永遠のひとかけら・アゲイン(プラス1)
2014-01-17
前回の記事で紹介しきれなかった岩泉駅の「現在」を惜しみなく披露しよう。2014年1月8日現在の姿であるが、丁度この日の朝に岩泉線の進退の報道を耳にした。1983年以来の訪問であったが、本当に懐かしく31年前の記憶がよみがえる。もう列車がやって来ない駅に明日の未来は無い。

初っ端から「WC」とは申し訳ないが、男子用は完全に外界からのプライバシーは無いに等しい。が、しっかりとメンテナンスされており、JRとしての「施設」として活躍。

小本までの延長は夢に終わってしまった。繋がっていたらどうなっていただろうか・・・


ホーム側から駅舎を見る+駅舎側からホームを見る。閉ざされたドアの向うには「商工会議所」的な会合が行われており「歓迎」の文字がむなしく映る・・・

ホームに繋がる階段を横から見た。意外になだらかに設計されており、人にやさしい。








小本まで繋がっていたら島式ホームの中間駅になる予定であったのだろう。レールの敷く空間が準備されているが、レールが敷かれないまま未来に向かって時間が進行していく事であろう。


岩泉駅ホームから見た2014年(上)と1983年の訪問時の比較。ほぼ同じ角度から撮影してみた。ご覧の通りほとんど変わっていない事がお分かりいただけたであろう。

31年前の記憶がハッキリと甦ってきたこの岩泉駅に、もう訪問する事は無いであろう。しかと見届け岩泉駅を後にした。

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初っ端から「WC」とは申し訳ないが、男子用は完全に外界からのプライバシーは無いに等しい。が、しっかりとメンテナンスされており、JRとしての「施設」として活躍。

小本までの延長は夢に終わってしまった。繋がっていたらどうなっていただろうか・・・


ホーム側から駅舎を見る+駅舎側からホームを見る。閉ざされたドアの向うには「商工会議所」的な会合が行われており「歓迎」の文字がむなしく映る・・・

ホームに繋がる階段を横から見た。意外になだらかに設計されており、人にやさしい。








小本まで繋がっていたら島式ホームの中間駅になる予定であったのだろう。レールの敷く空間が準備されているが、レールが敷かれないまま未来に向かって時間が進行していく事であろう。


岩泉駅ホームから見た2014年(上)と1983年の訪問時の比較。ほぼ同じ角度から撮影してみた。ご覧の通りほとんど変わっていない事がお分かりいただけたであろう。

31年前の記憶がハッキリと甦ってきたこの岩泉駅に、もう訪問する事は無いであろう。しかと見届け岩泉駅を後にした。

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永遠のひとかけら・アゲイン(後編)
2014-01-13
前回に引き続き岩泉線を紹介しよう。今回は岩泉駅に焦点をあててみた。1983年以来実に31年振りの訪問は、当時と殆ど変らずの風景が懐かしかった。ただ違ったのは列車がやって来ない事である。しかしながらメンテナンスはしっかりと施されており、いつ列車がやってきてもおかしくないくらいであった。

ローカル線の駅舎にしては立派な建物は開業当時と変わらない。と言うか、若干持て余し気味の感もあった。




駅前はロータリーと駐車場になっていて、さながら地域の拠点となっているようだ。駅前には宿泊施設も。



駅前から代行バス乗り場があるが、時刻表は無かった。離れた場所に別のバス乗り場があり、そちらは時刻掲載。意外に本数があり地元の足となっているようだ。

では、早速駅舎に潜入する。そういえば31年前の訪問時もこの写真を収めている。現在も所有しているが全く変わって無かったのが嬉しかった。


立派な切符売り場が健在!と言いたいが既に無人化されており人の気配はない。切符売り場の前は切り取られた樹木の数々が放置されていた。更に逆側はあえて写真を収めてないが、地元の方と思われる初老の紳士が数名「会合」をしていた。岩泉駅舎の2階は商工会議所と観光協会が使用しているが、この1階も既にJRの施設とは思えぬ雰囲気であった。

駅スタンプも健在!スタンプ押すなら今のうちだ。



久々にホームに立つ。全くと言っていいほど31年前とほとんど変わっていなかった。懐かしさがこみ上げてきたのは言うまでもない。
1983年の訪問時には北山崎展望台から国鉄バスでやって来た。ちょうどお昼時で1時間以上の待ち合わせ時間があったので駅を散策したのを覚えている。当時から確か駅員は不在であった記憶だが、龍泉洞のパンフレットなどが置いてあり、観光の拠点にしていたのがわかる。しかしながら、当然岩泉線を利用して駅前からバスに乗り龍泉洞に訪問する観光客は、年間通してひとりいるかいないかであったろう。そして現在までこの姿が残っていた事は、ハッキリ言って奇跡に近い。
岩泉の駅舎は恐らく商工会議所など施設として今後も残っていくであろう。廃止されていないのに既に列車がやって来ない姿は、いったいいくつの夜を数えた事か。とうとう列車がやって来ないまま廃止が決定してしまった岩泉線。残念ながらこの事実をしかと受け止めなくてはならないが「国鉄の赤字ローカル線」を本当の意味で現在のこの時代に我々に教えてくれた唯一の路線と言っても過言ではないであろう。

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ローカル線の駅舎にしては立派な建物は開業当時と変わらない。と言うか、若干持て余し気味の感もあった。




駅前はロータリーと駐車場になっていて、さながら地域の拠点となっているようだ。駅前には宿泊施設も。



駅前から代行バス乗り場があるが、時刻表は無かった。離れた場所に別のバス乗り場があり、そちらは時刻掲載。意外に本数があり地元の足となっているようだ。

では、早速駅舎に潜入する。そういえば31年前の訪問時もこの写真を収めている。現在も所有しているが全く変わって無かったのが嬉しかった。


立派な切符売り場が健在!と言いたいが既に無人化されており人の気配はない。切符売り場の前は切り取られた樹木の数々が放置されていた。更に逆側はあえて写真を収めてないが、地元の方と思われる初老の紳士が数名「会合」をしていた。岩泉駅舎の2階は商工会議所と観光協会が使用しているが、この1階も既にJRの施設とは思えぬ雰囲気であった。

駅スタンプも健在!スタンプ押すなら今のうちだ。



久々にホームに立つ。全くと言っていいほど31年前とほとんど変わっていなかった。懐かしさがこみ上げてきたのは言うまでもない。
1983年の訪問時には北山崎展望台から国鉄バスでやって来た。ちょうどお昼時で1時間以上の待ち合わせ時間があったので駅を散策したのを覚えている。当時から確か駅員は不在であった記憶だが、龍泉洞のパンフレットなどが置いてあり、観光の拠点にしていたのがわかる。しかしながら、当然岩泉線を利用して駅前からバスに乗り龍泉洞に訪問する観光客は、年間通してひとりいるかいないかであったろう。そして現在までこの姿が残っていた事は、ハッキリ言って奇跡に近い。
岩泉の駅舎は恐らく商工会議所など施設として今後も残っていくであろう。廃止されていないのに既に列車がやって来ない姿は、いったいいくつの夜を数えた事か。とうとう列車がやって来ないまま廃止が決定してしまった岩泉線。残念ながらこの事実をしかと受け止めなくてはならないが「国鉄の赤字ローカル線」を本当の意味で現在のこの時代に我々に教えてくれた唯一の路線と言っても過言ではないであろう。

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永遠のひとかけら・アゲイン(前編)
2014-01-11
2014年1月、私は東北方面に旅立った。その旅の途中で「正式発表」が各メディアで報じられた「岩泉線」。私は今回の旅であらかじめ岩泉線訪問の行程を組んでいたが、まさかこれから訪問する朝にテレビで岩泉線の「進退」を確認するとは因果なものだ。正確に言うと、某宿泊先で朝食を食べていた最中に若干席を外して戻って来た時に妻から「岩泉線が廃止になるってTVでやっていた」と聞いた。「それ、今から行く所だよ」と、なんだか魔法にでもかけられたような感じがした。
予め手配してあったレンタカーで参戦する事になっていた岩泉線は、盛岡から実に80kmほど離れている・・・雪の山道は危険であるが、往復160km以上ある距離は片道1時間半を要した。そんな岩泉線の「今」を早速紹介してみたい。

「接骨院」に訪問した翌日、盛岡駅前よりレンタカーで岩泉に向かう。国道455号で1本で行ける事をカーナビで確認すると、いよいよ出発だ。




ものすごい雪道。これが国道455号線である!現在は2車線あり、対向車との擦れ違いで気を使う事は無いが、恐らくかつては1車線の部分も存在したであろう。ちなみに455線の途中に大志田駅への入り口がある。あえて写真は撮らなかったが、完全に雪に埋もれており除雪されていなかった。そのため大志田駅に向かうのは不可能であった。


暫くすると龍泉洞への分かれ道があるのでそちらに折れる。すると岩泉線が顔を出す。列車が来なくなって久しいが、メンテナンスはしっかりと施されているようだ。


暫く走ると二升石駅が登場する。意外に付近には民家があった。

更に5分位走るとようやく岩泉駅に到着。雪は意外に少なくなっていたが、やはり東北のこの時期は寒さが突き刺さる。岩泉駅の詳細は次回にじっくり紹介しよう。

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予め手配してあったレンタカーで参戦する事になっていた岩泉線は、盛岡から実に80kmほど離れている・・・雪の山道は危険であるが、往復160km以上ある距離は片道1時間半を要した。そんな岩泉線の「今」を早速紹介してみたい。

「接骨院」に訪問した翌日、盛岡駅前よりレンタカーで岩泉に向かう。国道455号で1本で行ける事をカーナビで確認すると、いよいよ出発だ。




ものすごい雪道。これが国道455号線である!現在は2車線あり、対向車との擦れ違いで気を使う事は無いが、恐らくかつては1車線の部分も存在したであろう。ちなみに455線の途中に大志田駅への入り口がある。あえて写真は撮らなかったが、完全に雪に埋もれており除雪されていなかった。そのため大志田駅に向かうのは不可能であった。


暫くすると龍泉洞への分かれ道があるのでそちらに折れる。すると岩泉線が顔を出す。列車が来なくなって久しいが、メンテナンスはしっかりと施されているようだ。


暫く走ると二升石駅が登場する。意外に付近には民家があった。

更に5分位走るとようやく岩泉駅に到着。雪は意外に少なくなっていたが、やはり東北のこの時期は寒さが突き刺さる。岩泉駅の詳細は次回にじっくり紹介しよう。

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永遠のひとかけら(後編)
2013-10-21
やがて岩泉線の列車が到着する。当時はキハ20で「相模線!」の印象であった私だが、当時の相模線はキハ30とかであったため、このキハ20が非常に嬉しく感じたものだ。途中「押角」は、ご存じ「スイッチバック」の名残がある。現在は(というより当時から)秘境駅として名高いが、本当に山の中の「秘境」にあり、その存在意義を疑う。車内では夏休みとあってか、私たちの他に若干の乗客もあった。と言ってもそちらも同業者であるが・・・

(浅岸駅構内。ご覧の通り「島式ホーム」であるが、片面はレールが無い。画像はウィキペディアより。)
考えてみたら、当時は私が乗車した時間帯にも列車設定があった。現在は、というより災害前は朝晩だけの運転であるためお日様が高い位置にいる時の運転は無い。列車は宮古まで直通であったが私は茂市で下車し、茂市駅の観察をした。同行の仲間は「宮古まで乗ればいいのに。」と言ってくれたが、この茂市を観察したかったのと、宮古ではたった5分の接続、というより折り返しであったため、あまり気のりしなかった。せっかくの御言葉ではあったが、私は茂市駅をじっくり観察した。1時間オーバーの待ち合わせ時間であったが、やがてやって来た山田線・盛岡行きの列車は「満員御礼」。座席の余地が全く無く、素直に宮古まで行っていればなぁとの思いがふと過った。

(これは以前に紹介した、私が所有する岩泉線の一枚。岩泉駅のホームからはこんな景色が見える。1983年8月に訪問。)
しかし立席ながら「大志田」「浅岸」等のスイッチバック跡はしっかり確認。というより、新幹線開通に併せCTC化による合理化でスイッチバックが無くなった直後であった。まだまだホームやレールもしっかり残っており、今でも列車がやってきそうな感じでもあった。
そんな駅も今は「冬眠」してしまい「秘境駅」の名前にふさわしい佇まいとなってしまった。

(秘境駅として有名な押角。かつてはスイッチバック駅であったが、若干まだ痕跡が確認できる。画像はウィキペディアより。)
岩泉線の余命もあとわずか・・・というより実質「廃止」となってしまった岩泉線は、かつて小本までの延伸計画があった。もし繋がっていたら、当然運命もまた違っていたであろう。しかしこのご時世、存続するにはかなりの労力が必要とし、結局「同じ道」と辿っていたかもしれない。しかし私たちはこの岩泉線の歴史の「生き証人」としてこれからも語り継いでいく事であろう。そしてその勇姿をしっかりと記憶に刻み込んだ時、岩泉線の真価が「進化」し「深化」していく事であろう。

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(浅岸駅構内。ご覧の通り「島式ホーム」であるが、片面はレールが無い。画像はウィキペディアより。)
考えてみたら、当時は私が乗車した時間帯にも列車設定があった。現在は、というより災害前は朝晩だけの運転であるためお日様が高い位置にいる時の運転は無い。列車は宮古まで直通であったが私は茂市で下車し、茂市駅の観察をした。同行の仲間は「宮古まで乗ればいいのに。」と言ってくれたが、この茂市を観察したかったのと、宮古ではたった5分の接続、というより折り返しであったため、あまり気のりしなかった。せっかくの御言葉ではあったが、私は茂市駅をじっくり観察した。1時間オーバーの待ち合わせ時間であったが、やがてやって来た山田線・盛岡行きの列車は「満員御礼」。座席の余地が全く無く、素直に宮古まで行っていればなぁとの思いがふと過った。

(これは以前に紹介した、私が所有する岩泉線の一枚。岩泉駅のホームからはこんな景色が見える。1983年8月に訪問。)
しかし立席ながら「大志田」「浅岸」等のスイッチバック跡はしっかり確認。というより、新幹線開通に併せCTC化による合理化でスイッチバックが無くなった直後であった。まだまだホームやレールもしっかり残っており、今でも列車がやってきそうな感じでもあった。
そんな駅も今は「冬眠」してしまい「秘境駅」の名前にふさわしい佇まいとなってしまった。

(秘境駅として有名な押角。かつてはスイッチバック駅であったが、若干まだ痕跡が確認できる。画像はウィキペディアより。)
岩泉線の余命もあとわずか・・・というより実質「廃止」となってしまった岩泉線は、かつて小本までの延伸計画があった。もし繋がっていたら、当然運命もまた違っていたであろう。しかしこのご時世、存続するにはかなりの労力が必要とし、結局「同じ道」と辿っていたかもしれない。しかし私たちはこの岩泉線の歴史の「生き証人」としてこれからも語り継いでいく事であろう。そしてその勇姿をしっかりと記憶に刻み込んだ時、岩泉線の真価が「進化」し「深化」していく事であろう。

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永遠のひとかけら(前編)
2013-10-19
2013年9月、岩泉線・沿線自治体に「岩泉線を正式に廃止したい」とJR側から通達があったと聞いた。2010年より災害による不通以来、バスによる代替輸送が続いていたが、どうやら正式に「バス転換」になりそうだ。2012年には廃止の方針を既に沿線各自治体に打診しており廃止も時間の問題とは思っていたが、いざ「廃止」となると、それは非常に受け止めたくない事実であろう。とはいうものの、よくこの時代まで残っていたと思うほど実に頑張ってくれた「昭和の化石」は、もう「最後通告」を言い渡され、既に列車が走っていない状態が3年以上続いている。

(浅岸駅の駅舎。無人の駅舎は意外に手入れが行き届いているようだ。画像はウィキペディアより。)
1983年8月に私は訪問しているが、その時は「廃止」の候補には挙がっていたものの「沿線道路未整備」等の理由から廃止を免れてきた。当時からローカル線の「典型」であり、延伸計画があったものの、完全に頓挫していた。私が訪問した際は、このブログで散々紹介してきた「東北乗潰しの旅」の時であったが、茂市から岩泉までを折り返すのではなく、北山崎展望台から国鉄バスで岩泉駅まで来てからの「片道乗車」であった。
当時は三陸鉄道が開通前で普代~岩泉には国鉄バスが連絡していた。そして私は岩泉に向かうため、この北山崎展望台で乗り換えなければならなかったが、確か普代辺りから「同業者」と意気投合してしばらく同じコースを巡ったものだ。私は八戸線で八戸から始発で普代に着いたが、おそらく同業者の方々も同じ行程であったであろう。「同業者」とは、確か私と同じ年代の男児が1名と、自称「お医者さん」である初老の紳士が1名で、2人とも「東北ワイド周遊券」を持っていた。私も同じ切符であったため、皆「目的」は一緒だなと、その仲間と共に行動したわけである。

(三陸鉄道開通前に運転されていた国鉄バス「陸中海岸線」。私は普代から乗車し、北山崎展望台で乗り換え岩泉に向かった。画像はウィキペディアより。)
さて、北山崎展望台・・・三陸海岸は「三陸復興国立公園」の北行にある展望台で景勝地としても名高い。現在は三陸鉄道の田野畑駅から「乗合タクシー」で20分で着く。そんな景勝地を、私はただ単に「乗換」としてのみ利用。何とも無邪気な少年であった。北山崎展望台で岩泉方面に乗り換えると、岩泉付近にある観光地「龍泉洞」も当然通る。しかし私は全く興味を示さず、只管岩泉駅への到着を待ちわびていた。

(岩泉駅の駅舎。なんだかボウリング場みたいであるが、おそらく龍泉洞の「拠点」としたかったのであろう。画像はウィキペディアより。)
そしていよいよ岩泉駅に到着。立派な駅舎が私を迎えてくれたが、人影疎らで非常に寂しい。駅前はロータリーがしっかり整備されていて、駅舎も大きいし広い。恐らく国鉄は、龍泉洞の「玄関口」としてこの駅を企てたのであろうが、当時から全く機能しておらず、本数の少ない列車では観光客もほぼ皆無に近かった。バスは12時10分に着いたが、岩泉線の列車は13時45分の発車で少々のインターバルがあった。昼食時間のタイミングは言うまでもないが、確か食堂などが無かったため、駅前の商店でパンなどを購入した記憶だ。待合室で食べながら駅を観察したり仲間となった「同業者」と語り合ったりしていたらすぐに時間は過ぎてった。

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(浅岸駅の駅舎。無人の駅舎は意外に手入れが行き届いているようだ。画像はウィキペディアより。)
1983年8月に私は訪問しているが、その時は「廃止」の候補には挙がっていたものの「沿線道路未整備」等の理由から廃止を免れてきた。当時からローカル線の「典型」であり、延伸計画があったものの、完全に頓挫していた。私が訪問した際は、このブログで散々紹介してきた「東北乗潰しの旅」の時であったが、茂市から岩泉までを折り返すのではなく、北山崎展望台から国鉄バスで岩泉駅まで来てからの「片道乗車」であった。
当時は三陸鉄道が開通前で普代~岩泉には国鉄バスが連絡していた。そして私は岩泉に向かうため、この北山崎展望台で乗り換えなければならなかったが、確か普代辺りから「同業者」と意気投合してしばらく同じコースを巡ったものだ。私は八戸線で八戸から始発で普代に着いたが、おそらく同業者の方々も同じ行程であったであろう。「同業者」とは、確か私と同じ年代の男児が1名と、自称「お医者さん」である初老の紳士が1名で、2人とも「東北ワイド周遊券」を持っていた。私も同じ切符であったため、皆「目的」は一緒だなと、その仲間と共に行動したわけである。

(三陸鉄道開通前に運転されていた国鉄バス「陸中海岸線」。私は普代から乗車し、北山崎展望台で乗り換え岩泉に向かった。画像はウィキペディアより。)
さて、北山崎展望台・・・三陸海岸は「三陸復興国立公園」の北行にある展望台で景勝地としても名高い。現在は三陸鉄道の田野畑駅から「乗合タクシー」で20分で着く。そんな景勝地を、私はただ単に「乗換」としてのみ利用。何とも無邪気な少年であった。北山崎展望台で岩泉方面に乗り換えると、岩泉付近にある観光地「龍泉洞」も当然通る。しかし私は全く興味を示さず、只管岩泉駅への到着を待ちわびていた。

(岩泉駅の駅舎。なんだかボウリング場みたいであるが、おそらく龍泉洞の「拠点」としたかったのであろう。画像はウィキペディアより。)
そしていよいよ岩泉駅に到着。立派な駅舎が私を迎えてくれたが、人影疎らで非常に寂しい。駅前はロータリーがしっかり整備されていて、駅舎も大きいし広い。恐らく国鉄は、龍泉洞の「玄関口」としてこの駅を企てたのであろうが、当時から全く機能しておらず、本数の少ない列車では観光客もほぼ皆無に近かった。バスは12時10分に着いたが、岩泉線の列車は13時45分の発車で少々のインターバルがあった。昼食時間のタイミングは言うまでもないが、確か食堂などが無かったため、駅前の商店でパンなどを購入した記憶だ。待合室で食べながら駅を観察したり仲間となった「同業者」と語り合ったりしていたらすぐに時間は過ぎてった。

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