1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅②
2019-02-25
さて、我々御一行は「大垣夜行」にて一路名古屋を目指す。もちろん「初」の為、皆の衆は興奮の雨・霰で一睡もできない・・・わけでもない。一体何をしていたのかはハッキリ覚えていないが、私はとにかく起きていたのはハッキリ覚えている、いや、寝られなかった。そんな状態がのらりくらりと続き、東京を出てから約6時間半オーバーで名古屋着した。ここで関西本線に乗り換え亀山に向かうのだが、我々が座席を離れた瞬間、座席に座れず東京から乗車していた「同業者」たちが我々の占領していた座席を目指し一目散に向かってきた。そうだろう。例えこの先岐阜や大垣までであっても座って仮眠したいのは誰でも同じだ。大垣までならばその先「大垣ダッシュ」が待っている。少しでもエネルギーを蓄えなければ・・・

電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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電化直前の富田浜で列車交換の合間の停車時間に撮影した。ご覧の通り上部には真新しい架線が見え、そして隣のホームはかさ上げされている。大垣夜行からこの列車に乗り換えたが、思ったほど乗客はいなかった。通勤時間の下り列車という事もあろうが、やはり並走する近鉄との競合関係が一番大きいのではなかろうか。
さて、私達御一行は名古屋で関西本線の列車に乗り換えるのだが、我々が乗ったのはDLが牽引する旧型客車だ!現在では考えられないが、関西本線の名古屋~亀山はこのころ電化直前で、もうすぐこういう光景が無くなる事も重々承知の上、と顧問の教諭が言っていた。だが、私達中学生の少年にとってはあまりその言葉の中身や重さもあまり感じられずにいたが、とりあえずわからないままじっくりと堪能させていただいた。
途中、富田浜で列車交換があり3~4分位停車時間があったため最後尾を一枚。その最後尾から蒸気が噴き出しているのが若干気になったが、それよりも、よく考えたら「初」の旧型客車であった。顧問の教諭が「こういうのはいずれ乗れなくなるぞ~」と、今しかできない貴重な体験を我々に仕切りにアピールしていた。
旧型客車を捨て亀山で関西本線DCに乗り換え、柘植に向かう。柘植といえば大きくカーブしたホームが印象的であるが、ここで乗り換える草津線は電化されたばかりで初々しさが抜けない印象であった。Wikipediaで確認してみたら1980年に全線電化と記されていた。つまりその2年後に我々が訪問したので新しくなった草津線をそう感じてしまうのは当然であろう。何せ、柘植のホームに東海道線(湘南色の113系車両を私達はこう表現していた)が停車していたのだから、それはそれは斬新であった。真新しい・・・
そんな画期的な草津線に乗り貴生川に向かい信楽線に乗りかえる。現在は「信楽高原鉄道」となり活躍している鉄道路線だ。せっかく画期的な草津線に乗ったのに乗り換えに慌ただしい。

関西本線にある中在家信号場は通過式のスイッチバック信号場で列車交換ができた。確かコロタン文庫の書籍でこの駅を見て以来いつか訪問してみたいと思っていたが、ウィキによると現在はほぼ機能していないらしい。かつては加太越の要衝としてレールファンにとっては地味に有名であった。現在はかなりシンプルな配線に改められたらしい。
さて、信楽と言えば「焼き物」で有名であると思われるが「鉄道少年」にはそのようなものに全く興味を示さず、いい旅チャレンジ20000kmの証明写真撮影に夢中になる。
写真撮影を即座に済まし即行貴生川に戻り再び草津線で京都へ向かい、奈良線に乗り換え奈良へ向かう。奈良といえば日本を代表する観光地。現在の奈良駅は高架化されスッキリしているが、当時の地上時代は側線が多数あり賑わっていた。しかしここでの乗り換え時間は6分。観光もなにも無いまま桜井線で高田に向かうのであった。またまた慌ただしい・・・
さて、高田に向かう最中、先ほどよりメンバーのひとりが何やら騒がしい。その犯人は我ら鉄道研究クラブの「部長」であった。部長所有のカメラがどうやら故障してしまったらしいのだ。どうやっても我々素人の技術では修正できない。そうなると「いい旅チャレンジ20000km」のせっかくの旅に支障を来す。落ち込む部長を励ますだけでは何もならない。仕方なく高田で下車し駅前のカメラ店(よくあったと思う)でカメラを購入。もちろん現在のようなデジタルカメラではなく、アナログ式のカラーフィルムを使い撮影するもので、フィルムを絞るようにクルクルと下部を回して巻くという、なかなか渋いカメラだ。当時の中学生が8000円の出費はいたいと思うが「証明写真」の為に仕方ないであろう。もちろん「証明写真」の為だけではないが・・・

「ハットリくん」が伊賀ならこちらは甲賀。こう「が」では無くこう「か」と濁らないのは、市名決定の際の市民による投票らしいが、甲賀と言えば「ケムマキ」はいるのか・・・
そのカメラを買った高田では1時間半くらいの待ち時間があるため「駅前食堂」で腹ごしらえする。これは顧問である教諭の提案だ。もちろんファミレスではない。いや、当時は現在ほどファミレスが浸透していなかったと思う。デニーズはおろか、すかいらーくもまだ珍しかった記憶である。もちろん、セブンイレブンなどのコンビニもようやく台頭してきたイメージだったと思う。
久々に食べ物らしい食べ物頬張りエネルギーを蓄えた我々は再び高田に今度は戻り桜井線~和歌山線直通列車で和歌山に向かう。
だが、当時和歌山線の五条~和歌山は当時非電化であったため、必ず五条で乗り換えが発生する。乗り換えが発生しない列車はDC急行の「紀の川」に乗るしかないが、残念ながら我々は「18」のため急行料金はおろか、運賃まで発生してしまう。中学生の私にとってこの事実は大きな出費につながってしまう!というわけで、五条への乗り換え条件を快く引き受けた。
和歌山より阪和線と大阪環状線で大阪へ出た。さすが大都会!列車本数が多い。大阪環状線は、東京で言えば山手線であるが、当時乗車したのは内回りか外回りか忘れてしまった。だが、この乗車で大阪環状線の「半周」を踏破。いずれあと半分はは後日に必ず来るだろう。そう決意して京都へ向かい、山陰本線の夜行普通列車「山陰」で宍道に向かう行程だ。もちろん大阪環状線の残り半分は後日に決着をつけてある。
さて、京都着は20時34分。乗り換える山陰本線の夜行列車「山陰」はDLが牽引する旧型客車であるが、寝台車も連結されているため愛称が付いている。もちろん「18」では別料金が発生するため座席での出向となるが、22時04分発のため座席確保の縦としてはある意味待ち時間が少ない方であろうか。
「山陰」に乗り込むと、さすがの私も熟睡体制に入った。前日の疲れと夜行列車に慣れたので安心したのであろう。列車は深夜の丹波路をすり抜けながら、安栖里と立木の間で日付が変わった。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅①
2019-02-20
節分も過ぎ、寒さもいささかやわらいできた今日この頃、そろそろ「青春」のシーズンになってきた。
私が青春18きっぷを使い旅に出たのは1982年の春である。そう、それこそ青春18きっぷがこの世に登場した時であった。
既に以前紹介した今回の旅であるが、改めてバックナンバーを引っ張り出してみて紹介してみようと思う。と言っても当時はまだ国鉄時代。民営化がささやかれ赤字ローカル線廃止の話題に盛り上がる中「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーンも重なり「18」を握りしめたレールファンが全国に犇めいていた。もう35年以上前になるが、当時の模様を再現しながら紹介してみよう。もちろん、当時はまだ産まれていない方もおられる事であろうし知らない駅名や列車名が出てくるかも知れない。そんな方も「こんな旅があったんだ」みたいな発見を少しでもしてもらえたら本望である。

旅の始まりはいつも西寒川から。もちろん、新しいレールファンにとってこの駅は伝説的な存在であろう。だが、こうした伝説を少しでも共感していただけたら幸いである。
1982年の春、新しいフリー切符が発売された。その名も「青春18のびのびきっぷ」だ。現在は「のびのび」が無くなり「青春18きっぷ」としてお馴染みとなっている。普通・快速列車と一部区間は特急列車に乗車でき、JR線各社の路線で乗降り自由。登場初期は8000円で一日有効が3枚と二日間有効が1枚の計4枚で合計5日間有効であった。最後の二日間有効の一枚の意味は不明であるが、一日有効と同じ一枚2000円であるのが特徴である。その後いろいろ変更され、現在は5日間有効で11500円。学生の長期休暇に合わせて発売される。
私は登場したシーズンに初・18きっぷを使用して旅に出た。既に先述している「鉄道研究クラブ」という中学校のクラブ活動の一環として春休みを利用しての出陣だ。
「鉄道研究クラブ」と名乗っているが、別に朝練などは無く(朝から何を練習するのか?)、所属選手はそれなりにいたが、いつも決まったメンバーが出席している、いわゆる「帰宅部」と化していると言っても過言ではない。というより、授業が終わった放課後などに何を活動すれば?という、テーマもなく専用の部屋もない状態で果たして活動できるのか。だが、写真部と顧問が同じの為若干写真部とグルで活動していた時期も。時には理科室、時には放送室と「居場所」の固定が無いまま細々と活動していた。しかし休日になると東京方面などに繰り出し「撮り」に出向。その時は「お前、いたの?」という所属選手まで参戦してくるという、何とも特殊な部活であった。

1982年春に登場した18きっぷ。発売当初は「のびのび」であったが、しばらくして現在のネーミングになった。発売当初は2日間有効の切符が一枚あった。その真意は不明であるが、8000円で5日間有効であったのでお買い得であった。
さて、前置きが長くなってしまったが、鉄道研究クラブの「部活」として旅に出ることになったメンバーは私を含め5人である。プラス顧問の教諭を入れ合計6人での旅になった。だが実際は我々仲間内で旅に出る予定であったが「未成年者のみの行動は危ない!」との理由から教諭が参戦する事になったのだ。
というより、我々の計画が教諭の耳に入り見て見ぬ振りができなくなったのであろう。ある意味、学校の、教諭の面子を保つためかも知れないが、何れにせよ、この「大人の事情」が後に役立つ事になろうとは思いもしなかった。
ところで既に、行程は私が計画したのは「木次恋しぐれ」で先述したが、この時「いい旅チャレンジ20000km」の真っ最中であり、踏破こそ乗車の証でもあった。乗り潰しも含め計画していったが、今その行程を見てみると、なかなか無駄が多く🔰若葉マークが見え隠れしている。ここをこう乗れば制覇(当時のいい旅チャレンジ20000kmでは踏破と表現)できるのになぁ~みたいな部分が多々あるが、何しろ「初」の為、しかも全行程を普通列車に制限しなければならないため自身の全ての英知を出し切って時刻表を駆使しながらの計画立案であった。ようやく教諭からOKがでたのでいよいよ実行である。私の出発駅はもちろん「西寒川」だ!

西寒川の末期はキハ30であった。ロングシートで通勤用としては重宝したであろうが、キハ20に思い入れがあった私は、キハ20からキハ30に順次入れ替わっていく相模線のシーンにかなり辛い思いをした。
相模線・西寒川より19時15分発の最終列車に乗る。もちろん、西寒川から旅に出るメンバーは私一人の記憶。他のメンバーは「寒川」より乗車することになっている。教諭は確か茅ヶ崎からだったと思った。そして東海道線上りに乗り東京へ。東京で約3時間程待って「大垣行き」の夜行列車で西へ向かう行程だ。
さて、いよいよ出発の時が来た!東京発23時25分の大垣行き。3時間待たないと座れない・・・「ムーンライトながら」のように座席指定は無く、座席指定できるのはグリーン車のみである。もちろん全員のメンバーが3時間待ち普通座席に着席した。そしてタイフォンが鳴り響くと、我々を乗せた165系は大垣目指して西へ向かうのであった・・・

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私が青春18きっぷを使い旅に出たのは1982年の春である。そう、それこそ青春18きっぷがこの世に登場した時であった。
既に以前紹介した今回の旅であるが、改めてバックナンバーを引っ張り出してみて紹介してみようと思う。と言っても当時はまだ国鉄時代。民営化がささやかれ赤字ローカル線廃止の話題に盛り上がる中「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーンも重なり「18」を握りしめたレールファンが全国に犇めいていた。もう35年以上前になるが、当時の模様を再現しながら紹介してみよう。もちろん、当時はまだ産まれていない方もおられる事であろうし知らない駅名や列車名が出てくるかも知れない。そんな方も「こんな旅があったんだ」みたいな発見を少しでもしてもらえたら本望である。

旅の始まりはいつも西寒川から。もちろん、新しいレールファンにとってこの駅は伝説的な存在であろう。だが、こうした伝説を少しでも共感していただけたら幸いである。
1982年の春、新しいフリー切符が発売された。その名も「青春18のびのびきっぷ」だ。現在は「のびのび」が無くなり「青春18きっぷ」としてお馴染みとなっている。普通・快速列車と一部区間は特急列車に乗車でき、JR線各社の路線で乗降り自由。登場初期は8000円で一日有効が3枚と二日間有効が1枚の計4枚で合計5日間有効であった。最後の二日間有効の一枚の意味は不明であるが、一日有効と同じ一枚2000円であるのが特徴である。その後いろいろ変更され、現在は5日間有効で11500円。学生の長期休暇に合わせて発売される。
私は登場したシーズンに初・18きっぷを使用して旅に出た。既に先述している「鉄道研究クラブ」という中学校のクラブ活動の一環として春休みを利用しての出陣だ。
「鉄道研究クラブ」と名乗っているが、別に朝練などは無く(朝から何を練習するのか?)、所属選手はそれなりにいたが、いつも決まったメンバーが出席している、いわゆる「帰宅部」と化していると言っても過言ではない。というより、授業が終わった放課後などに何を活動すれば?という、テーマもなく専用の部屋もない状態で果たして活動できるのか。だが、写真部と顧問が同じの為若干写真部とグルで活動していた時期も。時には理科室、時には放送室と「居場所」の固定が無いまま細々と活動していた。しかし休日になると東京方面などに繰り出し「撮り」に出向。その時は「お前、いたの?」という所属選手まで参戦してくるという、何とも特殊な部活であった。

1982年春に登場した18きっぷ。発売当初は「のびのび」であったが、しばらくして現在のネーミングになった。発売当初は2日間有効の切符が一枚あった。その真意は不明であるが、8000円で5日間有効であったのでお買い得であった。
さて、前置きが長くなってしまったが、鉄道研究クラブの「部活」として旅に出ることになったメンバーは私を含め5人である。プラス顧問の教諭を入れ合計6人での旅になった。だが実際は我々仲間内で旅に出る予定であったが「未成年者のみの行動は危ない!」との理由から教諭が参戦する事になったのだ。
というより、我々の計画が教諭の耳に入り見て見ぬ振りができなくなったのであろう。ある意味、学校の、教諭の面子を保つためかも知れないが、何れにせよ、この「大人の事情」が後に役立つ事になろうとは思いもしなかった。
ところで既に、行程は私が計画したのは「木次恋しぐれ」で先述したが、この時「いい旅チャレンジ20000km」の真っ最中であり、踏破こそ乗車の証でもあった。乗り潰しも含め計画していったが、今その行程を見てみると、なかなか無駄が多く🔰若葉マークが見え隠れしている。ここをこう乗れば制覇(当時のいい旅チャレンジ20000kmでは踏破と表現)できるのになぁ~みたいな部分が多々あるが、何しろ「初」の為、しかも全行程を普通列車に制限しなければならないため自身の全ての英知を出し切って時刻表を駆使しながらの計画立案であった。ようやく教諭からOKがでたのでいよいよ実行である。私の出発駅はもちろん「西寒川」だ!

西寒川の末期はキハ30であった。ロングシートで通勤用としては重宝したであろうが、キハ20に思い入れがあった私は、キハ20からキハ30に順次入れ替わっていく相模線のシーンにかなり辛い思いをした。
相模線・西寒川より19時15分発の最終列車に乗る。もちろん、西寒川から旅に出るメンバーは私一人の記憶。他のメンバーは「寒川」より乗車することになっている。教諭は確か茅ヶ崎からだったと思った。そして東海道線上りに乗り東京へ。東京で約3時間程待って「大垣行き」の夜行列車で西へ向かう行程だ。
さて、いよいよ出発の時が来た!東京発23時25分の大垣行き。3時間待たないと座れない・・・「ムーンライトながら」のように座席指定は無く、座席指定できるのはグリーン車のみである。もちろん全員のメンバーが3時間待ち普通座席に着席した。そしてタイフォンが鳴り響くと、我々を乗せた165系は大垣目指して西へ向かうのであった・・・

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ⑧ 志文
2019-02-15

私がいうまでもなく、かつては万字線の分岐駅で石炭輸送が盛んであった。当然ながら岩見沢で各方面に振り分け作業がされた事であろうが、追分同様に当時は重要な役割を担っていた事であろう。
現在はご覧の通り既に役割を終え、万字線も廃止されてしまった。以前にこのブログでも現在の万字線を紹介したが、特に万字炭山駅は完全に跡形も無く、駅前もゴーストタウンと化してしまった。逆に、かつての資料を見る限り当時の盛栄が信じられない風景に驚愕してしまう。正直言って現在の万字炭山駅前は、下手な心霊スポットに肝試しに行くよりもスリルがある事であろう。お化けに限らず何が飛び出すかわからない風景に、例え昼間でも足元が震える気持ちになる。
そんな路線を分岐していた志文は、当然ながら現在は無人駅で万字線の面影が少ない。「少ない」と表現したのはそれなりにまだまだ万字線を感じる風景が少なからず残っているからで、国鉄時代には一度下車してみたいと思っていたものがこんな形で実現するとは思わなかった。だが、考えてみたら、今の時代にもこうして志文が残っているのが逆に嬉しい。だが、あと20年もしたらこの駅はどうなっているのであろうか・・・




大きく様変わりした志文。国鉄時代は万字線が分岐していたのは周知の通りであるが、若い世代のレールファンの間では既に伝説の部類であろう。私でさえ万字線の終点・万字炭山は役目を終え棒線化された駅がレール誌に掲載されていたのが印象的であった時代であった。





構内の広い空間だけがかつての盛栄を無言で語りかけてくる。不自然なレールの湾曲はかつての配線の名残からであろうが、現在は交換設備を備えた中間駅に過ぎなくなってしまった。



立派な跨線橋はSL時代からのものであろう。志文の風景にアクセントをつけてくれている。私にしてみたら万字線を訪問できなかった悔しさが未だ残るのだが・・・

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ⑦ 栗丘
2019-02-10

意外に地味に有名な室蘭本線の「栗」シリーズ。栗山は超大都会的イメージであるが、裏腹にこちらは「通常」の室蘭本線的イメージだ。
隣の栗山との間はかつて複線であったが、JR化後の1990年に下り線のトンネルが崩壊した。そしてそのまま修繕されず上り線のみを使用し現在に至っている。と言うより複線化が完成された時期には既に時代が代わり石炭はフェードアウトしていき複線化した意味が無くなろうとしていたのが国鉄としても歯痒い思いであったろうが、こうした形で単線になってしまうとは予想だにしなかったろう。

隣の栗山は近代的な駅舎に生まれ変わった。一見大都会的雰囲気であるが・・・
わが地元の小田急電鉄では新宿寄りで複々線が近年にようやく完成し列車のバリエーションが増えた。だが、完成までには構想から20年以上経過していた事であろう。下手したら30年以上かも知れない。確かに私は小学生頃に小田急の車窓から「複々線用地」的な立看板を沿線各地で見掛けた記憶がある。鉄道は時代の変化に対応するにはタイムラグが課題になってしまう場面が少なくないであろう。
特に青函トンネルは代表的な例と言っても過言ではないが、速効性の対応が出来ればまた違った風景が見られたに違いない。もちろんそれはドラえもん以外に対応不可能であろうが・・・


同じ「栗」シリーズでもこちらはやや寂しいイメージ。絵的には2面2線の雰囲気を持つが、それはかつての記憶になってしまった。



現在は列車を待つだけの待合室となってしまった。職員がいなくなって何年経過したのだろう。




パッと見列車交換が出来そうな駅であるが、よく見ると向こう側のレールが錆び付いている。既に使用されなくなってしまって何年経過したことか。向こう側へのホームの入口は固く閉ざされている。



有効長のあるホームなのになぜか後年にホームが増設されている気配がする。その真意は・・・


私の地元にある小田急では、新宿寄りで近年ようやく複々線が完成し列車のバリエーションが増えたというのに、一方ではこうして複線が単線になってしまうという悔しさが・・・

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TRYIN’ TO FIND MY WAY HOME ⑥ 由仁
2019-02-05

とにかく「ナウい」駅舎になった印象の由仁であるが、ウィキを開いてみると、実は由仁町のコミュニケーションセンター的な施設である事に気付かされる。つまり国鉄時代からあった駅舎は取り壊されJR所有の駅舎は無くなったが、町が駅舎跡に建立したコミュニケーションセンター的施設を駅舎としても使えるよう配慮したイメージだ。確かに室蘭本線らしくないモダンな建物であるが、地元の施設として駅としても活躍してくれる事が何よりであろう。


由仁の新旧駅舎。旧駅舎の画像はウィキより拝借したが、特に旧駅舎は北海道独特の気候に対する設計になっている事がお分かり頂けると思う。牧場などでよく見かけるよねっ!的な趣きある建物だ。


駅らしくないエントランスを抜けると駅らしい駅前広場に出る。駅前は由仁町の中心部にあり、基本的に利用しやすい事であろうが、やはり交通の主役は・・・



跨線橋は若干改装されモダンになった印象であるが、現在の鉄道事情ではあまりに長い有効長のホームはやや持て余し気味か・・・

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