熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~④ 鹿ノ谷
2014-07-29

かつては夕張鉄道との接続駅であった事が信じられないくらいの現在の姿の鹿ノ谷駅であるが、私自身もこの夕張鉄道自体をあまり知らないので実感が無い。資料を調べてみると石炭などの輸送は勿論であるが、途中で連続するスイッチバックがあるなど、もし現存していたらとても魅力のある鉄道路線であったろう。実際にあの伝説の宮脇氏が自身の著作においてこの廃線跡を自転車で訪問している姿を観た事がある。やはりこのスイッチバック区間はレールがなくなってしまった現在でも魅力ある。是非私もいつかは訪問してみたい・・・

(駅舎だけは開業当時からほとんど変化がないであろう。1983年10月以来約31年振りに参戦した夕張線は列車での訪問ではなかったので逆に街の様子がダイレクトに伝わってきた。)
と、鹿ノ谷は魅力があふれる駅でもあるが、現在のJR鹿ノ谷駅からは全く当時の姿が想像できない。確かに広い構内はかつての盛隆時代を彷彿させる場面もあるが、やはり「過去の話」で片付けられてしまうくらいひっそりとしてしまっていた。私はレンタカーでの訪問であったが、このあと夕張に向かい「さて新千歳(空港)に向かうぞ」と帰路に立つ時に道はわかっていたがあえてカーナビに入力してみた。すると旧・夕張鉄道を彷彿させるようなルートを案内されたのだ!私的には夕張線沿いに新夕張に行き高速に乗る予定であったが、カーナビの場合は勿論最短距離で案内してくる。
なるほど、鹿ノ谷から栗山・由仁方面へ出て千歳に向かうルートの方が近いのかと、さすが文明の力。私は関心させられてしまった。


(駅舎の中はこんな感じであった。勿論現在は駅員無配置であるが、若干手直しされている事に気付く。かつては多くの乗降客で賑わった事であろう。)
今思えば栗山方面へ抜ければ室蘭本線の駅訪問ができたなと若干の後悔が残るが、私はあえて栗山方面を案内するカーナビの声を振り切り新夕張方面に向かう事にした。そう、帰りも夕張線と触れ合ってみたかったからだ。そして夕張という街をしっかりと再確認したかったからだ。

(決して工事中ではないが、なんとなく簡易に済まされているような感がある。最低限のメンテナンスを施し維持を図るが、かつての姿からは想像できない。)
夕張市という場所は本当に山深い場所にある。これだけの場所にこれだけの文明を残したのはかつての先人たちがこの場所に明るい未来を求め、そして石炭という武器を元に開拓していったという証であろう。ウィキペディアにかつての鹿の谷駅の写真があった。それは本当に華やかな駅の姿であり、人々の出会い、そして別れや生活があったことがしっかりと確認できる内容が伝わってくる。たった一枚の写真でもこうして躍動感を覚えるのだから、やはりかつての夕張、そして鹿ノ谷駅は本当に栄えていた事であろう。





(そしてこれが鹿ノ谷駅のホームの景色。現在は完全に棒線化されてしまったが、1983年に私が訪問したときは一本の側線があった。その側線さえも今は無い・・・)
エネルギー革命とともに石炭産業は衰退、そしてそこに暮らす人々の生活も衰退していった。街を出て新たな生活を求めていく人たちもいればこの地に残って生活している人もいる。人それぞれに自身の生活をしっかりと守りそして未来に向けて、そして子孫繁栄に向けて皆頑張っている事であろう。

(この不自然な角度がかつての清栄を物語っている。たくさんの側線が分岐されていたろう波打つ線路は、かつて夕張鉄道との接点もあったはずだ。)
私は鉄道が好きだ。そして「鉄道が好き」という事から「こういう特典もついてくるのか」という事も教えられた。鉄道を通して教わった地理がずば抜けて得意であり、地元の人しか知らないような地名なども知っている部分は自慢できよう。そしてそこに暮らす人々の「生活」「文化」などにも興味が沸いてくるのはそこに鉄道があるからだと思う。私は「国内旅行業務取扱管理者」という国家資格を所有しているが、これも「鉄道が好き」からきた副産物であろう。実際問題、試験に関しては初参戦で合格。問題の内容も「この駅は何線に所属しますか?」みたいな出題もあり「えっ、こんな問題でいいの?」と試験中に思わず叫びそうになってしまった・・・みたいな事もあった。

(駅前一等地にはこんな建物があった。何かの会社らしいが、こういう場所なら今すぐにでも勤務してみたい気分だ。勿論報酬にもよるが・・・)
そんな私であるが、夕張の街、そしてこの鹿ノ谷駅はとても哀愁を感じずにはいられない。確かに財政は危機状態、というより既に破綻してしまっているが、そこに暮らす人々は決して暗い顔をしていない。後述するガソリンスタンドに寄った時もそう思ったが、何か夕張には引き付けられるものがある。その答えは現在分からないが、次回来る時は列車で訪問してみたい。もしかしたらその時に答えの一部でも見えてきそうな気がするのは気のせいであろうか・・・

(画像はウィキペディアより。1930年頃の鹿ノ谷駅。現在の姿からは全く想像つかない姿ではあるが、当時の盛隆がものすごく伝わってくる一枚だ。)

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熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~③ 夕張
2014-07-26

夕張というと・・・現在では「メロン」が真っ先に思い浮かぶ。他には「石炭」や「黄色いハンカチ」など・・・おや?黄色いハンカチ?と思われる若いレールファンもおられる事であろう。そう、ここ夕張は映画「幸せの黄色いハンカチ」の撮影地になった場所でもある。この映画では、同じく山田洋次監督の「男はつらいよ」の出演者がそのままスライドしているような映画で観ていると楽しい。しかもあの渥美清が脇役で登場するのはなんとも貴重な、というか違和感「大」の映画である。勿論「タコ社長」や「さくら」も登場するが、主役は高倉健。しっかりと映画全体が締まっているような印象である。

(3代目となった夕張駅。マウント・レースイスキー場の目の前にあり、駅は観光案内所的な役割をしているが・・・)
と・・・話は脱線してしまったが、ここ夕張駅は現在3代目の駅だ。周知の通り2回移転しているが、移転の度に隣の鹿ノ谷駅との距離が縮まっていき、現在の形をとっている。
1983年10月、しつこいようにこのブログで紹介している「白糠線訪問」の際にこの夕張線も立ち寄っているが、その時にここ夕張駅は「初代(タイガーマスクではないが)」の時代に私は訪問している。その初代は現在の「石炭の歴史村」付近に、というよりここの駐車場の中に駅があった。私の訪問時は一面一線の旅客ホームがあり側線が構内に何本かあった記憶だ。現在の夕張駅はご存知「マウントレースイ」の目の前に駅がある。要するにスキー場のホテルの前に駅があるという事だ。

(ホテル・マウントレースイはやたらデカい。一度は泊まってみたいホテルだ。ちなみにレースイは漢字で書くと「冷水」となる。ただ、列車に揺られてやってくる人は年間でどれほどの数字なのであろうか。)
若いレールファンは夕張線(石勝線・夕張支線)をどのような感覚で捉えているのであろか?私の感覚では石炭輸送は終焉を迎えキハ20などの気動車が走っている印象である。そして夕張駅は「初代」の印象がとても強いが、実際問題、機能性を追求するならば私は「2代目」の位置が一番鉄道らしい姿あであったろう。なぜ現在の位置に移転したのか・・・私は理解できずにいる。確かに観光を前面に打ち出し盛り返しを図ろうという意図もわからなくはないが、実際にレースイの前に駅を作り、1日8~9本くらいしかやってこないローカル線に揺られてレースイにやってくる観光客は年間で何人いるのであろうか?関係者は本気で夕張駅を移転して街が活気づくと考えたのであろうか?確かに2代目夕張駅と鹿ノ谷の間のこのレースイの前に臨時駅みたいな形で駅を設置しようという案もあったらしいが、結局現在の形になったと聞いた。



(現在の夕張駅。ここを夕張駅と称し機能させるのは個人的にいかがなものかと思うが・・・ただ、将来を見越して?か、島式ホームに変身できるように空間が準備されているような感じがするのは気のせいか。)
ハッキリ言って2代目は「地元密着」の印象であろう。実際に市の中心部付近に駅が設置され、市役所などの中心機能的な施設も近かった。ちゃんと市民が普通に利用しやすい駅であったろう。私は現在の夕張駅の姿が残念でならない。やはり2代目のように地元の方に利用してもらってこそ本来の鉄道の姿があるのではないか?と私は思う。

(駅前には観光案内所と併せてご覧の「施設」も。昼日中っからの「麦酒」はとても美味である事であろうが、今回はレンタカーでの訪問。若干悔しさを隠しきれなかった・・・)
現在の夕張駅は、何だかレースイに申し訳なさそうに細々と地味にレースイの片隅から列車が発着している印象だ。確かに夕張駅の駅舎内は観光案内所的な感じになっており列車でレースイ目的にやってくれば少しは役立つであろう。しかし、いかんせん市の中心部から離れており、地元の人はかなり利用しにくい交通機関だ。
そんな夕張駅も現在は「石勝線」として活躍している。かつての「夕張線」を知るものにとっては考えられない変貌ぶりである。後述するが、この夕張駅に来る前に新夕張よりすべての駅を訪問してきた。だから尚更思うのだが・・・

(レースイと仲良く共存しているように思えるが・・・トマムと決定的に違うのは、ここは「終点」であること。やはり私は「2代目」の位置が駅としては一番「らしい」姿ではないかと思う。)
私はある意味日本人に生まれて良かったと思う。確かに、例えば消費税20パーセント位取るが、医療費が無料みたいな国とかはあるが、そういう国を若干羨む部分も正直言ってなくはない。というより、そういうことを言っているのではなく、もし自身が日本人でなければこうして夕張線の過去とかも知ることができなかったし石勝線との出会いも無かったかも知れない。そう、私はこの日本に生まれたからこそこうして夕張線をノスタルジックに感じることもできるし石勝線と触れ合うこともできる。ただ「ふれあう」だけなら簡単な事であろう。だがずっと夕張線の歴史を見てきたからこそ「想い」みたいなものがあり伝わってくる「何か」を感じ取る事ができるのであろう。
確かに石炭では既に「過去」になってしまった。夕張市の財政状態が最悪なのは周知の通りである。しかし新夕張駅前の道の駅で名物「夕張メロン」を販売する方々を見ると実に活き活きしていた。皆再生に向けて頑張っているではないか!
そんな姿を見ていたら、いつしか私の心の中で「スパルタンX」が鳴り響いていた。

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熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~② 楓信号場
2014-07-24

(お馴染みの写真で申し訳ないが1983年訪問時のひとコマ。というより当時の楓駅の「資料」はこの一枚しか残っていない。)
ほんの10年くらい前までは旅客駅であったが(2014年現在)、現在は信号場として活躍している楓信号場は石勝線の中で最も特異の駅であった。勿論その輝きは今でも変わらないが、かつての夕張線時代は登川支線の中間駅に過ぎなかった。しかも登川支線時代はスイッチバック駅となっており当時から異色な存在であった。現在の楓は登川支線廃止の際に登川と旧・楓の中間くらいに、というよりほぼ旧・楓に近い位置に設置され、両者が統合された意味合いもあった。石勝線開通時の国鉄が予測した乗降客数は登川と旧・楓の乗降客数を合算したものであったが、その意図とは裏腹に年々利用者が減少。晩年には朝1本のみという、清水港線にも負けないくらいの列車設定となってしまった。それでも最後まで定期客がいたというのだから、それこそ楓の「底力」を見た印象であった。

(さて、楓に到着したが駅前にはご覧の商店と郵便局が占冠寄りに見える。この道こそ旧・登川支線の一部だ!)
私の初訪は既にお伝えしているように1983年10月で、ちょうど白糠線廃止情報を受け旅立った時であった。その時の楓は既に夜7時頃を迎えようとしている時で、辺りは暗くなっていたためしっかりと散策できなかった。しかも確か5分くらいで乗ってきた列車が折り返すためホームにもろくに出られずにただ訪問しただけのような印象に過ぎなかった。それでも楓駅とともに時間を共有できたのはすごく楽しかったのを覚えている。


(楓駅の特徴はなんと言っても独立した普通列車専用のホームであろう。晩年はこの独立ホームに朝1本のみの普通列車が発着していたとは。)
それからなんと31年という歳月が流れ再び楓駅と再会する事ができた。しかし、周知の通り楓駅を取り巻く環境は大きく変化し、現在は「信号場」として第二の人生を過ごす事となってしまった。だが、かつての姿が今もなお健在とあっては非常に懐かしく、そして嬉しい。「嬉しい」とはおかしな表現かも知れないが、まだまだ「旅客ホーム」が残っているので「その気になれば」再び旅客駅として活躍できる可能性は否定できないであろう。


(そして本線上のホームへ行ってみる。独立ホームの位置から少し歩き一般道のような道へ行き少し登ると占冠方面の本線上のホームへの入り口と保線員の詰め所が登場する。もちろん入口は閉ざされていた。)
楓の特徴はなんといっても独立した普通列車専用のホームがあることだ。現在もそのホームは姿をとどめているが、駅舎は完全に取り壊されてしまい跡形もない。そして本線側にも旅客用のホームがある事は周知の通り。2~3両分であろうか、特急列車が停車するには足りないくらいの短いホームが相対式に並んでいる。だが面白いのはそのホーム間の行き来はなんと一般道を使うという荒技だ。それは、例えば本線側の下りホームまたは3番線のホームを一旦降りて土手状になっている一般道の細い砂利道を上がっていく。そして石勝線を跨ぐと左に折れる道があるのでそちらに向かうと上りホームに繋がる通路の入口が顔を出すという仕組みだ。現在その入口は固く閉ざされているのでホームに行くことができないが、例えホームに行けたとしても停車する列車がないため意味がない。と、こんな形の楓駅であるが、過去にはこの本線上の旅客ホームになんと臨時ながら列車が停車し旅客扱いしたとの情報もある。勿論最初から臨時列車のためにホームを作ったわけではないであろうが、私もこの状況をひと目見てみたかった。


(そして詰所を過ぎ更に登るとホームへつながる通路が出現する。手前の不自然な空間の右手にはかつての駅舎があった場所だが、完全に跡形もなく消えていた。そして更に登る。)
こんなところにこの楓の魅力があるのであろうが、実際問題は本当に本線上のホームを使い普通列車の設定も考えていた事であろう。ホームの長さから考えて特急列車は停車させないとの思いが伝わってくるが、もしかしたら特急列車のみの設定も考えていたのであろう。いずれにしても楓から占冠方面へ向かう乗客などは年に1人か2人いればいい方であろうと予測し、更に特急列車のみにすると夕張方面の通学時間帯の列車設定が全く無いという意味もあり独立ホームが出現したのであろう。本線上ではなく、あえて「独立」させたのが面白い。



すると石勝線を跨ぐ橋が出現。橋からはレール誌などでよく見かけるこんな風景が拝める。相対式状の本線ホーム。やはり特急が停車するには長さが足りないかも。)
現在、楓駅前には立派な国道があるが、それこそ旧・登川支線の一部である。駅から占冠方面を見ると登川郵便局と商店が一軒ある。新夕張方面には集合住宅が数棟あるので列車の利用が期待できようが、当然ながら「一家に一台」であろうマイカーが専らの交通手段であろう。そういえば先述した「商店」であるが、この商店は真鶴あたりでよく見かける「ドライブイン」のような物産店である(と言われても真鶴に馴染みの無い方には非常にわかりにくい例えであるのは申し訳ないが・・・)。こんな所で商売成り立つの?とお思いの方もおられるであろう。実は1994年頃に友人とツアーで北海道に旅に出たことがある。

(そしてこれもお馴染みか・・・写真左側中央~下にかけてはかつて駅舎が存在した。)
男2人旅・・・なんとも色気が無い旅であるが、観光バスで移動の際になんとこの商店で「休憩」が入ったのだ!レールファン休業中であったが勿論そこがどこであるか事情は知っている。そう、これこそ貴重な「収入源」であるのだ。このツアー、私が参加した時はかなり参加者がおり、バス2台~3台でのコース巡りであった。その参加者ほとんどがこの「休憩所」に下車しお土産などを購入していくのだから・・・それは相当の売上となった事であろう。やはり旅行会社と提携してこそ!というものもあるが、あれから20年経過し世間の事情も変わってきた中、現在の状況はどうなのであろう。そういえば、旧・紅葉山駅跡には「道の駅」が誕生した。そちらの方に、いわゆる「お客様」がシフトしているようにも思えるのだが果たして・・・

(そしてこれが新夕張方面のホームへ伝う通路。とんでもない事になっていたのでここで取材を断念。と言うより、もし草根をかき分けて辿り着いたとしても入り口は完全に閉鎖されていた。)
異色の楓駅をあえて「夕張線」と題しカテゴリーにしたのには私なりのこだわりがあった。私は今でもこの楓駅を「夕張線」と思っている。石勝線開通当時、もし楓から占冠へと向かうには一旦新夕張まで出て特急列車に乗り換えなければならなかった。勿論楓~新夕張間の料金は不要であったが、楓駅が信号場になるまでにそのようなお客様は一体累計で何人いたのであろうか?私が1993年に会社のスキーの自由行動でトマムに行った際、その帰りにトマムから乗った列車は満席で私はデッキに立っていた。すると占冠で小学生と思われる数名が母親に見送られながら乗車してきた!私は驚きを隠せずにいたが、この占冠という「陸の孤島」と言われた場所から一般に乗客があったのは嬉しかった。そして彼女たちは新夕張で下車していった。行き先は分からないが、おそらく夕張方面へ向かったのであろう。しかしまさかのサプライズは・・・?無いであろうが、もし「楓」に向ったとしたならばそれは「クライム」であろう・・・

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熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~ ①新夕張
2014-07-21

おや?夕張線とは・・・と思われる方も多かろうが、私にとって石勝線・新夕張~夕張間のいわゆる「夕張支線」は、言わずと知れた「夕張線」である。若く新しいレールファンはこの「夕張線」という単語にはほとんど馴染みがないであろう。だが、団塊世代の方なら石炭を積んだ列車が右往左往していた時代が懐かしく感じられる事であろうと思う。私はちょうどこの「中間世代」のため物心着いた頃には既に石炭の時代は終焉を迎えていた。私が小学校に入学する年に追分からSLが撤退する時代であった。そして更に中学生になった時に石勝線が開通し「夕張線」という名称が無くなった時代でもあった。

(旧・紅葉山駅前から新夕張駅を見てみた感じ。地味に段数がある階段を登らなければ駅にたどり着けない。とは言うものの、なんとなくこの景色、かつて神奈川県は川崎にあった「向ヶ丘遊園」に似てはいないであろうか?)
石勝線が開通した時はものすごく斬新な出来事であったのでとても印象に残っており、それ以来私は自身が一番好む鉄道路線になった。が・・・元来の「夕張線」は石勝線の華やかさとは裏腹に「前近代的」のまま引き継がれた。かつてはこちらが「本線」であったはずだが・・・

(そして新夕張駅へ。もう移設開業してから30年以上が経過した。ところどころに損傷が目立ってきたが、私が訪問したのも実に31年ぶりだ。私自身も「損傷」が目立つようになってきたか・・・)
1983年、白糠線廃止情報を受け北海道に旅立った。この事は既に何度もこのブログで紹介しているが、この時にニューフェイスの「石勝線」を併せて散策。そして勿論、旧・夕張線にも訪問した。そして2014年6月、列車ではないが既にお伝えしている「熊シリーズ」の時に約31年振りに夕張線を訪問。逆に「外から見る」事ができて非常に収穫があった。そんな夕張線の「現在」を紹介してみようと思う。とは言うものの、前回の訪問から約31年という歳月が流れているという事は、これ非常に奥深くそして時代を感じてしまう「歴史」がひしひしと伝わってくる旅となった。



(そしてホームへ。秘境度は全く感じないが、実際問題「大自然」の中にある事には変わらない。)
という事で、今回は新夕張~夕張と楓の各駅を紹介してみよう。ちなみに私が初めて訪問した夕張駅は初代であったが今回は3代目である。この事ひとつとっても歴史を感じるとともに私自身の「世代」もバレてしまう事になろうが・・・
さて、最初に紹介する駅は新夕張である。周知の通り、かつては「紅葉山」と称し登川支線の分岐駅でもあった。しかしその「登川方面」が本線に変身するとは・・・私にとっては実に斬新な出来事であったが、現在は駅前に「道の駅」がある。勿論「夕張メロン」のアピールも最大で、石炭に次ぐ観光産業として地域全体で力を入れていることが伝わってくる。そして付近で採取された新鮮な野菜なども販売しており、さながら「地域密着」のカラーも醸し出す。私の訪問時は旅の最終日であったが、その最終日をいい事に妻はなんと「きゅうり」を購入していた!旅先で既に生活色を前面に打ち出す妻には完全にやられてしまったが、至って妻はマイペース。「5本で100円だった」と興奮を隠しきれない表情で自慢げにきゅうりが入った袋を私に披露していた。そしてそのきゅうりを自宅まで持参。空港の手荷物検査を通過し見事関東に上陸した。後日試食してみたが、マジで美味であった。そばでいう「コシ」とでも言おうか、私がいつも口にしているきゅうりとは全く違う食感・・・わざわざ空を越えて来た甲斐があったというものだ。



(そして再び「紅葉山」に戻り、現在の「紅葉山」へ。現在の紅葉山駅跡は「道の駅」となっており、スーパーマーケットのような商業施設も入居している。かなり生活感あふれる道の駅だ。当然「名産品」も。)
そんな事はどうでもいいとして、今述べた「道の駅」はかつての夕張線・紅葉山駅跡にある。その紅葉山駅跡はバスロータリーなどに変化してしまったが、その「紅葉山」の名残が伝わって来るかのように広く細長い土地がかつての「鉄道」を感じさせる。勿論旧ホームなどの遺構は既に跡形もないが、新夕張駅前には「紅葉山」の駅名標がありかつての勇姿を伝えてくれている。

(道の駅から続いている空間。ここもかつては紅葉山駅の構内であった。1983年に私が訪問したときはまだホームの残骸があったが、現在はごらんんの通り。)
そしてこの新夕張はいわゆる夕張方面への玄関口的な役割をしている。道路標識などを見ると「夕張紅葉山」という呼び方みたいであるが、付近に高速道路のインターも設置されたり、そしてご存知「夕張線」の分岐駅でもある。石勝線開通時に紅葉山から新夕張に改称されたが、おそらく将来的に新夕張~夕張を廃止して新夕張を夕張の「玄関口」な役割にしようと考えたのかも知れないが、改称当時はそこそこの乗客があったのでそれは考え難い。というより、特急を停車させるので夕張の「代わり」的な役割をさせるために改称させたというのが最も一般的で有力な考え方であろう。どちらにしてもこの新夕張という名前は国鉄が考えた名称であって、地元では先述の「紅葉山」または「夕張紅葉山」と呼ぶのが通称のようだ。その「夕張紅葉山」から私の夕張線の旅は始まる。

(紅葉山とは・・・なんともロマンチックな駅名だ。では季節以外の日はどうする?と考えてはいけない。とは言うものの、かつては石炭輸送の接続点として賑わっていたはずだ。)

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熊に逢ったらどうするか⑧ 小利別
2014-07-19

(画像はウィキペディアよりの現役時代。当時とほとんど変わらない現在であったが、今後この状態が維持される保証はない。)
続いて「ふるさと銀河線」より小利別を紹介しよう。池北線時代と同じくして地味な中間駅であった小利別であるが、「ふるさと」に移管されてから駅舎が生まれ変わり地域のコミュニティーセンターが同居する形となった。しかし現在はそのコミュニティーセンターが「主役」となってしまったが、逆にそのお陰で立派に建て替えられた駅舎も現在まで残る形のなっている。待合室の中も入場できるし化粧室の水も流れるように維持されているが、いかんせん列車がやってこないのは厳しい現実だ。私は北見方面からやってきたが、訓子府から「銀河線」の通りに置戸へは向かわず小利別方面へショートカットする道がある。そちらで向かうと国道との接点で旧・小利別駅があり非常にわかりやすい。北見から足寄方面に向かうにはこちらの道を使うのが勿論便利であるが、それに象徴されるようにこの「ショートカット」の上を建設中の高速道路が頻繁に顔を出す。つまり高速もこちらのルートになるということだ。
とは言うものの、訪問時の小利別は、若干駅前付近には集落をなしているものの何となく人間の気配を感じなかった。勿論時間帯的に考えて労働を前提とした外出と思われるが、若干ながら廃屋もチラホラ見られた。とはいえこのショートカット道路のロケーションは抜群で、それこそ「大地と大空の中で」であろう。私たちが普段イメージする北海道の風景がそのまま凝縮された印象だ。しかし駅を実際に訪問してみると厳しい現実が待っていた。駅舎は立派に維持されているがホームは草が生い茂り駅名標も取り外され列車がやってくる気配は全くなかった。



旧・訓子府駅からショートカットの道に入る。すろとこんな景色が待っていた。牧場の奥に工事中の橋桁が見える。ふるさと銀河線高速化案を自動車道で受け継ぐ形となった。

そしてショートカットの道と国道の接点付近にこの小利別がある。





そしてこれが現在の駅舎の姿。現役時代とほとんど変わらず、今も「自治会館」のような形で人々の憩いの場となっている。







駅舎内は意外とスッキリしていた。WCも水が出るし現在もちゃんと施設として活躍しているようだ。

天井なんかはご覧の通り。デザインもなかなか凝っており、JR九州の車両デザインを数多く手がけた「あの人」のようなデザインかも知れないムードだ。




ホームに出てみた。ご覧の通り、見事な現実は初夏の勢いを感じた。




駅前一等地ではそれなりの集落を形成していたが、中にはもう役目を終えていた家屋も少なくなかった。
と、こんな感じで私の旅は進行していった。私の場合は「旅」であるが、そこに暮らす人々には「鉄道廃止」というドラマが存在していた。勿論今の時代に鉄道は「時代遅れ」かも知れない。鉄道という移動手段がなくても十分に暮らしが成り立っていると思う。一部には「鉄道を残すべきだ」という意見もあったであろう。しかしその意見を述べている人のほとんどはマイカーなどを所有し普段は鉄道を利用していない「交通強者」とでも言おうか、普段は鉄道とは全く無縁の人という話も聞いたことがある。こういう人たちが「廃止反対」を訴えて、果たして説得あるかどうかという事もある。
実際に私も「廃止」という事柄を身近に経験している。それは神奈川県は相模線の「寒川支線」だ。寒川~西寒川間1.5kmが1984年に廃止された。私は西寒川駅前に在住していたが、当時中学を卒業、高校へのステップアップの春休みであった。廃止後は神奈中バスが「代行」の役割を果たし、旧・西寒川駅前まで来る路線を新設。茅ケ崎方面へ行く場合の運転本数は国鉄時代の約6倍くらいに増えて非常に便利になった。現在もその系統は存在するが、更に寒川駅に向かう系統が追加された。私のような鉄道に拘る人間は別として、通常の交通機関利用者にとってみれば格段の進歩であろう。
一体「廃止」とはなんなのであろうか。鉄道地図から自身の身近にある駅や鉄道路線がなくなってしまうということは非常に寂しい。しかしかつてほどの「鉄道」という重要性は薄れ単なる交通機関に成り下がってしまった感がある現在において、私たちは一体何を鉄道に求めているのであろうか。「ふるさと銀河線」を求めハンドルを切りながら交差点を折れる度に「池北線」にそう問いかけられたような気がした。

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熊に逢ったらどうするか⑦ 北見
2014-07-16

JR石北本線最大の主要駅・北見はオホーツク地方では最大の都市でもある北見市の中心部にある。かつては「野付牛」と呼ばれていたがその名残が街の各所に見られ街を散策していると楽しくなる。例えば「野付牛自動車学校」などかあると思うと「イオン北見店」などに象徴されるように市の名前が「昔」と「今」が同居している感じだ。星の数ほどある鉄道ブログでこの「北見」を紹介しているのはそう多くないであろう。私はどちらかというと「秘境駅」よりも「主要駅」の方が好きなタイプであるが、特にこの北見のような「いぶし銀」的な存在が非常に眩しく感じる。
かつては5~6千人くらいの乗降客であったが、現在は1500~1600人位にまで落ち込んでしまった。そしてここから分岐していた「ふるさと銀河線」であるが、実は札幌~北見の都市間輸送にこの「ふるさと銀河線」の高速化案が出たと聞いた事がある。つまり石勝線・根室本線経由池田よりふるさと銀河線を使い北見に至る特急を走らせようという構想だ。「あれ、ちょっと遠回りじゃない?」と感じてしまうかもしれないが、北海道全体の地図を見てみると石北本線経由でも池北線(ふるさと銀河線)経由でもさほど距離的に変わらないじゃないか、と思えてくる。そしてなんといっても途中で帯広という道東を代表する都市を通るので輸送量に期待ができるというわけだ。もちろん現在の「ふるさと銀河線」の姿を見る限りそういった構想は夢となっているのは周知の事実であるが、やはりこの北見は釧路や帯広などと比べるとひとまわり華奢な印象だ。
しかし、というか現在においてもこの北見駅は昭和の雰囲気が多く残り、いつSLが来てもおかしくない環境(?)となっている。私は今回の旅でここ北見を宿泊の地に選んだが、やはり街全体に元気が薄らいでいるような印象であった。そして北見駅には夜9時半くらいと朝7時半頃に顔を出してみたが、夜に関しては全くといっていいほど静まり返っており、まるで最終列車が行ってしまった後のような印象であった。まだ9時半頃というのに・・・というより、私が東京近郊に在住しているのでそう感じてしまうのかも知れないが、やはり私の感覚だと静寂に包まれた印象であった。

宿泊先から徒歩30秒くらいの位置にある北見駅。まだ9時半頃だというのに駅は既に静まり返っていた。

もちろん代表駅だけあって駅舎内は広い。が、ちょっと持て余し気味の感があった。朝の通勤時にはそれなりに賑わうのであろう。







昭和の時代からほとんど変化が無いと思われるホーム陣。2面3線ほのホームは全て列車で埋まる時間帯はあるのか?

おそらく以前は池北線(ふるさと銀河線)に使われていたと思われるホーム。レールが撤去されているのが痛々しい・・・



ど~ですか、この必要以上のアピールぶり。そこまで言わなくても何駅だかわかるって。何だかジャンボ鶴田にコーナーポストから8回連続「オーッ」をやられた気分だ。

昭和の面影たっぷり。帯広、旭川、そして札幌と高架化された各主要駅であるが、この北見も将来高架化されるのであろうか?
翌朝私は旧・ふるさと銀河線に向かった。もちろん列車は走っていない。しかしそれは私が想像していた以上のドラマが待っていた。もちろん、それについては後述するが池北線の魅力がこの旅で初めてわかった気がする。ふるさと銀河線廃止の際に訓子府~北見だけでも残そうという案が出ていたと聞いた。しかし周知の通りの現実であるが、もし残っていたとしてもおそらく10年後、20年後には同じ運命をたどっていたであろう。
とはいえ、私の一番心配していた「熊」はどうやらこの辺りではそれほど神経質にならなくても良さそうだ。「熊に逢ったら~」と題しておきながら「熊に逢わない」とは、なんともアンマッチなタイトルであった。北見と言えば「玉ねぎ」であるが、これからもずっと玉ねぎと共に発展して欲しい。そして8回連続「オーッ」が出たら最高であろう。

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熊に逢ったらどうするか⑥ 幌加
2014-07-14

画像はウィキペディアより。流石に草刈をしている時間がなかったのでこちらの画像でお楽しみください。
幌加と言えば「ホロカ」が石勝線の信号場として、そして深名線では「幌加内」など、何かと北海道にはよく聞く地名である。現役の頃はわりかし地味な中間駅として存在していたが、代行バス時代になってからは糠平~十勝三股間の唯一の中間駅として脚光を浴び一気に一軍に昇格。メジャーデビューを果たした印象が強かったのは私だけであろうか?とは言うものの、この幌加駅は至ってマイペース。北海道の牧場を連想させるような駅舎は、代行バス時代は入口が封鎖されていて痛々しい姿が鉄道誌などで掲載された。
現在、幌加駅は旧・ホームや駅名標が残っているが、駅名標は現役時代のものではなく保存団体が設置したものだ。旧駅前には除雪ステーションが設置され、基本的に国道からのアプローチはこの除雪ステーションが目印となる。かつての幌加駅の駅舎に向かうには国道から細い道を入り線路を一旦渡り駅舎にたどり着くようになっていたが、現在は国道沿いの除雪センターに車を止めればその除雪ステーションの裏手が旧・幌加駅となっており訪問には便利となっている。この除雪ステーションでは一般に化粧室のみを開放しており、さながら「パーキングエリア」のような役割をしている。
ハッキリ言ってウィキペディアのような写真は撮影できなかった。私の予想以上に草木が生い茂っており、例えその場に行ったとしてもホームなどは草木に覆われ撮影は不可能であった。そしてなにより・・・物騒な標識が幌加駅の旧・ホームの脇にあった!


旧・糠平駅を後にし、幌加に向かう。「上士幌タクシー」の面々はこの景色がどう見えたのであろうか・・・そして私が一番気にしていた物騒な看板が!



そして「除雪ステーション」に到着。ここの裏手に旧・幌加駅がある。この施設のWCは一般にも開放されている。

そして除雪センターの裏手に行く。何だか「不法侵入」のような罪悪感を感じてしまったが、もちろんこの施設の関係者は私を見て「その道の人」とわかるであろう。と言ってもその関係者の気配がなかったが・・・



裏手に到着したが・・・ご覧の通り。こんな状況なのでホームとかは確認できなかった。残念であったが、草を刈ると上記のようなホームが出てくる。

勇気を出して更に進もうとしたが・・・なにやら物騒な看板が見えてきた!急遽先に進むのを断念。しかしその看板の横には幌加駅の案内を示す看板も・・・


こちらは現役時代の幌加駅。と言っても既に代行バスの時代で「当分の間列車は通りません」であった。この2枚の画像は相互リンクさせていただいている「プラットホームの旅」よりご提供いただいた。





そして士幌線と言えばこれ。除雪ステーションから十勝三股方面へ50~100m位行くと見えてくる。国道から確認できるのは私の体験だとここ、旧幌加駅近くのこの場所だけであった。他は国道よりは確認できなかった士幌線の廃線跡アーチは一般の旅雑誌などでも紹介されており有名処だ。
ということで現在においても士幌線の見所はたくさんある。とは言うものの、やはり「上士幌タクシー」にとっては辛く悲しい光景の連続であった。私が小学校時代にはこの士幌線の代行バス区間がものすごく「異国の丘」的に映ったものだ。それは後述する「上士幌鉄道資料館」に訪問した時にも再確認させられた。私はこの「素敵な空間」とともに若干メルヘンチックになっていたが、物騒な看板が目に飛び込んだ瞬間、一気に現実に引き戻された思いであった。

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熊に逢ったらどうするか⑤ 上越信号場
2014-07-11
「じょうえつ」ではなく「かみこし」と読むこの信号場は石北本線にあるのはレールファンの間では周知の事柄である。1975年までは旅客駅として活躍していたが、その後は信号場として現在に至っている。1975年といえば新幹線が博多まで到達した時期でもある。同じ年に信号場に格下げされた上越は、道内最高地点に存在するのもレールファンならお分かりであろう。「周囲の住民がゼロになった」ので旅客営業を廃止したと聞いたが、私がこの「熊シリーズ」の旅で訪問した2014年6月現在に自身が体験しその実態を肌で感じることになった。近年では上越信号場の上川側で自動車道と交差するので秘境度は薄れたが、それでも「秘境マニア」には絶好の条件であろう。
上越信号場は国道から脇道に逸れてしばらく進んだ場所にあるが、ハッキリ言って「出る」環境だ。かつては民家が付近にあったことなど信じられないくらいに、例えば夜一人でこの場所に訪問するという事は下手な心霊スポットに肝試しに行くよりも1万倍スリルがあることであろう。絶対に避けた方が良いとこの場で警告しておこう。私は昼間の訪問であったので、という私が警告しても説得薄いが、全く街灯が無い細い未舗装道路で伝っていく。山の中なので少々アップダウンはあるが、とてもかつて人が住んでいた形跡すら感じられない。そして驚いたのは道路と上越信号場の詰所(旅客扱い時代の駅舎)の間には沢(川)が流れており、その沢にかかるブリキのような橋を渡らなければならない事だ。それこそ「石橋を叩いて・・・」ではないが、まさに一歩一歩匍匐前進をしながら駅舎に向かう。歩み毎に橋が「ペコン、ペコン」と音を立てる・・・この上越信号場の訪問のポイントは、正直いつ崩壊してしまうかわからないような橋を渡る勇気があるかどうかだ。


国道から枝分かれする林道のような小道へ入っていくと上越信号場に繋がっている。ナビだと「上越信号場」と入力しても反応がないため事前に位置を確認しておかなければならないが、標識があるため非常にわかりやすい。




もしかしたら「東オサワ」よりも凄い環境だったかも知れない上越へのアプローチ。高速道路の橋桁が唯一の「文明」だ。

しばらく走ると「吊り橋」が現れてくる。そう、ここが上越信号場だ。この橋を渡らなければ詰所に行かれない。私は車を降り「熊装備」を全て身に付け全身全霊で橋を渡った。

一歩踏み込むことに「ペコン」と鳴り響く。初夏の暑さで橋の鉄板が膨張したのか、それとも老朽化していたのかは不明であるが何かと物騒・・・

そして橋を渡るとその全貌が明らかに。かつては旅客駅であった名残が今でも感じられるが、その「旅客」も付近には全く存在しなくなってしまった。






これが上越信号場だ!両端は石勝線張りにスノーシェルターでポイントが保護されている。中越方ではスノーシェルターの部分と高速道が交差する。


一通り確認をした後再びあの橋を渡り駅前に戻ってきた。これが国道から駅に通じる道である。下の写真が国道へとつながるのだが、上の写真は上越信号場より更に奥へと繋がっている。この先に何が待っているのであろうか・・・
もしかしたら私の訪問は季節外れだったのかも知れない。しかしこの上越信号場を取り巻く環境を肌で感じ、そして信号場となった「背景」を確認することができた。だがそれは「哀愁」などの表現では足りないくらいの「何か」があった。上越信号場の撮影を終え吊り橋を渡っている時になんだか妙な胸騒ぎがした。なんだろう・・・「こんな場所でも(という表現は失礼かも知れないが)人の暮らしがあったのか・・・」現在のように車が発達していなかった時代にどのような暮らしをしていたのか非常に気になった。後述する隣の中越信号場も近年まで旅客駅であった。私の中学時代は石北本線の上川~遠軽、特に白滝付近では旧型客車やDCの普通列車が1日に4~5本は設定されていたはずだ。現在では究極ダイヤであることは周知の通りであるが、その列車設定でも「過剰ダイヤ」と思えるくらいの沿線風景であった。それこそ区間を限定して「石勝線化」しても良いとさえ思ってしまった。特急列車しかやってこなくても問題ないであろう、そう思えてしまう上川~丸瀬布あたりの区間は実に心打たれる思いだ。
そういえば「究極ダイヤ」の現在でも確か定期客がしっかりいると聞いた。ひとりひとりのお客様をしっかりと大事にする・・・私のように東京近郊に住んでいるとついこう言った「心遣い」を忘れがちだ。「商売の基本」であろうと思うが、北海道のような場所ではこういう細かいひとつひとつが収入源になる。普通列車が設定されている意味がここにあるのは周知の事実であろう。
中越や上越などは現在も信号場として残っているが、例えば天幕は駅そのものがなくなってしまった。そう考えるとこの上越や奥白滝などの信号場も天幕のような運命をたどる可能性は、限りなく50%以上の「右肩上がり」になっているのかも知れない。

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上越信号場は国道から脇道に逸れてしばらく進んだ場所にあるが、ハッキリ言って「出る」環境だ。かつては民家が付近にあったことなど信じられないくらいに、例えば夜一人でこの場所に訪問するという事は下手な心霊スポットに肝試しに行くよりも1万倍スリルがあることであろう。絶対に避けた方が良いとこの場で警告しておこう。私は昼間の訪問であったので、という私が警告しても説得薄いが、全く街灯が無い細い未舗装道路で伝っていく。山の中なので少々アップダウンはあるが、とてもかつて人が住んでいた形跡すら感じられない。そして驚いたのは道路と上越信号場の詰所(旅客扱い時代の駅舎)の間には沢(川)が流れており、その沢にかかるブリキのような橋を渡らなければならない事だ。それこそ「石橋を叩いて・・・」ではないが、まさに一歩一歩匍匐前進をしながら駅舎に向かう。歩み毎に橋が「ペコン、ペコン」と音を立てる・・・この上越信号場の訪問のポイントは、正直いつ崩壊してしまうかわからないような橋を渡る勇気があるかどうかだ。


国道から枝分かれする林道のような小道へ入っていくと上越信号場に繋がっている。ナビだと「上越信号場」と入力しても反応がないため事前に位置を確認しておかなければならないが、標識があるため非常にわかりやすい。




もしかしたら「東オサワ」よりも凄い環境だったかも知れない上越へのアプローチ。高速道路の橋桁が唯一の「文明」だ。

しばらく走ると「吊り橋」が現れてくる。そう、ここが上越信号場だ。この橋を渡らなければ詰所に行かれない。私は車を降り「熊装備」を全て身に付け全身全霊で橋を渡った。

一歩踏み込むことに「ペコン」と鳴り響く。初夏の暑さで橋の鉄板が膨張したのか、それとも老朽化していたのかは不明であるが何かと物騒・・・

そして橋を渡るとその全貌が明らかに。かつては旅客駅であった名残が今でも感じられるが、その「旅客」も付近には全く存在しなくなってしまった。






これが上越信号場だ!両端は石勝線張りにスノーシェルターでポイントが保護されている。中越方ではスノーシェルターの部分と高速道が交差する。


一通り確認をした後再びあの橋を渡り駅前に戻ってきた。これが国道から駅に通じる道である。下の写真が国道へとつながるのだが、上の写真は上越信号場より更に奥へと繋がっている。この先に何が待っているのであろうか・・・
もしかしたら私の訪問は季節外れだったのかも知れない。しかしこの上越信号場を取り巻く環境を肌で感じ、そして信号場となった「背景」を確認することができた。だがそれは「哀愁」などの表現では足りないくらいの「何か」があった。上越信号場の撮影を終え吊り橋を渡っている時になんだか妙な胸騒ぎがした。なんだろう・・・「こんな場所でも(という表現は失礼かも知れないが)人の暮らしがあったのか・・・」現在のように車が発達していなかった時代にどのような暮らしをしていたのか非常に気になった。後述する隣の中越信号場も近年まで旅客駅であった。私の中学時代は石北本線の上川~遠軽、特に白滝付近では旧型客車やDCの普通列車が1日に4~5本は設定されていたはずだ。現在では究極ダイヤであることは周知の通りであるが、その列車設定でも「過剰ダイヤ」と思えるくらいの沿線風景であった。それこそ区間を限定して「石勝線化」しても良いとさえ思ってしまった。特急列車しかやってこなくても問題ないであろう、そう思えてしまう上川~丸瀬布あたりの区間は実に心打たれる思いだ。
そういえば「究極ダイヤ」の現在でも確か定期客がしっかりいると聞いた。ひとりひとりのお客様をしっかりと大事にする・・・私のように東京近郊に住んでいるとついこう言った「心遣い」を忘れがちだ。「商売の基本」であろうと思うが、北海道のような場所ではこういう細かいひとつひとつが収入源になる。普通列車が設定されている意味がここにあるのは周知の事実であろう。
中越や上越などは現在も信号場として残っているが、例えば天幕は駅そのものがなくなってしまった。そう考えるとこの上越や奥白滝などの信号場も天幕のような運命をたどる可能性は、限りなく50%以上の「右肩上がり」になっているのかも知れない。

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熊に逢ったらどうするか④ トマム(後編)
2014-07-09
さて、前回に引き続きトマムを紹介しよう。今回は予告通り「星野リゾート」を紹介するが、ハッキリ言って私のブログで紹介するのはアンマッチかも知れない。ちょっとここで鉄道関係をひと休みし、たまには「こういう一面もあるよ」という部分をアピールしておこう。と、谷津嘉章の「オリャ」のように余計なアピールかもしれないが(若干マニアックな引用であるが)、少々お付き合いいただければ幸いである。

落合駅訪問後、早速宿泊先のトマムに向かう。落合からは15分くらいと思ったが意外に至近距離であった。


「TOMAMU」と看板が出てくる。右折すると既にそこは「リゾート」の敷地内だ。

しばらく進むと「リゾナーレ(旧・ガレリアスイート)」と肩を並べる「ザ・タワー」が見えてくる。

私が今回宿泊するのはこちらの「ザ・タワー」。前回もこちらであったが、次回は「ガレリア」を試してみたい。

そしてチェックイン。シーズンでもないのにこの混雑よう!しかもこの日は「修学旅行」の団体が入っていた・・・「スパ施設も混雑が予想されます」のと事であったので若干メランコリーに・・・




と深く考えても仕方ないのでとりあえず部屋に行く。室内は変形のL字型になっていて、二人での予約なのになんとベッドが4つあった!超広い空間は、普段東横インなどの宿泊施設を利用しているためかなり持て余し気味であった。上2枚は私が就寝した方で下2枚は未使用のベッド。上の写真の部屋ではベッドにいながらテレビも見れる。どちらにしても贅沢極まりない。


そして一息ついたあと、食事に出かける。基本的にトマムは周知の通り「秘境」であるためリゾート外に飲食店を求めるなら隣の占冠か落合あたりまで出ないと見つからない。つまり施設内ですべての要件が済んでしまう仕組みになっている。




いろいろな店が軒を連ねるが、私はご覧の「雅」で過ごした。修学旅行生は夕食券みたいなものをもらっていたみたいで、どの施設でも食事ができたらしいが「修学旅行スペシャル」しか選択できなかったらしい。もちろんそれ以外も別途選択できようが、基本的に別料金となる。


さて、翌朝は朝食バイキングとなっているので施設に移動。その前に若干時間があったので館内を見て回った。通路には売店やレンタカーの営業所、ATMなどなんでも揃っている。もちろんスパ施設やエステ、温水プールなどもありまさに「リゾート」気分だ。しかしこの通路、若干であるが、横浜駅の「ダイヤモンド地下街」を思いださせるのは気のせいか?



フロント付近にもいろいろな施設がそろっているが・・・ありすぎてどう使っていいのかわからない・・・


こちらはレンタルスキーの施設。というよりバブル期からはスノーボードが主流になっていった。トマムのゲレンデは比較的なだらかな斜面が多くビギナー向けのスキー場であろう。



トマムの朝は清々しい。雪国でもあるため各施設への通路はご覧のように「スノーシェルター」で覆われている。ここにも「石勝線」が活躍しているような感じがした。

そして朝食の会場へ向かうため「エリア内バス」を利用。トマムの宿泊施設はとにかくだだっ広いため移動にもバスを利用した方が何かと便利。もちろん無料で乗車できる。そして列車の時間帯に合わせてこのバスがトマム駅まで足を伸ばす。





そして食事は「アルファ・トマム」内にあるレストランでバイキング。ご覧の階段を使えばザ・タワーまでは徒歩でも移動が可能。バスを使うほどの距離ではない。





部屋に戻りゲレンデを眺めてみた。多くのコースがなだらかであるのがお分かりであろう。


そういえば「スノーシェルター」から見た「ザ・タワー」。時間帯によっていろいろな顔を見せるが、かつては現在のようなカラフル模様ではなく、確か茶色一色であった。




さて、いよいよ次の「会場」へ向かう時間となった。実はフロントやエリア内バスを待っている時にホテルの従業員に「熊情報」を仕入れていた。それほど物騒な情報はなかったが、とにかくこれよりこの旅で最大の難所「東オサワ」に向う予定だ。その模様は既にアップしているが、やはりここは究極の秘境であることを忘れてはならない。

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落合駅訪問後、早速宿泊先のトマムに向かう。落合からは15分くらいと思ったが意外に至近距離であった。


「TOMAMU」と看板が出てくる。右折すると既にそこは「リゾート」の敷地内だ。

しばらく進むと「リゾナーレ(旧・ガレリアスイート)」と肩を並べる「ザ・タワー」が見えてくる。

私が今回宿泊するのはこちらの「ザ・タワー」。前回もこちらであったが、次回は「ガレリア」を試してみたい。

そしてチェックイン。シーズンでもないのにこの混雑よう!しかもこの日は「修学旅行」の団体が入っていた・・・「スパ施設も混雑が予想されます」のと事であったので若干メランコリーに・・・




と深く考えても仕方ないのでとりあえず部屋に行く。室内は変形のL字型になっていて、二人での予約なのになんとベッドが4つあった!超広い空間は、普段東横インなどの宿泊施設を利用しているためかなり持て余し気味であった。上2枚は私が就寝した方で下2枚は未使用のベッド。上の写真の部屋ではベッドにいながらテレビも見れる。どちらにしても贅沢極まりない。


そして一息ついたあと、食事に出かける。基本的にトマムは周知の通り「秘境」であるためリゾート外に飲食店を求めるなら隣の占冠か落合あたりまで出ないと見つからない。つまり施設内ですべての要件が済んでしまう仕組みになっている。




いろいろな店が軒を連ねるが、私はご覧の「雅」で過ごした。修学旅行生は夕食券みたいなものをもらっていたみたいで、どの施設でも食事ができたらしいが「修学旅行スペシャル」しか選択できなかったらしい。もちろんそれ以外も別途選択できようが、基本的に別料金となる。


さて、翌朝は朝食バイキングとなっているので施設に移動。その前に若干時間があったので館内を見て回った。通路には売店やレンタカーの営業所、ATMなどなんでも揃っている。もちろんスパ施設やエステ、温水プールなどもありまさに「リゾート」気分だ。しかしこの通路、若干であるが、横浜駅の「ダイヤモンド地下街」を思いださせるのは気のせいか?



フロント付近にもいろいろな施設がそろっているが・・・ありすぎてどう使っていいのかわからない・・・


こちらはレンタルスキーの施設。というよりバブル期からはスノーボードが主流になっていった。トマムのゲレンデは比較的なだらかな斜面が多くビギナー向けのスキー場であろう。



トマムの朝は清々しい。雪国でもあるため各施設への通路はご覧のように「スノーシェルター」で覆われている。ここにも「石勝線」が活躍しているような感じがした。

そして朝食の会場へ向かうため「エリア内バス」を利用。トマムの宿泊施設はとにかくだだっ広いため移動にもバスを利用した方が何かと便利。もちろん無料で乗車できる。そして列車の時間帯に合わせてこのバスがトマム駅まで足を伸ばす。





そして食事は「アルファ・トマム」内にあるレストランでバイキング。ご覧の階段を使えばザ・タワーまでは徒歩でも移動が可能。バスを使うほどの距離ではない。





部屋に戻りゲレンデを眺めてみた。多くのコースがなだらかであるのがお分かりであろう。


そういえば「スノーシェルター」から見た「ザ・タワー」。時間帯によっていろいろな顔を見せるが、かつては現在のようなカラフル模様ではなく、確か茶色一色であった。




さて、いよいよ次の「会場」へ向かう時間となった。実はフロントやエリア内バスを待っている時にホテルの従業員に「熊情報」を仕入れていた。それほど物騒な情報はなかったが、とにかくこれよりこの旅で最大の難所「東オサワ」に向う予定だ。その模様は既にアップしているが、やはりここは究極の秘境であることを忘れてはならない。

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熊に逢ったらどうするか④ トマム(前編)
2014-07-07
石勝線の新線区間にある「トマム」は私の好きな駅のひとつである。って、「あなた、変わっているね」と思う方もおられるであろう・・・私は石勝線の新線区間が一番好きな鉄道路線であることは以前からこのブログで述べている。今回の北海道の旅において石勝線の新線区間を満遍なく訪問、かねてからの願いが叶った感じであった。そして数多く点在する信号場にも訪問できてさぞご満悦であろう・・・とお思いかもしれないが、やはり今回のテーマである「熊」には細心の注意を常に払わなければならず精神的に疲労困憊であった。そんな中でもこの「トマム」はリゾート地として開発されバブル期には東京方面より臨時列車が運転されるほどであった。しかし周知の通り、トマムの「リゾート地」に関してはバブル崩壊により経営者が変わっているが現在もなおリゾート地として活躍しているのは素晴らしい。

トマムの駅は開業当時「石勝高原」という駅名であったが、全くと言っていいほど付近に民家はなく、完全に「秘境駅」の仲間であったろう。だが、完全に将来を見越して設計された石勝線は、既に開業当時からこの地をリゾート地として開発計画があったであろうがために設置された駅と思われる。リゾートホテル開業時には現在の駅名に改称されたが、もともと「トマム」という駅名は隣のホロカ信号場が名乗っていた。
実際に地元の方の利用は限りなくゼロに近いと思われるが、やはりこの駅の利用者の主役は「星野リゾート」の利用者であろう。駅舎には将来の有人化に向けて切符売り場を設けてあるが、室内は固くカーテンで閉ざされているのは開業当初からと思われる。私にとってはかなり新しい部類の駅であるが、隣の占冠や新夕張などを含め既に開業から30年以上経過しているので設備の老朽化を否定できなかった。
とはいえ、星野リゾート側にはJRのインフォメーションセンターが設けられ、実質そちらがトマム駅の「駅舎」のような役割を果たし新夕張から職員がやってきて「みどりの窓口」の業務を行っている。
と、かなり「リゾート」と「生活」において差が見られる駅であるが、車で国道を走っていると意外にも国道沿いに民家が多い。とはいえ何十件の集落とかになっているわけではなく、どちらかというと点在しているような感じであるが、そこに生活があるのはやはりなんというかホッとするような気持ちである。

今回の旅では、2009年以来に宿泊した「星野リゾート」と「トマム駅」の2回に分けて紹介したいが、私の初訪は1983年10月で停車したに過ぎず下車できなかった。実際に下車したのは1993年の1月で、会社の社員旅行時の自由行動で単独にてこの地に訪問した。当時は日帰りスキーを堪能したに過ぎず、しかもレールファン休業中であったので細かい記録はしていなかったが、もちろん知識はあり特別な存在であったので実に嬉しかったのを覚えている。そして社員旅行の最終日でもあったため帰りは直接新千歳空港へ列車で向かったが列車の到着が40分くらい遅れヒヤヒヤしたものだ。ちょうどその年の前年に新千歳空港駅が開業し、実質その時に乗車したのが千歳線の空港支線初制覇の時でもあった。



こちらがトマム駅の駅舎。鉄道雑誌や実際の訪問などでご覧になられた方も多いであろう。私はもちろん石勝高原時代から知っているが、やはり開業より30年以上経過しところどころに老朽化が目立つようになって来た。しかし、依然としてリゾートの玄関口として活躍する姿は微笑ましい。





そしてこちらがトマム駅のホーム陣。2面2線で相対式のホームは待避線や通過線が無くシンプルな構造。2014年現在「スーパーおおぞら4号」以外は全列車停車する。





アルファリゾート(現・星野リゾート)トマムが開業した時に新設されたリゾートに繋がる跨線橋。その先にはインフォメーションセンターがあり、実質トマム駅の旅客業務を行っている。みどりの窓口もこちらに。

こちらは本来の駅舎をホーム側から見たもの。保線職員の詰所が併設されていて「リゾート」とはかけ離れた現実を見ることができる。こうした「縁の下の力持ち」の活躍があってこそ、私たちは安心して列車でトマムにやってこれる。とは言うものの、近年ではJR北海道の「話題」が世間を賑わせている。何卒これからも頑張っていただきたい思いである。陰ながら応援してます!

写真だとかなり難いが、背後にはライバルである自動車道がいる。近い将来に釧路まで到達すると増々JRとの競争が激化するであろう。いっそのこと電化してしまえばと思うが、私の全財産を提供しても全く足りないくらいの経費がかかると思われ、今後の課題となるのは間違いない。


2番線側にあるもうひとつの出口。ここより新設された跨線橋を伝えばリソートに徒歩で行けるが、次回アップで後述する星野リゾートの「シャトルバス」が列車の到着時間に合わせこの階段を降りたところまで迎えに来てくれる。

「特急乗車口」とは、ハッキリ言ってこの駅は特急列車しかやってこない。この段階で既に特異な駅であることがお分かりであろう。



駅前に出てみた。ハッキリ言って「リゾート」以外文明を感じるものは何もない。ある意味「秘境駅」と認定しても良さそうだが・・・駅前からは幾寅方面と占冠の中心部へと向かう路線バスが発着している。こちらは本来の駅舎の方からの駅前広場から発着。


1基1億円とも言われているスノーシェルター。石勝線最大の特徴はこのスノーシェルターの存在であろう。石勝線は開業時、当時最新の鉄道技術を惜しみなく使用。日本の鉄道技術の水準が「ここまで来たか」というものを魅せてくれた印象であった。


本来の駅舎内はこんな感じ。以外に華奢な待合室であるが、こちらは完全に地元民仕様。後述する占冠駅の待合室の半分にも満たないであろう室内は、冬季には寒さや雪から我々を守ってくれる。


これは載せるか載せないか迷ったが、ご覧の通りである。比較的新しい開業の割には意外にも「昭和」の面影たっぷりであった。
ということで私が一番好きな鉄道路線巡りはまだまだ続く。一応、バブル期より憧れていたトマムの宿泊施設への訪問は次章で紹介するとして、やはり普通に考えて「リゾート」がなければこのトマムも完全に信号場になっていた事であろう。確かに飯田線などの秘境駅的な場所も凄いと思うしレールが敷かれた時代が時代だけに建設においての苦労は今とは比べ物にならないはずだ。しかし私はこの石勝線の新線区間が非常に特異に映って仕方がない。何故かは分からないが、そのひとつには「特急列車しかやってこない」という環境に答えのひとつが隠されているような気がする。

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トマムの駅は開業当時「石勝高原」という駅名であったが、全くと言っていいほど付近に民家はなく、完全に「秘境駅」の仲間であったろう。だが、完全に将来を見越して設計された石勝線は、既に開業当時からこの地をリゾート地として開発計画があったであろうがために設置された駅と思われる。リゾートホテル開業時には現在の駅名に改称されたが、もともと「トマム」という駅名は隣のホロカ信号場が名乗っていた。
実際に地元の方の利用は限りなくゼロに近いと思われるが、やはりこの駅の利用者の主役は「星野リゾート」の利用者であろう。駅舎には将来の有人化に向けて切符売り場を設けてあるが、室内は固くカーテンで閉ざされているのは開業当初からと思われる。私にとってはかなり新しい部類の駅であるが、隣の占冠や新夕張などを含め既に開業から30年以上経過しているので設備の老朽化を否定できなかった。
とはいえ、星野リゾート側にはJRのインフォメーションセンターが設けられ、実質そちらがトマム駅の「駅舎」のような役割を果たし新夕張から職員がやってきて「みどりの窓口」の業務を行っている。
と、かなり「リゾート」と「生活」において差が見られる駅であるが、車で国道を走っていると意外にも国道沿いに民家が多い。とはいえ何十件の集落とかになっているわけではなく、どちらかというと点在しているような感じであるが、そこに生活があるのはやはりなんというかホッとするような気持ちである。

今回の旅では、2009年以来に宿泊した「星野リゾート」と「トマム駅」の2回に分けて紹介したいが、私の初訪は1983年10月で停車したに過ぎず下車できなかった。実際に下車したのは1993年の1月で、会社の社員旅行時の自由行動で単独にてこの地に訪問した。当時は日帰りスキーを堪能したに過ぎず、しかもレールファン休業中であったので細かい記録はしていなかったが、もちろん知識はあり特別な存在であったので実に嬉しかったのを覚えている。そして社員旅行の最終日でもあったため帰りは直接新千歳空港へ列車で向かったが列車の到着が40分くらい遅れヒヤヒヤしたものだ。ちょうどその年の前年に新千歳空港駅が開業し、実質その時に乗車したのが千歳線の空港支線初制覇の時でもあった。



こちらがトマム駅の駅舎。鉄道雑誌や実際の訪問などでご覧になられた方も多いであろう。私はもちろん石勝高原時代から知っているが、やはり開業より30年以上経過しところどころに老朽化が目立つようになって来た。しかし、依然としてリゾートの玄関口として活躍する姿は微笑ましい。





そしてこちらがトマム駅のホーム陣。2面2線で相対式のホームは待避線や通過線が無くシンプルな構造。2014年現在「スーパーおおぞら4号」以外は全列車停車する。





アルファリゾート(現・星野リゾート)トマムが開業した時に新設されたリゾートに繋がる跨線橋。その先にはインフォメーションセンターがあり、実質トマム駅の旅客業務を行っている。みどりの窓口もこちらに。

こちらは本来の駅舎をホーム側から見たもの。保線職員の詰所が併設されていて「リゾート」とはかけ離れた現実を見ることができる。こうした「縁の下の力持ち」の活躍があってこそ、私たちは安心して列車でトマムにやってこれる。とは言うものの、近年ではJR北海道の「話題」が世間を賑わせている。何卒これからも頑張っていただきたい思いである。陰ながら応援してます!

写真だとかなり難いが、背後にはライバルである自動車道がいる。近い将来に釧路まで到達すると増々JRとの競争が激化するであろう。いっそのこと電化してしまえばと思うが、私の全財産を提供しても全く足りないくらいの経費がかかると思われ、今後の課題となるのは間違いない。


2番線側にあるもうひとつの出口。ここより新設された跨線橋を伝えばリソートに徒歩で行けるが、次回アップで後述する星野リゾートの「シャトルバス」が列車の到着時間に合わせこの階段を降りたところまで迎えに来てくれる。

「特急乗車口」とは、ハッキリ言ってこの駅は特急列車しかやってこない。この段階で既に特異な駅であることがお分かりであろう。



駅前に出てみた。ハッキリ言って「リゾート」以外文明を感じるものは何もない。ある意味「秘境駅」と認定しても良さそうだが・・・駅前からは幾寅方面と占冠の中心部へと向かう路線バスが発着している。こちらは本来の駅舎の方からの駅前広場から発着。


1基1億円とも言われているスノーシェルター。石勝線最大の特徴はこのスノーシェルターの存在であろう。石勝線は開業時、当時最新の鉄道技術を惜しみなく使用。日本の鉄道技術の水準が「ここまで来たか」というものを魅せてくれた印象であった。


本来の駅舎内はこんな感じ。以外に華奢な待合室であるが、こちらは完全に地元民仕様。後述する占冠駅の待合室の半分にも満たないであろう室内は、冬季には寒さや雪から我々を守ってくれる。


これは載せるか載せないか迷ったが、ご覧の通りである。比較的新しい開業の割には意外にも「昭和」の面影たっぷりであった。
ということで私が一番好きな鉄道路線巡りはまだまだ続く。一応、バブル期より憧れていたトマムの宿泊施設への訪問は次章で紹介するとして、やはり普通に考えて「リゾート」がなければこのトマムも完全に信号場になっていた事であろう。確かに飯田線などの秘境駅的な場所も凄いと思うしレールが敷かれた時代が時代だけに建設においての苦労は今とは比べ物にならないはずだ。しかし私はこの石勝線の新線区間が非常に特異に映って仕方がない。何故かは分からないが、そのひとつには「特急列車しかやってこない」という環境に答えのひとつが隠されているような気がする。

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熊に逢ったらどうするか③ 十勝三股
2014-07-04
十勝三股・・・小学生時代や中学生時代には一度は訪問してみたいと思っていた物件であった。周知の通り、士幌線の末端区間は「代行バス」と名乗る当時の国鉄で唯一の運転系統が実施されていた。私が物心着いた時には既に「代行バス」であったが、この十勝三股~糠平の区間は当時の雑誌などで見たときには異常に特異な光景に写ったものだ。腕木信号には「✖」と釘で打たれ、若干錆び付いたレールや廃墟状態の駅舎などはとても「復活」するとは思えない光景であった。
中学校時代には幾度となく北海道の旅計画を立てたが結局御蔵入りになってしまってた。そしてこの士幌線も訪問できずに現在を迎えてしまった・・・が、そんな思いを払拭するかように2014年に鉄道ではない別の手段でこの地を訪れることになった。

(「上士幌町鉄道資料館」で見つけた代行バス時の十勝三股駅の駅舎。北海道らしい建物であるが、入口は封鎖されとても復活するという気配は感じない。)
確かに士幌線はなくなってしまったが十勝三股を始め士幌線があったという「証」が現在も残るのは非常に嬉しい。しかし、その「嬉しい」はずの士幌線の姿も、実際に訪問してみると「上士幌タクシー」の当時担当していた「代行」という名の苦悩がダイレクトに伝わってきた。ハッキリ言って私が「上士幌タクシー」の経営者であったらこの十勝三股の景色はとても辛く悲しい光景であろう。正直言って「商売」にはならない景色だ。小学生時代から憧れていた士幌線の末端区間は、その頃から30年以上経過して訪問してこその「意味」が非常にあった感がしてならない。

旧・十勝三股駅前一等地にある飲食店の脇には「駅名標」があるのは有名。往時を偲ばせる思いだ。









申し訳ないが「初訪」のためどこのどの位置に駅舎があったのかわからなかった。と言っても事前調査では私のこの立って撮影している位置が駅舎のやや手前であったのはほぼ間違えない。だだっ広い空間は駅があった「証」を感じる。そしてかつては木材搬送で賑わったであろう風景が何となくだが伝わってきた。


そしてこれが駅前から繋がる国道。この国道には長距離バスが走っており、そのバスこそ現在の「代行バス」の役割を担っている。




そしてレールファンにはお馴染みの光景。私も例に漏れずにアップしてみた。私が訪問したのは平日であったが、私の他にも「同業者」と思われる数名がこの場所付近で撮影をしていた。廃止から30年近く経った現在でもこの十勝三股は人気が高い。だが一日一本しかない「代行バス」は上川方面への始発がなんと夕方の4時近くだ!
という事で、普通に見たら単なる「風景写真」であろう。それくらいこの十勝三股駅は完全に過去のものとなってしまった。ホームや駅舎は完全に撤去され広い空間のみが残された感じだ。
国敗れて山河あり・・・士幌線は数々のドラマを私達に提供してくれた。しかしそれは壮絶かつ哀愁漂う「開拓部落」という名の現実であった。現在は先代が開拓された時よりも便利な時代になった。しかしそれは時代とともに「少子高齢化」や「一極集中化」「過疎化」そして「モータリゼーション」など数多くの社会現象とともに士幌線が自らの身を引かざるを得なかった。
レールは無くなってもそこには「生活」や「出会い」「別れ」など多くの人間模様があったはずだ。そんな事を駅前の飲食店脇にある駅名標が無言で語りかけていたような気がする。

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中学校時代には幾度となく北海道の旅計画を立てたが結局御蔵入りになってしまってた。そしてこの士幌線も訪問できずに現在を迎えてしまった・・・が、そんな思いを払拭するかように2014年に鉄道ではない別の手段でこの地を訪れることになった。

(「上士幌町鉄道資料館」で見つけた代行バス時の十勝三股駅の駅舎。北海道らしい建物であるが、入口は封鎖されとても復活するという気配は感じない。)
確かに士幌線はなくなってしまったが十勝三股を始め士幌線があったという「証」が現在も残るのは非常に嬉しい。しかし、その「嬉しい」はずの士幌線の姿も、実際に訪問してみると「上士幌タクシー」の当時担当していた「代行」という名の苦悩がダイレクトに伝わってきた。ハッキリ言って私が「上士幌タクシー」の経営者であったらこの十勝三股の景色はとても辛く悲しい光景であろう。正直言って「商売」にはならない景色だ。小学生時代から憧れていた士幌線の末端区間は、その頃から30年以上経過して訪問してこその「意味」が非常にあった感がしてならない。

旧・十勝三股駅前一等地にある飲食店の脇には「駅名標」があるのは有名。往時を偲ばせる思いだ。









申し訳ないが「初訪」のためどこのどの位置に駅舎があったのかわからなかった。と言っても事前調査では私のこの立って撮影している位置が駅舎のやや手前であったのはほぼ間違えない。だだっ広い空間は駅があった「証」を感じる。そしてかつては木材搬送で賑わったであろう風景が何となくだが伝わってきた。


そしてこれが駅前から繋がる国道。この国道には長距離バスが走っており、そのバスこそ現在の「代行バス」の役割を担っている。




そしてレールファンにはお馴染みの光景。私も例に漏れずにアップしてみた。私が訪問したのは平日であったが、私の他にも「同業者」と思われる数名がこの場所付近で撮影をしていた。廃止から30年近く経った現在でもこの十勝三股は人気が高い。だが一日一本しかない「代行バス」は上川方面への始発がなんと夕方の4時近くだ!
という事で、普通に見たら単なる「風景写真」であろう。それくらいこの十勝三股駅は完全に過去のものとなってしまった。ホームや駅舎は完全に撤去され広い空間のみが残された感じだ。
国敗れて山河あり・・・士幌線は数々のドラマを私達に提供してくれた。しかしそれは壮絶かつ哀愁漂う「開拓部落」という名の現実であった。現在は先代が開拓された時よりも便利な時代になった。しかしそれは時代とともに「少子高齢化」や「一極集中化」「過疎化」そして「モータリゼーション」など数多くの社会現象とともに士幌線が自らの身を引かざるを得なかった。
レールは無くなってもそこには「生活」や「出会い」「別れ」など多くの人間模様があったはずだ。そんな事を駅前の飲食店脇にある駅名標が無言で語りかけていたような気がする。

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熊に逢ったらどうするか② 東オサワ信号場
2014-07-01

(東オサワ信号場の詰所。この位置からの撮影が精一杯であった。ハッキリ言ってものすごいジャングルの中にある信号場だ。)
東オサワ・・・全く一般的な知名度は皆無に等しいと思われるこの場所は北海道は石勝線にある信号場である。信号場?レールファンの間では常識的日常会話であろうが、レールファンではない一般には全くわからない単語であろう。ということで少々信号場について補足すると、要するに列車の運行上に必要な分岐点や単線区間の列車交換のために設けられた施設だ。通常は「駅」と呼ばれる旅客を扱う施設においてこのような行為が行われるのであるが、例えば地形的制約や付近に民家や施設がないため「駅」として機能させても旅客的な利益が発生しないであろう場所に設置される施設である。

(これは帰り道の写真であるが、一応このような狭い道でのアプローチ。写真で見るとなんの変哲もない道路であるが、更に進むととんでもない景色が待っている・・・)
私が日本の鉄道路線で一番好きな路線は石勝線であることは当ブログにて再三に渡りお伝えしてきた。今回の北海道訪問に関しては、この東オサワを含む石勝線の信号場各種訪問が最大のテーマでもあった。しかしながら実際に訪問してみるととんでもない事が分かってきた。もちろん事前にしっかり下調べをしていたが、ハッキリ言って「出る」環境であった。
石勝線の新線区間(新夕張~新得)は信号場が多数犇めくが、元々は旅客駅として計画されたものだ。だが、時代とともに沿線人口が減少。石勝線が開通する頃にはとうとう無人地帯になってしまった。「無人」とはオーバーかもしれないが、それくらいに過疎化が一気に進んだ感じだ。北海道の開拓部落の方々は本当に感心してしまう。よくぞこのような秘境中の秘境を切り開き住まおうと決意した事を。現在こそ鉄道が開通し高速道路も通るようになった。そしてオサワ地区にインターチェンジもできてようやく便利になったが・・・念願叶う頃には既にそこに「生活」はなかった。ウン十年、いや100年来の悲願がようやく叶ったというのに・・・

(東オサワに向かう小道からインター方面を眺める。かつてはここに小学校か中学校があったらしい。)
オサワは漢字で書くと「長和」となる。元々は「新登川」として旅客駅の計画であった。しかしながら過疎化により現在の姿となったわけであるが・・・.2011年に開通した道東自動車道のインターチェンジとして「穂別むかわ」がこの長和地区に出来が、そのインターのある場所はかつて小学校もしくは中学校であったと聞いた。
私は東オサワ訪問の前日よりトマム入りした。そう「星野リゾート」に宿泊するためである。その模様は後日に紹介するが、トマムはやはりいつ来ても素晴らしい!そして翌朝トマムより占冠駅に訪問しそして東オサワに向かった。占冠より穂別むかわインターまでは高速を使った。もちろんショートカットの意味も含まれるが、ここ東オサワに訪問するのには極めて都合が良いからだ。というのも、インターのすぐ脇の小道からアプローチすると便利なのと、この石勝線の「ライバル」の具合も確認したかったからだ。

(更に進むと全貌が明らかになって来た。まさに「ジャングル」が顔をのぞかせてきた感じだ。)
インターを出ると、普通なら分からないが事前に知っていると「ここだ」とわかる小道の入口がある。もちろんナビを使えば一発で行けるのであろうが、もちろんナビでは「東オサワ信号場」と入力しても出てこないので事前の「グーグルマップ」での地図から場所を特定しての入力となる。
早速その東オサワに繋がる小道を行くと・・・ハッキリ言って「獣道」だ!車一台分くらいしかない道幅は、高速道路の建設開通に合わせて舗装されたらしいが、以前は「未舗装」であったらしい。そして小道を入るとすぐに先ほど述べた「小学校」の校門と思われる石柱の跡と思われるものが道端にある。廃校跡に建てられた高速のインターを、こうして外側から見るとものすごい哀愁・・・ちょっと胸にこみ上げてくるものを感じてしまった。
と思い何気なく反対側を見たら・・・なんと野生の鹿が普通に食事をしているではないか!とりあえず私たちに興味が無いみたいなので私も見なかった事にして更に進む。若干高速道路に沿うように進むと「○○牧場」と書かれた民家があった。よくこのようなところに居を構えていると感心してしまうが、何となく生活の気配を感じなかった。そう、この近辺での唯一の民家と聞いてはいたが、既に住民は撤退していたのかもしれない。

(この地区に唯一と思われる民家があった。手入れが行き届き暮らしがあると思われたが、写真に写っている建物は廃墟状態。既に撤退してしまったのであろうか・・・)
更に先に進むと・・・なんと道の途中に鹿と思われる白骨化した姿が無造作に放置されていた!なんだここは!私は身の危険を否定せずにいられなかった・・・もしかしたら「熊」?にやられたのか、それとも・・・白骨化してもなお道の真ん中にあるということはそれほどこのあたりは人通りがないのか。付近には高速もあるし石勝線も走っている。「保線」などのメンテナンスの従業員がやってくるであろうが、それにしても・・・

(道端に転がっていた、白骨化した「鹿」と思われる姿。これってこの付近では日常なのか?一気に身の危険を感じたのは言うまでもない。)
勇気を出して更に進むと、高速の下を何度か潜り抜けやがてスノーシェルターが見えてきた。そう、ようやく東オサワに到着したのだ。少し進むと線路と同じ高さにまで来る位置があったのでそこで東オサワの詰所(保線員の休憩所及び部品や道具の収納場所)を確認した。ただ、詰所へは線路を渡らなければならず危険だ。必ず詰所に通ずる歩道があるはずだ。更に先に進み石勝線を一回潜った。そしてついに発見した。が・・・写真では伝わりにくいが、結論から言うと私はこの階段を登る勇気が無かった。熊への装備を完全にしていざ向かおうと車から降りたが・・・何やら木の上から降ってきて下の木の葉に当たった。それは紛れもなく「蛇」であった!もちろん「コブラ」などの猛毒を持っているものではないと思うが、もしかしたらマムシかもしれず私は直ちに車に戻った。

(獣道を更に進むとようやくスノーシェルターが見えてくる。そう、ここが東オサワ信号場だ。)
残念ながら東オサワ信号場の詰所に行くことができなかった。だが後悔はない。しかし再び訪問してみたいと心に誓った。保線員の方は毎日と言って良いほどこういう場所で作業している。それってすごく尊敬してしまうし感心してしまう。このような場所に鉄道を敷くという事は大変な労力を必要としたであろう。かつての「開拓部落」の方々の悲願がひしひしと伝わってきた思いでもある。
鉄道が開通するのを待ちわびていた開拓部落の人々の願いが叶う頃には・・・既に人は撤退し駅ができたが旅客扱いしない信号場となってしまった。唯一と思われた民家の方はこの事実をどう受け止めたのだろう。



(そしてやっとの思いで東オサワ信号場に到着した。少々見辛いが「東オサワ」の看板が若干のスモールチックに出てくる。そして赤く錆び付いた急な階段があるが、ここを登れば詰所に通ずるものと思われるが・・・あなたはこの階段を登りたいと思いますか?確実に「出る」環境だ。「登る」ということは帰りは「くだる」ことにもなる。)
よく人は「都会を離れて大自然を堪能したい」などと旅に出るが、大部分の人は本当の大自然を堪能しているのであろうか?と感じる時がある。一般的な観光地や名所の展望台や灯台などに行き景色を眺め、それを「大自然」と感じるものいいであろう。だが、本当の大自然を求めるなら私は「東オサワ」をお勧めする。しかしその大自然は「食うか食われるか」という自然界の法則に則った、本当の意味での「ナチュラル」な大自然なのかも知れない。

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