三陸縦貫の旅⑦
2013-07-20
久慈を離れると、景色が見えないのは残念だが28年振りくらいに種差海岸や、後発の「プレイピア白浜」を通り、若干個人的な思い出のある(ちょっとこのブログでは記せない甘く切ない思い出とでも言いましょうか・・・)本八戸を過ぎると、本日の宿泊先の八戸に到着。新幹線が乗り入れて景色が一転してスッキリした感じがある。が、駅前は古くからの建物も多くあり懐かしさを感じさせてくれた。その名の通り「本八戸」の方が八戸の中心部にあり商業施設も多々ある。そしてなにより漁港が付近にあり、特に水産加工品は大変有名だ(「いか」とか・・・)。時刻表に載ってない「臨海鉄道」もあり、なんだかワクワクしてくる。
そんな感じで個人的に「蒼い」思い出が宿るこの八戸の街を、再び「制覇」という形で訪問することとなった。しかし、周知の通り、この2か月後に誰も想像しなかった事が起こった・・・
現在では復興してきていると思われる三陸地域であるが、私たちが考えている以上にまだまだ復興の兆しが見えていないのかもしれない。しかし現地の人たちは、思った以上に表情は明るい。実際に震災後に現地で確認したわけではないが、各メディアを通してみる限りそのような印象を持てたのは実にうれしい事と思う。
そう、八戸・・・私が十代の頃、急に仕事を退職して実家の八戸へ帰ってしまった「あの娘」は今どうしているのであろうか・・・この「三陸」という地に来るとかつての「蒼い」思い出がよみがえってくる。私は震災後もこうしてブログを更新できる事が出来る事は実にありがたい事だ。そう、生きているのだ!というより、もしかしたら「生かされている」のかも知れない・・・なんだか宗教的な表現になってしまったが、そういう事では無く、むしろこの「生かされた」命をもっと有意義にしなければいけないであろう。私たちはこの「生かされた」命で、この震災の教訓を後世に伝えなければならない。立派な「生き証人」として・・・
この震災で気付いた事、わかった事。それは島国特有の「一体感」と私は感じた。助け合う・・・普段私は、頭でわかっていても実際に普段から実行している事は多いとは言えない。しかし、本当に非常事態の時に、関東地区などでは帰宅困難者などに無料で、例えば横浜アリーナや東京国際展示場などを解放して支援する・・・これは国などからの指令よりもむしろ管理者の判断での事であろう。そして誰からの指令があるわけでもなくお互いを助け合い、そして「チームワーク」をフルに発揮した印象だ。実は私の妻は、当日は海老名駅付近で実母と会合し、帰宅した直後であったらしい。駅前の某コーヒーショップは無料で飲み物を提供。その後閉店時間になっても店内を解放してくれたと聞いた。電話が全くつながらない中、偶然つながった電話で母に迎えに来てもらったらしい。私は職場だったためこの知らせを後で聞いて「妻は安心だな」と胸を撫で下ろした・・・
日本人として、後世に伝えなければならないのはこの「こころ」「チームワーク」であろう。震災の記録や記憶はもちろんであるが、やはりこの「気持ち」を常に持ち続け、そして大事にしてもらいたい。私も日本人のひとりとして、この気持ちを後世に伝えていければ幸いである。
ところで、三陸関係の写真であるが、本文に掲載しきれなかったものをこの場で紹介したい。何かのお役に立てればと思う。1983年訪問時は上2枚で、残り全ては2011年1月の訪問時に撮影。


(1983年訪問時の国鉄時代の駅名表。本文には陸中野田を掲載。)

(36形の36は「サンリク」と読む。盛駅にて。)



(各駅名表。すべて2011年に撮影。)



(上記3枚、全て盛駅で撮影。JRホームと岩手開発鉄道の旧・旅客ホーム。)

(恋し浜駅の別角度から。リアスの特徴か、とても海岸近くの駅とは思えない。)

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そんな感じで個人的に「蒼い」思い出が宿るこの八戸の街を、再び「制覇」という形で訪問することとなった。しかし、周知の通り、この2か月後に誰も想像しなかった事が起こった・・・
現在では復興してきていると思われる三陸地域であるが、私たちが考えている以上にまだまだ復興の兆しが見えていないのかもしれない。しかし現地の人たちは、思った以上に表情は明るい。実際に震災後に現地で確認したわけではないが、各メディアを通してみる限りそのような印象を持てたのは実にうれしい事と思う。
そう、八戸・・・私が十代の頃、急に仕事を退職して実家の八戸へ帰ってしまった「あの娘」は今どうしているのであろうか・・・この「三陸」という地に来るとかつての「蒼い」思い出がよみがえってくる。私は震災後もこうしてブログを更新できる事が出来る事は実にありがたい事だ。そう、生きているのだ!というより、もしかしたら「生かされている」のかも知れない・・・なんだか宗教的な表現になってしまったが、そういう事では無く、むしろこの「生かされた」命をもっと有意義にしなければいけないであろう。私たちはこの「生かされた」命で、この震災の教訓を後世に伝えなければならない。立派な「生き証人」として・・・
この震災で気付いた事、わかった事。それは島国特有の「一体感」と私は感じた。助け合う・・・普段私は、頭でわかっていても実際に普段から実行している事は多いとは言えない。しかし、本当に非常事態の時に、関東地区などでは帰宅困難者などに無料で、例えば横浜アリーナや東京国際展示場などを解放して支援する・・・これは国などからの指令よりもむしろ管理者の判断での事であろう。そして誰からの指令があるわけでもなくお互いを助け合い、そして「チームワーク」をフルに発揮した印象だ。実は私の妻は、当日は海老名駅付近で実母と会合し、帰宅した直後であったらしい。駅前の某コーヒーショップは無料で飲み物を提供。その後閉店時間になっても店内を解放してくれたと聞いた。電話が全くつながらない中、偶然つながった電話で母に迎えに来てもらったらしい。私は職場だったためこの知らせを後で聞いて「妻は安心だな」と胸を撫で下ろした・・・
日本人として、後世に伝えなければならないのはこの「こころ」「チームワーク」であろう。震災の記録や記憶はもちろんであるが、やはりこの「気持ち」を常に持ち続け、そして大事にしてもらいたい。私も日本人のひとりとして、この気持ちを後世に伝えていければ幸いである。
ところで、三陸関係の写真であるが、本文に掲載しきれなかったものをこの場で紹介したい。何かのお役に立てればと思う。1983年訪問時は上2枚で、残り全ては2011年1月の訪問時に撮影。


(1983年訪問時の国鉄時代の駅名表。本文には陸中野田を掲載。)

(36形の36は「サンリク」と読む。盛駅にて。)



(各駅名表。すべて2011年に撮影。)



(上記3枚、全て盛駅で撮影。JRホームと岩手開発鉄道の旧・旅客ホーム。)

(恋し浜駅の別角度から。リアスの特徴か、とても海岸近くの駅とは思えない。)

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三陸縦貫の旅⑥
2013-07-18

(普代駅の駅舎。築堤上のホームから階段を下りて駅舎に向かう。構内には物産品店も併設。)
三陸鉄道と言えば、私の記憶だと当初のネーミングは「三陸縦貫鉄道」との「仮称」があったと思う。恐らく間に山田線を挟む形になるため「縦貫」を外したのであろう。一時期は山田線の一部区間・釜石~宮古も三鉄が運営しようという動きがあったらしいが、結局現在の形に落ち着いたと聞く。

(秘境駅で名高い白井海岸駅。付近には民家が見当たらないが、ちょっと遠目に海岸が見える。)
そんな事を「こたつ」に入りながら考えていると間もなく新線区間が終了に近付いてきた。そう、普代に到着だ。この普代駅は国鉄時代には棒線であったが、三陸鉄道となってからは一面二線の島式ホームで交換可能駅となった。それ以外はほとんど変化が無く、国鉄時代に訪問した時の面影が多々残る。駅舎には物産品線店が併設され、委託ながら駅員も配置された。
そんな普代をとても懐かしく感じる。約30年前の記憶はかなりというよりほとんど薄らいでおり、記録だけが残る中、この普代駅はしっかりと脳裏に焼き付いている。理由は分からないが、おそらく最初の訪問時の事前に「駅名全百科」などで情報を集めていたため、とても印象に残っていたのであろう。再訪の際には是非下車してみたい駅のひとつだ。

(ドラマでお馴染みの「堀内」。「ほりうち」とは読まずに「ほりない」と読む。ドラマでは「袖ヶ浜駅」として登場する。)
リアスの特徴が良く現れる風景を車窓に映し出しながらいよいよ「国鉄時代」の再訪となる。普代を出るとドラマでお馴染みの光景が私の前に現れる、と言っても当時は「ドラマ」は当然まだ放送されていないため、改めての確認作業となるのだが・・・全く関係ないが、出演している「キョン〇ョン」は、我地元・厚木出身だ!
そういえば先ほどの新線区間では、記すのが遅くなったが、色々なイベントがあった。物産品の販売や、車内の照明が落ちると「なまはげ」に扮した地元の方が車内を動き回っていた。しかし、どうやら子供には刺激が強かったようで蜂の巣を突いたように泣き止まない。
気が付けば「国鉄区間」ではその「なまはげ」は面を取り、泣き止んだ子供の母親と世間話をしていた・・・何か不思議な光景であったが、この「こたつ列車」も一部区間で復活の話を聞いた。これからも頑張っていただきたい思いである。

(国鉄時代の「陸中野田」。1983年の光景であるが、私の訪問時は雨だったのだと写真を見て気づいた。)
普代より先は「国鉄区間」になるが、途中、ドラマでお馴染みの「堀内」に着く。棒線一本のホームが開業時と変わらないが、「ほりうち」とは読まず「ほりない」と読む。ドラマでは「袖ヶ浜駅」として登場するが、出演している「キョン〇ョン」は、我地元・厚木出身である!
隣の白井海岸駅は三鉄になってからできた新しい駅だ。某秘境駅訪問家が「秘境駅」として紹介しているが、私の感覚からそれほど秘境ではない印象である。
野田玉川や陸中野田など、懐かしい駅を通り過ぎると久慈に到着。ドラマでは「北三陸駅舎」として登場する駅舎も2013年、つまり今年には復興の意味も込めてリニューアルされた。

(JR久慈駅。ドラマではお馴染みである)
私は乗り換えの為あまり滞在できなかったが、どこか懐かしい光景が甦る。ここで私はJRに乗り換え宿泊先の八戸に向かう。八戸線は1983年に八戸から始発で久慈までやってきて久慈線(当時)に乗り換えた。28年振りに来たこの久慈駅は行先こそ全く逆になるが、乗り換えるという「行為」は変わらない。再び八戸線に乗り込むときには既に辺りが暗くなっていた。前回訪問時には種差海岸付近でウミネコの群れを沢山見た。何か演歌にでも出てきそうな風景であったが、今回は残念ながら拝めない・・・
若干黄昏時を迎えた三陸の空は、今私が通ってきた「三陸」を照らしていた。振り返ると、そこには薄暗くなってきた久慈駅のホームが段々小さくなっていく。冬至を過ぎてまだそれほど日にちが経っていない東北の夕暮れは早い時間帯に夜を迎える。17時前というのに既に景色が確認できないくらいにまでになってきた。

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三陸縦貫の旅⑤
2013-07-16

(こたつ列車の36-2100形。座敷タイプとこたつタイプに変身できる。画像はウイキぺディアより。)
宮古に到着すると、三陸鉄道の列車と2~3分の接続しかないとのアナウンスであったため一目散に乗場へ向かった。山田線に乗っていた乗客の殆どが三陸鉄道への乗り換え客であった。そのため「みんなに付いていく」事で乗場を探す手間が省けるのであるが、考えてみれば既に国鉄時代には訪問済の為勝手は分かるはずであった。が、しかし三陸鉄道になってからはJRとホームが分離されたため若干歩く。
早速乗り込もうとするが、既にいる先客が入り口付近で滞っているためなかなか車内に入れない。既に出発予定時間を過ぎ、更に遅れた我々を待っていてくれたので更に遅れがプラスされているわけである。
ようやく乗車した私だが、なんと全席指定のはずの私の座席に先客がいたのだ!もちろん後が閊えているため空いている山側の席に身を寄せ、列車が走り出したら切符を係に見せて確認作業。
座席番号等すべて確認したが、いわゆる「ダブルブッキング状態」のまま私が引く事でその場を収めたが、後日もう一度自身で確認すると、旅行会社が日付を一日誤って発行していた事が判明。「私が引く」事が正解であった。海側の座席は全て埋まっていたが、山側は全く無人状態であったので何とか私は「こたつ」を体験する事に成功。荷物置き場にも困ることなく、むしろVIP待遇ではないか!との思いを胸に秘めJR八戸線の待つ久慈へ向かったのであった。

(新線区間の摂待。普通に読めない!)
海側の座席でないのは残念であるが、田老までは国鉄時代に足跡をつけている。国鉄時代は棒線であったが、島式ホーム仕様になっていて築堤のスペースには将来の交換駅になる空間がちゃんとあった。もちろん、私の再訪時にはそのスペースにちゃんとレールが敷かれており、列車もちゃんと通っていた。かつて自分が見た「未成部分」が完成して現役で頑張っている姿を確認できる事って、これ、すごく素敵な体験だ。しかもその先には新しい「レール」が顔を出す。その区間を乗車できる。何とも言えぬ思いはレールファン冥利に尽きる思いだ。

(島越駅は震災時、津波で施設がほぼ流失して壊滅状態に。2014年の復帰が待たれる。)
新線区間の小本では、ここより更に分岐して岩泉線の岩泉駅までの計画があったが、周知の通り、そのような路線は現在存在しない。更に岩泉線は災害の為現在も代行バスでの運用である・・・1983年の訪問時には、八戸から八戸線の始発で久慈で乗換え普代までやって来た。そこから周遊券でも乗車OKな「国鉄バス」で北山崎展望台で更に乗り換え岩泉まで行ったものだ。確か岩泉を12時台の列車だったはずであるが、現在はこの時間帯の列車設定は無い。というより災害で不通となっていて列車自体が動いていないが、おそらく復旧せずにこのまま廃止の公算が強い。若干残念ではあるが、田老~普代間が開通しただけでも喜ばしい事。その区間を体験できるだけでも素晴らしい喜びだ。
トンネル区間が多く続く中、海が見え隠れする三陸の車窓は実に穏やか。とても2か月後にやってくる震災の事など想像もつかないほど「三陸らしい」時間が過ぎて行った。

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三陸縦貫の旅④
2013-07-14

(JR釜石駅構内。正月も明け、長閑な風景と時間が流れる。)
1983年以来、山田線に久々に乗る・・・宮古までではあるが、少年時代と中年(?)時代とでは同じ風景でも違って見えるのは気のせいであろうか?確かに山田線の各設備は当時より古いものもあればリニューアルされているところもある。釜石駅は私が訪問した当時のままであった。変化があるとすれば三陸鉄道が乗り入れている事であるが、私の訪問時は既に駅付近の鉄橋やホームも工事中であり、開通した現在を体験してみてもあまり違和感無く、むしろ懐かしく受け入れてしまった。JRホームも駅名表がJR仕様になったが、そんな事が気にならないくらい昔のままの風景であった。「そう、この階段を下りて入場券買いに行ったよなぁ・・・」など、少年時代に帰ったような気分になっていた。

(難読駅でもある「うのすまい」。震災からの復旧が待たれる。)
久々に体験した山田線であるが、私の訪問から2ヵ月後に震災の被害に遭うとは夢にも思わなかった。この山田線の釜石~宮古間は駅設備などが流出や浸水など、とても大きな被害を受け、現在も不通のままである。
私の訪問時、大槌や吉里吉里など、少々のリニューアルがあるものの、昔のままの佇まいのまま私を迎えてくれた。途中の陸中山田も若干のリニューアル意外はほぼ原型をとどめており、懐かしさが漂った。

(連日のように震災時にはTVで被災地の様子が報道された。
そんな思い出の地を何気なく過ぎていくと、程なく宮古に到着。実はこのとき列車は10分くらいの遅れが発生していた。予定では9分の乗り継ぎ時間のため、三陸の「北」の制覇はいわばあきらめムードであったが、私が乗車予定の三陸鉄道「こたつ列車」はJRの列車を待ってくれるとのアナウンス!一気に期待を膨らませる私であったが、この後とんでもない事が待っていたのだ・・・

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三陸縦断の旅③
2013-07-12
吉浜より新線区間になる。やはり新線区間だけあって「新鮮」である。いつ開通したのかおぼろげだったのでちょっと歴史を調べてみたら、なんと1984年に全通と記されていた。これって私が訪問した翌年ではないか!私はもっと後の開通と思っていたら意外に年月が経っていたいたのかという印象。つまり全通開業してもう30年近く経とうとしているのだ。その約30年前に「唐丹」「平田」のふた駅が新設されている。
ところが、現在この吉浜~釜石間が震災の影響で不通となっている。だが嬉しいことに2014年4月の復旧に向け工事は進んでいるとの報告。全線復旧の日が待ち遠しい。


(唐丹・平田ともに私にとっては「新設」。三陸の「夢」が詰まっている。)
さて、いよいよ新線区間の初体験。やはり気のせいか線形が良い。しかし「リアス」の特徴なのか、トンネルも多く、大自然に対しかなり自身の主張をした感がある。海岸を走るので海が所々顔を出すが、なぜか山の風景が目立つのは気のせいであろうか。
そんな中、私の乗った「レトロ風」では地域の名産品の販売の他、手造りシチューのサービスも。やはり通常の車両ではなく「レトロ風」のせいか、いつもと違う気分での「制覇」は、三陸の観光客のひとりとなって新春の「三陸色」に染まっていった。

(釜石駅にてJRホームから望む。2両編成の私の乗った車両は左側である。右側は通常車両。)

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ところが、現在この吉浜~釜石間が震災の影響で不通となっている。だが嬉しいことに2014年4月の復旧に向け工事は進んでいるとの報告。全線復旧の日が待ち遠しい。


(唐丹・平田ともに私にとっては「新設」。三陸の「夢」が詰まっている。)
さて、いよいよ新線区間の初体験。やはり気のせいか線形が良い。しかし「リアス」の特徴なのか、トンネルも多く、大自然に対しかなり自身の主張をした感がある。海岸を走るので海が所々顔を出すが、なぜか山の風景が目立つのは気のせいであろうか。
そんな中、私の乗った「レトロ風」では地域の名産品の販売の他、手造りシチューのサービスも。やはり通常の車両ではなく「レトロ風」のせいか、いつもと違う気分での「制覇」は、三陸の観光客のひとりとなって新春の「三陸色」に染まっていった。

(釜石駅にてJRホームから望む。2両編成の私の乗った車両は左側である。右側は通常車両。)

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