TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ⑤ 古山
2019-01-30

恐らくレールファン的にも地味な存在の部類になるかも知れないであろう古山であるが、となりの三川との間はJR化後に単線に変更され配線も大きく変更された。私の知る限りの過去では2面3線の典型的な国鉄型駅であったが、現在はかなりレールが撤去され2面2線の寂しい姿になってしまった。
運転本数も減少し現在の姿でもやや設備を持て余し気味かも知れないが、それでも朝夕の通勤通学時間帯には賑わうであろう。だが、石炭輸送においてはかなり重要な路線であった事であろうが、時代が代わった現在ではJR石勝線の夕張支線でさえも役目を終えてしまう事象が発生している。せっかく複線なのにもったいない気持ちになるのは平成筑豊鉄道の複線区間と同じイメージである。

駅舎は建て替えられても「国鉄式」は今も健在。私が「いい旅チャレンジ20000km」で全国を駆け巡っていた時代を思い出す。もうかれこれ訳30年前になってしまうが・・・





私が訪問したのは初夏であったが、特に冬季には強い味方になってくれる事であろう。



かつては信号場であった古山。そう言われれば周囲にはそれほど集落的文明を感じる場面が少ない。

さて、次の駅に向かおう。一般的には地味な部類になろう古山であるが、逆にこうした駅が私好みであるのは言うまでもない!

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME 番外編 東追分
2019-01-25

既に紹介しているが、現在の東追分はこんな感じである。石勝線の象徴でもある「スノーシェルター」「スノーシェード」は1基1億ほどするらしい。
今回の主題から外れる形になるが、早来から至近距離にあるので今回の旅の途中で番外的に立ち寄ってみた。なるほど、信号場としては何ら問題ない立地条件であるが、旅客営業で銭儲けをするにはかなりの苦労が素人でもわかるような風景であった。周囲は特に酪農が盛んなようで、もちろん貨物営業があればそれなりに利益が産まれている事であろう。だが時代は変わり、鉄道での貨物輸送はあまり一般的では無くなってしまった。
東追分は石勝線にあるが、現役時代は交換設備のある2面2線の駅であった。夕張線時代は棒線型の典型的な無人駅であったのである意味「出世」したかのように思えたが、現在は信号場に降格。そして石勝線の他の一部の駅も信号場などに降格してしまった。過疎化が厳しい立地条件の中を営業している事になるが、石勝線開通時は、当時の鉄道技術を惜しみなく投入し「日本の鉄道はここまで来たか!」という印象を与えた斬新な開業であった。あれから30年以上経過した現在でもその設備は活かされているが、なにせ沿線人口の減少やバブルの崩壊で「石勝高原」も全盛期に比べ厳しい現実であろう事からわかるように、将来的に石勝線は特急列車しか運転されなくなる日が来るのかも知れない。
かつては追分を介して室蘭本線を経由し石炭輸送で盛栄を得ていたが、その役割も終え、釧路への短絡線という新しい役割を果たす夕張線改め石勝線は、私にとってはある意味特殊であり特異でもあるのが私を惹きつける一番の理由であろう。
イモムシ型のスノーシェルターは日本全国探しても石勝線が唯一であろうかも知れないが、私が日本の鉄道路線で一番好きな石勝線は、形は変われど今もこうして生きていてくれている事が一番嬉しい思いである。

この先に東追分がある。冬季には強い味方である防雪林に囲まれた東追分であるが、旅客ホームがなくなってしまった現在、何となく殺風景になってしまった印象であった。




ちょっと別の角度から東追分を散策してみた。どこに駅があるかお分かりであろうか?

既にホームは撤去され完全なる信号場となってしまった東追分。かつてのRJ誌に石勝線開通時に特集が組まれたが、夕張線時代の東追分の写真が掲載されていたのが印象的であった。

駅はなくなってしまったが信号場として残る東追分。こうして見てみると単なる風景写真にしか見えないが、されど石勝線でもある意味いろいろなドラマが現在進行形で凝縮されている。我々は見守ることしかできないのであろうか・・・

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ③
2019-01-20

早来は室蘭本線の複線区間にある。苫小牧へのアプローチに便利なため利用者は多いと思われるが、周囲はかなり自然が多く存在する。そしてここからは石勝線の西早来や東追分などの信号場に近い。
複線区間にあるため列車交換などの設備はないが、ホームは2本あり上り下りは別ホームに発着する。基本的に室蘭本線と並走する道路沿いにあるが、周囲はそれほど集落的要素は感じなかった。であるが、国道沿いのため車の行き来が頻繁で、列車野発着よりも賑やかであった。鉄道設備的にもかつての盛栄が不自然な空間から感じ取れるが、駅舎が建て替えられた今でも不思議と当時の盛栄が伝わって来るから不思議だ。複線区間も持て余しがもったいなく感じるのは既に何度も述べているが、やはりせっかく複線なのだから何とか活かしたい気持ちになる。
隣の追分は、鉄道の歴史の上においては新しい歴史の部類になるが、石勝線の南千歳~追分間が1981年に開通し一層鉄道の要所的要素が深まったが、利用者的には減少している。
私には全く伝説の部類になるが、ウィキによるとここから早来鉄道が分岐していたらしい。ナローゲージの、いわゆる軽便鉄道であり馬車軌道であったが、時代とともに「リバプールの風」となり現在に至っている。そんな名残もだだっ広い構内からいささか感じとる事もできなくもないが、やはり鉄道というひとつの時代が終焉した事実は否定できない。今も室蘭本線としてこの早来が生き残っているのはある意味奇跡かも知れない。


モダンな駅舎に改築された早来。周囲はそれなりに生活感があるが、駅はいつになくひっそりとしていた。


ウィキによると「サク・ルペシペ」(夏に越える沢道)が地名・駅名の由来らしいが「はやきた」と読ませるのは充てた漢字から由来する他に、宗谷本線の「咲来」と区別する意味も少なからずあったのかも知れない。







かなりムダに広い空間があるのは、旧・早来鉄道の名残の一部であろうか。駅舎側には集落がひしめくが、反対側ではある意味大自然的な風景であった。それは隣の遠浅も同様であった。

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ② 遠浅
2019-01-15

「遠浅」と聞いて恐らく誰もが海を想像すると思われるが、沼ノ端から枝分かれした室蘭本線最初の駅である。ウイキによると酪農が盛んであるとの記述があるが、現地に行くとそんな記述が納得できる風景であった。苫小牧から二つ目というのに遠浅へ続く道路は大自然がバリバリにあるのは北海道らしい風景であろう。

ウィキによると駅周辺に酪品工場があったとの記述があり、かつては通勤客での賑わいもあったであろう。私が今回訪問した時間帯は朝の通勤時間帯であったが、国道から外れた駅前はややひっそりとした印象であった。駅舎は1980年代に現在の姿に建て替えられたらしいが、それでもホームに立つとかつての盛栄が伝わってくる。駅舎側ではある意味集落的な町並みが広がるが、駅舎と反対側では全くと言っていいほど人の気配を感じない。 私でさえなぜ室蘭本線のこの区間が複線のままなのか不思議で仕方ない思いであるのだから、若いレールファンなら尚更であろう。そして何より今でも複線のまま維持しているJR北海道の思いがある意味不思議であろうかも知れないが、やはり現在も複線のまま維持しているのはある意味素晴らしい。


遠浅駅舎は1980年代に立て替えたらしい。ある意味簡素な造りになっているが、それでも季節によっては身を守ってくれる強い味方である。




やや不自然な空間があるのがかつての盛栄を感じる材料であろう。しかし、複線が完成した頃には石炭時代の終焉を迎え、鉄道敷設の大変さと時代の流れの速さでのタイムラグに当時の関係者もやりきれない気持ちであったろう。

貨物積出風景・・・賑わったんだろうなぁという景色が目に浮かぶ雰囲気の不自然な空間。石炭以外にも駅周辺の酪農業からの受け荷があったかも知れないイメージが出来る。いや、別に私は超能力者ではないのだが・・・

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TRYIN´ TO FIND MY WAY HOME ①
2019-01-10
室蘭本線の異様な姿を今の若いレールファンはどう感じるであろうか。「異様な」とは沼ノ端~岩見沢間の事を差すが、決して「おかしな列車か走っている」とか「その区間だけ異常に料金が高い」とか言っているのではない。ダイヤ的に長万部~沼ノ端間と、同じ室蘭本線を名乗る沼ノ端~岩見沢間とでは全く別の路線であるし室蘭本線全線を直通する列車は無い。

栗山は恐らく沿線大一の都市であろう。駅前は立派な広場になっていた。
レールファンならばこの事実が歴史的背景により現在に至る事は既に自身により解決済みであろうが、恐らく若いレールファンは実感がほとんど無いため伝説に過ぎず、現在目の当たりににする室蘭本線を感じる他無いであろう。私でさえ蒸気機関車が終焉したのが小学校入学したかしないかくらいであるから、石炭全盛期とは程遠い時代であるし、むしろ私はタラコ色や二色のDCが活躍する沿線で育ったためそちらの方が縁深い。そして湘南色の113系でよく東京方面へ撮影に行ったり旅に出れば地方ではDLやELが牽引する客車列車によく乗ったものなのでSL的な時代にはあまり縁がない。ただ、石炭全盛期時代に国鉄が活躍した事は興味があり、ある意味今日の鉄道網がそういった背景から成り立っている部分も考えると石炭と鉄道は切っても切れない縁である事がおわかりであろう。

早来より至近距離にある東追分信号場。かつて旅客営業駅として活躍していた事は若いレールファンでもご存知の事であろうが、周囲は牧場や畑に覆われ、旅客のみでの収入に頼るにはかなり辛い風景であった。現在はご覧の通り、中にも入れない。
特に室蘭本線は、苫小牧から先、旅客的には千歳線を経由し札幌に抜けるのがこれ順当で当り前の事項であろう。戸籍上通り岩見沢へ直通する列車ばかりであったら不便で仕方がない。しかしながら石炭輸送を頭に置いた場合、いかにこの室蘭本線が岩見沢からなのかが自ずとわかってくる。
海上輸送による石炭の積出港は手宮か室蘭が主流であったが、その名の通り室蘭から室蘭本線を岩見沢方面へたどっていくと追分で夕張線(現・石勝線)、志文で万字線、岩見沢から先深川で留萌本線、砂川で上砂川支線や歌志内線など・・・石炭採掘場が星の数ほどあるのにお分かりであろう。しかも夕張線は現在の石勝線の形ではなく、夕張支線がかつては本線であり清水沢では三菱石炭鉱業との接続もあったほど貨物が盛んであったのがお分かりいただけると思う。もちろん支線の登川などでも採掘されたが、現在の石勝線の形になったのは釧路方面への短絡線的意味での事で、石炭時代の構想とは全く別のものである。残念ながら私は「夕張線」を経験出来なかったが、石勝線(新夕張~新得)が開通した2年後に訪問する事に成功した。もちろん夕張にも出向いたが、そのときは既に石炭時代はとっくに終焉し、かつての盛栄は面影だけでしか感じる事ができなかった。

古山ではかつての盛栄が今も残る。列車本数こそ少ないものの、今も複線区間が健在であるが、完成したのは1968年と聞く。これは私が生まれる一年前の出来事で、既に石炭産業は衰退していた頃である。
そんな事を考えると室蘭本線野沼ノ端~岩見沢間が「本線」である事が納得できようと思う。果たして若いレールファンはどんな感覚でこの室蘭本線のこの区間を感じているのであろうか。確かに鉄道路線としてはある意味哀愁を感じる部分もあるし部分ながら複線区間もあるのが、列車本数を考えたら不思議な感じであろう。だが、レンタカーなどで外から鉄道を見てみると、意外にも沿線各地は「人の暮らし」が多い事に気づく。ある意味この事がこの区間を廃止しないJR北海道の思いなのかも知れない。もちろん経営的に「黒」とは言えないであろうが・・・

そして志文ではかつて万字線が分岐していた。終点の万字炭山は文字通りかつての盛栄を象徴する駅でもあったが、現在駅前は完全にゴーストタウンとなってしまった。
非電化の複線区間は全国でも珍しい部類になるが、岩見沢~苫小牧間の駅を見ているとかつてのSL風景が目に浮かんでくる。もちろん私自身その時代の経験は無いが、JRになっても駅舎がモダンになってもそう見えてくるから不思議だ。次章からはそんな不思議な駅をピックアップして謎を解いてみたい。

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栗山は恐らく沿線大一の都市であろう。駅前は立派な広場になっていた。
レールファンならばこの事実が歴史的背景により現在に至る事は既に自身により解決済みであろうが、恐らく若いレールファンは実感がほとんど無いため伝説に過ぎず、現在目の当たりににする室蘭本線を感じる他無いであろう。私でさえ蒸気機関車が終焉したのが小学校入学したかしないかくらいであるから、石炭全盛期とは程遠い時代であるし、むしろ私はタラコ色や二色のDCが活躍する沿線で育ったためそちらの方が縁深い。そして湘南色の113系でよく東京方面へ撮影に行ったり旅に出れば地方ではDLやELが牽引する客車列車によく乗ったものなのでSL的な時代にはあまり縁がない。ただ、石炭全盛期時代に国鉄が活躍した事は興味があり、ある意味今日の鉄道網がそういった背景から成り立っている部分も考えると石炭と鉄道は切っても切れない縁である事がおわかりであろう。

早来より至近距離にある東追分信号場。かつて旅客営業駅として活躍していた事は若いレールファンでもご存知の事であろうが、周囲は牧場や畑に覆われ、旅客のみでの収入に頼るにはかなり辛い風景であった。現在はご覧の通り、中にも入れない。
特に室蘭本線は、苫小牧から先、旅客的には千歳線を経由し札幌に抜けるのがこれ順当で当り前の事項であろう。戸籍上通り岩見沢へ直通する列車ばかりであったら不便で仕方がない。しかしながら石炭輸送を頭に置いた場合、いかにこの室蘭本線が岩見沢からなのかが自ずとわかってくる。
海上輸送による石炭の積出港は手宮か室蘭が主流であったが、その名の通り室蘭から室蘭本線を岩見沢方面へたどっていくと追分で夕張線(現・石勝線)、志文で万字線、岩見沢から先深川で留萌本線、砂川で上砂川支線や歌志内線など・・・石炭採掘場が星の数ほどあるのにお分かりであろう。しかも夕張線は現在の石勝線の形ではなく、夕張支線がかつては本線であり清水沢では三菱石炭鉱業との接続もあったほど貨物が盛んであったのがお分かりいただけると思う。もちろん支線の登川などでも採掘されたが、現在の石勝線の形になったのは釧路方面への短絡線的意味での事で、石炭時代の構想とは全く別のものである。残念ながら私は「夕張線」を経験出来なかったが、石勝線(新夕張~新得)が開通した2年後に訪問する事に成功した。もちろん夕張にも出向いたが、そのときは既に石炭時代はとっくに終焉し、かつての盛栄は面影だけでしか感じる事ができなかった。

古山ではかつての盛栄が今も残る。列車本数こそ少ないものの、今も複線区間が健在であるが、完成したのは1968年と聞く。これは私が生まれる一年前の出来事で、既に石炭産業は衰退していた頃である。
そんな事を考えると室蘭本線野沼ノ端~岩見沢間が「本線」である事が納得できようと思う。果たして若いレールファンはどんな感覚でこの室蘭本線のこの区間を感じているのであろうか。確かに鉄道路線としてはある意味哀愁を感じる部分もあるし部分ながら複線区間もあるのが、列車本数を考えたら不思議な感じであろう。だが、レンタカーなどで外から鉄道を見てみると、意外にも沿線各地は「人の暮らし」が多い事に気づく。ある意味この事がこの区間を廃止しないJR北海道の思いなのかも知れない。もちろん経営的に「黒」とは言えないであろうが・・・

そして志文ではかつて万字線が分岐していた。終点の万字炭山は文字通りかつての盛栄を象徴する駅でもあったが、現在駅前は完全にゴーストタウンとなってしまった。
非電化の複線区間は全国でも珍しい部類になるが、岩見沢~苫小牧間の駅を見ているとかつてのSL風景が目に浮かんでくる。もちろん私自身その時代の経験は無いが、JRになっても駅舎がモダンになってもそう見えてくるから不思議だ。次章からはそんな不思議な駅をピックアップして謎を解いてみたい。

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新年のご挨拶 2019
2019-01-01
新年あけましておめでとうございます。今年も「鉄道全線完全制覇の旅」をよろしくお願いいたします。
ところで毎年思うのが、特に最近は時間の経過が早く感じ「もう正月かぁ」みたいな感じになる事だ。ついさっきまで猛暑だとか紅葉だとか話題だったと思っていたが、気がついたら「またひとつ歳を取る」的な感じになってしまう。

今年もダイナミック✩トナカイ提供の名画像にて新年を迎えてみよう。東京駅撮影の寝台特急入場シーンであるが、私にとってEF66での寝台特急は新しく新鮮な部類になる。私が寝台特急の機関車として最初にイメージするのがEF65の500番台であるが、私と同世代の方なら間違いなく納得していただけるであろう。
そんな中、昨年の10月にNHK・BSで「行くぞ、最果て 秘境×鉄道 アフリカ ポレポレ列車」という番組を観た。普段私は外国の鉄道旅に関する番組は観ないのだが、この時たまたま何気なく観たらいつの間にか番組に引き込まれてしまった。
このブログをご覧の方の中にもこの番組をご覧になった方がいらっしゃるかも知れないが、とにかくアフリカの鉄道は壮大かつダイナミックであり時間の進行が緩やかである。そして現地の方はとても人なつっこい。どこの国から来たかわからないような旅人でも気さくに接し、ある街では後で自分達の踊りや演奏があるから観に来いとまで言う。
そんな街にやって来る列車は「到着まで20時間遅れ」の情報でも誰ひとりクレームを付ける者もいない。「日本の鉄道は時間に正確」という理屈は以前より知っていたが、まさか20時間以上遅れても列車を待つとは・・・日頃私たちが忘れかけている何かを観た感じがした。

私のEF66のイメージは、貨物列車の「フレートライナー」である。その一昔前では「とびうお」として鮮魚を輸送していた時代は、私より先輩の方なら懐かしさ満載の材料であろうと思う。画像はダイナミック✩トナカイ
そんな時、私のブログを日頃から贔屓してくださっている「にわか者様」からある時貴重なコメントを頂いたので原文のまま紹介してみよう。その記事はこちらから。そしていただいたコメントは以下の通りである。
「白鳥に乗車されましたか!
それよりもべにばなですね!
もう懐かしい懐かしいと何回書いていることか・・・
新幹線ができて便利にはなりましたが、在来線の特急や急行がここまで消え去るとは・・・
私のテツな父親が「新幹線ができるまでは東海道も特急や急行がいろいろ走っていて面白かった。」とよく言ってましたが、まさか自分が同じ感覚に陥るとは思ってもみませんでした・・・」
といった内容であるが、皆様はどう思われたであろう。私的にポイントはコメントの後半部分、父親がかつての東海道線についての発言に対し、にわか者さん自身が年齢を重ね「自分も同じ感覚に陥るとは」の部分であり、まさに共感出来る部分である。
私はこの世に誕生して以来、半世紀が過ぎようとしている。そして幼少時代よりレールファンとなり様々なレールシーンを見てきた。そしてこのブログにて様々なレールシーンを紹介してきた。ただ、若い世代には年寄りの昔話に過ぎないかも知れない。


撮影駅は不明であるが、鹿児島本線の「交流機関車」である。考えてみたら私は最初で最後の乗車であった東京発九州方面へ向かう寝台特急「富士」の乗車では機関車交換が3回行われた。24時間25分かけて東京から西鹿児島(当時、現・鹿児島中央)まで走るのだから、それはイベント盛りだくさんであった。ちなみに昭和54年当時は宮崎~鹿児島間が非電化であったので牽引機関車はDF50であった。画像はダイナミック✩トナカイ
昨年、私はビッグエッグに矢沢永吉のライブに参戦した。御歳69にしてすごいパワーだった。しかも最前列での観戦だ。
先日、BSで「ボウリング革命★Pリーグ」という女子プロボーラーによるボーリングトーナメント戦の番組を久々に観たら、ベテランの姫路麗が、そしてその後に放送された優勝戦では私が以前からのファンでもある森彩奈江が優勝した。
そしてサッカーでは三浦知良が今も現役で頑張っている。当然ながら体力的には全盛期ではないだろう。
しかし私が言いたいのはそういう事ではなく、年齢を重ねて尚現役で頑張れるのは実に素晴らしく幸せな事であるという事だ。若い者に混ざって尚自身が輝く。これは並大抵の努力では出来ない至難であろう。努力+持って産まれたセンスや幸運も必要かも知れない。しかし、それよりももっと大切なのは「やり続ける事」であろう。

私がかつて在住していた地に降臨した姫路麗。相模線沿線の某ホーリング場に姿を現すのは異例中の異例であるので大変貴重なショットとなった。本人曰く「ボウリングのユニフォームに着替えたら撮影全然OK!」との事。プライベートなファッションの場合は頑なに撮影を拒否していた。我々は本人のポリシーを大切にして協力してこそ彼女の活躍が更に飛躍するであろうと改めて感じるシーンでもあった。
ジャイアント馬場は還暦過ぎても尚リングに上がっていた。もちろん全盛期の姿ではないが、現役のトップレスラーよりも数百倍の存在感的なオーラを放っていた。
「子供の頃に60歳といったら随分年寄りだなと思ってたけど、自分がなってみたら、何だ、まだやれるじゃねぇかと思った」
これは後楽園ホールで行われた自身の還暦試合後に放たれたこのコメントである。インタビュアーはあの徳光和夫氏であったが、その後物凄い歓声となる。追悼番組で関根勤氏が、あの時の歓声はメインイベントでスリーカウント入った時の歓声よりも凄かった、と語っていた。

さて、こちらも東京駅でのEF66であるが「上野・東京ライン」が新設された現在、こうしたシーンは完全に過去の物となってしまった。東京駅や横浜駅は万年工事の印象であるが、特に東京駅で線路やホームが足りない新幹線は、JR東海の気持ちひとつで東北新幹線との接続が夢でなくなり東京駅の慢性的混雑も解消できるのでは?と思うのは私だけであろうか?画像はダイナミック✩トナカイ
話は飛ぶが、最近私は日曜の夜にテレビ神奈川で放送されている「帰ってきたウルトラマン」にハマっていた(現在は放送終了)。帰ってきたウルトラマンといえば最初の放送は昭和46年頃の放送であったと思うが、番組に出てくるMATという地球防衛組織の所有車は「コスモスポーツ」である。若い世代にはこのコスモスポーツという車は馴染無いであろうが、私はミニカーで所有するほど好きな名車である。
もし今のこの時代に私がコスモスポーツを自家用車で乗っていたらどうだろう。コスモスポーツを知らない世代にもコスモスポーツの素晴らしさが伝わるであろうか。いや、私以外の方が乗られた方がもっと伝わるであろう。今の時代にコスモスポーツで国道134号線を走ったら絶対にかっこいいと思う。
確かに現在の車に比べ燃費は悪いしハンドルも重いであろう。ただ、そういう事ではなく、それを素直に受け入れた上でコスモスポーツの素晴らしさが伝われば最高であろう。

そしてこちらがウィキペディアより拝借した「マツダ・コスモスポーツ」である。「帰ってきたウルトラマン」にも登場するが、当時は超高嶺の花的価格で、とても我が家では購入不可能なお値段であった。ちなみに我が家は当時「ホンダN360」であった。
いろいろな事柄を並べてみたが、何となく私のいいたい事が伝わったであろうか。何も古い物がいいと言っているのではない。新しい物の中に混ざっても古い物が輝く姿が美しいと言っているのだ。新しい物の中だからこそ輝ける古い物。これは素晴らしい事だ。
私の鉄道感は古い物が多いであろう。私のブログ記事は昭和の、国鉄の物が多い。
今だからカズがかっこいい。今姫路麗が優勝するから意味がある。矢沢が今ドームを満タンにするから凄いのだ。
私はその意味が分かる人間でありたい。そしてそれを鉄道を通してこのブログで表現していければいいと思う。そしてそれに共感していただける方がひとりでもいれば私はラッキーであると思う。

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ところで毎年思うのが、特に最近は時間の経過が早く感じ「もう正月かぁ」みたいな感じになる事だ。ついさっきまで猛暑だとか紅葉だとか話題だったと思っていたが、気がついたら「またひとつ歳を取る」的な感じになってしまう。

今年もダイナミック✩トナカイ提供の名画像にて新年を迎えてみよう。東京駅撮影の寝台特急入場シーンであるが、私にとってEF66での寝台特急は新しく新鮮な部類になる。私が寝台特急の機関車として最初にイメージするのがEF65の500番台であるが、私と同世代の方なら間違いなく納得していただけるであろう。
そんな中、昨年の10月にNHK・BSで「行くぞ、最果て 秘境×鉄道 アフリカ ポレポレ列車」という番組を観た。普段私は外国の鉄道旅に関する番組は観ないのだが、この時たまたま何気なく観たらいつの間にか番組に引き込まれてしまった。
このブログをご覧の方の中にもこの番組をご覧になった方がいらっしゃるかも知れないが、とにかくアフリカの鉄道は壮大かつダイナミックであり時間の進行が緩やかである。そして現地の方はとても人なつっこい。どこの国から来たかわからないような旅人でも気さくに接し、ある街では後で自分達の踊りや演奏があるから観に来いとまで言う。
そんな街にやって来る列車は「到着まで20時間遅れ」の情報でも誰ひとりクレームを付ける者もいない。「日本の鉄道は時間に正確」という理屈は以前より知っていたが、まさか20時間以上遅れても列車を待つとは・・・日頃私たちが忘れかけている何かを観た感じがした。

私のEF66のイメージは、貨物列車の「フレートライナー」である。その一昔前では「とびうお」として鮮魚を輸送していた時代は、私より先輩の方なら懐かしさ満載の材料であろうと思う。画像はダイナミック✩トナカイ
そんな時、私のブログを日頃から贔屓してくださっている「にわか者様」からある時貴重なコメントを頂いたので原文のまま紹介してみよう。その記事はこちらから。そしていただいたコメントは以下の通りである。
「白鳥に乗車されましたか!
それよりもべにばなですね!
もう懐かしい懐かしいと何回書いていることか・・・
新幹線ができて便利にはなりましたが、在来線の特急や急行がここまで消え去るとは・・・
私のテツな父親が「新幹線ができるまでは東海道も特急や急行がいろいろ走っていて面白かった。」とよく言ってましたが、まさか自分が同じ感覚に陥るとは思ってもみませんでした・・・」
といった内容であるが、皆様はどう思われたであろう。私的にポイントはコメントの後半部分、父親がかつての東海道線についての発言に対し、にわか者さん自身が年齢を重ね「自分も同じ感覚に陥るとは」の部分であり、まさに共感出来る部分である。
私はこの世に誕生して以来、半世紀が過ぎようとしている。そして幼少時代よりレールファンとなり様々なレールシーンを見てきた。そしてこのブログにて様々なレールシーンを紹介してきた。ただ、若い世代には年寄りの昔話に過ぎないかも知れない。


撮影駅は不明であるが、鹿児島本線の「交流機関車」である。考えてみたら私は最初で最後の乗車であった東京発九州方面へ向かう寝台特急「富士」の乗車では機関車交換が3回行われた。24時間25分かけて東京から西鹿児島(当時、現・鹿児島中央)まで走るのだから、それはイベント盛りだくさんであった。ちなみに昭和54年当時は宮崎~鹿児島間が非電化であったので牽引機関車はDF50であった。画像はダイナミック✩トナカイ
昨年、私はビッグエッグに矢沢永吉のライブに参戦した。御歳69にしてすごいパワーだった。しかも最前列での観戦だ。
先日、BSで「ボウリング革命★Pリーグ」という女子プロボーラーによるボーリングトーナメント戦の番組を久々に観たら、ベテランの姫路麗が、そしてその後に放送された優勝戦では私が以前からのファンでもある森彩奈江が優勝した。
そしてサッカーでは三浦知良が今も現役で頑張っている。当然ながら体力的には全盛期ではないだろう。
しかし私が言いたいのはそういう事ではなく、年齢を重ねて尚現役で頑張れるのは実に素晴らしく幸せな事であるという事だ。若い者に混ざって尚自身が輝く。これは並大抵の努力では出来ない至難であろう。努力+持って産まれたセンスや幸運も必要かも知れない。しかし、それよりももっと大切なのは「やり続ける事」であろう。

私がかつて在住していた地に降臨した姫路麗。相模線沿線の某ホーリング場に姿を現すのは異例中の異例であるので大変貴重なショットとなった。本人曰く「ボウリングのユニフォームに着替えたら撮影全然OK!」との事。プライベートなファッションの場合は頑なに撮影を拒否していた。我々は本人のポリシーを大切にして協力してこそ彼女の活躍が更に飛躍するであろうと改めて感じるシーンでもあった。
ジャイアント馬場は還暦過ぎても尚リングに上がっていた。もちろん全盛期の姿ではないが、現役のトップレスラーよりも数百倍の存在感的なオーラを放っていた。
「子供の頃に60歳といったら随分年寄りだなと思ってたけど、自分がなってみたら、何だ、まだやれるじゃねぇかと思った」
これは後楽園ホールで行われた自身の還暦試合後に放たれたこのコメントである。インタビュアーはあの徳光和夫氏であったが、その後物凄い歓声となる。追悼番組で関根勤氏が、あの時の歓声はメインイベントでスリーカウント入った時の歓声よりも凄かった、と語っていた。

さて、こちらも東京駅でのEF66であるが「上野・東京ライン」が新設された現在、こうしたシーンは完全に過去の物となってしまった。東京駅や横浜駅は万年工事の印象であるが、特に東京駅で線路やホームが足りない新幹線は、JR東海の気持ちひとつで東北新幹線との接続が夢でなくなり東京駅の慢性的混雑も解消できるのでは?と思うのは私だけであろうか?画像はダイナミック✩トナカイ
話は飛ぶが、最近私は日曜の夜にテレビ神奈川で放送されている「帰ってきたウルトラマン」にハマっていた(現在は放送終了)。帰ってきたウルトラマンといえば最初の放送は昭和46年頃の放送であったと思うが、番組に出てくるMATという地球防衛組織の所有車は「コスモスポーツ」である。若い世代にはこのコスモスポーツという車は馴染無いであろうが、私はミニカーで所有するほど好きな名車である。
もし今のこの時代に私がコスモスポーツを自家用車で乗っていたらどうだろう。コスモスポーツを知らない世代にもコスモスポーツの素晴らしさが伝わるであろうか。いや、私以外の方が乗られた方がもっと伝わるであろう。今の時代にコスモスポーツで国道134号線を走ったら絶対にかっこいいと思う。
確かに現在の車に比べ燃費は悪いしハンドルも重いであろう。ただ、そういう事ではなく、それを素直に受け入れた上でコスモスポーツの素晴らしさが伝われば最高であろう。

そしてこちらがウィキペディアより拝借した「マツダ・コスモスポーツ」である。「帰ってきたウルトラマン」にも登場するが、当時は超高嶺の花的価格で、とても我が家では購入不可能なお値段であった。ちなみに我が家は当時「ホンダN360」であった。
いろいろな事柄を並べてみたが、何となく私のいいたい事が伝わったであろうか。何も古い物がいいと言っているのではない。新しい物の中に混ざっても古い物が輝く姿が美しいと言っているのだ。新しい物の中だからこそ輝ける古い物。これは素晴らしい事だ。
私の鉄道感は古い物が多いであろう。私のブログ記事は昭和の、国鉄の物が多い。
今だからカズがかっこいい。今姫路麗が優勝するから意味がある。矢沢が今ドームを満タンにするから凄いのだ。
私はその意味が分かる人間でありたい。そしてそれを鉄道を通してこのブログで表現していければいいと思う。そしてそれに共感していただける方がひとりでもいれば私はラッキーであると思う。

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