サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑯
2018-08-30
盛岡に13時14分に着いた私は15時08分発の花輪線に乗り換える。先程までは5分乗り換えで苦労していたのに今度は2時間待ちだ。しかも山田線でグッスリ寝ていたので目がビンビンに冴えている。時間に余裕があるので街でも散策するか・・・というわけがなく、当時の私はただやってくる列車にレンズを向けるだけであった。

盛岡駅で待ち時間に撮影した特急「たざわ」であるが、現在は新幹線「こまち」に変身し大きな飛躍を遂げた。だが、上越新幹線が開通した1982年11月15日まで田沢湖線は非電化路線で単なるローカル線に過ぎなかったが、電化され特急が運転されるようになり景色が一転した。そして角館や田沢湖などの観光地へのアクセスも奥羽本線経由から東北新幹線経由に変わり流れが一転、田沢湖線自体が大きな変化を遂げた年でもあった。
というのも、首都圏ではなかなかお目にかかれない特急「たざわ」や、新幹線開通後に盛岡~青森に短縮された「はつかり」などがここで会える。逆に二時間では足りないくらい興奮の雨霰であった。意外にも「たざわ」は空席が目立っていたが、これから乗る花輪線はフルハウスであった。座席が確保できるかわからなかったので予め花輪線のホームで待っていたが、私の後ろは凄い行列。列車がやってくると入り口付近に我も我もとドアに合わせ列が移動していく。私は到着した列車の開いていた窓から自身のバッグを放り込み座席を確保した。「よし、これで座席OK!」となりドアから列車に乗り込むと・・・すぐ後ろにいた初老のご婦人グループが「あっ、だれかバッグを忘れてる」などと言い私の確保した席に座ろうとした。いや、別に私ひとりなのだから相席でも構わないので座るならどうぞ的な気持ちであったのだが、「誰かバッグを忘れてる」などとわざとらしい事を言ってまで席を取ろうとすり必要無いんじゃない?と思った。大体私の後ろに並んでいたのだからバッグを放り込んでるシーン見てるでしょ?みたいな感じであったが、そのグループは結局他の座席に行ったのであった。

そして特急「はつかり」は新幹線開通後に盛岡~青森に短縮された上野発の特急列車であった。583系でも運転され、寝台特急「ゆうづる」とペアで運転された歴史もある。特に583系の昼間特急として私は「みちのく」がとても気になる存在であった。国鉄の特急史に残る名列車であると個人的感想。
さて、花輪線といえば私が一番楽しみにしていたのは十和田南であった。何たってあのスイッチバックが一番の見せどころだ。予備知識はあるものの、果たしてどんな配線になっているのかなとか、少ない停車時間で入場券を買いに行けるかなとかもう大変であった。ただ、周囲においてはお盆の帰省ラッシュのため車内はフルハウスである。私のボックスにも当然私以外の乗客が座ったが、女性ひとりとそのジュニア二人の計3名であったので私の座席を使うには都合がよかろう。先程のご婦人よりよほどいい。ただ、逆に向こうからすれば自分達の座席に座るよそ者のひとりに過ぎなかった。私は悪いことしているわけではないのだが、何となくジュニアが怪訝な顔をしてこちらを見ているような気がした。そうか、お盆でみんな田舎に帰るのにデカいカメラを持ってひとり窓から列車に向けシャッターを切るお兄ちゃんは変り者か。ごめんな。こっちだって好き好んでこんなタイミングでシャッターを切る訳じゃないんだ。列車がそこにいるんだから仕方ないじゃないか。私は心の中でそう呟いた。
そんな事を考えていたらタイフオンがホームに鳴り響き、約2時間待ちの時間からようやく解放された。だが、列車が出発したらとんでもないトラブルが待っていたのだ。

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盛岡駅で待ち時間に撮影した特急「たざわ」であるが、現在は新幹線「こまち」に変身し大きな飛躍を遂げた。だが、上越新幹線が開通した1982年11月15日まで田沢湖線は非電化路線で単なるローカル線に過ぎなかったが、電化され特急が運転されるようになり景色が一転した。そして角館や田沢湖などの観光地へのアクセスも奥羽本線経由から東北新幹線経由に変わり流れが一転、田沢湖線自体が大きな変化を遂げた年でもあった。
というのも、首都圏ではなかなかお目にかかれない特急「たざわ」や、新幹線開通後に盛岡~青森に短縮された「はつかり」などがここで会える。逆に二時間では足りないくらい興奮の雨霰であった。意外にも「たざわ」は空席が目立っていたが、これから乗る花輪線はフルハウスであった。座席が確保できるかわからなかったので予め花輪線のホームで待っていたが、私の後ろは凄い行列。列車がやってくると入り口付近に我も我もとドアに合わせ列が移動していく。私は到着した列車の開いていた窓から自身のバッグを放り込み座席を確保した。「よし、これで座席OK!」となりドアから列車に乗り込むと・・・すぐ後ろにいた初老のご婦人グループが「あっ、だれかバッグを忘れてる」などと言い私の確保した席に座ろうとした。いや、別に私ひとりなのだから相席でも構わないので座るならどうぞ的な気持ちであったのだが、「誰かバッグを忘れてる」などとわざとらしい事を言ってまで席を取ろうとすり必要無いんじゃない?と思った。大体私の後ろに並んでいたのだからバッグを放り込んでるシーン見てるでしょ?みたいな感じであったが、そのグループは結局他の座席に行ったのであった。

そして特急「はつかり」は新幹線開通後に盛岡~青森に短縮された上野発の特急列車であった。583系でも運転され、寝台特急「ゆうづる」とペアで運転された歴史もある。特に583系の昼間特急として私は「みちのく」がとても気になる存在であった。国鉄の特急史に残る名列車であると個人的感想。
さて、花輪線といえば私が一番楽しみにしていたのは十和田南であった。何たってあのスイッチバックが一番の見せどころだ。予備知識はあるものの、果たしてどんな配線になっているのかなとか、少ない停車時間で入場券を買いに行けるかなとかもう大変であった。ただ、周囲においてはお盆の帰省ラッシュのため車内はフルハウスである。私のボックスにも当然私以外の乗客が座ったが、女性ひとりとそのジュニア二人の計3名であったので私の座席を使うには都合がよかろう。先程のご婦人よりよほどいい。ただ、逆に向こうからすれば自分達の座席に座るよそ者のひとりに過ぎなかった。私は悪いことしているわけではないのだが、何となくジュニアが怪訝な顔をしてこちらを見ているような気がした。そうか、お盆でみんな田舎に帰るのにデカいカメラを持ってひとり窓から列車に向けシャッターを切るお兄ちゃんは変り者か。ごめんな。こっちだって好き好んでこんなタイミングでシャッターを切る訳じゃないんだ。列車がそこにいるんだから仕方ないじゃないか。私は心の中でそう呟いた。
そんな事を考えていたらタイフオンがホームに鳴り響き、約2時間待ちの時間からようやく解放された。だが、列車が出発したらとんでもないトラブルが待っていたのだ。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版 ⑮
2018-08-25
気づいたら長期連載となってしまった東北の旅紹介であるが、ようやく中盤にたどり着いた感である。ここまで書いていてよくこんな旅をひとりで敢行したなと改めて思った。そしてその要望に応えてくれる切符が当時よくあったなと感心してしまう。逆に私が「ガラスの」十代だったからこそ出来たのではないかなと思ってしまう。とはいえ当時は私も「受験生」であったが・・・

私が乗ってきた三陸鉄道の車両が停車中の釜石は2011年に訪問。ここでJRに乗り換えたが、約28年ぶりの訪問には懐かしさが込み上げてきた。もともとこの場所は貨物側線的な空間であったのでホームができてもあまり違和感無かったが、それでも三陸の途切れ途切れになっていた鉄路がひとつにつながった功績は実に大きく思う。ただ、時代とともにその役割が薄れてしまったのも残念ではあるが・・・
さて、釜石から更に山田線で盛岡を目指すが、最近になって山田線の釜石~宮古が三陸鉄道に移管されると聞いた。震災後に復旧工事が進んでいたが、まさか将来的に三陸鉄道に編入されるとは。そうなると料金面では、例えば北リアス線と南リアス線を直通で利用する場合、間にJRが入らない分運賃計算がしやすくなるのではなかろうか。ただ、現在と編入後の将来で料金の差額がどうなるかであるが、是非とも頑張っていただいたい思いである。
そんな移管前の山田線を約35年前に制覇しているが、宮古での宮古線に乗り換える際に座席が確保できるか心配でならない。だから落ち着いて山田線を楽しめずにいた。後年に山田線は再訪しているが、その時は宮古から「御座敷列車」だったので座席指定のため席取りに心配ない。そう、現在はこうしてややゆとりを持てるような旅ができるようになった。かつての旅は座席確保に落ち着かない内容の連続であったが、例えば最近廃止(いや、臨時運転?)になった「ムーンライトながら」は、かつての「大垣夜行」時代に座席確保のため東京駅のホームで3時間待ちなんてザラじゃなかった。それを考えたら座席指定になったのはすごい進歩であったし、途中の小田原などからでも座って西まで行けるとは私にとってはある意味カルチャーショックでもあった。

山田線の鵜住居は現在休止中であるが、三陸鉄道転換時に再開予定である。私が2011年1月に再訪した時の写真であるが、まさかその2ヶ月後に震災なる被害を受けるとは思いもしなかった。
などと話が逸れてしまったが、宮古に到着したら早速宮古線の待つホームまで猛ダッシュする。そして田老行の列車を捕まえ田老で折り返す。そして同じ列車で宮古に戻ってくる。そう、三陸鉄道開通前なので田老から先は鉄路がない。だから折り返すか連絡する国鉄バスで先に進むしかない。当時は田老までは交換駅がないため1閉塞であったと思うが、現在は田老や他の駅も交換駅として活躍している駅は、当時用地が準備されていたので転換前から島式ホームの片側しか使っていない不自然な駅は将来交換駅になるなと予想はついた。なのでそんな転換前の姿をひと駅ひと駅ちゃんと写真に収めたかった。たが「いい旅チャレンジ20000km」に命をかけていた私はある意味そんな余裕などなかったのかも知れない。現に田老や宮古ではたった5分のインターバルしかない。特に宮古では山田線に乗り換えなければならないのだからかなりハードである。
山田線の列車に乗り込むとドッと疲れが出たのだろう。あれだけ楽しみにしていた大志田や浅岸も全く気付かず、どうやら夢の中へと誘われたようだ。

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私が乗ってきた三陸鉄道の車両が停車中の釜石は2011年に訪問。ここでJRに乗り換えたが、約28年ぶりの訪問には懐かしさが込み上げてきた。もともとこの場所は貨物側線的な空間であったのでホームができてもあまり違和感無かったが、それでも三陸の途切れ途切れになっていた鉄路がひとつにつながった功績は実に大きく思う。ただ、時代とともにその役割が薄れてしまったのも残念ではあるが・・・
さて、釜石から更に山田線で盛岡を目指すが、最近になって山田線の釜石~宮古が三陸鉄道に移管されると聞いた。震災後に復旧工事が進んでいたが、まさか将来的に三陸鉄道に編入されるとは。そうなると料金面では、例えば北リアス線と南リアス線を直通で利用する場合、間にJRが入らない分運賃計算がしやすくなるのではなかろうか。ただ、現在と編入後の将来で料金の差額がどうなるかであるが、是非とも頑張っていただいたい思いである。
そんな移管前の山田線を約35年前に制覇しているが、宮古での宮古線に乗り換える際に座席が確保できるか心配でならない。だから落ち着いて山田線を楽しめずにいた。後年に山田線は再訪しているが、その時は宮古から「御座敷列車」だったので座席指定のため席取りに心配ない。そう、現在はこうしてややゆとりを持てるような旅ができるようになった。かつての旅は座席確保に落ち着かない内容の連続であったが、例えば最近廃止(いや、臨時運転?)になった「ムーンライトながら」は、かつての「大垣夜行」時代に座席確保のため東京駅のホームで3時間待ちなんてザラじゃなかった。それを考えたら座席指定になったのはすごい進歩であったし、途中の小田原などからでも座って西まで行けるとは私にとってはある意味カルチャーショックでもあった。

山田線の鵜住居は現在休止中であるが、三陸鉄道転換時に再開予定である。私が2011年1月に再訪した時の写真であるが、まさかその2ヶ月後に震災なる被害を受けるとは思いもしなかった。
などと話が逸れてしまったが、宮古に到着したら早速宮古線の待つホームまで猛ダッシュする。そして田老行の列車を捕まえ田老で折り返す。そして同じ列車で宮古に戻ってくる。そう、三陸鉄道開通前なので田老から先は鉄路がない。だから折り返すか連絡する国鉄バスで先に進むしかない。当時は田老までは交換駅がないため1閉塞であったと思うが、現在は田老や他の駅も交換駅として活躍している駅は、当時用地が準備されていたので転換前から島式ホームの片側しか使っていない不自然な駅は将来交換駅になるなと予想はついた。なのでそんな転換前の姿をひと駅ひと駅ちゃんと写真に収めたかった。たが「いい旅チャレンジ20000km」に命をかけていた私はある意味そんな余裕などなかったのかも知れない。現に田老や宮古ではたった5分のインターバルしかない。特に宮古では山田線に乗り換えなければならないのだからかなりハードである。
山田線の列車に乗り込むとドッと疲れが出たのだろう。あれだけ楽しみにしていた大志田や浅岸も全く気付かず、どうやら夢の中へと誘われたようだ。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版 ⑭
2018-08-20
利府を後にした私は白石に向かう。おや?待てよ。さっきは丸森で今度は利府。次は白石とは・・・仙台を間に挟み行ったり来たりしている。そう、これにはからくりがあった。
利府を出たのが21時51分であり仙台付近では上り下りとも使える夜行列車が深夜から未明の時間帯のため「旅籠」となってくれる列車がない。そこで少しでも待ち時間を少なくするため仙台付近を往復するとこで夜行列車の乗車タイミングに合わせようとしたわけだ。すると白石で30分待ちで「八甲田」がやってくるので丁度いい。降りしきる雨の中列車の遅れなど無く無事「八甲田」に乗る事ができた。

画像はウィキより。白石駅の駅舎は恐らく国鉄時代からほとんど変化がないであろう。ここ以外にも日本国内において白石を名乗る駅は多数あるが、特急が停車したのはここ、東北本線の白石のみと記憶している。現在は800m以上離れた白石蔵王にその地位を譲っている。
そんな急行「八甲田」を宿代わりにした私は未明の3時14分に盛岡で下車する。そして5時19分発の釜石線経由の急行「はやちね」に乗る予定である。今考えたら凄い時間の乗換だ。
それにしても未明の盛岡で2時間待ちとは・・・深夜のため、駅は開放されているが駅前の商業施設は営業時間外だ。いや、例え営業していたとしても未成年が入店できるような施設ではなかろう。当時は24時間のコンビニが現在ほど普及していなかった時代。いや、そんなコンビニは珍しかったし、増してインターネットなどほぼ皆無であるからもしあったとしても調べられない。私は改札を出て拠り所を探したが、雨が強く駅前方面へ進めなかった。そして駅ビル内の通路は、やたら数の多い風鈴が鳴り響くのみで私を外へ出してくれなかった。

2014年1月に訪問した時の盛岡駅。東北新幹線開通時に現在の形になったが、外観はその当時からほとんど変わらず現在に至っている。
ようやく出発時間になった。やたら長く感じた待ち時間であったがその甲斐あって着席に成功。とは言ってもハッキリ言って下りの始発だ。2時間待たなくても余裕ですわれたはずである。花巻経由で釜石線の急行に乗るのは何となく優越感。東北新幹線開通後、上越新幹線開業の1982年11月15日に東北方面は一気に優等列車が整理され、急行が激減してしまった。というより国鉄は全国的に急行全廃を目標としていたため急行激減は自然の流れでもあったが、それでもワイド派は乗れる列車のバリエーションが減るのは辛い。そのためこうした急行列車は貴重な存在だ。

2011年1月に訪問時の釜石。国鉄時代とほとんど変化が無かったが、大きな変化と言えば三陸鉄道のホームが追加された事。JRは釜石を直通する場合は全てスイッチバックの形を取るが、恐らく現在は直通列車はないであろう。
そんな風景の1983年国鉄事情に身を任せ花巻経由で釜石目指す。似内の次の駅はご存知新花巻であるが、私の訪問時はなんと「矢沢」と名乗っていた。後の1985年に新幹線との交点に在来線の駅を作り矢沢を廃止。新しく出来た駅は新花巻と名乗り現在に至るが、実際の考え方としては矢沢が移転して駅名変更したというのが普通であろう。そんな昔の「新花巻」を経て釜石に着く頃には気になる風景がありそわそわしていた。それは建設中の三陸鉄道が釜石まで迫るトラス橋であった。先に紹介した吉浜からの延伸工事が釜石駅の構内付近まで迫っており、甲子川のを渡るトラス橋が完成し、いよいよレールを敷くぞ!というイメージであった。途中で工事中断なんて事ないよなぁ~本当に開通するよなぁ~など思いながら車両の先頭に行く。この時は現在の形になるとは本当に信じられず、期待を込めた遥かな夢として開通を願っていた。だが既に時代も代わりモータリゼーションの波が例外無くここにも押し寄せていた。果たして開通したとしても経営が成り立つのか。複雑な思いを胸に秘め近付くトラス橋を探していると、将来三陸鉄道の起点になろう釜石のホームに滑り込んでいった。

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利府を出たのが21時51分であり仙台付近では上り下りとも使える夜行列車が深夜から未明の時間帯のため「旅籠」となってくれる列車がない。そこで少しでも待ち時間を少なくするため仙台付近を往復するとこで夜行列車の乗車タイミングに合わせようとしたわけだ。すると白石で30分待ちで「八甲田」がやってくるので丁度いい。降りしきる雨の中列車の遅れなど無く無事「八甲田」に乗る事ができた。

画像はウィキより。白石駅の駅舎は恐らく国鉄時代からほとんど変化がないであろう。ここ以外にも日本国内において白石を名乗る駅は多数あるが、特急が停車したのはここ、東北本線の白石のみと記憶している。現在は800m以上離れた白石蔵王にその地位を譲っている。
そんな急行「八甲田」を宿代わりにした私は未明の3時14分に盛岡で下車する。そして5時19分発の釜石線経由の急行「はやちね」に乗る予定である。今考えたら凄い時間の乗換だ。
それにしても未明の盛岡で2時間待ちとは・・・深夜のため、駅は開放されているが駅前の商業施設は営業時間外だ。いや、例え営業していたとしても未成年が入店できるような施設ではなかろう。当時は24時間のコンビニが現在ほど普及していなかった時代。いや、そんなコンビニは珍しかったし、増してインターネットなどほぼ皆無であるからもしあったとしても調べられない。私は改札を出て拠り所を探したが、雨が強く駅前方面へ進めなかった。そして駅ビル内の通路は、やたら数の多い風鈴が鳴り響くのみで私を外へ出してくれなかった。

2014年1月に訪問した時の盛岡駅。東北新幹線開通時に現在の形になったが、外観はその当時からほとんど変わらず現在に至っている。
ようやく出発時間になった。やたら長く感じた待ち時間であったがその甲斐あって着席に成功。とは言ってもハッキリ言って下りの始発だ。2時間待たなくても余裕ですわれたはずである。花巻経由で釜石線の急行に乗るのは何となく優越感。東北新幹線開通後、上越新幹線開業の1982年11月15日に東北方面は一気に優等列車が整理され、急行が激減してしまった。というより国鉄は全国的に急行全廃を目標としていたため急行激減は自然の流れでもあったが、それでもワイド派は乗れる列車のバリエーションが減るのは辛い。そのためこうした急行列車は貴重な存在だ。

2011年1月に訪問時の釜石。国鉄時代とほとんど変化が無かったが、大きな変化と言えば三陸鉄道のホームが追加された事。JRは釜石を直通する場合は全てスイッチバックの形を取るが、恐らく現在は直通列車はないであろう。
そんな風景の1983年国鉄事情に身を任せ花巻経由で釜石目指す。似内の次の駅はご存知新花巻であるが、私の訪問時はなんと「矢沢」と名乗っていた。後の1985年に新幹線との交点に在来線の駅を作り矢沢を廃止。新しく出来た駅は新花巻と名乗り現在に至るが、実際の考え方としては矢沢が移転して駅名変更したというのが普通であろう。そんな昔の「新花巻」を経て釜石に着く頃には気になる風景がありそわそわしていた。それは建設中の三陸鉄道が釜石まで迫るトラス橋であった。先に紹介した吉浜からの延伸工事が釜石駅の構内付近まで迫っており、甲子川のを渡るトラス橋が完成し、いよいよレールを敷くぞ!というイメージであった。途中で工事中断なんて事ないよなぁ~本当に開通するよなぁ~など思いながら車両の先頭に行く。この時は現在の形になるとは本当に信じられず、期待を込めた遥かな夢として開通を願っていた。だが既に時代も代わりモータリゼーションの波が例外無くここにも押し寄せていた。果たして開通したとしても経営が成り立つのか。複雑な思いを胸に秘め近付くトラス橋を探していると、将来三陸鉄道の起点になろう釜石のホームに滑り込んでいった。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑬
2018-08-15
槻木で乗換無しで丸森まで行けるのは実に楽で良いが、果たして始発から終点まで乗車したのは何人いたのか・・・角田でかなり下車し、終点の丸森まで乗車していたのはホンの数名だった記憶だ。角田ではかなりの数の雨粒が窓をたたきつけてきたが、丸森でもその状況は変わらず、土砂降りのホームを全力疾走して入場券を買いに駅舎に向かった。
何とか執念で入場券を買い列車に戻ったが、折り返しのインターバルが、10分しか無いのと降りしきる雨で丸森から先の工事区間の確認が出来なかった。いや、用地的な空間はあるが工事はしていなかったと思う。というより実際に現在の姿になるとは予想だにせず、いずれ廃止になってしまうだろうというイメージであった。そんな当時を知る私は本当に今日の姿に変化した丸森線が今でも信じられず不思議な感じがする。

今回は所有画像が少なく、ウィキの力を拝借する機会が多いのでご了承いただきたい。画像は現在の槻木であるが、本当にコンパクトになった印象を受ける。そして丸森線は経営母体も変わり、suicaも使えないらしい。という事は当然PASMOも使えないであろうが・・・
さて、折り返しの槻木に戻ってきたが、乗換まで一時間もある。以前から興味のあった槻木の配線を確認したいところであるが・・・夜も更けてきたし何たって雨!森高何とかではないが「雨は冷たいけど 濡れていたいの~」というわけにはいかず、駅も散策できないまま光のあたる線路部分を屋根付きホームから眺めるだけであった。それでも当時の私はある意味満足であったのだから、いかに鉄道のみにしか興味がいかなかったかおわかりであろう。
しかしなぜこんなに槻木の配線に興味があったかというと、丸森線は東北本線のバイパスという前提で敷設されたため将来的に本線同士の分岐になろうからそれなりの用地が準備されているし配線も将来に沿って複雑になっている。だが、私の訪問時は3面5線のホームがあったが、現在は縮小され2面3線になったと聞いた。ちょっと寂しい感じもするが、当時は将来の配線を想像するだけでもワクワクしていたし、イメージ的には東海通線の岡崎のような感じの雰囲気。現在の愛知環状鉄道の前身である岡多線も東海道線の貨物列車用のバイパスのイメージで敷設されたため岡崎の配線は周知の通りで、かつての名残が現在もやや見受けられる。

こちらも画像はウィキより、現在の角田。会津鉄道の車両が乗り入れているのは阿武隈急行開業15周年のイベントらしい。私の訪問時は一面一線で交換設備が無かったが、阿武隈急行に移管されホームが増設された。というより、もともと交換設備が増設できるように用地が確保されており、将来を見越した設計となっていた。阿武隈急行の中間駅では一番利用者が多い。
と言うことで、槻木から今度は利府にむかう。槻木で一時間待ったのは利府までの直通列車に乗るためであった。ひとりワンボックスを占領していると途中駅から向かいの席にひとりの若い青年が座った。「どこから来たの?」実は旅先で結構声をかけられることが多い。華奢な少年がスポーツバッグひとつ担いで列車に乗っている姿がそんなに珍しいのか、それとも鉄道少年らしく際立って目立っているのか。この時も歳上であったが若い兄貴風の紳士と会話が弾んだ。たが私が「利府に行きます」と言った途端に「利府はダメだよ・・・行かない方がいい」と言い、それ以降黙ってしまった。いや、行かない方がいいと言われてもこっちは利府に行く事が商売だから・・・みたいな気持ちになったが、彼にしてみたらよっぽど利府に辛い出来事があるのだろう。そうか、元カノとの蒼い思い出でもあるのだろう。勝手に私がそう考えてると、彼は途中駅のどこかで消えていってしまった。

画像はウィキより、現在の利府であるが、私の訪問時は駅舎に接するホームがある一面一線の駅であった。が、現在は2面2線と記されていたので驚いた!近くに総合公園が開設されて立派になった現在の利府は頭端式ホームになったとの報告があったので再び訪れてみるのもいいかも知れない。
そんな私を乗せた列車は仙台を越えて岩切を過ぎる。東北新幹線開業前は岩切の次が利府であったが、開業後に新しい「新利府」が参戦した。隣には新幹線のドデカイ車庫がある。車庫で働く従業員のために新設された駅であるが、とにかく夜のため格納庫のような建屋しかわからず、ややセンチメンタルになってしまった。
そんな新利府を過ぎようやく利府に到着。かつての中間駅の名残を残しつつ偉大なる終着駅的雰囲気を余す処無く醸し出していた。

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何とか執念で入場券を買い列車に戻ったが、折り返しのインターバルが、10分しか無いのと降りしきる雨で丸森から先の工事区間の確認が出来なかった。いや、用地的な空間はあるが工事はしていなかったと思う。というより実際に現在の姿になるとは予想だにせず、いずれ廃止になってしまうだろうというイメージであった。そんな当時を知る私は本当に今日の姿に変化した丸森線が今でも信じられず不思議な感じがする。

今回は所有画像が少なく、ウィキの力を拝借する機会が多いのでご了承いただきたい。画像は現在の槻木であるが、本当にコンパクトになった印象を受ける。そして丸森線は経営母体も変わり、suicaも使えないらしい。という事は当然PASMOも使えないであろうが・・・
さて、折り返しの槻木に戻ってきたが、乗換まで一時間もある。以前から興味のあった槻木の配線を確認したいところであるが・・・夜も更けてきたし何たって雨!森高何とかではないが「雨は冷たいけど 濡れていたいの~」というわけにはいかず、駅も散策できないまま光のあたる線路部分を屋根付きホームから眺めるだけであった。それでも当時の私はある意味満足であったのだから、いかに鉄道のみにしか興味がいかなかったかおわかりであろう。
しかしなぜこんなに槻木の配線に興味があったかというと、丸森線は東北本線のバイパスという前提で敷設されたため将来的に本線同士の分岐になろうからそれなりの用地が準備されているし配線も将来に沿って複雑になっている。だが、私の訪問時は3面5線のホームがあったが、現在は縮小され2面3線になったと聞いた。ちょっと寂しい感じもするが、当時は将来の配線を想像するだけでもワクワクしていたし、イメージ的には東海通線の岡崎のような感じの雰囲気。現在の愛知環状鉄道の前身である岡多線も東海道線の貨物列車用のバイパスのイメージで敷設されたため岡崎の配線は周知の通りで、かつての名残が現在もやや見受けられる。

こちらも画像はウィキより、現在の角田。会津鉄道の車両が乗り入れているのは阿武隈急行開業15周年のイベントらしい。私の訪問時は一面一線で交換設備が無かったが、阿武隈急行に移管されホームが増設された。というより、もともと交換設備が増設できるように用地が確保されており、将来を見越した設計となっていた。阿武隈急行の中間駅では一番利用者が多い。
と言うことで、槻木から今度は利府にむかう。槻木で一時間待ったのは利府までの直通列車に乗るためであった。ひとりワンボックスを占領していると途中駅から向かいの席にひとりの若い青年が座った。「どこから来たの?」実は旅先で結構声をかけられることが多い。華奢な少年がスポーツバッグひとつ担いで列車に乗っている姿がそんなに珍しいのか、それとも鉄道少年らしく際立って目立っているのか。この時も歳上であったが若い兄貴風の紳士と会話が弾んだ。たが私が「利府に行きます」と言った途端に「利府はダメだよ・・・行かない方がいい」と言い、それ以降黙ってしまった。いや、行かない方がいいと言われてもこっちは利府に行く事が商売だから・・・みたいな気持ちになったが、彼にしてみたらよっぽど利府に辛い出来事があるのだろう。そうか、元カノとの蒼い思い出でもあるのだろう。勝手に私がそう考えてると、彼は途中駅のどこかで消えていってしまった。

画像はウィキより、現在の利府であるが、私の訪問時は駅舎に接するホームがある一面一線の駅であった。が、現在は2面2線と記されていたので驚いた!近くに総合公園が開設されて立派になった現在の利府は頭端式ホームになったとの報告があったので再び訪れてみるのもいいかも知れない。
そんな私を乗せた列車は仙台を越えて岩切を過ぎる。東北新幹線開業前は岩切の次が利府であったが、開業後に新しい「新利府」が参戦した。隣には新幹線のドデカイ車庫がある。車庫で働く従業員のために新設された駅であるが、とにかく夜のため格納庫のような建屋しかわからず、ややセンチメンタルになってしまった。
そんな新利府を過ぎようやく利府に到着。かつての中間駅の名残を残しつつ偉大なる終着駅的雰囲気を余す処無く醸し出していた。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑫
2018-08-10

こちらはダイナミック✩トナカイ提供の女川駅。これって私と一緒に訪問した時のものか?確かこの時は私の単独行動であった記憶であるから彼の単独行動の時の撮影であろう。しかしながら訪問した時期はほとんど同じ。
石巻線で終点の女川に着いた私は旅、相変わらず土砂降りの中駅舎まで入場券を買いにいかねばと気合いを入れる。もちろん「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真も撮影しなければならず、わりかしメランコリーであった。それでも13時36分に着いて折り返し14時02分発であったので時間に余裕はあった。

画像はウィキより、震災前の女川駅。私の訪問時の風景であったので懐かしかった。震災時は壊滅的被害を受けたが、現在は復興し立派な駅舎に変身した。地域の顔として、中心として是非活躍して欲しい。
女川で無事撮影を終え折り返し小牛田に着いたのが15時29分で、この後利府支線と丸森線に顔を出す予定である。まず東北本線の普通列車で仙台へ向かった。なんと「レッドトレイン」である。旧型客車が主流の東北本線普通列車の中でやや近代化の波が押し寄せた感があるが、数年後に国鉄は民営化され客車列車自体が減少していく中、旧型客車を置き換える意味で作成された50系の活躍期間は少なかったであろうから、ある意味貴重な存在かも知れない。

今回の旅で撮影した盛岡駅に停車中の「レッドトレイン」こと50系客車。旧型客車が主流だった普通列車にもこうした車両の置き換えがさりげなく進んでいった。ところで・・・大変申し訳ないが、写真のホーム奥には私のバッグが紛れ込んでしまっている。数々の旅の経験から当時は持ち物を最小限に抑えたつもりであった。
さて、17時11分に仙台に着いた私は18時04分発の列車に乗るため小休止。発車ホームを確認しキヨスクへ向かう。正直言って当時は駅中に何があるなどの情報を仕入れる術が、現在ほどインターネットのような情報網が発達していなかったため、やはり頼りになるのはキオスクであった。ただ、駅弁などは高嶺の花なのでパンなどの簡易な物に限定されるが、今考えたらよくそんな食生活で8日間もったなと我ながら感心してしまう。ハッキリ言って「あそこのラーメン美味かったなぁ~」みたいな記憶は全然無く、只管「いい旅チャレンジ20000km」の制覇路線を稼ぎ出す為に列車に乗ったイメージしかない。だから逆にグルメ的な紹介が全くできない今回の旅である。

1983年訪問当時の丸森。既に夜バージョンであるが、当時はまだ現在の姿になるとは想像もできず、駅名標の隣の駅名は当然ながら片側のみしか描かれていなかった。ご覧の通り土砂降り的な環境の中の撮影でありやたら雨つぶが周囲を覆うが・・・あくまで雨粒であって、決してポルターガイストではない!しかもこんな環境でも入場券を買いに駅舎にいくのはある意味職人魂か?
そんな私を待つ列車は仙台発のDCである。そう、これから私は丸森線を制覇するのだが、なんと仙台発直通列車があるのだ。いや、当時は丸森線の列車はほとんど槻木発は無かったと思う。だから丸森線があぶくま急行に移管されてから近年に再訪したとき槻木で乗り換えたのが何となく違和感あった。やはり乗換無しの方が楽だよなぁ~みたいな思いもしたが、逆に国鉄時代は丸森が終点であったので折り返さなければならない。やや面倒であるが今だ雨の降りしきる中、終点の丸森に向けDCは滑り出したのであった。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑪
2018-08-05
仙台から仙石線に乗り換えたが、ひとつ気になる事があった。それはさっきから降り続いている雨であるが、列車乗り潰しの旅だから別に駅を降りてから観光地やレジャー施設に行くわけでもない。そう、私の恋人はキオスクと夜行列車であった。当時は「御当地グルメ」みたいなものも今ほど流行ってないイメージであったし、観光などほとんど興味が無かった。だから列車に乗っていれば雨に濡れる心配も無い。だが、何故・・・それは石巻にあった。

画像はウィキより。国鉄時代の仙石線石巻駅舎であるが、撮影は1990年であるのでJR化後である。石巻線の駅とは数十~数百メートル離れていた記憶だ。意外に立派な造りであるが、私は土砂降りの雨の中、一目散に石巻線の駅へと目指した。私の訪問時も晴れていれば駅舎の撮影をしたが、なんたって乗り換えで精一杯で・・・
当時、石巻は仙石線と石巻線で駅が離れていた。現在のように統合されていなかったので、今降っている雨が非常に厄介なるという事だ。「石巻に降りる直前に止んで、石巻線に乗ったらまた降る」みたいな青写真を頭に描きながら仙台近郊の街並みを、そして生活を感じながら私はひとり自身の旅を進行させいく。
途中、松島海岸はコロタン文庫の某書に掲載されていたので予備知識がある。筑堤的なホームの下に駅舎がありかなり印象深かった。そんな松島海岸駅をいつかは訪れてみたいと思っていたが「今日はホームから見下ろしているんだ。こんな風景なんだ」と窓に写った駅前はやたらアスファルトが湿っぽい。だが、日本三景が目と鼻の先というのに私の心には「石巻」しかない。

そしてこちらが石巻線の石巻駅。というより現在の石巻駅。仙石線もこちらに加わり乗り換えが便利に。私が土砂降りの中、全力ダッシュで乗り換えたあの思い出は何だったのか・・・いや、それがあるから今がある。素敵だよ、石巻駅!(画像はウィキより)
残念ながら石巻では被害を最小限に食い止めるため、自身の持っているすべてを惜しみ無く出して石巻線の改札を目指すしか術は無かった。
雨の勢いは増す。石巻で止むどころか更に激しく降る。私は仙石線の石巻改札で一端小休止。距離にして数十メートル~数百メートルであったと思うが、実際に利用するのは初めてのため乗り換える石巻線の石巻までの道がわからない。当時はインターネットなど発達していなかったため市販の地図などで確認するか現地の人に聞くしかない。
「すみません、石巻線の駅はどう行けば?」と駅員に確認した。地元の方は石巻線の方を「汽車駅」、仙石線の方を「電車駅」と呼ぶらしい。まさか地元民ではない私がこの呼び方で、例え予備知識があってもなんか恥ずかしくて言えないな~みたいな思いもあり、結局「石巻線」を使ったが、要は乗換ができればいいわけで、なんかつまらない拘りを捨てればもっと楽しい旅が出来たのになぁと今になって思う。
駅前にタクシーが数台停まっていたので思わずタクシー移動も考えたが多分断られるだろう。そんな思いを抱きながらダッシュの末、ようやく石巻線の「汽車駅」の改札を潜ったが、思ったより被害が少なかった。

これは私が今回の旅で撮影したものであるが、何となく駅全体が暗かった印象であった。中学3年の少年がわざわざ一眼レフを使いストロボを使用しているのがお分かり頂けるか・・・ちょっと生意気かも知れな!ちなみにカメラはキャノンAE-1プログラムであるが、この名称を聞いて若い世代の方はどんなカメラかピンとくるであろうか?
やはりこちらの石巻駅は国鉄らしく堂々としていた。現在はこちらの駅に仙石線が移転してきた形をとるが、基本、石巻線は非電化のため両者の乗り入れ運転はある意味不可能であろう。もちろん気動車やDL率いる客車列車ならば可能であるが現実的ではない。ただ、近年は仙石線と東北本線との間に短絡線ができて非常に便利になったおかげで石巻からの利用は仙台方面に向かうバリエーションが増えて便利になったであろう。
そのような短絡線開通など当時は全く予想だにしなかった私は石巻線の終点である女川に向かった。

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画像はウィキより。国鉄時代の仙石線石巻駅舎であるが、撮影は1990年であるのでJR化後である。石巻線の駅とは数十~数百メートル離れていた記憶だ。意外に立派な造りであるが、私は土砂降りの雨の中、一目散に石巻線の駅へと目指した。私の訪問時も晴れていれば駅舎の撮影をしたが、なんたって乗り換えで精一杯で・・・
当時、石巻は仙石線と石巻線で駅が離れていた。現在のように統合されていなかったので、今降っている雨が非常に厄介なるという事だ。「石巻に降りる直前に止んで、石巻線に乗ったらまた降る」みたいな青写真を頭に描きながら仙台近郊の街並みを、そして生活を感じながら私はひとり自身の旅を進行させいく。
途中、松島海岸はコロタン文庫の某書に掲載されていたので予備知識がある。筑堤的なホームの下に駅舎がありかなり印象深かった。そんな松島海岸駅をいつかは訪れてみたいと思っていたが「今日はホームから見下ろしているんだ。こんな風景なんだ」と窓に写った駅前はやたらアスファルトが湿っぽい。だが、日本三景が目と鼻の先というのに私の心には「石巻」しかない。

そしてこちらが石巻線の石巻駅。というより現在の石巻駅。仙石線もこちらに加わり乗り換えが便利に。私が土砂降りの中、全力ダッシュで乗り換えたあの思い出は何だったのか・・・いや、それがあるから今がある。素敵だよ、石巻駅!(画像はウィキより)
残念ながら石巻では被害を最小限に食い止めるため、自身の持っているすべてを惜しみ無く出して石巻線の改札を目指すしか術は無かった。
雨の勢いは増す。石巻で止むどころか更に激しく降る。私は仙石線の石巻改札で一端小休止。距離にして数十メートル~数百メートルであったと思うが、実際に利用するのは初めてのため乗り換える石巻線の石巻までの道がわからない。当時はインターネットなど発達していなかったため市販の地図などで確認するか現地の人に聞くしかない。
「すみません、石巻線の駅はどう行けば?」と駅員に確認した。地元の方は石巻線の方を「汽車駅」、仙石線の方を「電車駅」と呼ぶらしい。まさか地元民ではない私がこの呼び方で、例え予備知識があってもなんか恥ずかしくて言えないな~みたいな思いもあり、結局「石巻線」を使ったが、要は乗換ができればいいわけで、なんかつまらない拘りを捨てればもっと楽しい旅が出来たのになぁと今になって思う。
駅前にタクシーが数台停まっていたので思わずタクシー移動も考えたが多分断られるだろう。そんな思いを抱きながらダッシュの末、ようやく石巻線の「汽車駅」の改札を潜ったが、思ったより被害が少なかった。

これは私が今回の旅で撮影したものであるが、何となく駅全体が暗かった印象であった。中学3年の少年がわざわざ一眼レフを使いストロボを使用しているのがお分かり頂けるか・・・ちょっと生意気かも知れな!ちなみにカメラはキャノンAE-1プログラムであるが、この名称を聞いて若い世代の方はどんなカメラかピンとくるであろうか?
やはりこちらの石巻駅は国鉄らしく堂々としていた。現在はこちらの駅に仙石線が移転してきた形をとるが、基本、石巻線は非電化のため両者の乗り入れ運転はある意味不可能であろう。もちろん気動車やDL率いる客車列車ならば可能であるが現実的ではない。ただ、近年は仙石線と東北本線との間に短絡線ができて非常に便利になったおかげで石巻からの利用は仙台方面に向かうバリエーションが増えて便利になったであろう。
そのような短絡線開通など当時は全く予想だにしなかった私は石巻線の終点である女川に向かった。

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