1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅①
2017-07-30
いよいよ「18」シーズン真っ盛りとなった。私も「18」フリークとして季節柄、過去の「18」の旅を紹介してみようと思いPCに向かった。今回は東京からはるばる九州向かった時の旅であるが、既に紹介している1983年春の旅の中で登場する旅で、当時私は東京から普通列車のみで西鹿児島まで行ってしまった。当時は中学2年~3年へのステップアップの時であった。乗車券は・・・もちろん「青春18」であった。当時、廃止情報が流れた鹿児島交通制覇のための旅であったが、今考えたら普通列車のみで鹿児島まで行くとはかなりの無謀者!と自身を評価してしまうくらいとんでもない事であった。というか、若かったからできたのであろう。今同じことをやってみろと言われても、おそらく無理かも知れない。そう、誰かの歌ではないが「若いうちはやりたいこと、なんでもできるのさ~」的な事は、自身がまだ若かった頃は実感としてなかったが、今の私ならばかなり実感として感じる事ができる。

既に何度も登場している写真であるが、それこそ今回紹介の旅で使用した「18」である。ただ、日付的に若干ずれているが、いずれにしてもこの切符が前年の春に登場して以来、実に画期的な事であった。そして日本全国のレールファンの間で旅の手段としてのバリエーションが広がり、更に増えた事であろう。
東京から鹿児島へ行く場合、完全に飛行機の場合の方が料金・所要時間ともに軍配があがるであろう。ただ、それはあくまで「移動手段」としての評価であって、たとえば「旅」という観点から考えた場合どうなるであろう。そんな答えを探すべく、今回この旅を紹介してみようと思った。もちろんこの記事がアップされる季節を考えた場合、青春18が「旬」を向かえているという部分もあるが、改めて若かりし自分と再会してみようとキーボードを叩いてみた。だが、若いレールファンには馴染みの無い駅名や聞きなれない列車名が出てくることであろうが、その点はお許しいただいて「昔の鉄道」を知るきっかけとなってくれれば幸いであると思う。そんなわけで、私の「18」を紹介してみよう。

現在でいう留萌本線や日高本線一部区間のように、世間的に廃止情報が流れていた鹿児島交通。私の訪問日は1983年3月31日、つまり廃止情報によるとちょうどこの日が廃止予定日であった。だが、現場に着いてから廃止が延期になった事を知る。
前述したが、私は廃止情報が流れた鹿児島交通をひと目見ようと西へ向かった。当時私は中学生であったので親の支援に頼ったが、それでも「18」は経済的に旅ができる。というか「18」がこの世に登場して約1年あまりでかなりその名は浸透してきて、というかむしろ我々にとっては旅の「主役」的存在にまでなっていた。そしてその主役を最大限にフォローするのが夜行普通列車の存在である。東海道線の夜の主役と言えば当時は「ブルートレイン」であるが、その影に隠れて地味ではあるが眩しい存在の「大垣夜行」があった。つまり普通列車でありながら夜行列車であるこの存在は、当時の「18フリーク」にとってみればとても重宝した事であろう。現在でいう「ムーンライトながら」であるが1983年当時は名称も無い夜行列車であった。つまり全席自由席!という事になる。確かグリーン車が連結されていた記憶なのでそちらは指定席になるのかどうか記憶が薄いが、とにかくこの夜行列車に座るには東京駅で3時間くらいホームで待つしかない!現在では考えられない事であるが、当時はこんな事が18シーズンでは常識であり、そしてそんな常識を「18」が私に教えてくれた。

私のブログにおいてはお馴染みの風景。1970年~1980年代の旅の出発点はもちろんここ、西寒川であった。恐らく、西寒川にこだわりを持ったブログを公開しているのは日本全国探しても私が唯一であろう。とは言え、私の小学校・中学校時代を振り返れば、かなりの数でレールファンが潜在的にいた。だが、それでも西寒川の存在って地味であったと感じる。それは私ほど周りは騒がしく無かったからだ。
私は神奈川県民であり、そして最寄駅が当時は「西寒川」であったので、普通なら茅ヶ崎からの乗車が常識であろう。が、座って大垣まで行くのなら東京まで出なければならない。そんな常識はずれの夜行列車は165系であるためリクライニングなどはできないが、それでも当時は座席を確保できた時の喜びは人一倍だ。そんな話、若い世代の、もっと言ってしまえば平成生まれのレールファンはどういう印象を持たれるであろうか・・・そんな列車に乗り、私は西鹿児島を目指したのであった。

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既に何度も登場している写真であるが、それこそ今回紹介の旅で使用した「18」である。ただ、日付的に若干ずれているが、いずれにしてもこの切符が前年の春に登場して以来、実に画期的な事であった。そして日本全国のレールファンの間で旅の手段としてのバリエーションが広がり、更に増えた事であろう。
東京から鹿児島へ行く場合、完全に飛行機の場合の方が料金・所要時間ともに軍配があがるであろう。ただ、それはあくまで「移動手段」としての評価であって、たとえば「旅」という観点から考えた場合どうなるであろう。そんな答えを探すべく、今回この旅を紹介してみようと思った。もちろんこの記事がアップされる季節を考えた場合、青春18が「旬」を向かえているという部分もあるが、改めて若かりし自分と再会してみようとキーボードを叩いてみた。だが、若いレールファンには馴染みの無い駅名や聞きなれない列車名が出てくることであろうが、その点はお許しいただいて「昔の鉄道」を知るきっかけとなってくれれば幸いであると思う。そんなわけで、私の「18」を紹介してみよう。

現在でいう留萌本線や日高本線一部区間のように、世間的に廃止情報が流れていた鹿児島交通。私の訪問日は1983年3月31日、つまり廃止情報によるとちょうどこの日が廃止予定日であった。だが、現場に着いてから廃止が延期になった事を知る。
前述したが、私は廃止情報が流れた鹿児島交通をひと目見ようと西へ向かった。当時私は中学生であったので親の支援に頼ったが、それでも「18」は経済的に旅ができる。というか「18」がこの世に登場して約1年あまりでかなりその名は浸透してきて、というかむしろ我々にとっては旅の「主役」的存在にまでなっていた。そしてその主役を最大限にフォローするのが夜行普通列車の存在である。東海道線の夜の主役と言えば当時は「ブルートレイン」であるが、その影に隠れて地味ではあるが眩しい存在の「大垣夜行」があった。つまり普通列車でありながら夜行列車であるこの存在は、当時の「18フリーク」にとってみればとても重宝した事であろう。現在でいう「ムーンライトながら」であるが1983年当時は名称も無い夜行列車であった。つまり全席自由席!という事になる。確かグリーン車が連結されていた記憶なのでそちらは指定席になるのかどうか記憶が薄いが、とにかくこの夜行列車に座るには東京駅で3時間くらいホームで待つしかない!現在では考えられない事であるが、当時はこんな事が18シーズンでは常識であり、そしてそんな常識を「18」が私に教えてくれた。

私のブログにおいてはお馴染みの風景。1970年~1980年代の旅の出発点はもちろんここ、西寒川であった。恐らく、西寒川にこだわりを持ったブログを公開しているのは日本全国探しても私が唯一であろう。とは言え、私の小学校・中学校時代を振り返れば、かなりの数でレールファンが潜在的にいた。だが、それでも西寒川の存在って地味であったと感じる。それは私ほど周りは騒がしく無かったからだ。
私は神奈川県民であり、そして最寄駅が当時は「西寒川」であったので、普通なら茅ヶ崎からの乗車が常識であろう。が、座って大垣まで行くのなら東京まで出なければならない。そんな常識はずれの夜行列車は165系であるためリクライニングなどはできないが、それでも当時は座席を確保できた時の喜びは人一倍だ。そんな話、若い世代の、もっと言ってしまえば平成生まれのレールファンはどういう印象を持たれるであろうか・・・そんな列車に乗り、私は西鹿児島を目指したのであった。

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蝦夷からアイヌへ⑥ 鷹泊
2017-07-25

生まれて初めてこの地を訪れた。国鉄時代は常に収支係数ワースト常連の深名線に、いつか訪問してみたいと思っていたが、とうとう実現しないまま今日まで至ってしまった。そして今回、2017年6月にその思いを果たせたわけであるが、当然ながら既に現役ではないどころか、レールは既になく、面影すらない場所もある。だが、意外にも路盤や駅設備が現在でも残っている場所も少なくなく、廃止されてから20年以上経過した現在でも保存状態の良い場所もある。そんな面影を追いかけるため、この地に足を踏み入れてみた。


さて、こちらは2017年6月現在の鷹泊駅舎。ご覧の通り、現役時代そのまま現在に至る・・・的な保存具合だ。もちろんメンテナンスもしっかりとなされてる雰囲気をしっかりと感じ取る事が出来る。
だが、当日は雨・・・というか、前日に、特に西日本では記録的な豪雨との情報をメディアで確認していた。それが北上して北海道まで接近するとの情報であったが、実際には午前中で雨があがってしまった。であるが、私の深名線訪問時間は午前中。それでも深名線が私を待っていてくれるのなら・・・私はカーナビを駆使して各駅を訪問してみた。
まずは鷹泊。現在でも木造駅舎は健在である事はウィキで確認済みであったが、実際に訪問してみたら思った以上に保存状態がいい。そしてホームも未だ健在!草刈もしっかりとされており、管理人様の思いが伝わってくる。

そしてこちらがホーム側の駅舎。やや部分的に朽ち果てているものの、ほぼ完全な姿で今も健在なのが嬉しい。
さて、今後も深名線の訪問駅を順次紹介していく予定であるが、深名線を訪問した印象・・・ハッキリ言って旅客営業のみでは到底銭儲け出来ない大自然に囲まれた風景であった。一番大きな集落と言えばご存知幌加内であるが、今回の旅ではあえて訪問しなかった。しかしながら「そばの名産地」としてその名は高く、品質も申し分無いであろう。というのも、かつて私の実家がそば店を営んでいたが、確か幌加内産のそば粉を使用していた記憶であるので何かと縁が深い。


そしてホームへ。ホームも未だ健在であるが、もちろんレールは無い。だが。列車の雰囲気とか自然と感じ取る事が出来るのは実に良い。かつては列車交換ができて、二面三線で島式ホーム1本と駅舎に接する片面使用ホームがあった。しかしながら現在残っているのは駅舎に接するホームのみとなっている。
ただ、鷹泊は幌加内町には所在しないが、お隣の幌加内町にも引けを取らないくらい大自然豊かな町だ。そしてそこにレールの歴史が存在し乗客が少なくとも、特に冬季にはそのレールを刻む音が力強く思えたであろう。
ただ、この深名線は確かに乗客が少なく沿線人口も少ないが、それでも定期客がしっかりいたのが素晴らしい。そして、深名線の最もたる特徴として長距離客が少なくないという事だ。

そしてこちらが駅前一等地。ちゃんと駅まで舗装された道路が通じているのが実に良い。だが駅前には商店などの商業施設はなく、ただひたすら民家や倉庫的な建家があるのみであった。
特に深名線はバスに転換されても乗客は長距離客が多いと聞いた。逆に言うと、たとえば大きい病院など通院される方などは必然と名寄か深川、滝川、旭川などの大都市に限定されてしまうため長距離になってしまう。そんな沿線住民は、たとえ大雪でも時間通りにやってくる列車はある意味重宝した事であろう。だが、残念ながら経営側は利益が出なければ会社が成り立たない。路線廃止は必然となったわけであるが、それでもかつては貨物輸送もそれなりに盛んであった事であろうと思う。北海道は特に「開拓」と言う名の元、物資輸送などは今ほど道路が整備されていなく、道のコンディションも日によって良い日が少ない場合があり、そのため鉄道がそのメリットをいかんなく発揮できたため重宝された時代もあった。

レールがなくてもこれだけしっかりと存在感をアピール出来るのが素晴らしい。できれば駅舎内にも入ってみたかったが・・・
だが、時代も変わり列車の性能は上がったが、それと同時に自動車の性能も上がり、そして道路もアスファルトで整備され幅員も広がり便利になった。自動車免許を所有されている方はともかく、免許を所有されていない、いわゆる「交通弱者」と呼ばれる方などは完全なる定期客であった。そんな中、かつてこの深名線においてある「事件」があった。JRが利用者の少ない駅を廃止したいと幌加内町に打診したらOKとの返事だったので、ある駅が廃止になった(おそらく新富であったと思う)。だが、その廃止を知らされていない利用者は、ある日急に列車が停まらなくなってしまい、完全に孤立してしまったという逸話があった。これから更に少子高齢化時代が深まっていく中、ある意味象徴的な出来事といえよう。

そしてこちらが確か名寄よりの風景。わずかながら、なんとなくレールがあった名残が確認できる。
残念ながら深名線はなくなってしまったが、こうしてかつての鉄道の歴史が今も残っている姿を見つめていると、そんなかつての記憶がよみがえってくるから不思議だ。いや、それは必然の出来事なのであろう。であるから尚更深名線の記憶をこれからも大切にしたいと、深名線の最初の訪問先である鷹泊の駅舎を見つめながらそう感じていた。

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蝦夷からアイヌへ⑤ 大樹
2017-07-20

国鉄時代の駅名標はmassi1様のご協力のお写真である。今回の旅ではmassi1様のブログ「プラットホームの旅」の国鉄時代を参考参考にしながらの旅であったので、比較しながらの旅が大変楽しかった印象だ。
既に廃止されてしまった広尾線は帯広から広尾までの路線であったが、広尾から先、えりも経由で日高本線の様似まで繋がる「予定線」があった。開通していたら恐らく特急列車が設定されていた事であろう。そして今回紹介する大樹は間違いなく特急停車駅になっていたはずだ。広尾線沿線では起点の帯広の次に大きな街であろう大樹は、国鉄時代も要衝の駅であったが、大樹と帯広間の区間列車があったかはやや記憶が薄い。

こちらは国鉄時代の駅舎。もちろんこちらは「プラットホームの旅」より。

そしてこちらが今回訪問の2017年6月現在の大樹駅舎。比較していただいてお分かりのようにほとんど昔のままである事が確認できるのが嬉しい材料。現在駅舎は「北海道衛生株式会社」が所有しており、駅舎横には大きなアンテナがデーンと構える。
さて、今回訪問したのは2017年6月。廃止から既に30年が経過したが、事前調査では駅舎は転用されてはいるものの、現存していると聞いた。そんな情報を元に現地に訪れてみたら・・・
なんと、いい意味で裏切られてしまった!まず、レールはないものの、ホームがしっかり現存!しかもしっかりと手入れされ現役時代となんら遜色ないくらいの保存状態。実にお見事!というか、ここ大樹に寄る前に愛国、忠類と訪問したが、事前調査では内容がわかっていた。そのためある程度の心構えができていたが、大樹の場合は事前調査と内容が異なっていたためのサプライズであったのだ。やはり実際に訪れてみるものだ。



かつては公園に整備されていたと聞いていたが、現在これほど手入れされているとは思わなかった。正直、公園時代をあまり期待していなかったのだが、ある意味、いい意味で裏切られた感じであった。これからもこの状態を維持していただけるとものすごく嬉しい感!
そしてまたまた今回、国鉄時代の大樹の写真は、毎度お馴染み「プラットホームの旅」管理人様の「massi1」様似ご協力いただいた。大変貴重な写真の数々を公開なされるので是非ご覧いただきたい。
さて、このあと広尾に向かったわけだが、広尾線の模様については後日紹介するつもりなのでお楽しみということで・・・




最後に「プラットホームの旅」より現役時代の風景。やはり広尾線の要衝駅だけあって堂々としている印象だ。

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蝦夷からアイヌへ④ 飛行場前
2017-07-15

こちらの駅名標は現役時代。「プラットホームの旅」の管理人様よりご協力いただいた。
天北線にあった飛行場前「駅」は、国鉄時代は仮乗降場であった。いわゆる全国版の時刻表には載らない駅なので、その存在を知る者は地元の方かレールファンがほとんどを占めていた事であろう。私も北海道初上陸前にはわざわざ通販で「道内時刻表」を取り寄せたものだ。それは1982年~1983年の頃だったと思うが、常に夏休みには北海道行きを憧れ事前に計画を散々練っていたものだ。だがその夢は実現せず・・・こうして現在廃線跡を巡っているわけである。

こちらも「プラットホームの旅」よりのご提供の現役時代である。私がかつて某書籍で見て以来、ずっと憧れていた駅だけに実に素敵な風景である。
駅名の由来についてはウィキで確認していただくとして、とにかく天北線を音威子府から車でここ飛行場前までスっ飛ばしてきた印象・・・それは、旅客のみの収入では完全に商売が成り立たないという事。天北線の沿線で大きな集落と言えば浜頓別くらいで、他は完全に鉄道の最大の特徴であり長所でもある「大量輸送」からは遠くかけ離れている沿線風景である。ではなぜそこにレールがあるのか・・・沿線には、特に放牧が盛んで酪農風景がはるばる広がる。そう、天北線も、現在ほど道路が整備されていない時代は貨物輸送が盛んで、特に酪品などの輸送でかなり役にたっていたことであろう。いや、むしろ開拓部落にとってなくてはならない輸送手段だったのではないか。そんな歴史が現在の沿線風景を見てひしひしと感じてくる。

こんな素晴らしい待合室があった。しかも仮乗降場であるのに・・・こちらも「プラットホームの旅」より。
特にここ飛行場前は酪農業のど真ん中にあるイメージで、浜頓別からそれほど離れているわけでもないのにこれほど酪農が盛んな風景を見れるとは、さすが北海道の雄大さを実感する瞬間でもあった。だからこそ、かつてにおける天北線の重要性を肌で感じる事ができた。


そしてこちらが今回訪問した飛行場前。写真中央のサイクリングロードはもちろん天北線のレール跡だ。そして左側にあるのは飛行場前のホームであるが・・・
ところで、今回も現役時代の写真は「プラットホームの旅」の管理人様にご協力いただいた。
実はこの飛行場前、私がかねてから訪問したいと憧れていた駅。そう、中学生時代からずっと憧れていた駅である。今回の訪問でその夢が実現したわけであるが、もちろん現役時代に訪問したかった。それが故に、今回の旅では、いわば強引に飛行場前の訪問を組み込んだといっても過言でないくらいで、更に訪問当日も無理なスケジュールから訪問をやめようかと思ったが、やはりせっかく来たのだからチャレンジしてみようと、ダメなら途中で引き上げようという覚悟の元に実現した。であるから成功した現在はとても嬉しさを隠せずにいるのも正直なところである。




お分かりいただけだであろうか。夏期になるとほぼ自然に返る雰囲気であろうが、それでも仮乗降場らしきホームが確認できる。正直言って周囲は完全に酪農業風景しか確認できないため、旅客扱いではかなりの苦戦を強いられる事であろう。だが、よくここまで姿をとどめてくれていたものだ。
ただ、廃止されてから30年近く経っているので保存状態はいかがなものかと思ったが、いざ訪問してみると、それはそれは私が思っていた以上に「まだまだイケる!」状態であった。もちろん傍から見れば単なる朽ち果てた建造物であろう。だが私にしてみれば、よくぞここまで姿をとどめていてくれたと褒めたいくらいであった。よくぞ今まで私の訪問を待っていてくれてた!という思いであった。

そして浜頓別側の風景。手前はかつて踏切があった場所であるが、現在その姿はない。だが、いかにも北海道らしい真っ直ぐなレールが果てしない。憧れの駅に訪問できてやや満足であったが、やはり現役時代に来たかった。であるが、今後もこうして私の再訪を待っていてくれるなら本気で嬉しい。その時まで・・・待っていてくれ、飛行場前!

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蝦夷からアイヌへ③ 山軽
2017-07-10

現役時代の駅名標は、お馴染み「プラットホームの旅」の管理人でいらっしゃる「massi1」様似ご協力頂いた。
天北線・・・若いレールファンはご存知ないか実感がないのが現状であろう。天北線とは1989年に廃止された国鉄~JRの路線であるが、私は何度も北海道路線を制覇しようと思っていた時にネックになっていた路線でもあった。稚内側では天北線と宗谷本線の接続が良いとは言えず、特に稚内発の夜行列車「利尻」に間に合うよう天北線の列車に乗ろうには、稚内のひとつ手前、南稚内ののりかえになってしまい乗りつぶし泣かせのダイヤの組み方であった。だが、夜に訪問するより昼間の訪問がいいと、今度は下り「利尻」で予定を組んでみると、音威子府から天北線と興浜北線の連絡はバッチリであるが、その後天北線を制覇し稚内で宗谷本線に乗り換える予定を組むと、なんと3時間待ちになってしまう。私が中学生時代はこの難問に随分と悩んだものだ。だが、今となっては、例え3時間待ちでも制覇すべきであったとの思いもなくはないが・・・


こんな道を行かなければならない。ある意味万字炭山よりも少し秘境度は落ち着きを見せるイメージであるが、それはむしろ万字炭山より更に野生感が増していると感じた。それは実際に体験してみれば必ずやお分かりいただけることであろう。


途中、天北線の線路跡であるサイクリングロードが出現。だが・・・ここを自転車で通ろうとするには非常に大きな勇気を必要とする。だが、この「茨の道」を通るのが山軽駅へ行く近道。究極の選択かも知れないが、季節によってはこの茨の道を使えるはずなので是非再チャレンジしてみたい。
そんな天北線を、廃止からなんと30年近く経ってから訪問するチャンスが訪れるなんて、何とも皮肉な話である。が、逆に今の天北線を確認できるのも、ある意味幸せかも知れない。そんな思いを込めて、私が最もこだわる「飛行場前」へと向かった。更に、せっかくだからと、付近にある山軽にも訪問することにしたのだが・・・実際に訪問してみると、むしろ山軽の訪問難易度が高く、結果的に玉砕に終わってしまった。だが、尚更次回の訪問を決意せざるを得ない心のやり場・・・また北海道の訪問の予定ができてしまった感じだ。

こちらは「プラットホームの旅」提供の山軽駅の現役時代。サイクリングロードを経るとこのような景色が現れるはずであるのだが・・・実にいい風景だ。
現在、天北線の線路跡は一部サイクリングロードに転用されているが、山軽へ訪問するにはこのサイクリングロードを利用する以外に方法は無いという結論であった。もちろん、国道から「ジャングル」へと通ずる砂利道を伝えば旧・山軽駅のすぐそばまで行ける。その気になればその砂利道から更に草木が生い茂る僅かな轍が残る駅へと通じる道を、勇気を持って突進すれば山軽駅にたどり着ける事であろう。だがそこは、旅客で銭儲けをしようと列車を運転させた場合、間違いなく採算が合わないであろう風景のため、というより、それ以上に野生のジャングル化された、いわば文明とは完全にかけ離れた世界であるため、そして秘境駅訪問家さえも震え上がろう究極の大自然の中にある駅であるため、本当に観光気分などで訪問してはならない獣道を伝ってたどり着く事になるので覚悟が必要であろう。しかもレンタカーなら「戦いの爪痕」を残す事になり、別料金の支払いを強いられるであろう。

こちらも現役時代の山軽駅の写真。「プラットホームの旅」より拝借させていただいたが、現在もこの景色とほぼ変化がない形で残っていると聞いている。必ずやいずれ訪問してみせる。待っていてくれ!山軽駅!!
更に私はジャングルへと通ずる道で山軽駅に向かう途中、野生のキタキツネと遭遇した。普通なら「あっ、可愛い!」となるであろう。実際に助手席に座っていた妻もそんな感じであった。だが私の反応は違う。野生のキタキツネがいる・・・つまり他にも野生の動物が住んでいるという事になる。そう、つまり「クマ」的な野生動物も出没する可能性「大」という事だ。実際に訪問してわかったが、なぜそこに駅があるのかわからないほど周囲が野生化している。これは現役時代と変わらない事であろう。だが、このことは隣の飛行場前に訪問して改めてわかった事でもあった。それは・・・

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蝦夷からアイヌへ② 万字炭山
2017-07-05
本当に鉄道の歴史があったのであろうか・・・完全に外界から隔離され「秘境」という名のカテゴリーではくくれない恐怖を感じた。
万字炭山とは、かつて室蘭本線の志文から枝分かれし万字炭山に至る、言わば炭鉱路線である「万字線」の終点駅である。現役時代は、旅客列車は全て岩見沢発着であった記憶だが、実はここに来る前に旧・万字駅にも寄った(その模様は後日紹介します)。志文から万字線方面へ車で向かうとだんだんと幅員が狭くなってくる。特に旧。万字を過ぎると完全に車幅ギリギリまで草木が生い茂り、砂利道に変化する。本当にこの先に駅が存在したのか・・・と疑ってしまうが、残念ながら現役時代に訪問できなかったのでその真意を確かめたく車を先に進めた。


写真だとなかなか伝わりにくいが、万字より先の道は車一台がやっと通れる幅員である。本当にこの先に駅などあったのであろうかと疑ってしまう・・・
するとそこには事前に確認していた以上に荒涼とした風景が展開されていたのであった!本当にこんなスペースに石炭を積出すような設備があったのかと目を疑ってしまうくらい狭窄なスペース。ましてすぐ横に沢が有るため自然と片側が制限されてしまう。よくぞこんなスペースに駅を造ったものだと関心してしまうくらいの場所であった。そう、万字炭山駅跡はほとんど草木に覆われ判別困難であったのだ。ただ、その名の通り、基本「貨物」が優先されるであろう輸送目的のため、人的な輸送目的は後回しであったのだろう。というか、後で調べたら、私の訪問時には既に旧駅舎他は完全に撤去されてたらしい。


そしてその行く手にそれは姿を現した。そこは荒涼とした自然なる風景で、かつて鉄道の歴史があった事など判別不可能であった。写真右側に駅舎があった。
そして万字炭山駅跡の先を更に進むと「万字森林公園」があるが、こちらが万字炭山の炭鉱跡と聞いた。そう、この森林公園こそ炭山とその集落であったのだ。だが、私の訪問時は万字炭山駅跡より先に進もうには更に道の幅員が狭くなっており、更に初夏の草木がその行く手を拒んでいるようなありさまであった。それより何より、絶対に野生動物が好む環境・・・出る!絶対に熊が出るはずであろう感覚であった。おそらくこんな場所で熊に出会ったら「白い貝殻の小さなイヤリング」はくれないであろうし、お礼に唄など到底歌えない!的な風景であった。この場所は本気で観光気分で訪問してはならない。私自身もクマ装備はそれなりにしていてもやはりいざという時に冷静になれるかどうか不安であった。だから車から出るのにかなりの覚悟と勇気が必要だった。現役時代もこんな感じだったのであろうか・・・と疑ってしまう、言わば「小和田」「小幌」などよりもかなり強度な秘境駅の雰囲気であった。国鉄時代は「秘境駅」というカテゴリーや概念が一般的ではなかったので、現在もこの駅が現役であったなら間違いなく秘境駅訪問家の評価も高かった事であろう。



こちらが駅舎があった場所。基礎がしっかりと残っていた。駅舎があった時に訪問してみたかった、いや、現役時代に訪問してみたかった。
ただ、万字から万字炭山に向かう途中では廃墟や廃炭鉱設備的な建家が点在し、そこに石炭の歴史を感じた事も事実である。エネルギー革命によりゴーストタウンとなってしまったが、かつては間違いなく日本の経済を支えていた事であろう万字炭山。現役時代に訪問できた方が実に羨ましい限りである。

そしてこの先に万字炭山の炭鉱と集落があった事であろう。だが、その確認作業はできなかった。

そしてホームや側線があった場所は、線路が完全に撤去され、その後放牧に使われていたらしい。現在はご覧の通り、単純に空き地になっていたが手入れはしっかりとされていた。


そして炭鉱設備と思われる廃建家。完全にゴーストタウンとなっていた。

更にゴーストタウンの象徴であるかのように、民家もご覧の通りである。万字~万字炭山間にはこんな風景が展開された。

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万字炭山とは、かつて室蘭本線の志文から枝分かれし万字炭山に至る、言わば炭鉱路線である「万字線」の終点駅である。現役時代は、旅客列車は全て岩見沢発着であった記憶だが、実はここに来る前に旧・万字駅にも寄った(その模様は後日紹介します)。志文から万字線方面へ車で向かうとだんだんと幅員が狭くなってくる。特に旧。万字を過ぎると完全に車幅ギリギリまで草木が生い茂り、砂利道に変化する。本当にこの先に駅が存在したのか・・・と疑ってしまうが、残念ながら現役時代に訪問できなかったのでその真意を確かめたく車を先に進めた。


写真だとなかなか伝わりにくいが、万字より先の道は車一台がやっと通れる幅員である。本当にこの先に駅などあったのであろうかと疑ってしまう・・・
するとそこには事前に確認していた以上に荒涼とした風景が展開されていたのであった!本当にこんなスペースに石炭を積出すような設備があったのかと目を疑ってしまうくらい狭窄なスペース。ましてすぐ横に沢が有るため自然と片側が制限されてしまう。よくぞこんなスペースに駅を造ったものだと関心してしまうくらいの場所であった。そう、万字炭山駅跡はほとんど草木に覆われ判別困難であったのだ。ただ、その名の通り、基本「貨物」が優先されるであろう輸送目的のため、人的な輸送目的は後回しであったのだろう。というか、後で調べたら、私の訪問時には既に旧駅舎他は完全に撤去されてたらしい。


そしてその行く手にそれは姿を現した。そこは荒涼とした自然なる風景で、かつて鉄道の歴史があった事など判別不可能であった。写真右側に駅舎があった。
そして万字炭山駅跡の先を更に進むと「万字森林公園」があるが、こちらが万字炭山の炭鉱跡と聞いた。そう、この森林公園こそ炭山とその集落であったのだ。だが、私の訪問時は万字炭山駅跡より先に進もうには更に道の幅員が狭くなっており、更に初夏の草木がその行く手を拒んでいるようなありさまであった。それより何より、絶対に野生動物が好む環境・・・出る!絶対に熊が出るはずであろう感覚であった。おそらくこんな場所で熊に出会ったら「白い貝殻の小さなイヤリング」はくれないであろうし、お礼に唄など到底歌えない!的な風景であった。この場所は本気で観光気分で訪問してはならない。私自身もクマ装備はそれなりにしていてもやはりいざという時に冷静になれるかどうか不安であった。だから車から出るのにかなりの覚悟と勇気が必要だった。現役時代もこんな感じだったのであろうか・・・と疑ってしまう、言わば「小和田」「小幌」などよりもかなり強度な秘境駅の雰囲気であった。国鉄時代は「秘境駅」というカテゴリーや概念が一般的ではなかったので、現在もこの駅が現役であったなら間違いなく秘境駅訪問家の評価も高かった事であろう。



こちらが駅舎があった場所。基礎がしっかりと残っていた。駅舎があった時に訪問してみたかった、いや、現役時代に訪問してみたかった。
ただ、万字から万字炭山に向かう途中では廃墟や廃炭鉱設備的な建家が点在し、そこに石炭の歴史を感じた事も事実である。エネルギー革命によりゴーストタウンとなってしまったが、かつては間違いなく日本の経済を支えていた事であろう万字炭山。現役時代に訪問できた方が実に羨ましい限りである。

そしてこの先に万字炭山の炭鉱と集落があった事であろう。だが、その確認作業はできなかった。

そしてホームや側線があった場所は、線路が完全に撤去され、その後放牧に使われていたらしい。現在はご覧の通り、単純に空き地になっていたが手入れはしっかりとされていた。


そして炭鉱設備と思われる廃建家。完全にゴーストタウンとなっていた。

更にゴーストタウンの象徴であるかのように、民家もご覧の通りである。万字~万字炭山間にはこんな風景が展開された。

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