廃止路線を訪ねて⑬ 倉吉線
2013-08-21
倉吉線・・・「いい旅チャレンジ20000km」の企画が無ければ出会わなかったであろう。1980年代の国鉄路線では、地味ながら活躍する「ローカル線」と呼ばれる鉄道が数多く存在していた。現在の若いレールファンは「倉吉線」と言ってもあまりピンとこないであろうと思われる。私でさえ「根北線」といわれても正直言ってあまりピンとこない。

(わたしの所有する唯一の倉吉線の写真。終点・山守駅の駅名表と待合室。いかにも「ローカル線」の佇まい。)
倉吉線とは・・・と、ウィキぺディアで調べてみると「倉吉線(くらよしせん)は、かつて鳥取県倉吉市の倉吉駅から東伯郡関金町(現在は倉吉市の一部)の山守駅まで結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法の施行により、1981年に特定地方交通線第1次廃止対象線区として承認され、1985年4月1日に全線廃止された。」と記されていた。私は1984年の夏に訪問しているが、1984年と言えば全く関係ないが、あの「ヴァン・〇イレン」が「1984」というアルバムを発表し「ジャンプ」「ホット・フォー・ティーチャー」など、あの「空耳〇ワー」でお馴染みの曲が収録されている事で有名だ。そんな私もついに高校生になっており、第一次「レールファン」の終焉を迎える時でもあった。

(倉吉線の倉吉~関金間は客車列車の設定もあった。終点・山守では機回し線が無いため、途中の関金までしか客車列車が運転できなかった。<PHOTO:1980JNR.com>)
私の今回の倉吉線訪問は、完全に「一人旅」の行程で行われ、自身の行動に自由が利き、その行動行程も自身に決定権があるという、何とも責任重大な任務であった。しかし、時間の制約から倉吉線で運転される「客車列車」の体験はできずに終わってしまった。しかし、終点の山守まで到達でき「いい旅~」の任務は遂行された。


(PHOTO:1980JNR.com)
もともと倉吉線の始まりは、国鉄・倉吉駅が倉吉の市街地から離れていたため、そのアクセスとしての「軽便鉄道」が始まりであった。その後の鉄道敷設法では「岡山県勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鉄道」と改められ、山守から更に先、姫新線・中国勝山までの延伸計画があった。もちろん、現在においてそのような路線は存在しないのは周知の通り。

(PHOTO:1980JNR.com)
私の記憶は、終点・山守で「証」を収めたく事くらいしかあまり記憶にないこの倉吉線であるが、実に例外なく「特定地方交通線」の名を象徴するかのように廃止されてしまった。「証」があるということは、しっかりと訪問している私だが、写真を見る限り、素敵なローカル線に思えてならない。もし、現在訪問できたなら、もちろん違う目線で見ていたであろう。そして区間列車である客車列車も体験してみたかった。
自分に対して言う事かどうかわからないが、若き日の自分はよくこんなところにまで訪問したものだと感心してしまう。しかし、乗車している最中は「廃止されてしまう」という実感みたいなものを感じることができなかった。
この後、上りの普通夜行列車「山陰」を米子から乗車。完全なる「一人旅」であったため座席を簡単に確保できた。そしてその「山陰」で再び倉吉駅を通り過ぎる。「そういえばさっきも来たな」と心でつぶやいた。そう、当時の私にしてみれば、倉吉線はただの「消化試合」的な制覇だったのであろう。今思えば見どころ満載の倉吉線。客車あり・気動車あり、バラエティに彩るその列車たちは私たちを最後まで楽しませてくれた。もしタイムスリップできるなら、私はまず倉吉から関金を目指すであろう。そして旧型客車に身を預け田園風景を眺めているに違いない。
今回の倉吉線の記事の写真については、前回の「山陰」同様すべて「1980年代国鉄撮影日記」の管理人でいらっしゃる「mgpc64」様にご協力いただきました。大変感謝しておりますと同時に、この場を借りてお礼申し上げます。

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(わたしの所有する唯一の倉吉線の写真。終点・山守駅の駅名表と待合室。いかにも「ローカル線」の佇まい。)
倉吉線とは・・・と、ウィキぺディアで調べてみると「倉吉線(くらよしせん)は、かつて鳥取県倉吉市の倉吉駅から東伯郡関金町(現在は倉吉市の一部)の山守駅まで結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法の施行により、1981年に特定地方交通線第1次廃止対象線区として承認され、1985年4月1日に全線廃止された。」と記されていた。私は1984年の夏に訪問しているが、1984年と言えば全く関係ないが、あの「ヴァン・〇イレン」が「1984」というアルバムを発表し「ジャンプ」「ホット・フォー・ティーチャー」など、あの「空耳〇ワー」でお馴染みの曲が収録されている事で有名だ。そんな私もついに高校生になっており、第一次「レールファン」の終焉を迎える時でもあった。

(倉吉線の倉吉~関金間は客車列車の設定もあった。終点・山守では機回し線が無いため、途中の関金までしか客車列車が運転できなかった。<PHOTO:1980JNR.com>)
私の今回の倉吉線訪問は、完全に「一人旅」の行程で行われ、自身の行動に自由が利き、その行動行程も自身に決定権があるという、何とも責任重大な任務であった。しかし、時間の制約から倉吉線で運転される「客車列車」の体験はできずに終わってしまった。しかし、終点の山守まで到達でき「いい旅~」の任務は遂行された。


(PHOTO:1980JNR.com)
もともと倉吉線の始まりは、国鉄・倉吉駅が倉吉の市街地から離れていたため、そのアクセスとしての「軽便鉄道」が始まりであった。その後の鉄道敷設法では「岡山県勝山ヨリ鳥取県倉吉ニ至ル鉄道」と改められ、山守から更に先、姫新線・中国勝山までの延伸計画があった。もちろん、現在においてそのような路線は存在しないのは周知の通り。

(PHOTO:1980JNR.com)
私の記憶は、終点・山守で「証」を収めたく事くらいしかあまり記憶にないこの倉吉線であるが、実に例外なく「特定地方交通線」の名を象徴するかのように廃止されてしまった。「証」があるということは、しっかりと訪問している私だが、写真を見る限り、素敵なローカル線に思えてならない。もし、現在訪問できたなら、もちろん違う目線で見ていたであろう。そして区間列車である客車列車も体験してみたかった。
自分に対して言う事かどうかわからないが、若き日の自分はよくこんなところにまで訪問したものだと感心してしまう。しかし、乗車している最中は「廃止されてしまう」という実感みたいなものを感じることができなかった。
この後、上りの普通夜行列車「山陰」を米子から乗車。完全なる「一人旅」であったため座席を簡単に確保できた。そしてその「山陰」で再び倉吉駅を通り過ぎる。「そういえばさっきも来たな」と心でつぶやいた。そう、当時の私にしてみれば、倉吉線はただの「消化試合」的な制覇だったのであろう。今思えば見どころ満載の倉吉線。客車あり・気動車あり、バラエティに彩るその列車たちは私たちを最後まで楽しませてくれた。もしタイムスリップできるなら、私はまず倉吉から関金を目指すであろう。そして旧型客車に身を預け田園風景を眺めているに違いない。
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