1982年・何も言えなくて・・・夏③
2019-03-30

(新幹線開業直前の新潟駅。と言っても駅名表の為非常に伝わりにくいのが残念であるが・・・ここから越後線で柏崎に抜ける。)
越後線で柏崎に着いたが約二時間半待ち・・・柏崎より来迎寺に抜けて魚沼線でも乗ればよかったのだが、乗り潰し初心者の私は全くのノーマークで直江津方面へ向かう。いや、この先で宿となる夜行列車の時間に合わせるには魚沼線などの寄り道はしていられない。そんな慌ただしく二時間半待後に乗った信越本線普通列車は途中、情緒ある「青海川」や「鯨波」を通る。通るというより下車してみたかったのは言うまでもないが、ちょうど夏休みで海水浴シーズン。鯨波では海水浴客と思われる面々が挙って下車した。中には既に列車の中で膨らませたであろう、浮き輪を片手にホームを歩く乗客もいる。

(レールファンには有名処である。海水浴場にも近く、私の訪問時も沢山の海水浴客が下車した。)
そんな信越本線の普通列車はのどかな時間が進行する。直江津に着いたら今度は更に信越本線で長野に向かうのだが、再びここで約二時間半待ちだ!なんというこの歩留り悪い計画であろうか・・・現在であれば「喫茶店」「居酒屋」等の選択肢があるであろうが、当時はまだ中学生。さすがに「居酒屋」という選択肢は脱落するが、現在の私でも「喫茶店」は、多分似合わないであろう。というより普通列車同士の接続が悪すぎる。いや、あえて待時間を多くとり特急に乗ってもらおうという得策か・・・もっと他に良い方法があっただろうが、いずれにしても「18」では不利なダイヤになっている。しかしながらご覧になってお分かりと思うが、当時の私は直球的なルート選択ばかりであった。接続悪いなら悪いなりにもっとシュートやカーブも覚えなければダメだった。もっともシンカーやパームボールはまだまだ早いであろうが・・・

(2013年に訪問した時の二本木駅。当時はまだJRであった。現在は長野~直江津間で唯一のスイッチバック駅となってしまった。)
そんな直江津でただただ「ウェイティングサークル」で出番を待つような感じである私であったが、ようやく信越本線の列車がやって来た。またまた「湘南電車」だ。そして高田経由で長野に向かい「中央夜行」を捕まえる行程である。途中「関山」「二本木」はスイッチバックであるが、現在もスイッチバックが残っているのは二本木だけである。つい最近も再訪しているが、昔と全く変わらない佇まいのまま健在。しかしスイッチバックする列車の方は既に電車となり昔の「勾配に弱い鉄道」に比べたら面倒臭い作業は無く、運転手もわざわざ先頭車両に向かう事も無いままスイッチバックしていく。レールファン的にも旅情的にも味気ないかもしれないが、経営する側からすれば実に効率の良い作業であろう。
それより、今の時代に二本木にスイッチバックを残すのは、近年まで貨物の取扱があったかららしい。貨物の取扱がなくなった現在、いつスイッチバックを解消してもおかしくないであろうが、第三セクターに経営母体がかわり経費の捻出が課題となろう。だが、我々レールファンにとってはやはりこのままスイッチバックを残してほしいと願うのは本音ではなかろうか。

(既に何度か紹介しているが、この旅の時に撮影したものである。80系は辰野駅であるが、隣のスカ色113系が私の乗った「中央夜行」である。)
そんな事を考える中学生を乗せた信越本線普通列車は長野に16時22分に到着した。長野からは18時30分発中央夜行で新宿に向かう。が、何と2時間以上も待ち時間がある。これは「並ばなければ席を確保できない」と言う教訓から事前に計画した事柄であった。2時間もあれば「善光寺」などの観光もできたであろうし「りんご」や「みそ」等の名物も堪能できたであろう。しかし中学生の私はそんな事に一切興味を示さず、というより何がなんでも座席を確保したいため「あみん」ではないが私は待つ。いつまでも待つ。そしてただ只管「いい旅」を「チャレンジ」する事のにみ従事していた。だが、列を作っているのは私たちのみ・・・列車入線時刻近くになっても全然「中央夜行」を待つ面々の姿すら見当たらない。列車が到着しても余裕で座席を確保。
「この2時間待ちはなんだったのか・・・」と思うほどあっけなく座席を確保できた。これは旅が終わってからわかった事であるが、基本的に普通夜行列車の上り列車は出発時間が非常に早い。先述した私の乗る長野発新宿行きの中央夜行は18時30分発、紀勢本線の夜行「はやたま」は亀山をなんと17時21分発である(はやたまは列車番号的には下りであるが)!と言う事を考えると、途中まではローカル列車の機能を果たすわけであるため、たとえ満席であっても必ず座席が空くであろうと推測できるのだ。そんな事、当時の中学生が分かるはずもなく、ただただ座席の確保のために貴重な時間を待ち時間に使ってしまったのだ。だが、こういう経験をしてこそ次に活かせる!と確信。と言う風に物事の考え方を切り替えなければ後悔ばかりが残る事になるではないか!
ひとり10ボックス位確保できそうな「混雑度」の列車に揺られながら新宿目指した。

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1982年・何も言えなくて・・・夏②
2019-03-25
上越(長岡)夜行で長岡に着いた私は早速新潟行きに乗り換える。同じく113系湘南色であるが乗客は僅少。もっと夜行列車から乗り換え客があると思っていたが、意外にも余裕で座席を確保できた。ひとりで4ボックス位占領できるくらいであった、とはオーバーかも知れないが、もしかしたら魚沼線方面へ抜ける乗客の割合が多かったのかもしれない。まぁ、今考えたらちょっともったいない事をしたかもしれないが・・・


(ストロボバージョンとストロボ無バージョンを収めてみた。と言っても別に新前橋に拘りあるわけでもなかったが・・・当時はこんなバカな事もしていた。)
既に日が昇り明るい「米どころ」であるが、途中の東三条では弥彦線と接続する。当時は越後長沢方面が既に廃止の情報があり私も制覇しておきたかったのだがどうしても当時は予定が組み込めずに断念した。もちろん、今考えたら余裕で、と言うよりちょっと頭を使えばはめ込む事が出来たのに・・・との思いもある。が、やはり当時の自分ではまだ経験が浅いので仕方がない。更に途中の加茂では蒲原鉄道が接続していたが、私鉄路線には興味があったものの「制覇対象」には入ってなかったためスライドしてしまった。もったいない事をしていたなと、誰もがそう思うであろう。

(かなり地味な駅にカテゴリーされるが、こういう派手ではない駅は私好みだ。)
そして新津を過ぎ、沼垂辺りで大きなヤードを掠めると新潟に着いた。私のこの訪問時は上越新幹線開業直前であった。が、在来線のホームは既に綺麗に整備されており、降りた瞬間「新しい!」と感じた。新幹線ホームの高架駅もほぼ完成しており、いつ列車がやってきてもいいくらいの雰囲気であった。
そしてなんといっても新潟の特徴は、東京方面からやって来る列車は在来線だと右側より、新幹線は左からといった具合に、何となくミスター・マリックに「ハンドパワー」で魔術にはめられた錯覚に陥る。ただ、新幹線に関しては、恐らく当初から白新線~羽越本線的なルートでフル規格の新幹線延伸計画があったのだろう。いや、その気になればミニ新幹線なら酒田くらいまで本気でやっても良いんじゃない?的な設計であろうと思う。
そんな新潟で越後線に乗り換えるが、こちらも新幹線開業と同時に電化される予定であった。既に架線は張られており、いつ電車が来てもおかしくない状況であったが、私の乗った列車の列車番号は「130D」。つまり気動車である。電化直前の越後線・・・「花は越後の~」などと言うと私は古い人間の部類に隔離されてしまいそうであるが、基本的に吉田~新潟間はそれなりに乗客が多い。しかし私の乗った列車は列車番号こそ「上り」であるが、実質「下り」の朝の時間帯。立席が出るほどではない。

(駅名表が私の「制覇の証」の為、この手の部類の写真ばかりで申し訳ないが、この旅での一枚でもあるため掲載させていただいた。が、意外と味がある駅名表だ。)
さて、越後線で楽しみにしていたのは「吉田」である。弥彦線と、地図上では十字にクロスする形をとるが、いったいどういう構造になっているのか前から気になっていた。まさか東海道線藤沢駅のように複線スイッチバックなどということは無かろうが、結果的に確認したアンサーは弥彦線と越後線は平面交差であったのだ。もっと立体交差が凄い事になっていると若干期待していたのだが・・・

(画像はウィキより、弥彦線電化開業時より運転されていた「弥彦色」。電化開業当時は確か湘南色で運転されていた記憶だが、今回紹介の旅での訪問時は電化開業前でありDCによる運転であった。新幹線開業に合わせ燕三条駅が誕生し、電化と併せて弥彦線が大きく飛躍した年でもあった。)
弥彦線も新幹線開通と同時に電化予定であった。特に弥彦線は「燕三条」なる新駅ができて新幹線との連絡機能を果たすため、輸送量も増加するであろう。そんな期待を込めての電化であった。だが、この時は弥彦線には乗れず、いや先述した通り、ちょっと頭をひねれば余裕で弥彦線と越後線を同時に制覇できたはずであったが、ここは中学生の英知を全て出しきった結果であるのでお許しいただきたい・・・

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(ストロボバージョンとストロボ無バージョンを収めてみた。と言っても別に新前橋に拘りあるわけでもなかったが・・・当時はこんなバカな事もしていた。)
既に日が昇り明るい「米どころ」であるが、途中の東三条では弥彦線と接続する。当時は越後長沢方面が既に廃止の情報があり私も制覇しておきたかったのだがどうしても当時は予定が組み込めずに断念した。もちろん、今考えたら余裕で、と言うよりちょっと頭を使えばはめ込む事が出来たのに・・・との思いもある。が、やはり当時の自分ではまだ経験が浅いので仕方がない。更に途中の加茂では蒲原鉄道が接続していたが、私鉄路線には興味があったものの「制覇対象」には入ってなかったためスライドしてしまった。もったいない事をしていたなと、誰もがそう思うであろう。

(かなり地味な駅にカテゴリーされるが、こういう派手ではない駅は私好みだ。)
そして新津を過ぎ、沼垂辺りで大きなヤードを掠めると新潟に着いた。私のこの訪問時は上越新幹線開業直前であった。が、在来線のホームは既に綺麗に整備されており、降りた瞬間「新しい!」と感じた。新幹線ホームの高架駅もほぼ完成しており、いつ列車がやってきてもいいくらいの雰囲気であった。
そしてなんといっても新潟の特徴は、東京方面からやって来る列車は在来線だと右側より、新幹線は左からといった具合に、何となくミスター・マリックに「ハンドパワー」で魔術にはめられた錯覚に陥る。ただ、新幹線に関しては、恐らく当初から白新線~羽越本線的なルートでフル規格の新幹線延伸計画があったのだろう。いや、その気になればミニ新幹線なら酒田くらいまで本気でやっても良いんじゃない?的な設計であろうと思う。
そんな新潟で越後線に乗り換えるが、こちらも新幹線開業と同時に電化される予定であった。既に架線は張られており、いつ電車が来てもおかしくない状況であったが、私の乗った列車の列車番号は「130D」。つまり気動車である。電化直前の越後線・・・「花は越後の~」などと言うと私は古い人間の部類に隔離されてしまいそうであるが、基本的に吉田~新潟間はそれなりに乗客が多い。しかし私の乗った列車は列車番号こそ「上り」であるが、実質「下り」の朝の時間帯。立席が出るほどではない。

(駅名表が私の「制覇の証」の為、この手の部類の写真ばかりで申し訳ないが、この旅での一枚でもあるため掲載させていただいた。が、意外と味がある駅名表だ。)
さて、越後線で楽しみにしていたのは「吉田」である。弥彦線と、地図上では十字にクロスする形をとるが、いったいどういう構造になっているのか前から気になっていた。まさか東海道線藤沢駅のように複線スイッチバックなどということは無かろうが、結果的に確認したアンサーは弥彦線と越後線は平面交差であったのだ。もっと立体交差が凄い事になっていると若干期待していたのだが・・・

(画像はウィキより、弥彦線電化開業時より運転されていた「弥彦色」。電化開業当時は確か湘南色で運転されていた記憶だが、今回紹介の旅での訪問時は電化開業前でありDCによる運転であった。新幹線開業に合わせ燕三条駅が誕生し、電化と併せて弥彦線が大きく飛躍した年でもあった。)
弥彦線も新幹線開通と同時に電化予定であった。特に弥彦線は「燕三条」なる新駅ができて新幹線との連絡機能を果たすため、輸送量も増加するであろう。そんな期待を込めての電化であった。だが、この時は弥彦線には乗れず、いや先述した通り、ちょっと頭をひねれば余裕で弥彦線と越後線を同時に制覇できたはずであったが、ここは中学生の英知を全て出しきった結果であるのでお許しいただきたい・・・

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1982年・何も言えなくて・・・夏①
2019-03-20
1982年の春に登場した「青春18」が好評であったため、同じ年の夏に再び登場した。最初の登場時は1日有効の切符3枚と2日間有効の切符が1枚あり8000円であったが、この夏の登場よりすべて1日有効の切符に変更され1枚2000円計算の5日間分、計1万円での発売となった。当時私は中学生であることはもう既に1万回くらいこのブログで述べているが、この1万円が当時どれくらいの価値があったか。もちろん「1万円」は現在でも非常に価値があるが、例えば2013年のJパブ社出版の時刻表は1150円であるが、1982年当時はなんと650円!もちろんこれだけでは参考にはならないが、これを考えると「18」の1万円が高いか安いか・・・

(これは1982年に登場した当時の「18」である。好評につき同じ年の7月に再登場して完全に定着。現在に至る。)
とは言え、国鉄全線1日乗り放題の切符が5枚つづりであるとはお買い得であることには変わらない。当時の私にしてみたら「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーン中でもあり、物凄く夢が広がる切符でもあった。この年の3月に学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」での活動の一環として西日本めざし旅立ったのは既に紹介したか、旅行程は別として、内容的には大成功と言っても過言ではなかろう。そして今回は初めて単独による「18」の旅となった。時は1982年の8月。参加メンバーは同じクラブに所属するメンバー1人で、計2人での旅となったが、主導権は全て私に託され計画を立てた。とにかくまだ経験は浅いためなかなか予定がうまく組めなかったが、前回の旅より僅かながら進歩したように思う。今考えれば貴重な体験の数々があり、今後の旅のスタイルを決定付ける内容となった。


(1982年と言えば東北・上越新幹線の開業であろう。今回の旅は上越新幹線開業直前であったが、新潟駅などは既にいつでも新幹線開業を迎える事ができる形になっていた。更に近年、高架化が完成しますます飛躍する事であろう。)
当時私は中学生。もちろん何度も先述しているが、当然「宿」などもっての他。宿はもちろん「夜行列車」だ。そのため訪問先は限られてしまうが、まだ「チャレンジ」を始めたばかりで数多くの路線を消化しなければならない。全国的に訪問先が「初」となる場合が多い。とりあえず「18」で乗車できる夜行列車は本州には「上越夜行(現・ムーンライトえちご)」「大垣夜行(現・ムーンライトながら)」「はやたま」「山陰」くらいか。四国に渡れば先述の「731D」もいる。九州はちょっと遠いが「ながさき」もいるし北海道にも函館本線に夜行はいた。そこでとりあえず「上越夜行(いわゆる長岡夜行)」で新潟めざし、一旦帰郷し西日本を目指すという、若干変則的な旅を考案した。アッ、もうひとつ「中央夜行」もいました。今回はこちらもお世話になり一風変わった「18」をしてみた。
![DSCF3226[1]_convert_20130219201809](http://blog-imgs-54.fc2.com/4/1/9/4190koawazay/20130219201949b74.jpg)
(こちらも当時私が愛読していた雑誌であるが、とても中学生が読むものではなかった。写真を見る程度で満足していたが、現在読んでみると非常に楽しい。画像はご覧の通り1982年東北新幹線開業時のものである。)
早速いつものように「西寒川」より出発する。が、今回は東京ではなく「上野」で列車を待つ。いろいろな寝台特急や夜行急行列車が頻繁に出入りする。東京駅より「実が生い茂る」ではないが、待ち時間が足りないくらい待ち時間がすぐに過ぎた。上野駅からの夜行列車と言えば「13番線」が定番であるが、この上越は「姿なき挑戦者⑦」でも紹介しているが、9番線からの出発だ。つまり普通に通勤電車である。車両も115(113)系湘南色で、熊谷付近までは完全に通勤列車として機能している。と言っても高崎に着くころには完全に夜行列車の姿で、車内も大垣夜行とは違い実に和やかなムードになる。とは言え、天下の「115(113)系」である。今でこそ「ムーンライト」などでは国鉄時代の特急車両などを使用していて「リクライニング」が実に効果的であるが、113系での夜行列車を「あなた、経験してごらんなさい」とでも言いたくなるような「上野から通勤列車で長岡まで行く」行為は、逆に川口浩的な「冒険」かも知れない。事実、この列車に乗っていたら深夜の「土合」にも停車するのであるから・・・

(2008年訪問の土合。上下線でホームが分かれているが、下り線は清水トンネル内にあるので「モグラ駅」と呼ばれているのは有名だ。上り線は旧線を利用した地上に有るため、上りホームと下りホームを行来する場合は400段以上の階段を使わなければならない。)

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(これは1982年に登場した当時の「18」である。好評につき同じ年の7月に再登場して完全に定着。現在に至る。)
とは言え、国鉄全線1日乗り放題の切符が5枚つづりであるとはお買い得であることには変わらない。当時の私にしてみたら「いい旅チャレンジ20000km」のキャンペーン中でもあり、物凄く夢が広がる切符でもあった。この年の3月に学校のクラブ活動「鉄道研究クラブ」での活動の一環として西日本めざし旅立ったのは既に紹介したか、旅行程は別として、内容的には大成功と言っても過言ではなかろう。そして今回は初めて単独による「18」の旅となった。時は1982年の8月。参加メンバーは同じクラブに所属するメンバー1人で、計2人での旅となったが、主導権は全て私に託され計画を立てた。とにかくまだ経験は浅いためなかなか予定がうまく組めなかったが、前回の旅より僅かながら進歩したように思う。今考えれば貴重な体験の数々があり、今後の旅のスタイルを決定付ける内容となった。


(1982年と言えば東北・上越新幹線の開業であろう。今回の旅は上越新幹線開業直前であったが、新潟駅などは既にいつでも新幹線開業を迎える事ができる形になっていた。更に近年、高架化が完成しますます飛躍する事であろう。)
当時私は中学生。もちろん何度も先述しているが、当然「宿」などもっての他。宿はもちろん「夜行列車」だ。そのため訪問先は限られてしまうが、まだ「チャレンジ」を始めたばかりで数多くの路線を消化しなければならない。全国的に訪問先が「初」となる場合が多い。とりあえず「18」で乗車できる夜行列車は本州には「上越夜行(現・ムーンライトえちご)」「大垣夜行(現・ムーンライトながら)」「はやたま」「山陰」くらいか。四国に渡れば先述の「731D」もいる。九州はちょっと遠いが「ながさき」もいるし北海道にも函館本線に夜行はいた。そこでとりあえず「上越夜行(いわゆる長岡夜行)」で新潟めざし、一旦帰郷し西日本を目指すという、若干変則的な旅を考案した。アッ、もうひとつ「中央夜行」もいました。今回はこちらもお世話になり一風変わった「18」をしてみた。
![DSCF3226[1]_convert_20130219201809](http://blog-imgs-54.fc2.com/4/1/9/4190koawazay/20130219201949b74.jpg)
(こちらも当時私が愛読していた雑誌であるが、とても中学生が読むものではなかった。写真を見る程度で満足していたが、現在読んでみると非常に楽しい。画像はご覧の通り1982年東北新幹線開業時のものである。)
早速いつものように「西寒川」より出発する。が、今回は東京ではなく「上野」で列車を待つ。いろいろな寝台特急や夜行急行列車が頻繁に出入りする。東京駅より「実が生い茂る」ではないが、待ち時間が足りないくらい待ち時間がすぐに過ぎた。上野駅からの夜行列車と言えば「13番線」が定番であるが、この上越は「姿なき挑戦者⑦」でも紹介しているが、9番線からの出発だ。つまり普通に通勤電車である。車両も115(113)系湘南色で、熊谷付近までは完全に通勤列車として機能している。と言っても高崎に着くころには完全に夜行列車の姿で、車内も大垣夜行とは違い実に和やかなムードになる。とは言え、天下の「115(113)系」である。今でこそ「ムーンライト」などでは国鉄時代の特急車両などを使用していて「リクライニング」が実に効果的であるが、113系での夜行列車を「あなた、経験してごらんなさい」とでも言いたくなるような「上野から通勤列車で長岡まで行く」行為は、逆に川口浩的な「冒険」かも知れない。事実、この列車に乗っていたら深夜の「土合」にも停車するのであるから・・・

(2008年訪問の土合。上下線でホームが分かれているが、下り線は清水トンネル内にあるので「モグラ駅」と呼ばれているのは有名だ。上り線は旧線を利用した地上に有るため、上りホームと下りホームを行来する場合は400段以上の階段を使わなければならない。)

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅⑤
2019-03-15
さて、いよいよ最終日となった。途中、豊橋辺りから快速運転となり終点の東京まで主要駅しか停車しない大垣夜行。一応横浜などにも停まるが、未明のため茅ヶ崎方面に折り返す列車が無い。いや、厳密にいえばあるのだが、やはり終点までゆっくり寝ていたい。そして計画では、この後東京近郊路線を「踏破」するため、普段行かれないような所をピックアップしてある。しかしながら見慣れた風景に安心したのか、既にメンバーは皆「帰るモード」になっていた。若干18きっぷがもったいないが、仕方なく東海道線で折り返し茅ヶ崎方面へ向かった。

今回の旅はある意味私に新しい旅のスタイルを教えてくれた。後に私の旅はこのスタイルが進化し深化していった。だが、こうした風景はやはりその訪問当時にしか見られない貴重なものだ。
計5日間の「部活」であったが、帰宅するとまた旅に出たくなった。この年の夏休みには青春18がまた発売され、今度は部活でなく自主行動での旅に出る事になる。そして青春18が定着して恒例化していき、私の旅も恒例化していく。そして学校の長期休暇の度に「18の旅」は進化していった。次第に行程の方もロスなく無駄なく組めるようになってきた。人間とは知らぬ間に成長していくものだ。そしてそのような旅を続けていくうちに、やがてそれは「財産」となっていった。

国鉄時代の素敵な風景は今も私の胸に深く刻み込まれている。風景とは裏腹に経営状態や企業の姿勢を世間に問われ続け、現在は民営化され新しいスタイルになりもう30年以上が経過した。民営化された答えは果たして・・・
ある人は「人生の折り返し地点を迎えた」等と言う。「折り返し地点」とは何であろうか?もし人生に「折り返し」があるとすれば、それはやがて「幼少時代」に戻っていくという事なのであろうか?私は「折り返し地点」など無いと思う。「振り返り」はするが折り返さない。私の旅は乗り潰しの都合上「折り返し」があるが、それは乗車駅に戻ってくる事を指す。つまりそれは人生には当てはまらないと思う。
これからも私はおそらく鉄道にふれあい、そして電車、気動車に揺られ続けていくであろう。そしていつしか自身を再び振り返った時、今よりも多くの「財産」を抱えているに違いない。

電化前から非常に気になっていた備中神代。電化直前、電化直後、そして2017年にはレンタカーで訪問。2017年には既にかつての駅舎はなかったのはさみしい限りであった。そしてこの後布原へ向かったが、あまりの幅員狭に断念せざるを得なかったのは今でも心残りである。

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今回の旅はある意味私に新しい旅のスタイルを教えてくれた。後に私の旅はこのスタイルが進化し深化していった。だが、こうした風景はやはりその訪問当時にしか見られない貴重なものだ。
計5日間の「部活」であったが、帰宅するとまた旅に出たくなった。この年の夏休みには青春18がまた発売され、今度は部活でなく自主行動での旅に出る事になる。そして青春18が定着して恒例化していき、私の旅も恒例化していく。そして学校の長期休暇の度に「18の旅」は進化していった。次第に行程の方もロスなく無駄なく組めるようになってきた。人間とは知らぬ間に成長していくものだ。そしてそのような旅を続けていくうちに、やがてそれは「財産」となっていった。

国鉄時代の素敵な風景は今も私の胸に深く刻み込まれている。風景とは裏腹に経営状態や企業の姿勢を世間に問われ続け、現在は民営化され新しいスタイルになりもう30年以上が経過した。民営化された答えは果たして・・・
ある人は「人生の折り返し地点を迎えた」等と言う。「折り返し地点」とは何であろうか?もし人生に「折り返し」があるとすれば、それはやがて「幼少時代」に戻っていくという事なのであろうか?私は「折り返し地点」など無いと思う。「振り返り」はするが折り返さない。私の旅は乗り潰しの都合上「折り返し」があるが、それは乗車駅に戻ってくる事を指す。つまりそれは人生には当てはまらないと思う。
これからも私はおそらく鉄道にふれあい、そして電車、気動車に揺られ続けていくであろう。そしていつしか自身を再び振り返った時、今よりも多くの「財産」を抱えているに違いない。

電化前から非常に気になっていた備中神代。電化直前、電化直後、そして2017年にはレンタカーで訪問。2017年には既にかつての駅舎はなかったのはさみしい限りであった。そしてこの後布原へ向かったが、あまりの幅員狭に断念せざるを得なかったのは今でも心残りである。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅④
2019-03-10
私たち御一行は、高松より「中村夜行」こと731Dに乗り高知を目指す。先程も触れたが、この列車にはリクライニングシート車両が連結されている。中村で折り返し急行「あしずり」に変身するため車両自体はグリーン車マークが入っているが、実際には急行に変身してもグリーン車としては運用されておらず、指定席としての運用だ。やるなっ、国鉄四国支部!かなりの太っ腹でないか。さらに中村夜行こと731Dもこの「指定席」の車両にも特別な料金設定をしておらず、普通に解放!トーカ堂の北さんではないが、これはかなりお買い得である。しかしながら皆考えることは同じ。この車両ばかり「満員御礼」であるのはある意味常識か。

近年に高架化された高知。こちらは当然高架化前の撮影になるが、隣の駅が小さく表記されているのは実際に隣にある駅で、大きく表記されているのは利用者が多い隣の駅である。
さて、我々は未明の高知で731Dを乗り捨てる。もちろん我々が去った席は即座に埋まる事であろう。高知に着いたのは4時20分。ここで高松に折り返す列車は高知4時58分、始発のDLが牽引するPCだが、旧型客車ではなく、なんと新しく置き換わった50系であった。少々残念であったが、今考えたら50系の乗車はある意味貴重であったのではなかろうか。全国の旧型客車を置き換えるために造られたであろう50系であるが、国鉄がJRに移管されてからは急激に客車列車の運用が減ったと思う。そのため、せっかく製造された50系も活躍の場が減っていき、ある意味短命だった印象なのだが、皆様はどうお感じになられただろう。

列車交換のためのわずかな停車時間であったが、なかなか魅力のある駅を発見したものだ。こうした駅は私が最も好む部類であるが、近年ではこうした駅舎を持つ駅も少なくなってきた。
しかし、高知から乗り換えなしで高松に行けるのはとても楽ではあるが、高松着が10時34分の為、約5時間乗りっ放しである。逆に後半は修業的な精神的ダメージを受ける覚悟をしなければならないであろう。
とはいいながら途中の豊永など私か知らなかった駅なのに、列車交換のため少々停車していたらなぜか愛着が湧き出しそうな感情になってしまう。意外に四国はこうした駅の宝庫でなかろうか。
そんな発見に喜ぶ中学生を乗せた列車は、頭端式の櫛形ホームにDCが顔を連ねる高松に着くと、改札口横には「讃岐うどん」の文字。香川と言えばこれだろう!私達は一目散にその文字の見える「空間」へと向かった。この時が「初」讃岐うどんであるが、高松では連絡船に乗り換える事になっている。だが約一時間ほどの待ち合わせのため少々時間がある。うどんで体を温めてから本州に上陸しよう!そんな重大な決意を胸に箸を動かす。そういえば先述した通り瀬戸大橋はまだ無い。本州へ上陸するには「宇高」か「仁掘」の連絡船に乗らなければならない。連絡船というとどうしても「北へ帰る人の群れは誰も無口」で「凍えそうなカモメ」でも出てきそうな寒々しい風景をイメージしてしまうが全くそんな事はなく、むしろ甲板でかっぱえびせんを天高く翳せば元気なカモメが群れをなす。そんなアットホームな乗り物であるが、もちろん本州へは民間のフェリーでも上陸できる。しかし基本「船」しかない。
高松では連絡船乗り場に向かう通路がホームに対し斜めになっている。現在ではホームに対し約90度でうどん店があるのだが、当時は斜め45度くらいに連絡船への連絡通路があり、それにあわせてうどん店もホームから見ると斜め45度になっていた。
食事を終了し宇高航路に乗り換え。実は青春18で「連絡船」も乗船可能であるため、もちろん別料金なしで本州入りできる。切符の機能をフルに使っての行程だ。
宇野で船から列車にチェンジして岡山より山陽本線の「普通列車」に乗り換え、いよいよ最終の行程に近付く。
途中、神戸で東海道線に変わるが、今で言う上野・東京ラインが東京をスルーするように神戸も何気なく途中駅の様に過ぎ何のアクセントも無い。

実質的に徳島線との乗り換え駅である阿波池田。実際にはとなりの佃で分岐するが、土讃線の要衝駅である事は今も昔も変わらない。
そんな列車で姫路から大垣行きに乗り換えるのだが、途中岡山辺りでアクシデントがあった。それは岡山発姫路行き普通列車で姫路に向かうのだが、メンバーの若干名が乗っていなかった・・・顧問の教諭が慌てて折りかえし岡山に向かうが、私を含め乗車していたグループは予定通りそのまま姫路まで向かう事になった。
どこの駅だか忘れたが、新幹線停車駅で我々に追いついた顧問の教諭はしっかりとはぐれたメンバーを連れていた。どうやって見つけだしたかは忘れてしまったが、何れにせよ無事メンバー全員揃って大垣まで向かう事ににり教諭も面子が保てたろう。だが、ある意味予想外の出費にいささか怒りのやり場も無いまま大垣に向け列車に身を預けていた。しかしながら「携帯電話」等無い時代。どのようにして探し出したのだろう。

国鉄時代の高松の画像はウィキより。ご覧頂いてわかると思うが、手前のうどん店がホームに向かって斜めになっている。これは画像手前に連絡船乗り場に繋がる通路があるためで、現在この通路はない。そしてうどん店もホームに対し垂直になった。
既に疲労困憊の皆の衆であるが、こういう時こそやたら腹が減るものだ。列車に乗っていると、結局「食う」か「寝る」かの選択肢しかない。または車両や駅の風景を楽しむ・・・とはいえ、レールファンでない方にはこの「駅を見て楽しむ」という行為はなかなか理解してもらえないかも知れないのだが・・・
さて、旅も終焉に近づきもう帰るのみの行程であるが、それより何より「風呂」に入りたい。今回の旅行程は4泊5日なのだが、お風呂タイムなど無い!乗り換え優先、制覇優先であるため宿は夜行列車だ。もちろん寝台などではなく普通に座席だ。たまにはふとんの中で寛ぎたい。いや、こういうシーンだからこそ布団のありがたみがわかるものだ。

これが大垣駅の入場券であるが料金に注目していただきたい。ご覧の通り、他の駅に比べ破格の料金設定である!その理由は・・・
そんな普段の幸せやありがたみが身に染みてわかった中学生を乗せた「湘南色」はようやく大垣に着いた。とりあえず待ち時間がたっぷりあるので入場券を買いに行く。大垣の入場券はなんと80円!国鉄の入場券は120円なのだがこの「入場セール」に、惜しげもなく10枚以上購入。なぜこんなに破格なのかというと、大垣には近鉄(現・養老鉄道)が乗り入れており国鉄と改札が共同であったのでこんな破格な入場券が提供される仕組みだったのだ。
さて、一瞬であるが入場券のブームが到来したあと、いよいよ上り「大垣夜行」に乗り帰郷する。とはいえ、もちろん東京行きだ。座席確保はもう手慣れたものだ。東京寄りでは恐らく急行「東海」とペアで運用されているであろうお馴染みの165系であるので勝手はわかっている。
電留線から入線してきた「大垣夜行」は普通列車なのに妙に風格があった。車内に乗り込むと、早速リクライニングできない固定ボックスシートに男同士身を寄せながら出発の時間を待っていた。

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近年に高架化された高知。こちらは当然高架化前の撮影になるが、隣の駅が小さく表記されているのは実際に隣にある駅で、大きく表記されているのは利用者が多い隣の駅である。
さて、我々は未明の高知で731Dを乗り捨てる。もちろん我々が去った席は即座に埋まる事であろう。高知に着いたのは4時20分。ここで高松に折り返す列車は高知4時58分、始発のDLが牽引するPCだが、旧型客車ではなく、なんと新しく置き換わった50系であった。少々残念であったが、今考えたら50系の乗車はある意味貴重であったのではなかろうか。全国の旧型客車を置き換えるために造られたであろう50系であるが、国鉄がJRに移管されてからは急激に客車列車の運用が減ったと思う。そのため、せっかく製造された50系も活躍の場が減っていき、ある意味短命だった印象なのだが、皆様はどうお感じになられただろう。

列車交換のためのわずかな停車時間であったが、なかなか魅力のある駅を発見したものだ。こうした駅は私が最も好む部類であるが、近年ではこうした駅舎を持つ駅も少なくなってきた。
しかし、高知から乗り換えなしで高松に行けるのはとても楽ではあるが、高松着が10時34分の為、約5時間乗りっ放しである。逆に後半は修業的な精神的ダメージを受ける覚悟をしなければならないであろう。
とはいいながら途中の豊永など私か知らなかった駅なのに、列車交換のため少々停車していたらなぜか愛着が湧き出しそうな感情になってしまう。意外に四国はこうした駅の宝庫でなかろうか。
そんな発見に喜ぶ中学生を乗せた列車は、頭端式の櫛形ホームにDCが顔を連ねる高松に着くと、改札口横には「讃岐うどん」の文字。香川と言えばこれだろう!私達は一目散にその文字の見える「空間」へと向かった。この時が「初」讃岐うどんであるが、高松では連絡船に乗り換える事になっている。だが約一時間ほどの待ち合わせのため少々時間がある。うどんで体を温めてから本州に上陸しよう!そんな重大な決意を胸に箸を動かす。そういえば先述した通り瀬戸大橋はまだ無い。本州へ上陸するには「宇高」か「仁掘」の連絡船に乗らなければならない。連絡船というとどうしても「北へ帰る人の群れは誰も無口」で「凍えそうなカモメ」でも出てきそうな寒々しい風景をイメージしてしまうが全くそんな事はなく、むしろ甲板でかっぱえびせんを天高く翳せば元気なカモメが群れをなす。そんなアットホームな乗り物であるが、もちろん本州へは民間のフェリーでも上陸できる。しかし基本「船」しかない。
高松では連絡船乗り場に向かう通路がホームに対し斜めになっている。現在ではホームに対し約90度でうどん店があるのだが、当時は斜め45度くらいに連絡船への連絡通路があり、それにあわせてうどん店もホームから見ると斜め45度になっていた。
食事を終了し宇高航路に乗り換え。実は青春18で「連絡船」も乗船可能であるため、もちろん別料金なしで本州入りできる。切符の機能をフルに使っての行程だ。
宇野で船から列車にチェンジして岡山より山陽本線の「普通列車」に乗り換え、いよいよ最終の行程に近付く。
途中、神戸で東海道線に変わるが、今で言う上野・東京ラインが東京をスルーするように神戸も何気なく途中駅の様に過ぎ何のアクセントも無い。

実質的に徳島線との乗り換え駅である阿波池田。実際にはとなりの佃で分岐するが、土讃線の要衝駅である事は今も昔も変わらない。
そんな列車で姫路から大垣行きに乗り換えるのだが、途中岡山辺りでアクシデントがあった。それは岡山発姫路行き普通列車で姫路に向かうのだが、メンバーの若干名が乗っていなかった・・・顧問の教諭が慌てて折りかえし岡山に向かうが、私を含め乗車していたグループは予定通りそのまま姫路まで向かう事になった。
どこの駅だか忘れたが、新幹線停車駅で我々に追いついた顧問の教諭はしっかりとはぐれたメンバーを連れていた。どうやって見つけだしたかは忘れてしまったが、何れにせよ無事メンバー全員揃って大垣まで向かう事ににり教諭も面子が保てたろう。だが、ある意味予想外の出費にいささか怒りのやり場も無いまま大垣に向け列車に身を預けていた。しかしながら「携帯電話」等無い時代。どのようにして探し出したのだろう。

国鉄時代の高松の画像はウィキより。ご覧頂いてわかると思うが、手前のうどん店がホームに向かって斜めになっている。これは画像手前に連絡船乗り場に繋がる通路があるためで、現在この通路はない。そしてうどん店もホームに対し垂直になった。
既に疲労困憊の皆の衆であるが、こういう時こそやたら腹が減るものだ。列車に乗っていると、結局「食う」か「寝る」かの選択肢しかない。または車両や駅の風景を楽しむ・・・とはいえ、レールファンでない方にはこの「駅を見て楽しむ」という行為はなかなか理解してもらえないかも知れないのだが・・・
さて、旅も終焉に近づきもう帰るのみの行程であるが、それより何より「風呂」に入りたい。今回の旅行程は4泊5日なのだが、お風呂タイムなど無い!乗り換え優先、制覇優先であるため宿は夜行列車だ。もちろん寝台などではなく普通に座席だ。たまにはふとんの中で寛ぎたい。いや、こういうシーンだからこそ布団のありがたみがわかるものだ。

これが大垣駅の入場券であるが料金に注目していただきたい。ご覧の通り、他の駅に比べ破格の料金設定である!その理由は・・・
そんな普段の幸せやありがたみが身に染みてわかった中学生を乗せた「湘南色」はようやく大垣に着いた。とりあえず待ち時間がたっぷりあるので入場券を買いに行く。大垣の入場券はなんと80円!国鉄の入場券は120円なのだがこの「入場セール」に、惜しげもなく10枚以上購入。なぜこんなに破格なのかというと、大垣には近鉄(現・養老鉄道)が乗り入れており国鉄と改札が共同であったのでこんな破格な入場券が提供される仕組みだったのだ。
さて、一瞬であるが入場券のブームが到来したあと、いよいよ上り「大垣夜行」に乗り帰郷する。とはいえ、もちろん東京行きだ。座席確保はもう手慣れたものだ。東京寄りでは恐らく急行「東海」とペアで運用されているであろうお馴染みの165系であるので勝手はわかっている。
電留線から入線してきた「大垣夜行」は普通列車なのに妙に風格があった。車内に乗り込むと、早速リクライニングできない固定ボックスシートに男同士身を寄せながら出発の時間を待っていた。

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1982年「青春18のびのびきっぷ」の旅③
2019-03-05
本日で3日目を迎えた。皆もそろそろ列車に乗って過ごす事に慣れてきたようで、逆に乗り物に乗っていないと落ち着かない体質に変化していった。そして列車の中で仮眠する術も知らず知らずの内に身につけてきたようだ。とはいえ「18」による同業者が全国に多数犇めくため、下り夜行列車は軒並み満員御礼である。
そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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そんな我々を乗せた普通夜行列車「山陰」は、大山口付近で日の出を見た、というより我々が大山口付近で朝日を見た。大山口では列車交換の為少々停車時間がある。私にとってはかなりマイナーな駅であったが、こういう時こそ見逃さない鉄道少年は、わずかな停車時間でも欠かさず「入場券」を購入しに出向く。もちろん皆で行くのではなく、グループ行動の特権である「代表」が皆の分も合わせて買ってくる。米子での停車時間で朝食を購入。丁度通勤通学時間帯であるが、春休みのため学生はそれほど多くないであろう。

2013年訪問時の米子にて。山陰の夏は意外に暑い!いや、夏は基本暑いのだが訪問当時は想像以上の猛暑日であった。1982年の訪問時は4月に限りなく近い3月だったのでそろそろ桜の咲く季節。環境にはそれほど気にせず旅を楽しめた。
米子で大半の乗客が下車したが、もちろん乗車してくる乗客もいる。つまり入れ替わりが激しいのだが、車内の混雑度はさほど変化なく、松江を過るとやや車内が落ち着いてきた。
そして9時24分、宍道に到着した。ここで9時42分発の木次線に乗り換える。木次線の模様は「木次恋しぐれ」で詳細に紹介しているのでそちらを参考にしていただきたいが、なんといっても出雲坂根の雄大なスイッチバックが印象的で、当時中学生であった私でもその景色に圧倒された。そんな優雅な風景をを堪能しつつ、備後落合に到着。備後落合では5分後に芸備線に乗り換えるのだが、顧問の教諭が我々に秘境の地にある分岐駅の素晴らしさを伝授したかったのだろう、一時間後にくる芸備線列車に身を任せる事にして駅を散策しようというのだ。それでも途中で計画通りの行程に戻るので私はOKを出した。「出した」といってもそれほど偉い立場ではないのだが、元々私が立案した行程である。私もそれなりにプライドがあった・・・などとこんな場所で意地を張っても仕方がない。
備後落合では駅員に「あの丘に行けば駅の全景が撮影できるよっ❗」と親切に伝授してくれた。ひと目見てわかるであろう我々の身なりに、駅員さんは実に協力的。列車の待ち時間など忘れてしまいそうな時間が過ぎていった。
残念ながら「おでんそば」は、看板こそ出ていたが、暖簾は既になく、いつ頃から営業をしていないのであろう。

宍道は木次線の分岐駅である。かつては4・5番線より発着していたが、現在は4・5番線が使用されなくなり、3番線よりの発着となってしまった。木次線の存続問題は今のところ浮上していないのはラッキーであるが、将来的にも浮上しないとは限らない・・・
やがて芸備線のDCがやってきた。我々が訪問した1982年春はまだ芸備線にCTC(列車集中制御装置)が導入されておらず、列車交換駅では備後落合も含め駅員が必ずいた。翌年CTCが導入されて一気に無人駅が増え、そして現在ではその交換設備でさえ外された駅も少なくない。中国自動車道が開通し、陰陽連絡の役割を完全に奪われてしまった今、いつ廃止されてもおかしくない風景に寂しい限りであったが、現在ではそんな風景も当たり前になってしまった。そんな芸備線に揺られ新見に到着。そして伯備線で岡山に向かう。伯備線はこの時電化直前であり、ホームもリニューアルされていて、張り巡らされている架線も初々しい。この伯備線ではキハ181の「やくも」の通過シーンを、確か新見か備中高梁で拝んでいる。顧問の教諭が「写真撮っとけよ」と皆にアドバイス。「言われなくても撮るに決まってるじゃん!」。とはいうものの、その言葉の重さや意味にあまり実感がなかった。
しかし、伯備線が電化されるという事は陰陽連絡の役割を果たしているという証しであろう。ただ、山間部を貫くためどうしても線形的な制約を受けてしまうのでスピードアップに歯止めがかかってしまうのはJRにとっても悩みの種であろう。
そしていよいよ岡山に到着。そして四国に向け今夜の「宿」を拾う予定だ。若いレールファンには信じられないかも知れないが、今回の旅の訪問時に瀬戸大橋は無い❗という事は、つまり宇高航路、すなわち船での移動となるが既に宇野線の風景は真っ暗だ。今宵の宿は0時49分発中村行きの夜行列車で、通称「中村夜行」である。
20時57分到着のため約4時間もある!

芸備線の道後山であるが、今回の訪問時も確か交換設備は外されていたはずだ。今でもかつての旧ホームが残っているが、駅前にあるスキー場が閉鎖されてしまった現在、この駅を利用する人はほぼ皆無に近いと聞いているが・・・
ハッキリ言って高松での待ち時間は、何をしていたか覚えていないが、席を確保するため交代で代表が並んだ。実はこの中村夜行は終点中村で折りかえし急行「あしずり」になる。そしてグリーン車仕様の車両も連結されているわけであるが、実はこのグリーン車、「あしずり」になってもグリーン車としての運用ではなく「指定席」としての運用である。なんともグリーン料金は要らないよ、なんて太っ腹っはではないか!しかも中村夜行でもグリーン料金な無しで開放してくれるのだ!つまり「18」のみで乗車できる!しかもグリーン車仕様のためリクライニングができるので夜行列車的にはかなり重宝してくれよう。事実、事情を知っている者のみが出発前からホームで列を作っていた。この待ち時間も実はもちろん教諭の横槍案であるが、よくもまぁ、ここまで先を読んで私に計画を立案させたものだ。さすがは数学の教諭であるが、若干24歳で大学出の新米教諭がここまで「計算」するとは、今考えるとさすがであると感心する。
しかし3時間以上も待ち時間があると、何をしていいのかわからない。店も営業時間外となり、何もすることない。ここで少しでも時間潰しにと高松駅で得意の「入場券」を買いに行った時のエピソードを紹介しよう。入場券にハサミを入れるよう駅員に申し出ると、改札口の駅員は私にパンチ(切符にハサミを入れる道具)を渡し「好きな所に入れな」と笑顔で応対してくれた!なんて素晴らしい駅員さんなのか!さすが四国の玄関口。「18」で改札を出て入場券を片手にすぐさま改札に戻って来るのだから素人でも私達を「その道の人」と判断できるであろう。高松の職員は鉄道ファンの気持ちを十二分に理解していらっしゃる。というより自身も「ファン」なのではないか・・・国鉄職員の接客態度は当時全国各地で話題となり、RJ社の某書籍の某コーナーで「炎上」していたが、中にはこういう駅員さんもいるんです!と声を大にして言いたい気持ちであった。というより、むしろこうした駅員さんの方が当たり前のように多く、一部の怠慢な鉄道員の為に他の鉄道員まで嫌なイメージが植えつけられてしまうのは、全く持って心外であろうと思うのは私だけであろうか?

かつては東京から寝台特急が発着していた宇野。優等列車用の長いホームもあり、宇高航路との連絡客でかつては賑わった。あくまで役割的に「連絡」のため、特に上り列車では四国からの深夜・未明の乗り換えはかなりハードであった(経験者は語る)。
約4時間待ちは肉体的にも精神的にも参ってしまったが、とリあえずおかげで座席を確保できた中村夜行はキハ58の「731D」である。これで高知まで乗車予定だ。次の章で若干解説するが、快適な「リクライニングシート」に座り、高松で買った入場券をしばらく眺めていた。

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