更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>②

日向市も高架駅になった。全く予備知識がなかったが、ちょうどこの頃に私も目が覚めてきた。既に外は明るくなっている。そして島式ホームに生まれ変わった日向市駅では実に多くの乗客がホームに列を作っていた。コロコロバッグを持っている乗客が多く、ほとんどの人が始発列車として、そして空港アクセスとして利用しているのが容易にわかる。中には学生もおり、座席に着くなり、早速参考書のような書物を開き自身の道を追求していた。そうか・・・最近の地方の学生は通学に特急列車を使うんだなぁ・・などと羨みながら、私は朝の酎ハイを空けていた。

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(画像はウィキペディアより現在の日向市駅。ウィキでは旧駅舎も掲載されていたが、とても昭和的な駅舎であった。1978年に乗った寝台特急「富士」も日向市に停車したが、その時に初めてこの駅の存在を知った。当時の私にしてみたらかなり地味な印象であったが、月日が経ち感性も変わった私が再びタイムマシンで当時の日向市駅を訪れたらどう感じるであろうか・・・)

宮崎も高架化されスリムになり機能的に生まれ変わった。久々に、というより初めての「夜行特急列車」は実にこの気だるさが良い。かつて私が東北などに放浪していた時に乗った夜行列車に近い感覚であった。だが、その当時の夜行列車はリクライニングなどは当然皆無であったが・・・
そして宮崎空港に到着。私にとってこの宮崎空港駅は全く新しい存在だ。小倉から乗り換えなしで来れるのも良い。更にサプライズだったのが、今乗ってきた「ドリーム」が折り返し宮崎行きの普通列車に変身する事であった。思わず空港駅の改札職員に「○○時発の普通列車って、これ(ドリーム)が折り返すんですか?」と聞いてしまった。しかしながら、駅員さんに軽くうなずかれては・・・私の23年間のブランクは一体・・・

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(何度も登場して申し訳ない写真であるが・・・宮崎空港にての「ドリーム」は今回紹介の旅で収めたものである。折り返しこの列車が普通列車になるとは実に贅沢!)

南宮崎で日南線に乗り換える。それも実に新鮮・・・であるが、宮崎発であったので座れるかどうかの不安があった。が、長年の経験と感がこの時に活きた!実に見事に的中。列車内はまるで午前8時頃の小田急線上り急行列車のようであった。旅先にて立ち席・・・実にいい経験であった。そんな列車も日南を過ぎる頃には典型的な「ローカル線」の風景になっていた。油津で更に先に進むために乗り換えるが、降りた乗客は4~5組くらいであったろう。

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(油津は日南線の中心駅。実際に日南市の市街地の南西くらいに位置し利用者も多い。側線が何本かあった名残が見られる。)

油津から先に向かう列車の乗客はそれこそ2~3組であった中、私が日南線で一番訪問してみたかったのが終点の志布志であった。志布志線と大隅線を失いたった一面のホームになってしまった姿は、昔の志布志駅を知る者にしてみたら全く信じられない光景だ。現在の志布志駅は以前の場所より若干日南寄りに移転しているが、そのかつての跡地は現在商業施設や駐車場になっている。だが、その空間はかつて国鉄時代の志布志駅であった空間とひと目で解るものであった。もちろん私は現役時代に訪問はできなかったが、なぜか懐かしさが蘇ってきた。実に不思議な感覚であった。

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(油津駅の駅舎を撮影してみた。油津と言えば付近に漁港もあり、この記事がアップされる頃には黄肌やびんちょうなどのマグロが旬を迎えていることであろう。もちろん「油津産」もスーパーなどの店頭に並んでいるはずだ。)

その場所からちょっとした狭い道を行くと都城や鹿屋方面へ向かうバス乗り場がある。もちろん、普通なら駅前の広い道を行くのであるが、私はあえて狭い路地のような道から行ってみた。事前にグーグルマップでリサーチしておいたのだ。南国をイメージさせてくれるかつての志布志駅は、なんとなく「故郷」の匂いを感じさせてくれる・・・そんな異次元的な空間であった。



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更に長期連載になりそうな九州鉄道路線全線制覇<PART2>①

さて、今回紹介する九州の旅は私がレールファンを復活しての九州制覇第2弾となった。今回の旅は、若干小銭ができたため急遽予定を立てた。日程的には2010年5月の3日間、GWも終わり世間的に行楽や帰省などのイベントが落ち着いている時期だ。つまり普段の生活の中で私は連休を取得しての旅となったわけだ。今回の目玉は「はやとの風」~「いさぶろう・しんぺい」と「ゆふいんの森」を初体験する事。だが、今回の旅は私の九州制覇旅行初のトラブルに遭遇することになった・・・とは言え、1983年の東北を始め、私は数々のトラブルを乗り越えてきた経験と知恵と「野生の感」がある。そんな私が培った英知をフルに発揮した今回の旅は、これまた初めての経験である「ドリームにちりん」を使うというアドベンチャー的な旅となった。私は旅をする時、常に新しい事・経験していない事を取り入れている。今回もこの「ドリーム」を始め初体験が盛りだくさんだ。という事で、今回は仕事を午前中に切り上げ、新横浜から新幹線に飛び乗ったのが午後6時近かった時間帯である。

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(新横浜から新幹線で一路小倉へ。飛行機を使わず、地上の交通手段で九州へ向かうのは実に新鮮。)

夜の時間帯に下りの新幹線に乗車するのも初めての経験。なんとなく実に新鮮。だが、さすがの新幹線も新大阪を過ぎると徐々に乗客が減っていき、博多に着く頃には半分貸切状態であった。新幹線で小倉に着いたのが23時40分。すごい時間だ。乗り換える列車は23時52分発「ドリームにちりん」である。新幹線から在来線に乗り換えるのに12分・・・実にスリリングであったが、意外にも余裕があった。だが、それこそ意外に新幹線から「ドリーム」に乗り換える乗客が少なくない。自由席には長蛇とは言わないがそれなりの列ができている。果たして座れるのであろうか。しかも途中の小倉からの乗車だし・・・心配は無用であった。私の乗った車両はそれほど乗客もおらずほとんど貸切状態であった。

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(この区間での今回の旅のフォトがなかったので過去の画像での紹介でよろしく・・・という事で、これは1978年に寝台特急「富士」で訪問した際の一枚である。「温泉」と付けなくても温泉街であるとわかる地名は日本に数多くあるが、ここ別府もその一つだ。)

ドリームにちりん」については以前にも紹介しているのでそちらを参照にしていただきたいが、小倉から乗車後、早速車掌が回ってきた。しかも若い女性である!しかも夜の時間帯の勤務とは・・・大丈夫なのか?とよからぬ心配をしてしまったが、中津に着く頃には既に私の乗った車両は私達だけになってしまった。そう、小倉からの乗客のほとんどは「終列車」としてこのドリームを利用しているようだ。私のように車内改札の際に行き先を「空港まで」と伝える乗客はそう多くないであろう。もちろん全くのゼロという事ではないが、基本的に中津~日向市間はほとんど乗客が私のような「もの好き」などがシェアしているようなものかも知れない。

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(同じく1978年の延岡である。さて・・・現在と比べていかがであろう。今回の旅でこの延岡は未明の訪問であったため状況がわからなかった。写真の1978年当時とどれくらい変わっているのか気になる。もちろん「貨物」の姿はないであろうが・・・)

大分では地上ホームにいた。1時間くらいの停車時間があったが、私はほとんど仮眠状態で記憶が意識がモウロウとしていた。だが、この地上時代も終焉を迎えるべく、半分完成した高架ホームを見上げる形で実に見事に堂々と仁王立ちしていた。「2日後に来るよな」などと心の中でつぶやきながら高架ホームを見上げるとは、意識がモウロウとしていないではないか!そんな印象深い大分駅であったが、現在は全てが完成し立派な高架駅になったと聞いた。私が大分駅に初めて訪れたのは1978年の寝台特急「富士」乗車時の事であった。もちろん下車はしていないが、ここ大分で後ろ何両か切り離し身軽になってい西鹿児島(当時)まで向かったのを覚えている。あれから30年以上が経ち再び訪れた・・・実に素晴らしく懐かしかった。


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廃止路線を訪ねて④ 清水港線(リメイク版)<後編>

何の工場かは分からないが、線路の両脇を壁のように固められ、引込み線が次から次へと枝を別れしていく。2両の客車はいうまでも無く「おまけ」であるが、そのおまけに乗車していた客は170人ほどで、乗車率に換算すると40%くらいになる。学校が休みのせいもあって学生は僅少である。では誰が乗っているのか・・・もうお分かりであろう、私の様な物好き連中である。そんな列車は、最初の停車駅「清水埠頭」に到着。工場と工場の間に、辛うじてスペースを見つけたかのような造りだ。乗降客は皆無!やがて何事も無かったように列車は動き出した。先ほど混合列車ということには触れたが、旧型客車の中間車両のため、最後尾は連結部の通路がむき出しになっており、一歩間違えば「あの世への招待」である。しかしここから観る景色は実にスリリングで、いわゆる「逆かぶりつき」が体験できる。そんな中、全国でも珍しい「可動橋」を渡る。その名の通り「動く橋」で、舟が通るときは橋が上に上がり船が通れるという仕組みだ。そんな可動橋を最後尾から望遠レンズを一気に引き寄せ、最大のマックスでシャッターを切った。

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(清水港線にあった可動橋。撮影技術は当時中学生であったのでその辺をご了承頂きたいが、とにかくこの可動橋は当時九州にある佐賀線のそれと共に貴重な存在であった。)

そして間もなく巴川口に8時17分56秒に到着。貨物用の側線が沢山あり、いかにも「貨物駅」の佇まいである。8時20分35秒に発車したのだから約2分半停車していたことになる。勿論乗降客は皆無に等しい。やがて景色は住宅街へと変化しつつあり、町並みも人間臭くなってきた、などと中学生なりにジャーナリスト気分で取材をしていたら、突然「キキーッ」と鉄の摩擦音と共に体を進行方向に持って行かれた。すぐさま車掌が先頭に向って走り出した。車内にはただならぬ緊張感が走る。やがて戻ってきた車掌に一言二言尋ねると「踏切で車が飛び出してきて衝突しそうになった」そうだ。取りあえず「しそうになった」で済んだのでホッと一安心していたら、すぐさま三保に到着。ホームに足を降ろした瞬間に感じたが、ホームには点字ブロックや白線などの「設備」は無く、砂利を盛り上げただけのホームは「日本三大松原」を控え、観光路線として活躍できるとは到底思えなかった。

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(巴川口駅舎。何だか掘立小屋みたいであるが、貨物側線も多く存在し構内は広い。私の感覚であるが、清水港線の中で最も清水港線「らしい」駅であったと思う。)

「平日は400人ぐらいで殆んどが高校生だ。休日になると80人位に減る。その乗客はほぼ“物好き”になる」と、ホームで一息ついてた車掌の弁。更に「清水港線もそう(営業的に)長くは無いだろう」と付け加えた。実に感慨深く、重く貴重な「現場の声」であったと思うが、中学生のぺーぺーにしてみたらなんて事はない、というより意味がわからない。というより、当時の事を今の私が振り返って初めて「重み」を感じたものだ。そして鉄道設備をカメラに収めるのに飽きてきた頃、並走する路線バスで清水に帰る時間となった。時刻表を見ると、何と1日150~200本くらいの時刻が書かれていた。この地区の主役は路線バスだ。清水港線の存在意義を疑われるものだが、バスに比べ運賃の安い国鉄は高校生の「必需品」となっている。しかし私の様な「物好き」は、まるで骨董品でも扱うかのようにここに訪れるのであるが、地元民に利用されてこそ鉄道としての価値が出てくるのが本来の姿であろう。三保駅の駅舎を見つめながら、なんとなく清水港線を制覇した達成感を中学生なりに感じ、三保駅を辞した。

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(終点の三保駅駅舎。駅舎の前にふたりの人物が存在するが、右側が当クラブの顧問で左側がなんと「ダイナミック✩トナカイ」である。)

あれから20年以上経過し、再びこの地に訪れる機会があった。勿論清水港線の姿はない。あれだけ広かった清水駅の構内も、現在では旅客設備に必用最低限のスペースに縮小されてしまった。更に清水港線のホームや貨物側線も既に撤去されてしまいロータリーなどに転用されかつての面影は無い。しかし三保に向けて車を走らせると、一部不自然な空き地と遊歩道があり、そこに鉄道の歴史が存在した事を無言で語りかけていた。そして、記憶に刻み込まれていたかつての勇姿は確かなものへと変化し、その時代に生きて清水港線と時間を共有できた事を誇りにさえ思えるようになっていた。


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廃止路線を訪ねて④ 清水港線(リメイク版)<前編>

清水港線・・・一般に、いったいどれだけの人が知っているであろうか?清水港線とは1984年に廃止された静岡県の清水区にあった国鉄路線で、1日1往復しか列車設定が無い事で当時は有名であった。そして、そんな制覇難関の路線に、何に魅せられてか果敢に挑んでいった青年達がいた。その青年達とは・・・私を筆頭に、当時中学生であった私が所属していた「鉄道研究クラブ」と言う何とも地味な学校のクラブ活動のメンバー数名と、その顧問の教諭という物好きが集まり、当時でいう「大垣夜行(現在のムーンライトながら)」で現地に向った「鉄道バカ」の集団であった。そして、そのクラブ活動で年に4回発行する季刊誌の取材も兼ねており、その取材班の一人である部長が俄然取材に燃えていた。そしてその部長が今回の旅を事細かに記録していた。ちなみにその季刊誌は私が編集長をしていたので、部長と編集長の両首脳という、何ともクラブ生命のかかったかのような取材であった。と言っても、その季刊誌班に所属するのは私と部長の二人のみで構成されているのであるが・・・という訳で、当時の季刊誌をもとに、清水港線の旅を再現してみたい。

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(清水駅構内。清水港線のホームは東海道線のホームから若干離れたところにあり独立していた。というより、貨物側線のどこかに若干砂利を盛り上げた・・・みたいなイメージ、の方が正しい表現かも。)

私は当時、自慢ではないが湘南地区在住であった為、出来れば相模線の始発で静岡地区に入りたかったのだが、それでは清水港線の始発兼最終の下り列車に間に合わない。そのため、先ほど触れた「大垣夜行」に乗らなければならない。という事で、未明の浜松で大垣夜行を乗り捨て、折り返し上り列車に乗り換え清水に向かう行程となった。とりあえず朝陽を浴びながら通勤客と共に清水に6時43分、326Mから降り立った。駅構内はとても広く、貨物の側線やら引込線やらで何本もの線路があったのだが、清水港線の乗り場がどこだかすぐには分からなかった。しかし、普通の人よりは鉄道知識を若干詰め込んだ少年には「野生の感」とでもいうべきか、貨物の群れの中にそれらしき列車とホームがあるのを発見、即座に「清水港線」と確信した。発車まで1時間以上あると言うのに、既に列車は待機していた。これは貨物列車という性格のものか。清水港線は東海道線の清水から、工業地帯を縫うように進み「松原」で有名な三保を結ぶ、殆んど貨物専用の引込み線の様な路線である。そのため、これから乗ろうとする列車も、貨車と客車を混結する「混合列車」と呼ばれるものだ。

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(清水駅は現在かなりスリムになった。清水港線のあった場所はロータリーや商業施設に変身している。)

先ほど旅客の列車本数には触れたが、貨物列車は多数設定されているのでハッキリ言って旅客は「居候」の様なものかも知れない。その「居候」たちは、出発時間までタンクやら何やらを乗せた車両やディーゼル機関車やらをカメラに収めるため、若干砂利の盛り上がった「ホーム」を行ったりきたりしていた。ちなみに同伴の「部長」がこの日の列車編成を正確に記録していたので紹介してみたい。三保側を先頭に<DD13-205>-<タキ7002>-<タキ9014>-<ワム63139>-<タキ9016>-<タキ9011>-<オハ47-2080>-<スハフ42-2105>となっていた。よくもまぁ、ここまでドラスチックに調べたものだが、おう、客車が2両も連結されているではないか!それほどまでに旅客の需要があるのか、と思わせるのだが、はたまた思わせぶりか・・・それはそれとして、われわれ「物好き」を乗せた列車は8時10分52秒「カクーン」と揺れを催し清水を後にした。


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廃止路線を訪ねて⑦ 赤谷線

特定地方交通線83線区に認定された「赤谷線」は、新潟県に存在した国鉄路線であった。新発田~東赤谷間18.9kmと短いが「赤字」という名のレッテルを貼られ、他の赤字路線とともに消えていった。廃止が「ブーム」とはなんとも皮肉であったが、私はこの時期、中学から高校へのステップの途中にあり「春休み」のさなかの1984年3月の訪問となった。1984年3月と言えば、なんといっても「西寒川」が廃止された時期でもあり、私自身の住処の真ん前でも「ブーム」が到来していて、時代の波に乗った感じだ。そんな中、中学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」は私が卒業してもクラブ自体は存続が決定し、後輩たちも私が在籍していた頃より若干増えた。という事で、このクラブ活動の存在意義を疑われずに済んだ・・・そして赤谷線への訪問はこの「鉄研」のクラブ活動として行われ、私は「卒業生」として参戦した。

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(1984年の廃止直前に訪問した新発田駅にて。わりに地味な存在であった赤谷線であるが、終点の東赤谷はスイッチバック式であった珍しさから、レールファンの間ではそれなりに認知度があった。)

確か計画自体は私が企てたが、同時期に廃止される「魚沼線」へは参戦できなかった。それは帰りの列車が無かったためだ。当時、青春18切符で新潟を訪問する手段としては普通夜行列車の「上野発長岡行き」が下りのみ夜行で設定されていたが、上りは何故か設定無し。現在は臨時ながら「ムーンライトえちご」があって便利であるが、当時は113系の近郊型車両であったので「夜行」の雰囲気は全く無し。普通にセミクロスシートであり、途中駅は若干通過するものの、ほぼ各駅に停車した。勿論、あの有名な「土合」も・・・
未明の長岡で新潟行きに乗り換える。4時45分に到着し5時14分発だった記憶があるので約30分のインターバルであるが、途中「押切」くらいではもう明るくなっていたはずである。後輩たちはこういう旅に免疫がないためか、長岡行きではなかなか寝付けずにいたが、乗り換えたこの列車ではすでに夢の中である。私は新潟の雪景色をしっかり堪能。「トンネルを抜けると・・・」の銀世界に包まれた新潟県は「米処」の役割を再開するまで「一休み」。そんな事を考えながら赤谷線を目指す中学卒業生はいささか異常?かも知れない。

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(路線名にもなっている赤谷。できれば下車してみたかったが、時間の成約から実現できなかった。しかも当時は「18」での訪問であったので、乗車できる列車にも制約があり、なかなかの体力勝負となった。)

さて、白新線を制覇した後、いよいよ赤谷線の待つ新発田へ。当然廃止発表後の訪問のため「同業者」が多数参戦、朝の小田急線上り列車並みの乗車率だ。普段は多分2両編成とかであろうが、今回はキハ58が3~4両連結されている。恐らくこのまま終点の東赤谷まで同じ顔ぶれであろう。
当時を思い出してみようとしたが、ハッキリ言って途中の記憶が薄い。だが、終点の東赤谷はしっかり記憶にあった。当時、唯一の終点駅でありながらスイッチバック駅であった。一度駅前を通り過ぎ進行方向を変更し東赤谷駅のホームに進入する。なかなか特徴があるが、かつてはここから鉱山への専用線が分岐していた。その専用線にも訪問してみたかったが、そんな余裕はなかった。3月の東赤谷は雪に包まれすでに「先客」で溢れかえっているが、列車到着後、更に増えたため駅がごった返した。鉄道ファンと捉えるには若干時間がかかりそうな「親子連れ」なども参戦。というより地元の方であろうと推測。赤谷線のファン層の厚さを見せ付けられた(若干大袈裟か?)。

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(終点の東赤谷。先述通り終点駅でありながらスイッチバックという構造の珍しさ。もしかしたら開業以来初の大盛況であったのでは?)

この後「普通列車」で関東地区への帰郷となるわけだが、できれば新幹線で帰りたい。しかし、自ら「青春18」を選択した以上、それは許されない。今回は顧問の教諭の他に「ゲスト」教諭も参戦している、合計12名の大所帯。若干日も暮れてきた感の「国境越え」であるが、トンネルを抜けると、そこは・・・

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姿なき挑戦者⑮ L特急はつかり(後編)

そんな寝台特急的座席特急で盛岡に向かった私は、まだ夜も明けぬ暗い車窓を見つめながらパンを頬張っていた。青函連絡船からの乗換客もそれなりにいるとは、まだまだ本州と北海道を結ぶ重要なアクセスの役割から外れていないのは素晴らしかった。とは言え、このまま東京目指す乗客はそう多くないであろう。
盛岡に着く頃には当然ながら空は明るくなっており、ちょうど通勤通学の時間帯であった。だが、東京方面のそれとはかなり異なった風景・・・実に長閑な朝であった。このあと私は旧型客車の普通列車で仙台に向かうことになっている。そう、周遊券のため新幹線はもっての他贅沢。ワイド周遊券であるため行き帰りの道中は急行までしか乗れないのは先述している。更に東北新幹線開通で盛岡から仙台を走る急行列車が激減・・・普通列車での移動を余儀なくされた。だが、それがラッキーだったか・・・現在では貴重な体験となってしまった。

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(写真は「昔訪ねた気動車ローカル線」より、上野駅にての583系バージョン。1974年の撮影と聞いた!まだまだ当時は「北の玄関口」としての色が濃く、いわゆる「出稼ぎ」「集団就職」的な言葉が日常であったろう時代だ。そして「いなかっぺ大将」的な風景でもある。他のホームには10系客車の姿も。

全く関係無い事であるが「バビル2世」というテレビアニメをご存知であろうか。私はこのバビル2世に登場する「ロデム」というキャラクターが実に好きでたまらない。以前にもこのブログでお伝えしたかも知れないが、私は主人公よりも脇役的な存在が非常に好きであり居心地の良い場所でもある。水戸黄門なら「風車の弥七」、ゴレンジャーなら「青レンジャー」とか・・・かつてはバンド活動もしていたがポジションは「ベーシスト」である。つまり、主人公ではないが「縁の下の力持ち」的な存在にものすごく憧れる。
ところで「ロデム」とは、「バビル2世」に仕える僕(しもべ)として側近で活躍。基本的に普段は豹(ひょう)の姿をしているが、実は「スライム状の不定形生物」的な設定でどんな姿にでも変身できる、とウィキに記されていた。イメージ的には「ターミネーター2」に出てくる敵の「T-1000」に近い感じだ。主人公のバビル2世との会話も出来るスグレモノで、他の僕(しもべ)である「ロプロス」「ポセイドン」とは一味違うカラーを醸し出すのが実に個性的だ。実に私が最も求めている存在であり姿である。できることなら「ロデム」になりたい、というより生まれ変わりたい気持ちでいっぱいだ。

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(画像はウィキペディアより。こんな「はつかり」があったのは知らなかった。ちょうど私がレールファン休業中であったからであるが、なんと「スーパー」が頭に着くくらいに進化していた。)

新幹線連絡特急の現在は「白鳥」「スーパー白鳥」がその役割を担っており、それこそ青函トンネルに潜り「ポセイドン」として活躍。首都圏VS北海道は飛行機が完全に主役であるが、それは「ロプロス」に任せておけば良い。とは言っても飛行機は鉄道にとって「ライバル」であるため「ロプロス」という表現は相応しくないかも知れないが・・・
「はつかり」の晩年は新幹線の「しもべ」として実に多くの活躍をした。私が小学生時代の上野~青森を走る「はつかり」とは全く違うスタイルで自身の輝く場所をしっかりと見つけ、そして煌めいていた。それはまるで「ロデム」のように・・・



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姿なき挑戦者⑮ L特急はつかり(前編)

「はつかり」と言えば皆様はどういうイメージをお持ちであろうか?私的には上野~青森を走る583系の特急のイメージが強い。東北新幹線が開通してからは盛岡~青森に変更され新幹線連絡の役割を担っていた。私が「はつかり」に乗車した履歴を確認してみると、意外にも乗車回数が少なく、なんと1回であった!1983年に東北の旅をした際に何回か乗ったのかと思っていたが、なんと同じ年の北海道の旅の時、帰路での乗車が最初で最後であったようだ。
「はつかり」の歴史はネットなどで調べればすぐにわかる時代であるが、基本的には「東京VS北海道の連絡輸送」としてのスタートであった。1958年であるから私自身全くこの世に存在しなかったので「伝説」であるが、当時は航空機は現在ほど発達しておらず、当然ながら鉄道が主役の時代であった。そしてなんとSLというのだからなんとも考えられない話であるが・・・

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(1983年8月、東北に訪れた際の「はつかり」。当時は東北新幹線が開通して1年が経過していた。1982年11月に上越新幹線が開通した時に全国的に大幅なダイヤ改正が行われ、この時にもうひとつのしもべ「たざわ」が誕生。「はつかり」とともに新幹線連絡特急として活躍した。)

東海道新幹線開通前は東海道線にはご存知「こだま」なる電車特急が運転されていた。だが、東北本線は黒磯以北の、いわゆる交流電車の開発にやや時間がかかり、全線複線化も併せて発展途上であった。福島、盛岡など電化区間が伸びるにつれ車両も順次置き換えられていった。SLからスタートしDL~DC~583系~485系へと進化していくのであるが、私の知っている頃は583系くらいからである。ただ、対北海道を意識していたため東北方面が利用しにくいらしかった。しかも少しでも早く青森に到着させるため常磐線経由であった。その不便さを解消させようと、後に「やまばと」「ひばり」などが誕生している。やがて常磐線経由は「みちのく」に譲り、自身は純粋に東北本線経由となって青森目指すことになった。そして1983年に私が乗車した時は盛岡~青森に区間が短縮され新幹線連絡の役割に全力を注ぐ姿になっていた。

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(恐らく1978年~1980年頃であったと思う上野駅にて。「ひばり」「やまばと」は「はつかり」からの分家的存在である。だが、新幹線開業と同時に姿を消した。)

青函連絡船で未明の4時半に着いた青森駅から東京方面に向かう列車は今回紹介する「はつかり」のみの接続であったので必然的に乗らなければならなかった。私は「北海道ワイド周遊券」であったため、北海道内では特急列車も特急券無しで乗車できたが、行き、または帰りの経路は特急列車は別料金になってしまう・・・当時中学生の私はこの「ルール」がかなりの負担になってしまう印象であった。だが、接続する列車がないのだから仕方なく乗車した。いや、表現がよろしくないようだ。「仕方なく」というのは良くないかもしれない。とは言え、結果的に最初で最後の経験になったのだから実に貴重であった。しかも583系での運転である!当時は実に嬉しかったが、一般的にはリクライニングができないなど、基本的に「前近代的」な印象であったろう。

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(写真はダイナミック✩トナカイより提供の583系バージョン「はつかり」。上記の写真と時期的に同じ頃であるが、場所も同じく盛岡にて。583系で座席運用の場合、我々レールファン的にはいいとして、一般の乗客からはリクライニングができないなど評価はイマイチであったようだ。「パン下」も関係ないし・・・)



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今更ながらに湘南新宿ラインで旅をしてみた⑤

そんな東戸塚を過ぎると戸塚に着く。この分離運転で最大のポイントとなるのが東戸塚~大船間、そして戸塚である。戸塚では方向別運転のため横須賀線と東海道線が階段なしで乗り換えができる。分離運転の際に戸塚に東海道線を停車させる意味がここにあった。かつては横須賀線の列車しか停車しなかったが、この戸塚に横須賀線を停車させる事によって、大船駅で階段を使わなければならなかった両者の乗り換えを解消させたのだ。

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(東海道線・横須賀線分離運転の際に東海道線の停車駅となった戸塚。両者は階段を使わずに乗り換えができて便利に。)

そしてこの戸塚のもうひとつの大役は、大船寄りにある「ダブルクロス」にある。東海道線と横須賀線との間にあるこのダブルクロスによって両者を実に匠に振り分け、そしてさばく姿は実に圧巻。このダブルクロスによって東海道線・横須賀線の列車を自在に操る事ができるのだ。
更に進むと根岸線も合流してきて線路の本数がこの区間最大となると、ようやく自身の住処に近づいてきたのかという雰囲気になってくる。大船では湘南モノレールも接続していて、この付近の交通の要衝となっているが駅前は非常に狭い。付近の山や川が、恐らく地形的な成約になっており駅前広場を拡大できないでいるのであろう。だが、最近はかなり整備された模様なので少しは利用しやすくなったのかも知れない。

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(大船と言えばこれであろう。かつてはドリームランドへモノレールが伸びていたが、いわゆる「設計ミス」のため開業からわずか1年足らずで営業休止に。つい最近まで(とは言えもう10年以上前になるが)錆びてボロボロになりながらも設備が残されていた。)

観音様を横目で見ながら旧・湘南貨物駅付近の景色の変化に時代の流れを感じた。そして横須賀線に湘南色の列車が走っているのも私の概念には無かった事柄だ。茅ヶ崎から新宿に乗り換えなしで行けるのも私の幼少時代ではできなかった。そして現在では東海道線の列車が東京を「スルー」してしまう時代だ。それこそ「踊り子」が常磐線方面に乗り入れたり、更にバリエーションが広がった。完全に東京が「終点」では無い時代になったのだ。ただ新幹線は違う。かつての概念の名残を将来的にも受け継ぐ事であろう。国鉄時代、東京駅の構造は東海道・東北の両新幹線をドッキングさせる設計であった。しかし民営化されてからはその計画も遥か彼方的な夢となってしまった。

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(金沢まで新幹線が到達するような時代になり、来年は函館まで到達しようとしている。そんな時代の流れとともに、東京駅のキャパは既に限界を超えているが、早い話、JR東海の柔軟な姿勢次第で更なる夢が広がる可能性が「大」である。)

東京をスルーする新幹線・・・これは最大のテーマであろう。現在、周知の通り東京寄りの線路は東海道・東北の両新幹線どちらとも足りていない。そして東京駅のホームの数も限界であろう。JR東海の頭脳がもう少し柔軟になって頂ければ「この夢」は実に大きく進歩するはずである。湘南新宿ラインや上野・東京ラインを見れば一目瞭然、新幹線にもこうした概念が実現したら更に活用のバリエーションが広がるであろう。もちろん車両や設備の変更に国家予算並みの費用がかかろうが、その恩恵も大きいはず。「小田原発盛岡行」「小山発新大阪行き」「仙台発名古屋行」など、想像しただけでもブルブルと震えが来るくらい興奮してしまうではないか!比較的地味な存在の小田原や三島、小山などの駅を活用する事によって東京駅の負担が減るとともに利用者にとっては「乗り換えが減る」というメリットもある。もちろん他の駅も活用次第であるが、更に東海道新幹線開通当時からの構想でもあった「夜行列車」が運転されるかも知れない夢も新たに飛び出してくる、とは若干オーバーではあるが・・・
将来的には「リニア」も開通し、新幹線の負担が減っていく事であろう。その時、時代は新幹線に何を求めるのであろうか。茅ヶ崎で湘南新宿ラインから降りた時、そんな事が頭の中を過ぎっていった。



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今更ながらに湘南新宿ラインで旅をしてみた④

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(大崎を出ると山手線と品鶴線が立体交差で分岐する。というより、なんとなく心霊写真みたいになって申し訳ないが・・・)

大崎を出ると品鶴線、つまり横須賀線に合流する。「横須賀線」とはおかしな表現であるが、その理由については先述通りである。だが、この大崎を出て品鶴線と合流するあたり、実に新鮮であった。いわゆるかつての「蛇窪信号場」と呼ばれる大崎駅構内扱いの合流地点と、後述する戸塚駅の交点の役割は実に大きい。そう、湘南新宿ラインの特徴としては、なんと言っても「横須賀線」を経由する事である。そして近年に開設された武蔵小杉も魅力的物件だ。品鶴線開業当時は無かった西大井を過ぎると武蔵小杉に到着するわけであるが、実にこの駅の役割は大きく機能している。今までこの駅がなかったのが不思議であるが、NEXなどを始めほぼ全ての列車が停車するのは実に便利であるが、他社との乗換には若干徒歩を要するのが難点である。だが、品鶴線開業当時(横須賀線分離運転時)から知る私にとてこの武蔵小杉の開業は実にサプライズだし、その当時は新川崎しか駅がなかった事を考えると着実に「旅客的」に進歩しているなとの印象である。

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(武蔵小杉は品鶴線の中で一番新しい駅だ。南武線はもちろん、東急との乗換駅としてその役割は実に大きい。)

その武蔵小杉を過ぎると間もなく、固定資産税の支払いを心配してしまいそうな広大な土地が広がってくる。そう、ここが新川崎だ。かつては貨物路線として計画された品鶴線であることを象徴するかのように、周知の通り新鶴見操車場のすぐ横に設置されている駅である。1982年11月15日の上越新幹線開通の時のダイヤ改正の時に貨物列車が一気に整理されてしまった時に、ここ新鶴見もその機能をほぼ失ってしまった。現在、一部の土地は分譲されマンションなどになっているが、まだまだ他の部分は鉄道らしさが残る部分が多い。新川崎と言えば、南武線の鹿島田駅とかなりの至近距離にある。そう考えた場合、果たして駅の設置の意味があったのかと思ってしまう。むしろ武蔵小杉の方が条件的にも実にいいと思うのだが、当時の国鉄はそういう発想が無かったのかなと思ってしまう。そして「新川崎」というネームングも何やら怪しい感じだ。とは言え私の乗った列車は新川崎を通過、鶴見で東海道線と合流して横浜に着く。

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(新鶴見はほとんど機能を失ったが、現在でも若干ながら機能しているみたいだ。とは言え、かつての盛栄は失われてしまい規模もかなり縮小された。)

横浜より先は、時刻表の地図上だとひとつの線になっているが、実はかなり離れた場所を走る場合もある保土ヶ谷~戸塚間である。特に分離運転の際に戸塚に東海道線が停車するようになったのが非常に大きい。その保土ヶ谷~戸塚間には東戸塚があるが、この駅も分離運転の際に開設された駅だ。分離運転前に私は散々この区間を通っているが「ここに駅ができますよ」という意味合いの予告看板がたっていた。実際に駅ができてからも通っていたが、なんというか山を切り開いて造ったため発展していくのにやや時間がかかった印象であった。区画整備はできているのだが、そこに建物などがなかなか建たずガラ~ンとした駅前の印象がしばらく続き、この先大丈夫なのかと子供ながらに心配してしまっていた。もちろん、現在はそんなかつての印象が想像できないくらいに建物がギッシリつまっているが、東戸塚駅付近にある横浜寄りのトンネル付近の景色は現在もほとんどかつての雰囲気が残るのが素敵だ。

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(横浜を出ると相鉄と暫く併走する。そういえば相鉄もかつては多くの貨物を輸送していたが、現在は全くそんな素振りを見せないくらい面影がない。)



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今更ながらに湘南新宿ラインで旅をしてみた③

湘南新宿ラインの魅力は、なんといっても東京方面をスルーし神奈川まで乗り換え無しで行ける事だ。だが、高崎からの乗車の場合、赤羽までは実にかつてと変わらぬ風景。しかし、赤羽から先東十条付近を経て巣鴨を拝み、池袋に達するあたり、実に新鮮である。それは何度通ってもそう感じるのはなぜだろう。実に良い!

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(湘南新宿ラインの特徴として、赤羽から先は(大宮方面から見て)「京浜東北線」を経由する。窓の向こうから「東十条」や「巣鴨」などの駅名標が目に飛び込んでくるのは実に不思議な感じだ。)

池袋辺りは1980年代には既に「埼京線」の工事が進められていた関係から、非常に興味があった。私の知っている当時は赤羽線は単独的な運転をしていた。つまり赤羽と池袋を往復運転する列車ばかりであった。しかし今はどうであろう。周知の通りである。そして池袋を経由して新宿に着く。池袋と同じくこの駅でほとんどの乗客が入れ替わってしまう。相変わらず座席を動かないのは私たちくらいであろう。実に変な客だ・・・
しかしこの新宿駅は、実にここ近年で変化したものだと思う。私の知っている1980年代の新宿駅は、今の埼京線ホーム辺は全て貨物列車的側線であった。もっと言ってしまえば、私の記憶だとDD13辺りが貨物列車の入れ替えでディーゼルエンジンを唸らせていたのを中央線ホーム辺りから見ていたのを記憶している。平成生まれの諸君には信じられないであろうが、私的にはそんなイメージが強い。やはり「副都心」が相当の影響力を受けている感じを否定できない。だが、そんな「事件」があったからこそ「湘南電車」が新宿に現れる現在がある事が実に良い!

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(埼京線が開通して以来、新宿駅のホームはぎょうさん増えた!かつては貨物側線であった部分も、現在ではそんな面影すら無いに等しい。)

さて、列車は実に貨物列車のような路線を経由し大崎に向かう。今でこそ山手貨物線に旅客ホームがあるが、特に渋谷駅に湘南新宿ライン専用のホームがあるのが実に違和感でならない。大体渋谷に「小田原行き」などの方向幕が見れること自体実にナンセンス!という表現はおかしいが、なんで渋谷にそんな列車がいるの?みたいな感じである。しかも大崎にもそんな列車が停車するのも新鮮。大崎といえば山手線の車庫があるイメージが強い。だが今は東京臨海高速鉄道も接続し、鉄道駅としては大きな拠点となっている。昔の大崎を知る私にとってみればそんな出世劇が実に信じられない。しかし今はその任務をしっかりと果たしている。そんな大崎を出ると更に素敵な変化が私を待っていた!

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(同じくここ大崎もホームが増えた。かつては山手線用の島式ホーム2本のみであったが、現在は湘南新宿ラインも停車するホームも新設されホームの数は倍に!)


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プロフィール

ダイヤモンド☆トナカイ

Author:ダイヤモンド☆トナカイ
所在地:神奈川県湘南地区

〇2013年6月11日、北陸新幹線長野駅にてJR全線制覇いたしました(当時)。
国内の鉄道は、沖縄の「ゆいレール」を残し全線制覇しました。(とは言うものの、2015年3月の北陸新幹線延伸によりJR全線制覇は「ベルト返上」しました)

★ ブログ記事の「リメイク版」は、以前にホームページで紹介した旅日記をブログでリメイクしたものです。


◎ブログの登場人物

★ ダイナミック☆トナカイ
・・・中学時代の後輩で、2013年に約30年振りに再会を果たした。数多くの写真を提供していただいた「盟友」でもある。

★ おさる・・・かつて私がバンド活動をしていた時のメンバーで、鉄道復活のきっかけを作ってくれた人物。彼とは「秘境駅」を数回訪問した「親友」でもある。

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