エキサイトシリーズ⑦ 昔ながらの雄信内
2018-03-30

かつて流行った「昔の名前で出ています」ではないが、昔の姿で今も健在の雄信内である。交換設備が残され、駅舎も昔ながらの佇まいである。集落から離れ、天塩川を渡った対岸に駅はあるが、付近の風景は大自然一色となっている。そして「昔ながら」という文字通り、駅舎の中も広いが駅構内も広い。だがやはり、駅前に立ち駅舎を目の前にするとものすごく伝わってくることだが、他の貨車駅や昔仮駅だった駅とは2段も3段も格が違う印象であった。ただ、利用状況をみた場合、やはりほぼ皆無に近い状況であろう。

JRへと母体が変化した雄信内。経営する会社が変わってからもうかれこれ30年経つが、平成生まれの新しい方は「国鉄」という単語自体が伝説となってしまっているであろう2018年。昭和生まれの私に例えるなら「鉄道省」的なイメージであろうか。
駅周辺には集落的なものは皆無と聞いたので、条件的には非常によろしくない。実際に私が2017年にレンタカーで訪問した時も、駅周辺は完全に無人地帯の印象であった。今となっては大変貴重になってきた国鉄式の古い駅舎も健在であるが、もしかしたら近い将来貨車等に変わってしまうかも知れない。
ただ、交換設備が残されたという事が幸いしてか、駅舎等も国鉄時代の雰囲気満載で残されているのは今や貴重な存在となってしまったが、宗谷本線を語る上でなくてはならない存在になったといえよう。






駅舎はとても国鉄的な雰囲気。懐かしさのまま今も健在というのが嬉しい材料であろう。
私がかつて「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた時にはこうした雰囲気の駅が全国各地にあった。というより、若いレールファンにとってこの「いい旅チャレンジ~」という単語自体がもう伝説であろう。この「いい旅チャレンジ~」はレールファンではない一般人も巻き込んで、ある意味社会現象となった。スタートしたのが私が小学生時代であったから、というよりその小学生でさえこのキャンペーンを知っている訳だから、当時は物凄い威力であった事であろう。













ホームもご覧の通り。宗谷本線の国鉄時代を彷彿させる貴重な風景。かつてはこのような風景が当り前のようにあった。
現在ではそんなキャンペーンも終了し、「鉄道全線」というゲームは個人のルールに則り個々に展開されている事であろう。私自身も私鉄を含めほぼ全線完乗し、こうして次のステージに進んでいる。そして、当時乗り潰した路線は廃止されたり衰退してしまった路線も少なくない。というより、国鉄自体がキャンペーン中に無くなってしまうという事態に陥ったがいずれにしても我々がレールファンである事には変わらない。いや、一度は離れたレールへの思いを再びカムバックした当時を思い出したような、そんな雄信内の風景であった。

周囲に民家はほぼ無い。いや、無い。というより見当たらない。利用者的にも年間通して恐らく2桁であろう。それでも「W68」は今もしっかりと自身の役割を果たしている。実に健気・・・

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エキサイトシリーズ⑥ お馴染みの糠南
2018-03-25

先日、神奈川県の某FM局のラジオ番組を聴いていたら川崎市長が出演されていた。私は途中から番組を聴いたが、やたら市の様子や情勢など詳しく、細かな工事の費用まで知っていたので最初は誰だかわからず何の専門家がゲストかと思ったら市長だったのだ。私が関心を持ったのが武蔵小杉(「ケイン」でもなければ「ショー」でもない!)の現状報告であった。武蔵小杉といえば近年に横須賀線の駅ができて益々の飛躍の場となっているが、市長によると、特に横須賀線の駅が大変らしい。というか、市長が改めていうまでもなく現在の武蔵小杉は乗り換え客などで特に朝の通勤ラッシュ時にはホーム等に利用客がごった返す程なのは周知の通りである。


早速お馴染みの「待合室」。恐らく2名も入室すれば満員御礼であろう。中には「冬道具」が装備されているが、私の訪問は初夏であったので冬眠状態、いや夏眠状態であった。そして角度を変えて待合室を見ると・・・かなりのデンジャラスゾーンとなっていた。




ホーム幅員狭っ!国鉄時代は仮乗降場であったので、私はある意味未知の世界であった。近年に秘境駅としてクローズアップされ頭角を現すが、今や誰もが認める秘境駅となった。ただ、知名度的にはマニアックな部類になろう。
そしてホームドアを設置するという話になり「○○円かかりましたから」と具体的な数値を述べたが、ホームドアだけでそんなにかかるのかと、改めて鉄道の偉大さを知った。
そして「覇魂」こと番組担当の某アナウンサーが「横浜駅は年がら年中工事してますからね。いつになったら終わるのでしょうか」と、実に的を射た発言というか、いかにも的な発言があった。私は車中ながら大きく首を縦に振りながら某アナウンサーと気持ちがひとつになった。「そうだよなぁ~、自分が生まれて物心ついた時からずっと工事やってるもんなぁ~」と。改良に次ぐ改良で、果して完成形はあるのか?と以前から思っていたが・・・








ご覧の通り、現在の糠南は駅の存在意義を疑われても仕方がない風景である。現在、後に紹介する南幌延とともに存続問題が浮上。というより、ある意味この地にレールが敷かれていること自体、現在は奇跡であろう。
そんな都会の情勢などどこ吹く風?の佇まいの糠南であるが、特急列車はおろか、普通列車さえ通過してしまう。某秘境駅訪問家の評価も高いほどにその駅の特性が瞬時にお分かりになろう。お馴染みの待合室は「冬の道具」の置き場も兼ねている。というよりそちらの方がメインで、利用者はそちらを「お借りしている」と考えた方がいいのかも知れない。増してやホームドアなど全く無縁の世界であろう。当然ながら主要道路から外れ、いっそ秘境的な部分を醸し出すが、意外にも付近に民家は点在する。そして驚きなのは外から見ると待合室が中に浮いた状態のような雰囲気で、ある意味秘境駅七不思議的なオーラを放っている。


現在の利用者は、ある資料によると一日平均0.0人。つまり利用されていないという事になる!かつて私がある資料で石北本線の天幕や中越などの晩年の利用者数を見てびっくりしたのを思い出した。
ただ、前回の訪問は特急列車で通過しただけだったが、今回はレンタカーにてじっくり訪問できた。「秘境駅」といわれて久しいが、そんな秘境駅にもちゃんとした舗装道路が駅まで案内してくれる。周囲は草原や畑的風景になっているが、当然ながら冬季は銀世界一色となる。典型的な北海道仕様の駅であるが、かつて「仮」であった関係から私は最近になって馴染みのある駅とないった。

開業してからしばらくは仮乗降場であったので、日の目を見たのはここ30年くらいである。といっても既にもう30年も経っている。であるが、現在は存続問題で揺れているとは何とも因果なものだ。
ただ、近年では某秘境駅訪問家の登場により、ある意味かなりメジャーな印象の糠南である。駅事情は逆に皆様の方が情報をお持ちであろう。であるが、やはりそういった「公の場」に出てくるくらいだからやはりそれなりに風格が違う気がする。クイズダービーで例えるなら、なんとなく竹下景子のような存在であろうか。そんな堂々とした駅に思えてならなかった。

さて、次の雄信内に向かおう。冒頭の駅名標には雄信内の部分のみ新しい。つまりそれはかつては違った駅が記されていた事を意味するが、こうして既存の駅が次々と消えていくのは近年では通常の風景になってしまった。
エキサイトシリーズ④ 問寒別で再び宗谷本線に合流
2018-03-20

全く関係ない話であるが、皆さまは「吉田類」をご存じであろうか?「俳句愛好会[舟]」の主宰でもあるが、それより私はBS・CSで放送されている「酒場放浪記」での活躍が素晴らしいと思う。というより、おそらくこんな話は実にマニアック的で一般にはあまり浸透していない「地味」なネタであろうが、私はこの「地味」というカテゴリーが実に居心地良い場所とともに私が求めるポジションでもある。以前にこのブログでも何度か触れているが、この「酒場放浪記」という番組では地元に愛される味のある居酒屋をめぐる番組である。もちろん私の知っているお店も紹介された事があるので更に番組への関心が高まったが、やはり出てくるお店が本当に個人経営の、地元民しか知らないようなお店を紹介するので本当に毎回視聴していて楽しい。過去には鶴見線は国道駅のガード下の居酒屋も紹介された事があるので、この事だけでもレールファンにとってみたらどんな番組か想像つくであろう。




チョコレート、いや、ウエハースのような問寒別の「貨車駅」。近年に塗装し直したのか、メチャ綺麗であった。もちろんかつては木造であろう駅舎があったはずだ。そしてここからかつて幌延町営軌道が分岐していたが、私にとっては伝説である。
私はそんな居酒屋で普通に飲める人間になりたい!財布や時間と相談しなくても気まぐれでひとりで飲んでみたい!と最近になって思うようになってきた。だが・・・そんな夢はしばらく時間がかかりそうだ。
そんな居酒屋的な駅の雰囲気漂う問寒別であるが、かつては幌内町営軌道の分岐駅でもあった。しかしながら我々の世代ではこの幌内町営軌道という会社に馴染みがない。申し訳ないが完全に伝説の部類になっている。しかしながら、その歴史を調べてみると実に奥深く引き込まれてしまう鉄道で、実体験された方が実にうらやましく思う。



詳しく事前調査したわけではないので断定できないが、旧・天北線、飛行場前から問寒別へ向かう途中の道にあった幌内町営軌道の跡と思われる遺構。熊笹の辺りが線路跡と思われるが、私にとっては伝説的存在。もちろん現存していたら間違いなく乗車しに訪問していたであろう。
そして2017年に実際に予備知識を持って現地にレンタカーで訪れたが、時間との関係からじっくりと観察できなかった。それでも「この辺りがそうかな?」などと想像を膨らませる事が出来ただけでもワクワクした。しかもこの鉄道は「馬力」として開業した。つまり機関車が「馬」だったわけで、なんとも歴史を感じてしまう。









かつての駅舎の基礎が残っているが、一体どんな駅舎だったのか気になる。かつては交換設備があったのが何となくわかるような感じにしか面影がない。が、駅舎側にもかなり不自然な広い空間がある。それがかつての幌延町営軌道の跡地であろう。
既に2017年に訪問した時は交換設備が撤去されて棒線化されてしまっていたが、そんなかつての殖民軌道の面影すら撤去された趣きで私を待っていた。全くの伝説的鉄道で実体験できなかったのがある意味悔しい。であるが、今でも「宗谷本線」として問寒別が残っているだけでも嬉しいではないか!そんな問寒別の現在を今こうしてお伝えする事が出来るだけでも幸せな事かも知れない。

問寒別駅前はそれなりに集落的な部分を形成しているが、もちろん宗谷本線の貴重な収入源の一部に貢献しているであろう部分もあるが、時代背景を考えた場合、かなり厳しい現実であるのは周知の通りである。

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エキサイトシリーズ③ いざ、松音知
2018-03-15

天北線の中で最も現役当時の原型をとどめているであろう松音知。ある資料によると、現在は個人所有の物件となっており「別荘」として第二の人生を送っているらしい。こんな別荘を所有できるなんて、レールファンの私にとってみれば夢のまた夢。「ゴールドラッシュ」などでひと山当てたい気分である。
ただ、松音知駅周辺はほとんど民家など見かけず、かつてに比べかなり過疎化が進んだものと思われる。かつてはそれなりに利用者がいたような数値がある資料によると掲載されていた。そんな数値が信じられない程に現在、付近の風景は文明的な何かが足りない気がする。
だが、レールファンとしては「管理人」がいるという事で駅がしっかり管理されているということは実に嬉しい事、これからも引き続きこの駅がずっと今の姿で将来を迎えてくれることを祈るのみである。

天北線の中で最も現役当時の原型をとどめている松音知。管理人に感謝!









ご覧の通り、今にも列車がやってきそうな風景。ただ、経営者の立場から見て旅客のみでの収入ではかなりつらい風景であろう。


それなりに民家が点在する周囲の風景であるが、何となく廃止されてしまったのがもったいない気もする。天北線が気になる存在のなったのはつい最近の事。現役時代に訪問出来ていたらまた違った感性が生まれていた事であろう。

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エキサイトシリーズ② 旧・天北線、敏音知の今
2018-03-10

全く集落の気配を感じないまま敏音知についた。もちろんここ敏音知周辺も人の気配はない。途中、中頓別は天北線のなかでもそこそこの中間駅で交換設備もあった。そしてなんといってもかつては歌登町営軌道の分岐駅であったのは紛れもない事実であった。




道の駅に生まれ変わった敏音知。果たしてこの空間にかつて天北線の姿があったのだろうか。
歌登町営軌道といえば、かつては美幸線の未成線と平行する部分もあり、さながら「美幸線」であったイメージだ。ただ、簡易軌道時代もあり、つまり馬車軌道時代もあったわけで、なにかと歴史を感じてしまう。ただ、こちらも現存していない事を考えるとモータリゼーションの影響を例外なく受けたであろう事や美幸線のルートと並行する事からの廃止であろう。だが当時は例え馬車軌道であっても天候次第ですぐに泥濘になってしまう道路より重宝したはずだしそれなりに利用者も少なくなかったはずだ。もちろん旅客だけがお客様ではなかったはずだから、開拓部落にとってはなくてはならない存在であった事と思う。




道の駅の片隅にあるオブジェ的な鉄道の歴史。かなりメンテナンスには気を使われている雰囲気が伝わってくる。「敏音知」とはアイヌ語由来の当て字であるが、特に北海道は地名のネーミングが独特で、他の地域とは違った特異性を持っている。
そんな中頓別も、現在はバス停がポツンと立っているだけの風景になってしまったし、周囲に人の気配をほとんど感じなかった。ただ、敏音知は道の駅として第二の人生を送っており、それなりに「人の集まる場所」として現在も活躍している。そして道の駅の外れにオブジェ的ではあるがかつての鉄道的証しが確認できる。ただ、やはり周囲には人の気配を感じず、旅客のみの運営となればJRの経営も察するに至るであろう。
しかしながら、こうした場所にレールがあるとレールファンとしての虫が騒いでしまうのは私だけであろうか。というより、よくこの地にレールを敷設したと感心してしまう思いだが、ある意味サハリンに向けての先人の思いも十二分に詰まっている事であろう。

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エキサイトシリーズ① 旧・天北線と宗谷本線を巡る
2018-03-05
先の新春ジャイアントシリーズでは2014年の普通列車乗車時と2017年のレンタカーによる訪問時とあわせて紹介したが、これより先の稚内までは特急列車とレンタカーによる訪問での紹介となる。
勿論、特急列車は限定された駅しか停車しないため、途中駅はレンタカーによる訪問時の紹介になるが、正直言って、音威子府以北に限らず宗谷本線の、いや、北海道は特に都市から都市までの距離が長く、途中駅は本当に人口希少地帯が多い。そう考えると音威子府や幌延などは超大都会であるし名寄などは政令指定都市のような錯覚に陥る場面も少なくない。

国鉄時代、音威子府~稚内までの鉄路は2通りあった。若いレールファンには右側の路線図は馴染みがないと思われるが、かつての宗谷本線ルートで国鉄時代~JR時代は天北線として活躍していた。写真は音威子府駅構内にある天北線資料室より。
つまり北海道はそれこそ「デッカイドー」ではないが、集落から集落までの距離が長く、そしてその集落こそ貴重な「収入源」となる。私があえてこの場で述べるまでもないが、JR北海道は札幌近郊の路線で経営が成り立ってるようなもので、特に札幌~千歳空港間は貴重なドル箱路線となっている。
宗谷本線もかつてはサハリンに抜ける貴重な鉄道路線であったろう。特にその昔は天北線が宗谷本線を名乗っていた訳だから、今考えると先人の敷設当時の苦労などが甦ってくる感じだ。

音威子府からしばらく無人地帯的な地域を走ってきたので、浜頓別はある意味「大都会」に思えた。現在はご覧の通りに面影を残すが、レール的何かは残っていない印象であった。
今回のシリーズではレンタカー訪問が中心となるが、天北線の模様もあわせて紹介してみよう。先述して飛行場前と山軽は既に紹介しているが、ハッキリ言って天北線沿線は浜頓別を除き超人口稀少地帯の印象であった。特に音威子府~浜頓別は全く人の気配が無い印象で、確かに中頓別などの集落はあるものの、全体的に無人地帯的な印象が強かった。先人はよくこのような地にてレールを敷設したと感心してしまうが、基本的にかつては貨物輸送も担っていた訳で、お客様が旅客だけではない時代もあったのだから経営的には国鉄末期よりも数値的には良かったはずだ。

天北線は今回音威子府~飛行場前までの訪問となった。残りは次回にじっくり訪問してみたい。もちろん美幸線の未成線区間も含めてである。そして飛行場前より問寒別で宗谷本線と再び合流した。
そんな天北線も現在は記憶として我々にメモリーされただけの鉄道になってしまったが、沿線道路は恐らく以前よりも幅員が広がり整備され、それこそ利用しやすい設計になったはずだ。とは言え、正直言って真夜中にこの区間の道を通るとかなり危険を感じずにいられない雰囲気であった。私の訪問は昼間であったから良かったが、ある意味この地にて暮らされている方の苦労もひしひしと伝わってくる雰囲気でもあった。そんな中でかつての鉄道の存在は沿線住民にとってどのように映っていたのであろう。そんな思いを探るべく、音威子府よりハンドルを右に切った。

今回宿泊の地になった幌延。駅前の民宿で一夜を過ごしたが、とても清潔感があり民宿を超えた民宿的印象であった。幌延訪問の際はぜひおすすめいたします!
旧・天北線を飛行場前まで辿り、その後問寒別で宗谷本線に合流する計画を企てたのは先述通り2017年の夏である。予定では音威子府14時頃に出発し問寒別に到着するのが17時頃である。地図上では私の計画はギリギリのギリ、というよりある意味無謀なスケジュールであったが、実際に訪問してみたら、この日の宿となる幌延には全く問題なく余裕で到着した。もちろん、夏場であるから日が長いというメリット含め明るいうちに取材できたのはある意味、達成感的な部分は非常に大きかった。

翌日、更に北を目指す。ゴールの稚内まで全ての駅をめぐりめぐる。途中、北の大地の雄大さを思い知らされる事になるのだが・・・
いつも私は出発直前くらいまで計画を見直したり変更したりする。実は今回も音威子府から天北線の一部をめぐり更に宗谷本線に再び合流して幌延に宿泊する事は本当に出発の2週間前くらいに変更したのだ。それまでは稚内で宿泊をして天北線と宗谷本線を抜かりなくまわるつもりであったが、ある意味この変更は正解であったろうと思う、というより思いたい。もちろん天北線の訪問できなかった区間があるのは勿体無い気もあるが、その部分については旧・美幸線やその未成線を含め改めて訪問してみたい。もちろん時間をしっかりとって・・・

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勿論、特急列車は限定された駅しか停車しないため、途中駅はレンタカーによる訪問時の紹介になるが、正直言って、音威子府以北に限らず宗谷本線の、いや、北海道は特に都市から都市までの距離が長く、途中駅は本当に人口希少地帯が多い。そう考えると音威子府や幌延などは超大都会であるし名寄などは政令指定都市のような錯覚に陥る場面も少なくない。

国鉄時代、音威子府~稚内までの鉄路は2通りあった。若いレールファンには右側の路線図は馴染みがないと思われるが、かつての宗谷本線ルートで国鉄時代~JR時代は天北線として活躍していた。写真は音威子府駅構内にある天北線資料室より。
つまり北海道はそれこそ「デッカイドー」ではないが、集落から集落までの距離が長く、そしてその集落こそ貴重な「収入源」となる。私があえてこの場で述べるまでもないが、JR北海道は札幌近郊の路線で経営が成り立ってるようなもので、特に札幌~千歳空港間は貴重なドル箱路線となっている。
宗谷本線もかつてはサハリンに抜ける貴重な鉄道路線であったろう。特にその昔は天北線が宗谷本線を名乗っていた訳だから、今考えると先人の敷設当時の苦労などが甦ってくる感じだ。

音威子府からしばらく無人地帯的な地域を走ってきたので、浜頓別はある意味「大都会」に思えた。現在はご覧の通りに面影を残すが、レール的何かは残っていない印象であった。
今回のシリーズではレンタカー訪問が中心となるが、天北線の模様もあわせて紹介してみよう。先述して飛行場前と山軽は既に紹介しているが、ハッキリ言って天北線沿線は浜頓別を除き超人口稀少地帯の印象であった。特に音威子府~浜頓別は全く人の気配が無い印象で、確かに中頓別などの集落はあるものの、全体的に無人地帯的な印象が強かった。先人はよくこのような地にてレールを敷設したと感心してしまうが、基本的にかつては貨物輸送も担っていた訳で、お客様が旅客だけではない時代もあったのだから経営的には国鉄末期よりも数値的には良かったはずだ。

天北線は今回音威子府~飛行場前までの訪問となった。残りは次回にじっくり訪問してみたい。もちろん美幸線の未成線区間も含めてである。そして飛行場前より問寒別で宗谷本線と再び合流した。
そんな天北線も現在は記憶として我々にメモリーされただけの鉄道になってしまったが、沿線道路は恐らく以前よりも幅員が広がり整備され、それこそ利用しやすい設計になったはずだ。とは言え、正直言って真夜中にこの区間の道を通るとかなり危険を感じずにいられない雰囲気であった。私の訪問は昼間であったから良かったが、ある意味この地にて暮らされている方の苦労もひしひしと伝わってくる雰囲気でもあった。そんな中でかつての鉄道の存在は沿線住民にとってどのように映っていたのであろう。そんな思いを探るべく、音威子府よりハンドルを右に切った。

今回宿泊の地になった幌延。駅前の民宿で一夜を過ごしたが、とても清潔感があり民宿を超えた民宿的印象であった。幌延訪問の際はぜひおすすめいたします!
旧・天北線を飛行場前まで辿り、その後問寒別で宗谷本線に合流する計画を企てたのは先述通り2017年の夏である。予定では音威子府14時頃に出発し問寒別に到着するのが17時頃である。地図上では私の計画はギリギリのギリ、というよりある意味無謀なスケジュールであったが、実際に訪問してみたら、この日の宿となる幌延には全く問題なく余裕で到着した。もちろん、夏場であるから日が長いというメリット含め明るいうちに取材できたのはある意味、達成感的な部分は非常に大きかった。

翌日、更に北を目指す。ゴールの稚内まで全ての駅をめぐりめぐる。途中、北の大地の雄大さを思い知らされる事になるのだが・・・
いつも私は出発直前くらいまで計画を見直したり変更したりする。実は今回も音威子府から天北線の一部をめぐり更に宗谷本線に再び合流して幌延に宿泊する事は本当に出発の2週間前くらいに変更したのだ。それまでは稚内で宿泊をして天北線と宗谷本線を抜かりなくまわるつもりであったが、ある意味この変更は正解であったろうと思う、というより思いたい。もちろん天北線の訪問できなかった区間があるのは勿体無い気もあるが、その部分については旧・美幸線やその未成線を含め改めて訪問してみたい。もちろん時間をしっかりとって・・・

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