廃止路線を訪ねて⑫ 高砂線
2013-08-07
1980年代に数多くの「ローカル線」が廃止されたが、これから紹介する高砂線もそのひとつだ。1984年11月まで営業していた高砂線は、終点の高砂から先1.7km先に貨物専用駅の「高砂港」があった。私は1983年3月に旅客駅の終点・高砂まで訪問している。
今回はこの高砂線を紹介するにあたり「懐かしの鉄道車両&風景ーひょん君撮影編ー」の管理人様よりご協力いただきました。協力写真に関しては「ひょん君」と記させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

(私が所有している高砂線の唯一の写真。とりあえず制覇の「証」だ。)
高砂線は、山陽本線の加古川から南に下り高砂市の高砂まで至る6.3kmの非電化単線の路線であった。高砂から先に1.7kmの貨物専用線があり、総延長が8.0kmの短い路線であったが、加古川の隣の駅・野口では別府鉄道と連絡していた。別府鉄道は高砂線より一足早く1984年2月に廃止されてしまい、寂しさが漂っていた。しかしこの野口で両者間の乗り換えはレールファン以外はほぼ皆無であったろう。

(以前に紹介した別府鉄道。野口駅より高砂線と若干並走する。)
高砂線のハイライトはこの野口駅と終点高砂が私のお気に入りであった。特に野口は島式ホーム一本で片面ずつを国鉄と別府鉄道で使用し乗り換える際は跨線橋を使わずに同一ホームで乗り換えできるという優れものだ。確か駅員無配置であったはずであるが、別府鉄道は旅客がある方が珍しく、特に土山線は貨物鉄道の色が強かった。


(晩年の野口駅。既に別府鉄道のレールは無く、ホームも草が生い茂る。ひょん君提供写真。)

(野口駅付近。写真下部中央には別府鉄道の踏切跡が確認できる。ひょん君提供写真。)
特に上記写真をご覧いただくとお分かりいただけると思うが、ローカル線にしては街並みが繁華街している。それなりに利用者があると思われるが、実は付近を山陽電気鉄道が走っており、神戸や姫路方面へは加古川で乗換が無い分、便利なのかも知れず、本数の少ない高砂線よりも利用者は圧倒的だ。


(鶴林寺駅。駅前のお寺から命名された駅名。ひょん君提供写真。)
鶴林寺を過ぎると尾上駅があり、付近に山陽電気鉄道「尾上の松」駅があり乗換可能であった。そして次の「高砂北口」では、ズバリ「電鉄高砂」との接続駅であった。お気づきと思うが、つまり高砂付近は山陽電気鉄道とほぼ「並走状態」であったのだ。この辺りが高砂線の運命を握っていたのかもしれないと私は思っていた。現に1991年には電鉄高砂が「高砂」に駅名変更した。同じ年に電鉄別府も「別府」に改称している。これは、当然ながら「かぶる」駅名が無くなったためであろう。


(晩年の高砂駅。旅客は一面一線であるが、貨物側線が沢山あり、貨物路線の役割が大きかった事を物語っていた。ひょん君提供写真。)
そして終点の高砂は、どちらかというと貨物駅の印象が強い。沢山の引き込み線も分岐しており多くの工場に繋がっていた。駅員はいたが、旅客の為の駅員はおらず、貨物専用の駅員のみた配置され、いわゆる「無人駅」という事となる。ここから先の貨物線、高砂港は以前に旅客営業をしていた関係から一面一線のホームがあったが、高砂線が廃止される直前に一足早く廃止された。
貨物路線の色が濃かった高砂線も、鉄道による貨物輸送の衰退とともに居場所を失った感があるような晩年であった。「高砂」をウィキで調べてみたら「『高砂』(たかさご)は、能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。ワキ、ワキヅレがアイとの問答の後、上ゲ謌で謡う『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり』は結婚披露宴の定番の一つである。唄には、夫婦和合の妙(ハウツー)の意味がある。」という、なにやら「おめでたい」事の様だ。
高砂線は既に無い。確かに無いが、廃止ローカル線のイメージにある「深名線」や「添田線」などの「ザ・ローカル線」的な感じは無く、廃止候補に挙がった時はむしろ地味な存在のように見受けられたが、今こうして振り返ってみると、意外と見どころがたくさんあり、特に別府鉄道の接続駅である野口は印象的だ。私はこうした路線を数多く制覇してきた。もちろん制覇できなかった路線も少なくない。しかし「訪問できた喜び」は、必ずや「素敵な記憶」となり、その「素敵な記憶」となるものをこれからも絶え間なく追い続ける事であろう。

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今回はこの高砂線を紹介するにあたり「懐かしの鉄道車両&風景ーひょん君撮影編ー」の管理人様よりご協力いただきました。協力写真に関しては「ひょん君」と記させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

(私が所有している高砂線の唯一の写真。とりあえず制覇の「証」だ。)
高砂線は、山陽本線の加古川から南に下り高砂市の高砂まで至る6.3kmの非電化単線の路線であった。高砂から先に1.7kmの貨物専用線があり、総延長が8.0kmの短い路線であったが、加古川の隣の駅・野口では別府鉄道と連絡していた。別府鉄道は高砂線より一足早く1984年2月に廃止されてしまい、寂しさが漂っていた。しかしこの野口で両者間の乗り換えはレールファン以外はほぼ皆無であったろう。

(以前に紹介した別府鉄道。野口駅より高砂線と若干並走する。)
高砂線のハイライトはこの野口駅と終点高砂が私のお気に入りであった。特に野口は島式ホーム一本で片面ずつを国鉄と別府鉄道で使用し乗り換える際は跨線橋を使わずに同一ホームで乗り換えできるという優れものだ。確か駅員無配置であったはずであるが、別府鉄道は旅客がある方が珍しく、特に土山線は貨物鉄道の色が強かった。


(晩年の野口駅。既に別府鉄道のレールは無く、ホームも草が生い茂る。ひょん君提供写真。)

(野口駅付近。写真下部中央には別府鉄道の踏切跡が確認できる。ひょん君提供写真。)
特に上記写真をご覧いただくとお分かりいただけると思うが、ローカル線にしては街並みが繁華街している。それなりに利用者があると思われるが、実は付近を山陽電気鉄道が走っており、神戸や姫路方面へは加古川で乗換が無い分、便利なのかも知れず、本数の少ない高砂線よりも利用者は圧倒的だ。


(鶴林寺駅。駅前のお寺から命名された駅名。ひょん君提供写真。)
鶴林寺を過ぎると尾上駅があり、付近に山陽電気鉄道「尾上の松」駅があり乗換可能であった。そして次の「高砂北口」では、ズバリ「電鉄高砂」との接続駅であった。お気づきと思うが、つまり高砂付近は山陽電気鉄道とほぼ「並走状態」であったのだ。この辺りが高砂線の運命を握っていたのかもしれないと私は思っていた。現に1991年には電鉄高砂が「高砂」に駅名変更した。同じ年に電鉄別府も「別府」に改称している。これは、当然ながら「かぶる」駅名が無くなったためであろう。


(晩年の高砂駅。旅客は一面一線であるが、貨物側線が沢山あり、貨物路線の役割が大きかった事を物語っていた。ひょん君提供写真。)
そして終点の高砂は、どちらかというと貨物駅の印象が強い。沢山の引き込み線も分岐しており多くの工場に繋がっていた。駅員はいたが、旅客の為の駅員はおらず、貨物専用の駅員のみた配置され、いわゆる「無人駅」という事となる。ここから先の貨物線、高砂港は以前に旅客営業をしていた関係から一面一線のホームがあったが、高砂線が廃止される直前に一足早く廃止された。
貨物路線の色が濃かった高砂線も、鉄道による貨物輸送の衰退とともに居場所を失った感があるような晩年であった。「高砂」をウィキで調べてみたら「『高砂』(たかさご)は、能の作品の一つ。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。ワキ、ワキヅレがアイとの問答の後、上ゲ謌で謡う『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり』は結婚披露宴の定番の一つである。唄には、夫婦和合の妙(ハウツー)の意味がある。」という、なにやら「おめでたい」事の様だ。
高砂線は既に無い。確かに無いが、廃止ローカル線のイメージにある「深名線」や「添田線」などの「ザ・ローカル線」的な感じは無く、廃止候補に挙がった時はむしろ地味な存在のように見受けられたが、今こうして振り返ってみると、意外と見どころがたくさんあり、特に別府鉄道の接続駅である野口は印象的だ。私はこうした路線を数多く制覇してきた。もちろん制覇できなかった路線も少なくない。しかし「訪問できた喜び」は、必ずや「素敵な記憶」となり、その「素敵な記憶」となるものをこれからも絶え間なく追い続ける事であろう。

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