サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑩
2018-07-30
仙山線でさっき通った北山形を過ぎると羽前千歳で奥羽本線に別れを告げる。仙山線は現在、仙台側は完全にベッドタウン化しており、特に愛子~仙台間は列車設定が多いが、山形側は現在もローカル色豊かな印象である。そんな両極端な性格をもつ仙山線は、客車列車だと山寺~作並辺りが一番似合っているだろう。特に面白山高原付近は交流電車だと味気無い気持ちになるのは私だけであろうか?

これが伝説の八ツ森。気がついたらほぼ休止状態であったが、つい最近に正式に廃止になったと聞いた。というよりある意味「秘境駅」であるから集落の中にあるという訳でもなく、むしろ観光的要素が強かった。というより、かつて駅付近にスキー場があったという名残から現在に至っていた。
そして何と言っても「八ツ森」の存在を忘れてはならない。今回の旅でも通過扱いでその全容がベールに包まれていたが、近年に某秘境駅訪問家が訪問記を紹介して以来、いつかは私も行ってみたいと思っていた。残念ながら現在は正式に廃止となってしまったが、当時から異色の存在として光放っていた。
そんな沿線風景を中学生なりに堪能しながら仙台に到着した。途中の愛子辺りからそれなりの乗車はあったが、何せ旧型客車。ドアの開閉は手動である。仙台近郊で手動ドアとは何となくアンマッチである。特にJR化後には近代化も進み利用しやすくなったであろうが、我々レールファンにしてみたらかなり残念な印象である。

仙山線にはかつて旧型客車の普通列車が運転されていた。もちろん今回の旅では最初から予定に組み込み乗車。窓を開ければ夏でも心地よい風が入ってくる。
さて、仙台には10時21分に着いて乗り換える仙石線は11時04分発である。乗り換え時間がややあるが、仙石線と他の在来線とはややホームが離れている。その意味はご存知の通り、かつて民鉄だった名残であるが、当時はまだ仙石線ホームは地上にあった。気がついたら雨がホーム上の屋根に弾く音が強く響いている。とりあえず地下道みたいな通路を通り仙石線乗り場に出たので濡れずに済んだが、後に紹介する石巻では仙石線と石巻線との駅がやや離れているためこのまま雨が降り続いたら石巻でかなりのダメージを受けてしまう。そんな事をずっと考えながら乗車する仙石線は、完全に私一人が非日常の旅人で、生活色がたっぷり詰まった「国電」の車内では完全に私は浮きまくっていた。

ダイナミック✩トナカイ提供の仙石線・仙台駅。かつては私鉄であった名残から国鉄とやや離れた場所に仙石線乗り場があった。近年ではあおば通まで延伸し地下化されたが、他の路線とは離れた場所にあることは変わらない。私の乗車時は土砂降りであったが、ダイナミック✩トナカイが単独で訪問した時は晴れていたらしい。

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これが伝説の八ツ森。気がついたらほぼ休止状態であったが、つい最近に正式に廃止になったと聞いた。というよりある意味「秘境駅」であるから集落の中にあるという訳でもなく、むしろ観光的要素が強かった。というより、かつて駅付近にスキー場があったという名残から現在に至っていた。
そして何と言っても「八ツ森」の存在を忘れてはならない。今回の旅でも通過扱いでその全容がベールに包まれていたが、近年に某秘境駅訪問家が訪問記を紹介して以来、いつかは私も行ってみたいと思っていた。残念ながら現在は正式に廃止となってしまったが、当時から異色の存在として光放っていた。
そんな沿線風景を中学生なりに堪能しながら仙台に到着した。途中の愛子辺りからそれなりの乗車はあったが、何せ旧型客車。ドアの開閉は手動である。仙台近郊で手動ドアとは何となくアンマッチである。特にJR化後には近代化も進み利用しやすくなったであろうが、我々レールファンにしてみたらかなり残念な印象である。

仙山線にはかつて旧型客車の普通列車が運転されていた。もちろん今回の旅では最初から予定に組み込み乗車。窓を開ければ夏でも心地よい風が入ってくる。
さて、仙台には10時21分に着いて乗り換える仙石線は11時04分発である。乗り換え時間がややあるが、仙石線と他の在来線とはややホームが離れている。その意味はご存知の通り、かつて民鉄だった名残であるが、当時はまだ仙石線ホームは地上にあった。気がついたら雨がホーム上の屋根に弾く音が強く響いている。とりあえず地下道みたいな通路を通り仙石線乗り場に出たので濡れずに済んだが、後に紹介する石巻では仙石線と石巻線との駅がやや離れているためこのまま雨が降り続いたら石巻でかなりのダメージを受けてしまう。そんな事をずっと考えながら乗車する仙石線は、完全に私一人が非日常の旅人で、生活色がたっぷり詰まった「国電」の車内では完全に私は浮きまくっていた。

ダイナミック✩トナカイ提供の仙石線・仙台駅。かつては私鉄であった名残から国鉄とやや離れた場所に仙石線乗り場があった。近年ではあおば通まで延伸し地下化されたが、他の路線とは離れた場所にあることは変わらない。私の乗車時は土砂降りであったが、ダイナミック✩トナカイが単独で訪問した時は晴れていたらしい。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑨
2018-07-25
季節運転となった急行「おが」を下車した私は山形では6時7分発の左沢線始発までまたなければならない。本来の予定なら福島で季節運転の夜行急行列車「おが」どうしでのりかえ山形に戻ってくる予定だったが「快適過ぎてもしかしたら寝過ごして上野まで行ってしまうのではないか」と思い深夜の山形で左沢線の始発を待つ事を決断したのであった。今の私なら絶対に福島で深夜の乗り換えをしようと山形をやり過ごすであろうが、当時の私には計画が狂ってしまうのがどうにも許せなかったようだ。とかいいながら今回の旅は散々計画通りに進まない場面があったが、結局山形駅の待ち合い室で過ごすことになる。よく家出少年と勘違いされずに左沢線の始発に乗ることが出来たものだと逆に関心してしまう。そして後日にまた同じ山形駅で同じように「おが」を下車し始発を待つ事になるのだが、それは後程紹介しよう。

左沢線の要衝駅、寒河江。近年に駅が100m移転したとの報告がウィキに記されていた。モダンな駅舎になりなおかつ機能的に生まれ変わった事であろう。もちろん私の訪問時は移転前であるが、ある意味左沢線を電化してしまってもいいかも知れない。と言いたいところであるが、線路幅が違うため奥羽本線との乗り入れができずかえって意味がなくなってしまいそう。もちろん左沢線を標準軌にするのも現実的ではないが・・・
さて、左沢線の始発に無事乗ることが出来た私は早速深い眠りについた。やはり待ち合い室では気持ちが休まらないのと左沢線では左沢で同じ車両がそのまま折返し上り山形行になるのは知っていたので例え乗り過ごしてもまた山形に戻ってくるという計算があったから気持ちがちょっと緩んだのもあろう。そして途中駅は帰りに撮影すればいいというのもあった。だが、終点の左沢では「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真撮影があるのでしっかりと目覚めなければならない。どう対処したかは記憶にないが、しっかりと左沢と途中の寒河江の写真が残っているので「やるときはやる!」的な潜在能力を誇示していたのであろう。と言っても誰が認めてくれるわけでもないが・・・

2014年1月訪問時の北山形駅の左沢線側にある西口の、いわゆる「裏口」の駅舎。国鉄当時からのものと思われるが、その年の6月に西口が新駅舎になったらしい。東口も近年に改築されモダンになった。
折返し山形へ戻ってくるが、当時の山形~羽前千歳間は複線であったので、いや、北山形~羽前千歳は単線であった記憶であるが、特に北山形の配線は複雑であり大変興味を引くものであった。といっても現在よりはかなりシンプルであったが、それでも私はかなり興味があった。後年に北山形と羽前千歳は単独訪問しているが、それは今回紹介している旅から約30年くらいの月日が流れており、当時とは全く異なる状況となっていた。その状況についてはこのブログでも紹介しているのでぜひご覧いただきたい。現在は新幹線と在来線が単線並列の形をとるのは周知の通りであるが、レール事情にそれほど詳しくない方の為に少々解説を入れると、新幹線と在来線では線路幅がやや異なるのだ。そして電圧等も異なる関係から当然新幹線の線路に在来線が乗り入れる事ができない。ということで専用の車両が必要となるわけだ。そして羽前千歳と山形の間は先程述べたように新幹線と在来線が並走する。だが、ここでもっと複雑なのが、在来線が北山形で左に、羽前千歳で右に別れていくので在来線か新幹線のどちらかが何処かでお互いに跨がなければならない。
国鉄時代は在来線の線路幅だけだったので意外に駅の配線はシンプルであったが現在は・・・その答えは羽前千歳に行けばわかる。

山形~羽前千歳間の複雑な関係は、羽前千歳駅の北山形寄りにあるご覧のダブルクロスで処理されていた。平面交差が実にダイナミックで、標準軌と狭軌が平面交差するのはもしかしてここが唯一?
少々長くなってしまったが、私は当時からこの山形~羽前千歳が興味津々であったのでさすがに今回の旅ではしっかりと駅の様子を車窓から眺めていた。たが、山形では仙山線に乗り換えるため果たして座席を確保できるかどうか・・・そちらの方が気になって仕方なかった。ソワソワしながら北山形を見る・・・それは集中できないタイミングであった。
山形に8時11分に到着して即効仙山線乗り場へ向かう。既に列車は私を待っていてくれたが、乗り込んでみると意外にも余裕で座席を確保した。先程の神経すり減らしていた行動は何だったのであろう。なんだか無駄なエネルギーを使ってしまったようだ。そんな私を癒してくれたのが仙山線の普通列車であるが、当時、仙山線ではまだまだ旧型客車が健在で、勿論私はそれを狙っての乗車であった。やはり当時もこの仙山線客車列車は貴重な存在であったろう。そんな仙山線普通列車は8時30分、定刻に山形のホームから滑り出していった。

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左沢線の要衝駅、寒河江。近年に駅が100m移転したとの報告がウィキに記されていた。モダンな駅舎になりなおかつ機能的に生まれ変わった事であろう。もちろん私の訪問時は移転前であるが、ある意味左沢線を電化してしまってもいいかも知れない。と言いたいところであるが、線路幅が違うため奥羽本線との乗り入れができずかえって意味がなくなってしまいそう。もちろん左沢線を標準軌にするのも現実的ではないが・・・
さて、左沢線の始発に無事乗ることが出来た私は早速深い眠りについた。やはり待ち合い室では気持ちが休まらないのと左沢線では左沢で同じ車両がそのまま折返し上り山形行になるのは知っていたので例え乗り過ごしてもまた山形に戻ってくるという計算があったから気持ちがちょっと緩んだのもあろう。そして途中駅は帰りに撮影すればいいというのもあった。だが、終点の左沢では「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真撮影があるのでしっかりと目覚めなければならない。どう対処したかは記憶にないが、しっかりと左沢と途中の寒河江の写真が残っているので「やるときはやる!」的な潜在能力を誇示していたのであろう。と言っても誰が認めてくれるわけでもないが・・・

2014年1月訪問時の北山形駅の左沢線側にある西口の、いわゆる「裏口」の駅舎。国鉄当時からのものと思われるが、その年の6月に西口が新駅舎になったらしい。東口も近年に改築されモダンになった。
折返し山形へ戻ってくるが、当時の山形~羽前千歳間は複線であったので、いや、北山形~羽前千歳は単線であった記憶であるが、特に北山形の配線は複雑であり大変興味を引くものであった。といっても現在よりはかなりシンプルであったが、それでも私はかなり興味があった。後年に北山形と羽前千歳は単独訪問しているが、それは今回紹介している旅から約30年くらいの月日が流れており、当時とは全く異なる状況となっていた。その状況についてはこのブログでも紹介しているのでぜひご覧いただきたい。現在は新幹線と在来線が単線並列の形をとるのは周知の通りであるが、レール事情にそれほど詳しくない方の為に少々解説を入れると、新幹線と在来線では線路幅がやや異なるのだ。そして電圧等も異なる関係から当然新幹線の線路に在来線が乗り入れる事ができない。ということで専用の車両が必要となるわけだ。そして羽前千歳と山形の間は先程述べたように新幹線と在来線が並走する。だが、ここでもっと複雑なのが、在来線が北山形で左に、羽前千歳で右に別れていくので在来線か新幹線のどちらかが何処かでお互いに跨がなければならない。
国鉄時代は在来線の線路幅だけだったので意外に駅の配線はシンプルであったが現在は・・・その答えは羽前千歳に行けばわかる。

山形~羽前千歳間の複雑な関係は、羽前千歳駅の北山形寄りにあるご覧のダブルクロスで処理されていた。平面交差が実にダイナミックで、標準軌と狭軌が平面交差するのはもしかしてここが唯一?
少々長くなってしまったが、私は当時からこの山形~羽前千歳が興味津々であったのでさすがに今回の旅ではしっかりと駅の様子を車窓から眺めていた。たが、山形では仙山線に乗り換えるため果たして座席を確保できるかどうか・・・そちらの方が気になって仕方なかった。ソワソワしながら北山形を見る・・・それは集中できないタイミングであった。
山形に8時11分に到着して即効仙山線乗り場へ向かう。既に列車は私を待っていてくれたが、乗り込んでみると意外にも余裕で座席を確保した。先程の神経すり減らしていた行動は何だったのであろう。なんだか無駄なエネルギーを使ってしまったようだ。そんな私を癒してくれたのが仙山線の普通列車であるが、当時、仙山線ではまだまだ旧型客車が健在で、勿論私はそれを狙っての乗車であった。やはり当時もこの仙山線客車列車は貴重な存在であったろう。そんな仙山線普通列車は8時30分、定刻に山形のホームから滑り出していった。

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サマーアクションシリーズ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑧
2018-07-20
大船渡線で17時02分に一ノ関に着いた私は、17時53分発の快速「くりこま」に乗り北上に向かう。やや待ち時間もあるためキオスクでパンなどの「夕飯」を買い込む。そう、あくまで「キオスク」であり「ニューデイズ」ではない。なんとなく懐かしい感じもするが、たしか当時はキオスクで「冷凍みかん」なども売っていたはずだ。今でも駅で冷凍みかんは売っているのであろうか・・・
当時は旧型客車が主流の東北本線普通列車陣であるが、かつて急行であった快速「くりこま」は交流型の電車なので何となく違和感。というより昼間の急行列車が激減し、代わりにこうした快速列車充てられるようになった。新幹線停車駅以外の対応策であろうが、快速だとなんだか乗ってても優越感が無い。
余談だが、山陽新幹線が全通して間もない頃は小倉~博多間の速達列車がほぼ新幹線のみしかなく、在来線は普通列車ばかりだった印象だ。確かに門司港発の「有明」とかあったが運転本数が少なく途中駅は不便であったろう。当時の鉄道誌に読者投稿欄みたいなコーナーがあり、この件に関して、特に快速列車があると便利みたいな意見が多く寄せられていた。だが国鉄側の回答は「新幹線を利用してください」であった。つまりなんとか新幹線に乗せる事が国鉄側の思惑だったのだ。だが、そんな事は当時中学生だった私にも怠慢な考えとわかる。途中駅はどうなるんだ❗と声を大にして同調した。小倉から乗る人は博多だけが行き先じゃないよと、素人でもわかる事を国鉄は頑なに受け入れなかった。現在のように在来線のダイヤが充実したのはJR化後だった記憶だ。もちろん競合区間は運営会社が違うということもあるが、かなりのデットヒート度で列車が充実している。それを思うと東北新幹線開通後に並走する在来線に快速が運転されているということは、それだけでもラッキーなのかも知れない。
話が逸れてしまったが、せっかく「ワイド」なのだから特急や急行に乗りたかった。東北・上越新幹線開業で急行列車や夜行列車そして特急列車までもが一気に整理されたので、特に新幹線と重複する区間は特急はおろか、急行もない。だったら「ワイド」で新幹線もOKなルールにしてくれよなぁと言いたくなるが仕方がない。今回は許そう・・・って何を許すのかは分からないが、北上に18時28分に着く頃には辺りは黄昏気味ていた。

後年に訪問した陸中川尻改めほっとゆだ。1983年当時は夜の訪問であったので景色などほとんど見れず、更に当時は「睡眠タイム」となっていたので記憶がない!もちろん制覇したという記録はあるが、再訪したのは既に21世紀を迎え、経営母体も国鉄からJRに変更になった。
そして北上で19時15分発の北上線に乗り換えるが・・・またもや待ち時間がある。そして眠い。この後私は記録上、確かに北上線に乗り横手に20時28分に到着しているが、またもや夢の世界に誘われていたようだ。例のごとく20時25分頃に目が覚めてしっかりと横手のホームに誰に起こされる訳でもなく二本の足をついているわけだから大したものだ。そんな北上線を、私は2014年1月に再訪した。それは「ほっとゆだ」で温泉に浸かるためであった。1983年当時は陸中川尻と称し、全く何の特徴的なものは感じられなかったのでノーマークであった。しかも熟睡していたのだから私もさぞかし大者であろう。中学生とは、何を考えているのかわからない。

これですよ、これ。画像はウィキペディアから借用させていただいたが、これがかつての横手駅。一番線ホームと直結していた駅舎はまさに「国鉄式」であった。近年ではこうした地方の要衝駅の風景が見られなくなって寂しいが、やはり駅はその街の顔。機能的になってこそ、という思いもある。
さて、横手からは今夜の宿となる臨時急行「おが」に乗る。これは既に最初から計画に組み込まれているわけであるので問題ないが、既にもう事情はわかっているので「おが」に乗るのが楽しみになっていた。そう、20系の「自由席」にお世話になることだ。だが横手に着いたのが20時48分、急行「おが」の出発は22時13分と、1時間以上も待ち時間がある。そろそろ頭も痒くなってきた頃だし銭湯でも頂くか。だが銭湯に行くには時間的にギリギリか、下手したら間に合わない。風呂計画は断念し、今夜の「宿」を待つ事にした。当時の横手はまだ駅舎が地上にあり、一番線が駅舎に接する典型的な「国鉄型駅」となっていたが、現在は橋上化され立派になったが、更に地域のコミュニティセンターのような組織も入居して地域との結び付きも一層強くなったようだ。

急行「おが」はオール20系でB寝台の一部を「自由席」として開放していた。ある意味余剰車両のいい使い方かも知れないが、我々にしてみたら思いがけない「サービス」となる。画像は「日本の旅・鉄道見聞録」様提供。
急行「おが」に乗り福島で折り返し急行「津軽」に乗り山形に戻ってくるつもりであったが・・・既に急行「おが」の事情を知っている私は当然ながらB寝台へ向かう。乗客は疎らでなんと寝台ワンボックス占拠した!つまり6名分の座席を、というより寝台をひとりでゲッツ!とはちょっと古いが、照明は落とされ既に寝台モード。かなり贅沢な「自由席」であった。そんな喜びを胸いっぱいに抱き締めた私は、なんと山形に0時55分に下車してしまった。なぜもったいない事をしたんだろう・・・と思われるかも知れないが、実はあまりに快適すぎて福島から先に行ってしまうのではないか、つまり乗り過ごしてしまうのではないかという危機感が私を襲ったからだ。ならば山形で降りてしまおう。そして左沢線の始発を待とう。そう決意したのであった。イコール「駅寝」という事になる。
あれだけ駅寝を嫌っていた私が全くの計画外で駅寝をする・・・まぁ、ある意味いい経験になったが、今の私なら恐らく寝過ごして予定が狂っても構わないから福島まで行ってしまおう、となるであろう。しかも当時は夏休みの真っ最中。時間はいくらでもあったし切符の有効期限も二日間余裕があった。だからできたはずであるが、そこまでの余裕や知識が当時は無かった。当時は中学生だし、きっちり計画通り事が進まないと先々不安になる。というか、最終日には寝台特急「はくつる」の寝台券を押さえていたのでどうしても乗らなければならない。いや、当時はそう思い込んでいて、「乗車変更」というのが頭に無かった。やはり経験やある程度の知識は必要であると後から感じた。だが逆にこの旅を経験したからこそ得たものも大きい。「今の私なら」的な考えができるのも数々の旅を経験してきたからこそであろう。もちろん正しいか間違いかは別にして、考え方の選択肢が多いという事はある意味幸せな事。旅に限らず人生においてもこういう事って必要かもしれない。とはちょっとオーバーな表現かも知れないが・・・

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当時は旧型客車が主流の東北本線普通列車陣であるが、かつて急行であった快速「くりこま」は交流型の電車なので何となく違和感。というより昼間の急行列車が激減し、代わりにこうした快速列車充てられるようになった。新幹線停車駅以外の対応策であろうが、快速だとなんだか乗ってても優越感が無い。
余談だが、山陽新幹線が全通して間もない頃は小倉~博多間の速達列車がほぼ新幹線のみしかなく、在来線は普通列車ばかりだった印象だ。確かに門司港発の「有明」とかあったが運転本数が少なく途中駅は不便であったろう。当時の鉄道誌に読者投稿欄みたいなコーナーがあり、この件に関して、特に快速列車があると便利みたいな意見が多く寄せられていた。だが国鉄側の回答は「新幹線を利用してください」であった。つまりなんとか新幹線に乗せる事が国鉄側の思惑だったのだ。だが、そんな事は当時中学生だった私にも怠慢な考えとわかる。途中駅はどうなるんだ❗と声を大にして同調した。小倉から乗る人は博多だけが行き先じゃないよと、素人でもわかる事を国鉄は頑なに受け入れなかった。現在のように在来線のダイヤが充実したのはJR化後だった記憶だ。もちろん競合区間は運営会社が違うということもあるが、かなりのデットヒート度で列車が充実している。それを思うと東北新幹線開通後に並走する在来線に快速が運転されているということは、それだけでもラッキーなのかも知れない。
話が逸れてしまったが、せっかく「ワイド」なのだから特急や急行に乗りたかった。東北・上越新幹線開業で急行列車や夜行列車そして特急列車までもが一気に整理されたので、特に新幹線と重複する区間は特急はおろか、急行もない。だったら「ワイド」で新幹線もOKなルールにしてくれよなぁと言いたくなるが仕方がない。今回は許そう・・・って何を許すのかは分からないが、北上に18時28分に着く頃には辺りは黄昏気味ていた。

後年に訪問した陸中川尻改めほっとゆだ。1983年当時は夜の訪問であったので景色などほとんど見れず、更に当時は「睡眠タイム」となっていたので記憶がない!もちろん制覇したという記録はあるが、再訪したのは既に21世紀を迎え、経営母体も国鉄からJRに変更になった。
そして北上で19時15分発の北上線に乗り換えるが・・・またもや待ち時間がある。そして眠い。この後私は記録上、確かに北上線に乗り横手に20時28分に到着しているが、またもや夢の世界に誘われていたようだ。例のごとく20時25分頃に目が覚めてしっかりと横手のホームに誰に起こされる訳でもなく二本の足をついているわけだから大したものだ。そんな北上線を、私は2014年1月に再訪した。それは「ほっとゆだ」で温泉に浸かるためであった。1983年当時は陸中川尻と称し、全く何の特徴的なものは感じられなかったのでノーマークであった。しかも熟睡していたのだから私もさぞかし大者であろう。中学生とは、何を考えているのかわからない。

これですよ、これ。画像はウィキペディアから借用させていただいたが、これがかつての横手駅。一番線ホームと直結していた駅舎はまさに「国鉄式」であった。近年ではこうした地方の要衝駅の風景が見られなくなって寂しいが、やはり駅はその街の顔。機能的になってこそ、という思いもある。
さて、横手からは今夜の宿となる臨時急行「おが」に乗る。これは既に最初から計画に組み込まれているわけであるので問題ないが、既にもう事情はわかっているので「おが」に乗るのが楽しみになっていた。そう、20系の「自由席」にお世話になることだ。だが横手に着いたのが20時48分、急行「おが」の出発は22時13分と、1時間以上も待ち時間がある。そろそろ頭も痒くなってきた頃だし銭湯でも頂くか。だが銭湯に行くには時間的にギリギリか、下手したら間に合わない。風呂計画は断念し、今夜の「宿」を待つ事にした。当時の横手はまだ駅舎が地上にあり、一番線が駅舎に接する典型的な「国鉄型駅」となっていたが、現在は橋上化され立派になったが、更に地域のコミュニティセンターのような組織も入居して地域との結び付きも一層強くなったようだ。

急行「おが」はオール20系でB寝台の一部を「自由席」として開放していた。ある意味余剰車両のいい使い方かも知れないが、我々にしてみたら思いがけない「サービス」となる。画像は「日本の旅・鉄道見聞録」様提供。
急行「おが」に乗り福島で折り返し急行「津軽」に乗り山形に戻ってくるつもりであったが・・・既に急行「おが」の事情を知っている私は当然ながらB寝台へ向かう。乗客は疎らでなんと寝台ワンボックス占拠した!つまり6名分の座席を、というより寝台をひとりでゲッツ!とはちょっと古いが、照明は落とされ既に寝台モード。かなり贅沢な「自由席」であった。そんな喜びを胸いっぱいに抱き締めた私は、なんと山形に0時55分に下車してしまった。なぜもったいない事をしたんだろう・・・と思われるかも知れないが、実はあまりに快適すぎて福島から先に行ってしまうのではないか、つまり乗り過ごしてしまうのではないかという危機感が私を襲ったからだ。ならば山形で降りてしまおう。そして左沢線の始発を待とう。そう決意したのであった。イコール「駅寝」という事になる。
あれだけ駅寝を嫌っていた私が全くの計画外で駅寝をする・・・まぁ、ある意味いい経験になったが、今の私なら恐らく寝過ごして予定が狂っても構わないから福島まで行ってしまおう、となるであろう。しかも当時は夏休みの真っ最中。時間はいくらでもあったし切符の有効期限も二日間余裕があった。だからできたはずであるが、そこまでの余裕や知識が当時は無かった。当時は中学生だし、きっちり計画通り事が進まないと先々不安になる。というか、最終日には寝台特急「はくつる」の寝台券を押さえていたのでどうしても乗らなければならない。いや、当時はそう思い込んでいて、「乗車変更」というのが頭に無かった。やはり経験やある程度の知識は必要であると後から感じた。だが逆にこの旅を経験したからこそ得たものも大きい。「今の私なら」的な考えができるのも数々の旅を経験してきたからこそであろう。もちろん正しいか間違いかは別にして、考え方の選択肢が多いという事はある意味幸せな事。旅に限らず人生においてもこういう事って必要かもしれない。とはちょっとオーバーな表現かも知れないが・・・

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サマーアクションシリーズ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑦
2018-07-15
臨時急行「おが」はB寝台を自由席として開放するという太っ腹であったが、お陰で逆に興奮してしまい寝れなかった。だが、先述した急行「津軽54号」の車掌の配慮のお陰で新庄に戻ってくる事ができ、予定通り陸羽東線を制覇する。基本的に「駅寝を嫌う」と先述したが、今回の旅では早速「駅寝」を予定に組み込んでいたのが新庄であった。1時20分到着で5時10分発の列車に乗る予定が、新庄到着が4時45分となり駅寝をぜずに済んだ。だが、基本的にここまでは寝ていない・・・つまり陸羽東線の始発列車が「宿」となってしまったのだ。ハッキリ言って陸羽東線を記録上は制覇したが、新庄から小牛田まで記憶が無い(2014年に陸羽東線全線再訪しています)。小牛田到着は8時ちょうどであるが、不思議な事に、小牛田に着く直前でしっかり目が覚めたのだ。それをさっきの新庄でやってくれよなぁ・・・みたいに心でつぶやいたが、これから先の行程の中でも例え熟睡していたとしてもしっかりと乗り換え駅の直前で目が覚めるクセが付いた。これは自分でも不思議なのであるが、よっぽど新庄の件がトラウマだったのか、それとも「野生の勘」なのかはハッキリ言って不明である。

急行「おが」は、私がこの旅で乗車した時は既に季節運転に格下げされていた。秋田~男鹿間は普通列車であるが、編成はオール20系で、自由席の一部は寝台車を座席として開放!椅子席に改造された座席もあったが、余剰とは言え当時の国鉄にしてみたらかなりの太っ腹であろう。
小牛田で30分ほどのインターバルの後、気仙沼線で気仙沼に向かった。のの岳や志津川、柳津など私の趣味心をくすぐるような駅がたくさんあり、窓を眺めていても楽しかったが・・・ご存知、2011年の震災により一部区間が不通になってしまった。非常に残念ではあるが、現在は一部区間でBRTによる仮復旧がなされており、ひとまずホッとした感じであるが、もちろん、できれば鉄道による全線開通が好ましいであろう。

こちらは2011年に訪問した陸前高田。なんと震災の2ヶ月前に訪問していた。国鉄からJRに母体も変わりワンマン化されて久しいが、現在はBRTが代行。もちろん鉄道の復活を期待したい。
さて、気仙沼に11時7分に着いた私は11時24分発の大船渡線快速「むろね」に乗り換える。実に接続がいい。ここで私は一気に盛に向かう。であるが、ここ大船渡線もご存知の通り震災の影響で気仙沼~盛間は多大な被害を受けた。この区間も現在はBRTによる仮復旧となっているが、実は2011年の1月に私はこの地に再訪している。実に約28年ぶりであるが、まさかその2ヶ月後に悲劇が訪れるとは思っても見なかった。普通に陸前高田や大船渡など懐かしく感じたし、特に大船渡は路線名にもなっている代表駅的存在でありながら棒線型の駅であったのには驚いた。もちろんその役割は隣の終点盛が担っているのであるが、1983年訪問時はなんとなく不思議な感じがした。そして2011年に訪問した最大の理由は「三陸鉄道」であった。1983年訪問当時、三陸鉄道はまだ開通前であった。確かに工事は行われていたし、レール誌も初の第三セクターを大々的に報じていた。だが、私的には先述した阿仁合線のように、現在の三陸鉄道のようになるのは信じられなかった。であるが、現在は震災の被害を乗り越え全線復旧を果たしたという素晴らしい結果を残している。

盛からは盛線に乗り換える。現在は三陸鉄道の一部としてがんばっているが、当時は吉浜までの盲腸線であり、その先工事をしていると聞いていたが、まさか本当に繋がり現在の姿になろうとは思いもしなかった。ただ、経営母体が違うため、乗車区間によっては料金面で懸念される部分もあろうが・・・
その三陸鉄道の一部であった盛線に乗るため盛で乗り換える。約15分のインターバルが過ぎ盛を出たのが12時48分であった。盛線の終点である吉浜に13時19分の定刻に到着。同じ列車が13時24分発で折り返す。たった5分のインターバルだったので「いい旅チャレンジ20000km」の撮影も素早くやらなければならず、何かと忙しい。なので新線区間の確認などじっくりできなかったが、基本工事は進んでいる印象であったし、レールもやや先に伸びていた印象であった。もちろん現在の吉浜は中間駅になった。
さて、盛に13時54分に戻ってきた私は14時08分発の大船渡線に乗り再び気仙沼方面を目指す。ところで盛と言えば、当時はまだ岩手開発鉄道が旅客輸送を営業していた。もちろん乗車する事も考えたが、確か接続列車が無かったと思った。乗車は断念したが、あの日頃市や岩手石橋など生で見てみたかった。現在も貨物輸送は営業していると聞いているので機会があったら、というより機会を作って是非訪れてみたい。盛などは今も岩手開発鉄道の旅客ホームが残っているし、日頃市や岩手石橋などもかつての勇姿をとどめているらしい。是非いつかは再訪してみたい気持ちである。

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急行「おが」は、私がこの旅で乗車した時は既に季節運転に格下げされていた。秋田~男鹿間は普通列車であるが、編成はオール20系で、自由席の一部は寝台車を座席として開放!椅子席に改造された座席もあったが、余剰とは言え当時の国鉄にしてみたらかなりの太っ腹であろう。
小牛田で30分ほどのインターバルの後、気仙沼線で気仙沼に向かった。のの岳や志津川、柳津など私の趣味心をくすぐるような駅がたくさんあり、窓を眺めていても楽しかったが・・・ご存知、2011年の震災により一部区間が不通になってしまった。非常に残念ではあるが、現在は一部区間でBRTによる仮復旧がなされており、ひとまずホッとした感じであるが、もちろん、できれば鉄道による全線開通が好ましいであろう。

こちらは2011年に訪問した陸前高田。なんと震災の2ヶ月前に訪問していた。国鉄からJRに母体も変わりワンマン化されて久しいが、現在はBRTが代行。もちろん鉄道の復活を期待したい。
さて、気仙沼に11時7分に着いた私は11時24分発の大船渡線快速「むろね」に乗り換える。実に接続がいい。ここで私は一気に盛に向かう。であるが、ここ大船渡線もご存知の通り震災の影響で気仙沼~盛間は多大な被害を受けた。この区間も現在はBRTによる仮復旧となっているが、実は2011年の1月に私はこの地に再訪している。実に約28年ぶりであるが、まさかその2ヶ月後に悲劇が訪れるとは思っても見なかった。普通に陸前高田や大船渡など懐かしく感じたし、特に大船渡は路線名にもなっている代表駅的存在でありながら棒線型の駅であったのには驚いた。もちろんその役割は隣の終点盛が担っているのであるが、1983年訪問時はなんとなく不思議な感じがした。そして2011年に訪問した最大の理由は「三陸鉄道」であった。1983年訪問当時、三陸鉄道はまだ開通前であった。確かに工事は行われていたし、レール誌も初の第三セクターを大々的に報じていた。だが、私的には先述した阿仁合線のように、現在の三陸鉄道のようになるのは信じられなかった。であるが、現在は震災の被害を乗り越え全線復旧を果たしたという素晴らしい結果を残している。

盛からは盛線に乗り換える。現在は三陸鉄道の一部としてがんばっているが、当時は吉浜までの盲腸線であり、その先工事をしていると聞いていたが、まさか本当に繋がり現在の姿になろうとは思いもしなかった。ただ、経営母体が違うため、乗車区間によっては料金面で懸念される部分もあろうが・・・
その三陸鉄道の一部であった盛線に乗るため盛で乗り換える。約15分のインターバルが過ぎ盛を出たのが12時48分であった。盛線の終点である吉浜に13時19分の定刻に到着。同じ列車が13時24分発で折り返す。たった5分のインターバルだったので「いい旅チャレンジ20000km」の撮影も素早くやらなければならず、何かと忙しい。なので新線区間の確認などじっくりできなかったが、基本工事は進んでいる印象であったし、レールもやや先に伸びていた印象であった。もちろん現在の吉浜は中間駅になった。
さて、盛に13時54分に戻ってきた私は14時08分発の大船渡線に乗り再び気仙沼方面を目指す。ところで盛と言えば、当時はまだ岩手開発鉄道が旅客輸送を営業していた。もちろん乗車する事も考えたが、確か接続列車が無かったと思った。乗車は断念したが、あの日頃市や岩手石橋など生で見てみたかった。現在も貨物輸送は営業していると聞いているので機会があったら、というより機会を作って是非訪れてみたい。盛などは今も岩手開発鉄道の旅客ホームが残っているし、日頃市や岩手石橋などもかつての勇姿をとどめているらしい。是非いつかは再訪してみたい気持ちである。

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サマーアクションシリーズ 1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑥
2018-07-10
比立内に17時01分着、乗ってきた列車で折り返す時間は17時40分発で駅を散策するには充分に時間がある。そう、当時はここ比立内が終点であった。秋田内陸縦貫鉄道としての「現在」が考えられないくらい、比立内から先の鉄路が草に埋もれていた印象である。もちろん鉄道建設公団の予定線である事は当時は知っていたが、見る限り完全果てしなき夢の景色であった。まさか今日(こんにち)のような姿をだれが想像したであろうか!と思ってしまうくらい私には現在の姿が信じられない。後に紹介する角館線は1日確か3往復くらいの典型的な赤字ローカル線であったし、繋がったところで果たして利用者がいるのであろうか・・・と中学生ながらに心配はしていたが、しかしながら繋がったら・・・的な夢や妄想も確かにあった。もちろん銭儲けとはかなりかけ離れた現実である事は周知の通りであるが、当時私が見た姿とは形は変われど、こうして今も生き延びていることに感謝である。

阿仁合線の終点であった比立内。終点のため当然ながら隣の駅名の明記はない。この駅名標の駅名が無い部分に駅名が書かれる日が来るのは夢のまた夢であった。だが周知の通り、現在は隣の駅の駅名は両側に明記されている。しかしながら存続問題が囁かれているが・・・
そんな阿仁合線で比立内を折り返し鷹ノ巣に向かう。途中の合川くらいでようやく夜らしく辺りが暗くなってきた。鷹ノ巣に着いたのが20時28分である。夜も更けてきたところだし、そろそろ宿へ・・・と言いたいところであるが、当時私は中学生。約9日間の行程で宿舎にお世話になる計画は・・・無い!経済的制約の中、一夜を過ごす方法は「駅寝」か「夜行列車」に限定される。そう、私は「夜行列車」を全ての行程に組み込むつもりであった。基本、私は駅寝を嫌う主義なので全て夜行列車にしたかったが、結果として4回くらい駅寝をしている。それは後に紹介するとして、鷹ノ巣では今夜の宿となる急行「津軽54号」に乗車する事になるのだが、ここでとんでもないハプニングが待っていた。

急行「津軽54号」ではとんでもないハプニングが発生した。今の私ならそんなハプニングも楽しんでしまうのだろうが、当時はそんな余裕は無い。顔が青ざめ早速カレチに相談だ!
既にそのハプニングについてはこちらで詳しく紹介しているが、いわゆる「寝過ごした」という事であった。私は新庄で下車し、陸羽東線で小牛田に向かう予定であった。新庄着は1時20分。だが・・・ウトウトしていた私が時計を確認したのが1時23分であった。新庄発1時22分であるから既に1分過ぎてしまっていた!新庄を過ぎると次の停車駅はなんと福島であった。とりあえず現状確認と今後のやりくりを考えるため私は最後尾に向かいカレチに話を伺うことにした。やはり新庄はたった今でたばかりと言われ愕然としていると「山形で降りて下り列車の急行<おが>に乗り換えると新庄に4時45分に着く」との報告を受けた。いや待てよ?山形は確か通過のはずだけど・・・とやたらダイヤに詳しい中学生であったが、なんと山形では「運転停車」するとの事。私は運転停車の駅で下車する事になったのだ。

ダイナミック✩トナカイ提供の山形駅。今回紹介している旅で行程の途中でところどころスポット参戦的に顔を出していた。彼は親戚のある中川(奥羽本線)から乗車してきて中川で下車していく・・・みたいな感じであったが、やはりひとりよりふたりの方が心強い。この写真も当時の旅の中で彼が単独行動の時に撮影したものと思われる。
乗客用ではない乗務員用の扉から下車した私は山形駅の駅員に身柄を拘束?された。一応「家出少年」でない事を確認された後、私は山形駅の待合室に向かった。山形に深夜2時20分頃着いて、乗り換える臨時夜行急行列車「おが」の出発は3時46分である。こちらは運転停車ではなく正当に停車するので堂々と乗車できるのだが・・・急行「おが」が入線すると私はぶったまげた!なんとオール20系寝台客車であったのだ!一部座席車に改造されているものの、なんとB寝台の一部を「自由席」として開放しているではないか!このサプライズについてもこちらで詳しく紹介しているので是非ご覧いただきたいが、私は「ワイド」のためもちろん自由席へ。当然ながら「B寝台」へ向かった。今で言う「ゴロンとシート」のようなイメージであるが、逆に興奮してしまい寝れない・・・寝過ごした事で一気にいろんなハプニングがあり、むしろ活動的になってしまった深夜の時間帯は、これから乗る陸羽東線がこの日の「宿」となってしまった。

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阿仁合線の終点であった比立内。終点のため当然ながら隣の駅名の明記はない。この駅名標の駅名が無い部分に駅名が書かれる日が来るのは夢のまた夢であった。だが周知の通り、現在は隣の駅の駅名は両側に明記されている。しかしながら存続問題が囁かれているが・・・
そんな阿仁合線で比立内を折り返し鷹ノ巣に向かう。途中の合川くらいでようやく夜らしく辺りが暗くなってきた。鷹ノ巣に着いたのが20時28分である。夜も更けてきたところだし、そろそろ宿へ・・・と言いたいところであるが、当時私は中学生。約9日間の行程で宿舎にお世話になる計画は・・・無い!経済的制約の中、一夜を過ごす方法は「駅寝」か「夜行列車」に限定される。そう、私は「夜行列車」を全ての行程に組み込むつもりであった。基本、私は駅寝を嫌う主義なので全て夜行列車にしたかったが、結果として4回くらい駅寝をしている。それは後に紹介するとして、鷹ノ巣では今夜の宿となる急行「津軽54号」に乗車する事になるのだが、ここでとんでもないハプニングが待っていた。

急行「津軽54号」ではとんでもないハプニングが発生した。今の私ならそんなハプニングも楽しんでしまうのだろうが、当時はそんな余裕は無い。顔が青ざめ早速カレチに相談だ!
既にそのハプニングについてはこちらで詳しく紹介しているが、いわゆる「寝過ごした」という事であった。私は新庄で下車し、陸羽東線で小牛田に向かう予定であった。新庄着は1時20分。だが・・・ウトウトしていた私が時計を確認したのが1時23分であった。新庄発1時22分であるから既に1分過ぎてしまっていた!新庄を過ぎると次の停車駅はなんと福島であった。とりあえず現状確認と今後のやりくりを考えるため私は最後尾に向かいカレチに話を伺うことにした。やはり新庄はたった今でたばかりと言われ愕然としていると「山形で降りて下り列車の急行<おが>に乗り換えると新庄に4時45分に着く」との報告を受けた。いや待てよ?山形は確か通過のはずだけど・・・とやたらダイヤに詳しい中学生であったが、なんと山形では「運転停車」するとの事。私は運転停車の駅で下車する事になったのだ。

ダイナミック✩トナカイ提供の山形駅。今回紹介している旅で行程の途中でところどころスポット参戦的に顔を出していた。彼は親戚のある中川(奥羽本線)から乗車してきて中川で下車していく・・・みたいな感じであったが、やはりひとりよりふたりの方が心強い。この写真も当時の旅の中で彼が単独行動の時に撮影したものと思われる。
乗客用ではない乗務員用の扉から下車した私は山形駅の駅員に身柄を拘束?された。一応「家出少年」でない事を確認された後、私は山形駅の待合室に向かった。山形に深夜2時20分頃着いて、乗り換える臨時夜行急行列車「おが」の出発は3時46分である。こちらは運転停車ではなく正当に停車するので堂々と乗車できるのだが・・・急行「おが」が入線すると私はぶったまげた!なんとオール20系寝台客車であったのだ!一部座席車に改造されているものの、なんとB寝台の一部を「自由席」として開放しているではないか!このサプライズについてもこちらで詳しく紹介しているので是非ご覧いただきたいが、私は「ワイド」のためもちろん自由席へ。当然ながら「B寝台」へ向かった。今で言う「ゴロンとシート」のようなイメージであるが、逆に興奮してしまい寝れない・・・寝過ごした事で一気にいろんなハプニングがあり、むしろ活動的になってしまった深夜の時間帯は、これから乗る陸羽東線がこの日の「宿」となってしまった。

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サマーアクションシリーズ 1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑤
2018-07-05
川部に戻ってきた私は一旦弘前に向かう。それは五能線に乗るためだ。「おや?」と思われる方もおられるであろう。五能線と言えば川部からであり弘前ではないからだ。そんな理由は単純で、弘前発の五能線列車に乗るためである。というより、五能線の列車はほぼ全て弘前発であるため座席の確保に都合がいい。しかも弘前だと乗り換え時間が約10分ほどで済む。計算通りに順調に進行している今回の旅は、弘前でももちろん座席を確保し、8時10分発の列車は東能代に13時59分着までじっくりと旧型客車でくつろげる事に喜びを感じた。そう、わざわざ旧型客車で五能線制覇をと予め予定を組んでいたのだ。

五能線普通列車は弘前から乗車。もちろん座席を確保するためである。だが、当時の私には「お城」や「りんご」などを感じることなく、ただひたすら国鉄全線乗りつぶしに命をかけていた印象であった。
五能線と言えば、現在は「リゾートしらかみ」が活躍するが、当時はそんな列車など存在しなかったし、現在のように能代~東能代間の区間列車の設定もあまり無かった気がする。だが、この旧型客車の運転も全線通しは確か1日2往復くらいであった記憶のため貴重な存在であった。
五所川原くらいまではそれなりに乗客がいたが、それ以降はワンボックスを占領していい旅が出来た。真夏の旅であるが旧型客車のため冷房などは当然無い。しかしながら夏の東北は全開の窓から来る風のみでも心地よい。冷房などなくても普通に過ごせた感がある。そして窓の向こうではゴツゴツとした岩場ながら海水浴のグループが数名いる長閑な光景。中学生の私がこういう景色を見て何かを感じるという事は少しでも大人に近づいたという事であろうか。

鰺ヶ沢では確か列車交換があった。後年に「リゾートしらかみ」で再訪した五能線であるが、その間約30年くらいの月日が流れた。もちろん経営母体も国鉄からJRに代わりいろいろな面での変化が見られた。
能代に着くと「いよいよ」という実感が出てくる。なにせ約6時間も旧型客車に揺られているのであるからそろそろ足腰も痛くなってくる頃であろうが・・・なんてったって中学生!経済力は無いけれど体力的には情熱が溢れかえっていた!疲れ知らずと言おうか、まだまだ全然乗り足りない!!!!!!!!そんな印象しか記憶にない五能線であった。今思えば・・・若い!
東能代についた私は何事もなかったかのように鷹ノ巣方面へ向かう普通列車を待つ。時刻表上は客車列車の表示であるが、確か私が乗ったこの奥羽本線の普通列車639列車は50系であったと思う。旧型客車ではなかった記憶である。ただ、世間では「お盆」的なシーズンなので大きな手提げ袋を持った家族連れなどが多く列車に乗っていた記憶である。「記憶である」と表現しているが、なにせもう30年以上前の話。逆に「よくそんなに覚えているね?」と知人から聞かれそうであるが、こうしてキーボードを叩いていると意外にも当時の記憶がよみがえってくるものだ。しかもある意味細かい事まで。若かりし頃の記憶というのはすごいものだ。そんな私はこの普通列車に乗り鷹ノ巣に向かった。

鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。当時、現在の姿になるなんて全く想像出来なかったが、それでも現在は角館までつながっているのだから私にとっては実に革命的出来事であった。
鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。鷹ノ巣には14時57分着、阿仁合線は15時26分の出発で実に接続が良い。キハ20のDCであるが、もちろん冷房などは無い。ワンボックス占領し窓を全開にする。現在の鉄道路線では冷房が一般常識であるが、当時は非冷房が一般常識であった。もちろん今ほどの暑さは感じなかった記憶である。都会の列車は当然ながら冷房化が進んでいたが、地方ではこんな光景が当たり前であった。窓を開けると心地よい風が入ってくる。そして駅名標に向けシャッターを切る!実に「旅をしているな」という実感を中学生ながらに感じていた。

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五能線普通列車は弘前から乗車。もちろん座席を確保するためである。だが、当時の私には「お城」や「りんご」などを感じることなく、ただひたすら国鉄全線乗りつぶしに命をかけていた印象であった。
五能線と言えば、現在は「リゾートしらかみ」が活躍するが、当時はそんな列車など存在しなかったし、現在のように能代~東能代間の区間列車の設定もあまり無かった気がする。だが、この旧型客車の運転も全線通しは確か1日2往復くらいであった記憶のため貴重な存在であった。
五所川原くらいまではそれなりに乗客がいたが、それ以降はワンボックスを占領していい旅が出来た。真夏の旅であるが旧型客車のため冷房などは当然無い。しかしながら夏の東北は全開の窓から来る風のみでも心地よい。冷房などなくても普通に過ごせた感がある。そして窓の向こうではゴツゴツとした岩場ながら海水浴のグループが数名いる長閑な光景。中学生の私がこういう景色を見て何かを感じるという事は少しでも大人に近づいたという事であろうか。

鰺ヶ沢では確か列車交換があった。後年に「リゾートしらかみ」で再訪した五能線であるが、その間約30年くらいの月日が流れた。もちろん経営母体も国鉄からJRに代わりいろいろな面での変化が見られた。
能代に着くと「いよいよ」という実感が出てくる。なにせ約6時間も旧型客車に揺られているのであるからそろそろ足腰も痛くなってくる頃であろうが・・・なんてったって中学生!経済力は無いけれど体力的には情熱が溢れかえっていた!疲れ知らずと言おうか、まだまだ全然乗り足りない!!!!!!!!そんな印象しか記憶にない五能線であった。今思えば・・・若い!
東能代についた私は何事もなかったかのように鷹ノ巣方面へ向かう普通列車を待つ。時刻表上は客車列車の表示であるが、確か私が乗ったこの奥羽本線の普通列車639列車は50系であったと思う。旧型客車ではなかった記憶である。ただ、世間では「お盆」的なシーズンなので大きな手提げ袋を持った家族連れなどが多く列車に乗っていた記憶である。「記憶である」と表現しているが、なにせもう30年以上前の話。逆に「よくそんなに覚えているね?」と知人から聞かれそうであるが、こうしてキーボードを叩いていると意外にも当時の記憶がよみがえってくるものだ。しかもある意味細かい事まで。若かりし頃の記憶というのはすごいものだ。そんな私はこの普通列車に乗り鷹ノ巣に向かった。

鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。当時、現在の姿になるなんて全く想像出来なかったが、それでも現在は角館までつながっているのだから私にとっては実に革命的出来事であった。
鷹ノ巣からは阿仁合線、現在の秋田内陸縦貫鉄道に乗り換える。鷹ノ巣には14時57分着、阿仁合線は15時26分の出発で実に接続が良い。キハ20のDCであるが、もちろん冷房などは無い。ワンボックス占領し窓を全開にする。現在の鉄道路線では冷房が一般常識であるが、当時は非冷房が一般常識であった。もちろん今ほどの暑さは感じなかった記憶である。都会の列車は当然ながら冷房化が進んでいたが、地方ではこんな光景が当たり前であった。窓を開けると心地よい風が入ってくる。そして駅名標に向けシャッターを切る!実に「旅をしているな」という実感を中学生ながらに感じていた。

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