サマーアクションシリーズ 1983年東北の旅 もっと詳しくリメイク版㉒
2018-09-30
大曲で上りの急行「おが」を捕まえた私は、計画では福島で下りの急行「津軽」に乗り山形に戻る予定であった。先述のように急行「おが」はオール20系ということでさながら寝台特急である。ただ、一部の車両ではB寝台を自由席として解放している。もちろん、私は既に事情は知っていたので「自由席」へ。そして私は快適な時を過ごしていたのであった。だが、あまりに快適過ぎて、もし福島を乗り過ごしたらどうしよう・・・という雑念が入った。そこで私はある重大な決意をした。それは山形で下車し、始発を待とう!であった。つまり山形で「駅寝をする」という決意をしたという事だ。

2014年訪問時の山形駅。写真は仙山線普通列車であるが、新幹線がやってくるようになり山形駅は大きく変貌した。現在は標準軌と狭軌が入り乱れ、駅構内の配線はかなり複雑になったと思いきや、意外にシンプルだったりする。
山形の待合室で一夜を過ごした、というより、深夜0時55分に着いて早朝4時の出発だから寝る時間としては少ないが待ち時間としてはとても長い。それでも山形は待合室を開放しているのだから、まさしく24時間眠らない駅であろう。もちろんただ開放しているのではなく、ちゃんと深夜未明の時間帯には夜行列車が発着する。そしてそんな時間帯でも利用者がいる。さすが奥羽本線の要衝駅だけある。

画像はウィキより現在の赤湯駅舎。こちらも新幹線がやってくるようになり立派になった。長井線は現在第三セクターとなり経営母体が変わったが、かつては左沢までの延伸計画があった事をちらっと聞いたことがある。
そんな山形で私は始発まで待たせていただきお目当ての始発列車に乗るが、山形発赤湯行きの列車はDCである。そして赤湯から長井線にのりかえるが、これが何とも接続がいい。まるで山形発奥羽本線普通列車接続のためだけに設定されたかのような長井線の始発であるが、始発から乗り換えできる列車があるなんて実に素晴らしい。さすが国鉄、かなり気が利いてるサービス!と、時刻表を見ていると思わず拍手を送ってしまいそうであるが・・・実はこれにはからくりがあった。

長井線の終点・荒砥であるが、とにかく終端駅は折り返しインターバル時間が短い印象である.。だがここ荒砥では12分あったのでラッキーであった。このあと今泉で米坂線に乗り換える。
実は山形から長井線荒砥までは乗り換え無しであった。つまり山形から赤湯までは長井線始発列車の回送を、ある意味増収を図るため一般に開放したと思われる。とはいえ、時間的に一般に開放したからといって前年比150%くらいの増収が見込めるとは到底思えない。つまり、国鉄関係者の通勤手段も兼ね備えての開放であったのだろう。現に私の乗車時には私の他に2人ほど乗客がいた。当時は何とも思わなかったが、今考えるとその乗客は・・・と思う。
そんなからくりのお陰で、時刻表上では赤湯止り、赤湯からページが飛んで長井線の始発列車を跨線橋を使い乗り換えるはずなのが、実際は山形から乗り換えなしで荒砥までいけるのがいい。しかし山形では防犯機能が無意識に働いていてろくに寝ていないせいか、列車の中だとすっかり安心してしまい無意識に眠りについてしまう。今泉など、当時の私には気になって仕方ない駅も「どうせ折返し戻ってくるのだから」とついリラックスしてしまう。しかも下りの始発だし。正直、荒砥まで途中駅の記憶はない。たが、終点の荒砥ではちゃんと駅名表を撮影しているのだから「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真撮影の「義務」が体に染み付いていて、ある種の「習性」となってしまっていたのだろう。ちゃんと目的の駅で目が覚める。これは素晴らしい事だ。
(いや、基本寝ないほうがいいのだが・・・)

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2014年訪問時の山形駅。写真は仙山線普通列車であるが、新幹線がやってくるようになり山形駅は大きく変貌した。現在は標準軌と狭軌が入り乱れ、駅構内の配線はかなり複雑になったと思いきや、意外にシンプルだったりする。
山形の待合室で一夜を過ごした、というより、深夜0時55分に着いて早朝4時の出発だから寝る時間としては少ないが待ち時間としてはとても長い。それでも山形は待合室を開放しているのだから、まさしく24時間眠らない駅であろう。もちろんただ開放しているのではなく、ちゃんと深夜未明の時間帯には夜行列車が発着する。そしてそんな時間帯でも利用者がいる。さすが奥羽本線の要衝駅だけある。

画像はウィキより現在の赤湯駅舎。こちらも新幹線がやってくるようになり立派になった。長井線は現在第三セクターとなり経営母体が変わったが、かつては左沢までの延伸計画があった事をちらっと聞いたことがある。
そんな山形で私は始発まで待たせていただきお目当ての始発列車に乗るが、山形発赤湯行きの列車はDCである。そして赤湯から長井線にのりかえるが、これが何とも接続がいい。まるで山形発奥羽本線普通列車接続のためだけに設定されたかのような長井線の始発であるが、始発から乗り換えできる列車があるなんて実に素晴らしい。さすが国鉄、かなり気が利いてるサービス!と、時刻表を見ていると思わず拍手を送ってしまいそうであるが・・・実はこれにはからくりがあった。

長井線の終点・荒砥であるが、とにかく終端駅は折り返しインターバル時間が短い印象である.。だがここ荒砥では12分あったのでラッキーであった。このあと今泉で米坂線に乗り換える。
実は山形から長井線荒砥までは乗り換え無しであった。つまり山形から赤湯までは長井線始発列車の回送を、ある意味増収を図るため一般に開放したと思われる。とはいえ、時間的に一般に開放したからといって前年比150%くらいの増収が見込めるとは到底思えない。つまり、国鉄関係者の通勤手段も兼ね備えての開放であったのだろう。現に私の乗車時には私の他に2人ほど乗客がいた。当時は何とも思わなかったが、今考えるとその乗客は・・・と思う。
そんなからくりのお陰で、時刻表上では赤湯止り、赤湯からページが飛んで長井線の始発列車を跨線橋を使い乗り換えるはずなのが、実際は山形から乗り換えなしで荒砥までいけるのがいい。しかし山形では防犯機能が無意識に働いていてろくに寝ていないせいか、列車の中だとすっかり安心してしまい無意識に眠りについてしまう。今泉など、当時の私には気になって仕方ない駅も「どうせ折返し戻ってくるのだから」とついリラックスしてしまう。しかも下りの始発だし。正直、荒砥まで途中駅の記憶はない。たが、終点の荒砥ではちゃんと駅名表を撮影しているのだから「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真撮影の「義務」が体に染み付いていて、ある種の「習性」となってしまっていたのだろう。ちゃんと目的の駅で目が覚める。これは素晴らしい事だ。
(いや、基本寝ないほうがいいのだが・・・)

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版 ㉑
2018-09-25
鮨詰め状態の山田線内でスタンディングポジションから大志田・浅岸を確認した。結論から言うと、写真に収めるこ事はできたが、ブレ・ピンぼけ状態でとても皆様に公開できるものではなかった。だが、目視の確認ではピンぼけも無くしっかりと自身の脳裏に刻み込んだ。1年も経たないのにかなり草木が生い茂りレールも若干剥がされていた。恐らくどちらも通過可能なスイッチバックの配線だったはずだが、ホームは勾配上に移され現在に至っていた。周知の通り、現在は駅自体が廃止になってしまったが、我々の記憶にしっかりと刻み込まれ「秘境駅訪問家」も高い評価をしているので間違いなく後世に語り継がれる事であろう。

画像はウィキより、現役時代の浅岸。それまでスイッチバックの駅であったが、1982年の上越新幹線開通時にスイッチバックが廃止され勾配上にホームが移されたので「2代目」と表現した方がいいのか。知る人ぞ知る「秘境駅」であるが、現在は時刻表に掲載されていない。
1983年11月にダイヤ改正が行われた際に山田線も列車が整理され列車交換できる駅が減り交換設備が外された駅も少なくない。そんな中、区界は今も交換設備が残るが、この辺りはちょうどサミットに当り利用者もそう多くない。
そんな山田線は宮古からの利用者がぼぼ100%盛岡で下車した。私もその中のひとりとして盛岡のホームを踏みしめたが、私は茂市からのため唯一仲間から外れた異色の存在だったかも知れない。

乗車前に撮影した特急「たざわ」。既に解説しているが、1982.11.15のダイヤ改正で誕生した特急で、デビュー当時は実にセンセーショナルであった。今回の旅で初めて特急に乗車。「ワイド」の特権をフルに活用した。
さて、山田線を後にした私は田沢湖線のホームに向かう。ここで約1時間半のインターバルがあるが、今回の旅でなんと初めて特急を利用する。そう、田沢湖線では「たざわ」で大曲まで向かう計画なのだ。ようやくここで「ワイド」の特権をフル活用している実感が出てきた。自由席であるが特急が使えるのは実に素晴らしい。
ただ、この時期なのに自由席はガラガラであった。後に乗る「たざわ」も同様、自由席はほぼ独占できるのは、もしかしたら田沢湖線が電化され特急が運転された事が世間一般にまだ浸透していなかったのかも知れない。今までは上野から特急「つばさ」や「いなほ」など奥羽本線か羽越本線経由で秋田へ行くのが当たり前だった時代。それが東北新幹線が開通し盛岡から秋田へ行くという概念が生まれたが、何となく遠廻り的に感じるのか。いずれにしても、このお盆休みの中、特急「たざわ」で座席に困った事はなかった。

ダイナミック✩トナカイ提供の特急「たざわ」。1983年8月撮影であり、私と合流しない日の単独行動での撮影という。「こまち」の運転開始が1997年であるからこの「たざわ」が活躍したのは約14年ということになるが、私にしてみたら意外に短命だった印象。
そんな「たざわ」で大曲を目指すが、やはり田沢湖線内の各駅はホームや設備が真新しい。特にそれまではマイナーだった田沢湖や山形・大曲経由が当たり前だった角館が新幹線で盛岡を経由して行けるとはかなりカルチャーショックだった。しかも、田沢湖線に電車が走るとは。ただ、たしか普通列車はDCだった記憶だ。いずれにしても、この田沢湖線電化が成功か失敗かは現在の「こまち」でお分かりだろう。現在の田沢湖線はなんと新幹線車輌が乗り入れ、そして田沢湖や角館も新幹線の駅としてすっかり馴染んだ印象だ。
そんな将来の飛躍など全くわからなかった当時の私は大曲から今夜の宿となる急行「おが」に乗り換える。既に「運転停車で下車」した事は紹介したのでもうお分かりであろうが、座席急行を名乗りながら、なんとオール20系客車の急行列車であった。

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画像はウィキより、現役時代の浅岸。それまでスイッチバックの駅であったが、1982年の上越新幹線開通時にスイッチバックが廃止され勾配上にホームが移されたので「2代目」と表現した方がいいのか。知る人ぞ知る「秘境駅」であるが、現在は時刻表に掲載されていない。
1983年11月にダイヤ改正が行われた際に山田線も列車が整理され列車交換できる駅が減り交換設備が外された駅も少なくない。そんな中、区界は今も交換設備が残るが、この辺りはちょうどサミットに当り利用者もそう多くない。
そんな山田線は宮古からの利用者がぼぼ100%盛岡で下車した。私もその中のひとりとして盛岡のホームを踏みしめたが、私は茂市からのため唯一仲間から外れた異色の存在だったかも知れない。

乗車前に撮影した特急「たざわ」。既に解説しているが、1982.11.15のダイヤ改正で誕生した特急で、デビュー当時は実にセンセーショナルであった。今回の旅で初めて特急に乗車。「ワイド」の特権をフルに活用した。
さて、山田線を後にした私は田沢湖線のホームに向かう。ここで約1時間半のインターバルがあるが、今回の旅でなんと初めて特急を利用する。そう、田沢湖線では「たざわ」で大曲まで向かう計画なのだ。ようやくここで「ワイド」の特権をフル活用している実感が出てきた。自由席であるが特急が使えるのは実に素晴らしい。
ただ、この時期なのに自由席はガラガラであった。後に乗る「たざわ」も同様、自由席はほぼ独占できるのは、もしかしたら田沢湖線が電化され特急が運転された事が世間一般にまだ浸透していなかったのかも知れない。今までは上野から特急「つばさ」や「いなほ」など奥羽本線か羽越本線経由で秋田へ行くのが当たり前だった時代。それが東北新幹線が開通し盛岡から秋田へ行くという概念が生まれたが、何となく遠廻り的に感じるのか。いずれにしても、このお盆休みの中、特急「たざわ」で座席に困った事はなかった。

ダイナミック✩トナカイ提供の特急「たざわ」。1983年8月撮影であり、私と合流しない日の単独行動での撮影という。「こまち」の運転開始が1997年であるからこの「たざわ」が活躍したのは約14年ということになるが、私にしてみたら意外に短命だった印象。
そんな「たざわ」で大曲を目指すが、やはり田沢湖線内の各駅はホームや設備が真新しい。特にそれまではマイナーだった田沢湖や山形・大曲経由が当たり前だった角館が新幹線で盛岡を経由して行けるとはかなりカルチャーショックだった。しかも、田沢湖線に電車が走るとは。ただ、たしか普通列車はDCだった記憶だ。いずれにしても、この田沢湖線電化が成功か失敗かは現在の「こまち」でお分かりだろう。現在の田沢湖線はなんと新幹線車輌が乗り入れ、そして田沢湖や角館も新幹線の駅としてすっかり馴染んだ印象だ。
そんな将来の飛躍など全くわからなかった当時の私は大曲から今夜の宿となる急行「おが」に乗り換える。既に「運転停車で下車」した事は紹介したのでもうお分かりであろうが、座席急行を名乗りながら、なんとオール20系客車の急行列車であった。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版 ⑳
2018-09-20
あこがれの岩泉で過ごせるとはいえ、ここで1時間半待ちである。だが、丁度昼時でもあるのでランチタイムとするか、みたいな雰囲気になる。
しかし、まさか21世紀のこの世の中まで岩泉線が残るとは思わなかった。つい最近まで列車が運転されていたのが奇跡でもあった。私の訪問時は昼間の時間帯の列車があった。だからこうして国鉄バスからの乗り換えで岩泉線の制覇ができたのだ。
2014年に約31年振りの訪問となったが既に休止中であった。もっと細かく探索したかったが、時間の制約から二升石と岩泉しか訪問できなかった。そしてなんといっても押角を探索したかったのだが、その時は1月だったので訪問できたとしても押角は雪の中だったろう。それ以上に道路が雪で埋もれ通行止めの箇所が少なくなかった。

2014年訪問時にもあった岩泉駅の石碑。駅舎は解体されず、商工会が引き続き利用していると聞いているので現在も残っていて欲しい。
さて、岩泉から宮古行きの列車に乗ったが、私は最初から茂市で下車すると決めていた。同行の二人は宮古から山田線に乗り換えるらしい。同行の二人から宮古まで一緒に行こうと言われたが、宮古では約5分の待時間しかない。ならば最初から決めていた茂市で一時間待った方が何となく気が楽であった。そして何より茂市は私が好きな駅のひとつであったのでじっくりと散策したい。私は同行の中間に丁寧に事情を説明し茂市で下車する決意をしたのであった。

画像はウィキよりの押角。いつか現役時代に訪問してみたかったが、残念ながら願い叶わず。大変山深い場所にあるのでできれば春先か秋口が良かったかも知れない。ところで私事で申し訳ないが、私のPCで押角を変換しようとしたら「お歯科度」になってしまい、改めて日本語の難しさを知った。
途中、押角ではかつてのスイッチバックの遺構をほとんど確認できなかったが、やはり鉄路は山深い。さぞかしスイッチバックでないと運転上都合が悪かったのだろう。生い茂る草木が窓にぶち当たる勢いなほど鉄路の周囲に当然民家らしき文明が見当たらない。今でこそ「秘境駅」なる単語が存在するが、当時はそんな単語やカテゴリーすらない。だからどう表現していたのだろう。
そんな山の中をひたすら進みようやく茂市へ。先ほど知り合った仲間ともここでお別れだ。「宮古まで乗っていけばいいのに。」下車する直前まで口説かれたが、私はどうしても茂市で降りたかった。だが、宮古まで行けば座れるかも知れない。そしてもっと「仲間」とも話したかった。だか、茂市がそれを許してくれない。私は茂市のホームから今乗ってきた列車に手を振り全ての未練を脱ぎ捨てたのであった。

1番線で撮影した茂市であるが、当時はこんな撮影がマイブームでもあった。私は駅の外に出るわけでもなく、ただひたすらホームで次の列車が来るのを待っていた。
私の降りた時間帯の茂市はやけに静かだ。下車したのは私だけ。現在「秘境駅」と呼ばれるカテゴリーではそれほど珍しくない出来ごとになってしまったが、慣れてないせいか、なんだか私ひとり取り残された感じになった。だが、一時間も待てば列車はやって来る。ある意味駅を独占した感じだ。意外にも構内は広く、かつては貨物列車も盛んだったのであろうか。跨線橋もあり2面3線の広さであるが、最近になって岩泉線が使っていた駅舎に接する1番線がなくなったらしい。
茂市では何事も無いままやっと盛岡行きの列車がやってきた。たが・・・フルハウス‼私はその場で驚愕、やはり宮古から乗った方が良かったのかなとやや後悔したが、宮古で乗り換えたとしても座れたとは限らない。仕方なく私はドア付近に自分の身を寄せるしかなかった。
列車はとても山深い隙間を縫うように走るが、下手したら岩泉線よりも秘境的な風景かも知れない。マジ、熊や猪などがいつ出てもいいような典型的な風景に私は自然のダイナミズムを感じずにいられなかった・・・と言いたいところであるが、実際はそのダイナミズムよりも大志田や浅岸のその後が確認したくて仕方なかった。1982年11月に上越新幹線が開通し、そのダイヤ改正で大志田と共にスイッチバックが廃止され本線上にホームが移された浅岸だが、まだ残骸は残っているはず。お盆の帰省ラッシュで車内が人間一色の中、私は身をのりだし大志田と浅岸を頑張って確認しようとしたが・・・

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しかし、まさか21世紀のこの世の中まで岩泉線が残るとは思わなかった。つい最近まで列車が運転されていたのが奇跡でもあった。私の訪問時は昼間の時間帯の列車があった。だからこうして国鉄バスからの乗り換えで岩泉線の制覇ができたのだ。
2014年に約31年振りの訪問となったが既に休止中であった。もっと細かく探索したかったが、時間の制約から二升石と岩泉しか訪問できなかった。そしてなんといっても押角を探索したかったのだが、その時は1月だったので訪問できたとしても押角は雪の中だったろう。それ以上に道路が雪で埋もれ通行止めの箇所が少なくなかった。

2014年訪問時にもあった岩泉駅の石碑。駅舎は解体されず、商工会が引き続き利用していると聞いているので現在も残っていて欲しい。
さて、岩泉から宮古行きの列車に乗ったが、私は最初から茂市で下車すると決めていた。同行の二人は宮古から山田線に乗り換えるらしい。同行の二人から宮古まで一緒に行こうと言われたが、宮古では約5分の待時間しかない。ならば最初から決めていた茂市で一時間待った方が何となく気が楽であった。そして何より茂市は私が好きな駅のひとつであったのでじっくりと散策したい。私は同行の中間に丁寧に事情を説明し茂市で下車する決意をしたのであった。

画像はウィキよりの押角。いつか現役時代に訪問してみたかったが、残念ながら願い叶わず。大変山深い場所にあるのでできれば春先か秋口が良かったかも知れない。ところで私事で申し訳ないが、私のPCで押角を変換しようとしたら「お歯科度」になってしまい、改めて日本語の難しさを知った。
途中、押角ではかつてのスイッチバックの遺構をほとんど確認できなかったが、やはり鉄路は山深い。さぞかしスイッチバックでないと運転上都合が悪かったのだろう。生い茂る草木が窓にぶち当たる勢いなほど鉄路の周囲に当然民家らしき文明が見当たらない。今でこそ「秘境駅」なる単語が存在するが、当時はそんな単語やカテゴリーすらない。だからどう表現していたのだろう。
そんな山の中をひたすら進みようやく茂市へ。先ほど知り合った仲間ともここでお別れだ。「宮古まで乗っていけばいいのに。」下車する直前まで口説かれたが、私はどうしても茂市で降りたかった。だが、宮古まで行けば座れるかも知れない。そしてもっと「仲間」とも話したかった。だか、茂市がそれを許してくれない。私は茂市のホームから今乗ってきた列車に手を振り全ての未練を脱ぎ捨てたのであった。

1番線で撮影した茂市であるが、当時はこんな撮影がマイブームでもあった。私は駅の外に出るわけでもなく、ただひたすらホームで次の列車が来るのを待っていた。
私の降りた時間帯の茂市はやけに静かだ。下車したのは私だけ。現在「秘境駅」と呼ばれるカテゴリーではそれほど珍しくない出来ごとになってしまったが、慣れてないせいか、なんだか私ひとり取り残された感じになった。だが、一時間も待てば列車はやって来る。ある意味駅を独占した感じだ。意外にも構内は広く、かつては貨物列車も盛んだったのであろうか。跨線橋もあり2面3線の広さであるが、最近になって岩泉線が使っていた駅舎に接する1番線がなくなったらしい。
茂市では何事も無いままやっと盛岡行きの列車がやってきた。たが・・・フルハウス‼私はその場で驚愕、やはり宮古から乗った方が良かったのかなとやや後悔したが、宮古で乗り換えたとしても座れたとは限らない。仕方なく私はドア付近に自分の身を寄せるしかなかった。
列車はとても山深い隙間を縫うように走るが、下手したら岩泉線よりも秘境的な風景かも知れない。マジ、熊や猪などがいつ出てもいいような典型的な風景に私は自然のダイナミズムを感じずにいられなかった・・・と言いたいところであるが、実際はそのダイナミズムよりも大志田や浅岸のその後が確認したくて仕方なかった。1982年11月に上越新幹線が開通し、そのダイヤ改正で大志田と共にスイッチバックが廃止され本線上にホームが移された浅岸だが、まだ残骸は残っているはず。お盆の帰省ラッシュで車内が人間一色の中、私は身をのりだし大志田と浅岸を頑張って確認しようとしたが・・・

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑲
2018-09-15
ハプニングというか、バスに乗っている最中に初老の紳士に声をかけられた。「君、どこまでいくの?」よくあるパターンだ。だが、この時は状況が一転した。よくよく話を聞いてみると、何と自身も周遊券を使いいわゆる「乗り鉄」をしてるという。つまり同業者という事であった。そして、更に隣に座っていた私と同世代か先輩くらいの青年も紹介され、計3名でこの先を目指すことになった。恐らくその青年も私と同じように「ナンパ」されたのであろう。これで「いい旅チャレンジ20000km」の証明写真撮影に苦労することはない。

画像はウィキよりの国鉄バス。岩泉に停車中の画像であるが、当然ながら現在は運転されていないであろう。だが、周遊券で乗車できたのは非常に便利であった。しかも「仮想・小本線」のルートであったからかなり微妙な気持ちで乗車した。
そんな事で思わぬ出会いとなった国鉄バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉を目指す。10時7分着で10時12分発だから約5分の接続だ。だが、現在乗車しているのはバスである。道路状況により到着時間に多少のズレがでて乗換に支障を来たさなければいいのだが・・・というより国鉄バス同士の乗り換えだから例え遅れても接続待ちをしてくれるのは明白だ。私はある意味余裕でさっき知り合った「仲間」と話を弾ませた。
いろいろ話を聞いてみると、どうやらその初老の紳士はお医者さんだという。お盆休みを利用して「いい旅チャレンジ20000km」を楽しんでるという。だが、失礼だけど短パンにポロシャツ的なファッションであったのでとてもそのようには・・・
後に乗る岩泉線の車内では自身の周遊券を窓際に放置しグッドスリープ状態であった。放置というよりなにやら自慢気に見せびらかしている雰囲気でもあったが、やたら途中下車駅印があり、次回に降りるとき下車印を押すスペースが無いほどビッチリ埋め尽くされていた。

2014年に訪問の岩泉。既に休止中であったが、もうほとんど廃止後の状態になっていた。だが、ご覧の通りの立派な駅舎は建設当時の地元の期待と国鉄の期待が一心に込められていたような気がする。
さて、話を戻そう。北山崎展望台では予想通りちゃんと乗り換えができて、岩泉を目指すのに何ら支障は無かった。ただ乗り換え時間が5分のため、展望台へ行きリアス式海岸をじっくりと望遠鏡で眺める的な観光はできるはずもない。いや、時間があったとしても私は展望台に興味を示さなかっただろう。目的はあくまで「いい旅チャレンジ」であるからだ。
途中、「龍泉洞」などの観光地はあるものの全く興味がなく、それより「コロタン文庫」で見たあのボーリング場みたいな岩泉の駅舎を早く見たい!自身の逸る気持ちを押さえられずにいたのであった。

こちらは1983年、今回の旅での訪問の際の岩泉のホームからのショットである。開業当時は地元の期待も込められていたはずであるが、時代も変わり交通事情も変わり、そして世代も変わった。そして岩泉線も変わってしまった。
岩泉に到着すると早速ボーリング場みたいな駅舎に入る。駅前は広くロータリーも整備されさながら観光地の玄関口に相応しい造りであったが、列車を使い龍泉洞方面へ観光する人はそう多くないだろう。というよりむしろ、並走する国道106号線を走る、通称「106急行バス」の方が便利だし本数も多い。とはいえ、私は龍泉洞方面へ用事も無いし、岩泉の駅で楽しんだ方が都合がいい。
そういえば、岩泉の駅舎内に龍泉洞の絵葉書があった。やはり観光地への玄関口であるかのように役割を果たしていたが・・・

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画像はウィキよりの国鉄バス。岩泉に停車中の画像であるが、当然ながら現在は運転されていないであろう。だが、周遊券で乗車できたのは非常に便利であった。しかも「仮想・小本線」のルートであったからかなり微妙な気持ちで乗車した。
そんな事で思わぬ出会いとなった国鉄バスで北山崎展望台で乗り換え岩泉を目指す。10時7分着で10時12分発だから約5分の接続だ。だが、現在乗車しているのはバスである。道路状況により到着時間に多少のズレがでて乗換に支障を来たさなければいいのだが・・・というより国鉄バス同士の乗り換えだから例え遅れても接続待ちをしてくれるのは明白だ。私はある意味余裕でさっき知り合った「仲間」と話を弾ませた。
いろいろ話を聞いてみると、どうやらその初老の紳士はお医者さんだという。お盆休みを利用して「いい旅チャレンジ20000km」を楽しんでるという。だが、失礼だけど短パンにポロシャツ的なファッションであったのでとてもそのようには・・・
後に乗る岩泉線の車内では自身の周遊券を窓際に放置しグッドスリープ状態であった。放置というよりなにやら自慢気に見せびらかしている雰囲気でもあったが、やたら途中下車駅印があり、次回に降りるとき下車印を押すスペースが無いほどビッチリ埋め尽くされていた。

2014年に訪問の岩泉。既に休止中であったが、もうほとんど廃止後の状態になっていた。だが、ご覧の通りの立派な駅舎は建設当時の地元の期待と国鉄の期待が一心に込められていたような気がする。
さて、話を戻そう。北山崎展望台では予想通りちゃんと乗り換えができて、岩泉を目指すのに何ら支障は無かった。ただ乗り換え時間が5分のため、展望台へ行きリアス式海岸をじっくりと望遠鏡で眺める的な観光はできるはずもない。いや、時間があったとしても私は展望台に興味を示さなかっただろう。目的はあくまで「いい旅チャレンジ」であるからだ。
途中、「龍泉洞」などの観光地はあるものの全く興味がなく、それより「コロタン文庫」で見たあのボーリング場みたいな岩泉の駅舎を早く見たい!自身の逸る気持ちを押さえられずにいたのであった。

こちらは1983年、今回の旅での訪問の際の岩泉のホームからのショットである。開業当時は地元の期待も込められていたはずであるが、時代も変わり交通事情も変わり、そして世代も変わった。そして岩泉線も変わってしまった。
岩泉に到着すると早速ボーリング場みたいな駅舎に入る。駅前は広くロータリーも整備されさながら観光地の玄関口に相応しい造りであったが、列車を使い龍泉洞方面へ観光する人はそう多くないだろう。というよりむしろ、並走する国道106号線を走る、通称「106急行バス」の方が便利だし本数も多い。とはいえ、私は龍泉洞方面へ用事も無いし、岩泉の駅で楽しんだ方が都合がいい。
そういえば、岩泉の駅舎内に龍泉洞の絵葉書があった。やはり観光地への玄関口であるかのように役割を果たしていたが・・・

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑱
2018-09-10
急行「むつ」で21時00分青森に着いた私は事前に定めておいた銭湯に向かった。銭湯は栄えている方の東口ではなく、長い跨線橋を渡った西口にあった。連絡船の桟橋がすぐ近くにありドデカイ連絡船が目の前にいる。出港時間が近づいたのか、物凄い大音量の汽笛が「ボーッ!」となった。私は一瞬跳び跳ねてしまったが、それくらいビックリの大音量。胸元にずしりと低音が響き渡る。そんな風情溢れる港街の片隅に銭湯はあった。
番台に座る女将に「何時までですか?」と聞くとさりげなく「10時までですよ」と言われ事態が一転。「いや、もう30分もないよ!ヤバイよヤバイよ!」私は即行「銭湯体制」に入った。せっかく12時まで時間があるのにゆっくり入れないじゃん?ま、でも風呂に入れるだけいいか。私は大きな荷物を女将に預け一気に入浴を済ませた。

画像はウィキより、若いレールファンには馴染みが無いと思われる青函連絡船「八甲田丸」。写真は保存されている現在の姿であるが、私は現役時代に中学生の時に乗船したのが最初で最後である。つい最近まで活躍していた急行「はまなす」では「のびのびカーペット」として連絡船の桟敷席をイメージした車両があった。特に深夜の時間帯に運航されたいた連絡船では足を伸ばして仮眠できたので大変重宝した。
10時ジャストに銭湯を出た私は青森駅に10時20分頃に着いた。急行「八甲田」の出発まで約1時間半ある。1時間半もどうしよう・・・でも青森なら夜行列車や特急列車達が頻繁にやって来るはずなので退屈はしないだろう。私はそう考え八甲田が入線してくるホームのベンチに座っていると・・・10時半に急行「八甲田」が入線してきたのであった!発車は翌0時2分。なんと出発1時間半前の入線だ。これはいい。座席選び放題!国鉄の思わぬサービスに私はただただ感謝するのみであった。
だが、勿論座席は確保できたがする事がない。盛岡で2時49分に下車する予定だから仮眠するか・・・寝られない。山田線や花輪線で散々寝たツケでも回ってきたか。それでも時間が経つにつれパラパラと車内に乗客が増えていく中、私は強引に仮眠した。
フルハウスにもならないまま定刻に発車した急行「八甲田」で私は仮眠らしき仮眠をとれないまま定刻の2時49分に着いた盛岡で下車した。そして折り返し上り急行「八甲田」を3時19分発で拾い未明の乗り換えをして4時52分着の八戸を目指す。しかし、我ながらよくこんな深夜から未明にかけての乗り換えを計画したものだ。更に計画だけでなく実行に移してしまうとは大したものだ。今振り返ってみるとなんて素晴らしいのだろう。そんな昔の自分にいささか拍手を送りたい気分になる。

八戸で乗り換えの際に撮影した八戸に停車中の普通列車。といってもサボのドアップであるが、ご覧の通り旧型客車の普通列車はJR化後には完全に姿を消した。
深夜未明の乗り換えを繰返し八戸に着いた私は八戸線に乗り換える。八戸といえば個人的に少々蒼い思い出もあるが、ここは港街。いかやさばを初め多くの海産物が全国に発送される。だが、八戸市の中心部は八戸線に乗り本八戸まで行かなくてはならない。これは東北本線を敷設する際の歴史上に理由はあるが、本線の駅が市街地からやや距離があるのはある意味痛手だ。それでも八戸線が約1時間ヘッドでやって来るのだから不便ではなさそうだ。
であるが、本線にある八戸の駅前は意外にも静観としている。

2011年に訪問の本八戸。下車はしなかったが、実は1987年に自家用車で訪問している。私の自宅から八戸までは高速を使ってなんと8時間半!途中、軽米辺りでは八戸自動車道がまだ暫定開業のため東北自動車道と繋がっておらず、一般道であった。
そんな八戸線に乗り久慈から普代を目指すが、本八戸はローカル線にある駅とは思えないほど立派な高架駅である。市街地が開け大きな商業施設も多数犇めくが、やはりこちらに本線の駅がないのはちょっと勿体ない印象である。
そしてその市街地は鮫まで続くが、鮫を過ぎるとようやくローカル線らしい風景となる。途中種差海岸付近ではうみねこの群が空を染め演歌チックな風景を醸し出すが、そんな風景を朝イチでタソガレている当時中学生の私はいかがなものか。
いささかセンチメンタルな中学生を乗せた列車は7時28分に久慈に到着した。

こちらは1983年訪問時に撮影。八戸の市街地が鮫の辺りまで続く。八戸~鮫間は運転本数が多く、かなり便利に機能している。
久慈からは8時8分発の久慈線で普代へ向かう。前章でも話しているが、今回の旅は三陸鉄道開通前。列車は普代で行き止まりである。
さて普代からどうするか。八戸に戻る?いや、ここでも「ワイド」の特権をフルに活用する。周遊券には国鉄線の他に指定の国鉄バスも利用できる。そう、私はこの特権を使い国鉄バスで岩泉に抜ける作戦に出たのだ。といっても事前に計画してあった事なので何ら問題はない。当時は普代から先レールは無かったが、将来敷設予定の田老までと、途中の北山崎展望台から分岐して龍泉洞を通り岩泉まで国鉄バスが運転されていたのだ。勿論それを使わぬ手は無い。私は早速普代でバス停を目指したのであった。だがまたまたここでハプニングが起こってしまったのだ。

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番台に座る女将に「何時までですか?」と聞くとさりげなく「10時までですよ」と言われ事態が一転。「いや、もう30分もないよ!ヤバイよヤバイよ!」私は即行「銭湯体制」に入った。せっかく12時まで時間があるのにゆっくり入れないじゃん?ま、でも風呂に入れるだけいいか。私は大きな荷物を女将に預け一気に入浴を済ませた。

画像はウィキより、若いレールファンには馴染みが無いと思われる青函連絡船「八甲田丸」。写真は保存されている現在の姿であるが、私は現役時代に中学生の時に乗船したのが最初で最後である。つい最近まで活躍していた急行「はまなす」では「のびのびカーペット」として連絡船の桟敷席をイメージした車両があった。特に深夜の時間帯に運航されたいた連絡船では足を伸ばして仮眠できたので大変重宝した。
10時ジャストに銭湯を出た私は青森駅に10時20分頃に着いた。急行「八甲田」の出発まで約1時間半ある。1時間半もどうしよう・・・でも青森なら夜行列車や特急列車達が頻繁にやって来るはずなので退屈はしないだろう。私はそう考え八甲田が入線してくるホームのベンチに座っていると・・・10時半に急行「八甲田」が入線してきたのであった!発車は翌0時2分。なんと出発1時間半前の入線だ。これはいい。座席選び放題!国鉄の思わぬサービスに私はただただ感謝するのみであった。
だが、勿論座席は確保できたがする事がない。盛岡で2時49分に下車する予定だから仮眠するか・・・寝られない。山田線や花輪線で散々寝たツケでも回ってきたか。それでも時間が経つにつれパラパラと車内に乗客が増えていく中、私は強引に仮眠した。
フルハウスにもならないまま定刻に発車した急行「八甲田」で私は仮眠らしき仮眠をとれないまま定刻の2時49分に着いた盛岡で下車した。そして折り返し上り急行「八甲田」を3時19分発で拾い未明の乗り換えをして4時52分着の八戸を目指す。しかし、我ながらよくこんな深夜から未明にかけての乗り換えを計画したものだ。更に計画だけでなく実行に移してしまうとは大したものだ。今振り返ってみるとなんて素晴らしいのだろう。そんな昔の自分にいささか拍手を送りたい気分になる。

八戸で乗り換えの際に撮影した八戸に停車中の普通列車。といってもサボのドアップであるが、ご覧の通り旧型客車の普通列車はJR化後には完全に姿を消した。
深夜未明の乗り換えを繰返し八戸に着いた私は八戸線に乗り換える。八戸といえば個人的に少々蒼い思い出もあるが、ここは港街。いかやさばを初め多くの海産物が全国に発送される。だが、八戸市の中心部は八戸線に乗り本八戸まで行かなくてはならない。これは東北本線を敷設する際の歴史上に理由はあるが、本線の駅が市街地からやや距離があるのはある意味痛手だ。それでも八戸線が約1時間ヘッドでやって来るのだから不便ではなさそうだ。
であるが、本線にある八戸の駅前は意外にも静観としている。

2011年に訪問の本八戸。下車はしなかったが、実は1987年に自家用車で訪問している。私の自宅から八戸までは高速を使ってなんと8時間半!途中、軽米辺りでは八戸自動車道がまだ暫定開業のため東北自動車道と繋がっておらず、一般道であった。
そんな八戸線に乗り久慈から普代を目指すが、本八戸はローカル線にある駅とは思えないほど立派な高架駅である。市街地が開け大きな商業施設も多数犇めくが、やはりこちらに本線の駅がないのはちょっと勿体ない印象である。
そしてその市街地は鮫まで続くが、鮫を過ぎるとようやくローカル線らしい風景となる。途中種差海岸付近ではうみねこの群が空を染め演歌チックな風景を醸し出すが、そんな風景を朝イチでタソガレている当時中学生の私はいかがなものか。
いささかセンチメンタルな中学生を乗せた列車は7時28分に久慈に到着した。

こちらは1983年訪問時に撮影。八戸の市街地が鮫の辺りまで続く。八戸~鮫間は運転本数が多く、かなり便利に機能している。
久慈からは8時8分発の久慈線で普代へ向かう。前章でも話しているが、今回の旅は三陸鉄道開通前。列車は普代で行き止まりである。
さて普代からどうするか。八戸に戻る?いや、ここでも「ワイド」の特権をフルに活用する。周遊券には国鉄線の他に指定の国鉄バスも利用できる。そう、私はこの特権を使い国鉄バスで岩泉に抜ける作戦に出たのだ。といっても事前に計画してあった事なので何ら問題はない。当時は普代から先レールは無かったが、将来敷設予定の田老までと、途中の北山崎展望台から分岐して龍泉洞を通り岩泉まで国鉄バスが運転されていたのだ。勿論それを使わぬ手は無い。私は早速普代でバス停を目指したのであった。だがまたまたここでハプニングが起こってしまったのだ。

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サマーアクションシリーズ ・1983年東北の旅。もっと細かくリメイク版⑰
2018-09-05
盛岡を出た花輪線普通列車だが、途中の好摩までは戸籍上は東北本線を走る。だが、盛岡を出た瞬間から自覚していたが、夜間を夜行列車で過ごす関係上、その「関係」が山田線に引き続きやってきた。私は望遠レンズを窓枠に置き広角レンズに切り換えたのだが、何と額を望遠レンズにぶつけてしまった。つまり、いつの間にか意識が無くなり睡魔に襲われていたのであった。そして望遠レンズに額をぶつけて目が覚めたというわけだ。眠いという自覚があったのに意識が無くなる。これは凄い事だ。狭い空間に身を小さくしてなるべく相席のジュニアたちに迷惑がかからぬように座っていた。だが、お盆の帰省ラッシュであるかもしれないが眠いものは眠い。私は額をぶつけた関係上、このまま起きて言い訳のひとり言を並べてもカッコがつかない。増してや周囲の目もあるし隣に座っている相席のジュニアは怪訝な顔をしてこちらを見ている。仕方ない。私はもう完全に寝なければならないと重大な決意をし、再び体制を入れ換えて寝たのであった。

ダイナミック✩トナカイ提供の1983年盛岡にて。花輪線普通列車の隣に停車中の特急「はつかり」は既に盛岡~青森間に短縮され新幹線の接続列車として活躍していた。
気がつくと、テレサテンではないが窓に西陽が差していた。そしてあれだけ混雑していた車内はまるで蛻の殻のように挙って帰省客であろう人々が消えていた。私のボックスにいた相席の家族は隣の席に移り「ページワン!」などと言いながらカードゲームを楽しんでいる。
そしてふと我に返った。「あれ、十和田南は?」既に進行方向が変わっている。そう、気がついた時には多分沢尻とか扇田付近であったと思うが・・・やってしまったのだ。あれだけあこがれていた十和田南も、そして絶対に見たかった陸中花輪(現・鹿角花輪)もとっくに通りすぎていたのだ。車内で愕然。一度引き換えそうと思ったが・・・私は強度の落胆に襲われながら大館のホームにフットスタンプしたのであった。

ウィキより転用の十和田南。いつかは訪問してみたい、いや訪問したが夢の中であったので改めてじっくりと!スイッチバックの構造は、周知の通り小坂までの延伸計画があった名残である。かつては十和田湖方面への観光需要があったが、現在は高速バスなどにその座を譲り地元の足として活躍している。
気を取り直そう。18時37分に大館に着いた私は19時28分の急行「むつ」に乗り換える。すばらしい接続だ。そして青森に21時00分に到着し翌00時02分発の急行「八甲田」にのりかえる。なんと3時間待ちだ!ただ、この3時間待ちにはある作戦があった。
それは「銭湯」である。多分青森なら街も大きいし銭湯もあるだろう。計画段階でそう考え予め時間を取ってあったのだ。果たして銭湯はあるだろうか。私は旅の初日に到着した段階の青森から乗った急行「むつ」で、車窓から煙突を探していた。そう、銭湯なら煙突がある。それは長年生き抜いた(と言っても中学生であったが)事からくる知恵と、多くの旅を重ねてきた事からくる経験を集結させた私の英知でもあった。
.jpg)

画像はウィキより、現在の青森駅舎。上が西口で下が東口。もちろん東口は表玄関らしく堂々としているが、1983年訪問時よりややコンパクトになった印象になったのは気のせいか。そして西口は、本州の両側からの鉄路を束ねる駅としてはかなり華奢な印象であるが、1983年に私が訪問した後に改築したらしい。こちらの出口は本当に庶民的で地元密着の印象であるが、私の行った銭湯もこちらの出口であった。
当時はスーパー銭湯など存在しなかった記憶だ。いや、多分あったかも知れないが少なくとも青森には無かったと思う。なので自然とスーパーの付かない銭湯となるのだが、私の読み通り大きな煙突に♨マークが書いてあり事前に確認してあった。急行「むつ」で降りたらその銭湯に行こう!私はそう決めてあったのだ。だが・・・またまたとんでもない事態が私を待ち受けていた。何やら今回の旅はやたらトラブル続きである。なんだか神に試練を与えられているようでもあった。しかも今回のこの旅に凝縮されているとは❗今になって面白可笑しい話題であるが、当時はトラブルの処理に大変だった。まぁ、だから今があるという事も言えるが、人間はこうして成長していくのであろう。そう言い聞かせながら私は脱衣場で衣類を脱ぎ捨てた。

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ダイナミック✩トナカイ提供の1983年盛岡にて。花輪線普通列車の隣に停車中の特急「はつかり」は既に盛岡~青森間に短縮され新幹線の接続列車として活躍していた。
気がつくと、テレサテンではないが窓に西陽が差していた。そしてあれだけ混雑していた車内はまるで蛻の殻のように挙って帰省客であろう人々が消えていた。私のボックスにいた相席の家族は隣の席に移り「ページワン!」などと言いながらカードゲームを楽しんでいる。
そしてふと我に返った。「あれ、十和田南は?」既に進行方向が変わっている。そう、気がついた時には多分沢尻とか扇田付近であったと思うが・・・やってしまったのだ。あれだけあこがれていた十和田南も、そして絶対に見たかった陸中花輪(現・鹿角花輪)もとっくに通りすぎていたのだ。車内で愕然。一度引き換えそうと思ったが・・・私は強度の落胆に襲われながら大館のホームにフットスタンプしたのであった。

ウィキより転用の十和田南。いつかは訪問してみたい、いや訪問したが夢の中であったので改めてじっくりと!スイッチバックの構造は、周知の通り小坂までの延伸計画があった名残である。かつては十和田湖方面への観光需要があったが、現在は高速バスなどにその座を譲り地元の足として活躍している。
気を取り直そう。18時37分に大館に着いた私は19時28分の急行「むつ」に乗り換える。すばらしい接続だ。そして青森に21時00分に到着し翌00時02分発の急行「八甲田」にのりかえる。なんと3時間待ちだ!ただ、この3時間待ちにはある作戦があった。
それは「銭湯」である。多分青森なら街も大きいし銭湯もあるだろう。計画段階でそう考え予め時間を取ってあったのだ。果たして銭湯はあるだろうか。私は旅の初日に到着した段階の青森から乗った急行「むつ」で、車窓から煙突を探していた。そう、銭湯なら煙突がある。それは長年生き抜いた(と言っても中学生であったが)事からくる知恵と、多くの旅を重ねてきた事からくる経験を集結させた私の英知でもあった。
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画像はウィキより、現在の青森駅舎。上が西口で下が東口。もちろん東口は表玄関らしく堂々としているが、1983年訪問時よりややコンパクトになった印象になったのは気のせいか。そして西口は、本州の両側からの鉄路を束ねる駅としてはかなり華奢な印象であるが、1983年に私が訪問した後に改築したらしい。こちらの出口は本当に庶民的で地元密着の印象であるが、私の行った銭湯もこちらの出口であった。
当時はスーパー銭湯など存在しなかった記憶だ。いや、多分あったかも知れないが少なくとも青森には無かったと思う。なので自然とスーパーの付かない銭湯となるのだが、私の読み通り大きな煙突に♨マークが書いてあり事前に確認してあった。急行「むつ」で降りたらその銭湯に行こう!私はそう決めてあったのだ。だが・・・またまたとんでもない事態が私を待ち受けていた。何やら今回の旅はやたらトラブル続きである。なんだか神に試練を与えられているようでもあった。しかも今回のこの旅に凝縮されているとは❗今になって面白可笑しい話題であるが、当時はトラブルの処理に大変だった。まぁ、だから今があるという事も言えるが、人間はこうして成長していくのであろう。そう言い聞かせながら私は脱衣場で衣類を脱ぎ捨てた。

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