説的な存在であろう。だが、こうした伝説を少しでも共感していただけたら幸いである。
1982年の春、新しいフリー切符が発売された。その名も「青春18のびのびきっぷ」だ。現在は「のびのび」が無くなり「青春18きっぷ」としてお馴染みとなっている。普通・快速列車と一部区間は特急列車に乗車でき、JR線各社の路線で乗降り自由。登場初期は8000円で一日有効が3枚と二日間有効が1枚の計4枚で合計5日間有効であった。最後の二日間有効の一枚の意味は不明であるが、一日有効と同じ一枚2000円であるのが特徴である。その後いろいろ変更され、現在は5日間有効で11500円。学生の長期休暇に合わせて発売される。
私は登場したシーズンに初・18きっぷを使用して旅に出た。既に先述している「鉄道研究クラブ」という中学校のクラブ活動の一環として春休みを利用しての出陣だ。
「鉄道研究クラブ」と名乗っているが、別に朝練などは無く(朝から何を練習するのか?)、所属選手はそれなりにいたが、いつも決まったメンバーが出席している、いわゆる「帰宅部」と化していると言っても過言ではない。というより、授業が終わった放課後などに何を活動すれば?という、テーマもなく専用の部屋もない状態で果たして活動できるのか。だが、写真部と顧問が同じの為若干写真部とグルで活動していた時期も。時には理科室、時には放送室と「居場所」の固定が無いまま細々と活動していた。しかし休日になると東京方面などに繰り出し「撮り」に出向。その時は「お前、いたの?」という所属選手まで参戦してくるという、何とも特殊な部活であった。

1982年春に登場した18きっぷ。発売当初は「のびのび」であったが、しばらくして現在のネーミングになった。発売当初は2日間有効の切符が一枚あった。その真意は不明であるが、8000円で5日間有効であったのでお買い得であった。
さて、前置きが長くなってしまったが、鉄道研究クラブの「部活」として旅に出ることになったメンバーは私を含め5人である。プラス顧問の教諭を入れ合計6人での旅になった。だが実際は我々仲間内で旅に出る予定であったが「未成年者のみの行動は危ない!」との理由から教諭が参戦する事になったのだ。
というより、我々の計画が教諭の耳に入り見て見ぬ振りができなくなったのであろう。ある意味、学校の、教諭の面子を保つためかも知れないが、何れにせよ、この「大人の事情」が後に役立つ事になろうとは思いもしなかった。
ところで既に、行程は私が計画したのは「木次恋しぐれ」で先述したが、この時「いい旅チャレンジ20000km」の真っ最中であり、踏破こそ乗車の証でもあった。乗り潰しも含め計画していったが、今その行程を見てみると、なかなか無駄が多く🔰若葉マークが見え隠れしている。ここをこう乗れば制覇(当時のいい旅チャレンジ20000kmでは踏破と表現)できるのになぁ~みたいな部分が多々あるが、何しろ「初」の為、しかも全行程を普通列車に制限しなければならないため自身の全ての英知を出し切って時刻表を駆使しながらの計画立案であった。ようやく教諭からOKがでたのでいよいよ実行である。私の出発駅はもちろん「西寒川」だ!

西寒川の末期はキハ30であった。ロングシートで通勤用としては重宝したであろうが、キハ20に思い入れがあった私は、キハ20からキハ30に順次入れ替わっていく相模線のシーンにかなり辛い思いをした。
相模線・西寒川より19時15分発の最終列車に乗る。もちろん、西寒川から旅に出るメンバーは私一人の記憶。他のメンバーは「寒川」より乗車することになっている。教諭は確か茅ヶ崎からだったと思った。そして東海道線上りに乗り東京へ。東京で約3時間程待って「大垣行き」の夜行列車で西へ向かう行程だ。
さて、いよいよ出発の時が来た!東京発23時25分の大垣行き。3時間待たないと座れない・・・「ムーンライトながら」のように座席指定は無く、座席指定できるのはグリーン車のみである。もちろん全員のメンバーが3時間待ち普通座席に着席した。そしてタイフォンが鳴り響くと、我々を乗せた165系は大垣目指して西へ向かうのであった・・・

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