1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅⑦
2017-08-30
ますます雨が「土砂」になってきた九州地方であったが、鹿児島交通を訪問する頃にも当然ながら現地は雨であろう事が確定材料になるのに充分説得があった。
電化区間をDCにゆられる光景は、ある意味今も昔も変わらないであろう光景の中、今度は出水で乗り換える。今でこそ新幹線のホームができてかなりイメージが変わったが、それまでの出水は規模的に中間駅とさほど変わらなかったというのが私の印象であった。割りと地味な部類の印象が、一気に新幹線の停車駅になろうとは!この時の訪問時にはそんな素振りも見せなかった出水であったが、随分と立派になったものだ。

かつては山野線を分岐していた水俣。新幹線は隣の新水俣に任せてあるので、ある意味国鉄時代の面影が今も残っている事であろうと思う。いつかはその確認作業をしてみたいものだ。
さて、その出水から先、新幹線はなんと阿久根を無視して川内へと行ってしまう・・・これってちょっと残念だと思いません?もちろん、ルート決定の際に阿久根をどうするかは考えたらであろう。当然ながら阿久根に寄れば所要時間や走行距離に影響が出てくるだろう。だがやはりなんらかの形で阿久根と新幹線をが共有してほしかった。例えば新阿久根みたいな単独駅とかでもいいと思うのは私だけであろうか。

多分出水で撮影したものと思われるが、編成の長さからしてもしかしたら基山とかだったかも知れない。いずれにしても今回紹介している旅にて鹿児島本線のどこかの駅で撮影されたものである。出水から先は再び電車による普通列車に乗車。
であるが、やはり私は在来線の方が好きだ。現在、運営会社はちがうが、ある意味「阿久根らしさ」がまだ残っていると思う。ただ、鹿児島本線の八代以南は単線と複線が共有する区間であるから、時には列車交換で待ち時間が発生する場合もある。私が初めて鹿児島本線のこの区間を通ったのは1978年8月である。そのときは583系の特急「有明」で西鹿児島から熊本に向かった。そう、583系の座席特急バージョンだったのだ。リクライニングはできないものの、独特の開放感がまたいい。

そして出水は現在新幹線が停車する。現在の様子はいずれ訪問する機会があれば行ってみたいが、国鉄時代は分岐する路線を持っていなかったので私的には地味な印象であった。だがその地味さが後年になり好きに。
その時以来の訪問であったのである意味懐かしかったが、それ以上に両親と一緒の訪問と、自らが仲間ひとり連れての訪問とでは一際精神的な違いが明白であろう自身の成長が身に染みてわかるシーン。今でもこの区間の事を思うとそんな事が思い出される。そう、私のレール旅とは、ある意味自身の成長を測る「ものさし」なのかも知れない。

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電化区間をDCにゆられる光景は、ある意味今も昔も変わらないであろう光景の中、今度は出水で乗り換える。今でこそ新幹線のホームができてかなりイメージが変わったが、それまでの出水は規模的に中間駅とさほど変わらなかったというのが私の印象であった。割りと地味な部類の印象が、一気に新幹線の停車駅になろうとは!この時の訪問時にはそんな素振りも見せなかった出水であったが、随分と立派になったものだ。

かつては山野線を分岐していた水俣。新幹線は隣の新水俣に任せてあるので、ある意味国鉄時代の面影が今も残っている事であろうと思う。いつかはその確認作業をしてみたいものだ。
さて、その出水から先、新幹線はなんと阿久根を無視して川内へと行ってしまう・・・これってちょっと残念だと思いません?もちろん、ルート決定の際に阿久根をどうするかは考えたらであろう。当然ながら阿久根に寄れば所要時間や走行距離に影響が出てくるだろう。だがやはりなんらかの形で阿久根と新幹線をが共有してほしかった。例えば新阿久根みたいな単独駅とかでもいいと思うのは私だけであろうか。

多分出水で撮影したものと思われるが、編成の長さからしてもしかしたら基山とかだったかも知れない。いずれにしても今回紹介している旅にて鹿児島本線のどこかの駅で撮影されたものである。出水から先は再び電車による普通列車に乗車。
であるが、やはり私は在来線の方が好きだ。現在、運営会社はちがうが、ある意味「阿久根らしさ」がまだ残っていると思う。ただ、鹿児島本線の八代以南は単線と複線が共有する区間であるから、時には列車交換で待ち時間が発生する場合もある。私が初めて鹿児島本線のこの区間を通ったのは1978年8月である。そのときは583系の特急「有明」で西鹿児島から熊本に向かった。そう、583系の座席特急バージョンだったのだ。リクライニングはできないものの、独特の開放感がまたいい。

そして出水は現在新幹線が停車する。現在の様子はいずれ訪問する機会があれば行ってみたいが、国鉄時代は分岐する路線を持っていなかったので私的には地味な印象であった。だがその地味さが後年になり好きに。
その時以来の訪問であったのである意味懐かしかったが、それ以上に両親と一緒の訪問と、自らが仲間ひとり連れての訪問とでは一際精神的な違いが明白であろう自身の成長が身に染みてわかるシーン。今でもこの区間の事を思うとそんな事が思い出される。そう、私のレール旅とは、ある意味自身の成長を測る「ものさし」なのかも知れない。

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1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅⑥
2017-08-25
「ながさき」に揺られ一夜を過ごす私は途中肥前山口で下車した。そして上り「ながさき」にのりかえ再び西鹿児島を目指す。今考えたらこんな価値ある伝統的な列車を「旅籠」として過ごすとは何とも無礼かつ罰当たりな私であるが、旅の目的はあくまで鹿児島交通。長崎本線より鹿児島本線を南下するため軌道修正をしなければならない。上り「ながさき」に乗った私は鹿児島本線に再び入り二日市で下車した。そして更に下り鹿児島本線普通列車「川尻行き」にのりかえ鹿児島を目指す。

九州新幹線の開業は実にセンセーショナルであった。特に新八代~鹿児島中央という暫定的な開業は、ある意味東北新幹線の大宮暫定開業と似たようなイメージか。ただ、東北新幹線のそれに比べ、九州新幹線は在来線部分の距離が長く、東北新幹線のそれと比べてはいけないのであろうが・・・
現在なら新幹線でひとっ飛びであろうが、私の訪問時は特急「有明」や夜行急行列車「かいもん」など、在来線の優等列車が活躍していた時代であった。だが、そんな事より今回は「鹿児島交通」にこだわりがある。とにかく西鹿児島を目指さねば!なんて使っている切符が「18」であるから説得あるかどうか分からないが・・・
「ながさき」でそれほど睡眠が深くなかったのが、実はこうした朝に乗車する普通列車には突然睡魔がやってくる。この場合、完全に記憶が無い。久留米辺りまでは記憶があったのだが・・・
夜行明けに乗車する列車での睡魔は、ある時突然やって来る。このブログをご覧になっている皆様も少なからず経験がお有りであろうと思われるがいかがであろうか・・・

こちらも以前に紹介している写真であるが、二日市から乗車した「川尻行」に乗車の際に撮影した久留米駅である。久留米といえば武道館公演数第二位の「あの」アイドル歌手の出身地でもある。
だが不思議と目的地の駅に着く前にはしっかりと目が覚める・・・これも皆様は経験お有りであろうか?そんな私は川尻のひとつ手前の熊本を7時49分に下車した。9時11分発の乗り継ぎ列車まではまだ時間がある。まだ朝食も頂いてないので洒落た喫茶でも入ってモーニングコーヒーでも飲むか・・・いや、現実は違った。私はシロガネーゼでもなければ成城に居を構えるわけでもない。喫茶店なんて馴染みもなければコーヒーなんて見たことない!「見たことない」とはオーバーであるが、それくらい私の生活習慣には無いくらいコーヒーとは無縁の生活である。どちらかというと私はレモンティーだったのだから。ただ、次の乗り換え列車に座れないと困る。であるからキオスクで買ったパンなどを頬張りながら次の列車の出発ホームで待つ。別にそこまでしなくとも座席は確保できるはずなのであるが、やはり心配性なのであろう。そんなこんなで待つ列車は、鹿児島本線の普通列車でありながらなんと気動車であった。

かつて全区間電化区間を走るDC急行として名高かった急行「赤倉」。確か名古屋~新潟間で運転していた。写真は確か長野駅であった記憶。
全線電化区間を気動車が走るとは、かつての国鉄時代によく見られた光景であるが現在も「肥薩おれんじ」でその形をある意味引き継いでいるようになっている。国鉄時代のそれと意味内容は恐らく違えど、結果的にそうなっているのは何とも感慨深いものだ。そういえば、かつて全区間電化区間を走るDC急行で「赤倉」という列車があった。確か名古屋~新潟間の運転であっと記憶しているが、確かキハ58的な車両であったと思う。普通に一般の考えなら電化区間を走るのだから電車にすれば?って思うのだが、国鉄なりの事情があったのであろう。であるから逆に「赤倉ファン」「赤倉フリーク」が不特定多数日本中に存在していた事であろう。そんな列車を彷彿させてしまう今回の旅は、コンディション的に大牟田付近から雨⇒大雨にシフトチェンジしていった。

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九州新幹線の開業は実にセンセーショナルであった。特に新八代~鹿児島中央という暫定的な開業は、ある意味東北新幹線の大宮暫定開業と似たようなイメージか。ただ、東北新幹線のそれに比べ、九州新幹線は在来線部分の距離が長く、東北新幹線のそれと比べてはいけないのであろうが・・・
現在なら新幹線でひとっ飛びであろうが、私の訪問時は特急「有明」や夜行急行列車「かいもん」など、在来線の優等列車が活躍していた時代であった。だが、そんな事より今回は「鹿児島交通」にこだわりがある。とにかく西鹿児島を目指さねば!なんて使っている切符が「18」であるから説得あるかどうか分からないが・・・
「ながさき」でそれほど睡眠が深くなかったのが、実はこうした朝に乗車する普通列車には突然睡魔がやってくる。この場合、完全に記憶が無い。久留米辺りまでは記憶があったのだが・・・
夜行明けに乗車する列車での睡魔は、ある時突然やって来る。このブログをご覧になっている皆様も少なからず経験がお有りであろうと思われるがいかがであろうか・・・

こちらも以前に紹介している写真であるが、二日市から乗車した「川尻行」に乗車の際に撮影した久留米駅である。久留米といえば武道館公演数第二位の「あの」アイドル歌手の出身地でもある。
だが不思議と目的地の駅に着く前にはしっかりと目が覚める・・・これも皆様は経験お有りであろうか?そんな私は川尻のひとつ手前の熊本を7時49分に下車した。9時11分発の乗り継ぎ列車まではまだ時間がある。まだ朝食も頂いてないので洒落た喫茶でも入ってモーニングコーヒーでも飲むか・・・いや、現実は違った。私はシロガネーゼでもなければ成城に居を構えるわけでもない。喫茶店なんて馴染みもなければコーヒーなんて見たことない!「見たことない」とはオーバーであるが、それくらい私の生活習慣には無いくらいコーヒーとは無縁の生活である。どちらかというと私はレモンティーだったのだから。ただ、次の乗り換え列車に座れないと困る。であるからキオスクで買ったパンなどを頬張りながら次の列車の出発ホームで待つ。別にそこまでしなくとも座席は確保できるはずなのであるが、やはり心配性なのであろう。そんなこんなで待つ列車は、鹿児島本線の普通列車でありながらなんと気動車であった。

かつて全区間電化区間を走るDC急行として名高かった急行「赤倉」。確か名古屋~新潟間で運転していた。写真は確か長野駅であった記憶。
全線電化区間を気動車が走るとは、かつての国鉄時代によく見られた光景であるが現在も「肥薩おれんじ」でその形をある意味引き継いでいるようになっている。国鉄時代のそれと意味内容は恐らく違えど、結果的にそうなっているのは何とも感慨深いものだ。そういえば、かつて全区間電化区間を走るDC急行で「赤倉」という列車があった。確か名古屋~新潟間の運転であっと記憶しているが、確かキハ58的な車両であったと思う。普通に一般の考えなら電化区間を走るのだから電車にすれば?って思うのだが、国鉄なりの事情があったのであろう。であるから逆に「赤倉ファン」「赤倉フリーク」が不特定多数日本中に存在していた事であろう。そんな列車を彷彿させてしまう今回の旅は、コンディション的に大牟田付近から雨⇒大雨にシフトチェンジしていった。

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1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅⑤
2017-08-20
夕方から夜にシフトチェンジしていくわけであるが、広島から一気に小郡(現・新山口)までのりかえ無しで便利であった。だが、ある意味逆にエコノミー何とかになりそうなくらい精神的に修行に近い何かを感じずにいられない。これから予定では5日間の行程で旅籠にも身を寄せず、ただひたすらに車中泊なのだから帰郷まで持つかどうか不安になる・・・なんて事は無く、当時中学生の私に不安など全く無し!むしろ期待の方が大きかった。
小郡で39分の待ち合わせでいよいよ門司へ。1978年に寝台特急「富士」で訪問して以来の九州である。そして普通列車では初の九州入りであった。もちろん、下関や門司で機関車の交換はないので停車時間も少ない。

こちらは2011年訪問時の門司港であるが、1983年当時とほとんど変わらない。その理由は皆様の方がよくご存知であろう。この日は小学生の社会見学か修学旅行と思われる団体と遭遇。
さて、既に紹介しているが、門司より門司港へ向かい、門司港より夜行普通列車「ながさき」に乗車・・・そこが今夜の「旅籠(はたご)」になる。そう、私は当時の夜行普通列車「ながさき」の乗車は単なる「旅籠」に過ぎず、ある意味その「ながさき」の価値や素晴らしさがわからないまま「旅籠」として利用していた。そう、あくまで目的は鹿児島交通制覇であったのだから。今考えたら実に子供的であり少年的な考え方であった事だろう。皆様はどういう印象を持たれたか・・・でもやはり、事情はどうあれ「ながさき」に乗車できた事は私にとって「財産」かも知れない。

こちらは「maatan」様提供の夜行普通列車「ながさき」。今思えば、とても贅沢な旅であったと思う。何せ、このような夜行列車を「旅籠」として利用してしまうのだから・・・
「旅籠」として今夜は「ながさき」にお世話になるが、考えてみたら東京を23時半頃出発して門司港に到着したのは22時頃・・・なんと。まる1日列車に揺られて九州に到着した事になる!!普通列車だとこんなに時間を費やすのか・・・いや、そうではない。視点を変えて見ると普通列車だけで東京から九州にやってくるという事は実に「大いなる発見」がある。そして先述通り、もちろん精神力や体力も必要となる。だが、そうした苦労を経て到着した門司港のホームに降り立った時、ものすごく旅の醍醐味を感じた・・・と言うのは表向きの表現で、本音を言わせてもらうと「ながさき」の座席を確保しなければ・・・何番線?みたいな感じであった。大垣夜行の「3時間待ち」の印象から、今回は1時間しかない待ち時間に不安が募っていたので「早く早く!!」みたいに「ながさき」の出発ホームを確認したかった。

門司港では「ながさき」の出発時間までやや時間があったので他のホームの「勇姿達」を収めていた。この写真は以前にも紹介しているのでご存知の方もおられよう。被写体の主役「有明」の横には、夜行急行列車「かいもん」が停車している。
結論から言うと・・・18シーズンにも関わらず、余裕で座席を確保できる環境であった。極端に言えば出発5分前でも十分に座れる内容であった。それは、北九州ではちょうどその頃帰宅時間帯なので博多までの間にどこかしら席が空くという計算があるという部分もあるが、更にレールファンの姿もそれほど見かけなかったのがいい意味での誤算であった。そんな列車に乗りながら「ながさき」に乗り長崎行に乗車する。あれ?ちょっと待った。お宅、西鹿児島まで行くんじゃない?そう、もう既にこのブログで散々紹介しているので古くから私のブログをご覧なされている方はもうお分かりであろう。途中の肥前山口で上り「ながさき」にのりかえ、更に旅籠の役割を深く、そして濃くするのがこの旅の重要部分。あくまで「ながさき」は「旅籠」でなければならないのだ。それが中学生時代の私の旅の方程式であった。

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小郡で39分の待ち合わせでいよいよ門司へ。1978年に寝台特急「富士」で訪問して以来の九州である。そして普通列車では初の九州入りであった。もちろん、下関や門司で機関車の交換はないので停車時間も少ない。

こちらは2011年訪問時の門司港であるが、1983年当時とほとんど変わらない。その理由は皆様の方がよくご存知であろう。この日は小学生の社会見学か修学旅行と思われる団体と遭遇。
さて、既に紹介しているが、門司より門司港へ向かい、門司港より夜行普通列車「ながさき」に乗車・・・そこが今夜の「旅籠(はたご)」になる。そう、私は当時の夜行普通列車「ながさき」の乗車は単なる「旅籠」に過ぎず、ある意味その「ながさき」の価値や素晴らしさがわからないまま「旅籠」として利用していた。そう、あくまで目的は鹿児島交通制覇であったのだから。今考えたら実に子供的であり少年的な考え方であった事だろう。皆様はどういう印象を持たれたか・・・でもやはり、事情はどうあれ「ながさき」に乗車できた事は私にとって「財産」かも知れない。

こちらは「maatan」様提供の夜行普通列車「ながさき」。今思えば、とても贅沢な旅であったと思う。何せ、このような夜行列車を「旅籠」として利用してしまうのだから・・・
「旅籠」として今夜は「ながさき」にお世話になるが、考えてみたら東京を23時半頃出発して門司港に到着したのは22時頃・・・なんと。まる1日列車に揺られて九州に到着した事になる!!普通列車だとこんなに時間を費やすのか・・・いや、そうではない。視点を変えて見ると普通列車だけで東京から九州にやってくるという事は実に「大いなる発見」がある。そして先述通り、もちろん精神力や体力も必要となる。だが、そうした苦労を経て到着した門司港のホームに降り立った時、ものすごく旅の醍醐味を感じた・・・と言うのは表向きの表現で、本音を言わせてもらうと「ながさき」の座席を確保しなければ・・・何番線?みたいな感じであった。大垣夜行の「3時間待ち」の印象から、今回は1時間しかない待ち時間に不安が募っていたので「早く早く!!」みたいに「ながさき」の出発ホームを確認したかった。

門司港では「ながさき」の出発時間までやや時間があったので他のホームの「勇姿達」を収めていた。この写真は以前にも紹介しているのでご存知の方もおられよう。被写体の主役「有明」の横には、夜行急行列車「かいもん」が停車している。
結論から言うと・・・18シーズンにも関わらず、余裕で座席を確保できる環境であった。極端に言えば出発5分前でも十分に座れる内容であった。それは、北九州ではちょうどその頃帰宅時間帯なので博多までの間にどこかしら席が空くという計算があるという部分もあるが、更にレールファンの姿もそれほど見かけなかったのがいい意味での誤算であった。そんな列車に乗りながら「ながさき」に乗り長崎行に乗車する。あれ?ちょっと待った。お宅、西鹿児島まで行くんじゃない?そう、もう既にこのブログで散々紹介しているので古くから私のブログをご覧なされている方はもうお分かりであろう。途中の肥前山口で上り「ながさき」にのりかえ、更に旅籠の役割を深く、そして濃くするのがこの旅の重要部分。あくまで「ながさき」は「旅籠」でなければならないのだ。それが中学生時代の私の旅の方程式であった。

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1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅④
2017-08-15
姫路で40分近く待ち時間があった。せっかくだからと播但線の飾磨港線を乗りたいと時刻表を計画段階で見ていたが、朝1本、夕方1本しか列車設定がなく、こちらも乗りつぶし泣かせの路線であった。というより播但線とは全く性質が違い、しかも山陽電気鉄道とほぼ並走しているため利用者はそう多くない。しかも気動車の単行がコトコト走る記憶であったので尚更乗車意欲をそそられる。結局制覇できないまま現在を迎えてしまい勿体無い思いであるが・・・「後髪ひかれ隊」的な思いを胸に姫路を後にして更に西へ向かう。

まさか「18」の旅紹介で新幹線の画像を載せると思わなかったが・・・というか、旅をするならこちらが定番であるのが一般的だが、普通列車のみでの旅はいろんな発見があると同時に自分との戦いの場面も少なくない。
岡山・・・大きい、広島・・・でかい。駅の規模、利用者、乗換えなど、あらゆる面での要衝であり、中国地方の中心的存在でもある。そして何と言っても新幹線が実にいい働きをしているが、東京~新大阪間に比べこの西の新幹線はやや苦戦を強いられている。
ある鉄道アナリストによると「新幹線三時間説」というのがあるらしく、目的地まで4時間以上かかると敬遠されてしまう率が高くなるという。その理屈だと、東京を基準に考えた場合だと大体岡山くらいか。かつては「弾丸列車」「夢の超特急」などと言われオリンピックや万博などでそのパワーをいかんなく発揮してきたが、最近では「ライバル」の台頭や環境の変化など、様々な対応を求められている。だが、普通列車に乗っているとそんな難しい理屈やしがらみなどを忘れてしまう・・・「生活」という名の普段がゆっくりと進行していく空間に「普段」ではない私が身を置いて「普段」を感じる・・・当時中学生の私に「18」はそんな事を教えてくれた。

恐らく岩国であった記憶である山陽本線の普通列車。東海道線では見慣れた車両であるが、塗装ひとつで印象がこうも変わるもかと思う。
そんな「生活」を感じながら旅が進行していくわけであるが、広島に着いた頃には既に帰宅ラッシュが始まっている時間帯であり、そう易々と「生活」を感じている余裕は無い。というより生活感がにじみ出すぎて座席は確保できているが常に相席のためエコノミックな姿勢を常に強いられる。そしてそんな中で駅名標に向けシャッターを切る自分が妙に周囲に溶け込んでいない。そう、レールファンは常に孤独な存在なのであろう。

画像はウィキより。近年では先述した117系が山陽地区でも活躍していた。本当に塗装ひとつで印象が変わってしまうものであるが、製造開始からすでに30年以上経過し、そろそろ「思い出の車両」になってしまう時期であろう。だが「名車」である事には変わりない!
岩国から快速運転になり主要駅のみの停車となるが、途中、岩徳線はかつての山陽本線であったのは周知の事であろう。だが、私の持っている切符は「18」であるためどちらを経由しても運賃計算のルールは完全に皆無だ。「特例区間」も所有している切符によってはあまり意味のないものになってしまうのも意味深であるが、当時の中学生の私にしてみたらそんな事考える能力も無かった。だが・・・そう、金はないが時間はある。学生の特権である季節ごとの長期休暇を大いに利用すれば全国制覇も夢ではない!などと大きな決意を胸に、更に西へと向かったのであった。

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まさか「18」の旅紹介で新幹線の画像を載せると思わなかったが・・・というか、旅をするならこちらが定番であるのが一般的だが、普通列車のみでの旅はいろんな発見があると同時に自分との戦いの場面も少なくない。
岡山・・・大きい、広島・・・でかい。駅の規模、利用者、乗換えなど、あらゆる面での要衝であり、中国地方の中心的存在でもある。そして何と言っても新幹線が実にいい働きをしているが、東京~新大阪間に比べこの西の新幹線はやや苦戦を強いられている。
ある鉄道アナリストによると「新幹線三時間説」というのがあるらしく、目的地まで4時間以上かかると敬遠されてしまう率が高くなるという。その理屈だと、東京を基準に考えた場合だと大体岡山くらいか。かつては「弾丸列車」「夢の超特急」などと言われオリンピックや万博などでそのパワーをいかんなく発揮してきたが、最近では「ライバル」の台頭や環境の変化など、様々な対応を求められている。だが、普通列車に乗っているとそんな難しい理屈やしがらみなどを忘れてしまう・・・「生活」という名の普段がゆっくりと進行していく空間に「普段」ではない私が身を置いて「普段」を感じる・・・当時中学生の私に「18」はそんな事を教えてくれた。

恐らく岩国であった記憶である山陽本線の普通列車。東海道線では見慣れた車両であるが、塗装ひとつで印象がこうも変わるもかと思う。
そんな「生活」を感じながら旅が進行していくわけであるが、広島に着いた頃には既に帰宅ラッシュが始まっている時間帯であり、そう易々と「生活」を感じている余裕は無い。というより生活感がにじみ出すぎて座席は確保できているが常に相席のためエコノミックな姿勢を常に強いられる。そしてそんな中で駅名標に向けシャッターを切る自分が妙に周囲に溶け込んでいない。そう、レールファンは常に孤独な存在なのであろう。

画像はウィキより。近年では先述した117系が山陽地区でも活躍していた。本当に塗装ひとつで印象が変わってしまうものであるが、製造開始からすでに30年以上経過し、そろそろ「思い出の車両」になってしまう時期であろう。だが「名車」である事には変わりない!
岩国から快速運転になり主要駅のみの停車となるが、途中、岩徳線はかつての山陽本線であったのは周知の事であろう。だが、私の持っている切符は「18」であるためどちらを経由しても運賃計算のルールは完全に皆無だ。「特例区間」も所有している切符によってはあまり意味のないものになってしまうのも意味深であるが、当時の中学生の私にしてみたらそんな事考える能力も無かった。だが・・・そう、金はないが時間はある。学生の特権である季節ごとの長期休暇を大いに利用すれば全国制覇も夢ではない!などと大きな決意を胸に、更に西へと向かったのであった。

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1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅③
2017-08-10
「ムーンライト」とは違った夜行列車の旅となる大垣夜行を体験した私であるが、やはり現在の形である「全席指定」の方が一般的には伝わりやすいかも知れない。であるが、このアナログ的な大垣夜行もまたいい味を出していたと思う。なぜならそれは普段は「東海」など、急行列車でしか乗れない165系の運用であったから何となく得した気分になるからだ。などとカッコいい事言いながら、実は当時かなりの苦痛や苦戦をしていたかも知れない事は、ある意味いい思い出にしておこう的な事象として、確か私の記憶では小田原辺りから快速列車になり主要駅のみの停車であった。そして浜松辺りより再び各駅停車になる。というか、この大垣夜行を乗っているとわかるが、東海道線は何かと深夜の貨物列車が頻繁だ。静岡や浜松でやたらと貨物列車に抜かれるシーンを、当時を経験なされている方ならご存知であろう。そう、「フレートライナー」と大垣夜行は切っても切れない縁であった事を。深夜の東海道線は、やたらと貨物列車の宝庫でもあるのだ。

名古屋方面への到着時間調整のため、東海地区は快速運転になるものの、静岡や浜松での停車時間は長い。そのためやたらと「フレートライナー」に抜かれる。画像はウィキより。
記憶にはないが、恐らく静岡、浜松以外の駅でも何度となく抜かれているであろうが、それは名古屋でも多分あった事象かも知れない。そんな名古屋でかなりの乗客が下車するが、その先を目指す乗客もかなりいる。座席は空いたが、それまでの立席客が空いた座席にすわるし、名古屋からの乗客もそれなりにいるため列車内の相対密度の数学的いたずらはそれなりに変化無い事であろう。

東海地区の要衝駅である静岡。大垣夜行の停車時間が長く、名物の駅弁売りがあった。ちょうど深夜未明の時間帯に果たして・・・と思われるであろうが、いや、これがよく売れるらしい。確かに夜行列車では未明の時間帯に突然の空腹がやってくるのは皆様も経験がお有りであろう。
さて、そろそろ大垣に着く時間帯になる。私は大垣より更に東海道線で西へ進むため大垣で乗り換える・・・もうお分かりであろう。「ムーンライトながら」の時代になっても全く変わらない現象・・・そう、いわゆる「大垣ダッシュ」だ。つまり西へ進むために乗り換えるのであるが、皆同じスケジュールであろう方がほぼ9割9分を占めているため、乗り換える下り東海道線普通列車に向かう黒山が跨線橋へ続く。我先へと座席確保に命を懸けるため熾烈な争いになる。この光景だけは今も昔も変わらない。と言っても夜行普通列車自体が定期便から姿を消してしまったが・・・

関西地区に次いで東海地区にも登場した117系。転換式クロスシートで独特の乗り心地は現在の313系とはまた違った雰囲気。
あえて「新快速」に乗らず普通列車で神戸へ向かったのは「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するためであったが、それより後続の列車に乗っても新快速に乗っても岡山に着く時間は同じであった。すぐののりかえで西へ向かう新快速に乗っても西明石止まりのため、結局後続の普通列車に乗り換えなければならない。意外に西のダイヤは「新幹線にのってもらう」ように組まれている感じがしてならないのは気のせいか・・・
そういえば、新快速は当時新鋭の117系。185系と同じくらいの時期に登場して、更に私は同じ時期に関東より脱出する旅を始めたばかりだったので、こちらも非常に思い入れがある。つい最近の近年まで東海方面や広島方面で乗車した時は懐かしかった。そして転換式クロスシートのため、当時の185系と類似してる部分もあり、乗ってて楽しい。最近では伯備線で乗車したが、真っ黄色なペイントだったのでやや違和感。やはりあのクリーム色と茶色の2色塗装が一番お似合いであろう。

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名古屋方面への到着時間調整のため、東海地区は快速運転になるものの、静岡や浜松での停車時間は長い。そのためやたらと「フレートライナー」に抜かれる。画像はウィキより。
記憶にはないが、恐らく静岡、浜松以外の駅でも何度となく抜かれているであろうが、それは名古屋でも多分あった事象かも知れない。そんな名古屋でかなりの乗客が下車するが、その先を目指す乗客もかなりいる。座席は空いたが、それまでの立席客が空いた座席にすわるし、名古屋からの乗客もそれなりにいるため列車内の相対密度の数学的いたずらはそれなりに変化無い事であろう。

東海地区の要衝駅である静岡。大垣夜行の停車時間が長く、名物の駅弁売りがあった。ちょうど深夜未明の時間帯に果たして・・・と思われるであろうが、いや、これがよく売れるらしい。確かに夜行列車では未明の時間帯に突然の空腹がやってくるのは皆様も経験がお有りであろう。
さて、そろそろ大垣に着く時間帯になる。私は大垣より更に東海道線で西へ進むため大垣で乗り換える・・・もうお分かりであろう。「ムーンライトながら」の時代になっても全く変わらない現象・・・そう、いわゆる「大垣ダッシュ」だ。つまり西へ進むために乗り換えるのであるが、皆同じスケジュールであろう方がほぼ9割9分を占めているため、乗り換える下り東海道線普通列車に向かう黒山が跨線橋へ続く。我先へと座席確保に命を懸けるため熾烈な争いになる。この光景だけは今も昔も変わらない。と言っても夜行普通列車自体が定期便から姿を消してしまったが・・・

関西地区に次いで東海地区にも登場した117系。転換式クロスシートで独特の乗り心地は現在の313系とはまた違った雰囲気。
あえて「新快速」に乗らず普通列車で神戸へ向かったのは「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真を撮影するためであったが、それより後続の列車に乗っても新快速に乗っても岡山に着く時間は同じであった。すぐののりかえで西へ向かう新快速に乗っても西明石止まりのため、結局後続の普通列車に乗り換えなければならない。意外に西のダイヤは「新幹線にのってもらう」ように組まれている感じがしてならないのは気のせいか・・・
そういえば、新快速は当時新鋭の117系。185系と同じくらいの時期に登場して、更に私は同じ時期に関東より脱出する旅を始めたばかりだったので、こちらも非常に思い入れがある。つい最近の近年まで東海方面や広島方面で乗車した時は懐かしかった。そして転換式クロスシートのため、当時の185系と類似してる部分もあり、乗ってて楽しい。最近では伯備線で乗車したが、真っ黄色なペイントだったのでやや違和感。やはりあのクリーム色と茶色の2色塗装が一番お似合いであろう。

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1983年春、東京から西鹿児島まで普通列車の旅②
2017-08-05
さて、東京から「大垣夜行」で西を目指す私は、相模線・西寒川駅の最終列車で東京に向かった。茅ヶ崎で東海道線にのりかえ東京に行くのであるが、当時は散々上野などに特急列車などの撮影に行っていたため勝手は知っている。であるが、それは日曜の朝、上り列車に乗るという風景しか知らないため、夜に乗る東海道線の上り列車が何気に新鮮であった。通勤時間帯的に言えば、夜の上りは逆方向のためある意味国鉄(当時)に貢献している事になろうが、それでも立ち席で東京に向かう事になる。途中、横浜辺りで乗客が入れ替わるため座席を確保できるが、そんな事より、この時間帯に東京に向かうという事がいつになく「旅をしている」という意味で新鮮であった。恐らく、そういう感情的な部分を「中学生」というこの時期に体験してしまった事が現在の私を築き上げた事であろうといっても過言でないくらい、今でも夜の時間帯の上り列車は、震えがくるくらい「旅している」という感覚が玄関を出てすぐの状況で味わえるのができるという自分に幸せを感じる。

画像はウィキペディアよりの165系大垣夜行。18シーズンには常に満員御礼であり、通路には立ち席客が多くいるほど。
ワクワクしながら東京に着いたが、ここで早速「3時間待ち」の洗礼。というより今回は、私が所属している学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」の部員1名と2人旅であるため、パートナーをひとり行列に残せば自由にホームを散策できる。そう、もう既に旅は始まっていて興奮状態であるのだ。というか、この「3時間待ち」も、この部活で覚えた「知恵」である事はこのブログで散々紹介してきたが、それでもこの部活が「特殊」であるのは今になって肌で感じる。果たして日本全国、中学校に「鉄道」を名乗る部活がいくつあるのであろうか・・・冷静に考えたら私はある意味恵まれた環境に育ったのかも知れない。

私はどちらかというとこちらの153系が好きであった。東海道線では急行「伊豆」で運用されていたが、関西方面では「新快速」として活躍していた。そして「大垣夜行」も165系以前は153系が使用されていた。画像はウィキペディアより。
という事で、3時間待った結果当然ながら座って大垣まで向かうことが確定されて喜びを隠せずにいたが、当然ながらリクライニングができず、しかも4人席のボックスシートのため仮眠には相当の努力が必要となる。私たちは2人組のため、当然ながら「相席」になるが、それでも座れることに価値がある。165系・・・昭和生まれなら実に懐かしい響きであろう。現在は臨時ながら185系である「ながら」に時代を感じるが、そういえばこの大垣夜行を私が乗車した時期が185系のデビューしで間もない時期であるというのも何となく感慨な思いである。

そしてこちらが現在使用中の「ムーンライトながら」に使用されている185系。写真は伊豆急下田に停車中の「踊り子」で代用させていただいたが、現在は臨時便に格下げされてしまったが、18シーズンには重宝する。しかもリクライニングシートで全席指定というのが画期的。東京駅で3時間待って座席を確保するという面倒な手間は解消されて久しい。
そんな思いを抱きながら東京を後にする165系は実に良い!既にこの時で2回目の大垣夜行であるが、やはり地元の茅ヶ崎辺りに来てもいつもと違う風景!素敵でたまらん!!と、興奮状態のまま、記憶は静岡辺りであったと思う。静岡では「べんと~うっ」の声がホームに響き渡る。そう、当時は名物の駅弁売りだ。恐らくそれは「ムーンライト」時代も続いていた事であろうが、この深夜の時間帯の「べんと~うっ」はある意味心強い「味方」であった。そう、夜行列車に乗っているとこの深夜の時間帯には必ずと言っていいほど腹が減る!というか、ある意味「お約束」的な現象であろうが、当時を知るものであれば誰でも一度は経験する事柄かも知れない。であるから当時、この静岡の弁当売は大変貴重な存在であったろう。

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ワクワクしながら東京に着いたが、ここで早速「3時間待ち」の洗礼。というより今回は、私が所属している学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」の部員1名と2人旅であるため、パートナーをひとり行列に残せば自由にホームを散策できる。そう、もう既に旅は始まっていて興奮状態であるのだ。というか、この「3時間待ち」も、この部活で覚えた「知恵」である事はこのブログで散々紹介してきたが、それでもこの部活が「特殊」であるのは今になって肌で感じる。果たして日本全国、中学校に「鉄道」を名乗る部活がいくつあるのであろうか・・・冷静に考えたら私はある意味恵まれた環境に育ったのかも知れない。

私はどちらかというとこちらの153系が好きであった。東海道線では急行「伊豆」で運用されていたが、関西方面では「新快速」として活躍していた。そして「大垣夜行」も165系以前は153系が使用されていた。画像はウィキペディアより。
という事で、3時間待った結果当然ながら座って大垣まで向かうことが確定されて喜びを隠せずにいたが、当然ながらリクライニングができず、しかも4人席のボックスシートのため仮眠には相当の努力が必要となる。私たちは2人組のため、当然ながら「相席」になるが、それでも座れることに価値がある。165系・・・昭和生まれなら実に懐かしい響きであろう。現在は臨時ながら185系である「ながら」に時代を感じるが、そういえばこの大垣夜行を私が乗車した時期が185系のデビューしで間もない時期であるというのも何となく感慨な思いである。

そしてこちらが現在使用中の「ムーンライトながら」に使用されている185系。写真は伊豆急下田に停車中の「踊り子」で代用させていただいたが、現在は臨時便に格下げされてしまったが、18シーズンには重宝する。しかもリクライニングシートで全席指定というのが画期的。東京駅で3時間待って座席を確保するという面倒な手間は解消されて久しい。
そんな思いを抱きながら東京を後にする165系は実に良い!既にこの時で2回目の大垣夜行であるが、やはり地元の茅ヶ崎辺りに来てもいつもと違う風景!素敵でたまらん!!と、興奮状態のまま、記憶は静岡辺りであったと思う。静岡では「べんと~うっ」の声がホームに響き渡る。そう、当時は名物の駅弁売りだ。恐らくそれは「ムーンライト」時代も続いていた事であろうが、この深夜の時間帯の「べんと~うっ」はある意味心強い「味方」であった。そう、夜行列車に乗っているとこの深夜の時間帯には必ずと言っていいほど腹が減る!というか、ある意味「お約束」的な現象であろうが、当時を知るものであれば誰でも一度は経験する事柄かも知れない。であるから当時、この静岡の弁当売は大変貴重な存在であったろう。

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