<サンライズ>でサンライズ!(リメイク版)
2012-12-30
東京発のブルートレインが、時代と共に衰退して行き始めた頃、テコ入れされる動きが出てきた。車両の老朽化や運転士の後継者問題もあり、新型車両の作成が検討された。改造車ではなく新型電車とし、内装設計は鉄道とは全く関係ない某住宅メーカーが携った。そうして生まれたのが「285系」である。過去に583系が電車寝台として初めてこの世に生まれたが、昼・夜兼用のため、今回の285系は純粋に「電車寝台」である。行き先の検討がなされた結果、九州ではなく飛行機航路でも十分に対抗できる「出雲」と「瀬戸」に決まった。そのため瀬戸に関しては、羽田発の最終便の出発時刻後に東京を出発し、羽田を始発で出る便が高松に到着する前の時刻に到着するようダイヤ設定がされている。出雲に関しては若干違うが、それでも列車の方が有利であろう。これで「瀬戸」「出雲」が甦ったのである。

2007年9月、四国鉄道乗り潰しのアプローチとして選んだのが<サンライズ>であった。横浜を22時24分に出発した<サンライズ>は定刻どおり四国「高松」を目指した。初めて乗る285系の車内は、木目を基調とする内装は実に圧巻であり、落ち着いた雰囲気を漂わせる。<サンライズ>はオール個室の寝台列車であるが、唯一「開放型寝台」を思わせる「ノビノビ座席」がある。殆んど「寝台」のような設計だが、簡易毛布一枚があるのみで、あくまでも「座席」であるため値段もリーズナブル。特急料金と運賃で乗車できるのだ。私もこの日は「ノビノビ座席」を利用しての旅である。以降、シングルツイン、サンライズツインと何度も利用しているが、この時の「初」サンライズ乗車時は、豊橋より西へ行くのは20年振り、寝台特急に乗るのは実に30年振りである。興奮しないわけが無い!見慣れた東海道線の景色もなんだかいつもと違う。乗車率もほぼ満席であり、平日ながら女性の顔もちらほら見かけた。鉄道ファンでなく、一般人にも普通に利用されてるのが実に嬉しかった、と言っても私は鉄道関係者ではないのだが・・・とにかく翌朝の岡山までは実に素晴らしい乗車率である。ホームを見ると、列車を降りるビジネスマンのスーツ姿も目立ったのが実にいい!岡山で併結の「出雲」を切り離し、身軽になったが、車内もかなり身軽になった。かなりの人が岡山で下車し、ノビノビ座席はガラ~ンとしてしまった。しかし考えたら、ノビノビ座席で高松まで行く「自分」の方が「物好き」か・・・とにかく「瀬戸大橋」も初体験&制覇とともに、文字通り<サンライズ>で日の出を拝んだ。もともとこの列車のネーミングは、今までのブルートレインのイメージを払拭すべくつけたものだ。この列車にかける当事者の思いが十二分に伝わってきた瞬間でもあった。

初めて列車のみで四国入りを果たした訳だが、さすが20年以上も経つと駅の風景もすっかり様変わりしていて、特に高松は、元連絡船乗場が巨大商業施設に変化し、駅前はすっかり整備されていた。唯一、頭端式ホームの先に連絡船乗場へと繋がる通路があったところに「さぬきうどん」の立ち食い屋が軒を構えていたが、佇まいは変化したものの健在であった!1982年、初めて青春18きっぷ(当時は青春18のびのびきっぷ)を使い四国入りした時、高松の駅で連絡船との待ち時間にうどんを食べたのを覚えていたのだが、それがこの店であっただけにとても嬉しかった。だが、屋根や造りが全体的に低く設計されていると感じた。駅も工事が施されホームも当時より若干かさ上げされてはいるが、やはり自身の身長の変化が影響しているであろう。時と共に変化してゆく街や駅と共に、自身の成長も感じる事が出来た事に、この旅に深い意味が刻み込まれたのかも知れない・・・

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2007年9月、四国鉄道乗り潰しのアプローチとして選んだのが<サンライズ>であった。横浜を22時24分に出発した<サンライズ>は定刻どおり四国「高松」を目指した。初めて乗る285系の車内は、木目を基調とする内装は実に圧巻であり、落ち着いた雰囲気を漂わせる。<サンライズ>はオール個室の寝台列車であるが、唯一「開放型寝台」を思わせる「ノビノビ座席」がある。殆んど「寝台」のような設計だが、簡易毛布一枚があるのみで、あくまでも「座席」であるため値段もリーズナブル。特急料金と運賃で乗車できるのだ。私もこの日は「ノビノビ座席」を利用しての旅である。以降、シングルツイン、サンライズツインと何度も利用しているが、この時の「初」サンライズ乗車時は、豊橋より西へ行くのは20年振り、寝台特急に乗るのは実に30年振りである。興奮しないわけが無い!見慣れた東海道線の景色もなんだかいつもと違う。乗車率もほぼ満席であり、平日ながら女性の顔もちらほら見かけた。鉄道ファンでなく、一般人にも普通に利用されてるのが実に嬉しかった、と言っても私は鉄道関係者ではないのだが・・・とにかく翌朝の岡山までは実に素晴らしい乗車率である。ホームを見ると、列車を降りるビジネスマンのスーツ姿も目立ったのが実にいい!岡山で併結の「出雲」を切り離し、身軽になったが、車内もかなり身軽になった。かなりの人が岡山で下車し、ノビノビ座席はガラ~ンとしてしまった。しかし考えたら、ノビノビ座席で高松まで行く「自分」の方が「物好き」か・・・とにかく「瀬戸大橋」も初体験&制覇とともに、文字通り<サンライズ>で日の出を拝んだ。もともとこの列車のネーミングは、今までのブルートレインのイメージを払拭すべくつけたものだ。この列車にかける当事者の思いが十二分に伝わってきた瞬間でもあった。

初めて列車のみで四国入りを果たした訳だが、さすが20年以上も経つと駅の風景もすっかり様変わりしていて、特に高松は、元連絡船乗場が巨大商業施設に変化し、駅前はすっかり整備されていた。唯一、頭端式ホームの先に連絡船乗場へと繋がる通路があったところに「さぬきうどん」の立ち食い屋が軒を構えていたが、佇まいは変化したものの健在であった!1982年、初めて青春18きっぷ(当時は青春18のびのびきっぷ)を使い四国入りした時、高松の駅で連絡船との待ち時間にうどんを食べたのを覚えていたのだが、それがこの店であっただけにとても嬉しかった。だが、屋根や造りが全体的に低く設計されていると感じた。駅も工事が施されホームも当時より若干かさ上げされてはいるが、やはり自身の身長の変化が影響しているであろう。時と共に変化してゆく街や駅と共に、自身の成長も感じる事が出来た事に、この旅に深い意味が刻み込まれたのかも知れない・・・

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役目を終えた室蘭本線(リメイク版)
2012-12-29
室蘭本線の戸籍上は長万部~岩見沢と室蘭~東室蘭からなる幹線路線であるが、ほぼ9割9分9厘の列車は苫小牧(正確には沼ノ端)から千歳線を経由して札幌に向う。「本線」である苫小牧~岩見沢はそっぽ向かれ特急は一切走らず、普通列車もディーゼルカーで、1日数本しか走らず、両端では接続も良くない。何とも不思議な路線であるが、これはこの路線の歴史が絡んでる。北海道の鉄道は、殆んどが「開拓」と言う名のもとで敷かれたものが多い。しかも石炭輸送を目的とするものが殆んどで、この室蘭本線も例外ではない。しかし時代と共に、苫小牧~岩見沢の複線区間は一部単線に変更されてしまいディーゼルカーしか走らないローカル線に転落してしまった。北海道制覇の計画を立てる際、どうしてもこの室蘭本線の苫小牧~岩見沢間がネックとなり、計画がついつい頓挫してしまう。しかし、今後に繋げるためにもどうしても制覇しなければならないと思い、強引に予定を組み込んだ。そのため、先に紹介した<北斗星>の乗車について若干影響が出てしまったが、それはそれでいいではないか、という事で、いざ出陣した。

今回の制覇の旅は宗谷本線・留萌本線・海峡線・札沼線そして室蘭本線である。既に長万部~苫小牧は過去に制覇していたので、初日に室蘭~東室蘭を制覇し、いよいよ岩見沢~苫小牧を制覇すれば室蘭本線は完了であるため、3日目に岩見沢で<北斗星>で食べる食料を仰山買い込み、早速苫小牧行きの列車に乗り込んだ。室蘭本線の収支係数を心配するのが要らないほど学生諸君で埋め尽くされた車内は、私の様な渡世人はいささか浮いてしまっているように思えてならない。しかしここはかつて「黒のダイヤ」で盛栄を極めた「鉄道」である。次の「志文」では、かつて万字線が分岐していた名残が偲ばれる。終点の駅名は、ズバリ「万字炭山」であった。しかし廃線後はすっかり草木に覆われ、判別が出来ない。完全に過去に物となってしまった。栗沢や栗丘、栗山など「栗」がしつこく付きまとう駅で各々乗客を下ろし段々身軽になっていったが、すっかりワンマン運転も定着していて、学生諸君も乗降ルール通りに運転席側のドアを目指す。追分では石勝線と接続しており、拠点となっていて構内も広いが、かつての側線はかなり撤去されていて空き地が不自然に目立つ。この駅でSLが最後まで現役で活躍していたことは有名であるが、その機関庫も既に無くすっかり寂れてしまった。しかし石勝線の特急列車は一部が停車し、まだまだ「役目」を務めている。少々停車の後、早速苫小牧へと走り出した。沼ノ端付近で千歳線と合流し、苫小牧まであとわずかである。このあと、千歳線のダイヤが乱れている事も知らずに<北斗星>の待つ駅に胸が高鳴る思いだった。だが、単線になったとはいえ、まだまだかつての面影を残しつつ頑張って生き残ってきた「本線」であるが、かつて程の大きな役割は既に終え、静かに「老後」を過ごしているようにも思えた。


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今回の制覇の旅は宗谷本線・留萌本線・海峡線・札沼線そして室蘭本線である。既に長万部~苫小牧は過去に制覇していたので、初日に室蘭~東室蘭を制覇し、いよいよ岩見沢~苫小牧を制覇すれば室蘭本線は完了であるため、3日目に岩見沢で<北斗星>で食べる食料を仰山買い込み、早速苫小牧行きの列車に乗り込んだ。室蘭本線の収支係数を心配するのが要らないほど学生諸君で埋め尽くされた車内は、私の様な渡世人はいささか浮いてしまっているように思えてならない。しかしここはかつて「黒のダイヤ」で盛栄を極めた「鉄道」である。次の「志文」では、かつて万字線が分岐していた名残が偲ばれる。終点の駅名は、ズバリ「万字炭山」であった。しかし廃線後はすっかり草木に覆われ、判別が出来ない。完全に過去に物となってしまった。栗沢や栗丘、栗山など「栗」がしつこく付きまとう駅で各々乗客を下ろし段々身軽になっていったが、すっかりワンマン運転も定着していて、学生諸君も乗降ルール通りに運転席側のドアを目指す。追分では石勝線と接続しており、拠点となっていて構内も広いが、かつての側線はかなり撤去されていて空き地が不自然に目立つ。この駅でSLが最後まで現役で活躍していたことは有名であるが、その機関庫も既に無くすっかり寂れてしまった。しかし石勝線の特急列車は一部が停車し、まだまだ「役目」を務めている。少々停車の後、早速苫小牧へと走り出した。沼ノ端付近で千歳線と合流し、苫小牧まであとわずかである。このあと、千歳線のダイヤが乱れている事も知らずに<北斗星>の待つ駅に胸が高鳴る思いだった。だが、単線になったとはいえ、まだまだかつての面影を残しつつ頑張って生き残ってきた「本線」であるが、かつて程の大きな役割は既に終え、静かに「老後」を過ごしているようにも思えた。


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懐かしの盟友たち⑤
2012-12-25
そろそろ蔵も尽きてきた感がある、というくらい「蔵出し」してみた。1980年代前半をまたまた堪能していただこう。

青梅線制覇時の奥多摩駅にて。撮影日時不明であるが、これって当時も現役で動いていたのかな?と思うくらい古い車両だなと撮影当時思った。

東金線制覇時の大網駅。1983年の5月位と思う。前回の蔵出しの時に183系「しおさい」を紹介したが、その時と同じ撮影日と思う。デカ目のスカ色が懐かしい。

言わずと知れた小田急5000形。つい4~5年前くらいの撮影だが、既にここ、本厚木駅にはもうやってこない。キャノンAE-1プログラムで撮影。

1983年8月、盛岡駅での50系客車。12系客車は現在でもよく見かけるが、この50系客車っていまどうしているのでしょう?

豊橋でのEF61。よく見ていただくとわかるが、なんと1号機である!撮影時は全然気づいていたかったと思うが、これって現存するのでしょうか?

おっ、秩父鉄道か?と思いきや、なんと都営三田線の現役時代。確か西高島平駅にて撮影。

電化開業当時の筑肥線。唐津駅であるが、一つ先の西唐津に車庫があるのは周知の通り。まだペイントも新しい。ただこの開業と同時に廃止となったスイッチバック式の旧・東唐津に行けなかったのが残念であった。

ご存じ117系。誕生初期の「快速」表示は、確か浜松駅と思った。JR東海から117系が撤退すると聞いたのですが本当でしょうか?

最後は20系「あかつき」。1978年8月の長崎駅にて。もちろんこれには乗らずに「かもめ」で博多に向かった。

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青梅線制覇時の奥多摩駅にて。撮影日時不明であるが、これって当時も現役で動いていたのかな?と思うくらい古い車両だなと撮影当時思った。

東金線制覇時の大網駅。1983年の5月位と思う。前回の蔵出しの時に183系「しおさい」を紹介したが、その時と同じ撮影日と思う。デカ目のスカ色が懐かしい。

言わずと知れた小田急5000形。つい4~5年前くらいの撮影だが、既にここ、本厚木駅にはもうやってこない。キャノンAE-1プログラムで撮影。

1983年8月、盛岡駅での50系客車。12系客車は現在でもよく見かけるが、この50系客車っていまどうしているのでしょう?

豊橋でのEF61。よく見ていただくとわかるが、なんと1号機である!撮影時は全然気づいていたかったと思うが、これって現存するのでしょうか?

おっ、秩父鉄道か?と思いきや、なんと都営三田線の現役時代。確か西高島平駅にて撮影。

電化開業当時の筑肥線。唐津駅であるが、一つ先の西唐津に車庫があるのは周知の通り。まだペイントも新しい。ただこの開業と同時に廃止となったスイッチバック式の旧・東唐津に行けなかったのが残念であった。

ご存じ117系。誕生初期の「快速」表示は、確か浜松駅と思った。JR東海から117系が撤退すると聞いたのですが本当でしょうか?

最後は20系「あかつき」。1978年8月の長崎駅にて。もちろんこれには乗らずに「かもめ」で博多に向かった。

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夕張線への招待②(リメイク版)
2012-12-24
昭和56年10月、石勝線が開通した。この出来事は当時中学生の私には非情に斬新で、サプライズであった。事前情報無しに時刻表にいきなり新線が載っているというのは実に困惑する。何せ、イチ石炭輸送路線が、道東アクセス幹線に変身してしまったのであるから・・・私は白糠線廃止情報と共に制覇の予定を企てた際、夕張線改め石勝線の実態を確認すべく予定を組み込んだ。

苫小牧より夕張線時代の名残のあるダイヤ編成で追分で乗り換えせず直通で夕張へ行ける列車が設定されていたのだが、その列車にあえて乗り込み一気に夕張まで向った。途中新夕張では、廃止となった旧「紅葉山」が残骸をとどめていたのだが、後ほど散策を予定している。まずは夕張へ。夕張駅は現在までに2回移転したのだが、私の行ったのは「第1次」である。現在の第3次駅は、Mt.レースイスキー場の目の前である。炭坑の町からの脱皮を目指し、復興に意欲的な町の姿勢に好感を持てるが、現実はかなり厳しいようである。折り返し新夕張に戻る際に、清水沢では「三菱石炭鉱業」の列車が接続していたが、乗車チャンスが無く非情に残念であった。新夕張に戻り、周遊券を改札で見せて「紅葉山」に向った。既に駅名表や屋根などは無く、ホームだけが残骸をとどめ、レールの無い地面には水溜りが所々にあり、痛々しい表情をしていたが、私の訪れた時間は19時。暗闇に包まれた「駅前一等地」は活気も無くひっそりとしていた。「新駅」に戻り、今度は楓に向う。かつては「登川支線」などといわれ石炭輸送列車も数多く走っていたが、石勝線開通直前に廃止されてしまった。そして旧楓と登川の中間くらいの位置に「新」楓が設置された。新楓は本線の他に普通列車用の独立ホームがありそこへ単行列車が発着する。本線上のホームは旅客扱いせず、信号場扱いとなっている。2004年に旅客扱いを廃止し、完全に信号場となってしまった。本線上のホームには、過去に何回か旅客扱いした記録があるみたいなので、是非体験してみたかったのだが・・・さて、折り返す列車は私一人を乗せ暗闇をすり抜けていった。新夕張で乗り換え再び苫小牧に戻り、札幌から「まりも」に乗り白糠目指した。

途中、深夜に石勝線を通過するのだが、暗闇で景色も見れず、新得で「いい旅チャレンジ20000Km」の証明写真を撮影したのが深夜2時頃であった。しかしこれでは新線区間と新駅が確認できないのでとりあえずこの後白糠線制覇後の札幌に戻る際に再び石勝線を通るため、楽しみはここに取っておいた。白糠線制覇後、釧路より「おおぞら」に乗り予定通り石勝線へ。まずは「石勝高原」。現在は「トマム」と改称し、リゾート地としてその名を馳せ「ツインタワー」たる堂々とした巨頭が聳え立つものの、当時は何もない無人地帯であった。そして次の「占冠」では若干の乗客があった!当時は駅弁も販売しており、村民の期待が込められていた。とにかくこの辺りは山深い。集落と呼べるほどの集落がなく、とにかく付近は山ばかりである。偶然私は紅葉の季節に行ったので、列車に乗りながらにして「紅葉狩り」を堪能した感じであったが、鉄道少年には季節感など関係ない!新駅と、途中の信号場が気になって仕方なかった。夕張線の本線であった新夕張~夕張間は完全に支線に転落し、新線区間との差は歴然であった。新線区間と本線の追分~新夕張間は最新の鉄道技術を惜しみなく投入し、ポイント部にはスノーシェルターが設置され雪からポイントを保護し、CTC制御によりポイントを遠隔操作。PC枕木やカーブを少なくするためトンネルが多い。勿論旧「本線」は改良されておらず、夕張という名の地が「時代」を反映させてるように思えてならなかった。

それから約10年後の1993年1月、私はバイト先のスキー旅行に参加、行き先は北海道となった。3日目は各自自由行動であったため、私は迷わず「トマム」を目指した。朝1番でホテルを出て、札幌発「おおぞら」に乗り込む。勿論自由席であるが、スキー板など重装備であったためかなり周囲に迷惑を掛けたと思う。しかしそれほどの混雑ではなかったのでとりあえず一安心。札幌~千歳空港間でもバリバリ大自然があり、北の大地の壮大さを思い知らされた。そしてすっかり面目を一新した「トマム」に到着。長い連絡通路を渡り「インフォメーションセンター」なるものが登場し、そこからシャトルバスに乗りスキー場へ向った。初心者には優しそうななだらかな斜面が多く、ビギナーにお勧めのスキー場であるが、何と言っても「ツインタワー」なる「象徴」が圧巻。若者を中心に人気が高いのには大納得である。私自身「いつか必ず・・・」の思いが胸を掠めたのであった。帰りは降雪の影響で約40分遅れの特急列車に乗り千歳空港に向った。先ほどまで目の前に大きく聳え立っていた「ツインタワー」はガラス越しに小さくなって行った。途中「占冠」では、小学生ばかり4~5人乗車があり、普通列車の設定が無い区間での「普通列車」でどこへ行くのか・・・とにかく「利用」されているのがなにより嬉しかった。南千歳で乗り換え、新千歳空港駅に着いたが、40分の遅れで、一時はどうなるかと思った。結果的に間に合い、団体行動の秩序を乱すことなく、平和に湘南地区に舞い戻ることが出来た。

それから更に15年、三度(みたび)石勝線を訪れる事となった。今度は北海道の未乗線区の制覇のための宿泊地としてあえて「トマム」を選択したのであった。2009年3月、新得より5分遅れの特急に乗り、雪の舞い散るトマムのホームに足を踏み入れた。懐かしさに浸る間もなく、シャトルバスの乗務員がホームまでお出迎え。以前とは違うサービス振りである。考えてみたら、前回はバブル景気の絶頂期。丁度リゾートやらが流行った時代でもあった。しかし時代は流れ、近年では「デフレ・スパイラル」などと紙面を賑わせて久しいが、そんな中、トマムも民事再生で生き残りをかけている。そして従業員や村が一丸となってトマムを盛り上げているではないか!私は心を打たれながら、密かな夢であった「ツインタワー」に向った。想像していた通り、リゾートの名に相応しい佇まいであった。ホテル内にはコンビニもどきの様な店で弁当が3割引とかで値引販売していた。「旭川でわざわざ買わなければ良かったな~」などと、若干日常の生活染みた気持ちが顔を覗かせてしまった。

翌朝、再びシャトルバスでトマムに戻り、列車到着まで駅を堪能した。近い将来ライバルになるであろう建設中の高速道路が見えた。しかし付近には民家が見当たらず、スキー場が無ければほぼ無人地帯であろう。しかしここから乗る列車はなぜか清々しい。リゾートホテルをビジネスホテル代わりに利用するとは何とも贅沢であったが、わざわざやって来た甲斐があったというものだ。この日の予定では、一気に根室まで行く事になっている。「鉄道に乗るための旅」なのに、すっかりリゾート気分に浸ってしまった感のある「夕張線」の新線区間。銀世界のツインタワーを15年振りに見送り、憧れていた「苫鵡」を後にした。

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苫小牧より夕張線時代の名残のあるダイヤ編成で追分で乗り換えせず直通で夕張へ行ける列車が設定されていたのだが、その列車にあえて乗り込み一気に夕張まで向った。途中新夕張では、廃止となった旧「紅葉山」が残骸をとどめていたのだが、後ほど散策を予定している。まずは夕張へ。夕張駅は現在までに2回移転したのだが、私の行ったのは「第1次」である。現在の第3次駅は、Mt.レースイスキー場の目の前である。炭坑の町からの脱皮を目指し、復興に意欲的な町の姿勢に好感を持てるが、現実はかなり厳しいようである。折り返し新夕張に戻る際に、清水沢では「三菱石炭鉱業」の列車が接続していたが、乗車チャンスが無く非情に残念であった。新夕張に戻り、周遊券を改札で見せて「紅葉山」に向った。既に駅名表や屋根などは無く、ホームだけが残骸をとどめ、レールの無い地面には水溜りが所々にあり、痛々しい表情をしていたが、私の訪れた時間は19時。暗闇に包まれた「駅前一等地」は活気も無くひっそりとしていた。「新駅」に戻り、今度は楓に向う。かつては「登川支線」などといわれ石炭輸送列車も数多く走っていたが、石勝線開通直前に廃止されてしまった。そして旧楓と登川の中間くらいの位置に「新」楓が設置された。新楓は本線の他に普通列車用の独立ホームがありそこへ単行列車が発着する。本線上のホームは旅客扱いせず、信号場扱いとなっている。2004年に旅客扱いを廃止し、完全に信号場となってしまった。本線上のホームには、過去に何回か旅客扱いした記録があるみたいなので、是非体験してみたかったのだが・・・さて、折り返す列車は私一人を乗せ暗闇をすり抜けていった。新夕張で乗り換え再び苫小牧に戻り、札幌から「まりも」に乗り白糠目指した。

途中、深夜に石勝線を通過するのだが、暗闇で景色も見れず、新得で「いい旅チャレンジ20000Km」の証明写真を撮影したのが深夜2時頃であった。しかしこれでは新線区間と新駅が確認できないのでとりあえずこの後白糠線制覇後の札幌に戻る際に再び石勝線を通るため、楽しみはここに取っておいた。白糠線制覇後、釧路より「おおぞら」に乗り予定通り石勝線へ。まずは「石勝高原」。現在は「トマム」と改称し、リゾート地としてその名を馳せ「ツインタワー」たる堂々とした巨頭が聳え立つものの、当時は何もない無人地帯であった。そして次の「占冠」では若干の乗客があった!当時は駅弁も販売しており、村民の期待が込められていた。とにかくこの辺りは山深い。集落と呼べるほどの集落がなく、とにかく付近は山ばかりである。偶然私は紅葉の季節に行ったので、列車に乗りながらにして「紅葉狩り」を堪能した感じであったが、鉄道少年には季節感など関係ない!新駅と、途中の信号場が気になって仕方なかった。夕張線の本線であった新夕張~夕張間は完全に支線に転落し、新線区間との差は歴然であった。新線区間と本線の追分~新夕張間は最新の鉄道技術を惜しみなく投入し、ポイント部にはスノーシェルターが設置され雪からポイントを保護し、CTC制御によりポイントを遠隔操作。PC枕木やカーブを少なくするためトンネルが多い。勿論旧「本線」は改良されておらず、夕張という名の地が「時代」を反映させてるように思えてならなかった。

それから約10年後の1993年1月、私はバイト先のスキー旅行に参加、行き先は北海道となった。3日目は各自自由行動であったため、私は迷わず「トマム」を目指した。朝1番でホテルを出て、札幌発「おおぞら」に乗り込む。勿論自由席であるが、スキー板など重装備であったためかなり周囲に迷惑を掛けたと思う。しかしそれほどの混雑ではなかったのでとりあえず一安心。札幌~千歳空港間でもバリバリ大自然があり、北の大地の壮大さを思い知らされた。そしてすっかり面目を一新した「トマム」に到着。長い連絡通路を渡り「インフォメーションセンター」なるものが登場し、そこからシャトルバスに乗りスキー場へ向った。初心者には優しそうななだらかな斜面が多く、ビギナーにお勧めのスキー場であるが、何と言っても「ツインタワー」なる「象徴」が圧巻。若者を中心に人気が高いのには大納得である。私自身「いつか必ず・・・」の思いが胸を掠めたのであった。帰りは降雪の影響で約40分遅れの特急列車に乗り千歳空港に向った。先ほどまで目の前に大きく聳え立っていた「ツインタワー」はガラス越しに小さくなって行った。途中「占冠」では、小学生ばかり4~5人乗車があり、普通列車の設定が無い区間での「普通列車」でどこへ行くのか・・・とにかく「利用」されているのがなにより嬉しかった。南千歳で乗り換え、新千歳空港駅に着いたが、40分の遅れで、一時はどうなるかと思った。結果的に間に合い、団体行動の秩序を乱すことなく、平和に湘南地区に舞い戻ることが出来た。

それから更に15年、三度(みたび)石勝線を訪れる事となった。今度は北海道の未乗線区の制覇のための宿泊地としてあえて「トマム」を選択したのであった。2009年3月、新得より5分遅れの特急に乗り、雪の舞い散るトマムのホームに足を踏み入れた。懐かしさに浸る間もなく、シャトルバスの乗務員がホームまでお出迎え。以前とは違うサービス振りである。考えてみたら、前回はバブル景気の絶頂期。丁度リゾートやらが流行った時代でもあった。しかし時代は流れ、近年では「デフレ・スパイラル」などと紙面を賑わせて久しいが、そんな中、トマムも民事再生で生き残りをかけている。そして従業員や村が一丸となってトマムを盛り上げているではないか!私は心を打たれながら、密かな夢であった「ツインタワー」に向った。想像していた通り、リゾートの名に相応しい佇まいであった。ホテル内にはコンビニもどきの様な店で弁当が3割引とかで値引販売していた。「旭川でわざわざ買わなければ良かったな~」などと、若干日常の生活染みた気持ちが顔を覗かせてしまった。

翌朝、再びシャトルバスでトマムに戻り、列車到着まで駅を堪能した。近い将来ライバルになるであろう建設中の高速道路が見えた。しかし付近には民家が見当たらず、スキー場が無ければほぼ無人地帯であろう。しかしここから乗る列車はなぜか清々しい。リゾートホテルをビジネスホテル代わりに利用するとは何とも贅沢であったが、わざわざやって来た甲斐があったというものだ。この日の予定では、一気に根室まで行く事になっている。「鉄道に乗るための旅」なのに、すっかりリゾート気分に浸ってしまった感のある「夕張線」の新線区間。銀世界のツインタワーを15年振りに見送り、憧れていた「苫鵡」を後にした。

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夕張線への招待①
2012-12-23
昭和56年10月、道東アクセスの一貫として「石勝線」が開通した。「石勝」とは北海道の「石狩」と「十勝」を結ぶ、という意味でのネーミングである。その名の通り札幌と道東方面を短絡させる目的で開通させたのだが、その内容は、当時の鉄道技術結集の証として実に斬新な内容であった。しかし、新線区間では沿線人口が希薄で駅間距離が長く、信号所が2~3か所連なるという結果になる。当然CTC化されているため信号所は無人である。そのためポイント部分はスノーシェルターで覆われ、ヒーターが取り付けられているなどの工夫がなされている。
そんな新線区間を「石勝線」と呼ぶが、ここにはもう一つの顔がある。そう、夕張線だ。石勝線は、旧・夕張線の一部を飲み込み、石勝線開業よりひと足早く「紅葉山」が移転し「新夕張」に改称、さらに競合する「登川支線」を廃止し、楓と登川の中間地点に新「楓」が誕生、とまぁ、ザッと変遷を綴ってみたが、先述した「旧・夕張線」の部分が私にとっては非常に重要・・・なぜ新夕張~夕張間も「石勝線」としたのか疑問が残る。そして「紅葉山」を「新夕張」と改称した裏には何があるのか・・・

夕張駅は2回移転した。一回目は市街地の近くに、2回目はスキー場「Mr.レースイ」の目前である。特に2回目の移転の時、数百メートル移転するのに住民の抗議が市長のもとに相当数あったらしい。住民との協議を重ねた結果、ようやく現在地に移転したらしい。
夕張市の人口は約1万人(2012年現在)。これは小田急線・参宮橋駅の乗車人員よりも少ない。夕張市の全盛期の人口は10万人を軽く超えていたが、エネルギー革命を境に人口が減少し、夕張線も同じようにして鉄道としての役割を終えた。しかし紅葉山~追分間は「道東アクセス」として新たな役割を担う事になった事が嬉しい。だが沿線人口が希薄が故にローカル輸送が厳しい。所謂「登川支線」の代替のような形で開業した新「楓」も、現在は信号場に降格してしまった。新夕張~新得間も、本当はもっと駅を設置する予定であったのであろうが、結局現在の形での開業となった。

次回の記事で、以前に私のホームページでタイトルの「夕張線への招待」として夕張線への思いを綴っているので、紹介してみたい。

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そんな新線区間を「石勝線」と呼ぶが、ここにはもう一つの顔がある。そう、夕張線だ。石勝線は、旧・夕張線の一部を飲み込み、石勝線開業よりひと足早く「紅葉山」が移転し「新夕張」に改称、さらに競合する「登川支線」を廃止し、楓と登川の中間地点に新「楓」が誕生、とまぁ、ザッと変遷を綴ってみたが、先述した「旧・夕張線」の部分が私にとっては非常に重要・・・なぜ新夕張~夕張間も「石勝線」としたのか疑問が残る。そして「紅葉山」を「新夕張」と改称した裏には何があるのか・・・

夕張駅は2回移転した。一回目は市街地の近くに、2回目はスキー場「Mr.レースイ」の目前である。特に2回目の移転の時、数百メートル移転するのに住民の抗議が市長のもとに相当数あったらしい。住民との協議を重ねた結果、ようやく現在地に移転したらしい。
夕張市の人口は約1万人(2012年現在)。これは小田急線・参宮橋駅の乗車人員よりも少ない。夕張市の全盛期の人口は10万人を軽く超えていたが、エネルギー革命を境に人口が減少し、夕張線も同じようにして鉄道としての役割を終えた。しかし紅葉山~追分間は「道東アクセス」として新たな役割を担う事になった事が嬉しい。だが沿線人口が希薄が故にローカル輸送が厳しい。所謂「登川支線」の代替のような形で開業した新「楓」も、現在は信号場に降格してしまった。新夕張~新得間も、本当はもっと駅を設置する予定であったのであろうが、結局現在の形での開業となった。

次回の記事で、以前に私のホームページでタイトルの「夕張線への招待」として夕張線への思いを綴っているので、紹介してみたい。

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紀州の奇襲!(リメイク版)
2012-12-22

2009年の年明け早々、青春18きっぷを使いJR線大阪方面の制覇を企てた。以前より訪れてみたかった鉄道・・・紀州鉄道に行く決意をした。実は、個人的に「最終制覇路線」と密かに決めていたのであったが、結論から言うと、いつ無くなってしまうか分からないという不安からの決意であった。関西ならば連休を取れば気軽に行ける地域であるため、思い立ったら何とか、である。という事で、毎度お馴染み「ムーンライトながら」で関西入りした。その日のうちに関西本線と和歌山線の一部、そして阪和線の一部と関西空港線を制覇し、御坊入りした。既に紀州鉄道の列車は私を待っており、乗車して間もなくディーゼルエンジンの音を響かせた。車両はレールバスで若干味気なかったが、こればかりは仕方ない。密かに旧式の車両(キハ600)を期待していたのだが・・・暫く紀勢本線と平行して走るが、やがて紀勢本線を右に見ながら颯爽と一人わが道を突き進むかように一本の鉄路を頼りに西御坊を目指した、と思っていたら早速最初の停車駅に到着した。「学問」という奇妙な駅名に気を取られながらも、この区間が紀州鉄道最長区間の1.5㌔であることがこの後思い知らされることとなる。約300m程進むと、紀州鉄道の拠点駅「紀伊御坊」に到着する。ここは駅員も配置され切符の回収もする。また、車庫や側線があり構内は広い。

そして側線にはあの「キハ600」が留置されていた。情報によると、休日のみこの車両で運転するとの事。そして市街地を縫うように進むともう「市役所前」に到着。無人駅で、ワンマン運転である列車の運転手が料金回収業務を行う。と、そこで気がついた。ワンマン特有の運賃箱が塞がれているではないか。ではどういう風にやり取りしているのか・・・運転手が直接手渡しで料金を回収しているのである。普通に一万円渡したら果たしてどうなるのか・・・等と余計な事を考えてしまったため早速小銭を用意した、と思ったら、すぐに終点「西御坊」に到着した。恐らく開業当時のままであろうと思われる駅舎が私を待ち構えていた。と同時に運転手も駅舎の「福利厚生施設」の中に入って行った。折り返す列車の運転まで時間があるための「休憩」であろう。乗って来た列車で折り返し、再び御坊に向う予定なのだがまだ出発まで30分近くもあるので駅前のスーパーに買出しに出た。勿論、抜かりなく酒類を格安でゲット。ついでに野菜なども買って行きたい位の格安であったが・・・それはさておき、西御坊より先にはまだ鉄路が延びていた。そう、廃止された日高川までの「廃線跡」である。と言ってもほぼ原型のまま残っているため、西御坊のすぐ先を流れる川にかかる鉄橋こそ無いものの、その気になればいつでも再会出来そうである。現に、日高川から先の延長もつい最近まで本気で考えられていたくらいだ、と言うより、会社首脳陣は本気で今も考えているのかも知れない。紀勢本線の御坊と御坊市の市街地を結ぶ紀州鉄道の役割は、既に並行する道路に走っていると思われる路線バスの方が圧倒的な地位であろうが、地方に行くほど鉄道は学生の味方である。
さながら「時代遅れ」と思われる交通手段であっても、ちゃんと歴史があり盛栄時代もあった。しかし私を含め「こういうところ」を好んでやってくる青年(?)も居るではないか!最も、地元民に対して役立っていただいてナンボであるが・・・いずれにしても、この時代に紀州鉄道が残っているのが奇跡である。次回に訪問の際にはぜひ「廃線跡」を散策してみたいが、その廃線跡が「廃止」にならないよう祈るのみである。


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飯田線・秘境駅訪問記②
2012-12-21

(小和田駅の駅舎はデビュー当時と変わらないであろう。鉄道以外でこの地に訪問するには徒歩しかない。この小和田の駅前には「バスターミナル」や「ロータリー」等はもちろん、車道すらない。)
水窪で車掌としばらく談。20分以上遅れるというので若干予定を変更する。田本・小和田の順番で訪問する予定だったが、順番を入れ替えた。ただそれだけだが、結果的にはその判断が良かったのか、最終的に予定通りになろうとは・・・
まず、変更した小和田へ向かう。本当に山の中を走り抜け、秘境モードが濃くなるのは、やはり飯田線ファンが多いのは肯ける。私も久々の「鉄分補給」のため気持ちが昂る中、ようやく最初の「小和田」に到着。車掌も慣れたもので、姿・身なりから「その道の人」と判断。特にこの駅に降りる我々に対して偏見を持つわけでもなく、いつものように対応された。

(私の訪問時は交換設備があった小和田駅。駅の周りは完全に自然と一体化している。と言うより駅のみが「異空間」的な存在だ。)
列車が去った後は急に駅全体の空間がが自然の一部と変化し、天竜川のせせらぎのみが唯一の「音声」と化していた。鉄道設備以外は地球上でよく見かける「自然」という名の物体のみに囲まれ、人工的な物はほぼ皆無に等しい。片方は山、片方は川に挟まれながら交換設備を持つ対向式ホームの2面2線。現在は棒線化されたが、当時は数メートルの引き込み線みたいなのもあった。「これが秘境駅か・・・」相方は写真撮影に夢中になり、気が付いたら2時間があっという間に経っていた。駅舎の中にはこの駅で結婚式を挙げたカップルの様子を大々的にアピールしているが、駅から坂を若干下るとそれに関連するベンチのようなものも登場した。「縁結びの神社」化した駅は現在、本来の「役割」を果たしているとは思えない。しかしながら、豊橋方面のホームに向かう「乗客」が現れたのだ!相方が興味津々でその人に取材している。私はお構いなしにと、さらに駅舎などの設備に向けシャッターを切っていた。約3時間の滞在もあっという間であったが、すでに乱れたダイヤが復旧していた。小和田と戯れている間にダイヤが平常に戻っていたのだ。

(続いて、断崖絶壁にある田本駅。もちろん駅員無配置であるが、当日は「保線屋」が訪問しておりいささか独占できなかったが、こちらも秘境度満点である。)
次に向かったのは田本である。周知の通り、断崖絶壁と天竜川に挟まれた由緒正しい秘境駅だ。棒線で当然であろう必要最低限のスペース。崖には、今にも落ちてきそうな岩がコンクリで固められており、ホームには簡素な待合室と、なぜか点字ブロックがある。田本駅付近を散策すると、本に書いてあったように、駅に繋がる車道は無い。というより道と呼べるかわからない「林道」のような獣道だ。途中、マムシでも出そうな危険な道に、果たして点字ブロックが必要な人が下車できるのか・・・素朴な疑問が出てくる。この駅も小和田同様、列車の去った後は「自然」の一部になっていた。駅の設備を撮影する以外、やることがない。小さな待合室に入ってみると、真夏の日差しを避けるのにちょうどいいが、もちろん空調設備は無く、人間以外の生き物も日差しを避けようとしている。中には図鑑に載っていないような昆虫まで・・・人間は、鉄道か徒歩でしか訪問することができない。いや、「船」という方法もあるが、所謂「許可」みたいな物を必要とするのであろうか・・・
アルコールが進む中、列車を「走る空調室」として使うため、予定に無い「為栗」を訪問することにした。こちらも秘境度は負けていないが、駅付近に民家を発見。若干飯田線の需要を支えているものと推測されるが、目の前が天竜川のダイナミックなロケーション。合計3駅訪問して、すっかり「訪問家気分」になってしまった。

これだけの大自然の中を走る飯田線に、多くのファンがいるのはとても素晴らしいが、私は全く季節感が無いため「紅葉の時期」「雪景色」など意識せずにいつも旅に出ていた。しかし、最近は年齢を重ねたせいか、そういう「季節感」みたいのも若干意識するようにもなった。私たち御一行は更に飯田線を全線制覇するべく辰野に向かったが、久々の「大垣夜行」にいささか睡魔が襲う。前半は興奮しっ放しであったが、目的を達成した後の飯田線は、気付いたら夢の中で「制覇」していたようだ。

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飯田線・秘境駅訪問記①
2012-12-20

2007年夏、一人の男と秘境駅の旅に出た・・・この男は通称「おさる」と呼び、私の親友である。彼は私に鉄道ファン再開のきっかけを作った男でもある。というのも、彼は鉄道とは無縁の人間であるが、某秘境駅訪問家の著書に共感を得て、私に勧めてきた。当時の私は鉄道ファン休業中であったが、彼よりは鉄道知識においては若干ある。すぐに私が「主導権」を握るようになり「では行くか!」という事で、某秘境駅訪問家のお勧めステーションに「訪問」となったのだ。
彼とは「音楽仲間」であったが、近年は活動していない。私がベース担当で彼はギター。同じバンドに所属していたのは初期だけで、以降「飲み仲間」へと変化していった。
そんな仲間と約20年オーバー振りに列車の旅に出る事になった。2007年7月の事であるが、私は久々の「旅」であるため相手に失礼の無いよう、3日くらい前に銚子電鉄へ「予行練習」に行っている。久々の鉄道の旅。かつての「思い」が甦って来た。しかし体力的にはどうか?しかも「大垣夜行」→「ムーンライトながら」に乗るのは20年振りだ。若干の不安を隠せない。
早速、小田急線・鵠沼海岸駅より出発だ。鵠沼といえば「ウルトラセブン」でお馴染みのモロボシ・ダン役のあの俳優が軒を構える店舗がある。「モノホン」も何度か見かけたが、若干印象が違うようだ。
余計な事はヨシとして、小田原より、「初」ムーンライトながらに乗車。かつての概念では小田原から「乗る」ということが無いため、とても新鮮である。昔は嫌でも東京駅のホームで2時間~3時間待ちは当たり前。リクライニングの無い165系での仮眠が当たり前だった時代に比べたら格段の進歩。「初・ながら」においては、車両形式とかは全くわからなかったしJR東海の車両というのもわからなかった。しかも「全席指定」は私の常識では考えられなかったりと、先導しなければならない立場の人間が戸惑うばかり。だが、やはり「鉄分」が染み付いたままであったのであろう。徐々に体が対応していった。そして昔では考えられなかった「リクライニング」で豊橋へ向かった。

若干の興奮で両者共熟睡できず豊橋に到着。飯田線の出発時間まで約2時間位あったが、朝食を摂ったり用を足したりしているうちにすぐに時間は過ぎ「初」飯田線に参戦。秘境駅を何駅か訪問後、ついでに身延線も制覇させてもらう行程だ。
さて、朝6時ちょうどに豊橋を出発するのは1982年に登場した飯田線用119系電車だ。以前は旧型車の宝庫であったが、さすがに新車を導入する時期に来ていたようで、誕生当初は水色の車体に白っぽい帯が入っていた。現在はペイントが変更されている。だが、最近一編成のみオリジナルカラーの車両が復活したらしい。最近の某鉄道誌で確認している。だが、私の乗ったのは当然オリジナルカラーではない。それより、とにかく「秘境駅」が我々を待っている。できれば80系とかで向かいたかったが、今は平成。西暦2000年代である。
途中、水窪で「信号機故障」か何かのトラブルで約20分くらい遅れた。私の鉄道の旅でダイヤが乱れるという場面に遭遇した事が無いため対応にひと苦労。果たして予定通りに行くのか・・・このあと秘境駅の滞在時間に救われる事になろうとは・・・


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懐かしの盟友たち(4) <L特急等>
2012-12-19
前回に引き続き蔵出ししてみた。今回は上野駅の写真がほとんどだが、よくもまあ、10代の青年がこれだけ日本全国を駆け巡ったものだと、自分自身、関心してしまうほどである。現在はほぼ不可能であろう!

地上時代の札幌駅にて、781系L特急「ライラック」。以降「ホワイトアロー」「スーパーカムイ」と変身していくが、ライラック以前の愛称は「いしかり」。

183系「しおさい」。確か東金線制覇時だったと思うので成東と思われる。バックには後輩たちが写っているので中学生時代のひとコマであろう。1983年頃。

「とき」の競演。上越新幹線開業直前である。バックには103系山手線が。

「あいづ」も恐らく上越新幹線開業直前の撮影と思われる。この頃の上野駅は常に特急や急行の出入りが頻繁で、DCや旧型PCも見られた。

大きなカーブを描くホームは函館である。函館本線経由「北海」はキハ183の誕生初期のひとコマだ。


「谷川」「白根」は185系誕生初期のひとコマ。同じ185系の「踊り子」とは若干ペイントが異なり、装備も若干異なる。というより「特急」と呼ぶには何か物足りないと感じるのは私だけであろうか?

「白山」は上野~金沢の特急であった。近年までは急行「能登」として同じ車両で同じ区間を走っていた。

「ひばり」と「やまばと」の競演。「ひばり」は上野~仙台、「やまばと」は上野~山形で活躍。どちらも新幹線開業と同時に去って行った。撮影は昭和55年頃と推測。

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地上時代の札幌駅にて、781系L特急「ライラック」。以降「ホワイトアロー」「スーパーカムイ」と変身していくが、ライラック以前の愛称は「いしかり」。

183系「しおさい」。確か東金線制覇時だったと思うので成東と思われる。バックには後輩たちが写っているので中学生時代のひとコマであろう。1983年頃。

「とき」の競演。上越新幹線開業直前である。バックには103系山手線が。

「あいづ」も恐らく上越新幹線開業直前の撮影と思われる。この頃の上野駅は常に特急や急行の出入りが頻繁で、DCや旧型PCも見られた。

大きなカーブを描くホームは函館である。函館本線経由「北海」はキハ183の誕生初期のひとコマだ。


「谷川」「白根」は185系誕生初期のひとコマ。同じ185系の「踊り子」とは若干ペイントが異なり、装備も若干異なる。というより「特急」と呼ぶには何か物足りないと感じるのは私だけであろうか?

「白山」は上野~金沢の特急であった。近年までは急行「能登」として同じ車両で同じ区間を走っていた。

「ひばり」と「やまばと」の競演。「ひばり」は上野~仙台、「やまばと」は上野~山形で活躍。どちらも新幹線開業と同時に去って行った。撮影は昭和55年頃と推測。

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懐かしの盟友たち(3)
2012-12-17
またまた懐かしの写真を蔵出ししてみた。こうしてみると、旅をしていた当時の思い出がよみがえってくる。しかし、まだまだ昔を振り返ってはいられない。前進突き進むのみである!

昭和54年頃の「にちりん」。どこの駅だか忘れたが、私が寝台特急「富士」乗車中に単線区間で列車交換の際の一枚だ。

1982年3月、電化直前の関西本線・富田浜駅にて。大垣夜行から名古屋で乗り換えてこの列車に乗車。今では考えられないが名古屋発亀山行き(だったような気がしたが)の普通列車である。

つい最近の福井にて。419系であるが、ご存じの通り583系の改造車である。まだ「懐かしの~」の部類には入らないであろうが、最初に583系の改造車が導入されたのは長崎線や佐世保線の715系である

青春18派にはお馴染み「ムーンライトえちご」。これも「懐かしの~」の部類ではないが、定期運用から外れて久しい。高崎にて。

撮影日時は記憶に無いが、鶯谷にて。103系の山手線は確かに懐かしいが、当時はただうっとうしばかりであった。鶯谷では、よく上野発着の特急列車などを撮影に出かけたものだ。

言わずと知れた「秩父鉄道」。東武熊谷線廃止の情報を聞き、熊谷に出向いた際の一枚。別にこれを撮影に来たのではないが、結果的に貴重な一枚となってしまった。

1982年3月、備後落合にての木次線キハ20。1時間半のインターバルがあったためこの後駅を散策。当時は駅員がいて「あそこの丘に行けば駅の全景が撮影できるよ」と教えてくれたが、現在はその駅員さんもいない、山間の小さな分岐駅。

1980年頃の武蔵白石にて。つまり鶴見線だが、私の行った時は既に鶴見線は黄色の103系に置き換わっていたが、この大川支線のみは旧型国電であった。現在は車両が置き換わり、武蔵白石の大川支線用ホームは消えた。現在の大川支線の起点は「安田善次郎」。

1978年頃の指宿駅舎。「富士」乗車後にこちらに宿泊。指宿といえば指折りの温泉街であるが、私は2010年になんと30年ぶりに再訪している。

懐かしの「鹿児島中央」の旧駅舎。新幹線がやってくるとは、当時は考えもしなかった。こちらも同じく「富士」乗車の際の一枚。

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昭和54年頃の「にちりん」。どこの駅だか忘れたが、私が寝台特急「富士」乗車中に単線区間で列車交換の際の一枚だ。

1982年3月、電化直前の関西本線・富田浜駅にて。大垣夜行から名古屋で乗り換えてこの列車に乗車。今では考えられないが名古屋発亀山行き(だったような気がしたが)の普通列車である。

つい最近の福井にて。419系であるが、ご存じの通り583系の改造車である。まだ「懐かしの~」の部類には入らないであろうが、最初に583系の改造車が導入されたのは長崎線や佐世保線の715系である

青春18派にはお馴染み「ムーンライトえちご」。これも「懐かしの~」の部類ではないが、定期運用から外れて久しい。高崎にて。

撮影日時は記憶に無いが、鶯谷にて。103系の山手線は確かに懐かしいが、当時はただうっとうしばかりであった。鶯谷では、よく上野発着の特急列車などを撮影に出かけたものだ。

言わずと知れた「秩父鉄道」。東武熊谷線廃止の情報を聞き、熊谷に出向いた際の一枚。別にこれを撮影に来たのではないが、結果的に貴重な一枚となってしまった。

1982年3月、備後落合にての木次線キハ20。1時間半のインターバルがあったためこの後駅を散策。当時は駅員がいて「あそこの丘に行けば駅の全景が撮影できるよ」と教えてくれたが、現在はその駅員さんもいない、山間の小さな分岐駅。

1980年頃の武蔵白石にて。つまり鶴見線だが、私の行った時は既に鶴見線は黄色の103系に置き換わっていたが、この大川支線のみは旧型国電であった。現在は車両が置き換わり、武蔵白石の大川支線用ホームは消えた。現在の大川支線の起点は「安田善次郎」。

1978年頃の指宿駅舎。「富士」乗車後にこちらに宿泊。指宿といえば指折りの温泉街であるが、私は2010年になんと30年ぶりに再訪している。

懐かしの「鹿児島中央」の旧駅舎。新幹線がやってくるとは、当時は考えもしなかった。こちらも同じく「富士」乗車の際の一枚。

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サボコレクション②(急行・特急・その他)
2012-12-15
サボ蔵出しパート2です。私自身もとても懐かしく感じ「えっ、こんなの持っていたんだ」と思うほどである。

直訳すると「八戸のために」。どこで撮影したか記憶に無いが、確か野辺地だったと思う。東北本線の普通列車である。機関車に牽引される客車列車であった。

上野~青森の寝台特急583系バージョン。PCと2本立てであったが、私は583系しか経験が無い。これが583系初乗車である。

札幌~釧路の急行。夜行バージョンは客車だが、昼間はDCである。後年は「スーパーとかち」や「おおぞら」に、良い言い方をすると格上げされる形で消えていった。

夜行急行「津軽」。上野~青森の奥羽本線経由で、12系客車の急行。下りの青森行きは青森着が確か昼の12時頃着であった記憶が。

奥羽本線の急行「むつ」。上野発の夜行急行「八甲田」に接続して大変便利であった。現在は特急「つがる」に格上げ。

急行「赤倉」。全線電化区間を走るDCで有名であった。確か長野駅で撮影。走行区間は名古屋~新潟で中央本(西)線経由。

485系「みどり」。現在も佐世保~博多間で同愛称が活躍するが「ハウステンボス」は当時は無かった。

函館本線経由の特急「北海」。かつては函館~旭川であったが、写真当時は函館~札幌に短縮された。函館本線経由の特急は現在はないが、未来の「北海道新幹線」の愛称にでもなれば面白い。

急行「らいでん」。基本的に倶知安~札幌の急行であった。長万部や目名・蘭越からやってきて、倶知安から急行に変身。

ご覧の通り、肥薩線・吉都線経由。確か特急「おおよど」も同じ区間を走っていたと思うが、博多~宮崎であった。この「えびの」もかつては同じ区間であったが、写真の区間に短縮されてた。特急や急行が肥薩線(人吉~吉松間)を走らなくなって久しいが、ループ&スィッチバックする「おおよど」を拝みたかった。

快速「なつどまり」。青森~大湊であった。以前は急行であったが格下げされた。

特急「たざわ」。東北新幹線開通と同時に誕生した。盛岡での新幹線の接続として活躍。田沢湖線の電化は、当時画期的であった。

寝台特急「はくつる」で583系寝台である。晩年は客車に変更されたみたいだが、全く印象が無い。あえて「みたいだが」と表現してしまうほど583系の印象が強い。

特急「はつかり」。以前は上野~青森であったが東北新幹線開通後は盛岡~青森に短縮。

夜行普通列車「はやたま」のサボ。亀山駅の待合室に無造作に置かれていた。よっぽど治安が良いのかお客様を信用しているのか・・・

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直訳すると「八戸のために」。どこで撮影したか記憶に無いが、確か野辺地だったと思う。東北本線の普通列車である。機関車に牽引される客車列車であった。

上野~青森の寝台特急583系バージョン。PCと2本立てであったが、私は583系しか経験が無い。これが583系初乗車である。

札幌~釧路の急行。夜行バージョンは客車だが、昼間はDCである。後年は「スーパーとかち」や「おおぞら」に、良い言い方をすると格上げされる形で消えていった。

夜行急行「津軽」。上野~青森の奥羽本線経由で、12系客車の急行。下りの青森行きは青森着が確か昼の12時頃着であった記憶が。

奥羽本線の急行「むつ」。上野発の夜行急行「八甲田」に接続して大変便利であった。現在は特急「つがる」に格上げ。

急行「赤倉」。全線電化区間を走るDCで有名であった。確か長野駅で撮影。走行区間は名古屋~新潟で中央本(西)線経由。

485系「みどり」。現在も佐世保~博多間で同愛称が活躍するが「ハウステンボス」は当時は無かった。

函館本線経由の特急「北海」。かつては函館~旭川であったが、写真当時は函館~札幌に短縮された。函館本線経由の特急は現在はないが、未来の「北海道新幹線」の愛称にでもなれば面白い。

急行「らいでん」。基本的に倶知安~札幌の急行であった。長万部や目名・蘭越からやってきて、倶知安から急行に変身。

ご覧の通り、肥薩線・吉都線経由。確か特急「おおよど」も同じ区間を走っていたと思うが、博多~宮崎であった。この「えびの」もかつては同じ区間であったが、写真の区間に短縮されてた。特急や急行が肥薩線(人吉~吉松間)を走らなくなって久しいが、ループ&スィッチバックする「おおよど」を拝みたかった。

快速「なつどまり」。青森~大湊であった。以前は急行であったが格下げされた。

特急「たざわ」。東北新幹線開通と同時に誕生した。盛岡での新幹線の接続として活躍。田沢湖線の電化は、当時画期的であった。

寝台特急「はくつる」で583系寝台である。晩年は客車に変更されたみたいだが、全く印象が無い。あえて「みたいだが」と表現してしまうほど583系の印象が強い。

特急「はつかり」。以前は上野~青森であったが東北新幹線開通後は盛岡~青森に短縮。

夜行普通列車「はやたま」のサボ。亀山駅の待合室に無造作に置かれていた。よっぽど治安が良いのかお客様を信用しているのか・・・

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湯西川温泉へGO!(リメイク版)
2012-12-11
第二の「第三セクター」野岩鉄道と会津鉄道を制覇したのは2008年3月11日より12日の二日間の行程である。青春18きっぷを使い「ムーンライトえちご」を使い新潟経由で会津若松に出た。
途中、高崎で急行「能登」に追い抜かれたが、かつての国鉄時代の特急車両が急行に格下げされ最後の勇姿を見せていた。乗車率は決して良いとはいえないくらいで、いつ廃止されてもおかしくないであろう。と言うより、未だに生き残っているのが不思議なくらいだ(定期運用はなくなりました)。勿論しっかりデジカメに記憶させた。さて、会津若松で我々を待っていたのは、なにやら車両に文字が沢山書かれた列車であった。

(会津若松に停車中の会津鉄道の車両。途中の会津田島までは非電化であるのでこちらの車両はDC仕様だ。)
実は会津地方野口英世所縁の地であり、車両の文字は、野口英世の母が息子宛に書いた手紙だそうだ。何はともあれ、ユニークな車両は人の目を引き付ける。さて、会津若松を出た列車は西若松に着いた。ここまではJRであるが、駅舎はすっかり近代化され、昔の面影は無い。ここから旧国鉄「会津線」の区間に入る。しかしどの駅もかつての国鉄色は無く、すっかり「会津鉄道」になっていた。中でも目を引いたのが「湯野上温泉」である。
この駅は度々テレビに顔を出すのだが、わらぶき屋根の駅舎の中に囲炉裏がありムード満点。列車交換のため3分くらいの停車時間があった為、駅舎に行ってみた。すると、そこは既に旅人の憩いの場となっており、囲炉裏の上部屋根はすっかりスモークされていた。再び列車に乗り、更に山深い景色を堪能しやがて会津田島の着いた。ここは会津鉄道の主要駅であると共に電化区間と非電化区間の境界駅のようなものでもある。構内には車庫もあり広い。

(TVでお馴染みの湯野上温泉駅の駅舎内。観光的には風情たっぷりである。)
ここで待ち時間が若干あるため駅の売店で弁当をゲット。もと名鉄の「北アルプス」で使用されていた快速列車を見送り、いよいよ電化区間に突入。実質、この駅が会津鉄道と野岩鉄道の境界駅である。現に境界駅である「会津高原(現尾瀬口)」では、さも途中駅の様にいとも簡単に去っていった。仮にも国鉄時代は「会津滝ノ原」という駅名で終着駅であったが全くと言っていい程面影無し!更に山深くなっていく雪景色は、初春の光を十分に浴び雪解け水となって流れてる沢から、更に日の光が反射してくる。もうすぐこの地にも春がやってくるであろう自然の営みが「車窓」というスクリーンに映し出され、実に幻想的だ。
会津高原より先の野岩鉄道から新線区間であるのが乗っててすぐに実感できる。線形が良く、カーブが少ない設計のためスピードが出る。しかしトンネルが多いのが難点だが・・・それを象徴するかのようにトンネル内の駅に停車した。本日のハイライト「湯西川温泉」である。この駅は、道の駅とドッキングしており温泉も併設されている。この温泉に入るのが目的で来た様なものだ。トンネル内のホームよりトンネルをくぐるように改札口へ、更に歩くと大きなフロアに出た。そう、道の駅だ。駐車場からは先ほど通ってきた鉄路の大きなアーチが見える。それより、早速2階へと通じる階段を急いだ。限られた時間の中「温泉」に身を沈めるためだ。若干広さの贅沢はいえないが、それでも500円の格安で本格的な温泉に入れるとは、なんて素晴らしいことか!時間帯が時間帯だけに、勿論「貸切」である。湯上り後、まだ時間があったので、先ほど会津田島にて購入した弁当を頂き、抜かりなくアルコールを注ぐ。最高のひと時だ。しかし、野岩鉄道はフリーきっぷが無いため正規料金であるのが残念である。フリーきっぷがあれば「ホットスパライン」の異名を取る野岩鉄道沿線の温泉めぐりが出来るではないか。関係者の方、よろしくお願いいたします!

(同じく湯野上温泉駅のホームより。列車交換のため少々停車時間があった。息抜きに改札を出る旨を駅員に伝えると快く了承してくれた。)
やがて次の列車の時間がやって来た。早速「下今市」めざし東武直通の「電車」に乗り込んだ。野岩鉄道の終点「新藤原」は、先程の「会津高原」と同じように「途中駅」の様にさっさと過ぎていってしまった。鬼怒川温泉では、反対側のホームに「スペーシア」が停車中で、沢山の観光客が利用していた。このスペーシアを会津田島まで延長してみてはいかがであろうか?実現できなくはないであろう。鬼怒川止まりでは、せっかくの「ホットスパライン」が、宝の持ち腐れになってしまう。新たな観光戦略として道が開けそうな気がしなくもないが・・

(湯西川温泉駅はトンネルの中にある。スパ施設と直結していて大変便利。そのスパ施設は「道の駅」としても活躍している。)
列車は暫く鬼怒川と並行して走る。東武鉄道というとどうしても池袋や浅草方面の賑やかなイメージがあるのでなんとなく異質に映る。とは言え、東京から会津若松までJR以外の線路で結ばれた。野岩鉄道は電化で開業したということは、当然東京からの直通列車を考えての事である。地元の願いが伝わってくるこの鉄道を「赤字」「採算」という物差しで簡単に無くしてはならないと思うが、現実は厳しい。もっともっと再生させる「ヒント」が必ずあるはずだ。流れ行く鬼怒川の水面を見つめながら野岩鉄道の「明日」を見つめていた。

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途中、高崎で急行「能登」に追い抜かれたが、かつての国鉄時代の特急車両が急行に格下げされ最後の勇姿を見せていた。乗車率は決して良いとはいえないくらいで、いつ廃止されてもおかしくないであろう。と言うより、未だに生き残っているのが不思議なくらいだ(定期運用はなくなりました)。勿論しっかりデジカメに記憶させた。さて、会津若松で我々を待っていたのは、なにやら車両に文字が沢山書かれた列車であった。

(会津若松に停車中の会津鉄道の車両。途中の会津田島までは非電化であるのでこちらの車両はDC仕様だ。)
実は会津地方野口英世所縁の地であり、車両の文字は、野口英世の母が息子宛に書いた手紙だそうだ。何はともあれ、ユニークな車両は人の目を引き付ける。さて、会津若松を出た列車は西若松に着いた。ここまではJRであるが、駅舎はすっかり近代化され、昔の面影は無い。ここから旧国鉄「会津線」の区間に入る。しかしどの駅もかつての国鉄色は無く、すっかり「会津鉄道」になっていた。中でも目を引いたのが「湯野上温泉」である。
この駅は度々テレビに顔を出すのだが、わらぶき屋根の駅舎の中に囲炉裏がありムード満点。列車交換のため3分くらいの停車時間があった為、駅舎に行ってみた。すると、そこは既に旅人の憩いの場となっており、囲炉裏の上部屋根はすっかりスモークされていた。再び列車に乗り、更に山深い景色を堪能しやがて会津田島の着いた。ここは会津鉄道の主要駅であると共に電化区間と非電化区間の境界駅のようなものでもある。構内には車庫もあり広い。

(TVでお馴染みの湯野上温泉駅の駅舎内。観光的には風情たっぷりである。)
ここで待ち時間が若干あるため駅の売店で弁当をゲット。もと名鉄の「北アルプス」で使用されていた快速列車を見送り、いよいよ電化区間に突入。実質、この駅が会津鉄道と野岩鉄道の境界駅である。現に境界駅である「会津高原(現尾瀬口)」では、さも途中駅の様にいとも簡単に去っていった。仮にも国鉄時代は「会津滝ノ原」という駅名で終着駅であったが全くと言っていい程面影無し!更に山深くなっていく雪景色は、初春の光を十分に浴び雪解け水となって流れてる沢から、更に日の光が反射してくる。もうすぐこの地にも春がやってくるであろう自然の営みが「車窓」というスクリーンに映し出され、実に幻想的だ。
会津高原より先の野岩鉄道から新線区間であるのが乗っててすぐに実感できる。線形が良く、カーブが少ない設計のためスピードが出る。しかしトンネルが多いのが難点だが・・・それを象徴するかのようにトンネル内の駅に停車した。本日のハイライト「湯西川温泉」である。この駅は、道の駅とドッキングしており温泉も併設されている。この温泉に入るのが目的で来た様なものだ。トンネル内のホームよりトンネルをくぐるように改札口へ、更に歩くと大きなフロアに出た。そう、道の駅だ。駐車場からは先ほど通ってきた鉄路の大きなアーチが見える。それより、早速2階へと通じる階段を急いだ。限られた時間の中「温泉」に身を沈めるためだ。若干広さの贅沢はいえないが、それでも500円の格安で本格的な温泉に入れるとは、なんて素晴らしいことか!時間帯が時間帯だけに、勿論「貸切」である。湯上り後、まだ時間があったので、先ほど会津田島にて購入した弁当を頂き、抜かりなくアルコールを注ぐ。最高のひと時だ。しかし、野岩鉄道はフリーきっぷが無いため正規料金であるのが残念である。フリーきっぷがあれば「ホットスパライン」の異名を取る野岩鉄道沿線の温泉めぐりが出来るではないか。関係者の方、よろしくお願いいたします!

(同じく湯野上温泉駅のホームより。列車交換のため少々停車時間があった。息抜きに改札を出る旨を駅員に伝えると快く了承してくれた。)
やがて次の列車の時間がやって来た。早速「下今市」めざし東武直通の「電車」に乗り込んだ。野岩鉄道の終点「新藤原」は、先程の「会津高原」と同じように「途中駅」の様にさっさと過ぎていってしまった。鬼怒川温泉では、反対側のホームに「スペーシア」が停車中で、沢山の観光客が利用していた。このスペーシアを会津田島まで延長してみてはいかがであろうか?実現できなくはないであろう。鬼怒川止まりでは、せっかくの「ホットスパライン」が、宝の持ち腐れになってしまう。新たな観光戦略として道が開けそうな気がしなくもないが・・

(湯西川温泉駅はトンネルの中にある。スパ施設と直結していて大変便利。そのスパ施設は「道の駅」としても活躍している。)
列車は暫く鬼怒川と並行して走る。東武鉄道というとどうしても池袋や浅草方面の賑やかなイメージがあるのでなんとなく異質に映る。とは言え、東京から会津若松までJR以外の線路で結ばれた。野岩鉄道は電化で開業したということは、当然東京からの直通列車を考えての事である。地元の願いが伝わってくるこの鉄道を「赤字」「採算」という物差しで簡単に無くしてはならないと思うが、現実は厳しい。もっともっと再生させる「ヒント」が必ずあるはずだ。流れ行く鬼怒川の水面を見つめながら野岩鉄道の「明日」を見つめていた。

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追跡!! 湘南モノレール(ダイジェスト版)
2012-12-07

2012年12月7日に取材に行き、その日に記事をUPの鮮度抜群レポートダイジェスト版です。しかしながら、若干カメラが疾病中で、中央の薄黒く丸い模様みたいなものがありますが、あまり気にしないでください。「近いうちに」新性能車を購入予定ですが、予算の目途が立ち次第になります。あらかじめご了承ください。
今回は、湘南方面に用事があったため「マイカー」での取材となりました。私が湘南モノレールを制覇したのは確か小学校か中学校時代に江の島に行くときにわざわざ大船よりこのモノレールに乗って江の島に行った時です。その頃と車両は同じですが、今回の取材で新車がいることが判明し、ますます勢いに乗ると思っているのは私だけでしょうか?
開業は昭和45年と意外に遅く、私の一年後輩であるが、筆頭株主が三菱重工業とあってメンテナンスは抜群と思われる。同じ神奈川県内にあった「ドリーム交通」とは全く違い「懸垂式」を採用。技術的な部分に関しては現在の千葉都市モノレールと全く同じである。私はかつて湘南深沢付近に(といっても歩くとかなりの距離だが)1年くらい勤務していたことがあり、この辺りの地理知識は群を抜いていた。と自信を持って本日(取材当時)勇んで出向いたら20年前とは若干の景色の変更があり、いささか戸惑ったが、すぐに対応できた。懐かしさ半分、新鮮さ半分で涙あり、笑いありと、なんだか映画のキャッチコピーみたいになってしまったが、写真を交えて紹介してみたい。なお、スケジュールの都合とマイカー駐車設備の関係から湘南江の島~湘南深沢までのレポートでお送りするが、実際は大船手前まで取材している。しかし富士見町付近までしか写真が撮れなかった(全くの私事ではありますが・・・)。

まずは「湘南江の島」からスタート。ちなみに江ノ島電鉄は「江ノ島」だが、湘南モノレールは「江の島」。両社は至近距離で連絡していて乗り換えに便利。なお、小田急の「片瀬江ノ島」は若干距離があり連絡しているとは言えない。ちょうど近鉄富田とJR富田くらいの関係であろう(余計にわからないか・・・)。

続いて「目白山下」。湘南モノレールは単線のため交換設備が必要。湘南江の島は棒線のため、江の島を出て最初の交換駅となる。湘南モノレールは朝晩以外は7分ヘッドでダイヤが組まれており非常に便利。交換駅では必ず上下線の交換が行われる。


次の「片瀬山」は棒線片面ホームの無人駅。自動改札はなかったためちょっぴりホームへ。加速が良く、すぐに遠ざかってしまう列車である。

次の「西鎌倉」は交換可能駅。すぐ下にスーパーマーケットがあり、絵的にスリリングであるが、買い物するのも勇気がいりそう・・・

見難いが、レールの中に架線がある。なんか見上げる取材に違和感大!

同じく「西鎌倉」のスーパーマーケット前より列車を見上げる。物凄い迫力!


「西鎌倉」で大船方を見る。ひと山超えるため、急こう配を一気に駆け上がる、といいたいが、写真は下ってきたところ。

続いて「湘南深沢」。ホームに上がってみた、という事は駅員無配置駅。仕事帰りなど毎日のように見ていたのにものすごく新鮮であった。
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湘南深沢より若干江の島方へ戻ると湘南モノレールの本社がある。テナントで「湘南ボウル」がいるが、会社の同僚たちとスコアを競った古き良き思い出がある。他にテナントで、準大手スーパー「マル〇ツ」がいたが、現在は撤退している。車庫もあり、当社の中心的存在。

再び「湘南深沢」に戻ったら新車に遭遇。次回はマイカーではなく、実際に乗車してみる必要ありそうだ。

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「サボ」コレクション ①(ブルートレイン)
2012-12-06
「サボ」蔵出ししてみました。

東京~熊本の寝台特急であった。現在はご存じ九州新幹線の愛称

大阪~青森の寝台特急。青函トンネル開通後は、1本が大阪~函館に変更した。

見えにくいが「新星」。上野~仙台の寝台急行。東京~大阪の「銀河」と並び、寝台急行の代表格であった、といいたいところだが、若干地味な存在であった。

私の物心付いた時には新大阪~西鹿児島の寝台特急であったが、同じ名称で583系もあった。私は明星との運行組み合わせであると思われる583系の「有明」で座席版でも乗車している。

若干薄いが「つるぎ」だ。大阪~新潟の寝台特急で、つい最近までは583系「きたぐに」にその座を譲り同区間で活躍していたが、「きたぐに」も定期運用を外れた。
![img072_convert_20130108140415[1]](http://blog-imgs-54.fc2.com/4/1/9/4190koawazay/201301081521394c0.jpg)
東京~紀伊勝浦の寝台特急。確か寝台特急「いなば」と併結であった。1975年に夜行急行「紀伊」からの格上げであったらしいが、急行時代を私は知らない。

上野~秋田の寝台急行。新潟に寄るため白新線を経由した。何ともロマンチックな愛称である。

旅日記でも紹介した「富士」。東京~西鹿児島(現・鹿児島中央)は、当時日本最長走行距離で24時間26分(後年は24時間25分)かけて日豊本線経由で西鹿児島へ向かった。私が乗車した時は下関・門司・宮崎で機関車を交換し、大分で後ろの何両かを切り離した。確か大分か宮崎のどちらかで自由席となり、私の座席もやがて途中乗車の乗客で染められていった・・・

門司港~西鹿児島の夜行急行。日豊本線経由で、宮崎~西鹿児島は普通列車に変身。確か寝台車を1両か2両連結していた。

臨時夜行急行「おが」。私の乗車した時は既に「臨時」に格下げされていた。私が乗車した時はオール20系であったが「寝台」の肩書はなく「急行」であった。自由席と表示されている所へ乗車したが、今でいう「ゴロンとシート」のような感じで寝台車を座席で解放。山形→新庄を乗車したが、いっそのこと男鹿まで行ってしまいたいほど快適であった。

札幌~釧路の夜行急行。昼間の「まりも」はDCであったが夜行列車は14系の座席急行であった。寝台車を1両連結していたが、後年は、運用の関係からDCに変身し寝台車を連結していた。

東京~大分に短縮された頃の「富士」。この頃は日豊本線内で「にちりん」に抜かされていたような・・・

札幌~網走の夜行急行。「まりも」同様、寝台車を連結していた。

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東京~熊本の寝台特急であった。現在はご存じ九州新幹線の愛称

大阪~青森の寝台特急。青函トンネル開通後は、1本が大阪~函館に変更した。

見えにくいが「新星」。上野~仙台の寝台急行。東京~大阪の「銀河」と並び、寝台急行の代表格であった、といいたいところだが、若干地味な存在であった。

私の物心付いた時には新大阪~西鹿児島の寝台特急であったが、同じ名称で583系もあった。私は明星との運行組み合わせであると思われる583系の「有明」で座席版でも乗車している。

若干薄いが「つるぎ」だ。大阪~新潟の寝台特急で、つい最近までは583系「きたぐに」にその座を譲り同区間で活躍していたが、「きたぐに」も定期運用を外れた。
![img072_convert_20130108140415[1]](http://blog-imgs-54.fc2.com/4/1/9/4190koawazay/201301081521394c0.jpg)
東京~紀伊勝浦の寝台特急。確か寝台特急「いなば」と併結であった。1975年に夜行急行「紀伊」からの格上げであったらしいが、急行時代を私は知らない。

上野~秋田の寝台急行。新潟に寄るため白新線を経由した。何ともロマンチックな愛称である。

旅日記でも紹介した「富士」。東京~西鹿児島(現・鹿児島中央)は、当時日本最長走行距離で24時間26分(後年は24時間25分)かけて日豊本線経由で西鹿児島へ向かった。私が乗車した時は下関・門司・宮崎で機関車を交換し、大分で後ろの何両かを切り離した。確か大分か宮崎のどちらかで自由席となり、私の座席もやがて途中乗車の乗客で染められていった・・・

門司港~西鹿児島の夜行急行。日豊本線経由で、宮崎~西鹿児島は普通列車に変身。確か寝台車を1両か2両連結していた。

臨時夜行急行「おが」。私の乗車した時は既に「臨時」に格下げされていた。私が乗車した時はオール20系であったが「寝台」の肩書はなく「急行」であった。自由席と表示されている所へ乗車したが、今でいう「ゴロンとシート」のような感じで寝台車を座席で解放。山形→新庄を乗車したが、いっそのこと男鹿まで行ってしまいたいほど快適であった。

札幌~釧路の夜行急行。昼間の「まりも」はDCであったが夜行列車は14系の座席急行であった。寝台車を1両連結していたが、後年は、運用の関係からDCに変身し寝台車を連結していた。

東京~大分に短縮された頃の「富士」。この頃は日豊本線内で「にちりん」に抜かされていたような・・・

札幌~網走の夜行急行。「まりも」同様、寝台車を連結していた。

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廃止路線を訪ねて①(白糠線)(リメイク版)
2012-12-02
国鉄末期に、いわゆる「赤字ローカル線」が国鉄再建法によって、次々と切り捨てられていった。そんな中でも「特定地方交通線」として、先陣を切って廃止されたのが「白糠線」であった。白糠線は、北海道は根室本線の白糠より北へ進み、文字通り「北進」へと向う33.1キロの盲腸線であった。営業係数(100円の利益を上げるのに係る経費の指数)ワーストの常連であったのを象徴するかのように1日3本の列車設定だ。当時中学生の私は、白糠線の廃止情報を聞き、衝撃を受けた。何とか廃止前に乗車したい・・・そんな募る思いの中、必然か偶然か、突然そのときはやって来た。学校の行事の都合とカレンダー上の連休が重なり、なんと4連休となった。私は早速きっぷの手配に取り掛かった。何と「北海道ワイド周遊券」を使うことにした。北海道ワイド周遊券は北海道の国鉄(当時)全線に乗車できて20日間有効であった。このきっぷを、なんと4日間で使用するという、何とも贅沢な企画となった。しかも季節割引があり、プラス、学割が適用されたため、何と4割近くの割引となった!現在ではもう夢のまた夢であるが、格安にての北海道「初」体験であった。

(白糠線制覇後に降り立ったと記憶している白糠駅にて。当然ながら「同業者」が多数。とは言え10月の平日であるが・・・私は中学生だったからいいとして、その他のギャラリーは一体どういうシチェーションなのであろうか・・・)
早速、北海道に行くため乗った列車は、急行「八甲田」である。ワイド周遊券は、フリー区間までの経路の急行利用は別料金が不要になるため、当然急行でのアプローチとなる。細かい乗車記録はリンク「私の旅の乗車記録」より参照していただくとして、私を乗せた列車は青森に6時15分に到着した。当時、青函トンネルは開通しておらず、青函連絡船での北海道入りだ。青森駅から連絡船へ向う通路は旅情たっぷり、旅心をくすぐる。桟橋を離れ「逆巻く波」を乗り越えていよいよ函館の桟橋が見えてきた時「初」の北の大地に期待が大きく膨らむ。函館で特急に乗り換え夕張線制覇のため苫小牧に向ったが、初めて見る北の大地の大自然は私の期待を裏切らなかった!大沼公園や羊蹄山など「北海道らしさ」を十分に見せ付けられながら、更に廃止予定の白糠線を目指し、夜行急行「まりも」で白糠へ向った。翌朝、白糠には私だけでなく「同業者」が多数降り立ち、1時間の待ち合わせの後ついに白糠線への旅になった。

(終点の北進にて。なんというか、文明と呼べるものは鉄道施設意外にあるのであろうか・・・)
もともと白糠線は、根室本線のバイパスを役割るべく白糠から足寄を経由して新得へ抜ける路線として計画されたが、石炭事業の衰退と共に中絶してしまった。それでも昭和39年には上茶路まで、昭和47年には北進まで開通した。沿線にこれといった観光資源も無く、せいぜい上茶路付近の炭坑への物資輸送くらいである。それでも開通させた裏には、どうやら政治的な匂いも無くは無いと考えざるをえないが、真相は・・・そんなことより、こういう超ローカルモードたっぷりの「特定地方交通線」こそ喜んで乗りにやってくるイチ鉄道少年であった。そんな私を乗せた列車は、乗客のほぼ9割9部8厘が「同業者」である事をお構いなしに白糠を走り出した。早速、遠ざかる根室本線を左に見ながら「秘境モード」に突入した。「鉄道の意味」を考えさせられる程の大自然の中をひたすら北へ進む。途中、白糠線唯一の仮乗降場「共栄」を過ぎ、景色の変化が無いまま「上茶路」に到着した。かつて付近に炭坑があって、その物資輸送があった事を象徴するかのように構内は広く、錆付いて使われなくなった側線が何本もあった。少なからず白糠線が盛隆した時期もあった事をうかがわせる・・・そして北進に到着した。「駅前一等地」には住宅は愚か、商店やその他、文明を示す物は鉄道意外にほぼ皆無に近い・・・それでも列車の着いた時、一時の賑わいを見せたが勿論、地元の利用者など皆無に近く、ほぼ全ての乗客が列車に向けシャッターを切っていた。そして再び乗ってきた列車で折り返してゆく・・・勿論私もその中の一人として白糠へ引き返したのだが・・・本来の鉄道としての使命を完全に果たせないまま、その役目を終えてしまう白糠線に対して「お疲れ様」と言うのは、なぜか「?」であると感じた。

(北進の駅名標。現在の北進駅跡は何もないそうであるが、約30年前には鉄道の歴史があった事を私が証明する。そのためにわざわざ北海道まで行ったのだから。)
それから2週間後、特定地方交通線の先陣を切って白糠線は廃止されてしまった。白糠線廃止後、次々と特定地方交通線が廃止され、気がついたら北海道の鉄道路線網に空白地帯が増え、抜け殻のようになってしまった・・・かつて、北海道の開拓時代には、鉄道にかける思いもかなりのものであったであろう。しかし時代は変わり、現在生き残った鉄道路線の沿線でさえ少子化と共に過疎化,更にモータリゼーションが進み、かつての「特定地方交通線」、またはそれ以下になっている路線も少なくない。これらの消え行く路線をただ指をくわえて見てる事しか出来ない自分が、ただただ歯がゆい思いでいた・・・

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(白糠線制覇後に降り立ったと記憶している白糠駅にて。当然ながら「同業者」が多数。とは言え10月の平日であるが・・・私は中学生だったからいいとして、その他のギャラリーは一体どういうシチェーションなのであろうか・・・)
早速、北海道に行くため乗った列車は、急行「八甲田」である。ワイド周遊券は、フリー区間までの経路の急行利用は別料金が不要になるため、当然急行でのアプローチとなる。細かい乗車記録はリンク「私の旅の乗車記録」より参照していただくとして、私を乗せた列車は青森に6時15分に到着した。当時、青函トンネルは開通しておらず、青函連絡船での北海道入りだ。青森駅から連絡船へ向う通路は旅情たっぷり、旅心をくすぐる。桟橋を離れ「逆巻く波」を乗り越えていよいよ函館の桟橋が見えてきた時「初」の北の大地に期待が大きく膨らむ。函館で特急に乗り換え夕張線制覇のため苫小牧に向ったが、初めて見る北の大地の大自然は私の期待を裏切らなかった!大沼公園や羊蹄山など「北海道らしさ」を十分に見せ付けられながら、更に廃止予定の白糠線を目指し、夜行急行「まりも」で白糠へ向った。翌朝、白糠には私だけでなく「同業者」が多数降り立ち、1時間の待ち合わせの後ついに白糠線への旅になった。

(終点の北進にて。なんというか、文明と呼べるものは鉄道施設意外にあるのであろうか・・・)
もともと白糠線は、根室本線のバイパスを役割るべく白糠から足寄を経由して新得へ抜ける路線として計画されたが、石炭事業の衰退と共に中絶してしまった。それでも昭和39年には上茶路まで、昭和47年には北進まで開通した。沿線にこれといった観光資源も無く、せいぜい上茶路付近の炭坑への物資輸送くらいである。それでも開通させた裏には、どうやら政治的な匂いも無くは無いと考えざるをえないが、真相は・・・そんなことより、こういう超ローカルモードたっぷりの「特定地方交通線」こそ喜んで乗りにやってくるイチ鉄道少年であった。そんな私を乗せた列車は、乗客のほぼ9割9部8厘が「同業者」である事をお構いなしに白糠を走り出した。早速、遠ざかる根室本線を左に見ながら「秘境モード」に突入した。「鉄道の意味」を考えさせられる程の大自然の中をひたすら北へ進む。途中、白糠線唯一の仮乗降場「共栄」を過ぎ、景色の変化が無いまま「上茶路」に到着した。かつて付近に炭坑があって、その物資輸送があった事を象徴するかのように構内は広く、錆付いて使われなくなった側線が何本もあった。少なからず白糠線が盛隆した時期もあった事をうかがわせる・・・そして北進に到着した。「駅前一等地」には住宅は愚か、商店やその他、文明を示す物は鉄道意外にほぼ皆無に近い・・・それでも列車の着いた時、一時の賑わいを見せたが勿論、地元の利用者など皆無に近く、ほぼ全ての乗客が列車に向けシャッターを切っていた。そして再び乗ってきた列車で折り返してゆく・・・勿論私もその中の一人として白糠へ引き返したのだが・・・本来の鉄道としての使命を完全に果たせないまま、その役目を終えてしまう白糠線に対して「お疲れ様」と言うのは、なぜか「?」であると感じた。

(北進の駅名標。現在の北進駅跡は何もないそうであるが、約30年前には鉄道の歴史があった事を私が証明する。そのためにわざわざ北海道まで行ったのだから。)
それから2週間後、特定地方交通線の先陣を切って白糠線は廃止されてしまった。白糠線廃止後、次々と特定地方交通線が廃止され、気がついたら北海道の鉄道路線網に空白地帯が増え、抜け殻のようになってしまった・・・かつて、北海道の開拓時代には、鉄道にかける思いもかなりのものであったであろう。しかし時代は変わり、現在生き残った鉄道路線の沿線でさえ少子化と共に過疎化,更にモータリゼーションが進み、かつての「特定地方交通線」、またはそれ以下になっている路線も少なくない。これらの消え行く路線をただ指をくわえて見てる事しか出来ない自分が、ただただ歯がゆい思いでいた・・・

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