よろしく哀愁。よろしく九州① 才田
2016-01-28

1986年に廃止された漆生線にあった駅である才田は、現役時代は一面一線の、いわゆる棒線型駅であった。漆生線という名前自体、若いレールファンには馴染みがないであろうし伝説であろう。漆生線は九州は福岡県にあった国鉄路線で下山田と下鴨生を結んでいた路線であるが、実際は下山田ではなく、その手前にある嘉穂信号場が事実上の起点であった。私は現役時代を知っているが、残念ながら訪問は果たせなかった。もちろん計画はしていたが・・・
そして今回の旅での訪問となったが、漆生線は遺構が多く残っており訪問し甲斐がある路線だ。そして今回紹介する才田であるが・・・なんと廃止されてからほとんど手を加えられていないであろう国鉄時代の姿を今も残す貴重な存在であった。この才田駅に繋がる道路は恐らく漆生線を転用したものと思われるが、その転用道路が突然ガードレールに阻まれ約90°的に方向を変えなければならない道と繋がっている。その角度を変えなければならないガードレールの先に才田が登場する。その空間は全く異次元的であり、まるでタイガーマスクの「四次元殺法」的な技を見ているようでもあった。そして、その新しい道路からは想像つかないほどの別世界である才田は、まるでその部分だけ時が止まっているようでもあった。駅の裏手に民家があり、普通の人がこの地を訪れたら恐らくこの民家の敷地内にあるガレージ的な存在に見えてしまうかも知れない。
だが、逆にそれが幸いしたのか、廃止から30年経過してなお当時の姿をほぼ残し現在まで保っているのだから大したものだ。ホーム下は今でもしっかりと線路跡が確認できる。そして嘉穂信号場方面はしばらくレールがあったような空間が続く。その先が藪のようになっていると聞いていたが確認が困難であった。であるが、これからもこの状態のまま残って欲しい。もちろん、下手にモニュメント的なものにして欲しくないのが正直なところである。


かつて漆生線であったと思われる空間はご覧の道路に転用されたと思われる。そしてその道路は手前でカーブを描くが、そのカーブの先にガードレールに守られた漆生線・才田駅がある。というより、普通に民家の一部であろう雰囲気だ。


そしてガードレールの先にその全貌を現す。ど~~ですか、この保存状態。もちろん「保存」というよりは「自然」なのであろう。だが、ただ「放置」ではなく、それなりに草刈などの手入れが行われている事と思われる。

嘉穂信号場方面を望む。その先は藪的空間になるらしいが確認ができなかった。その藪的空間にも漆生線の名残が感じられると聞いたが、残念ながら時間の制約からその作業は見送りとなってしまった。

我が家の裏にもこんな空間があったらなんて素敵な事であろう。春先には読書でもしながら一日過ごしてみたいものだ。もちろん桜なんぞやあればすぐさま「氷結」的な時間帯が心地よく包む事と思う・・・
今回の旅で最初に訪れた本格的な廃止駅であった。そして今までの旅と今回の旅で決定的に違う事、それはしっかりと事前調査しポータブルなカーナビにかなり正確な位置情報を入力してから旅に出た事であった。そんな準備万端な旅であったが、いざ出発してみると、現地に着いてからカーナビとシガライターソケットをつなぐジョイント部分を持参するのを忘れていたり、そのジョイントからカーナビ本体につなぐコードが断線していたりと・・・もう踏んだり蹴ったりのスタートであった。だが、ここ才田に到着する時には既にその問題を解決していてそんな事もすっかり忘れていた。というよりこの才田が忘れさせてくれた。もちろん廃止されてしまった現在の姿は残念であるが、ある意味私が会いに来るまで国鉄の姿で待っていてくれていたのかも知れない。そう思うとなんだか愛着が湧いてくる。再びここに来ようと決めたのは言うまでもない。

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よろしく哀愁。よろしく九州(プロローグ)
2016-01-24
今回紹介する九州の旅は、2014年に敢行した「熊に逢ったらシリーズ」以来今回で3回目を迎えた「鉄道を使わない鉄道旅」である。一部の方には予告していたが、2016年の旅第一弾となる今回紹介する旅では、廃線・廃駅や現役の駅でも私の気になる駅など多くを巡った。

(現在は「道の駅」となった旧・肥後小国。現役時代の宮原線は、私にとってみたら地味な存在であったが、今の私が当時の宮原線を評価するとしたら全国で1・2を争う屈指のローカル線であったと思う。もちろん現役時代に訪問してみたかった。今回の旅で同じルートを車で走ってみたが、それだけでもその魅力が十分すぎるくらいに伝わってきた。)
久々となった九州であったが、初日は実はトラブル続きで、トラブル解消までに半日くらい費やしてしまった感もありややブルーな部分もあった。であるが、逆にトラブルがあったならあったなりに、ある程度作戦を用意しておいたものを引っ張り出せばそれなりになんとかなる。というよりなんとかしなければいけない部分もある。だから旅は楽しいのではないか。そんな事を再認識させられた今回の旅では主に廃線巡りとなったわけであるが、かつては「黒ダイヤ」で盛栄を成した北九州地区のあの網の目の様な鉄道路線網も、今となっては北海道の様に妙な空白地帯が出来てしまったが、その「網の目」をあえて訪問してみた。

(ここをどこであるかご存知か・・・次章でしっかりと紹介したいが、1986年に廃止されてから既に30年が経過した事になる。しかしながらここまで保存状態が良いとは思わなかった。)
全く当時の面影を残していない場所もあれば「ウオ~~ッ!」的な保存状態の場所もあり実に巡っていて楽しかった。ただ、やはり盛栄は過去のものであり、現在の姿はハッキリ言って哀愁漂う風景である。厳しい現実を見せ付けられた印象でもあったが、それでもそこにはかつて先人たちの暮らしがあった。そしてその暮らしを支えた鉄道路線があった。

(現役の駅訪問は筑肥線や唐津線などを訪問。そして今回の旅でマックスに行きたかった日田彦山線のとある駅にも参戦した。)
そして廃止路線の他に現役の駅にも訪問した。私の気になる駅をピックアップしたが、中にはかなりマニアックな駅もありご覧の皆様はやや戸惑うかも知れないが、この「よろしく哀愁。よろしく九州」シリーズを最後までお付き合いいただければ幸いである。

(そして今話題のこんなスポットにも参戦してみた。だが意外にも意外な渋さが溢れており、訪問してみて良かったと思う。ただの話題だけで終わらせるのはもったいない。)

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(現在は「道の駅」となった旧・肥後小国。現役時代の宮原線は、私にとってみたら地味な存在であったが、今の私が当時の宮原線を評価するとしたら全国で1・2を争う屈指のローカル線であったと思う。もちろん現役時代に訪問してみたかった。今回の旅で同じルートを車で走ってみたが、それだけでもその魅力が十分すぎるくらいに伝わってきた。)
久々となった九州であったが、初日は実はトラブル続きで、トラブル解消までに半日くらい費やしてしまった感もありややブルーな部分もあった。であるが、逆にトラブルがあったならあったなりに、ある程度作戦を用意しておいたものを引っ張り出せばそれなりになんとかなる。というよりなんとかしなければいけない部分もある。だから旅は楽しいのではないか。そんな事を再認識させられた今回の旅では主に廃線巡りとなったわけであるが、かつては「黒ダイヤ」で盛栄を成した北九州地区のあの網の目の様な鉄道路線網も、今となっては北海道の様に妙な空白地帯が出来てしまったが、その「網の目」をあえて訪問してみた。

(ここをどこであるかご存知か・・・次章でしっかりと紹介したいが、1986年に廃止されてから既に30年が経過した事になる。しかしながらここまで保存状態が良いとは思わなかった。)
全く当時の面影を残していない場所もあれば「ウオ~~ッ!」的な保存状態の場所もあり実に巡っていて楽しかった。ただ、やはり盛栄は過去のものであり、現在の姿はハッキリ言って哀愁漂う風景である。厳しい現実を見せ付けられた印象でもあったが、それでもそこにはかつて先人たちの暮らしがあった。そしてその暮らしを支えた鉄道路線があった。

(現役の駅訪問は筑肥線や唐津線などを訪問。そして今回の旅でマックスに行きたかった日田彦山線のとある駅にも参戦した。)
そして廃止路線の他に現役の駅にも訪問した。私の気になる駅をピックアップしたが、中にはかなりマニアックな駅もありご覧の皆様はやや戸惑うかも知れないが、この「よろしく哀愁。よろしく九州」シリーズを最後までお付き合いいただければ幸いである。

(そして今話題のこんなスポットにも参戦してみた。だが意外にも意外な渋さが溢れており、訪問してみて良かったと思う。ただの話題だけで終わらせるのはもったいない。)

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男鹿駅の人情(後編)
2016-01-20
さて、私は男鹿線を制覇するため特急「鳥海」で秋田駅に18時30分に到着した。羽後本荘からの乗車で矢島線(現在の由利高原鉄道)制覇後の話だ。だが、私は若干気持ちがブルーであった。なぜだろう・・・それは。最初からこの旅の計画段階時点で「駅寝」が決定していたからだ。その理由は「角館線」にあった。角館線と言えば現在の秋田内陸縦貫鉄道であるが、当時はまだ松葉~比立内が未成線であり、それこそ現在の姿が信じられないくらいであった。つまり角館~松葉間は、いわゆる「ローカル線」の典型的な姿であり1日3本の列車しか設定されておらず、その乗車チャンスは朝か夕方に限られていた。そのため自分の予定を「角館線に合わせる」ことしかできず、自身の主張がほぼ認められない状況であった。

(男鹿線制覇唯一の証となってしまった入場券。傍から見たら一枚の紙きれかも知れないが、私にしてみたらこの一枚に沢山の思い出が詰め込まれている。)
田沢湖線との接続や、自身の制覇ルートのやりくりを散々検討してもこの角館線がネックとなり、結局朝の便を使う意外に方法が見つからなかった。そのため大曲や角館などで「始発まで待たせてもらう」以外、東北の旅計画自体が組めなかったのだ。もちろん、現在の私が当時にタイムスリップし同じ東北の旅を企てたのなら他に方法が見つかったであろうかもしれないが・・・

(今回の男鹿線訪問の際の写真が全く無かった為、少々ウィキペディアの力を借りた。追分駅は奥羽本線と男鹿線の分岐駅であるが、どちらかというと秋田のベットタウン的存在であるため「生活」のカラーが濃い印象だ。)
とは限らないが、結局大曲駅に宿泊する事に決め男鹿線に乗り込むことにした。秋田を出るとやや日が暮れてきたが、やはり今夜の「宿泊施設」が気になる。というのも「ノーアポ」のためだ。というより、そもそも駅に寝るのにアポを取るのがおかしい話かも知れない。そんな事を考えていた印象しかない男鹿線であるが、こうして男鹿線の記事を書いていても男鹿線の事が殆ど出て来ないのが不思議だと自分で思う。だが、終点の男鹿に着き、この駅の印象が現在まで忘れない柔らかな思い出が残る素晴らしい時間帯となった。

(こちらもウィキペディアよりの写真である脇本駅であるが、私はこういった「世間的には地味」な駅が非常に興味ある存在だ。って、私の感性は若干特殊であろうか・・・)
改札では初老の紳士が応対していた。「おっ、(東北ワイド)周遊券か。どこから来たの?」と話しかけてきた。「神奈川県からです」みたいに会話が交わされた。駅の写真などを収め再び駅舎内に戻ると切符売り場にその職員はいた。「そういえばこの辺りって銭湯ってありますか?」ときいいてみると細かくその場所を教えてくれた。更に衣類の洗濯的な事も尋ねてみると「コインランドリーとかはないなぁ・・・この辺は東京と違うからね。」と丁寧に教えてくれた、みたいに次々と会話が弾んでいく。さすがに「大曲とか角館で駅寝のアポとってもらえますか?」とは聞けなかったが・・・そして、最後には「じゃぁ、この荷物預かっていただけますか?」と銭湯に行くために荷物を駅員に預けたのだ。
かつて駅には「手荷物一時預所」みたいな窓口があった。現在ではコインロッカーがその役割をしているが、昔はそんな窓口があり、言わば有人コインロッカー的な感じであった。駅員との会話でかなり親しくなったため、荷物を預け銭湯に行こうと駅員に渡したが、さすがに料金はしっかりと徴収された。まぁ、当たり前と言えば当たり前であるが・・・という訳で予定していた折り返しの列車を1本遅らせ銭湯に向かった。

(そして男鹿駅。1983年の今回の旅においての義理人情は、感受性の高い当時のティーンエイジ的な私には非常に影響力の大きいものとなった。そして、ブランクこそあるものの、私の旅のスタイルを決定づける旅でもあった。ちなみに画像はウィキより。)
予定の列車でも1本送らせても結局大曲に行く時間は変わらない。この東北の旅では宿的な事も含め全てが列車の中で過ごす行程となっているが、計画段階から駅寝があるのはブルーな気持ちであった。しかしながら気さくな男鹿駅職員のお陰でややあたたかい気持ちとなって大曲に向かう列車に乗る事ができた。東北特有の人情・・・そしてあたたかさ。そう、私が男鹿線の印象を振り返ると必ずこの男鹿駅の駅員を思い出すのだ。1983年東北の旅は実に多くの人情に触れた感じであった。そして、夏だというのになぜかそのあたたかさが心地よく、小さなそよ風となって私の旅の1ページを何気なく添えていった。

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(男鹿線制覇唯一の証となってしまった入場券。傍から見たら一枚の紙きれかも知れないが、私にしてみたらこの一枚に沢山の思い出が詰め込まれている。)
田沢湖線との接続や、自身の制覇ルートのやりくりを散々検討してもこの角館線がネックとなり、結局朝の便を使う意外に方法が見つからなかった。そのため大曲や角館などで「始発まで待たせてもらう」以外、東北の旅計画自体が組めなかったのだ。もちろん、現在の私が当時にタイムスリップし同じ東北の旅を企てたのなら他に方法が見つかったであろうかもしれないが・・・

(今回の男鹿線訪問の際の写真が全く無かった為、少々ウィキペディアの力を借りた。追分駅は奥羽本線と男鹿線の分岐駅であるが、どちらかというと秋田のベットタウン的存在であるため「生活」のカラーが濃い印象だ。)
とは限らないが、結局大曲駅に宿泊する事に決め男鹿線に乗り込むことにした。秋田を出るとやや日が暮れてきたが、やはり今夜の「宿泊施設」が気になる。というのも「ノーアポ」のためだ。というより、そもそも駅に寝るのにアポを取るのがおかしい話かも知れない。そんな事を考えていた印象しかない男鹿線であるが、こうして男鹿線の記事を書いていても男鹿線の事が殆ど出て来ないのが不思議だと自分で思う。だが、終点の男鹿に着き、この駅の印象が現在まで忘れない柔らかな思い出が残る素晴らしい時間帯となった。

(こちらもウィキペディアよりの写真である脇本駅であるが、私はこういった「世間的には地味」な駅が非常に興味ある存在だ。って、私の感性は若干特殊であろうか・・・)
改札では初老の紳士が応対していた。「おっ、(東北ワイド)周遊券か。どこから来たの?」と話しかけてきた。「神奈川県からです」みたいに会話が交わされた。駅の写真などを収め再び駅舎内に戻ると切符売り場にその職員はいた。「そういえばこの辺りって銭湯ってありますか?」ときいいてみると細かくその場所を教えてくれた。更に衣類の洗濯的な事も尋ねてみると「コインランドリーとかはないなぁ・・・この辺は東京と違うからね。」と丁寧に教えてくれた、みたいに次々と会話が弾んでいく。さすがに「大曲とか角館で駅寝のアポとってもらえますか?」とは聞けなかったが・・・そして、最後には「じゃぁ、この荷物預かっていただけますか?」と銭湯に行くために荷物を駅員に預けたのだ。
かつて駅には「手荷物一時預所」みたいな窓口があった。現在ではコインロッカーがその役割をしているが、昔はそんな窓口があり、言わば有人コインロッカー的な感じであった。駅員との会話でかなり親しくなったため、荷物を預け銭湯に行こうと駅員に渡したが、さすがに料金はしっかりと徴収された。まぁ、当たり前と言えば当たり前であるが・・・という訳で予定していた折り返しの列車を1本遅らせ銭湯に向かった。

(そして男鹿駅。1983年の今回の旅においての義理人情は、感受性の高い当時のティーンエイジ的な私には非常に影響力の大きいものとなった。そして、ブランクこそあるものの、私の旅のスタイルを決定づける旅でもあった。ちなみに画像はウィキより。)
予定の列車でも1本送らせても結局大曲に行く時間は変わらない。この東北の旅では宿的な事も含め全てが列車の中で過ごす行程となっているが、計画段階から駅寝があるのはブルーな気持ちであった。しかしながら気さくな男鹿駅職員のお陰でややあたたかい気持ちとなって大曲に向かう列車に乗る事ができた。東北特有の人情・・・そしてあたたかさ。そう、私が男鹿線の印象を振り返ると必ずこの男鹿駅の駅員を思い出すのだ。1983年東北の旅は実に多くの人情に触れた感じであった。そして、夏だというのになぜかそのあたたかさが心地よく、小さなそよ風となって私の旅の1ページを何気なく添えていった。

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男鹿駅の人情(前編)
2016-01-16
早いもので、このブログが開設されて3年が経過、もうすぐ4年が経とうとしている。そもそもこのブログを始めたきっかけは「過去の旅の記録を何らかの形で残そう!」とホームページを立ち上げたのがきっかけだ。そしてホームページでは旅の思い出を綴るとして「旅日記」という欄を設けた。最初は懐かしい思い出などを書いていたが、そのうち容量が足りなくなってきたため旅日記をブログという形で「分社化」させた。その後ブログは一人歩きしていき独立、とうとうそちらが主体となってしまって現在に至っている。

(私の本棚を若干紹介しよう。こんな書物が棚の奥と手前で全巻揃っているが、私にとってこれは最大の資料である。ただ、せっかく写真を撮るなら順番的に並べれば良かったが・・・)
現在では1日100件前後のアクセスがあり大変嬉しい限りである。この場を借りてお礼を申し上げよう。基本的に私はレールファン歴にブランクが存在する。1985年~2006年くらいまでであるが、その間の記事がこのブログには殆ど登場しない。なので私の記事は1980年代前半か現在になってしまう。
最近は駅訪問の記事が多くなってきたが、基本的に私はVVVFインバーターがどうしたとかデジタルATSがどうのとかというのは不得手な方だ。どちらかというと「夜行列車」「駅」などのカテゴリーを最も得意とするのはご覧になっていてお分かりであろう。

(時刻表も1982年から毎年購入していた。1970年代のものは古本屋で購入したものであるが、1990年代は1998年まで空白がある。レールファンは1985~2006年まで休業していたが、その間も時刻表だけは購入していた。)
そんな事から今回は私が最も得意とする「1983年東北」を紹介しよう。先述したが、最近は駅訪問的な記事が目立って多くなってきたため、私が体験した国鉄時代の旅の模様を久々にご覧になりたい方もいらっしゃる事であろう。そんな思いもあり若干引き出しを開けてみた。とは言うものの、もう30年以上も前の話なので記憶も薄い印象であるが、今でも鮮明に覚えている事柄でもある今回の男鹿線。この地に訪問したのは私がまだ中学3年生であった時だ。しかも気持ち的にはややブルーになっていた。その意味は次回に紹介するが、基本的に私は駅寝を嫌う、みたいな事である・・・
という事で私の男鹿線初訪は1983年であった。旅の行程においては最終日前日であった。時間帯的には既に夜である。そんな男鹿線の印象は殆ど無いに等しいが、今でも鮮明に覚えている事柄がある。それは・・・

(1983年年10月に北海道初上陸を果たしたが、その1年前に、今で言う(というより昔からであるが)「通販」で購入した時刻表の北海道内版。いわゆる仮乗降場などが全駅掲載されており、当時はものすごい貴重な資料となった。ただ、当時は北海道への旅は断念し東北にシフトしたのは既にこのブログで述べているが、その事がかえってラッキーだったのかも知れない。)

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(私の本棚を若干紹介しよう。こんな書物が棚の奥と手前で全巻揃っているが、私にとってこれは最大の資料である。ただ、せっかく写真を撮るなら順番的に並べれば良かったが・・・)
現在では1日100件前後のアクセスがあり大変嬉しい限りである。この場を借りてお礼を申し上げよう。基本的に私はレールファン歴にブランクが存在する。1985年~2006年くらいまでであるが、その間の記事がこのブログには殆ど登場しない。なので私の記事は1980年代前半か現在になってしまう。
最近は駅訪問の記事が多くなってきたが、基本的に私はVVVFインバーターがどうしたとかデジタルATSがどうのとかというのは不得手な方だ。どちらかというと「夜行列車」「駅」などのカテゴリーを最も得意とするのはご覧になっていてお分かりであろう。

(時刻表も1982年から毎年購入していた。1970年代のものは古本屋で購入したものであるが、1990年代は1998年まで空白がある。レールファンは1985~2006年まで休業していたが、その間も時刻表だけは購入していた。)
そんな事から今回は私が最も得意とする「1983年東北」を紹介しよう。先述したが、最近は駅訪問的な記事が目立って多くなってきたため、私が体験した国鉄時代の旅の模様を久々にご覧になりたい方もいらっしゃる事であろう。そんな思いもあり若干引き出しを開けてみた。とは言うものの、もう30年以上も前の話なので記憶も薄い印象であるが、今でも鮮明に覚えている事柄でもある今回の男鹿線。この地に訪問したのは私がまだ中学3年生であった時だ。しかも気持ち的にはややブルーになっていた。その意味は次回に紹介するが、基本的に私は駅寝を嫌う、みたいな事である・・・
という事で私の男鹿線初訪は1983年であった。旅の行程においては最終日前日であった。時間帯的には既に夜である。そんな男鹿線の印象は殆ど無いに等しいが、今でも鮮明に覚えている事柄がある。それは・・・

(1983年年10月に北海道初上陸を果たしたが、その1年前に、今で言う(というより昔からであるが)「通販」で購入した時刻表の北海道内版。いわゆる仮乗降場などが全駅掲載されており、当時はものすごい貴重な資料となった。ただ、当時は北海道への旅は断念し東北にシフトしたのは既にこのブログで述べているが、その事がかえってラッキーだったのかも知れない。)

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18の、18による、18のための旅⑦
2016-01-12
「普通列車」の方は乗客の入れ替わりが激しいが、私の乗った「観光列車」は乗客の変化がほとんどないまま長閑な時間が過ぎていく。やがて下車駅となる幡生では後ろ髪引かれる思いであったが、ある意味「偉大なるローカル線」を制覇したという達成感もあった。しかし、面白い事にこの「偉大なるローカル線」を全線直通する列車は無い。そういえば、かつて1980年代であったが門司発福知山行の「824列車」があった。門司を朝5時半頃に出発し、福知山に着くのは夜11時をとっくに超えている時間帯だ。それでも「偉大なるローカル線」を全線制覇できないのだ。余りにも偉大だ、偉大過ぎる!

(画像はウィキペディアより、1980年代前半まで活躍した「824レ」。門司発福知山行で運転され、当時は普通列車では日本最長距離を走る事で有名であった。それよりも旧型客車編成で何本もの優等列車に抜かれながら揺られる旅は、ある意味最高峰の贅沢であろう。)
先日、というより、実はこの記事を書いている時にとても興味を惹かれるTV番組が放送されていた。それは終電に乗り遅れた人に付いていき、その人のお宅にお邪魔する的な趣旨の番組であった。ただそれだけなら普通の番組であったのだが、その番組の最後では終電ではなく、移動販売に買い物に来た人のお宅にお邪魔するという内容になっていた。場所は確か鳥取県のとある町となっていたはずだ。そう、そこには我々がよく目にする長閑な田園風景があった。もちろん列車はやって来ないであろう。

(通学途中の女学生たちをよそに、常識では解読不能な駅名標を撮影。そんな私は、ある意味職務質問されてもおかしくないかも知れない状況であったろうが、所持しているきっぷが「18」である以上、乗車できる列車が制限される中での旅の醍醐味を味わうのも良い。)
お宅にお邪魔したのは年配のご婦人であった。しかしながら喋り方もシャキシャキしていて「お宅にお邪魔してもいいですか?」の問いに、何の躊躇いもなく「ハイ、いいですよ」みたいな感じで即答していた。ここまでなら普通の番組であるが、私が興味を惹かれたのはこの先であった。家からは明治時代や大正時代と思われる家具や道具などが出てくるし、そのうちそのご婦人の祖母と思われる方のカタミや「50銭札」などの、いわゆる「古銭」が登場した。その道の人にとっては実にお宝的映像であったろう。そして私が一番胸を打たれたのが結婚話であった。

(紹介している旅の道中で、計画では美祢線制覇も含まれていたが・・・当時はご覧の状況のため出発3日前に予定を変更。やはり列車でなければ意味がない!それよりも後日に復旧してくれたのが何よりだ。)
番組スタッフが「ご主人とはどういうふうに知り合ったのか」の問いに「結婚する日に初めて会った」と答えた。我々の世代はもちろん、若い世代の方は「おや?」と思うであろう。結婚する日に初めて会ったという事はそれまでは会ったことが無かったということであるが・・・そう、それは「親に決められた結婚」であったのだ。現在ではほとんど考えられない話ではあるが、その昔、結婚とは親に決められたものが、ある意味常識的な形で通っていたらしい。事実、私の義祖母もまさにそれであった。女性は主人の影で支える存在、夫を立てて妻は一歩後ろへ引く・・・それはまさに古くからある日本の情景そのものであった。

(「偉大なるローカル線」にはこういった私好みの渋い駅が、特に出雲市以西には多く存在する。もっと昔に来ればまた違った雰囲気が味わえたろうと悔しい気持ちもあるが・・・)
そんなお宅の家業は農家である。農作業も全く若い者に引けを取らないくらいに元気に作業しているようだ。だが、そのお宅のご主人は2015年の5月に他界したという。幸せですか?の問いに「幸せです」と。続けて「お父さんと結婚して良かった」とも述べていた。親に決められた結婚であったが、最後まで「お父さんは優しかった」「幸せです」と語る姿は本当に幸せだったのであろうか、実に自然と優しい表情になっている。そして、失礼ながらその姿に刻み込まれたシワは、そのご婦人の「年輪」に見えた。そして多くの夫婦の絆的歴史が刻み込まれていることであろう。

(これは余りにも有名処であるが「偉大なるローカル線」に所属してこそ、という価値観があるかも知れない。)
そんなご婦人が暮らす鳥取の田園風景は、やがて季節が来ると色づいた稲穂が力強く頭(こうべ)を垂れる事であろう。そして収穫されたお米の味は「職人技」とは違う、何か「心温まる匠の技」とでも言おうか、なんとなく「おふくろの味」的な感じであろうか。私が「偉大なるローカル線」に再び訪れる時、そんな事を考えながら景色を見ると、また違った「偉大なるローカル線」が楽しめるであろう。もちろん、この「偉大なるローカル線」だけに留まらず、日本全国、もっともっと色々なローカル線の楽しみ方を、これからも私の旅に加えていきたい。

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(画像はウィキペディアより、1980年代前半まで活躍した「824レ」。門司発福知山行で運転され、当時は普通列車では日本最長距離を走る事で有名であった。それよりも旧型客車編成で何本もの優等列車に抜かれながら揺られる旅は、ある意味最高峰の贅沢であろう。)
先日、というより、実はこの記事を書いている時にとても興味を惹かれるTV番組が放送されていた。それは終電に乗り遅れた人に付いていき、その人のお宅にお邪魔する的な趣旨の番組であった。ただそれだけなら普通の番組であったのだが、その番組の最後では終電ではなく、移動販売に買い物に来た人のお宅にお邪魔するという内容になっていた。場所は確か鳥取県のとある町となっていたはずだ。そう、そこには我々がよく目にする長閑な田園風景があった。もちろん列車はやって来ないであろう。

(通学途中の女学生たちをよそに、常識では解読不能な駅名標を撮影。そんな私は、ある意味職務質問されてもおかしくないかも知れない状況であったろうが、所持しているきっぷが「18」である以上、乗車できる列車が制限される中での旅の醍醐味を味わうのも良い。)
お宅にお邪魔したのは年配のご婦人であった。しかしながら喋り方もシャキシャキしていて「お宅にお邪魔してもいいですか?」の問いに、何の躊躇いもなく「ハイ、いいですよ」みたいな感じで即答していた。ここまでなら普通の番組であるが、私が興味を惹かれたのはこの先であった。家からは明治時代や大正時代と思われる家具や道具などが出てくるし、そのうちそのご婦人の祖母と思われる方のカタミや「50銭札」などの、いわゆる「古銭」が登場した。その道の人にとっては実にお宝的映像であったろう。そして私が一番胸を打たれたのが結婚話であった。

(紹介している旅の道中で、計画では美祢線制覇も含まれていたが・・・当時はご覧の状況のため出発3日前に予定を変更。やはり列車でなければ意味がない!それよりも後日に復旧してくれたのが何よりだ。)
番組スタッフが「ご主人とはどういうふうに知り合ったのか」の問いに「結婚する日に初めて会った」と答えた。我々の世代はもちろん、若い世代の方は「おや?」と思うであろう。結婚する日に初めて会ったという事はそれまでは会ったことが無かったということであるが・・・そう、それは「親に決められた結婚」であったのだ。現在ではほとんど考えられない話ではあるが、その昔、結婚とは親に決められたものが、ある意味常識的な形で通っていたらしい。事実、私の義祖母もまさにそれであった。女性は主人の影で支える存在、夫を立てて妻は一歩後ろへ引く・・・それはまさに古くからある日本の情景そのものであった。

(「偉大なるローカル線」にはこういった私好みの渋い駅が、特に出雲市以西には多く存在する。もっと昔に来ればまた違った雰囲気が味わえたろうと悔しい気持ちもあるが・・・)
そんなお宅の家業は農家である。農作業も全く若い者に引けを取らないくらいに元気に作業しているようだ。だが、そのお宅のご主人は2015年の5月に他界したという。幸せですか?の問いに「幸せです」と。続けて「お父さんと結婚して良かった」とも述べていた。親に決められた結婚であったが、最後まで「お父さんは優しかった」「幸せです」と語る姿は本当に幸せだったのであろうか、実に自然と優しい表情になっている。そして、失礼ながらその姿に刻み込まれたシワは、そのご婦人の「年輪」に見えた。そして多くの夫婦の絆的歴史が刻み込まれていることであろう。

(これは余りにも有名処であるが「偉大なるローカル線」に所属してこそ、という価値観があるかも知れない。)
そんなご婦人が暮らす鳥取の田園風景は、やがて季節が来ると色づいた稲穂が力強く頭(こうべ)を垂れる事であろう。そして収穫されたお米の味は「職人技」とは違う、何か「心温まる匠の技」とでも言おうか、なんとなく「おふくろの味」的な感じであろうか。私が「偉大なるローカル線」に再び訪れる時、そんな事を考えながら景色を見ると、また違った「偉大なるローカル線」が楽しめるであろう。もちろん、この「偉大なるローカル線」だけに留まらず、日本全国、もっともっと色々なローカル線の楽しみ方を、これからも私の旅に加えていきたい。

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18の、18による、18のための旅⑥
2016-01-08
その結果は・・・座席を選べるくらいの混雑様であった。2両編成のワンマンDCは、私がかつて見てきた「偉大なるローカル線」の姿ではなかったが、それでも国鉄時代のDCは当時を彷彿させるような感じであった。先頭の車両は5~6名の乗客がいたが、私の乗った2両目はハッキリ言って貸切である。ボックスシートを占領するのは当然であったが、それとは別にロングシートまで確保。「ひとり寝台列車」を楽しんだ。駅に着いてもワンマンのため先頭の車両しかドアが開閉しない。私の乗った車両は完全に密閉されたような空間であった。

(萩市の中心地に近い東萩。文字通り玄関口であるが「東」を冠するのが気になる存在である。日本有数の観光地であるのに特急列車がやってこなくなって久しい。)
そんな中、この地区最大の、というより日本有数の観光地「萩」に着くが、玄関口となるのは隣の東萩である。さてここで貸切列車ともお別れか・・・初老のご婦人方のグループが挙って乗り込んでくるのだろうなぁなどと予想していた。ホームにはそれらしき人が数グループいた。だが・・・そのグループは列車に乗ってこなかった。そう、それは恐らく益田から特急列車に乗って新山口から新幹線に乗り換えるであろうと思われる乗客たちであったのだ。考えてみたら美祢線が不通である中、長門市から先に進み新下関から新幹線で帰郷する・・・とは考えにくいであろう。普通に考えたら新山口の方が「のぞみ」も停車するし、当然ながら選択される自然なコースだ。そんな事から、私の乗った列車の乗車率に増減は皆無であった。

(そしてこちらが本家?の萩。実に昭和的な雰囲気が今でも残っているのが嬉しい。しかしながら特急列車は過去に停車した記憶が無い。)
とても長閑な時間が過ぎていく「偉大なるローカル線」。このまま時を止めてしまいたくらいの衝動に駆られる中、終点の長門市に着く。ここで一旦仙崎に行き折り返し「みすゞ潮彩」に乗り「偉大なるローカル線」最後の最終段階、ラストスパートに突入する。そんな「偉大なるローカル線」の末端区間にこんな列車が走っているなんて、なんというか時代も変わったものだ。普通列車に連結されている観光列車・・・なかなか粋ではないか。この「みすゞ潮彩」は、日本海の大海原が拝めるよう座席が海の方向に向けられている。なかなかいいアイデアであるが、イメージ的には伊豆急に運転されている「リゾート21」のような感じか。


(仙崎への支線と美祢線を分岐する長門市。かつては特急列車も停車したが、今では当時より利用者が半減した印象である。割に華奢な駅舎が印象的。)
ただ、私の訪問した時は8月。昼下がりの長閑な観光列車は日本海の強烈な西陽が差し込むではないか。一応冷房は効いているが、その西陽が暖房効果を産み車内は複雑な温度設定になってしまう。そんな車内で飲み干す「プレミアムモルツ」はすぐに2本目、3本目と進んでしまう。しかも「18」で乗れてしまうのだから格別だ。各駅に停車するのに特急列車のように優雅に過ごせる一石二鳥の思いであった。

(「みすゞ潮彩」は普通列車に連結される。ご覧の通り国鉄型車両の改造版であるが、車内はとても印象的であった。)
「18」でありながら観光列車に揺られ旅するのもいい。「偉大なるローカル線」の末端区間は最後まで偉大であった。この「みすゞ潮彩」は「観光」と「日常」が同居する異色の列車だ。連結部で仕切られているが「普通列車」の車両は学生諸君で満員御礼である。その情景を横目に「プレミアム」を頬張りながら日本海を眺めているのは実に申し訳ない気持ちであるが、意外にも地元民の利用も少なくない。この日も親子二人組が途中から乗車してきた。車掌が「こちらの車両は別料金が発生しますが」と説明すると、もちろん事前から承知の上で乗車してきたようで、素直に指定席料金を支払っていた。当然「観光」というよりは「座席確保」が目的であろうと思われるが、子供にとっては実に良いプレゼントになったのではないか。

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(萩市の中心地に近い東萩。文字通り玄関口であるが「東」を冠するのが気になる存在である。日本有数の観光地であるのに特急列車がやってこなくなって久しい。)
そんな中、この地区最大の、というより日本有数の観光地「萩」に着くが、玄関口となるのは隣の東萩である。さてここで貸切列車ともお別れか・・・初老のご婦人方のグループが挙って乗り込んでくるのだろうなぁなどと予想していた。ホームにはそれらしき人が数グループいた。だが・・・そのグループは列車に乗ってこなかった。そう、それは恐らく益田から特急列車に乗って新山口から新幹線に乗り換えるであろうと思われる乗客たちであったのだ。考えてみたら美祢線が不通である中、長門市から先に進み新下関から新幹線で帰郷する・・・とは考えにくいであろう。普通に考えたら新山口の方が「のぞみ」も停車するし、当然ながら選択される自然なコースだ。そんな事から、私の乗った列車の乗車率に増減は皆無であった。

(そしてこちらが本家?の萩。実に昭和的な雰囲気が今でも残っているのが嬉しい。しかしながら特急列車は過去に停車した記憶が無い。)
とても長閑な時間が過ぎていく「偉大なるローカル線」。このまま時を止めてしまいたくらいの衝動に駆られる中、終点の長門市に着く。ここで一旦仙崎に行き折り返し「みすゞ潮彩」に乗り「偉大なるローカル線」最後の最終段階、ラストスパートに突入する。そんな「偉大なるローカル線」の末端区間にこんな列車が走っているなんて、なんというか時代も変わったものだ。普通列車に連結されている観光列車・・・なかなか粋ではないか。この「みすゞ潮彩」は、日本海の大海原が拝めるよう座席が海の方向に向けられている。なかなかいいアイデアであるが、イメージ的には伊豆急に運転されている「リゾート21」のような感じか。


(仙崎への支線と美祢線を分岐する長門市。かつては特急列車も停車したが、今では当時より利用者が半減した印象である。割に華奢な駅舎が印象的。)
ただ、私の訪問した時は8月。昼下がりの長閑な観光列車は日本海の強烈な西陽が差し込むではないか。一応冷房は効いているが、その西陽が暖房効果を産み車内は複雑な温度設定になってしまう。そんな車内で飲み干す「プレミアムモルツ」はすぐに2本目、3本目と進んでしまう。しかも「18」で乗れてしまうのだから格別だ。各駅に停車するのに特急列車のように優雅に過ごせる一石二鳥の思いであった。

(「みすゞ潮彩」は普通列車に連結される。ご覧の通り国鉄型車両の改造版であるが、車内はとても印象的であった。)
「18」でありながら観光列車に揺られ旅するのもいい。「偉大なるローカル線」の末端区間は最後まで偉大であった。この「みすゞ潮彩」は「観光」と「日常」が同居する異色の列車だ。連結部で仕切られているが「普通列車」の車両は学生諸君で満員御礼である。その情景を横目に「プレミアム」を頬張りながら日本海を眺めているのは実に申し訳ない気持ちであるが、意外にも地元民の利用も少なくない。この日も親子二人組が途中から乗車してきた。車掌が「こちらの車両は別料金が発生しますが」と説明すると、もちろん事前から承知の上で乗車してきたようで、素直に指定席料金を支払っていた。当然「観光」というよりは「座席確保」が目的であろうと思われるが、子供にとっては実に良いプレゼントになったのではないか。

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18の、18による、18のための旅⑤
2016-01-04

(出雲市で撮影した「アクアライナー」。とてもDCとは思えぬ軽快な走りっぷりに時代が変わったものだと驚いてしまった。確かセミクロスシートであった記憶である。そのため長い時間の乗車にもそれほど苦にならない事であろう。事実、私もそうだったし。)
江津から先も引き続き快速「アクアライナー」で軽快に進む。浜田は「偉大なるローカル線」では屈指の主要駅となるが、基本的に出雲市~幡生は輸送密度が落ちる。今でこそローカルではワンマンが当たり前の時代であるが、この区間は割と早い時期にワンマン運転が実現したような記憶がある。それでもこの区間のみならず「偉大なるローカル線」はほぼ全線に渡り1980年代は旧型客車による普通列車が主流の時代であった。今でこそ軽快なDCが運転される時代になったが、浜田を初め西の主要駅は昔とほとんど変わらぬ佇まいである。それは主要駅に限らず、その他の駅にも言える事。この「偉大なるローカル線」はそういう場所にも魅力を感じさせるのもひとつの要因でもある。

(駅名標で申し訳ないが、国鉄⇒JRとして生まれ変わった浜田であるが、基本的に国鉄時代とあまり変わっていないと思う。もちろん時代と共に駅舎などのリニューアルなどはあろうが、なんというか、国鉄時代の名残があちこちに見られると思う。)
浜田と言えば、かつては東京から寝台特急が来ていた時代があった。そんな時代が懐かしく感じるが、そんな浜田もいつしか高速道路が開通し、鉄道の役割も半減以上になってしまった。それでもこの区間は昼間に特急列車はやってくる。まだまだ活躍して欲しいものであるが・・・
そして益田に到着する。今回紹介している旅ではこの先長門市まで進み、折り返し益田に戻り宿泊する予定であった。だが、残念ながら、この時美祢線が災害で不通になってしまっていたのだ。それを知ったのは旅行開始の3日前!急遽予定を変更して宿を新山口としたのであった。

(またまた駅名標で申し訳ないが、ハッキリ言って普通列車同士で山口線との接続がいいとは言えない益田。益田以西では特急列車の運転がなくなるので、制覇する場合は自然と、というより必然的に普通列車となる。
新山口を7時22分の列車に乗り再び益田に着いたのが9時51分であった。益田では約2分の待ち合わせで更に「偉大なるローカル線」を長門市方面へ向かう。基本的に益田では山口線との接続があまりよくない印象であったし、それこそJR西にご意見をひとつふたつ投稿したいと常に思っていたが、今回は2分での乗り換えと、かなり極端に接続の良すぎる場面であった。果たして座席を確保できるのか・・・と、山口線の列車に揺られながらそのことばかりに気を取られていた。その結果は・・・

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新年のご挨拶 2016
2016-01-01
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
早いものでこのブログで新年の挨拶をするのが4回目を迎えた。振り返ってみると、私は実に多くの旅をしてきたと思う。そしてその体験や経験など多くの事をこのブログで紹介してきた。そしてそれに付き合ってくださった現在このブログをご覧になっている皆様に多大なる感謝をいたします。

(関連写真が見当たらないため、今年もダイナミック✩トナカイ氏の写真を紹介してみよう。撮影時期は、恐らく1980年代と思うのは当然であるが、今は亡き「紀伊」である。東京~紀伊勝浦に運転されていた寝台特急であるが、なぜか名古屋は深夜の時間帯につき「通過」であった。もちろん運転停車はしていたであろう。考えてみたら随分と短い区間に運転されていた寝台特急であったなと今になって思う。)
そもそも私はなぜ鉄道が好きになったのであろうか。ハッキリ言ってわからない。そして産まれて物心着いた時には既にプラレールを握り締め「汽車」「電車」的な言葉に鋭く反応していた。そして小学生時代にはブルートレインの虜(とりこ)になり東京や上野に写真を撮影しに出かけたものだ。そして小学校4年生の時にはとうとう両親と寝台特急「富士」に乗り東京から西鹿児島(当時)までを24時間25分かけて制覇してしまった。これは実に素晴らしい体験であるとともに、私の中では強烈に印象に残る経験となった。

(ダイナミック✩トナカイ撮影の「富士」であるが、こちらも1982年頃であろう。当時からかなり車両がお疲れ気味の印象であるが、私が初めて乗車したブルートレインはこの「富士」であった。24系25型の電源車は当時ものすごく斬新で鮮烈な印象を受けた。)
当時は相模線西寒川駅前一等地に在住していたため、窓を開けると西寒川駅がすぐに飛び込んできた。晩年は我が家と駅の間に住宅が建ってしまったため駅が見えなくなってしまったが、それでも至近距離にあることには変わりなかった。それは中学を卒業する頃まで続いたので、恐らくこの「西寒川」の存在が私をレールファンにした最大の理由であったろう。つまり、私は西寒川と共に「歩んできた」と言っても過言ではない。

(1982~1983年頃の寝台急行「銀河」である。余剰の20系を充てたと思うが、後に24系などに変化していった行程は周知の通り。というより、もう急行という枠を超えているであろう。ダイナミック✩トナカイ提供。)
全く関係ない事であるが、そんな私は「ドリフターズ」が好きでたまらなかった。もちろん現在もその愛しさに変化はないが、特に荒井注に関しては「伝説」か「ディス・イズ・ア・ペン」でピンとくるかで大きく世代が別れるところであろう。私は1972年に神奈川県は大船の「松竹撮影所(鎌倉シネマワールド~現・鎌倉女子大)」にて加藤茶との撮影に成功している。当時、ドリフターズと言えば、まだまだ映画などでも活躍していて現在の印象は薄い時代であった。そして「8時だよ!全員集合」も最盛期を迎え、1973年には視聴率50%台を弾き出すなど、当時の子供からすれば超アイドル的存在であった。そんなドリフの存在に、父の「雀友」で大船の撮影所で働くスタッフがコネクションとなり私は加藤茶と対面する事になった。

(これは1972年12月に松竹大船撮影所<当時>で撮影されたものである。中央はご存知加藤茶氏であるが・・・若い!多分加藤氏が29歳であったはずだ!!ちなみに私は向かって一番右側であるが、当時3歳!)
そんなドリフターズを束ねるいかりや長介の存在が私は好きであった。もちろん私自身がもっと成長してからの感性であるが、かつて「東村山音頭」というのが流行した。これは志村けんが「少年少女合唱団」という「8時だよ!全員集合」のコーナーで披露されたものであった。現在そのVTRを見たら何が面白かったのか分からないが、当時は大変流行した。そして「3丁目」「1丁目」と続くわけであるが、その「3丁目」はなんといかりや長介が作詞作曲したというではないか!そして「3丁目が私自身の作品で一番流行った」と自叙伝で述べている。志村けんが適当に歌っていたのが、実はいかりやが作った歌とは知らなかった!いかりや長介や、特に志村けんの自叙伝を読んで頂ければお分かりいただけると思うが、ドリフターズは「チームワーク」が全てであった。

(撮影場所、時期が不明な「あさかぜ」。1980年代前半に20系がまだ「特急」として使用されていたのは私の記憶だと「あさかぜ」くらいであったような気がした。ダイナミック✩トナカイ提供。)
鉄道も「保線」「車掌」「駅員」など、クルーのチームワークがあって初めて成り立つと思う。というより、そこで働くどの人を欠いても鉄道運営は成り立たないであろう。普段私たちが見ている鉄道風景は、そこにいる現場の人たちが支えてくれている上で成り立っているという事を忘れてはならない。そして、何日も前から事前に計画し鉄道で旅をする私たちも無事に旅ができる事が、実は当たり前ではなく、数々のスタッフの努力によって遂行されているんだなという上での出来事であるのも忘れてはならない。だから鉄道は素晴らしい。だから列車で旅をしたくなる。そんな思いがこのブログで表現できたら実に最高であると私は思う。

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早いものでこのブログで新年の挨拶をするのが4回目を迎えた。振り返ってみると、私は実に多くの旅をしてきたと思う。そしてその体験や経験など多くの事をこのブログで紹介してきた。そしてそれに付き合ってくださった現在このブログをご覧になっている皆様に多大なる感謝をいたします。

(関連写真が見当たらないため、今年もダイナミック✩トナカイ氏の写真を紹介してみよう。撮影時期は、恐らく1980年代と思うのは当然であるが、今は亡き「紀伊」である。東京~紀伊勝浦に運転されていた寝台特急であるが、なぜか名古屋は深夜の時間帯につき「通過」であった。もちろん運転停車はしていたであろう。考えてみたら随分と短い区間に運転されていた寝台特急であったなと今になって思う。)
そもそも私はなぜ鉄道が好きになったのであろうか。ハッキリ言ってわからない。そして産まれて物心着いた時には既にプラレールを握り締め「汽車」「電車」的な言葉に鋭く反応していた。そして小学生時代にはブルートレインの虜(とりこ)になり東京や上野に写真を撮影しに出かけたものだ。そして小学校4年生の時にはとうとう両親と寝台特急「富士」に乗り東京から西鹿児島(当時)までを24時間25分かけて制覇してしまった。これは実に素晴らしい体験であるとともに、私の中では強烈に印象に残る経験となった。

(ダイナミック✩トナカイ撮影の「富士」であるが、こちらも1982年頃であろう。当時からかなり車両がお疲れ気味の印象であるが、私が初めて乗車したブルートレインはこの「富士」であった。24系25型の電源車は当時ものすごく斬新で鮮烈な印象を受けた。)
当時は相模線西寒川駅前一等地に在住していたため、窓を開けると西寒川駅がすぐに飛び込んできた。晩年は我が家と駅の間に住宅が建ってしまったため駅が見えなくなってしまったが、それでも至近距離にあることには変わりなかった。それは中学を卒業する頃まで続いたので、恐らくこの「西寒川」の存在が私をレールファンにした最大の理由であったろう。つまり、私は西寒川と共に「歩んできた」と言っても過言ではない。

(1982~1983年頃の寝台急行「銀河」である。余剰の20系を充てたと思うが、後に24系などに変化していった行程は周知の通り。というより、もう急行という枠を超えているであろう。ダイナミック✩トナカイ提供。)
全く関係ない事であるが、そんな私は「ドリフターズ」が好きでたまらなかった。もちろん現在もその愛しさに変化はないが、特に荒井注に関しては「伝説」か「ディス・イズ・ア・ペン」でピンとくるかで大きく世代が別れるところであろう。私は1972年に神奈川県は大船の「松竹撮影所(鎌倉シネマワールド~現・鎌倉女子大)」にて加藤茶との撮影に成功している。当時、ドリフターズと言えば、まだまだ映画などでも活躍していて現在の印象は薄い時代であった。そして「8時だよ!全員集合」も最盛期を迎え、1973年には視聴率50%台を弾き出すなど、当時の子供からすれば超アイドル的存在であった。そんなドリフの存在に、父の「雀友」で大船の撮影所で働くスタッフがコネクションとなり私は加藤茶と対面する事になった。

(これは1972年12月に松竹大船撮影所<当時>で撮影されたものである。中央はご存知加藤茶氏であるが・・・若い!多分加藤氏が29歳であったはずだ!!ちなみに私は向かって一番右側であるが、当時3歳!)
そんなドリフターズを束ねるいかりや長介の存在が私は好きであった。もちろん私自身がもっと成長してからの感性であるが、かつて「東村山音頭」というのが流行した。これは志村けんが「少年少女合唱団」という「8時だよ!全員集合」のコーナーで披露されたものであった。現在そのVTRを見たら何が面白かったのか分からないが、当時は大変流行した。そして「3丁目」「1丁目」と続くわけであるが、その「3丁目」はなんといかりや長介が作詞作曲したというではないか!そして「3丁目が私自身の作品で一番流行った」と自叙伝で述べている。志村けんが適当に歌っていたのが、実はいかりやが作った歌とは知らなかった!いかりや長介や、特に志村けんの自叙伝を読んで頂ければお分かりいただけると思うが、ドリフターズは「チームワーク」が全てであった。

(撮影場所、時期が不明な「あさかぜ」。1980年代前半に20系がまだ「特急」として使用されていたのは私の記憶だと「あさかぜ」くらいであったような気がした。ダイナミック✩トナカイ提供。)
鉄道も「保線」「車掌」「駅員」など、クルーのチームワークがあって初めて成り立つと思う。というより、そこで働くどの人を欠いても鉄道運営は成り立たないであろう。普段私たちが見ている鉄道風景は、そこにいる現場の人たちが支えてくれている上で成り立っているという事を忘れてはならない。そして、何日も前から事前に計画し鉄道で旅をする私たちも無事に旅ができる事が、実は当たり前ではなく、数々のスタッフの努力によって遂行されているんだなという上での出来事であるのも忘れてはならない。だから鉄道は素晴らしい。だから列車で旅をしたくなる。そんな思いがこのブログで表現できたら実に最高であると私は思う。

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