姿なき挑戦者⑪ 583系「ゆうづる」
2014-08-30
1979年、私小学校5年生であった。前年に初めて寝台特急「富士」を体験し増々「鉄道」に拍車がかかった感があった。そして翌年、次の旅へのターゲットは「北」と決めてみた。が、単純に「北海道」を目指すと思うのだが、なぜだかわからないが私は「青森」を選択していたのだ。そして選んだ列車は583系「ゆうづる」であった。当時は客車と583系の2本立てで、たしか4~5往復くらいの定期列車があったはずだ。
ただ、あまりにも昔過ぎて写真という写真がほとんど残っておらず、ご覧の皆様には少々ご迷惑をおかけいたしますがご了承の程・・・

(1979年乗車時のものだが・・・この写真をみて初めて知った。私の乗車した車輛は4号車だったのかと。)
さて、私は人生において第二弾である寝台特急の乗車であった。しかも初の583系。寝台列車と言うより寝台電車である。前年に「有明」で583系の座席バージョンは乗車しているが、寝台となると初である。
胸ワクワクの私は初となる上野から寝台列車乗車を体験。いつもなら日曜日によく列車を撮影にやってくる「メッカ」も夜に来ると全然違う景色になってしまう。しかも小学生。感受性が高い中での上野駅は、まるで映画の世界にでも迷い込んでしまったような錯覚に陥るほどであった。当時の上野駅では、旧型客車時代の急行「鳥海」やDCバージョンの「出羽」など、現在では考えられないような列車が上野駅で見られた。東京の都心で「旧型」や「キハ」が、しかも夜行で見られるとは小学生ながらに不思議な違和感を感じていた。特に「旧型客車」に関してはテレビでの「いなかっぺ大将」などで出てくるシーンと同じであるため、なんだか懐かしささえ覚えた。やはり東京駅とは違う、何か「庶民的」とでも言おうか、人間味あふれる「温かさ」みたいな雰囲気を上野駅でいつも感じていた。特にあの「13番線」は現在でもその面影を残す。

(画像はウィキペディアより。恐らく近年に撮影されたもの<多分「きたぐに」と思われる>であろう583系の寝台風景。客車寝台と違い両側にベッドがあり進行方向に頭を向ける。私の経験上、中段が一番不利と思われる。)
そんな上野から乗車した「ゆうづる」が私を待っていた席は「中段」であった。当時小学生の華奢な私の体をもってしても若干の窮屈感を否定できなかったが、初の寝台電車に当然興奮していた。しかも今回は「北」。私にとって全くの異次元空間への旅となった。
さて、583系「中段」に身を預けた私は小窓から景色を眺めていた。と言うよりそれくらいしか他にする事が無い。だが中段での景色を眺める行為は583系の中で一番苦痛な行為であることに気付かされた。下段はご承知のように窓が大きい。上段に関しては、寝ながら小窓が見れる。つまり景色が見れるわけだ。問題の中段・・・大人の座高をもってすればすぐに頭が天井にあたってしまうであろう。子供の座高でさえギリギリである。そう、中段の小窓は座った状態でなければ小窓から景色を見ることが出来なかったのだ。と、やたら「小窓」「景色」に拘ってみたが、このカーテンで仕切られた空間は「寝る」か「景色を見る」しかやる事が無い。583系寝台車に乗るにはこの辺の事前準備や知識が若干必要とされる。そしてマニアにはお馴染み、あの「パン下」はA寝台を利用するより価値があるであろう。


(583系の座席風景。上段にあるベッド収納スペースが特徴的。下段は座席を引出しベッドに変身する。特に下段は中段・上段に比べ格段に広い。もちろんその分料金は割高。画像はウィキペディアより。)
「ゆうづる」と言えば常磐線経由である。が、常磐線の駅にはほとんど停車しないのでなぜ経由するのかは若干不明となるが、それでもひとつでも多くの常磐線の駅に停車する事に価値があろう。
水戸を過ぎるとかなり深夜の時間帯に変化していった。駅と言う駅は照明がほとんど点いておらず、と言うか当然の事であるが人間の習性を考えると寝る時間帯であるし、乗車している列車も「寝台特急」である。寝るために乗る列車であるので嫌でも寝ざるを得ない(と言っても寝る、寝ないは個人の判断に委ねられるが・・・)。一応、初めて見る「北」の景色にいささか興奮していたが、気が付くと既に八戸付近であった。外はもう明るい。しかしながら前年に乗車した「富士」の様に機関車交換が無いので若干寂しさを否定できなかったが、やはり初583系は乗っていて楽しい。

(何度も紹介している写真であるが・・・1979年に寝台車として初めて乗車した583系。現在も青森駅は当時のままほとんど変わっていない。とは言え、構内の側線の数は超激減した。)
終点青森に着いたのは朝6時台である。初めて見る青森駅は8月であったため「雪の中」では無かったが、「北へ帰る人の群れは誰も無口で」連絡船乗り場へ向かっていった。私たちはこの後津軽線に乗り三厩からタクシーで竜飛崎を目指す予定である。朝6時台に着いてこれから竜飛崎訪問とは・・・しかし当時は青函トンネル工事中でありまだ北海道とは陸続きではなかった。「本当にトンネルなんかできるのか・・・」「北海道に新幹線が走るのか・・・」本当に夢の世界であった。しかし現在、トンネルは既に現実のものになっており新幹線も函館まで到達する日も近い。1979年当時、北に向かう優等列車は全て青森止まりでありその先は進めなかった。
晴れ渡る竜飛崎から見る北の大地は果てしなく大きかった。海の向こうには夢がいっぱい詰め込まれていた。しかしトンネルが開通する頃には社会情勢もものすごい勢いで変化しており、トンネルそのものの価値が問われた事もあった。しかしのその夢は絶え間なく大きなものであったはずだ。そんな先人たちの夢を思うと胸が熱くなるような・・・そんな事を考えながら竜飛崎を後にする小学生ってやはり「特異」であり「異色」だったのであろうか・・・

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ただ、あまりにも昔過ぎて写真という写真がほとんど残っておらず、ご覧の皆様には少々ご迷惑をおかけいたしますがご了承の程・・・

(1979年乗車時のものだが・・・この写真をみて初めて知った。私の乗車した車輛は4号車だったのかと。)
さて、私は人生において第二弾である寝台特急の乗車であった。しかも初の583系。寝台列車と言うより寝台電車である。前年に「有明」で583系の座席バージョンは乗車しているが、寝台となると初である。
胸ワクワクの私は初となる上野から寝台列車乗車を体験。いつもなら日曜日によく列車を撮影にやってくる「メッカ」も夜に来ると全然違う景色になってしまう。しかも小学生。感受性が高い中での上野駅は、まるで映画の世界にでも迷い込んでしまったような錯覚に陥るほどであった。当時の上野駅では、旧型客車時代の急行「鳥海」やDCバージョンの「出羽」など、現在では考えられないような列車が上野駅で見られた。東京の都心で「旧型」や「キハ」が、しかも夜行で見られるとは小学生ながらに不思議な違和感を感じていた。特に「旧型客車」に関してはテレビでの「いなかっぺ大将」などで出てくるシーンと同じであるため、なんだか懐かしささえ覚えた。やはり東京駅とは違う、何か「庶民的」とでも言おうか、人間味あふれる「温かさ」みたいな雰囲気を上野駅でいつも感じていた。特にあの「13番線」は現在でもその面影を残す。

(画像はウィキペディアより。恐らく近年に撮影されたもの<多分「きたぐに」と思われる>であろう583系の寝台風景。客車寝台と違い両側にベッドがあり進行方向に頭を向ける。私の経験上、中段が一番不利と思われる。)
そんな上野から乗車した「ゆうづる」が私を待っていた席は「中段」であった。当時小学生の華奢な私の体をもってしても若干の窮屈感を否定できなかったが、初の寝台電車に当然興奮していた。しかも今回は「北」。私にとって全くの異次元空間への旅となった。
さて、583系「中段」に身を預けた私は小窓から景色を眺めていた。と言うよりそれくらいしか他にする事が無い。だが中段での景色を眺める行為は583系の中で一番苦痛な行為であることに気付かされた。下段はご承知のように窓が大きい。上段に関しては、寝ながら小窓が見れる。つまり景色が見れるわけだ。問題の中段・・・大人の座高をもってすればすぐに頭が天井にあたってしまうであろう。子供の座高でさえギリギリである。そう、中段の小窓は座った状態でなければ小窓から景色を見ることが出来なかったのだ。と、やたら「小窓」「景色」に拘ってみたが、このカーテンで仕切られた空間は「寝る」か「景色を見る」しかやる事が無い。583系寝台車に乗るにはこの辺の事前準備や知識が若干必要とされる。そしてマニアにはお馴染み、あの「パン下」はA寝台を利用するより価値があるであろう。


(583系の座席風景。上段にあるベッド収納スペースが特徴的。下段は座席を引出しベッドに変身する。特に下段は中段・上段に比べ格段に広い。もちろんその分料金は割高。画像はウィキペディアより。)
「ゆうづる」と言えば常磐線経由である。が、常磐線の駅にはほとんど停車しないのでなぜ経由するのかは若干不明となるが、それでもひとつでも多くの常磐線の駅に停車する事に価値があろう。
水戸を過ぎるとかなり深夜の時間帯に変化していった。駅と言う駅は照明がほとんど点いておらず、と言うか当然の事であるが人間の習性を考えると寝る時間帯であるし、乗車している列車も「寝台特急」である。寝るために乗る列車であるので嫌でも寝ざるを得ない(と言っても寝る、寝ないは個人の判断に委ねられるが・・・)。一応、初めて見る「北」の景色にいささか興奮していたが、気が付くと既に八戸付近であった。外はもう明るい。しかしながら前年に乗車した「富士」の様に機関車交換が無いので若干寂しさを否定できなかったが、やはり初583系は乗っていて楽しい。

(何度も紹介している写真であるが・・・1979年に寝台車として初めて乗車した583系。現在も青森駅は当時のままほとんど変わっていない。とは言え、構内の側線の数は超激減した。)
終点青森に着いたのは朝6時台である。初めて見る青森駅は8月であったため「雪の中」では無かったが、「北へ帰る人の群れは誰も無口で」連絡船乗り場へ向かっていった。私たちはこの後津軽線に乗り三厩からタクシーで竜飛崎を目指す予定である。朝6時台に着いてこれから竜飛崎訪問とは・・・しかし当時は青函トンネル工事中でありまだ北海道とは陸続きではなかった。「本当にトンネルなんかできるのか・・・」「北海道に新幹線が走るのか・・・」本当に夢の世界であった。しかし現在、トンネルは既に現実のものになっており新幹線も函館まで到達する日も近い。1979年当時、北に向かう優等列車は全て青森止まりでありその先は進めなかった。
晴れ渡る竜飛崎から見る北の大地は果てしなく大きかった。海の向こうには夢がいっぱい詰め込まれていた。しかしトンネルが開通する頃には社会情勢もものすごい勢いで変化しており、トンネルそのものの価値が問われた事もあった。しかしのその夢は絶え間なく大きなものであったはずだ。そんな先人たちの夢を思うと胸が熱くなるような・・・そんな事を考えながら竜飛崎を後にする小学生ってやはり「特異」であり「異色」だったのであろうか・・・

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札幌から乗りたかった<ロイヤル>(再リメイク版)
2014-08-28
以前に紹介した記事であるが、若干写真を増やして再度アップしてみた。来年には定期列車から外れるとの報告を受けているが(2014年現在)、とうとう「ブルートレイン」という単語が日本がら消え去ろうとしている。私が小学生の時代はブルトレ全盛期であった。東京発の「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」・・・など、茅ヶ崎駅を通過するシーンを耳鼻科の帰りに散々拝んだものだ。北に向かうブルートレインは「ゆうづる」「はくつる」「あけぼの」「北陸」などいたが「はくつる」「ゆうづる」に関しては583系の寝台電車であったりして東京発とは若干カラーが異なった。
現在では風前の灯火ながら「北斗星」が存在する。私は2008年に北斗星に初めて乗車した。押さえた切符は・・・ロイヤルであった。ということで、改めてその模様を紹介してみたい。

(函館駅にて機関車を交換。と言ってもスイッチバックのためDD51は切り離されるだけであるが・・・)
「ウォ~ッ!」朝6時半、昨日入っていた留守電を聞き、気合が入ってしまった。旅行会社にキャンセル待ちを依頼していた返事が入っていたのだ。北海道への旅の行程で帰りの列車「北斗星」はデュエットであったが、ロイヤルをキャンセル待ちしていたのだ。現在もプラチナペーパーで入手困難であるが、チャンスとは突然やって来るものだ。

(北斗星にある「サロンカー」。現在は当たり前の存在であるが、私の少年の頃・・・さくら、はやぶさ、みずほ、富士、あさかぜ・・・などブルトレ全盛期には無い存在であり「夢の夜行列車」的な存在で空想に過ぎず、このサロンカーが憧れの存在でもあった。)
さて、北海道制覇の計画第1弾は2008年6月10~13日に決定し、帰りの列車を「北斗星」に設定しお楽しみは最後の最後に取っておいた。本当は札幌から乗りたかったのだが、室蘭本線の岩見沢~苫小牧を制覇する都合上、どうしても苫小牧からの乗車になってしまい、仕方なく苫小牧~上野の乗車となってしまった。とは言え「ロイヤル」を抑えたのだからこれは素晴らしい事だ、もしかしたらもう二度と乗れないかも知れない。と言う思いを握り締め、苫小牧のホームに立った。



(私の乗車した「ロイヤル」室内。補助ベッドを引っ張り出せば二人でも使用できる。勿論被写体は私でなく妻であるが、もう少し藤原紀香とかに似ていれば皆様に披露できたのだが・・・お見苦しいい部分もあるので若干画像に細工をさせていただいた。)
約19分のインターバルの後、いよいよ北斗星に乗車予定であるのだが、千歳線が人身事故の影響で約30分の遅れがあるとのアナウンス。なかなか来ない列車に段々ホームに人がたまってきたが、特に駅員にクレームをつける客もおらず、地方ならではの光景である。事故の影響で、速達列車は別料金無しで乗車できるアナウンスで、札幌方面の列車は「スーパー北斗」を筆頭に次々と乗客が乗り込んでいった。
さて、函館方面は、先に普通列車が到着。既に北斗星の出発時間は過ぎているが、足早に次の停車駅へ向っていった。そして約36分の遅れでようやくブルーのDD51が鉄路の先に顔を出した。いよいよA寝台「ロイヤル」初体験である!結論から言うと「良い!」である。一人用の座席兼ベッドがありテレビやシャワールーム兼トイレがある。ドライヤーから灰皿まで、全て新鮮に映った。座席の下から補助ベッドも引き出せ2人でも利用可能だ。暫くすると、大鶴義○によく似たウエイターが「ウェルカムドリンク」を持ってきた。「おたる」と名の付くワインとミネラルウォーター、そして氷と、贅の沢を尽くす限りである。

(これが「ウェルカムドリンク」である。ワインの「おたる」が印象的であるが、その後ろにある氷がなくなってもインターホンで発注すれば乗務員がすぐに持ってきてくれる。)
個室であるため周りを気にせずに「夢追い酒」。暫くしたら車内見物に出た。食堂車を通り過ぎ「ロビーカー」に出た。共用だがシャワールームもあり、ひと時の安らぎの空間を提供してくれる。ロイヤルに戻り、岩見沢で購入した弁当を食べながら、暮れ行く海を眺めていた。先ほど紹介した「テレビ」でビデオを見てみる。韓流方面の映画だが、終わったと思ったらまた繰り返し同じものを放映していた。つまり1本の映画を繰り返し放映しているわけだ。結局、上野に着くまでこの映画を7~8回根性で観てしまった。

(画像的に伝わるかどうか微妙だが、いちおうシャワー兼WCの室内を写したつもり。実際にシャワーを浴びて見るとわかるが、かなり揺れが気になる存在となる。列車の宿命なので仕方ないが、・・・)
シャワールーム兼WCでシャワーを浴びてみる。お湯の出る時間は10分間だが、途中で止めることも可能なので「石鹸とシャンプーが付いたまま終わったらどうしよう!」何て事心配無用だ。しかしとにかく広いとは思えない空間で揺れる車内の中の「ひと風呂」はかなりのテクニックを要する。シャワーの後、そろそろ目蓋が重くなる時間となったため一休みする事とした。やはり開放型寝台と違って周りに気を使うことなくぐっすりと寝てしまう。途中、函館で機関車交換があった為、と言うか野生のカンで目が覚めたので、抜かりなく、しっかりとデジカメに収めた。再び車内に戻り寝ることにしたが、青函トンネルは轟音であまり安眠が約束されるものではない。が、いつの間にか寝ていたようで運転停車の駅で薄っすら駅名表の「もりおか」の文字が見えた。再び目が覚めた時、すっかり辺りは明るくなっていた。「せんだい」の文字と共に時計は5時半を差していた。

(ロイヤルがある車両の通路。デビュー当時はかなりの存在感であったろう「ロイヤル」も時代とともに消え去ろうとしている。)
30分の遅れはそのままで本州に入ったらしい。しかし、個室初体験は想像以上に快適に安らげるではないか!開放型寝台は既に前近代的とさえ感じた。福島の過ぎたころには、頼んでおいた「モーニングコーヒー」が到着。このサービスもロイヤルのみ!そして、散々観てきた韓流映画も放送終了となり、上野に着く時間に近付いた、と言うより、定刻であればとっくに到着している時間だが、遅れが一行に縮まってないのであった。しかし、車両老朽化や新幹線の延伸によりこの列車の命もそう長くは無いと心のスミに引っかかっていた。
確かに新幹線は便利だし、飛行機アクセスに十分対抗できるであろう。しかし、こういうのんびりした旅があってもいいではないか・・・いつまでも上野駅の「13番線」で寝台特急を見れることを祈りながら、30分遅れの上野駅のホームで、青い車体を目に焼き付けつつ、山手線のホームへ足を急がせた。

(上野駅にて。これって「カシオペアカラー」の機関車?ブルーのDD51もそうだが、塗装ひとつでこんなにも印象が変わるものかと思う。)

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現在では風前の灯火ながら「北斗星」が存在する。私は2008年に北斗星に初めて乗車した。押さえた切符は・・・ロイヤルであった。ということで、改めてその模様を紹介してみたい。

(函館駅にて機関車を交換。と言ってもスイッチバックのためDD51は切り離されるだけであるが・・・)
「ウォ~ッ!」朝6時半、昨日入っていた留守電を聞き、気合が入ってしまった。旅行会社にキャンセル待ちを依頼していた返事が入っていたのだ。北海道への旅の行程で帰りの列車「北斗星」はデュエットであったが、ロイヤルをキャンセル待ちしていたのだ。現在もプラチナペーパーで入手困難であるが、チャンスとは突然やって来るものだ。

(北斗星にある「サロンカー」。現在は当たり前の存在であるが、私の少年の頃・・・さくら、はやぶさ、みずほ、富士、あさかぜ・・・などブルトレ全盛期には無い存在であり「夢の夜行列車」的な存在で空想に過ぎず、このサロンカーが憧れの存在でもあった。)
さて、北海道制覇の計画第1弾は2008年6月10~13日に決定し、帰りの列車を「北斗星」に設定しお楽しみは最後の最後に取っておいた。本当は札幌から乗りたかったのだが、室蘭本線の岩見沢~苫小牧を制覇する都合上、どうしても苫小牧からの乗車になってしまい、仕方なく苫小牧~上野の乗車となってしまった。とは言え「ロイヤル」を抑えたのだからこれは素晴らしい事だ、もしかしたらもう二度と乗れないかも知れない。と言う思いを握り締め、苫小牧のホームに立った。



(私の乗車した「ロイヤル」室内。補助ベッドを引っ張り出せば二人でも使用できる。勿論被写体は私でなく妻であるが、もう少し藤原紀香とかに似ていれば皆様に披露できたのだが・・・お見苦しいい部分もあるので若干画像に細工をさせていただいた。)
約19分のインターバルの後、いよいよ北斗星に乗車予定であるのだが、千歳線が人身事故の影響で約30分の遅れがあるとのアナウンス。なかなか来ない列車に段々ホームに人がたまってきたが、特に駅員にクレームをつける客もおらず、地方ならではの光景である。事故の影響で、速達列車は別料金無しで乗車できるアナウンスで、札幌方面の列車は「スーパー北斗」を筆頭に次々と乗客が乗り込んでいった。
さて、函館方面は、先に普通列車が到着。既に北斗星の出発時間は過ぎているが、足早に次の停車駅へ向っていった。そして約36分の遅れでようやくブルーのDD51が鉄路の先に顔を出した。いよいよA寝台「ロイヤル」初体験である!結論から言うと「良い!」である。一人用の座席兼ベッドがありテレビやシャワールーム兼トイレがある。ドライヤーから灰皿まで、全て新鮮に映った。座席の下から補助ベッドも引き出せ2人でも利用可能だ。暫くすると、大鶴義○によく似たウエイターが「ウェルカムドリンク」を持ってきた。「おたる」と名の付くワインとミネラルウォーター、そして氷と、贅の沢を尽くす限りである。

(これが「ウェルカムドリンク」である。ワインの「おたる」が印象的であるが、その後ろにある氷がなくなってもインターホンで発注すれば乗務員がすぐに持ってきてくれる。)
個室であるため周りを気にせずに「夢追い酒」。暫くしたら車内見物に出た。食堂車を通り過ぎ「ロビーカー」に出た。共用だがシャワールームもあり、ひと時の安らぎの空間を提供してくれる。ロイヤルに戻り、岩見沢で購入した弁当を食べながら、暮れ行く海を眺めていた。先ほど紹介した「テレビ」でビデオを見てみる。韓流方面の映画だが、終わったと思ったらまた繰り返し同じものを放映していた。つまり1本の映画を繰り返し放映しているわけだ。結局、上野に着くまでこの映画を7~8回根性で観てしまった。

(画像的に伝わるかどうか微妙だが、いちおうシャワー兼WCの室内を写したつもり。実際にシャワーを浴びて見るとわかるが、かなり揺れが気になる存在となる。列車の宿命なので仕方ないが、・・・)
シャワールーム兼WCでシャワーを浴びてみる。お湯の出る時間は10分間だが、途中で止めることも可能なので「石鹸とシャンプーが付いたまま終わったらどうしよう!」何て事心配無用だ。しかしとにかく広いとは思えない空間で揺れる車内の中の「ひと風呂」はかなりのテクニックを要する。シャワーの後、そろそろ目蓋が重くなる時間となったため一休みする事とした。やはり開放型寝台と違って周りに気を使うことなくぐっすりと寝てしまう。途中、函館で機関車交換があった為、と言うか野生のカンで目が覚めたので、抜かりなく、しっかりとデジカメに収めた。再び車内に戻り寝ることにしたが、青函トンネルは轟音であまり安眠が約束されるものではない。が、いつの間にか寝ていたようで運転停車の駅で薄っすら駅名表の「もりおか」の文字が見えた。再び目が覚めた時、すっかり辺りは明るくなっていた。「せんだい」の文字と共に時計は5時半を差していた。

(ロイヤルがある車両の通路。デビュー当時はかなりの存在感であったろう「ロイヤル」も時代とともに消え去ろうとしている。)
30分の遅れはそのままで本州に入ったらしい。しかし、個室初体験は想像以上に快適に安らげるではないか!開放型寝台は既に前近代的とさえ感じた。福島の過ぎたころには、頼んでおいた「モーニングコーヒー」が到着。このサービスもロイヤルのみ!そして、散々観てきた韓流映画も放送終了となり、上野に着く時間に近付いた、と言うより、定刻であればとっくに到着している時間だが、遅れが一行に縮まってないのであった。しかし、車両老朽化や新幹線の延伸によりこの列車の命もそう長くは無いと心のスミに引っかかっていた。
確かに新幹線は便利だし、飛行機アクセスに十分対抗できるであろう。しかし、こういうのんびりした旅があってもいいではないか・・・いつまでも上野駅の「13番線」で寝台特急を見れることを祈りながら、30分遅れの上野駅のホームで、青い車体を目に焼き付けつつ、山手線のホームへ足を急がせた。

(上野駅にて。これって「カシオペアカラー」の機関車?ブルーのDD51もそうだが、塗装ひとつでこんなにも印象が変わるものかと思う。)

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熊に逢ったら・・・「白滝シリーズ」③ 上白滝
2014-08-11

カーナビで案内され到着したにも関わらず辿り着かなかった・・・国道沿いにはそれなりに集落が存在し商店もある。だが駅が見つからない・・・諦めて次の駅に行こうとしたが、やはりせっかく来たのだから上白滝に行こう!と気を取り直して戻ってみた。そしてようやく上白滝の存在に気づいた。そう、国道から少し奥に入っていくと駅があったのだ。いや~っ、やはりカーナビでも苦手意識があったのか、鉄道駅に関してはどうも案内が不得手のようだ。
それはともかく、この上白滝駅周辺はひとつの集落をなしていて秘境度は全く感じない。某秘境駅訪問家はこの駅を上位にランクしているが、確かに駅のみを考えるとそうかもしれない。しかしちょっと国道に出ると私の「秘境度が薄れていく」と言う事が納得するであろう事が伝わると思う。廃屋も少なくそれなりに生活感を感じるが、やはり他の駅同様に駅前は農場となっている。
沿線も少子高齢化が進んでいると思われ利用者の増加は将来的にも見込めないと思われるが、1日1往復でも停車する列車が設定されているという事は定期客が今も存在するのであろう。
各方面のレール関係のブログなどを拝見すると、やはり皆考えていることは同じのようで、将来的に所謂「石勝線化」されるであろうと事も視野に入れて推測。現在の究極ダイヤでも恐らく「過剰ダイヤ」なのかも知れない。というより、20年後くらいには上川~遠軽の各駅が全て廃止、50年後くらいには石北本線そのものが無くなってしまうかも知れない・・・とは考え過ぎかも知れないが、冗談抜きで石北本線もかなりの高速化等の改良をしなければ生き抜く事は出来ないであろう・・・と現実染みた話をしてしまったが、実際問題駅前の集落の人々はマイカーでの移動が当たり前の文化となっている。
そして主要駅である北見を始め、遠軽や網走等も利用者が30年前の半分くらいになってしまった。あと30年したらどうなるのであろうか・・・

ようやく上白滝に到着。国道沿いと事前調査でわかっていたのですっかりその気でいたが、いざカーナビで案内された場所に駅は無かった。何回か行ったり来たりしてようやく駅を発見。というより私が鈍感であったのかも知れないが、駅を発見するのに一苦労した。


駅舎はご覧の通りの昔ながら。既に各方面でご覧になられた方も多いと思われるが、やはりこういう駅舎は魅力があろう。この駅舎に近い雰囲気の駅は私の知る限りでは相模線の「相武台下」あたりが割に近い雰囲気を醸し出している。と言っても駅前の雰囲気は全く異なるが・・・


とは言うものの、相武台下の方が遥かにメンテナンスが良いのはあえてここで述べるべきではなかろうが・・・



駅舎内は意外にメンテナンスが行き届いており清潔であった。私の訪問した時期には「旬」ではない道具も収納されていた。


駅前は完全に秘境度は感じないが、ホームに立ってみてもそれほど秘境度は感じない。やはりモータリゼーションによる「究極ダイヤ」である事は、現場を訪れて見ると肌で感じる事ができる。

30年前までは確かに相対式のホームであったが、現在はダイヤが合理化されて交換設備が不要となったのであろう。そして冬季には更に哀愁漂う風景となっていくことであろう。

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熊に逢ったら・・・「白滝シリーズ」② 旧白滝
2014-08-08

全国に「新」を冠する駅は数あれど、「旧」の付く駅は、JRではここ「旧白滝」のみであろう。レールファンにはお馴染みの駅でありその「旧」が付く理由も既に自身で解決済みであろうと思われる。
しかし考えてみたら、埼玉県にある「浦和」は既に「東西南北」と「武蔵+中」を冠していて、もし更に新駅ができるとしたらどうなるのであろうか。それこそもう「旧」しかないであろう!あっ、そういえばまだ「新」が残っているか・・・

(写真中央に見える小屋のような建物が旧白滝駅。カーナビに案内されてたどり着いた旧白滝駅であるが・・・カーナビよ、畑の真ん中から遥か彼方に見える旧白滝駅へどう行けというのか?)
そんな事はどうでも良いのだが、ここ旧白滝は国鉄時代では仮乗降場であった。付近には民家が少ないが、という事は若干あるが、かつて駅であった所が信号場や廃駅となっているのにここ旧白滝は仮乗降場であったが現在は駅として今も列車が停車するという不思議な現象である。



(そしてようやくたどり着いた旧白滝駅。国鉄時代から仮乗降場として設置され、現在も同じ姿での1面1線のホーム。駅に昇格して現在も残るが、もともと駅であった奥白滝は信号場になってしまった。)
私がこの旧白滝に訪問する際にカーナビに案内された通りに素直に行ったら駅の裏側に来た。車を止めた地点からは畑を挟んで向こう側に離れた場所にホームが見えた。その畑を淡々と歩くといよいよ到着。するととんでもない光景が待っていた!なんと国道沿いに駅があるではないか!なぜに駅の裏方をわざわざ案内するのか・・・このカーナビにもし「知能」があるとしたら是非お伺いたてたいところだ。国道には若干ながら車を停めるスペースもあるし、こちらのほうが駅訪問には完全に適している。皆様も訪問の際にはカーナビに騙されぬようご注意を!

(各方面で見かける旧白滝駅の姿を私もあえて収めてみた。意外にも周囲には民家があり秘境度はさほど感じない。)
という事で駅裏から参戦した旧白滝駅は、元仮乗降場とは思えぬ立派なホームがあった。そして待合室も。周囲には廃屋があるものの畑の中に家屋が点在しており生活感がある。この事が今も駅が存在する理由であろうが、やはり1日数本の列車しかやってこないのは利用しにくい。そして平地が白滝方面まで続いていてそれほど秘境度が感じられないが、いかんせん民家が少ない。この白滝地区付近において入植者が最初に入った地として知られているが、その「最初に入った」代々の方が現在も付近の畑を維持されているのであろうか。典型的な、というより教科書にでも載っているような「田舎の風景」が展開されているが、この由緒正しい旧白滝駅は一体どれくらいの利用者がいるのであろうか。とても気になるところである。



(ホームが未舗装なのは仕方がない。しかしカリソメにも「本線」である。枕木が「木」とは・・・何だかかつての「寒川支線」を思い出してしまった。)
ビート畑や小麦畑が延々と続く旧白滝駅前一等地ではあるが、若干心も癒される感じがした。しかし、ここは駅前。という事は癒される風景であってはJR関係者も頭を悩ませる事であろう。それでも列車はやってくる。新しくなった旧白滝駅の駅名標が実に初々しく、清々しさを感じずにはいられない。雨が降ろうと雪が降ろうと・・・「A46」はしっかりと自身の業務をひたすらこなす毎日であった。

(これって小麦なのか?こんな風景が延々と続いていた駅前一等地。のどかな風景は心を癒されるが・・・)

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熊に逢ったら・・・「白滝シリーズ」① 奥白滝信号場
2014-08-05
長期連載させていただいたこの「熊シリーズ」もいよいよ千秋楽を迎えた。今回の北海道の旅ではこの「白滝シリーズ」と「石勝線」がメインの訪問であったが、ついに白滝シリーズが私のブログに掲載される時が来てしまった。私はかねてからこの白滝シリーズの訪問は夢であったが今回思い切って実現させた感じだ。勿論まだ紹介していない「熊シリーズ」は沢山あるが、いずれタイミングをみて紹介したいと思う。


(道の駅・しらたきは、若干写真に角度が付いてしまったが・・・上越信号場付近にある浮島インターから一気にトンネルを抜けここに着く。確かに便利な時代になったが、付近は完全に秘境度満点であった。)
という事でこの石北本線の上川~遠軽間は、私が最も以前からじっくりと訪問してみたかったと思っていた場所であった。そして今回、長期連載させていただいている「熊に逢ったら」シリーズにおいて計画段階では石勝線の信号場とともに最重要区間に位置づけし、訪問を一番楽しみにしていた場所でもあった。
特にこの上川~白滝間においては近年で駅の数が減少。ほとんどが信号場に格下げされてしまったが、中には天幕のように駅そのものがなくなってしまった例もある。



(若干「アクア」が邪魔になってしまったが、これが現在の奥白滝信号場。まだ旅客駅の匂いが漂うが、やはり周囲には民家が皆無であった。)
今回の旅においての計画段階では「相当の秘境なのであろう」と想像が膨らむばかりであったが、実際に訪問してみたらやはり秘境度200%くらいの秘境度であった。何しろ民家の数より道路沿いにある「チェーン脱着場」の数の方が多いくらいであった。とは言うものの、私が今回訪問したのは6月であり、チェーン脱着場においては完全に「旬」の時期ではなく、むしろ「パーキングエリア」的な役割をしていた。
そんな中、奥白滝が信号場に格下げされたのは記憶に新しいであろう。とは言うものの、その時期が2001年であるからもう10年以上経っている事になる。つい最近のような感じがしたが・・・月日の経つのは早いものである・・・




(「駅」ではなくなってしまったが、往年の駅舎は健在。かつての旅客ホームは既になく、自然の一部になろうとしている姿が印象的であった。)
隣の上越は1975年に信号場に格下げされた。その時既に付近に住民がいなくなっていたと聞いているが、確かに以前に私のブログで上越信号場を紹介したように、本当に周りに人気がないのだ。まだ中越に関しては国道沿いに駅があるので安心感はある。しかし上越に関しては国道より脇道に入るため更に秘境度がプラスされる。
そんな中、この奥白滝は付近に高速のインターがあり、そして道の駅も存在するため秘境度はかなり薄れる。とは言うものの、緑豊かな奥白滝は生活の雰囲気が感じられない。付近に民家が全くと言っていいほど見当たらないのだ。信号場になってしまったのも肯けるが、そういう現実も個人的には受け止めにくい。やはり「駅」として機能してこそ!という思いもあるが、やはり現在も信号場としてでも残っているだけでも嬉しい。




(都会に住んでいる人にとってみればこれが「駅」とは考えられないであろう。とは言うものの現在は信号場であるが・・・)
現在は先述の通り高速道路が並行しているため石北本線の機能は薄れてしまった。そしてかつて駅であった場所は現在信号場として第二の人生を送っている。昔より便利な時代になったが、それに反比例するかのように沿線人口は、というより全国的に人口が減少している。こうした駅も全国的に増えてくることであろう。特に北海道はその例が顕著で、例えば10年後、20年後は上白滝や、それこそ瀬戸瀬あたりも信号場になってしまうかもしれない。そして、もしかしたら「石勝線」のように特急列車しか運転されなくなる区間も出てこよう可能性もある。

(片隅には保線車両が留置されていた。しかしこの車両は、私の訪問した時期では「旬」ではなさそうだ。)
という私も今回は完全に鉄道という交通手段を一切使わない旅を経験してみた。現在は「ハイブリッド」なるトレンドの波が押し寄せ、その波に私も乗ってみた。というより波に乗るのがむしろ遅いくらいかも知れない。勿論鉄道車両にもハイブリッドは存在するし今後一段と増えていく事であろう。しかし普段生活するなかでの自家用車は「アクア」「プリウス」などは完全に通勤などでは優位に立つ。これは勿論燃費等の事を指しているのであるが、冒頭に載せた道の駅の駐車場にはそれなりに車が駐車されていた。という事はこの区間もそれなりに行き来があるという事である。
そんな時代の中で取り残されたかようなここ奥白滝は、普段は誰にも気にされる事無く穏やかな時間を過ごしていることであろう。そんな時代の移り変わりを奥白滝はどのように受け止めているのであろうか。自身の道を行く奥白滝はある意味「不器用」なのかも知れない。その姿は、変な例えであるが若干「王道」にも思える気がするのは私だけであろうか。

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(道の駅・しらたきは、若干写真に角度が付いてしまったが・・・上越信号場付近にある浮島インターから一気にトンネルを抜けここに着く。確かに便利な時代になったが、付近は完全に秘境度満点であった。)
という事でこの石北本線の上川~遠軽間は、私が最も以前からじっくりと訪問してみたかったと思っていた場所であった。そして今回、長期連載させていただいている「熊に逢ったら」シリーズにおいて計画段階では石勝線の信号場とともに最重要区間に位置づけし、訪問を一番楽しみにしていた場所でもあった。
特にこの上川~白滝間においては近年で駅の数が減少。ほとんどが信号場に格下げされてしまったが、中には天幕のように駅そのものがなくなってしまった例もある。



(若干「アクア」が邪魔になってしまったが、これが現在の奥白滝信号場。まだ旅客駅の匂いが漂うが、やはり周囲には民家が皆無であった。)
今回の旅においての計画段階では「相当の秘境なのであろう」と想像が膨らむばかりであったが、実際に訪問してみたらやはり秘境度200%くらいの秘境度であった。何しろ民家の数より道路沿いにある「チェーン脱着場」の数の方が多いくらいであった。とは言うものの、私が今回訪問したのは6月であり、チェーン脱着場においては完全に「旬」の時期ではなく、むしろ「パーキングエリア」的な役割をしていた。
そんな中、奥白滝が信号場に格下げされたのは記憶に新しいであろう。とは言うものの、その時期が2001年であるからもう10年以上経っている事になる。つい最近のような感じがしたが・・・月日の経つのは早いものである・・・




(「駅」ではなくなってしまったが、往年の駅舎は健在。かつての旅客ホームは既になく、自然の一部になろうとしている姿が印象的であった。)
隣の上越は1975年に信号場に格下げされた。その時既に付近に住民がいなくなっていたと聞いているが、確かに以前に私のブログで上越信号場を紹介したように、本当に周りに人気がないのだ。まだ中越に関しては国道沿いに駅があるので安心感はある。しかし上越に関しては国道より脇道に入るため更に秘境度がプラスされる。
そんな中、この奥白滝は付近に高速のインターがあり、そして道の駅も存在するため秘境度はかなり薄れる。とは言うものの、緑豊かな奥白滝は生活の雰囲気が感じられない。付近に民家が全くと言っていいほど見当たらないのだ。信号場になってしまったのも肯けるが、そういう現実も個人的には受け止めにくい。やはり「駅」として機能してこそ!という思いもあるが、やはり現在も信号場としてでも残っているだけでも嬉しい。




(都会に住んでいる人にとってみればこれが「駅」とは考えられないであろう。とは言うものの現在は信号場であるが・・・)
現在は先述の通り高速道路が並行しているため石北本線の機能は薄れてしまった。そしてかつて駅であった場所は現在信号場として第二の人生を送っている。昔より便利な時代になったが、それに反比例するかのように沿線人口は、というより全国的に人口が減少している。こうした駅も全国的に増えてくることであろう。特に北海道はその例が顕著で、例えば10年後、20年後は上白滝や、それこそ瀬戸瀬あたりも信号場になってしまうかもしれない。そして、もしかしたら「石勝線」のように特急列車しか運転されなくなる区間も出てこよう可能性もある。

(片隅には保線車両が留置されていた。しかしこの車両は、私の訪問した時期では「旬」ではなさそうだ。)
という私も今回は完全に鉄道という交通手段を一切使わない旅を経験してみた。現在は「ハイブリッド」なるトレンドの波が押し寄せ、その波に私も乗ってみた。というより波に乗るのがむしろ遅いくらいかも知れない。勿論鉄道車両にもハイブリッドは存在するし今後一段と増えていく事であろう。しかし普段生活するなかでの自家用車は「アクア」「プリウス」などは完全に通勤などでは優位に立つ。これは勿論燃費等の事を指しているのであるが、冒頭に載せた道の駅の駐車場にはそれなりに車が駐車されていた。という事はこの区間もそれなりに行き来があるという事である。
そんな時代の中で取り残されたかようなここ奥白滝は、普段は誰にも気にされる事無く穏やかな時間を過ごしていることであろう。そんな時代の移り変わりを奥白滝はどのように受け止めているのであろうか。自身の道を行く奥白滝はある意味「不器用」なのかも知れない。その姿は、変な例えであるが若干「王道」にも思える気がするのは私だけであろうか。

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熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~⑥ 清水沢
2014-08-04

ここ清水沢ほど「昔、栄えてました!」ということが伝わってくるわかりやすい駅は、この夕張線の中で随一であろう。沢山の側線が張り巡らされており、長い跨線橋や島式ホームの木造の屋根、そしてあの伝説の「三菱」を分岐する・・・全てが過去のものとなってしまった。現在は必要最低限の設備が残り、島式ホームも片側はレールが剥がされ駅舎からホームへ伝う通路が新たに新設されたものの実に簡素なものだ。そして駅舎側に若干面影が残る「三菱」のホームは完全に「古墳」となってた。
私は現役時代の「三菱」に訪問することができなかったが、全盛時代が残る清水沢駅の初訪は1983年である。このことは何度となくお伝えしているが、今思えば「三菱」を前に乗車できなかったのは悔やまれる。しかし列車から清水沢の駅を窓越しに眺め駅舎の接する三菱側のホームに感動を覚えたのを記憶している。当時は中学生であったが、10月の北海道への一人旅はなかなか独特なものがあった。もし現在「当時と同じ条件で同じ旅をしろ」と言われたら、私は二つ返事で出かけるであろう。やはり当時は中学生であったので今よりは感覚が全く「別物」であるのは当然であるが、今の感性で当時へタイムスリップしたらどんな印象を受けるであろう。
団塊世代の方々は、この「夕張」という街の変貌ぶりをどう感じているのであろう。全国各地で衰退していく町は少なくないが、特にここ夕張は何か特別なものを感じるものがあると思うのは私だけであろうか。

国道から旧道と思われる並行する道路に入っていくと清水沢駅前に出る。一旦踏切を渡り国道の反対側に出る形になる。



昔の面影たっぷりの駅舎。石炭の時代を彷彿させる造りであるが、利用者が減少を続けている。

駅舎横には広い空間があった。この空間より跨線橋へ繋がっていたが、その跨線橋も現在は無い。


ホームに出てみる。かつての「三菱」は全く「古墳」になってしまった。駅舎に接するホームがかつての「三菱」であった。そして跨線橋を渡り島式ホームへと向かう構造であったが、現在は跨線橋を使わずにダイレクトでホームへ。




インターネットなどでもご覧になった方もおられるであろうこの風景。現在はホームの屋根もない。実にシンプルになってしまった。メンテナンスする側にとってはかなりの作業削減になったであろうが、実に寂しい姿になってしまった。

跨線橋はなくなってしまったが、代わりに歩道橋が出現した。上記の写真もこの歩道橋からの撮影である。

その歩道橋から見た駅舎。かつての「三菱」の面影はほとんど無いに等しい。

清水沢駅前一等地の現在。寂しさを否定でいないが、まだまだ活躍して欲しいのは正直なところである。

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熊に逢ったら「番外編」 ~夕張線各駅巡り~⑤ 沼ノ沢
2014-08-01

新夕張の次の駅・・・夕張線の中ではかなり地味な存在であろうこの沼ノ沢であるが、かつては現在の姿からは想像できないくらい派手であった。1983年に初訪の時は構内にかなりの側線があり「石炭の駅」として栄えていた面影がしっかりと残っていた。そして炭鉱への専用線も分岐していたが、それらは全て現在は無い。完全に棒線化されてしまって全くかつての盛隆が伝わってこない。

(これが沼ノ沢駅の駅舎。ご覧の通り、駅舎内には飲食店が同居している。次回訪問時は是非立ち寄ってみたい。)
全く変わってしまった沼ノ沢であるが、駅舎内には飲食店が入居している。私は事前調査をしていなかったため現場に言って初めて知ったので驚いた。なんとなく「オーチャードグラス」や「停車場」を思い出させる風景であるが、次回訪問時は是非試してみたいと思う。ということは今回は入店する事ができなかったが、なかなか素敵な趣きであった。


(待合室直結の飲食店。JRの方は勿論駅員無配置であるのでこの飲食店の存在は大きい。)
さて、現在の沼ノ沢は先述の通り棒線化され「管理する側」にとってみれば以前より作業が減ってさぞかし合理化されたことであろう。しかし私にとってみたらその姿は寂しさしか伝わってこなかった。しかしこれが日本のエネルギー事情の現実であった。


(かつては2面2線でかなりの側線を有していた。私が1983年に訪問した時は勿論2面2線であったが、31年ぶりに訪問した2014年では駅舎に接するホームと島式ホームの間は「陸続き」となってしまった。しっかり手入れされている花壇を見ると、何だか四国にある「下灘」を思い出す。そう、ほとんど同じ風景ではないか!)
現在夕張市は人口1万人を割ってしまった。基本的に市制にするのは人口3万人くらいが目安と聞いている。私がかつて住んでいた神奈川県は寒川町では、私が引っ越してきた当時は人口3万人くらいであったが、それよりどんどん人口が増加して1995年くらいからは4万7千人くらいで安定している。私が在住していた頃までが一番人口の増加が激しかった事であろう。実際に相模線も電化され寒川駅も橋上駅舎に変身した。そして茅ヶ崎市との合併もチラホラ囁かれた頃もあったが、現在の姿のまま至っているという事はしっかりと独立して行政している事であろうと思う。



(構内は広い。勿論それは貨物線を分岐していた名残であるが、この草を刈るとどんな風景が待っているのであろうか。一度「草刈様」にお願いしてみたい。とは言うものの、一体どれくらいのギャランティー関係が発生するのであろうか・・・)
しかし夕張市はこのまま行くと、下手したら「ゴーストタウン」にもなりかねない。事実、2006年頃には市長や市議会議員などの報酬が激減し税金も引き上げられた。以前に比べてかなり「住みにくい」町となってしまった夕張市はその当時で人口が1割近く減少。この頃は夕張市の名前がかなりの頻度でニュース等に顔を出し、我々もその状況をメディアからではあるが嫌というほど目にしてきた。


(まだまだかつての遺構が残る。なぜ島式ホーム側を残したのかは不明であるが、いずれにしても昔の名残があるのは嬉しい。)
当然の事ながら夕張線沿線の人口は減少し利用者も減少していった。現在の夕張線の利用者はおそらく全盛期の1/100~1/1000くらいにまで減少している事であろう。1/1000とは大袈裟かも知れないが、それくらいの「体感温度」は感じることであろう。


(駅舎をホーム側から。昔のままで若干のメンテナンスを加え残っているのが良い。飲食店が同居しているおかげで人の気配があるのは嬉しい。)
しかし夕張線は今も走り続ける。そんな夕張線は一体私達に何を伝えたいのであろうか。勿論そこには歴史的背景や先人の想いが凝縮されているように思う。しかし、それとは別になんと言うか「第六感」的なものを私は感じてしまう。変な話だが、夕張線とはなんだか「魂」みたいなものの存在があるような気がしてならない。勿論「闘魂」のようなものではないが、所謂「霊的な何か」に近いような、強いて言えば「宜保愛子」的な何かを感じずにはいられない。夕張線のレール一本一本に、そしてバラスト一個一個に・・・とはオーバーかも知れないが、そのレール設備ひとつひとつに哀愁を感じてしまうのは私だけであろか・・・

(沼ノ沢駅前の風景・・・こんな感じが沿線各地で当たり前のように見ることができる。「当たり前」とは厳しい現実であるが、いつしかかつての清栄を取り戻して欲しい。)

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