萌エル留萌
2015-07-30
空が青く晴れ渡る日であった・・・6月というのに清々しい。そういえば北海道に梅雨など無いと聞いた。私のような関東人にしてみれば6月は敵であろう。あのジメジメした空気、蒸し暑いのに窓は開けられない、洗濯物は干せない・・・など、なんだか所帯染みた言葉を並べてしまったが、梅雨前線が来ない北海道は羨ましい。そんな中、私は留萌駅に降り立った。しかし私の知っている「留萌」ではなかった。恐らく開業当時からの物と思われるホームや駅舎であるが、当時の活気は既に無く、留萌「本線」と呼ぶには若干抵抗ある姿で乗降客も僅少であった。
かつては石炭を積んだ貨物列車で賑わった事であろう。留萌本線からは羽幌線を始め、恵比島では留萌鉄道、石狩沼田では札沼線、深川では深名線が接続していた。特に羽幌線や留萌鉄道などは貨物列車の運行も多かったであろう。だが、私が物心ついたころは既に石炭の時代は終焉を迎えており、留萌鉄道は既に無く、羽幌線も既に廃止候補に挙がっており「時代」が終わっていた。

(留萌駅の旧・羽幌線方面を臨むが・・・完全に「空間」しか残っておらず、かつての清栄は既に感じられなかった。)
留萌は、かつてニシン漁が盛んだったらしい。石炭の他にニシンを沢山乗せた列車も右往左往し活気があったであろう。ニシンとは「鰊」と書く。ニシンは独特な匂いがあり、他の魚よりも若干骨が多く捌くのが若干面倒だ。煮つけが主流の魚であるが「焼き」も良い。最も身近なのが「身欠」であろう。「ソフト」と「本乾」とあるが、やたら年始になると活躍する。また、タケノコの季節にも欠かせないであろう・・・と、長々と書いたがこのブログは「鉄道」をテーマとしているので魚の事はこの辺にしておこう。
とにかく留萌駅の構内はだだっ広い。かつて羽幌線が分岐していた頃は若干Yの字にホームが分かれており留萌本線と羽幌線のホームの間に沢山の側線があった。その側線には沢山の貨物列車が停車していたことであろう。しかし羽幌線は廃止され、留萌本線の設備を残し他は全て撤去されてしまった。かつての羽幌線のホーム跡付近は某会社かなにかの広場となっているみたいで、若干名が野球みたいな事をしていた。

かつては羽幌線のホームまでつながっていた跨線橋は隣のホームで完全に途切れている。羽幌線と留萌本線との間には多くの貨物側線があり、駅舎から羽幌線のホームまではかなり歩かされた。)
そして羽幌線へと続く跨線橋は留萌本線用のホームより先は途切れ、不自然な形の角度で残っていた。1両ないし2両編成の旅客列車が往復するにしてはやたら有効長が長い構内設備は「本線」として機能していた時の名残だ。私の乗ってきた列車は2両編成であったが、先頭の一両は終点「増毛」までの列車となり、後ろの一両は深川まで折り返す。文字通り「中心駅」ではあるが、現在駅の一日の乗車人員は100人を切っている。私の知っている限りでは乗降客数が2千人位はいたはずだ。留萌から例えば札幌へ行く場合、JRを使うより高速バスの方が便利がいい。鉄道を利用する場合よりは時間的にも経済的にも有利になる。もちろんJRで札幌へ行く人はほぼ皆無に等しいと思われるが、現在までも留萌本線が残っている事さえ奇跡かもしれない。

(時代も変わり、長い編成の貨物列車は来なくなってしまった。1~2両のDCでは完全にホームを持て余し気味。)
先ほど乗ってきた列車に再び乗り、今度は増毛に向かった。途中、山景色から一気に海景色へと変わった!留萌本線より映し出される海の風景は度々雑誌等で紹介されており私も知ってはいたが、ここまで急に景色が変わるとさすがに戸惑う。かつて瀬越と礼受の間に「浜中海水浴場」という臨時駅があったらしい。しかし実態は駅舎はおろか、ホームもなく、シーズンに係員が、まるで飛行機のタラップのように列車のドアにステップを装着して対応したらしい。この臨時駅が留萌本線の増収に繋がったかは別として、少しでも増収を図ろうとする民営化後間もないJRの努力に拍手を送りたい。
そして増毛に到着したが、こちらも構内は広いが旅客扱いにに最低限の設備に縮小されており、更地には所謂「ぺんぺん草」が存在した。ここよりかつては延伸計画もあったが、当然のごとく頓挫しているだろう。増毛の名前の由来はアイヌ語の「マシ・ケ=カモメのいるところ」らしいが詳細は不明である。何ともロマンのある駅名である。

(増毛駅には広い空間がただただ目立っていた。当然ながら貨物側線であったろう空間であるが・・・)
増毛より折り返し深川に向かった。途中、先ほど紹介した「恵比島」を過ぎる。かつて映画のロケ地として「明日萌」の別名があるが、昔ながら駅舎がありノスタルジックにしてくれる。しかし留萌鉄道の「る」の字も無く、面影を見いだせない。更に石狩沼田では札沼線が接続していたと先述したが、全く分からないほど「さ」の字も無い。札沼線とは文字通り「札幌」と「沼田」を結ぶ路線であったが、新十津川~石狩沼田間が廃止されてしまった。もし現在もこの区間が存在しても留萌本線の乗客減に歯止めはかからないはずだ。
そして深名線の接続していた深川に到着した。もちろん深名線の姿は既になかったが、ホームをそのまま留萌本線の転用されていた、というより留萌本線と深名線はかつては共用していたはずなので違和感なしであったか。「本線」と名乗るものが「支線」と共用とは、何か煮え切れぬ想いがあるが・・
栄枯盛衰・・・北海道の、いや、全国の地方鉄道の典型的な姿ではあるが、やはり寂しさを否定できない。留萌駅の有効長たっぷりのホームは、確かにかつて沢山の乗客で賑わいを見せた事だろう。やがて交通の主役の座を奪われ「抜け殻」だけが残っている。かつての盟友たちも次々と廃止されていく中で「列車が走る奇跡」は次の世代にどう映るか?そしてどう受け止めるか?もちろん「華やかな未来」はあるとは思えない。しかし時代を生きた「証人」は、今もこうして生き続ける。姿を変え、形を変え・・・

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かつては石炭を積んだ貨物列車で賑わった事であろう。留萌本線からは羽幌線を始め、恵比島では留萌鉄道、石狩沼田では札沼線、深川では深名線が接続していた。特に羽幌線や留萌鉄道などは貨物列車の運行も多かったであろう。だが、私が物心ついたころは既に石炭の時代は終焉を迎えており、留萌鉄道は既に無く、羽幌線も既に廃止候補に挙がっており「時代」が終わっていた。

(留萌駅の旧・羽幌線方面を臨むが・・・完全に「空間」しか残っておらず、かつての清栄は既に感じられなかった。)
留萌は、かつてニシン漁が盛んだったらしい。石炭の他にニシンを沢山乗せた列車も右往左往し活気があったであろう。ニシンとは「鰊」と書く。ニシンは独特な匂いがあり、他の魚よりも若干骨が多く捌くのが若干面倒だ。煮つけが主流の魚であるが「焼き」も良い。最も身近なのが「身欠」であろう。「ソフト」と「本乾」とあるが、やたら年始になると活躍する。また、タケノコの季節にも欠かせないであろう・・・と、長々と書いたがこのブログは「鉄道」をテーマとしているので魚の事はこの辺にしておこう。
とにかく留萌駅の構内はだだっ広い。かつて羽幌線が分岐していた頃は若干Yの字にホームが分かれており留萌本線と羽幌線のホームの間に沢山の側線があった。その側線には沢山の貨物列車が停車していたことであろう。しかし羽幌線は廃止され、留萌本線の設備を残し他は全て撤去されてしまった。かつての羽幌線のホーム跡付近は某会社かなにかの広場となっているみたいで、若干名が野球みたいな事をしていた。

かつては羽幌線のホームまでつながっていた跨線橋は隣のホームで完全に途切れている。羽幌線と留萌本線との間には多くの貨物側線があり、駅舎から羽幌線のホームまではかなり歩かされた。)
そして羽幌線へと続く跨線橋は留萌本線用のホームより先は途切れ、不自然な形の角度で残っていた。1両ないし2両編成の旅客列車が往復するにしてはやたら有効長が長い構内設備は「本線」として機能していた時の名残だ。私の乗ってきた列車は2両編成であったが、先頭の一両は終点「増毛」までの列車となり、後ろの一両は深川まで折り返す。文字通り「中心駅」ではあるが、現在駅の一日の乗車人員は100人を切っている。私の知っている限りでは乗降客数が2千人位はいたはずだ。留萌から例えば札幌へ行く場合、JRを使うより高速バスの方が便利がいい。鉄道を利用する場合よりは時間的にも経済的にも有利になる。もちろんJRで札幌へ行く人はほぼ皆無に等しいと思われるが、現在までも留萌本線が残っている事さえ奇跡かもしれない。

(時代も変わり、長い編成の貨物列車は来なくなってしまった。1~2両のDCでは完全にホームを持て余し気味。)
先ほど乗ってきた列車に再び乗り、今度は増毛に向かった。途中、山景色から一気に海景色へと変わった!留萌本線より映し出される海の風景は度々雑誌等で紹介されており私も知ってはいたが、ここまで急に景色が変わるとさすがに戸惑う。かつて瀬越と礼受の間に「浜中海水浴場」という臨時駅があったらしい。しかし実態は駅舎はおろか、ホームもなく、シーズンに係員が、まるで飛行機のタラップのように列車のドアにステップを装着して対応したらしい。この臨時駅が留萌本線の増収に繋がったかは別として、少しでも増収を図ろうとする民営化後間もないJRの努力に拍手を送りたい。
そして増毛に到着したが、こちらも構内は広いが旅客扱いにに最低限の設備に縮小されており、更地には所謂「ぺんぺん草」が存在した。ここよりかつては延伸計画もあったが、当然のごとく頓挫しているだろう。増毛の名前の由来はアイヌ語の「マシ・ケ=カモメのいるところ」らしいが詳細は不明である。何ともロマンのある駅名である。

(増毛駅には広い空間がただただ目立っていた。当然ながら貨物側線であったろう空間であるが・・・)
増毛より折り返し深川に向かった。途中、先ほど紹介した「恵比島」を過ぎる。かつて映画のロケ地として「明日萌」の別名があるが、昔ながら駅舎がありノスタルジックにしてくれる。しかし留萌鉄道の「る」の字も無く、面影を見いだせない。更に石狩沼田では札沼線が接続していたと先述したが、全く分からないほど「さ」の字も無い。札沼線とは文字通り「札幌」と「沼田」を結ぶ路線であったが、新十津川~石狩沼田間が廃止されてしまった。もし現在もこの区間が存在しても留萌本線の乗客減に歯止めはかからないはずだ。
そして深名線の接続していた深川に到着した。もちろん深名線の姿は既になかったが、ホームをそのまま留萌本線の転用されていた、というより留萌本線と深名線はかつては共用していたはずなので違和感なしであったか。「本線」と名乗るものが「支線」と共用とは、何か煮え切れぬ想いがあるが・・
栄枯盛衰・・・北海道の、いや、全国の地方鉄道の典型的な姿ではあるが、やはり寂しさを否定できない。留萌駅の有効長たっぷりのホームは、確かにかつて沢山の乗客で賑わいを見せた事だろう。やがて交通の主役の座を奪われ「抜け殻」だけが残っている。かつての盟友たちも次々と廃止されていく中で「列車が走る奇跡」は次の世代にどう映るか?そしてどう受け止めるか?もちろん「華やかな未来」はあるとは思えない。しかし時代を生きた「証人」は、今もこうして生き続ける。姿を変え、形を変え・・・

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1983年3月、松浦鉄道ではなく国鉄松浦線を体験した時の事を記してみた(後編)
2015-07-02
そんな事、当時の中学生が知る由もなく、ただただ時間だけが過ぎていった。ただ、気がかりだったのが、この列車が佐世保に着くのが21時45分。乗り換える夜行列車「ながさき」は翌日の0時30分であったので約3時間待ちであった!現在の私であるならば、事前にインターネットで「旨い店」を検索し、地魚などで一杯嗜んでいた事であろう。だが、当時はそんな事が全く分からなく、そして事前準備も知識もない。ただひたすら待合室で待つのだろうなぁ・・・などと計画段階からわかっていた。というより、中学生だから「旨い店」で過ごしてはいけないであろうが・・・


(今回の記事の写真は全て「プラットホームの旅」よりご提供いただきました。私の訪問とほぼ同時期くらいの松浦駅。私の訪問は夜であったが、こうして昼間の画像を見てみると、またひと味違った雰囲気を醸し出している。)
そんな列車は海岸線を走り、さぞかし景色が素敵だろうなぁと思われるであろうが、そう、私の乗った列車は「最終列車」である。窓の外は何も見えない、というより真っ暗・・・ただひたすら佐世保に着く時間を待つしかなかった。いや、佐世保についても更に3時間近く列車を待たなければならない!これは完全に神に与えられた試練であろう、そう自分に言い聞かせるしかなかった。


(同じく平戸口も同じような「昭和」「国鉄」の雰囲気を醸し出している。写真は「プラットホームの旅」より。
そんな中、ある事件が起こった。確か松浦であったと思うが、私は用を足そうと列車内の化粧室に入った。すると・・・なんと便器に腕時計を落としてしまったのだ! ウワ━(。・ω・)ァァ━・゚・ しかもデジタルだ!私はすぐさま車掌に報告した。すると・・列車の下から時計を取ってきてくれたのだ。ありがとうございます!停車時間が6分くらいあったのでそれもラッキーであった。そう、かつて列車に設置されていたWCは、いわゆる「垂れ流し」であったため便器と線路が「直通」なのであった。その事も追い風になり、時計を紛失せずに済んだのだ。


(佐世保駅も同じく「プラットホームの旅」よりの写真。とても広い待合室で、私は夜行普通列車「ながさき」に乗車するため約3時間程待った。というより、佐世保発は「ながさき」の愛称は無く「4420」という列車番号のみの表現であった。)
やたら「時間との戦い」となったこの松浦線であったが、この車掌の温かさが「旅情」を誘うキッカケとなった。佐世保駅で私は何をしていたのであろう。ハッキリ言って記憶にないが、この車掌の件は非常に鮮明に記憶に残っている。そんな事を考えながら、出発15分前まで開かない改札を見つめ「ながさき」を待つ自分の姿を、今の自分が頭の中に描いていた。
この記事の写真は全て「プラットホームの旅」の管理人様でいらっしゃるmassi1様にご協力いただきました。心から感謝致します。

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(今回の記事の写真は全て「プラットホームの旅」よりご提供いただきました。私の訪問とほぼ同時期くらいの松浦駅。私の訪問は夜であったが、こうして昼間の画像を見てみると、またひと味違った雰囲気を醸し出している。)
そんな列車は海岸線を走り、さぞかし景色が素敵だろうなぁと思われるであろうが、そう、私の乗った列車は「最終列車」である。窓の外は何も見えない、というより真っ暗・・・ただひたすら佐世保に着く時間を待つしかなかった。いや、佐世保についても更に3時間近く列車を待たなければならない!これは完全に神に与えられた試練であろう、そう自分に言い聞かせるしかなかった。


(同じく平戸口も同じような「昭和」「国鉄」の雰囲気を醸し出している。写真は「プラットホームの旅」より。
そんな中、ある事件が起こった。確か松浦であったと思うが、私は用を足そうと列車内の化粧室に入った。すると・・・なんと便器に腕時計を落としてしまったのだ! ウワ━(。・ω・)ァァ━・゚・ しかもデジタルだ!私はすぐさま車掌に報告した。すると・・列車の下から時計を取ってきてくれたのだ。ありがとうございます!停車時間が6分くらいあったのでそれもラッキーであった。そう、かつて列車に設置されていたWCは、いわゆる「垂れ流し」であったため便器と線路が「直通」なのであった。その事も追い風になり、時計を紛失せずに済んだのだ。


(佐世保駅も同じく「プラットホームの旅」よりの写真。とても広い待合室で、私は夜行普通列車「ながさき」に乗車するため約3時間程待った。というより、佐世保発は「ながさき」の愛称は無く「4420」という列車番号のみの表現であった。)
やたら「時間との戦い」となったこの松浦線であったが、この車掌の温かさが「旅情」を誘うキッカケとなった。佐世保駅で私は何をしていたのであろう。ハッキリ言って記憶にないが、この車掌の件は非常に鮮明に記憶に残っている。そんな事を考えながら、出発15分前まで開かない改札を見つめ「ながさき」を待つ自分の姿を、今の自分が頭の中に描いていた。
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