夜行急行列車「はまなす」大冒険 ①
2014-11-28
「旅」とは実に不健康な行動だと私は思う。カロリー高いものを好んで食べたり朝からアルコール三昧、そして不規則な就寝時間に移動中は座席に座り「飲む」または「食う」か「寝る」かのどちらか・・・ろくに運動もしない。どれをとっても健康的とは言えないであろう。恐らくこんな生活を1ヶ月も続けていたら間違いなく糖尿病や肝臓病などになりかねない。しかしそんな不健康な行動ばかりをしているのになぜか楽しい・・・そう、それは「鉄道」と触れ合っているからであろう。

(いよいよ「はまなす」初体験!私は札幌発に乗車。外見は完全に「ブルートレイン」と何ら変わりはない。実にワクワクするではないか!)
2014年11月、私は思い切って「はまなす」を体験する事にした。理由的には「トワイライトエクスプレス」を12月まで毎日発注しているのであるが一向に納品の気配が無い事。それから2015年以降、トワイライトや北斗星の去就が発表された中、この「はまなす」に至っては何の発表も無い。だからこそ逆にいつ発表されるかという思いもあり、ならば運転されているうちに体験しておこうと決意をした。以前にも触れたが「いつか乗ろう」では、いざという時に乗車できないかも知れない。だから「今」行動に出た。
たまたま勤務スケジュールにおいて連休があったためそこを北海道行きに決めた。だが切符の発売日が既に1ヶ月を切っていたので果たして切符が取れるか・・・
一番人気の「のびのびカーペット」の上段は当然ながら満席であったが、下段なら連番があると報告を受けた。その場で即決、既に頭の中でスケジュールは組んであったのでとりあえず「はまなす」を押さえた後、その他の切符の手配は順次進行していった。さて「はまなす」とは一体どんな列車なのか、レールファンはともかく、そうでない方のために若干歴史に触れみよう。

(この方向幕の雰囲気もいよいよ味わえなくなる時代が来るのか・・・)
「はまなす」とは、青森と札幌を結ぶ夜行急行列車である。1988年に青函トンネルが開通し青函連絡船が廃止された際、青函連絡船の夜行便の代替え措置として誕生したのがこの「はまなす」であった。実際に私自身、青函連絡船の夜行便は1983年に体験しているが、函館~青森間を3時間50分ほどで結ばれていた。そのため函館を0時40分に発すると青森に4時30分に着いた。ハッキリ言って、この深夜から未明にかけての移動は、特に冬季の場合は実に厳しい戦いになる事であろう。私自身も身を持って体験したので保証する!って、何を保証するのか分からないが、当時はまだ中学生であったので体力的には全然問題なかったが・・・

(これが私の利用した「のびのびカーペット」。完全に連絡船時代の桟敷席を彷彿させる。特に上段は完全に個室に近い状態で年間通して人気が高い。)
そして、何といっても「のびのびカーペット(発券時は[はまなすカーペット]と表現)」は、連絡船の桟敷席をイメージして再現された事であろう。特に上段に関してはほぼ個室状態となっており、年間通して満席となる「プラチナ」である。他には指定席と自由席、そして開放型のB寝台が連結されている。見方によっては多彩な編成の急行列車であるが、JR全社で唯一の定期便急行列車である。しかも客車編成の急行列車は80年代に私が旅をしていた時代を彷彿させる懐かしい内容で、かつての「八甲田」「津軽」などの急行列車を、いや、編成的には「ブルートレイン」と呼ばれた寝台特急としても何ら見劣りしない雰囲気を醸し出している。

(サンライズの「ノビノビ」よりもしかしたらいいかも!と一瞬思ってしまうくらいいい感じであった。しかも急行料金だし!)
そんな事を考えていたら「トワイライト」を体験するより楽しみになってきた・・・早速私は飛行機で北海道入りし、夜行急行列車「はまなす」の待つ札幌へ向かう事にした。目指すは4番線・・・確か隣の1~3番線は将来「新幹線」のホームになると聞いた。とは言え、果たしていつの事になることらや・・・高架化された札幌駅にすっかり私も慣れてしまった感がある北海道の中心地で、まだ見ぬ懐かしき盟友を今か今かとホームから身を乗り出し待っていた。

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(いよいよ「はまなす」初体験!私は札幌発に乗車。外見は完全に「ブルートレイン」と何ら変わりはない。実にワクワクするではないか!)
2014年11月、私は思い切って「はまなす」を体験する事にした。理由的には「トワイライトエクスプレス」を12月まで毎日発注しているのであるが一向に納品の気配が無い事。それから2015年以降、トワイライトや北斗星の去就が発表された中、この「はまなす」に至っては何の発表も無い。だからこそ逆にいつ発表されるかという思いもあり、ならば運転されているうちに体験しておこうと決意をした。以前にも触れたが「いつか乗ろう」では、いざという時に乗車できないかも知れない。だから「今」行動に出た。
たまたま勤務スケジュールにおいて連休があったためそこを北海道行きに決めた。だが切符の発売日が既に1ヶ月を切っていたので果たして切符が取れるか・・・
一番人気の「のびのびカーペット」の上段は当然ながら満席であったが、下段なら連番があると報告を受けた。その場で即決、既に頭の中でスケジュールは組んであったのでとりあえず「はまなす」を押さえた後、その他の切符の手配は順次進行していった。さて「はまなす」とは一体どんな列車なのか、レールファンはともかく、そうでない方のために若干歴史に触れみよう。

(この方向幕の雰囲気もいよいよ味わえなくなる時代が来るのか・・・)
「はまなす」とは、青森と札幌を結ぶ夜行急行列車である。1988年に青函トンネルが開通し青函連絡船が廃止された際、青函連絡船の夜行便の代替え措置として誕生したのがこの「はまなす」であった。実際に私自身、青函連絡船の夜行便は1983年に体験しているが、函館~青森間を3時間50分ほどで結ばれていた。そのため函館を0時40分に発すると青森に4時30分に着いた。ハッキリ言って、この深夜から未明にかけての移動は、特に冬季の場合は実に厳しい戦いになる事であろう。私自身も身を持って体験したので保証する!って、何を保証するのか分からないが、当時はまだ中学生であったので体力的には全然問題なかったが・・・

(これが私の利用した「のびのびカーペット」。完全に連絡船時代の桟敷席を彷彿させる。特に上段は完全に個室に近い状態で年間通して人気が高い。)
そして、何といっても「のびのびカーペット(発券時は[はまなすカーペット]と表現)」は、連絡船の桟敷席をイメージして再現された事であろう。特に上段に関してはほぼ個室状態となっており、年間通して満席となる「プラチナ」である。他には指定席と自由席、そして開放型のB寝台が連結されている。見方によっては多彩な編成の急行列車であるが、JR全社で唯一の定期便急行列車である。しかも客車編成の急行列車は80年代に私が旅をしていた時代を彷彿させる懐かしい内容で、かつての「八甲田」「津軽」などの急行列車を、いや、編成的には「ブルートレイン」と呼ばれた寝台特急としても何ら見劣りしない雰囲気を醸し出している。

(サンライズの「ノビノビ」よりもしかしたらいいかも!と一瞬思ってしまうくらいいい感じであった。しかも急行料金だし!)
そんな事を考えていたら「トワイライト」を体験するより楽しみになってきた・・・早速私は飛行機で北海道入りし、夜行急行列車「はまなす」の待つ札幌へ向かう事にした。目指すは4番線・・・確か隣の1~3番線は将来「新幹線」のホームになると聞いた。とは言え、果たしていつの事になることらや・・・高架化された札幌駅にすっかり私も慣れてしまった感がある北海道の中心地で、まだ見ぬ懐かしき盟友を今か今かとホームから身を乗り出し待っていた。

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レールファン復活後、初めての単独遠征⑦ マリンライナー~新幹線
2014-11-26
高松で宿泊した私は翌日、人並みに観光を楽しんだ。水族館や讃岐うどんなど香川県をそれなりに堪能し、夕方に帰郷する事になっていた。高松寄りマリンライナーに乗り岡山から新幹線に乗り換える。ここまでは一応順調な旅であったが・・・実は列車に乗車する前に台風情報が流れていたのだ。。関西~関東にかけては私の帰郷時間にモロ直撃になる予定。だが、そんな情報を受けたからには逆に「何としてでも帰郷してやる」という気持ちになり、私の闘士に火を点ける結果となってしまった・・・
まずはサンライズの運転状況を聞く・・・運休。新幹線は・・・動いている。この「動いている」のは確かだが問題は時刻。もちろんダイヤは乱れていると聞いた。先ほどの高松駅の情報と明らかに違っている。時間が経つにつれ状況が変化しているのだ。マリンライナーで瀬戸大橋を渡っている時からようやく自身の身の危険を感じ始めていた。

(とりあえずマリンライナーは時刻表通りの運行であった・・・が、新幹線に乗り換えるととんでもない事が待っていた。)
岡山駅で新幹線に乗り換える。新幹線ホームで列車案内を見ると、既に出発時間が過ぎている列車が表示されていた。列車によってマチマチだが、平均して遅れが20~30分。列車の出発順序も変更されていた。私の乗車する列車も当然ながら遅れていたので、予定の列車ではない列車で帰郷する事にした。もちろんその列車も出発時刻はとっくに過ぎている。そして当然ながら自由席へ。指定席券を持っているのに自身の乗車する列車より前に発車する列車の自由席に乗車するのって差額が返金されるのであろうか?もちろん「乗車変更」はできるはずであるが、今回は天候による列車の遅れが原因のためどう対応されるのか・・・「種村氏」にでもお伺い立ててみたいものだ。

(岡山駅にて。台風の影響によりダイヤが乱れる中、こんな列車も顔を見せた。ある意味話題を呼んだ車両であるが、周知の通り既に過去のものとなってしまった。)
それより・・・この帰りの新幹線が実にサバイバルの道中になってしまった。一応「東京行」の列車であるが、途中の運行状況で行き先が変わる・・・との案内があった。つまり乗った列車はどこ行きかわからないと言う事だ!空はだんだん日が暮れてきたが全く東方面の天気など想像もつかないくらい一滴の雨も見当たらない。しかし列車運行状況は乱れている・・・そんな中、車内放送が入る。「この列車は新大阪行きとなります」と。新大阪止まりか・・・どうしよう・・・大阪で宿泊するか先まで進むか。私の心は決まっていた。「行ける所まで行こう!」と。30分待った末に乗り換える列車は「のぞみ」であるが、アナウンスによると名古屋まで各駅に停車するらしい。列車の行き先も名古屋だが、とりあえず乗って先に進む。「運行状況により行き先や停車駅が変更される場合があります」と言う事であるが、進むにつれてだんだん窓を濡らす水滴の量が変化していった。いよいよ台風を実感するタイミングに来てしまった。だがとりあえず列車は動いている。最悪の場合を考えて名古屋までの新幹線の各停車駅にあるビジネスホテルに連絡を入れてみる。「満室です」「満室です」「満室です」の連続だ。あるビジネスホテルでは「今日はどこのホテルでも満室でしょう」と丁寧な口調で教えてくれた。このような天候はビジネスホテルは「書き入れ時」になる事をこの時に学んだが、最悪名古屋で「駅寝」か・・・私は良いが妻が気になるところだ。とりあえず「女性」だし・・・

(そしてこんな車両もいた。以前に私は博多から新横浜まで乗車したことがあるが、周知の通り、現在はJR東海には顔を出さない。しかも「こだま」での運用は少々勿体無い気もしなくもないが・・・)
暫くすると再びアナウンス。「この列車は東京行きに変更になります。東京まで各駅に止まります。」という事は各駅停車の「のぞみ」という事だ!これはいままで経験した事が無い事例であるが、基本的に「のぞみ」に乗車するのが今回の旅で初めての事象であった。私は「ひかり」「こだま」しかない時代以外は新幹線から遠ざかっていたのである意味新鮮。なんて言っている場合ではない状況であるが・・・
結局小田原に着いたのが日付が変わって12時半を過ぎていた。もう1時近い。当然、乗り換える小田急線は運転されてなく、ビジネスホテルも満室であろう。残された手段がただひとつ・・・タクシーだ。20~30分くらい待ったであろうか。

(西湘バイパスのブルーウェイブリッジ。晴れた昼間だと素晴らしいロケーションになるが天候次第では危険を伴う。画像はウィキペディアより。)
乗車したタクシーで小田原厚木道路を通り帰郷する。西湘バイパスは通行止めの表示であった。既に台風の真っ只中に我々は移動していることになる。途中、小田原厚木道路から西湘バイパスを見下ろせる場所があった。ものすごい勢いで波が道路を襲っていたのでこれは当然の処置であろう。だが、更に家に着いてから驚いた。何と私が乗っていたタクシーの時間帯とほぼ同じ時間帯に西湘バイパスの一部が陥没していた事をニュースで知ったのだ!改めて台風の凄さとタイミングの中の帰郷であったと思い知らされてしまった・・・絶句。
タクシー料金は1万5千円くらいであったが、その金額より命がある事の方が実にありがたかった。ある意味、この帰郷は命懸けの移動であった。下車した小田原近辺の宿泊施設は当然フルハウスであったろう。この自身の判断が正しいか間違っていたかは別として、旅をしていてこれほど命と向き合ったのは初めての経験であった。

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まずはサンライズの運転状況を聞く・・・運休。新幹線は・・・動いている。この「動いている」のは確かだが問題は時刻。もちろんダイヤは乱れていると聞いた。先ほどの高松駅の情報と明らかに違っている。時間が経つにつれ状況が変化しているのだ。マリンライナーで瀬戸大橋を渡っている時からようやく自身の身の危険を感じ始めていた。

(とりあえずマリンライナーは時刻表通りの運行であった・・・が、新幹線に乗り換えるととんでもない事が待っていた。)
岡山駅で新幹線に乗り換える。新幹線ホームで列車案内を見ると、既に出発時間が過ぎている列車が表示されていた。列車によってマチマチだが、平均して遅れが20~30分。列車の出発順序も変更されていた。私の乗車する列車も当然ながら遅れていたので、予定の列車ではない列車で帰郷する事にした。もちろんその列車も出発時刻はとっくに過ぎている。そして当然ながら自由席へ。指定席券を持っているのに自身の乗車する列車より前に発車する列車の自由席に乗車するのって差額が返金されるのであろうか?もちろん「乗車変更」はできるはずであるが、今回は天候による列車の遅れが原因のためどう対応されるのか・・・「種村氏」にでもお伺い立ててみたいものだ。

(岡山駅にて。台風の影響によりダイヤが乱れる中、こんな列車も顔を見せた。ある意味話題を呼んだ車両であるが、周知の通り既に過去のものとなってしまった。)
それより・・・この帰りの新幹線が実にサバイバルの道中になってしまった。一応「東京行」の列車であるが、途中の運行状況で行き先が変わる・・・との案内があった。つまり乗った列車はどこ行きかわからないと言う事だ!空はだんだん日が暮れてきたが全く東方面の天気など想像もつかないくらい一滴の雨も見当たらない。しかし列車運行状況は乱れている・・・そんな中、車内放送が入る。「この列車は新大阪行きとなります」と。新大阪止まりか・・・どうしよう・・・大阪で宿泊するか先まで進むか。私の心は決まっていた。「行ける所まで行こう!」と。30分待った末に乗り換える列車は「のぞみ」であるが、アナウンスによると名古屋まで各駅に停車するらしい。列車の行き先も名古屋だが、とりあえず乗って先に進む。「運行状況により行き先や停車駅が変更される場合があります」と言う事であるが、進むにつれてだんだん窓を濡らす水滴の量が変化していった。いよいよ台風を実感するタイミングに来てしまった。だがとりあえず列車は動いている。最悪の場合を考えて名古屋までの新幹線の各停車駅にあるビジネスホテルに連絡を入れてみる。「満室です」「満室です」「満室です」の連続だ。あるビジネスホテルでは「今日はどこのホテルでも満室でしょう」と丁寧な口調で教えてくれた。このような天候はビジネスホテルは「書き入れ時」になる事をこの時に学んだが、最悪名古屋で「駅寝」か・・・私は良いが妻が気になるところだ。とりあえず「女性」だし・・・

(そしてこんな車両もいた。以前に私は博多から新横浜まで乗車したことがあるが、周知の通り、現在はJR東海には顔を出さない。しかも「こだま」での運用は少々勿体無い気もしなくもないが・・・)
暫くすると再びアナウンス。「この列車は東京行きに変更になります。東京まで各駅に止まります。」という事は各駅停車の「のぞみ」という事だ!これはいままで経験した事が無い事例であるが、基本的に「のぞみ」に乗車するのが今回の旅で初めての事象であった。私は「ひかり」「こだま」しかない時代以外は新幹線から遠ざかっていたのである意味新鮮。なんて言っている場合ではない状況であるが・・・
結局小田原に着いたのが日付が変わって12時半を過ぎていた。もう1時近い。当然、乗り換える小田急線は運転されてなく、ビジネスホテルも満室であろう。残された手段がただひとつ・・・タクシーだ。20~30分くらい待ったであろうか。

(西湘バイパスのブルーウェイブリッジ。晴れた昼間だと素晴らしいロケーションになるが天候次第では危険を伴う。画像はウィキペディアより。)
乗車したタクシーで小田原厚木道路を通り帰郷する。西湘バイパスは通行止めの表示であった。既に台風の真っ只中に我々は移動していることになる。途中、小田原厚木道路から西湘バイパスを見下ろせる場所があった。ものすごい勢いで波が道路を襲っていたのでこれは当然の処置であろう。だが、更に家に着いてから驚いた。何と私が乗っていたタクシーの時間帯とほぼ同じ時間帯に西湘バイパスの一部が陥没していた事をニュースで知ったのだ!改めて台風の凄さとタイミングの中の帰郷であったと思い知らされてしまった・・・絶句。
タクシー料金は1万5千円くらいであったが、その金額より命がある事の方が実にありがたかった。ある意味、この帰郷は命懸けの移動であった。下車した小田原近辺の宿泊施設は当然フルハウスであったろう。この自身の判断が正しいか間違っていたかは別として、旅をしていてこれほど命と向き合ったのは初めての経験であった。

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レールファン復活後、初めての単独遠征⑥ 予讃線
2014-11-23
宇和島より予讃線に入る。宇和島と言えば「闘牛」や「養殖真鯛」で有名である。特に真鯛に関しては熊本産とともに市場やスーパーなどでもよくその銘柄を見かける。そんな愛媛県と香川県を結ぶ予讃線は四国ではとても重要な路線である。特に高松・岡山~松山(正確には伊予市)間は電化され特急も高速で走るようになった。しかし松山~宇和島間は昔ながらの非電化路線である。が、しかし私が前回の1984年に訪問した時と決定的に違うのは「内子線」であろう。


(宇和島からは「バイキン」に乗っていざ出陣。今や完全にJR四国の主役となったアンパンマンシリーズは、車内やシートもアンパンマン!)
1984年の訪問時の内子線は五郎より分岐し内子までコトコト走る典型的なローカル線に過ぎなかった。しかし1986年には伊予大洲(正確には伊予若宮信号場)~新谷間に新線を敷き、新たに向井原~内子間が建設され予讃線に組み込まるる形になり、実質「本線」に昇格した。私からすれば内子線に特急が走るシーンが信じられないが、現在の内子線の姿は全くの別物で、ほとんどが「新線」として建設されたようなものだ。そう考えるとなんとなく納得できるような感じだが・・・って、何を納得するのかは意味不明・・・

予讃線と内山線(予讃線・内子方面への建設時の路線名)を分岐する向井原。交換設備は無く、宇和島寄りで分岐する形をとる。)
それより、特急列車が内子線回りになったお陰で、旧来の本線であった伊予長浜などに特急列車はやてこなくなってしまった。そのため、あの独特の海岸風景が特急列車では見られない!しかしながら普通列車であればあの下灘にも訪問できるから、逆にある意味「価値」が出てきたかも知れない。むしろ現在、この区間は特異に煌くような気がしてならない。この辺りの事情を若いレールファンはどのように捉えているのであろうか?もちろん、物心ついてレールファンになった時には現在の形であったろうし、かつての内子線の姿を体験していないので見る感覚も違うであろう。

(2013年に訪問時の下灘。ご覧のように「海に一番近い」の名文句があるほどの素晴らしいロケーション。全国各地に「日本一」はあるが、ここも日本一を名乗っても全然納得する材料が揃いすぎている。ただ、特急列車がやってこなくなってしまったため交換設備などが全て撤去されてしまい棒線化されてしまった。)
と、宇和島から一気に話が飛んでしまったが、予讃線の景色で最大に目を引くのが「みかん」であろう。松山に向かう列車では進行方向左側は海、右側はみかんと、とても長閑な風景が続いていく。
ちなみに言い忘れていたが、宇和島から乗った列車は特急「宇和海」である。松山までの非電化区間(伊予市~松山は電化されているが)を担当する。宇和島~高松を特急で向かう際には松山で必ず乗り換えが発生する。松山ではほぼすべての列車がこの乗り換えが同一ホームで可能だ。が、しかし・・・例えば駅舎に接する1番線を使用する場合、片面ホームの端と端に列車を止めることになる。つまり乗り換えの際には前もって先頭車両に移動しなければ便が悪い。じゃないと事がスムーズに運ばないのは想像つくであろう。この時の旅は、この松山駅を単に乗り換え駅としての利用に過ぎなかったが、後年(2012年)にはここを宿泊の地として下車し「千と千尋の神隠し」の舞台にもなった「道後温泉」も訪問したし、何といってもYAZAWAフリークにはたまらない「古川屋台ソウヅ」にも詣(もうで)に行った。私にとってこの松山は非常に思い出深い街となっている。

(2013年訪問時の松山駅。写真左側にて、松山での特急列車はご覧のように1番線を使用し乗り換えに階段を使わないような配慮をしている。が、事前に事情を知っていないと、場合によってはとんでもなく長い距離を歩く乗り換えとなる。)
そんな松山を過ぎ、ラストスパートの高松に向かう。乗った列車は特急「いしづち」だ。カーブの度に列車が傾く「振り子式」と呼ばれる車両は実に新鮮であった。やはり観光だけでなくビジネスとしても利用者が多いのは車内を見れば一発でわかる。松山駅で買った駅弁を頬張りながら、暮れゆく海とみかん畑が遠ざかる景色を見つめていると、新しい予讃線の息吹きが勢いよく聞こえてくるような気がした。

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(宇和島からは「バイキン」に乗っていざ出陣。今や完全にJR四国の主役となったアンパンマンシリーズは、車内やシートもアンパンマン!)
1984年の訪問時の内子線は五郎より分岐し内子までコトコト走る典型的なローカル線に過ぎなかった。しかし1986年には伊予大洲(正確には伊予若宮信号場)~新谷間に新線を敷き、新たに向井原~内子間が建設され予讃線に組み込まるる形になり、実質「本線」に昇格した。私からすれば内子線に特急が走るシーンが信じられないが、現在の内子線の姿は全くの別物で、ほとんどが「新線」として建設されたようなものだ。そう考えるとなんとなく納得できるような感じだが・・・って、何を納得するのかは意味不明・・・

予讃線と内山線(予讃線・内子方面への建設時の路線名)を分岐する向井原。交換設備は無く、宇和島寄りで分岐する形をとる。)
それより、特急列車が内子線回りになったお陰で、旧来の本線であった伊予長浜などに特急列車はやてこなくなってしまった。そのため、あの独特の海岸風景が特急列車では見られない!しかしながら普通列車であればあの下灘にも訪問できるから、逆にある意味「価値」が出てきたかも知れない。むしろ現在、この区間は特異に煌くような気がしてならない。この辺りの事情を若いレールファンはどのように捉えているのであろうか?もちろん、物心ついてレールファンになった時には現在の形であったろうし、かつての内子線の姿を体験していないので見る感覚も違うであろう。

(2013年に訪問時の下灘。ご覧のように「海に一番近い」の名文句があるほどの素晴らしいロケーション。全国各地に「日本一」はあるが、ここも日本一を名乗っても全然納得する材料が揃いすぎている。ただ、特急列車がやってこなくなってしまったため交換設備などが全て撤去されてしまい棒線化されてしまった。)
と、宇和島から一気に話が飛んでしまったが、予讃線の景色で最大に目を引くのが「みかん」であろう。松山に向かう列車では進行方向左側は海、右側はみかんと、とても長閑な風景が続いていく。
ちなみに言い忘れていたが、宇和島から乗った列車は特急「宇和海」である。松山までの非電化区間(伊予市~松山は電化されているが)を担当する。宇和島~高松を特急で向かう際には松山で必ず乗り換えが発生する。松山ではほぼすべての列車がこの乗り換えが同一ホームで可能だ。が、しかし・・・例えば駅舎に接する1番線を使用する場合、片面ホームの端と端に列車を止めることになる。つまり乗り換えの際には前もって先頭車両に移動しなければ便が悪い。じゃないと事がスムーズに運ばないのは想像つくであろう。この時の旅は、この松山駅を単に乗り換え駅としての利用に過ぎなかったが、後年(2012年)にはここを宿泊の地として下車し「千と千尋の神隠し」の舞台にもなった「道後温泉」も訪問したし、何といってもYAZAWAフリークにはたまらない「古川屋台ソウヅ」にも詣(もうで)に行った。私にとってこの松山は非常に思い出深い街となっている。

(2013年訪問時の松山駅。写真左側にて、松山での特急列車はご覧のように1番線を使用し乗り換えに階段を使わないような配慮をしている。が、事前に事情を知っていないと、場合によってはとんでもなく長い距離を歩く乗り換えとなる。)
そんな松山を過ぎ、ラストスパートの高松に向かう。乗った列車は特急「いしづち」だ。カーブの度に列車が傾く「振り子式」と呼ばれる車両は実に新鮮であった。やはり観光だけでなくビジネスとしても利用者が多いのは車内を見れば一発でわかる。松山駅で買った駅弁を頬張りながら、暮れゆく海とみかん畑が遠ざかる景色を見つめていると、新しい予讃線の息吹きが勢いよく聞こえてくるような気がした。

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レールファン復活後、初めての単独遠征⑤ 予土線
2014-11-20
さて、予土線と言えばご存知、四万十川に沿って列車に揺られることになる。現在こそトロッコ列車なるものが運転されているが、23年前はそんな列車など存在しなかったので確かキハ20の単行だったと思う。2007年訪問の今回は、JR仕様のキハの単行だ。平日でもあるしそれほど混雑していないであろうと思っていたが、意外にも「同業者」的な身なりの方々がそれなりに乗車していた。それもそのはず、9月の前半と言えばご存知「青春18」の期間中だ。学生風の、いわゆる「ローカル線、大好き!」的な雰囲気を醸し出すグループや単独の旅人の姿が目立って多かった。

(江川崎に到着。ここでしばらくの小休止があった。運転手は駅舎にある「福利厚生施設」へ向かう。)
四万十川と言えば清流とともに「うなぎ」の名産でも知られている。浜名湖や鹿児島とともに日本を代表するうなぎの産地として、特に土用の丑の日などには皆様の近くに有る小売店などでその名をよく見かける事であろう。特にここ四万十川は文字通り、清らかな水の中で育んだうなぎのため、味の方は申し分ない!!
と、話がそれてしまったが、私の乗った列車は予土線の中心駅・江川崎で小休止。確か20分くらい停車時間があったため運転手は駅舎の方へ向かった。運転手にとっては「福利厚生」の僅かな時間であろう。
江川崎を出ると更に山深くなる印象であったが、民家もチラホラ。本来なら高知方面から特急が走り抜け宇和島まで到達するのであろうが、実際問題、予土線の特に江川崎~北宇和島間の線形がかなりの制約となる。せっかく繋げたのに若干勿体無い気もするが・・・

(同じく江川崎のホームから。ご覧のようにとても山深く、とても鉄道経営に適しているとは思えないが・・・)
別ルートでは現在の中村線~宿毛線(土佐くろしお鉄道)を通って宿毛より宇和島に抜けるルートがかつての建設予定線であったが、現在は完全に「夢」となってしまった。もちろん、開通していたら特急列車が運転される事であろうが。でも中村~宿毛間はよく工事を進めたと感心してしまう。よくぞ開通させた。もちろん、経営の方はなかなか難しい場面が多いであろうが・・・

(画像はウィキペディアより。北宇和島駅を遠望したシーンであるが、右から予讃線が合流する。そして両者はダブルクロスで処理される。)
吉野生や近永を過ぎると北宇和島に到着する。ここで予讃線と合流すると、次は終点・宇和島だ。先ほど述べた「宿毛線」もここ宇和島で合流予定であったが、現在は未成線となってしまった。もし宿毛線が開通していたら予土線はどうなっていたのであろうか。先代が、先に宿毛線を開通させていたら現在のJR四国の鉄道シーンも変わっていた事であろう。そんな事は当然なのだが、宇和島に到着した時に若干思った。宇和島駅を東からでなく、西側から入線してきたらどんな風景になっていたのかと・・・

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(江川崎に到着。ここでしばらくの小休止があった。運転手は駅舎にある「福利厚生施設」へ向かう。)
四万十川と言えば清流とともに「うなぎ」の名産でも知られている。浜名湖や鹿児島とともに日本を代表するうなぎの産地として、特に土用の丑の日などには皆様の近くに有る小売店などでその名をよく見かける事であろう。特にここ四万十川は文字通り、清らかな水の中で育んだうなぎのため、味の方は申し分ない!!
と、話がそれてしまったが、私の乗った列車は予土線の中心駅・江川崎で小休止。確か20分くらい停車時間があったため運転手は駅舎の方へ向かった。運転手にとっては「福利厚生」の僅かな時間であろう。
江川崎を出ると更に山深くなる印象であったが、民家もチラホラ。本来なら高知方面から特急が走り抜け宇和島まで到達するのであろうが、実際問題、予土線の特に江川崎~北宇和島間の線形がかなりの制約となる。せっかく繋げたのに若干勿体無い気もするが・・・

(同じく江川崎のホームから。ご覧のようにとても山深く、とても鉄道経営に適しているとは思えないが・・・)
別ルートでは現在の中村線~宿毛線(土佐くろしお鉄道)を通って宿毛より宇和島に抜けるルートがかつての建設予定線であったが、現在は完全に「夢」となってしまった。もちろん、開通していたら特急列車が運転される事であろうが。でも中村~宿毛間はよく工事を進めたと感心してしまう。よくぞ開通させた。もちろん、経営の方はなかなか難しい場面が多いであろうが・・・

(画像はウィキペディアより。北宇和島駅を遠望したシーンであるが、右から予讃線が合流する。そして両者はダブルクロスで処理される。)
吉野生や近永を過ぎると北宇和島に到着する。ここで予讃線と合流すると、次は終点・宇和島だ。先ほど述べた「宿毛線」もここ宇和島で合流予定であったが、現在は未成線となってしまった。もし宿毛線が開通していたら予土線はどうなっていたのであろうか。先代が、先に宿毛線を開通させていたら現在のJR四国の鉄道シーンも変わっていた事であろう。そんな事は当然なのだが、宇和島に到着した時に若干思った。宇和島駅を東からでなく、西側から入線してきたらどんな風景になっていたのかと・・・

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レールファン復活後、初めての単独遠征④ 土讃線(後編)
2014-11-17
高知を後にした私は「南風」で更に西へ。窪川から予土線に乗り換えるが、途中の土佐久礼で下車。付近にある「大正町市場」へ向かった。私の訪問したのは9月・・・土佐と言えば、そう「鰹」だ。さかなへんにかたいと書いて「カツオ」。この時期は「戻りがつお」と言って一番脂がのっていて美味。って、私は別にグルメ評論家でもなんでも無いのでこブログでは詳しく触れないが、駅から徒歩5分くらいの場所にあり大変便利だ。しかもかつお丼は確か600円くらい(当時)だったし、かつおを単品で発注したら何と400円(当時)!これには驚いた。普通にスーパーで売っている価格のまま飲食店で堪能できる・・・是非勧めの場所だ。ただ私の訪問時は残暑厳しい時期。とても徒歩での移動は短距離であってもなかりの体力を必要とした。できれば夏季以外での訪問がいいかも・・・

(現在は無人化された土佐久礼。無人駅ながら特急が停車する不思議な現象は、現在の鉄道シーンでは珍しくなくなった。)
土佐久礼から窪川に移動したのは「あしずり」だ。瀬戸大橋が開通し、四国は特急のネーミングが増えた。行き先ごとに「南風」「しおかぜ」であったが、瀬戸大橋開通後はそのネーミングを岡山発に変更し、従来の高松発を「しまんと」「いしづち」として愛称がプラスされた。更に区間運転で「あしずり」「宇和海」が増え、四国の特急のネーミングが多彩になった。というよりは急行がなくなってしまったのでその変化もあるであろう。

(同じく土佐久礼駅。側線が2本あるが、恐らく使用されていないであろう。昔ながらの風景は、まだまだ昭和の面影を残す。)
土讃線は窪川までで、ここから予土線に入る。正確に言うと若井からということになろうか。いや、もっと正確に言うと川奥信号場からが予土線という事になる。旧・中村線が第三セクターになりいささか複雑な心境であるが、前回訪問時の1984年には高松から夜行普通列車(正確には快速か)で一気に中村まで行った。窪川辺りでは朝日が新鮮で、実に初々しかった。そんな思い出も既に23年という月日が経過して・・・私も歳を取ったものだとつくづく思ってしまう。

(多分窪川での撮影と思ったが、ご存知「アンパンマン」。国鉄時代から比べ、車両も随分とバラエティになったものだ。)
後年(2012年)には第三セクターとなってから初めて「中村線」を訪れた。前回訪問時の「国鉄時代」は高松から夜行列車での直通であった。その時はグリーン車仕様の車両で、別料金なしの豪華版であった。そのため「18きっぷ」ながら優雅な旅であった。2012年訪問時は特急「しまんと」での訪問であった。今回紹介している2007年に訪問した旅は予土線のローカル仕様の単行列車だ。窪川~川奥信号場間ひとつとってもこんなにバリエーションに富んでいるのは素晴らしい。川奥信号場のダブルクロスをすり抜けると、早速名物の「ループ」を突き進む。「清流」の名に相応しい予土線の旅の始まりに相応しいプロローグであった。

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(現在は無人化された土佐久礼。無人駅ながら特急が停車する不思議な現象は、現在の鉄道シーンでは珍しくなくなった。)
土佐久礼から窪川に移動したのは「あしずり」だ。瀬戸大橋が開通し、四国は特急のネーミングが増えた。行き先ごとに「南風」「しおかぜ」であったが、瀬戸大橋開通後はそのネーミングを岡山発に変更し、従来の高松発を「しまんと」「いしづち」として愛称がプラスされた。更に区間運転で「あしずり」「宇和海」が増え、四国の特急のネーミングが多彩になった。というよりは急行がなくなってしまったのでその変化もあるであろう。

(同じく土佐久礼駅。側線が2本あるが、恐らく使用されていないであろう。昔ながらの風景は、まだまだ昭和の面影を残す。)
土讃線は窪川までで、ここから予土線に入る。正確に言うと若井からということになろうか。いや、もっと正確に言うと川奥信号場からが予土線という事になる。旧・中村線が第三セクターになりいささか複雑な心境であるが、前回訪問時の1984年には高松から夜行普通列車(正確には快速か)で一気に中村まで行った。窪川辺りでは朝日が新鮮で、実に初々しかった。そんな思い出も既に23年という月日が経過して・・・私も歳を取ったものだとつくづく思ってしまう。

(多分窪川での撮影と思ったが、ご存知「アンパンマン」。国鉄時代から比べ、車両も随分とバラエティになったものだ。)
後年(2012年)には第三セクターとなってから初めて「中村線」を訪れた。前回訪問時の「国鉄時代」は高松から夜行列車での直通であった。その時はグリーン車仕様の車両で、別料金なしの豪華版であった。そのため「18きっぷ」ながら優雅な旅であった。2012年訪問時は特急「しまんと」での訪問であった。今回紹介している2007年に訪問した旅は予土線のローカル仕様の単行列車だ。窪川~川奥信号場間ひとつとってもこんなにバリエーションに富んでいるのは素晴らしい。川奥信号場のダブルクロスをすり抜けると、早速名物の「ループ」を突き進む。「清流」の名に相応しい予土線の旅の始まりに相応しいプロローグであった。

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レールファン復活後、初めての単独遠征③ 土讃線編(前編)
2014-11-14
久々の高松であった。サンライズでのアプローチは実に新鮮。それもそのはず。以前にも述べているが、ここ高松、というより四国の訪問は1984年以来、実に23年振り(当時)であったからだ。しかも前回訪問時は瀬戸大橋など存在せず、横浜から船を使わずに、しかも列車を乗り換えずに寝台列車で高松に到着してしまうのが実に不思議な感覚だった。まるでMr.マリック張りのマジックにでも魅せられたような感じであった。

(以下、地上時代の高知駅を紹介しよう。まずはご存知「アンパンマン」。写真左側をご覧いただくとお分かり頂けると思うが、既に高架部分がほぼ完成している。訪問当時は全く予備知識などなかったが、本当に高架化直前に訪問したようだ。後年には完成後も訪問している。)
だが23年もの月日が流れると、高松駅の変貌ぶりも半端ではなかった。既に「1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅⑥ 」でも紹介したが、やはり「連絡船」がなくなった風景は一番インパクトがあった。そして、何といっても「電化」が高松の風景を変貌させた事であろう。かつては「非電化王国」と言われた四国にも、特に高松寄りに電車が出現し、高松駅独特の排気ガス臭くディーゼルエンジンがカラカラ音をさせ騒めく駅構内の印象が完全になくなった。若干高徳線の車両がその印象を継続しているが、かつてのそれほどでもないのでほとんど気にならない。実に静かな空気が流れていた。とは言え、私が高松に到着した時間帯はちょうど通勤時間帯。普通列車が到着すると一気にホームが黒山で埋め尽くされた。
そんな中、私は完全に観光気分で高松駅構内の飲食店でコーヒーブレイク。そして「みどり」でクーポンをフリーきっぷに変える。四国のJR全線乗り放題で特急も当日に座席に空席があれば指定席も乗れる優れものだ。

(そしてほぼ同じ角度からの「アンパンマン」がいないバージョン。新しい駅ができる場所はかつて多くの側線が張り巡らされていた場所だ。)
さて、私がサンライズから乗り換えこれから向かう先は高知である。私にとっての新鋭の2000系が使用されていた。なんたって23年振りのレールファン復活であったためこの2000系たる形式さえわからなかった。キハ185も使用されているが、それも私には馴染みが無い。私にとっての四国のイメージは完全にキハ80。高松駅に電車がいること自体が不思議でならない。そんな複雑な思いを秘めながら予讃線~土讃線へと進んでいく。坂出や宇多津などは完全に変わってしまったが、多度津は昔のままの風景。懐かしかった~。考えてみたら私がこの予讃線や土讃線はかつての訪問時は731Dの夜行列車での移動の時がほとんどであったので夜中のイメージが強く、それこそ土讃線に関しては景色などろくに見ていない。今回、朝から特急に乗り土讃線を行く風景は実に新鮮であった。もちろん山深い景色が連続するのは知識としてあったが、それを実感したのはほとんど初めての心境であった。特に新改や坪尻など、レールファンにとってはお馴染みの駅も、特急だといとも簡単に通過してしまうが、それでも「こんなふうになっているのか」と確認できる喜びが実に嬉しい。


(そしてこちらが改札風景。かつては2面3線で一番線は駅舎に接するSL時代に良く見られた形の駅であった。私が四国に初めて上陸した1982年もこの風景であった。)
「後免」を過ぎると高知に到着。もちろん23年振りであった。しかし私を待ち構えていたのは23年前と同じ姿をした高知駅のホーム!!懐かしさ満載であった。ここであらかじめピックアップしておいたスポットへ出向くのだが・・・それより、懐かしさ溢れる高知駅に若干の変化があった。それは、かつて側線が多く張り巡らされていた場所に新たに駅が造られている事だ。そう、高知駅の高架化工事が進めれれていたのだ。という事は、私の降りたこのホームを始め、駅舎や跨線橋などは全て見納めとなる。この先に出てくる松山などもいずれ高架化される事であろう。懐かしさと新しさが同居する今回の旅は、私を少年時代に戻らせてくれたと同時にレールファン再出発の人生において、私の背中をポンと押してくれた・・・そんな高知駅の風景であった。

(既にいつ開業してもおかしくなくらいの出来栄えであった。もちろん現在は地上時代のホームは無い。)

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(以下、地上時代の高知駅を紹介しよう。まずはご存知「アンパンマン」。写真左側をご覧いただくとお分かり頂けると思うが、既に高架部分がほぼ完成している。訪問当時は全く予備知識などなかったが、本当に高架化直前に訪問したようだ。後年には完成後も訪問している。)
だが23年もの月日が流れると、高松駅の変貌ぶりも半端ではなかった。既に「1984年8月・「青春18」、88ヶ所は無理だったけど四国国鉄線全線制覇の旅⑥ 」でも紹介したが、やはり「連絡船」がなくなった風景は一番インパクトがあった。そして、何といっても「電化」が高松の風景を変貌させた事であろう。かつては「非電化王国」と言われた四国にも、特に高松寄りに電車が出現し、高松駅独特の排気ガス臭くディーゼルエンジンがカラカラ音をさせ騒めく駅構内の印象が完全になくなった。若干高徳線の車両がその印象を継続しているが、かつてのそれほどでもないのでほとんど気にならない。実に静かな空気が流れていた。とは言え、私が高松に到着した時間帯はちょうど通勤時間帯。普通列車が到着すると一気にホームが黒山で埋め尽くされた。
そんな中、私は完全に観光気分で高松駅構内の飲食店でコーヒーブレイク。そして「みどり」でクーポンをフリーきっぷに変える。四国のJR全線乗り放題で特急も当日に座席に空席があれば指定席も乗れる優れものだ。

(そしてほぼ同じ角度からの「アンパンマン」がいないバージョン。新しい駅ができる場所はかつて多くの側線が張り巡らされていた場所だ。)
さて、私がサンライズから乗り換えこれから向かう先は高知である。私にとっての新鋭の2000系が使用されていた。なんたって23年振りのレールファン復活であったためこの2000系たる形式さえわからなかった。キハ185も使用されているが、それも私には馴染みが無い。私にとっての四国のイメージは完全にキハ80。高松駅に電車がいること自体が不思議でならない。そんな複雑な思いを秘めながら予讃線~土讃線へと進んでいく。坂出や宇多津などは完全に変わってしまったが、多度津は昔のままの風景。懐かしかった~。考えてみたら私がこの予讃線や土讃線はかつての訪問時は731Dの夜行列車での移動の時がほとんどであったので夜中のイメージが強く、それこそ土讃線に関しては景色などろくに見ていない。今回、朝から特急に乗り土讃線を行く風景は実に新鮮であった。もちろん山深い景色が連続するのは知識としてあったが、それを実感したのはほとんど初めての心境であった。特に新改や坪尻など、レールファンにとってはお馴染みの駅も、特急だといとも簡単に通過してしまうが、それでも「こんなふうになっているのか」と確認できる喜びが実に嬉しい。


(そしてこちらが改札風景。かつては2面3線で一番線は駅舎に接するSL時代に良く見られた形の駅であった。私が四国に初めて上陸した1982年もこの風景であった。)
「後免」を過ぎると高知に到着。もちろん23年振りであった。しかし私を待ち構えていたのは23年前と同じ姿をした高知駅のホーム!!懐かしさ満載であった。ここであらかじめピックアップしておいたスポットへ出向くのだが・・・それより、懐かしさ溢れる高知駅に若干の変化があった。それは、かつて側線が多く張り巡らされていた場所に新たに駅が造られている事だ。そう、高知駅の高架化工事が進めれれていたのだ。という事は、私の降りたこのホームを始め、駅舎や跨線橋などは全て見納めとなる。この先に出てくる松山などもいずれ高架化される事であろう。懐かしさと新しさが同居する今回の旅は、私を少年時代に戻らせてくれたと同時にレールファン再出発の人生において、私の背中をポンと押してくれた・・・そんな高知駅の風景であった。

(既にいつ開業してもおかしくなくらいの出来栄えであった。もちろん現在は地上時代のホームは無い。)

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レールファン復活後、初めての単独遠征② サンライズ(後編)
2014-11-11
さて、私の乗せた「寝台電車」は夜の東海道を突き進む。普段見慣れた景色もサンライズの窓から見るとかなり違った景色に見えたのは気のせいか・・・通過する藤沢や茅ヶ崎のホームも何だか違う駅に見える。既にこの旅の2ヶ月前には親友「おさる」と飯田線へ遠征に出かけたが、その時乗車した「ムーンライト」から見た景色とはまた違った感覚だ。あれってなんだろう・・・何か「第六感」的な感性からくるものなのか、不思議と「アート」のような景色が描かれていた。

(後年に乗車した「サンライズツイン」。サンライズの特徴は、なんといってもノビノビ座席以外は個室である事だ。このサンライズツインはかなり人気が高く、シーズンにはプラチナ的存在だ。)
サンライズはその後熱海・沼津・富士・静岡・浜松・・・と停車していく。東京発のブルートレインが全廃された現在、こういった駅にこまめに停車していくのは当然の事であろうが、かつてブルートレインが全盛時代はこれらの駅は振り分けて停車していた。だが現在は、旅立っていった仲間のブルートレインの分までサンライズが代表してくれている。そして、たまたま今挙げた駅、全て静岡県にある駅だ。現在は牧之原台地に空港ができたが、最近までは静岡県に空港がなかったため寝台特急が重宝された時代もあったし需要も高かった・・・それなりに。中でも沼津と富士は新幹線が停車しないためこの寝台特急の停車はそれなりに意味があったかも知れない。

(画像はウィキペディアより。これが「ノビノビ座席」であるが、ご覧の通り、ほぼ寝台に近い。簡易毛布も付いており、短距離乗車にはなかなか良い。が、しかし・・・東京~高松までだと若干勇気がいるかも。)
とは言うものの、浜松では既に深夜1時台。寝台特急を利用するにはいささか抵抗ある時間帯でもあろうが、次の停車駅が姫路だ!朝5時台の到着になる。この間、日本を代表する都市を、時刻表上ではあっけなく通過していく。もちろん、乗務員交代などの意味もあってか豊橋・米原・岐阜・大阪には(下り列車のみ)運転停車するが、私の記憶は大阪のみ!それ以外は「ノビノビ」ながら快適な安眠のようだった。
久々に見る大阪駅・・・実に新鮮だしかつてと様子が変わっていた。大阪環状線の車両が始発の時間を今か今かと待ちわびている。そして姫路・・・寝ながらの状態で窓を見てみると高架上に新幹線乗り場が見えた。つまり在来線の高架工事の進行中であったのだ。側線が多数張り巡らされだだっ広かった構内も現在はスッキリコンパクトにまとまった感があるが、私のこの時のサンライズで見た姫路駅は地上時代の見納めであったのだ。

(高松に到着した「サンライズ」。連絡船の設備も無くなり、駅構内はいささかコンパクトになった印象である。かつての「非電化王国」も現在はご覧の車両が活躍している。)
外も既に明るくなっており、上郡辺りの景色はローカルな雰囲気が充分に漂い、普通列車の設定本数を時刻表で確認するとこの景色も納得できる材料であった。
岡山に近づくと車内放送の再開だ。周囲の乗客も身支度を始めた。そして岡山に到着すると挙って下車!一気にノビノビ座席が回送状態になった。私の参戦した日程は平日。なのにそこそこの乗車率でほぼフルハウス状態だったのは、この列車の存在意義がお分かりであろう。特に女性のグループなどが目立っていたのが素晴らしい。岡山で一気に下車したのは、後年も私自身経験したが、やはり「新幹線」の存在が大きい。ここから西へ東へ・・・北へは「出雲」が切り離される。
数えるくらいの乗客を乗せ瀬戸大橋を渡る・・・恐らく「サンライズ」のネーミングはこの瀬戸大橋付近を通過するシーンがイメージされていた事であろう。眩しいくらいに煌く朝日を浴びながらかつてのイメージを一新した寝台特急は「高松」という名のゴールが近づくと、周囲に広がる数多くの側線をかき分けながら自身の居場所を求めスローダウンしていった。

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(後年に乗車した「サンライズツイン」。サンライズの特徴は、なんといってもノビノビ座席以外は個室である事だ。このサンライズツインはかなり人気が高く、シーズンにはプラチナ的存在だ。)
サンライズはその後熱海・沼津・富士・静岡・浜松・・・と停車していく。東京発のブルートレインが全廃された現在、こういった駅にこまめに停車していくのは当然の事であろうが、かつてブルートレインが全盛時代はこれらの駅は振り分けて停車していた。だが現在は、旅立っていった仲間のブルートレインの分までサンライズが代表してくれている。そして、たまたま今挙げた駅、全て静岡県にある駅だ。現在は牧之原台地に空港ができたが、最近までは静岡県に空港がなかったため寝台特急が重宝された時代もあったし需要も高かった・・・それなりに。中でも沼津と富士は新幹線が停車しないためこの寝台特急の停車はそれなりに意味があったかも知れない。

(画像はウィキペディアより。これが「ノビノビ座席」であるが、ご覧の通り、ほぼ寝台に近い。簡易毛布も付いており、短距離乗車にはなかなか良い。が、しかし・・・東京~高松までだと若干勇気がいるかも。)
とは言うものの、浜松では既に深夜1時台。寝台特急を利用するにはいささか抵抗ある時間帯でもあろうが、次の停車駅が姫路だ!朝5時台の到着になる。この間、日本を代表する都市を、時刻表上ではあっけなく通過していく。もちろん、乗務員交代などの意味もあってか豊橋・米原・岐阜・大阪には(下り列車のみ)運転停車するが、私の記憶は大阪のみ!それ以外は「ノビノビ」ながら快適な安眠のようだった。
久々に見る大阪駅・・・実に新鮮だしかつてと様子が変わっていた。大阪環状線の車両が始発の時間を今か今かと待ちわびている。そして姫路・・・寝ながらの状態で窓を見てみると高架上に新幹線乗り場が見えた。つまり在来線の高架工事の進行中であったのだ。側線が多数張り巡らされだだっ広かった構内も現在はスッキリコンパクトにまとまった感があるが、私のこの時のサンライズで見た姫路駅は地上時代の見納めであったのだ。

(高松に到着した「サンライズ」。連絡船の設備も無くなり、駅構内はいささかコンパクトになった印象である。かつての「非電化王国」も現在はご覧の車両が活躍している。)
外も既に明るくなっており、上郡辺りの景色はローカルな雰囲気が充分に漂い、普通列車の設定本数を時刻表で確認するとこの景色も納得できる材料であった。
岡山に近づくと車内放送の再開だ。周囲の乗客も身支度を始めた。そして岡山に到着すると挙って下車!一気にノビノビ座席が回送状態になった。私の参戦した日程は平日。なのにそこそこの乗車率でほぼフルハウス状態だったのは、この列車の存在意義がお分かりであろう。特に女性のグループなどが目立っていたのが素晴らしい。岡山で一気に下車したのは、後年も私自身経験したが、やはり「新幹線」の存在が大きい。ここから西へ東へ・・・北へは「出雲」が切り離される。
数えるくらいの乗客を乗せ瀬戸大橋を渡る・・・恐らく「サンライズ」のネーミングはこの瀬戸大橋付近を通過するシーンがイメージされていた事であろう。眩しいくらいに煌く朝日を浴びながらかつてのイメージを一新した寝台特急は「高松」という名のゴールが近づくと、周囲に広がる数多くの側線をかき分けながら自身の居場所を求めスローダウンしていった。

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レールファン復活後、初めての単独遠征① サンライズ(前編)
2014-11-08
と言っても妻が同伴したが・・・
2007年、私はレールファンを「復活宣言」した。1984年以降、私はしばらくレールファンを休業していた。その期間、なんと23年!これは莫大な時間と膨大な感性の変化、そして自身が年齢を重ね得た価値観・・・どれをとっても中学生とは全く違う形での鉄道との接し方となる。この年の2月に寝台特急「北陸」で金沢方面を旅したが、この時はまだレールファン復活の「余震」に過ぎなかった。そして7月に私の大親友である「おさる」とともに飯田線の秘境駅めぐりをしたのをキッカケに再度全国制覇を目指した。
日帰りでは何度か制覇の旅に出たが、今回紹介する四国への旅は宿泊しての遠征では復活後初となる。そんなわけで私が選んだ地は先述した「四国」であった。理由は簡単だ。なんといっても「サンライズ」を初体験する事。とは言え個室の確保を全く考えておらず、全く初体験の「ノビノビ」を視野に入れたのだ。横浜から高松まで「ノビノビ」とは・・・今考えると全く無謀な選択であったが、当時はどうしても体験してみたかった。

(画像はウィキペディアより。かつてのイメージを一新した「寝台特急」。サンライズのネーミングも実に新鮮。)
2007年9月、相鉄線で横浜に向った。今回の旅は1泊2日だが3連休を取得したので三日目はフリーとなる。そして夜行を使い四国入りするのだから時間を有効に使えるのが最大の特徴であった。久々の寝台特急・・・ブルブル震えてくるくらいに興奮する。この感覚、久々だ。1978年に私は寝台特急に初めて乗車したが、それと全く同じ感覚!実に初々しい。
横浜駅は通勤時間帯のいつもの帰宅風景。少々時間があるので構内にあるコーヒーショップで一休み。「コーヒーショップで」というところが既に中学時代の私と異なるところだ。

(東京発のブルートレインであった「出雲」は、同じく「瀬戸」とともに寝台特急テコ入れの対象となった。サンライズになり成功した事例と言えよう。画像はウィキペディアより。)
サンライズはご存知「出雲(瀬戸)」が電車化された寝台特急だ。住宅メーカーが設計に携わり、今までにない斬新なデザインと空間に包まれた新しいタイプの寝台電車だ。先輩の583系寝台電車とは全く性質が異なり、時代を反映している個室主体の編成は年間通しても利用率が高い。更に先述したリーズナブルタイプの「ノビノビ座席」という斬新なアイデアも搭載されて短区間の利用もしやすくなった。東京~高松に関しては、航空の時間帯の最終便発後に出発をして、翌日の始発便の現地到着時間前に列車が到着するように時刻が設定された。
と、事前準備も万端に運転された「サンライズ」も登場してから既に17年が経過し車両的にそろそろ曲がり角に来ているのかと思われるが・・・

(こちらの画像もウィキペディアより。ご覧いただかなくてもお分かりであろうが、この電車は2階建てであるのが特徴的だ。限界までの空間を余す事無く最大限に活用している。)
そんなサンライズをコーヒーブレイク終了後、神奈川県を代表する駅・横浜から四国は高松に向った。東京から乗車しても良かったが、横浜からの乗車もまた新鮮。そして初めての経験。いつもと違う雰囲気に若干緊張気味であった。切符に記された席番へ向かうのもまた新鮮。そして「初」ノビノビ座席もまた新鮮。寝台特急へ久々の乗車は新鮮づくしで鮮度抜群であった。もちろん寝られるわけがない。が、個室ではないため若干周りに気を使いながら静かな晩酌が行われた。
だが・・・やはり「ノビノビ」は開放B寝台よりも周りに気を使う・・・ほぼ寝台のような設備であるのにやはり「座席」の感覚のようだ。

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2007年、私はレールファンを「復活宣言」した。1984年以降、私はしばらくレールファンを休業していた。その期間、なんと23年!これは莫大な時間と膨大な感性の変化、そして自身が年齢を重ね得た価値観・・・どれをとっても中学生とは全く違う形での鉄道との接し方となる。この年の2月に寝台特急「北陸」で金沢方面を旅したが、この時はまだレールファン復活の「余震」に過ぎなかった。そして7月に私の大親友である「おさる」とともに飯田線の秘境駅めぐりをしたのをキッカケに再度全国制覇を目指した。
日帰りでは何度か制覇の旅に出たが、今回紹介する四国への旅は宿泊しての遠征では復活後初となる。そんなわけで私が選んだ地は先述した「四国」であった。理由は簡単だ。なんといっても「サンライズ」を初体験する事。とは言え個室の確保を全く考えておらず、全く初体験の「ノビノビ」を視野に入れたのだ。横浜から高松まで「ノビノビ」とは・・・今考えると全く無謀な選択であったが、当時はどうしても体験してみたかった。

(画像はウィキペディアより。かつてのイメージを一新した「寝台特急」。サンライズのネーミングも実に新鮮。)
2007年9月、相鉄線で横浜に向った。今回の旅は1泊2日だが3連休を取得したので三日目はフリーとなる。そして夜行を使い四国入りするのだから時間を有効に使えるのが最大の特徴であった。久々の寝台特急・・・ブルブル震えてくるくらいに興奮する。この感覚、久々だ。1978年に私は寝台特急に初めて乗車したが、それと全く同じ感覚!実に初々しい。
横浜駅は通勤時間帯のいつもの帰宅風景。少々時間があるので構内にあるコーヒーショップで一休み。「コーヒーショップで」というところが既に中学時代の私と異なるところだ。

(東京発のブルートレインであった「出雲」は、同じく「瀬戸」とともに寝台特急テコ入れの対象となった。サンライズになり成功した事例と言えよう。画像はウィキペディアより。)
サンライズはご存知「出雲(瀬戸)」が電車化された寝台特急だ。住宅メーカーが設計に携わり、今までにない斬新なデザインと空間に包まれた新しいタイプの寝台電車だ。先輩の583系寝台電車とは全く性質が異なり、時代を反映している個室主体の編成は年間通しても利用率が高い。更に先述したリーズナブルタイプの「ノビノビ座席」という斬新なアイデアも搭載されて短区間の利用もしやすくなった。東京~高松に関しては、航空の時間帯の最終便発後に出発をして、翌日の始発便の現地到着時間前に列車が到着するように時刻が設定された。
と、事前準備も万端に運転された「サンライズ」も登場してから既に17年が経過し車両的にそろそろ曲がり角に来ているのかと思われるが・・・

(こちらの画像もウィキペディアより。ご覧いただかなくてもお分かりであろうが、この電車は2階建てであるのが特徴的だ。限界までの空間を余す事無く最大限に活用している。)
そんなサンライズをコーヒーブレイク終了後、神奈川県を代表する駅・横浜から四国は高松に向った。東京から乗車しても良かったが、横浜からの乗車もまた新鮮。そして初めての経験。いつもと違う雰囲気に若干緊張気味であった。切符に記された席番へ向かうのもまた新鮮。そして「初」ノビノビ座席もまた新鮮。寝台特急へ久々の乗車は新鮮づくしで鮮度抜群であった。もちろん寝られるわけがない。が、個室ではないため若干周りに気を使いながら静かな晩酌が行われた。
だが・・・やはり「ノビノビ」は開放B寝台よりも周りに気を使う・・・ほぼ寝台のような設備であるのにやはり「座席」の感覚のようだ。

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熊に逢ったらどうするか⑬ 比布
2014-11-05

宗谷本線にあるここ「比布」は、私の世代では「エレキバン」のCMで大変に知名度が高い。特に会長が登場し商品名を言う際に列車が通過するシーンが印象的であったが、当時はかなり話題となり、詣に行く観光客も少なくなかった。
かつては急行停車駅であったが「宗谷」が特急に格上げされてからは快速以外の優等列車の停車はなくなってしまった。しかしながら当駅始発の列車設定が多く、完全に旭川の通勤通学圏内であろう事がわかる。とは言うものの、北海道特有の景色も広がっており、駅前に若干の集落があるものの、見方によっては秘境駅と勘違いしてしまうほど長閑な時間が過ぎていく雰囲気である。
「ピップ」の名の由来は、ウィキによると「アイヌ語のピプまたはピピから出たもので『沼の多いところ』あるいは『石の多いところ』の意といわれている。昔は湿地帯が多かったことや、石狩川の川床には石が多かったためピプ、ピピが転訛し音訳して名付けられたと考えられている。」となっている。また、かつては駅舎に喫茶店が入居していたが、現在は無い。
と、ややレポート気味になってしまったが、2014年の熊シリーズの旅行程において一番最初にコンタクトした駅であった。正確に言うと旭川が最初のコンタクトであるが、こういった「北海道らしい」駅はいつ来ても、いつ見ても素晴らしいと思うのは私だけであろうか。


駅舎はこんな色に変身していた。かつてのイメージよりも可愛らしくなったが、併設の喫茶店はなくなってしまった。




ホーム側から眺めたほうが風情を感じる。待合室は極一般的な雰囲気であるが、これがシーズンになると北海道特有の気候からお客様の身を守る「手段」として役立つ。





私が到着した時にはちょうど当駅始発の列車が停泊していた。列車交換も行われたが、残念ながら乗客は僅少・・・



跨線橋も昔ながら。「会長」も利用したホームも当時のままほとんど変わっていないと思われる。

こうして「熊シリーズ」の旅はスタートを切ったわけであるが、既にこのブログ内ではこの旅の模様を紹介している。私が初めて鉄道を利用せずに行なった鉄道旅。最初のコンタクトが「ピップ」とは特に意味が無かったのだが、こうして訪れてみると北海道独特のカラーはいつ見ても私の心を和ませてくれる。初夏の新緑に染まる北の大地の風景は、今でも「昭和」が残る安らぎの場でもあった。

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姿なき挑戦者⑫ 夜行普通列車・はやたま(後編)
2014-11-02

(非電化区間の「はやたま」はこのような機関車が牽引していた。PHOTO:1980年代国鉄撮影日記)
3時間ほどの時間、亀山で何をしていたか記憶にないが、少なくとも街を散策したりグルメスポットなどを訪問した記憶は間違っても無い!と自慢する事でもないが・・・
さて、私の乗せた列車は定刻に亀山を出発した。途中、一身田や津付近までは学生が乗車していていささか賑やかであったが、という私も当時は学生であったが、見た感じ野球部と思われるガタイの良い高校生ばかり集団で座席を占拠。私は当時中学生であったため若干身の危険を感じたが・・・
津や松阪あたりでは当然乗客の入れ替わりが激しいが、並走する近鉄のそれには及ばないものであろう。さりげなく長閑な時間が旧型客車の車内に繰り広げられていた。

(10系寝台を連結するのは新宮~天王寺間。この区間のみ愛称「はやたま」が付く。PHOTO:1980年代国鉄撮影日記)
新宮までは尾鷲か熊野市くらいしか区間を代表する駅が無い印象であるが、逆に私の好きな「地味な駅」が豊富に配置されている雰囲気のためいずれピックアップして訪問してみたい。もし実現すると・・・32~33年ぶりの訪問になる!なんだか新鮮だ。
とは言え、新宮に着く頃には既に夜の時間帯。実は新宮~天王寺間のみが寝台車を連結するため、亀山~新宮間は愛称は無く、新宮~天王寺間のみ「はやたま」として変身するのだ。更にここから天王寺までは電化区間となるため機関車の交換も行われる。もっと言ってしまえば亀山~新宮間は単なる「普通列車」の役割をしているに過ぎない。とは言え、亀山~天王寺を約12時間もかけて走るのだから・・・考えてみれば常識はずれの移動手段であろう。「18きっぷ」のシーズン以外に始発から終点まで利用する人はどれくらい存在したのであろうか。

(PHOTO:1980年代国鉄撮影日記)
それはともかく、新宮では連結作業のため少々停車時間があった。私はすかさず入場券を購入するため小走りで駅舎に向かう。もちろん連結作業の写真などを収めたはずであるが・・・現在は所有していないので皆様に公開できないのが申し訳なく思う。
新宮を出ると主要駅が一気に増える。紀伊勝浦、串本、白浜、紀伊田辺、御坊・・・だが、私の乗車した列車がこの区間を通過するのは深夜の時間帯になる。これらの主要駅のみに停車する快速列車のような形で進行していくが、私は当時の記憶が全く無い。つまり「熟睡」していたのであろう。若干和歌山で目が覚めているが確か3時台。必要な部分のみ明かりが点いていて他は真っ暗な駅構内に人影はなかった。
寝台車にはどんな時間が過ぎているのであろう・・・10系客車の車内が凄く気にはなっていたが、天王寺に到着したのが朝5時丁度。寝台車で過ごすには少し物足りない気がするかも。この後、私は大阪環状線で大阪に抜けた。が、内回りか外回りか、乗車した列車を覚えていない。そんな事どうでもいいのだが、それより天王寺に旧型客車が停車している・・・10系寝台車が停車している・・・こんなアンマッチな姿、現在では全くお目にかかれない。

(PHOTO:1980年代国鉄撮影日記)
この「はやたま」であるが、天王寺発の列車は満員御礼の大盛況であったと聞く。事実、晩年は客車から電車に変わり天王寺から新宮までに区間が短縮されたが新宮発天王寺行の列車設定はなかった。つまり片道のみの夜行列車に変身したのだ。だが寝台車の連結は廃止され愛称もなくなってしまった。そこまでして残したのはやはり若干ながら需要があったのであろう。もちろん現在その姿は無いが、客車列車であった頃の遠い記憶が思い出される。そう、昨日の事のように。
もう30年以上前の話であるが、先述通り私の場合は「30年くらい前」か「現在」しか旅の記録がない。バブル期の記録がほとんど無く、こういった古い話が度々このブログに登場する。私と同世代くらいの方は私のブログを観て「懐かしい」と感じられるであろう。反対に若い世代、特に平成生まれの方などは全くと言っていいほど私と同じ経験が無いためむしろ古すぎてわからないかも知れない。しかし、そのわからないかも知れない部分をなんとなく感じ取っていただき、そして何かを掴み取っていただければ幸いである。
以前にも述べたが、私はひとつでも多くの経験をしたい。そして自身が晩年を迎えた特「あの時こんな旅をしたなぁ」と懐かしみ、振り返れるような旅をしたい・・・

(深夜の和歌山に到着。私の乗車時は確か3時台であった。主要駅もこの時間帯は昼間の賑やかさは無い。PHOTO:1980年代国鉄撮影日記)
人間は、何か新しいことをしようとする時「次回からやろう」とか「来年からはじめよう」とかやたらと理由をつけて後回しにする場合が多い気がする。それはそれでいいのだが、後回しにするとやらない場合が多い。だが、もし実行した場合「なんでもっと早くやらなかったのか?」と自問自答する。そう「やりたいな」と思ったら「今でしょう!」であろう。「いつかやろう」では人間はやることは少ない。「いつか」ではなく「やるなら今!」だと思う。思ったときに実行しなければ後にできなくなってしまうかも知れない。一歩踏み出す勇気。バンジージャンプのように、飛び込む前は怖いけど、飛び込んでしまえば「気持ちいい!!」かも知れない。
私の過去に経験してきた多くの旅は、結果論であるが現在はほぼ不可能な経験を多くしてきた。だからこれからも「今」を大事にして、そして今しかできない旅をこれからも積極的にしていきたい。そしてその一部でも皆様に紹介できたら、これは素晴らしい事であろう。
今回の「はやたま」の記事を書くにあたって「はやたま」の写真が全くと言っていいほど紛失し手元に無いため「1980年代国鉄撮影日記」の管理人様よりご協力いただきました。この記事のすべての写真は「1980年代国鉄撮影日記」よりの転用です。この場を借りまして、ご協力御礼申し上げます。

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