「西寒川駅」に拘る! ③
2016-06-30
西寒川駅の現役時代を集めてみた。過去の記事と重複する部分もあるが、ぜひこの「こだわり」を知っていただきたい。





雪の中の西寒川「5連発」。銀世界の西寒川駅のフォトは、おそらく所有しているのは全国探しても私のみであると思う。関東地区でこれだけの降雪は一年に数回あるかないかである。


駅の裏側から。つまり「私の住まい」の方角からである。駅前一等地の景色は「フェンス越しのノン・フィクション」。

お馴染みの一枚。私の記事等によく登場する画像である。西寒川駅といえばこの景色が一番似合っている。

現在の一之宮公園付近。畑が広がっているが、現在は完全住宅街に変身している。

記事に出てきた一枚。自宅より至近距離にあるのに、なぜか私の「マイカー」が紛れ込んでいる。

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以前からちょっと気になる事があるので興味ある方は「続きを読む」を開いてください。ちなみに鉄道とは全く関係ない内容です。





雪の中の西寒川「5連発」。銀世界の西寒川駅のフォトは、おそらく所有しているのは全国探しても私のみであると思う。関東地区でこれだけの降雪は一年に数回あるかないかである。


駅の裏側から。つまり「私の住まい」の方角からである。駅前一等地の景色は「フェンス越しのノン・フィクション」。

お馴染みの一枚。私の記事等によく登場する画像である。西寒川駅といえばこの景色が一番似合っている。

現在の一之宮公園付近。畑が広がっているが、現在は完全住宅街に変身している。

記事に出てきた一枚。自宅より至近距離にあるのに、なぜか私の「マイカー」が紛れ込んでいる。

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「西寒川駅」に拘る!①
2016-06-26
以前に西寒川駅に関しては当ブログにて紹介しているが、もっとより多くの方に「西寒川駅」を知っていただきたく、数回に渡り記事をアップしてみようと思う。既に前回の記事や、私のホームページ「西寒川駅」と重複する部分もあろうかと思うが、改めて紹介してみたい。
国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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国鉄時代の昭和50年代頃の相模線・寒川支線は当然ながら砂利輸送などの貨物列車は既に営業を終え旅客のみとなっていた。寒川駅構内に側線の撤去跡や無駄にやや広い空間があるが、そこに西寒川方面へのレールとホームがあったと各方面で誤解されている記事を多く見かける。実際は、橋本方面も西寒川行きも本線の島式ホームより発着しており西寒川へ向かう寒川支線専用のホームは無かった。寒川駅の側線撤去跡は寒川支線の「名残」の表現は正しいがそれは貨物輸送をしていた砂利輸送や日東タイヤ方面(海軍工廠)への「貨物輸送時代の名残」の表現が正しいといえよう。また、寒川支線廃止直前には寒川駅西側と駅舎のある東側を結ぶ跨線橋が完成、いわゆる「裏口」からの利用も便利になり、寒川駅も進化したものだと子供ながらに感じていた。また、駅舎が地上にあり、その駅舎側にレールのはがされた(いや、レールがあったと思われるが記憶が定かではない)一面一線のホームがあった。貨物ホームであったのか旧旅客ホームだったのかは不明であるが、現在は跨線橋の土台となりホームの痕跡は無い。その後、駅舎は跨線橋側に移り橋上駅舎に生まれ変わった。

(1984年の、多分2月であったと思う。雪化粧の西寒川駅の写真を所有しているのは、日本全国探しても恐らく私だけであろう。ただ、写真中央に私の「マイカー」が写り込んでしまったのが少々計算外であったが・・・)
寒川より橋本方面に向かい、線路はすぐに「大山踏切」付近でいったん全て収束し、踏み切りを過ぎるとすぐに本線と寒川支線の分岐点があった。本線と暫く単線並列で並走するが、寒川神社の参道入り口付近で二股に別れ、寒川支線は南西に折れていく。更に本線方面は本線沿いにやや進むと川寒川へと続く支線(というか当時は寒川駅構内側線扱いの砂利貨物支線)へ枝分かれする名残が見られるが、川寒川の現在はほぼ痕跡は確認できない。
西寒川方面への支線は寒川中学校と住宅街を進行方向左手に見るが、やがて左手に不自然な空地が現れた。現在は一之宮公園となっているが、当時は広大な空地となっていて、高い塀で囲まれており、通常は中に入れない仕組みになっていたが、子供たちにとって見れば格好の遊び場となり、私もよくお世話になった記憶がある。右側にも某工場のグラウンドがあり、そちらでも若干お世話になった感じである。その空地やグラウンドを過ぎると住宅街になるが、かつては畑であった。その住宅街付近から減速し踏切を通過すると西寒川に到着する。寒川~西寒川間1.5kmを約4分かかるという事は、表定速度は約20km/h強となるが、実際に全線通して20~30km/hの徐行運転である。

(申し訳ないが、またまた私の「マイカー」が写り込んでしまっている。別に歩きでも来れる距離ではあるのだが・・・)
駅前は四之宮方面にむかう車道が一本あり商店などの建造物は無く、駅裏手が住宅街となっている。駅前には大きな壁が立ちふさがっているが、それこそかつての「昭和産業」であり、後の「日東タイヤ」であった。駅前の道路を右手に行くとかつての四之宮への線路跡の空間が容易に判別できるが、所々に住宅や工場などに変化している。そのまま進むとやがて新明和工業の前に着く。そして新明和工業を過ぎるとすぐに築堤に向かう道がある。築堤に登ると西側に野球グラウンドなどの広い空間があるのだが、こここそが旧「四之宮駅」であった場所だ。広さから想像するに2~3本の側線があったと推測できるが、真意は不明である。付近は工場しかなく、というか、砂利採取当時は付近には旅客の収入源になるような施設等は無く、完全に「秘境駅」と認定できたであろう風景であったかも知れない。
旧四之宮に向かう途中には理髪店があったが現在は廃業している。また、西寒川駅より左手すぐにも理髪店があるが、そちらは現在も健在である。ちなみにどちらも女性の理髪師であった。西寒川周辺では理髪業はかなり儲かるのであろうか気になるところではあるが・・・
さて、西寒川駅を一般道で行くには一之宮小学校横を通る県道より向うが、途中で信号の無いYの字交差点を左折する。しかし西寒川駅への案内表示は無く、初めて来る人には非情にわかりづらかった。後年に信号が設置されたが、それで西寒川駅の所在が分かりやすくなるという事でもなかった。しかし、当時「日東タイヤ」は抜群の知名度であったため、例えば茅ヶ崎からタクシーなどで西寒川駅に向うときに「日東タイヤ」の名前を出せばほぼ100%の確率で西寒川駅に辿り着く事が出来たであろう事を付け加えておこう。

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廃止路線を訪ねて② (相模線・寒川支線)(リメイク版)
2016-06-22
かつて紹介した西寒川に関する記事であるが、個人的な思い入れもありバックナンバーを引っ張り出してみた。若いレールファンにも西寒川駅を知っていただくという意味もあるが、私の世代に近い方も懐かしい部分もあると思うので数回にわたり紹介してみようと思う。

(お馴染みの写真である1984年2月に撮影の西寒川駅。中学卒業を控え、学校も1ヶ月くらい自由登校になりかなり優雅なひと時を過ごした。)
相模線は、東海道線の茅ヶ崎より北へ進み、横浜線の橋本に至る33.3キロの路線である。だが、かつては、途中の寒川より1.5キロの支線が延びていた。詳しい歴史については割愛するが、私はかつて、この支線の終点「西寒川」の駅前に住んでいた事がある。幼少時代~高校生までこの地で過ごしたため、この生活こそ私の鉄道人生の「原点」と言っても過言ではないであろう。茅ヶ崎の耳鼻科への通院に週に2~3回相模線を利用していた。おそらくこの経験が「鉄道」の目覚めのきっかけとなったであろうが、タイトルに「訪ねて」としたのは正確でないかも知れない。窓を開ければ駅は見えた訳だし、歩いて20秒もかからないので、あえて「訪ねる」までも無いであろう。

駅は棒線の一面一線で駅員無配置である。車止めの先には過去の「四之宮」までの線路跡らしき空間が確認できた。廃止前は、1日4本の列車が設定されており、朝1本、夕方3本とやや偏りを見せていたが、昼間の列車は設定されていないため、相模線の利用の際には寒川駅まで出向かなければならない。鉄道制覇の際の門出には必ず西寒川からの出発に拘った。ホームは3両編成の列車ははみ出てしまうというのに、朝には4両編成の列車もやってくる。若干の雨よけ用の屋根の下にはラッチと呼べるかどうか分からないが改札があり、駅前一等地はいきなり工場の壁にぶち当たる。左へ向うと飲食店と理容店があり、右の四之宮方面にも理容店があったが、四之宮方は現在は廃業している。ちなみにこの理容店は女性が経営していたが、順番待ちの際には紅茶のサービスがあった。更に右には工場地帯に続く道があり、民家も疎らだ。そんな寒川支線も昭和59年3月に廃止されてしまった。それから暫くして私は西寒川の駅前の自宅を辞した。父の仕事の関係で同じ相模線の倉見駅付近に転居したのだ。

現在、線路跡はほぼ緑道として残っているため、その痕跡を確認できる。また、西寒川駅に関しては「八角広場」となり、付近の住民の憩いの場となっている。また、付近には高速道路も建設され、景色がかなり変化してきた。現役当時は、私の知る限りだがキハ10の気動車が走る姿が最初である。それからキハ20、キハ35と変化していったが、私はキハ20が一番好きであった。キハ35はロングシートのため、乗ってて味気なく、車窓を見るのにも一苦労である。また、鉄道路線制覇の旅の出発の際、最初のスタートの駅が「西寒川」であった。西寒川は無人駅のため、車内で車掌からきっぷを購入する。
当時はまだ「ワンマン」という概念が鉄道には無かったため、車掌も忙しかったと思う。と言っても寒川~西寒川間は乗客も疎らであるため業務に多少なりとも余裕があったであろうが・・・そんな西寒川も、今は記憶の中の一部になってしまったが、目を閉じると、今もホームに「キハ20」が私を待ってる情景が鮮明に蘇る。

(廃止当日の1984年3月31日のみ運転された寒川~西寒川間の区間運転列車。通常は全て茅ヶ崎発着であったので貴重な臨時列車であった。)
さて、西寒川駅に関しては、別途ホームページを用意したので、そちらも参照して頂ければ幸いである。

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(お馴染みの写真である1984年2月に撮影の西寒川駅。中学卒業を控え、学校も1ヶ月くらい自由登校になりかなり優雅なひと時を過ごした。)
相模線は、東海道線の茅ヶ崎より北へ進み、横浜線の橋本に至る33.3キロの路線である。だが、かつては、途中の寒川より1.5キロの支線が延びていた。詳しい歴史については割愛するが、私はかつて、この支線の終点「西寒川」の駅前に住んでいた事がある。幼少時代~高校生までこの地で過ごしたため、この生活こそ私の鉄道人生の「原点」と言っても過言ではないであろう。茅ヶ崎の耳鼻科への通院に週に2~3回相模線を利用していた。おそらくこの経験が「鉄道」の目覚めのきっかけとなったであろうが、タイトルに「訪ねて」としたのは正確でないかも知れない。窓を開ければ駅は見えた訳だし、歩いて20秒もかからないので、あえて「訪ねる」までも無いであろう。

駅は棒線の一面一線で駅員無配置である。車止めの先には過去の「四之宮」までの線路跡らしき空間が確認できた。廃止前は、1日4本の列車が設定されており、朝1本、夕方3本とやや偏りを見せていたが、昼間の列車は設定されていないため、相模線の利用の際には寒川駅まで出向かなければならない。鉄道制覇の際の門出には必ず西寒川からの出発に拘った。ホームは3両編成の列車ははみ出てしまうというのに、朝には4両編成の列車もやってくる。若干の雨よけ用の屋根の下にはラッチと呼べるかどうか分からないが改札があり、駅前一等地はいきなり工場の壁にぶち当たる。左へ向うと飲食店と理容店があり、右の四之宮方面にも理容店があったが、四之宮方は現在は廃業している。ちなみにこの理容店は女性が経営していたが、順番待ちの際には紅茶のサービスがあった。更に右には工場地帯に続く道があり、民家も疎らだ。そんな寒川支線も昭和59年3月に廃止されてしまった。それから暫くして私は西寒川の駅前の自宅を辞した。父の仕事の関係で同じ相模線の倉見駅付近に転居したのだ。

現在、線路跡はほぼ緑道として残っているため、その痕跡を確認できる。また、西寒川駅に関しては「八角広場」となり、付近の住民の憩いの場となっている。また、付近には高速道路も建設され、景色がかなり変化してきた。現役当時は、私の知る限りだがキハ10の気動車が走る姿が最初である。それからキハ20、キハ35と変化していったが、私はキハ20が一番好きであった。キハ35はロングシートのため、乗ってて味気なく、車窓を見るのにも一苦労である。また、鉄道路線制覇の旅の出発の際、最初のスタートの駅が「西寒川」であった。西寒川は無人駅のため、車内で車掌からきっぷを購入する。
当時はまだ「ワンマン」という概念が鉄道には無かったため、車掌も忙しかったと思う。と言っても寒川~西寒川間は乗客も疎らであるため業務に多少なりとも余裕があったであろうが・・・そんな西寒川も、今は記憶の中の一部になってしまったが、目を閉じると、今もホームに「キハ20」が私を待ってる情景が鮮明に蘇る。

(廃止当日の1984年3月31日のみ運転された寒川~西寒川間の区間運転列車。通常は全て茅ヶ崎発着であったので貴重な臨時列車であった。)
さて、西寒川駅に関しては、別途ホームページを用意したので、そちらも参照して頂ければ幸いである。

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よろしく哀愁。よろしく九州㉑ 添田
2016-06-20

添田と言えば日田彦山線の駅であるが、かつては添田線が分岐していた。添田線を「分岐していた」と表現したが、かつてはその添田線が日田彦山線の一部であったのは周知の通りである。その証拠に、添田線現役時代は一番線から発着しており、本線である2番線・3番線の島式ホームは後付けであるかのように若干Yの字的にホームが離れていた。イメージ的には四国にある池ノ谷や奥羽本線の北山形のような感じであろう。その1番線は現在は無くなっており、2番線・3番線の島式ホームが残る異様な光景となってしまった。ホームから駅舎まではやや離れており不便さを感じる事であろうが、現在は駅員無配置となってしまった。添田のような駅に駅員がいないのはかつてを知る者にとっては信じられない光景であるが、現在ではこういった光景が普通の一般になってしまっている。更に添田線という片翼を失ってしまいかなり寂しく変化してしまったが、まだまだ昭和的なかつての面影も残っているのが嬉しい。

駅員無配置となってしまった添田。全くシンプルに機能している感じが漂う。もちろん、この駅に観光で来る者は私のようなもの好き以外皆無であろう。

駅舎を抜けホームに向かう。かつて添田線だった場所は抜け殻のようになっていた。

駅舎からホームまでが長い!現在の添田は2番線と3番線しかない。随分寂しくなったものだ。






ご覧の通り、唯一の島式ホームであるが、その他にわずかな側線と広い構内がかつての盛栄を無言で語っている。添田線と言えばかつては赤字ワーストの常連であった。一時は営業係数3000円代にまで転落した事がある。100円の利益をあげるのに経費が3000円以上かかるという理屈であるが、あくまで「額」ではなく「率」である。「額」で考えた場合、当時の東海道線のそれと比べた場合、ケタ外れの差があった。赤字ローカル線を廃止すれば国鉄の赤字が解消されると、当時の国鉄関係者は本気で考えていたのであろうか・・・

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姿なき挑戦者② 夜行普通列車ながさき(後編)
2016-06-16
肥前山口で下り「ながさき」を乗り捨てた私は再び上り「ながさき」を拾う。そう、上りと下りを駆使し一泊の宿代を浮かすという荒業にでた。と言っても当時私は中学生。経済的制約の中何とかやりくりしなければならず、何度か旅の場数を踏んで得た知恵である。今考えればまだまだやれることはあったかも知れない。しかし当時、自身の経験や知識をフルに活かした結果である。いわば私の「総力」であった。
そんな思いを抱きながらセカンドコンタクトの「ながさき」に乗車。途中駅からの乗車のため座席はほぼ埋まっていたが、ポツリポツリと座席が空いているので暫しの休息時間を確保できた。
やがて、というより殆ど寝れないまま二日市に到着。ほんの数時間であるがセカンドコンタクトはこんなものであろう。
ただ、私は「ながさき」に乗りに来たのではなく、あくまで「鹿児島交通」の制覇が目的であったため、この「ながさき」は「手段」であった。今になってこの経験が大変貴重なものになるとは・・・

(10系寝台の外観。懐かしさ満点である。)
さて、第三コンタクトは佐世保発の「ながさき」に乗る事だ。今回の「ながさき」は佐世保~門司なのでゆっくり寝れる。勿論寝る目的で乗車するにはもったいないが、途中駅で下車するわけでもないので(と言っても終点までの乗車ではないが)、気が楽である。そう思うとやはりいつの間にか記憶がなくなっているのだが・・・
松浦線で佐世保に着いたのが21時45分であるが「ながさき」の発車は翌0時30分である。なんと約3時間待ちであった。出発時間まで改札は無いので、小さな待合室で何をするわけでもなくただ只管待つのみであったが、今の私ならどうであろう・・・3時間もあったらインターネットで「吉田類の居酒屋放浪記」にでも出てきそうな居酒屋を予め検索し、和やなひと時を過ごしていたであろう。だが、当時は中学生。逆に味のある居酒屋などで過ごす中学生なんか、とても怖くて近寄れないであろう。まぁ、それ以前の問題であるが・・・

(10系寝台は長崎行きに連結。青春18でも利用できればよかったのだが・・・)
などしているうちにとても長い時間が過ぎた頃、ようやく改札が始まった。佐世保発の「ながさき」は厳密には列車名は無い。強いて言えば4420レとでも言おうか。列車番号しか表現する術が無いが、早岐で列車番号が1420レに変更になる。これは長崎発の「ながさき」が早岐で併合するためだ。こちらは寝台車が一両連結されているため愛称が付いているのだ。しかも伝統ある大村線経由、つまり旧・長崎本線経由での運転であった。佐世保発は早岐でスイッチバックの形を取り方向転換する。

(早岐にて。ここで「ながさき」の分割・併合が行われる。)
佐世保発の車両は確か3~4両編成くらいであったと思うが、乗客は殆どが長崎発に集中しており佐世保発はワンボックスで足を伸ばしても他に迷惑をかけないくらいの快適さである。そのためか、足こそ伸ばしていなかったが、気が付けば北九州の通勤時間帯の中を走っており、列車はほぼスーツ姿の乗客で埋め尽くされている。旧型客車にスーツ姿とはなんともアンマッチであるが、この「ながさき」もしっかりと自身の役割を果たしていた。そして通勤客と一緒に門司駅のホームに降りる・・・逆にアンマッチな中学生二人組。夜行普通列車の意味もあまりわからないまま乗車していたが、今となってはこの貴重な体験も、お金では買えない思い出となってしまった。もしふたたび「ながさき」が当時と同じ姿で運転されるとしたら、私はどのような気持ちで乗車するであろうか・・・
※写真は全て「maatan様」ご提供です。御協力ありがとうございました。

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鉄道全線完全制覇の旅
そんな思いを抱きながらセカンドコンタクトの「ながさき」に乗車。途中駅からの乗車のため座席はほぼ埋まっていたが、ポツリポツリと座席が空いているので暫しの休息時間を確保できた。
やがて、というより殆ど寝れないまま二日市に到着。ほんの数時間であるがセカンドコンタクトはこんなものであろう。
ただ、私は「ながさき」に乗りに来たのではなく、あくまで「鹿児島交通」の制覇が目的であったため、この「ながさき」は「手段」であった。今になってこの経験が大変貴重なものになるとは・・・

(10系寝台の外観。懐かしさ満点である。)
さて、第三コンタクトは佐世保発の「ながさき」に乗る事だ。今回の「ながさき」は佐世保~門司なのでゆっくり寝れる。勿論寝る目的で乗車するにはもったいないが、途中駅で下車するわけでもないので(と言っても終点までの乗車ではないが)、気が楽である。そう思うとやはりいつの間にか記憶がなくなっているのだが・・・
松浦線で佐世保に着いたのが21時45分であるが「ながさき」の発車は翌0時30分である。なんと約3時間待ちであった。出発時間まで改札は無いので、小さな待合室で何をするわけでもなくただ只管待つのみであったが、今の私ならどうであろう・・・3時間もあったらインターネットで「吉田類の居酒屋放浪記」にでも出てきそうな居酒屋を予め検索し、和やなひと時を過ごしていたであろう。だが、当時は中学生。逆に味のある居酒屋などで過ごす中学生なんか、とても怖くて近寄れないであろう。まぁ、それ以前の問題であるが・・・

(10系寝台は長崎行きに連結。青春18でも利用できればよかったのだが・・・)
などしているうちにとても長い時間が過ぎた頃、ようやく改札が始まった。佐世保発の「ながさき」は厳密には列車名は無い。強いて言えば4420レとでも言おうか。列車番号しか表現する術が無いが、早岐で列車番号が1420レに変更になる。これは長崎発の「ながさき」が早岐で併合するためだ。こちらは寝台車が一両連結されているため愛称が付いているのだ。しかも伝統ある大村線経由、つまり旧・長崎本線経由での運転であった。佐世保発は早岐でスイッチバックの形を取り方向転換する。

(早岐にて。ここで「ながさき」の分割・併合が行われる。)
佐世保発の車両は確か3~4両編成くらいであったと思うが、乗客は殆どが長崎発に集中しており佐世保発はワンボックスで足を伸ばしても他に迷惑をかけないくらいの快適さである。そのためか、足こそ伸ばしていなかったが、気が付けば北九州の通勤時間帯の中を走っており、列車はほぼスーツ姿の乗客で埋め尽くされている。旧型客車にスーツ姿とはなんともアンマッチであるが、この「ながさき」もしっかりと自身の役割を果たしていた。そして通勤客と一緒に門司駅のホームに降りる・・・逆にアンマッチな中学生二人組。夜行普通列車の意味もあまりわからないまま乗車していたが、今となってはこの貴重な体験も、お金では買えない思い出となってしまった。もしふたたび「ながさき」が当時と同じ姿で運転されるとしたら、私はどのような気持ちで乗車するであろうか・・・
※写真は全て「maatan様」ご提供です。御協力ありがとうございました。

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鉄道全線完全制覇の旅
姿なき挑戦者① 夜行普通列車「ながさき」(前編)
2016-06-12
私にとって夜行列車はかなりの思い入れがあるが、特に夜行普通列車に関しては「青春18きっぷ」登場以来、それまでブルートレインしか知らない私にその存在を教えてくれた。1982年春・・・青春18がこの世に登場して以来、私の鉄道旅に関する概念に革命が起きてしまった。普通列車のみで旅をする・・・これほど究極かつコアな旅は無いであろう。数々の要素が詰まっている素敵な旅・・・一般的な旅では味わえない風光明媚な情緒あふれる極限の旅。非日常的な旅する側が「日常」に入り込んで「非日常」を体験する・・・そんな旅ではないであろうか。
以前、このブログで紹介した「ながさき」は素晴らしい夜行普通列車であった。当時私は中学2年~3年にステップアップする春休みであったし、14歳位であるならば旅の情緒なども今の私ほど「触覚」が足りなかったであろう。しかしながら、振り返れば自慢ではないが私はいい旅をしてきたと思う。今の私が当時の私を振り返っても羨ましい限りだ。そんな思いもあり、修正を加え再アップしてみた。既にご覧になった方にも、もちろん初めての方もしばらく私の昔話に少々お付き合いいただければ幸いである。

(鳥栖にて。鳥栖といえば鉄道的には要衝的な存在であるが、現在は昔に比べ随分スッキリスリムになってしまった。)
夜行普通列車・・・「夜行列車」というジャンルは、私が最も好む空間であるが、特に私はブルートレイン世代であるから「2段ハネ」が当時最新の寝台車両で「富士」などで電源車とともに茅ヶ崎を通過していくシーンを見ては感動していたわけだ。また、上野発の583系も異様な魅力であったが、特に寝台に変身したあの車内の雰囲気は何とも言えず夜行列車の「におい」みたいなものがあり、独特の空間でもあった。そんなブルトレ少年に、あるきっぷが普通夜行列車の存在を教えてくれた。それはご存じ「青春18」である。
国鉄(当時・現JR)の普通列車や快速列車など、指定席券以外の別料金が発生しない列車に乗り降り自由の優れものだ。この切符が1982年春に登場以来、私は普通列車を駆使して全国を駆け巡った。その際に宿泊に関する経済的な余裕はもちろん無く、宿はもちろん「普通列車」である。つまり普通列車でありながら夜行列車でもある列車がその旅の旅籠になるのだ。青春18が登場した当初はこの普通夜行列車が全国各地に走っており、比較的予定が組みやすかった。ただ、私は基本「駅寝」を嫌う主義なので、当時は北陸や東北、北海道などの大地を踏めず、変な空白地帯が出来上がってしまった。それでも私はこの夜行普通列車をフルに使い1983年春にはとうとう普通列車のみで九州に上陸してしまった。目的は鹿児島交通を制覇・訪問するためであったが、そんな中、九州にも普通夜行列車が存在し、門司から先に進む際にはこの夜行列車のお陰で非常に歩留り良く予定を組み立てられたのだ。
九州に存在した普通夜行列車・・・その名は「ながさき」。門司港~長崎・佐世保で運転されており、長崎行はなんと早岐より旧・長崎本線である大村線経由となり長崎に向かうのだ。
ところで今回、この「ながさき」の写真の掲載については「汽車旅悦楽館」を管理していらっしゃる「maatan」様に御協力いただいた。とても貴重な旅をなさっており、勉強になると同時に旅の楽しさが非常に心地よくダイレクトに伝わってくる。一見の価値「大」。この場を借りてお礼申し上げます。
maatan様、本当に御協力ありがとうございます。心より感謝しております。

(小倉駅にて。当時九州ではおなじみのED76が牽引だ。)
九州に存在していた普通夜行列車・・・それは「ながさき」と名乗り、いわゆる旧型客車で運転されいた。寝台車も連結されていたが、なんと10系寝台車!マルスで処理する都合上に付けられた愛称であろうが、ひらがな表記になんとも言えぬ味を感じる。運転区間は門司港~長崎・佐世保であるが、先述通り長崎行きは早岐で切り離され大村線経由、つまり旧・長崎本線経由で運転されている貴重な存在でもあったのだ。そんな歴史ある列車を、当時の私は単純に「宿泊施設」として利用していたのだから何とも失礼な中学生であった。
今回の旅で私は宿として「ながさき」に3度ほど乗車した。最初は門司港から肥前山口まで、2回目は肥前山口から二日市まで、3回目は佐世保から門司までである。一度の旅で3度の乗車は今考えたら贅沢であるが、この時は完全に「旅籠」と化していたのだから本当に失礼な私であった。

(長崎行き(発)は寝台車が連結されている。しかも10系客車だ!)
ということでまず「ながさき」とのファーストコンタクトは門司港駅からだ。青春18が登場以来、この「普通夜行列車」なる存在を初めて知ったわけであるが、気が付くと青春18で東京から九州まで来るという事を実践できるまでになっていた。東京で大垣夜行の座席を確保するのに2~3時間待つという知恵もついた。大垣夜行で東京を出た私が門司港に着いたのは「ながさき」の乗車にちょうどいい22時頃の時間帯である。つまり、東京から約23時間近く列車に揺られながら遥々九州までやって来たのだ。

(「ながさき」の車内。旧型客車の運用で、乗り心地は決して「良い」とは言わないが「悪い」とは全く思わないのは私だけであろうか?)
さて「ながさき」の列車編成であるが、いわゆる「旧型客車」が10両くらいであったと思う。更に先述した寝台車も連結されており「夜行」という名にふさわしい。しかも10系寝台である!残念ながら「18」では寝台車に乗車できなかったので私は座席の方でお世話になったが、寝台車は分割がある途中の早岐より長崎行きに連結される。
門司港から乗車した私たちは「肥前山口」という、何とも中途半端な深夜の時間帯に下車する行程を立てた私だが、これには大きなマジックがあった。もう、お判りであろう・・・
写真は全て「maatan」様提供。

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鉄道全線完全制覇の旅
以前、このブログで紹介した「ながさき」は素晴らしい夜行普通列車であった。当時私は中学2年~3年にステップアップする春休みであったし、14歳位であるならば旅の情緒なども今の私ほど「触覚」が足りなかったであろう。しかしながら、振り返れば自慢ではないが私はいい旅をしてきたと思う。今の私が当時の私を振り返っても羨ましい限りだ。そんな思いもあり、修正を加え再アップしてみた。既にご覧になった方にも、もちろん初めての方もしばらく私の昔話に少々お付き合いいただければ幸いである。

(鳥栖にて。鳥栖といえば鉄道的には要衝的な存在であるが、現在は昔に比べ随分スッキリスリムになってしまった。)
夜行普通列車・・・「夜行列車」というジャンルは、私が最も好む空間であるが、特に私はブルートレイン世代であるから「2段ハネ」が当時最新の寝台車両で「富士」などで電源車とともに茅ヶ崎を通過していくシーンを見ては感動していたわけだ。また、上野発の583系も異様な魅力であったが、特に寝台に変身したあの車内の雰囲気は何とも言えず夜行列車の「におい」みたいなものがあり、独特の空間でもあった。そんなブルトレ少年に、あるきっぷが普通夜行列車の存在を教えてくれた。それはご存じ「青春18」である。
国鉄(当時・現JR)の普通列車や快速列車など、指定席券以外の別料金が発生しない列車に乗り降り自由の優れものだ。この切符が1982年春に登場以来、私は普通列車を駆使して全国を駆け巡った。その際に宿泊に関する経済的な余裕はもちろん無く、宿はもちろん「普通列車」である。つまり普通列車でありながら夜行列車でもある列車がその旅の旅籠になるのだ。青春18が登場した当初はこの普通夜行列車が全国各地に走っており、比較的予定が組みやすかった。ただ、私は基本「駅寝」を嫌う主義なので、当時は北陸や東北、北海道などの大地を踏めず、変な空白地帯が出来上がってしまった。それでも私はこの夜行普通列車をフルに使い1983年春にはとうとう普通列車のみで九州に上陸してしまった。目的は鹿児島交通を制覇・訪問するためであったが、そんな中、九州にも普通夜行列車が存在し、門司から先に進む際にはこの夜行列車のお陰で非常に歩留り良く予定を組み立てられたのだ。
九州に存在した普通夜行列車・・・その名は「ながさき」。門司港~長崎・佐世保で運転されており、長崎行はなんと早岐より旧・長崎本線である大村線経由となり長崎に向かうのだ。
ところで今回、この「ながさき」の写真の掲載については「汽車旅悦楽館」を管理していらっしゃる「maatan」様に御協力いただいた。とても貴重な旅をなさっており、勉強になると同時に旅の楽しさが非常に心地よくダイレクトに伝わってくる。一見の価値「大」。この場を借りてお礼申し上げます。
maatan様、本当に御協力ありがとうございます。心より感謝しております。

(小倉駅にて。当時九州ではおなじみのED76が牽引だ。)
九州に存在していた普通夜行列車・・・それは「ながさき」と名乗り、いわゆる旧型客車で運転されいた。寝台車も連結されていたが、なんと10系寝台車!マルスで処理する都合上に付けられた愛称であろうが、ひらがな表記になんとも言えぬ味を感じる。運転区間は門司港~長崎・佐世保であるが、先述通り長崎行きは早岐で切り離され大村線経由、つまり旧・長崎本線経由で運転されている貴重な存在でもあったのだ。そんな歴史ある列車を、当時の私は単純に「宿泊施設」として利用していたのだから何とも失礼な中学生であった。
今回の旅で私は宿として「ながさき」に3度ほど乗車した。最初は門司港から肥前山口まで、2回目は肥前山口から二日市まで、3回目は佐世保から門司までである。一度の旅で3度の乗車は今考えたら贅沢であるが、この時は完全に「旅籠」と化していたのだから本当に失礼な私であった。

(長崎行き(発)は寝台車が連結されている。しかも10系客車だ!)
ということでまず「ながさき」とのファーストコンタクトは門司港駅からだ。青春18が登場以来、この「普通夜行列車」なる存在を初めて知ったわけであるが、気が付くと青春18で東京から九州まで来るという事を実践できるまでになっていた。東京で大垣夜行の座席を確保するのに2~3時間待つという知恵もついた。大垣夜行で東京を出た私が門司港に着いたのは「ながさき」の乗車にちょうどいい22時頃の時間帯である。つまり、東京から約23時間近く列車に揺られながら遥々九州までやって来たのだ。

(「ながさき」の車内。旧型客車の運用で、乗り心地は決して「良い」とは言わないが「悪い」とは全く思わないのは私だけであろうか?)
さて「ながさき」の列車編成であるが、いわゆる「旧型客車」が10両くらいであったと思う。更に先述した寝台車も連結されており「夜行」という名にふさわしい。しかも10系寝台である!残念ながら「18」では寝台車に乗車できなかったので私は座席の方でお世話になったが、寝台車は分割がある途中の早岐より長崎行きに連結される。
門司港から乗車した私たちは「肥前山口」という、何とも中途半端な深夜の時間帯に下車する行程を立てた私だが、これには大きなマジックがあった。もう、お判りであろう・・・
写真は全て「maatan」様提供。

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鉄道全線完全制覇の旅
よろしく哀愁。よろしく九州⑳ 歓遊舎ひこさん
2016-06-08

日田彦山線に新しい駅が誕生した。と言っても誕生してから既に8年が経過したが、その存在はいたって地味な部類に入るであろう。そして、文字通り道の駅に併設されているが「鉄道の駅」の入口も実に地味である。つまり、至っては私の得意分野でもあるわけだ。例えば道の駅を茶碗一杯のご飯に例えると、鉄道の駅はそのご飯粒一粒くらいであろうか。しかも入口が道の駅のわりかし地味な場所にありわかり辛い。完全に主役は「道の駅」である。考えてみたら道の駅に列車で訪れる人はそう多くないであろうし奇妙な行動でもあるが、実際に私のような「変わり者」もいるわけだからその存在意義も大きい!ただ、私の訪問時間帯的にそろそろ店じまい的な雰囲気であったので一部の店舗は明かりが消えていたが、地元で収穫された野菜なども販売しており、ある意味「地域密着」でもあろう。こうした駅はここだけではないが、地味さ加減を評価するとこの駅はトップクラスであろう。

これが道の駅・歓遊舎ひこさんである。鉄道の駅の入口は、写っていないが写真右側のハズレにある。

道の駅の建物脇にある「JR九州」の入口。というよりWCの入口と間違えそうな雰囲気である・・・

こんな感じの通路で結ばれている。道の駅の裏手に位置し、実にひっそりと地味に自身の役割を果たしている。


スミマセンが、この「鉄道の駅」も独占させていただいた。1面1線の棒線型ホームは普通列車しかやって来ない。至って地味で控えめな存在が逆に「フラッシング・エルボー(辻義就が言うと<フラッシュニング・エルボー>となるが)」のようにキラキラっと輝く。

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よろしく哀愁。よろしく九州⑲ 彦山
2016-06-04

彦山と言えば、言わずと知れた「英彦山」の最寄駅として活躍しているが・・・列車に揺られ英彦山を訪れる人はそう多くないであろう。もちろん休日などには一時の賑わいを見せるかも知れないが、普通に考えてみたらやはりレールファンが好む要素が多く含まれる日田彦山線の一部分であろう。とは言え、かつては賑わったであろう広い駅舎内は懐かしい雰囲気の木造である。今回私が訪問した時間帯は夕方であったが、ハッキリ言って貸切であった。駅前はコンパクトな「昔の観光地」的な雰囲気を醸し出しており実に味がある。それこそ「男はつらいよ」など映画のワンシーンにでも出てきそうなロケーションだ。

(国鉄型駅名標が今も健在!「英彦山」の玄関口として今も活躍している・・・と言いたいが、現在、交通の主役は既に交代しており、かつての名残が各所に見受けられるのみとなってしまった。)
今回私はレンタカーでの訪問となったが、文字通り「山の中」の駅であり日が暮れるのが早い。そして駅周辺は街を形成しているわけでもなく、むしろ秘境駅に近い。であるから、丸一日読書や旅計画など駅舎内で過ごすのも良さそうな感じだ。ハッキリ言って私の家にこういった空間が欲しい。
そして、交通の主役が「鉄道」から「車」に変わった事を象徴するかのように付近に「道の駅」が誕生した。その名も「観遊舎ひこさん」と名乗り、そして「鉄道の駅」も併設されてた。とは言え、やはり「鉄道の駅」は自身の存在をかなり地味にアピールしており、道の駅の片隅が鉄道の駅の入口となっている。私にしてみればその地味さ加減がたまらない!その「道の駅」は次章で紹介してみよう。


細かい部分の変更はあるものの、概ね塗装のみリニューアルされていると思われる駅舎は昔ながらの懐かしさがあふれる。



駅舎の待合室は意外に広い。もちろん「玄関口」としての役割からであろう。だが、私の訪問した時間帯は「秘境駅」的な雰囲気に包まれていた。もちろん「独占」であった。


2面3線の配線であるが、島式ホームはかつては屋根があったはずだ。現在はなんとなくスッキリしてしまって寂しい。

昭和的駅前の雰囲気たっぷり!彦山駅は併走する道路より一段高くなっている場所にある。それがまたこの駅を魅力的を引き立てる要素にもなっている。静寂に包まれたこの場所にもう少し滞在したい気分であるが、次の訪問先に向かわねばならない・・・

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